映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ゴーン・ガール

2014年12月25日 | 洋画(14年)
 『ゴーン・ガール』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)昨年アカデミー賞作品賞を受賞した『アルゴ』に出演していたベン・アフレックが出演しているというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、「妻の頭を割って、何を考えているか、どう感じているか、その答えを知りたい」という夫ニックベン・アフレック)のナレーションが入った後、2012年7月5日のシーン(場所はミズーリ州の小さな町)から始まります。



 早朝(6時55分)にニックは家の前にいます。
 それから、車で「ザ・バー」に行き店の中に。
 カウンターの女(注2)が、「何を苛ついているの?」と言うと、ニックは「今日は最悪、結婚5周年記念日だ」と答えます。

 次いで、7年前に遡り2005年1月8日のシーン。
 ニューヨークのパーティーでニックとエイミーロザムンド・パイク)とは出会い、意気投合してベッドへ。

 映画はまた、2012年の「ザ・バー」のシーンとなって、カウンターの女が「彼女、また「宝探し」やるつもり?」と訊くと、ニックは「(宝探しで見つかる贈り物は)1年目は紙、4年目は枯れたバラ。5年目は何にするのか決めていない」と答えます。
 そこへ、近所の者からニックに「猫が外に出ている」との電話が入り、ニックは「スグ戻る」と答えます。

 ニックが急いで車で家に戻ると、ドアの鍵がかかっておらず、彼が「エイミー?」と叫んでも返事がなく、家の中には誰もいません。そればかりか、テーブルがひっくり返っており、ガラスがめちゃめちゃに砕かれています。
 ニックが警察に通報すると、刑事のボニーキム・ディケンズ)とギルピンパトリック・フジット)がやってきて家の中を調べます。
 すると、キッチンにあるオーブンの上部に血痕らしきものが。
 さあ、エイミーはどこへ行ってしまったのでしょうか、………?

 本作はサスペンス物ながら、犯人探しを狙いとしているわけではなく、夫婦関係をスリル溢れる映像で綴っている作品。基本的な点でよくわからないところがあるとはいえ、展開が二転三転して、長尺(149分)を感じさせない面白い仕上がりとなっています。

(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)

(2)本作においては、“遺体なき殺人事件”という点が大きな要素になっていると思われます。
 エイミーは、夫に殺人の容疑をかぶせて死刑にしようと企んだわけですし(注3)、ギルピン刑事はかなり早くからニックの逮捕をボニー刑事に進言しており、挙句に、ニックは逮捕されてしまいます。
 また、TVの女性キャスターも、ニックが妻殺しの犯人であるかのような言いっぷりです(注4)。

 ですが、友人の弁護士によれば、「日本では、死体の発見がなく具体的な物証が乏しい場合、殺人罪で起訴することはまずありえない。また、ひと一人殺しただけでの死刑判決もまずない」とのこと。
 別に具体的な根拠を持っているわけではありませんが、このことは大筋でこの映画にも当てはまるのではないのでしょうか?何しろ、エイミーが姿を隠した可能性も随分とあるのですから(注5)。

 確かに日本でも、「遺体なき殺人事件」でありながら立件された例は過去にあるようです(注6)。
 しかしながら、その場合は容疑者が殺人を自白していたりするようで、本作のように、キッチンの床板のルミノール反応などはあるにしても、エイミーの遺体がなく(注7)、さらにニックが妻殺しを強く否定しているケースでは立件が難しいのではと考えられるところです。
 何より、本作では、殺人容疑で逮捕されたにもかかわらず、随分簡単にニックは保釈されています。これは、ニックが雇ったボルト弁護士(タイラー・ペリー)の手腕の賜物と映画では言われていますが、どうなのでしょう(注8)。

 さらにまた、コリンズ(注9:ニール・パトリック・ハリス)を殺したエイミーが、血だらけの服装のまま家に戻ってきます。そして、警察での取調べはなされるものの、随分とお座なりで(注10)、結局は無罪放免となってしまいます。
 ですが、この点についても、友人の弁護士は、「日本の場合、監禁や強姦の罪に対しての防衛だとしても、人殺しが正当防衛で無罪とか不起訴になることもありえない」との意見。

 本作の場合、なるほどエイミーは、監視カメラを上手く利用して、まるで自分がコリンズに強姦されたかのように見せることはできたのでしょう(注11)。
 でも、コリンズは何も武器を持っていなかったはずであり(注12)、そんな丸腰の人間を殺したとしたら、少なくとも過剰防衛だとして逮捕されてしまうのではないでしょうか?
 とにかく人が一人殺されているのですから、いくらなんでもあんなに簡単に釈放されてしまうというのは、よく理解できないところです。

 これらの点は、映画を見ている最中は、モヤモヤした感じのままでしたが、後で友人の話を聞いて、果たしてアメリカでは実際のところどうなっているのだろうと疑問に思った次第です。

 とはいえ、エイミーの企みは随分と個人的な思い付きのようで、まともに受け止める必要はないのかもしれませんし(注13)、さらに、最近全米で問題となった警察による黒人青年射殺事件(注14)からすれば、アメリカの場合、正当防衛とされる範囲が日本よりもかなり広いのかもしれません。
 そうであれば、ここで問題にしたような点は言い募る必要性に乏しいとも思えてきますが、どうでしょう?

(3)それらの点がスルーできさえすれば、あとはなかなか興味深いストーリーが展開されているなと思いました。
 例えば、こうした殺人が絡む事件を取り上げるマスコミの姿勢が日本とかなり違うのではと思ったり(日本では、何よりもまず警察発表であり、警察を飛び越えてマスコミが犯人探しをすることは殆ど行われないのではないでしょうか)、そうしたマスコミを利用して一般の空気を味方に付けながら逆に捜査当局に圧力を掛けるなどということも(ニックが雇ったボルト弁護士の作戦)、日本では見かけないことではと思ったりしました。

 また、本作は、主役のニックよりも、むしろエイミーの方に興味が湧いてしまいます。



 よく言われているように(注15)、エイミーはまさにサイコパスの典型といえるでしょうが、面白いことに、映画の最初の方では、ニックの方がマスコミからサイコパスではないかと言われたり、また最後の方で登場するコリンズにもそうした雰囲気があったりします。
 ですから、本作は、サイコパスを巡るサスペンス映画と把握できる感じとはいえ、単にエイミーは、自分を無視したり、自分を縛りつけようとしたりする男を排除しようとしただけであり、最後は、自分の前にひざまずくことになったニックを受け入れたということなのかもしれません。

 それにしても、色々策を弄したエイミーは、その結果として得るものが何かあったのでしょうか?何もせずに、ただ最初に、あんたの子供ができたとニックに言いさえすればラストの状態が得られ(注16)、コリンズを殺すこともなかったようにも思えるのですが?

(4)渡まち子氏は、「2時間29分と長尺だが、まったく退屈しない。登場人物と観客の不安をあおりながら見事なストーリーを紡ぐデヴィッド・フィンチャー。やっぱりこの人の才能はすごい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「結末ドッキリ系をとらせたら右にでるものがいないデヴィッド・フィンチャー監督らしい軽快な語り口で、大人の男女関係を知る誰もが楽しめるミステリに仕上がった」として70点を付けています。
 相木悟氏は、「どんより暗くなる身も蓋もない内容ながら、めちゃくちゃ面白いサスペンスであった」と述べています。



(注1)原作は、ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール』(小学館文庫:未読)。
 監督は、『ソーシャル・ネットワーク』や『ベンジャミン・バトン』のデヴィッド・フィンチャー(DVDで『ファイト・クラブ』を見たことがあります)。
 なお、原作者のギリアン・フリンが脚本を書いています。

(注2)実は、ニックの双子の妹マーゴキャリー・クーン)で、二人は「ザ・バー」を共同で経営。

(注3)エイミーは、全てを成し遂げた後は死ぬ気でいて、具体的な日にちまでカレンダーに書き込んでいます。その際には、ポケットに石をたくさん詰めて身を投げて死のうとしていたようです(実際には、死ぬなんてバカバカしいと気が変わって、その計画を放棄しますが)。

(注4)このキャスターは、TVでニックについて酷いことを言っておきながら、エイミーが家に戻った後、インタビューをしにニックたちのところにやってきたところ、謝罪など一切しません。

(注5)エイミーを捜索するボランティア団体が設けられますが、彼らはまるでエイミーがすでに殺されているとばかりに、川岸とか雑木林の中を捜索します。
 他方、ニックが雇ったボイル弁護士は、ニックの言葉に従って、この事件を解決する鍵はエイミーを見つけ出すことだとして、すでに人を雇っていると言います。

(注6)例えば、この記事とかこの記事

(注7)この記事によれば、町山智浩氏は、2002年のスコット・ピーターソン事件をこの作品が下敷きにしているとしているところ、同記事によれば、サンフランシスコ湾東岸で被害者の遺体が発見された後にスコットが逮捕されていて、決して“遺体なき殺人事件”ではなさそうです。

(注8)日本の場合は、特に殺人事件の場合、被疑者が保釈されるようなことはないように思われます。

(注9)コリンズは、エイミーに昔しつこくつきまとっていた男ながら、大変な金持ちであり、持ち金を強奪されたエイミーが行く先がなく頼ってくると、豪壮な別荘に匿ってくれます。

(注10)ボニー刑事が疑念を持ってエイミーに対する質問を続けようとしますが、遮られてしまいます。

(注11)でも、監視カメラの操作記録が何らかの形で残るのでは?

(注12)殺した死体に武器を持たせても、その不自然さが明るみに出るのではないでしょうか?

(注13)実のところエイミーは、単にニックを罰しようと考えただけのことであり、死刑にまで陥れようとは思っていなかったのかもしれません。
 また、マスコミは、エイミーが戻ってくると、今度は二人の間に子供ができることの方に関心を移してしまい、彼女がルミノール反応など様々な工作をしたことについて咎めだてをしませんが、それは子どもじみたイタズラとみなしているからなのかもしれません。

(注14)例えばこの記事

(注15)例えば、ブログ「・*・ etoile ・*・」のこのエントリ

(注16)ニックは親としての責任感が強く、生まれてくる子供のために、エイミーがどんな女であるか十分に知りながら結婚生活の継続に同意するほどなのですから(なぜ、そんなに責任感が強いのか、クマネズミにはよくわからないのですが)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ゴーン・ガール

自由が丘で

2014年12月23日 | 洋画(14年)
 『自由が丘で』をシネマート新宿で見てきました。

 本作(注1)は、韓国映画に加瀬亮が出演するというので、久しぶりの韓流ながら、映画館に行ってきました。

 本作は、主役のモリ加瀬亮)が、以前語学学校の講師として働いていたソウルに再び行って、別れたものの思い切れない恋人・クォンソ・ヨンファ)に会おうとする至極単純な物語です。
 加えて、映画の中でモリは、様々の韓国人と英語でコミュニケーションをとりますが、複雑な内容の会話は行いません。
 ですから、一見すると、全体としてすごくわかりやすい平凡な映画のような印象を受けます。

 しかしながら、
イ)元々は簡明なストーリー展開のものを、監督が編集作業でシーンの入れ替えを複雑に行っているために、見ている最中も、見終わってからも、この作品は一体何なのだろうかといろいろ考えさせられます。

 例えば、モリが宿泊しているゲストハウス「ヒュアン」の隣の部屋に若い女が宿泊していますが、ある時彼女は、同じくそのゲストハウスに滞在しているサンウォンキム・ウィソン)とつまらないことで言い争った後、父親が現れて連れ出されてしまいます。
 その後に若い男がやってきて、中庭で以上の一部始終を見ていたモリに、「隣の部屋の女はどこへ行った」と尋ねるものですから、モリは「年配の男と出て行った」と答えると、その男は「さては、父親と帰ったな」と言います。さらに、モリが「彼女の後を追わないの?」と訊くと、その男は「変わった男だ」と捨て台詞を残して「ヒュアン」を立ち去ります。
 これはこれで一まとまりのエピソードとして観客の方は理解できますが、問題は、その後に、次のようなシーンが挿入されていることです。
 すなわち、モリが散歩をしにゲストハウスを出て、近くの小さな店の中を覗くと、なんとさっきの女がいるではありませんか。そして、その女は、モリのことを全く無視して、その店を出て立ち去ってしまうのです。
 モリは、その後姿を見守るだけですが、観客の方も狐につままれた感じになります。
 この女は、父親と一緒に荷物を持ってゲストハウスから立ち去ったのではないか、それも父親は彼女を若い男から引き離そうとしたのではないか、にもかかわらず、どうしてこんな近いところに何も持たずに一人でいるのか、更にはなぜモリに気づかないのか(注2)、などと様々な疑問が湧いてくるのです。
 ただ、このシーンが、彼女がゲストハウスから父親によって連れだされる前に置かれているのであれば、観客側の方にこうした疑問は湧かないことでしょう。ですが、順序をちょっと入れ替えてしまうだけで、同じシーンながらも、様々の疑問が持ちだされ、観客は途方に暮れることになります。
 勿論、このシーンは、そう言えばその前にあの店で見た女だなとモリが後から回想したものだ、とみなせば済むのかもしれません。
 でも、いわゆる回想シーン特有のトーンになっているわけでもなく、それまでのシーンに引き続いてこのシーンを見せられると、観客の方では、アレッという思いに囚われ、一体どういうことだろうか、ひょっとしたらこの女には日本人にはうかがい知れない謎が隠されているのではないのか、などといろいろ考え込まざるをえなくなります。

 こうした時間の順序の入れ替えについては、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」には、「クォンが、順番がバラバラになったモリからの手紙(注3)を読み進めると同時に、物語が紡がれていく。いったりきたりするモリの心を写すプリズムのように、時間も少しずつ乱反射していく」と述べられています(注4)。

 実際にも、本作のアチコチに、クァンがモリの手紙を読んでいる短いシーンがいくつも嵌めこまれています。
 そして、それに対応するように、シーンの順序の入れ替えが色々なされます。

 一番顕著なものはラストシーンを巡るものでしょう。もとの順当な流れに沿うものであれば、何事もないごく単純なお話ということになります。ですが、本作のように、同じシーンながらもその順番を入れ替えることによって、かなり複雑なストーリーであるかのように変換してしまいます。
 ですが、ラストについて詳しく触れれば酷いネタバレになってしまいますので、後は見てのお楽しみといたしましょう。

ロ)次に、本作が面白いなと思ったのは、モリが韓国人たち(注5)と英語でコミュニケーションをとる点であり、それも、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」にも「韓国語でも日本語でもない、英語でのぎこちない(登場人物と)モリとの掛け合いや、何気ない、ささやかな会話と仕草」とあるような雰囲気なのです。



 例えば、モリは、近くにある「自由が丘」という名のカフェによく行き、ついにはそこの女主人・ヨンソンムン・ソリ)と懇ろな関係に至るのですが、レストランで食事をしている最中にヨンソンが、モリの読んでいる本(吉田健一著『時間』)に目をつけて、英語で「どんな本なの?」と尋ねるので、モリが「時間に実体はない」などと本の内容を説明し出すと、ヨンソンは「今度ゆっくり教えて」と言うので話が途切れてしまいます(注6)。



 また、ゲストハウス「ヒュアン」の女主人(ユン・ヨジュン)は、モリにスイカを出しながら、「どんなときにしあわせ?」と尋ね、モリは「花を眺めている時。木も好きです」と答えます(注7)。

 どうも印象としては、モリは様々の韓国人とコミュニケーションを図っているものの、表面的なところに留まっているように見えます。
 それで、中に一歩踏み込もうとすると、表現が意図に反して厳しいものとなってしまい(あるいはそのように受け取られてしまい)、相手との対立が生じてしまう感じがします(注8)。

 こうした日本人モリと韓国人との関係から、あるいは現在の冷えきった日韓関係についてまでも議論できるのかもしれませんが、これまでどおりここではそうした政治的な方面は差し控えることといたしましょう(注9)。

ハ)本作では「夢」が上手く絡まってきます。
 カフェ「自由が丘」の女主人・ヨンソンの飼い犬がいなくなっていたところ、その犬をモリが路地で見つけたことによって、モリとヨンソンは親しくなります。
 その犬の名はクミというのですが、韓国語では「夢」を意味するようです(注10)。

 また、以前クォンと行ったことのある小川の縁で「モリ………、モリ………」と言う彼女の声を聞く、といった夢を見て、モリは、「奇妙な夢だった」と呟きます。

 さらには、モリはラストの方ですごい夢を見るのですが、果たしてそれが本当に夢なのかどうか、見る人によって解釈は分かれることでしょう。

ニ)上映時間が67分という短さも本作の特色といえるでしょう。
 このところ、『0.5ミリ』(196分)や『インターステラー』(169分)、『6才のボクが、大人になるまで。』(165分)といった長尺のものを見続けてきた者からすると(『フューリー』も135分)、一方で、酷くあっけなさを感じてしまいますが、他方で、大作ばかりが映画ではなく、むしろこういった掌篇も味わい深く好ましいなと思えてきます。

ホ)主演の加瀬亮(注11)は、これまでも『永遠の僕たち』など海外の作品にも出演してきましたが、今回もモリという役柄を自分のものとして実に巧みに演じています。
 なお、韓国映画には、以前、『悲夢』に出演したオダギリジョーを見たことがあります。ただ、彼は日本語を使っていました。今回加瀬亮は英語ですが、日韓の映画交流はなお一層必要とはいえ、言葉の壁が大きいのかもしれません。



(注1)本作の監督・監督はホン・サンス
 本作の邦題は、主人公のモリがよく行くカフェの名(カフェの前に置かれている看板に「JIYUUGAOKA 8丁目」とあります)にちなんだものですが、原題は「Hill of Freedom」。
 なお、この記事によれば、本作は、本年のナント三大陸映画祭でグランプリ(「金の気球賞」)を受賞(2011年に『サウダーヂ』がグランプリを受賞)。

(注2)実は、その女とサンウォンとが言い争っている時に、モリが現れて、サンウォンを彼女から引き離しているのです。このシーンからすれば、彼女はモリを見ているはずです。

(注3)映画の冒頭、クォンが、モリからの手紙を携えて階段を降りる途中、めまいに襲われてその手紙を下に落としてしまい、慌てて拾うものの順番がバラバラに(中の1枚は拾わずじまいに)なってしまいます。
 なお、クォンがモリの手紙を受け取るのは、以前2人が働いていた語学学校の受付。ただ、2人が働いていたのは2年前のこと。なぜ、丁度その時点にクォンが現れ、モリの手紙を受け取ることになるのかはよくわかりません(手紙の日付は1週間前になっているとのこと)。

(注4)同じ箇所には、引き続いて「時間の流れから、その断片を少し解放させることで、私たちは同じ時間を少し違ったものとして体験することができる。そこから今までとは違った見え方や行動が生まれる」とのホン・サンス監督の言葉が引用されています。

(注5)本作には、韓国人の妻がいて達者な韓国語を話す西洋人も登場しますが。

(注6)実は、これと同じような会話がカフェでも繰り返されます。

(注7)ゲストハウスの女主人は、また、「私は日本人が好き。礼儀正しくて、清潔だから」と言います。これに対し、モリが「低次元の韓国人は嫌いだけど(語学学校で働いていた時にモリは騒動を引き起こしたようです)、尊敬する女性(クォンのことでしょう)も韓国人。韓国人を一括りできない」と答えると、女主人は「正直な人ね」と言います。
 なお、モリは、様々な韓国人から「どうして韓国に?観光?仕事?」と尋ねられます。なんだか、日本人が、外国人に対して「日本についてどう思うか?」と尋ねるのと同じような印象を受けます。

(注8)モリとヨンソンとの関係はスムースながら、下記「注10」で触れるように、モリは相手の言ったちょっとしたことに腹を立てたり、また本文のイで取り上げたエピソードでは、若い女を追いかける男が、モリの言ったことに立腹したりします。
 あるいは、クォンと2年前に別れたのも、英語を通したコミュニケーションの行き違いによるものかもしれません(尤も、韓国人のサンフォンは、同じ韓国人の若い女と激しい口論をするのですが)。

(注9)例えば、『The New Yorker』に掲載されたこの記事において、「the subject that underlies the entire story, one that encompasses not just the love affair but history itself, is international relations」とか「Hong is also a political filmmaker in the most abstract but decisive sense」とされているのはかまわないとしても、「Japan annexed Korea in 1910 and, during the Second World War, conscripted hundreds of thousands of Koreans into forced labor and compelled tens of thousands of Korean women to serve as “comfort women,” sex slaves to the Japanese army.」と事々しく述べられているのを見ると、暗澹たる気持ちになってしまいます。

(注10)カフェ「自由が丘」で隣の席にいた男(イ・ミヌ)が、モリに「クミ」の意味を説明します。
 実はこの男はヨンソンの恋人で、話の中でモリが「無職だ」と答えると「働けよ」と言うものですから、モリは怒ってカフェを出ます。

(注11)最近では、『ペコロスの母に会いに行く』とか『はじまりのみち』で見ました。



★★★★☆☆



フューリー

2014年12月18日 | 洋画(14年)
 『フューリー』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)戦争映画はあまり好みではありませんが、ポスターに「アカデミー賞最有力」とあるのにつられて映画館に行ってきました。

 本作(注1)の時代設定は、1945年4月(注2)。
 「フューリー」と名付けられたM4中戦車シャーマンの指揮官がコリアー軍曹(ウォーダディの愛称:ブラッド・ピット)。



 その部下には、砲手のボイド(愛称はバイブル:シャイア・ラブーフ)、操縦手のガルシア(愛称はゴルド:マイケル・ペーニャ)、装填手のグレイディ(愛称はクーンアス:ジョン・バーンサル)がいます。
 そして、直前の戦闘で戦死した部下レッドの代わりに、新兵のノーマンローガン・ラーマン)が副操縦手として加わります。



 ノーマンは、まだ18歳であり、元々事務担当のタイピストで、戦場での経験はゼロ。
 その彼が、コリアー軍曹以下の手荒いしごきを受けて次第に一人前の兵隊に育っていくのですが、一体どんな経験を戦場ですることになるのでしょうか、………?

 確かに、中戦車シャーマンと、ドイツ軍の重戦車ティーガーとの一騎打ちは随分の迫力があります。



 また、戦略上の要衝を「フューリー」だけで死守するラストの戦闘シーンもなかなかのものです。 それに、全く戦闘経験がなかった新兵が立派な戦闘員に育っていく様子も描かれたりして、まずは見応えありといえるでしょう(注3)。

(2)とはいえ、やっぱりこれまでのアメリカの戦争物と同じように、本作でもドイツ兵は基本的に悪として描かれ(注4)、銃弾に簡単に倒れていきます(SSの将校に至っては、投降しても問答無用に米兵の餌食となります)(注5)。
 特に、戦略上の要衝であるクロスロードを「フューリー」だけで死守する時の戦闘シーンでそう感じましたが、コリアー軍曹が戦車の砲塔の上で身を晒して機関銃を打ち続けても、敵弾には全然当たらずに、敵のドイツ兵が次々と倒れていくだけなのです(注6)。
 こうした格好のいい主役の描き方は、これまでの戦争物(広く言えばアクション物)とそんなに大きな違いはないように思われます。

 そして、一番違和感を持ったのは、フューリーでこのクロスロードを死守するという設定です(注7)。映画では、その戦車に搭乗するわずか5人で300人の規模のドイツ武装SS大隊を迎え撃つことになります。
 これでは、以前に見た『十三人の刺客』と同じことではないでしょうか(注8)?
 同作では、「300人以上の軍勢に僅か13人の侍が挑みかかり、そのトップの首を取ろうという戦闘」が描かれます。

 確かに、この二つの作品では描かれている時代が違い、同作では弓以外の飛び道具は使われませんし、なによりも13人と5人とで人数が違うかもしれません。
 でも、少人数がものすごい数の敵と対峙して目的を貫徹しようとする物語の骨格は共通しているように思います。

 とはいえ、時代劇のチャンバラでは、そうした破天荒なお話でも物凄く面白いと思ったのに対して、本作については、違和感のほうが先に立ちました。
 あるいは、『十三人の刺客』は大昔のファンタジーとして受け入れることができるのに対して、本作は「リアル」を売り物にした現代劇ということで(注9)、同じような設定にしても受け入れることが少々難しいのかもしれません。
 本作が、実話に基づいた作品ということなら話は別ながら、そうではないのですから(注10)、一体そんなことが実際に起こりうるのかという感じになってしまいます(注11)。

 結局、この映画も、そうした極端な設定による物語を描き出すことで、米軍の素晴らしさを訴えようとした、ある意味で戦意高揚映画ではないのか、と思えてしまうのですが。

(3)渡まち子氏は、「1台の戦車で300人ものドイツ兵に立ち向かった5人の男たちを描く戦争アクション「フューリー」。本物の戦車を使用して撮影するなど、リアル重視の映像が迫力たっぷり」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「感動的なストーリーと見ごたえのある映像、血沸き肉躍るスリル。エンターテイメント性の高い、見事な戦争映画である」として85点を付けています。
 秋山登氏は、「これは、戦争映画のどの部類にも属さない作品である。ただ戦場の実態を如実に伝えているにすぎない。いわば、戦争をありきたりの型にはめるのではなく、丸ごと描こうとしているのだ。注目に値する野心作といえよう」と述べています。



(注1)監督・脚本・製作はデヴィッド・エアー

(注2)ドイツの降伏は、翌月の8日

(注3)俳優陣について、最近では、ブラッド・ピットは『それでも夜は明ける』、シャイア・ラブーフは『ランナウェイ 逃亡者』、ローガン・ラーマンは『ノア 約束の舟』、マイケル・ペーニャは『アメリカン・ハッスル』(アラブ人・パコの役)、ジョン・バーンサルは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(ドラッグの売人の役)で、それぞれ見ています。

(注4)しかしながら、ラストあたりで、脱出口を使って戦車の下に隠れているノーマンを、通りかかった若いドイツ兵の一人が見つけるのですが(目と目が合います)、なぜか彼はノーマンを見逃してくれます。

(注5)ラストシーンは、クロスロードで擱座したフューリーの周りに倒れている実に夥しいドイツ兵の死体と、その間を通過していくアメリカ兵たちの姿です。
 フューリーに立ち向かったドイツ軍は、対戦車砲などの兵器をいくつも保有する精鋭部隊として描かれていますから、あまりにフューリーに接近しすぎた嫌いはあるにせよ、しばらくして態勢を立てなおしたら、戦車1両くらいは簡単に撃破できるのではないか、と思いました(あるいは、指揮官が皆やられてしまい、烏合の衆になってしまったのでしょうか)。

(注6)それでもしばらくすると、さすがのコリアー軍曹もドイツ軍の狙撃兵に撃たれます。でも、2度も撃たれながらも、即死ではなく戦車の中に転がり落ちるだけで、残っていたノーマンに指示を与えたりするのです(加えて、最後には、ドイツ兵によってフュ―リーの中に手投弾を投げ込まれるのですが、その後ノーマンが戦車の中に入り込むと、コリアー軍曹は戦死しているものの、ほとんど損傷を受けてはいないかのように見えます)。

(注7)映画では、当初、コリアー軍曹が率いる戦車小隊(途中からコリアー軍曹が小隊長になります)には4両の戦車が所属していました。ですが、ティーガー戦車の待ち伏せ攻撃に遭って、3両は破壊されてしまい、結局残ったのはフューリー1両だけとなってしまいます。

(注8)ブログ『お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法』のこのエントリでも、本作は「西部劇「アラモ」や我が国の「七人の侍」「十三人の刺客」等の、少数の精鋭たちが圧倒的な軍勢に立ち向かう王道アクション映画」を「連想させてくれる」、と指摘されています。

(注9)例えば、本作の公式サイトの「Introduction」には、「圧倒的な臨場感&リアリティをこめて映像化」とあります。

(注10)劇場用パンフレットに掲載の浪江俊明氏のエッセイ『『フューリー』を探せ―その時代と背景』では、「『フューリー』の舞台となっている場所を考えてみると、ルール包囲戦が終わり、エルベ河へ向かう途中のビーレフェルトからハーメルン、ハノーファーの南あたりまでと絞ることができ」るものの、「映画の戦車小隊は架空の部隊だということに行き着きました」と述べられています。

(注11)300名のドイツ兵がこちらに向かっているとのノーマンの報告を受けたフューリーの3人は、ブラピを除いて皆、動けなくなったフューリーを捨てて付近の森の中に隠れようと言い出します。ですが、コリアー軍曹が、「俺は逃げない、十字路を守る。俺にはこれが「家」なんだ("It's my home." )」と言うと、結局、他の4人もコリアー軍曹に従うことになります。
 とはいえ、死ぬことが余りにも確実な方法を選択することは、いくら命令があるとはいえ、この場合果たして合理的なことなのかどうか、特に、アメリカ人がまるで日本の特攻隊的ともいえる選択をするものかどうか、疑問に思ってしまうところです〔補注〕。
 確かに、要衝クロスロードを敵の手に渡してしまうと、先行した米軍のドイツ攻撃部隊の後方が危なくなるのかもしれません。
 でも、その危うくなる程度がどれほどのものなのか、映画では上手く説明されていません。本当に、5人の命と引き換えにして守らなければならないほどの価値のある場所なのでしょうか。
 映画の画面からは、単なる平原の中に設けられている十字路に過ぎないように見えます。
 戦略上の要衝と言ったら、常識的には、高地とか、橋のない川における渡河可能地点といったものではないかと思いますが、このクロスロードがそうした地点であるようには見えない気がします。

〔補注〕劇場用パンフレットの「Introduction」には、「なぜ若き部下たちはウォーダディーを“信じ”、死を意味する無謀な任務を果たしたのか」とありますが、まさに「なぜ」という思いにとらわれます。
 ただ、映画では、クロスロードでの戦闘を控えて、バイブルが「聖書の一節を思い出す」と言って、「主の声:誰をつかわそう?誰が行くだろう?私は言った:私がおります。私をつかわせてください」と暗唱したところ、コリアー軍曹が「イザヤ書第6章(第8節)」と応じたので、バイブルが「そのとおりだ!」と驚きます。
 まさか、コリアー軍曹の部下の4人がコリアーを神として“信じ”たわけではないと思いますが。
 なお、このサイトの記事によれば、『イザヤ書』に「fury」という言葉が随分と登場するとのこと。
 としたら、本作は、キリスト教的な観点からも考えるべきなのかもしれません(何しろ、「牧師の息子で信仰心の厚い」バイブルが登場するばかりか、コリアー軍曹自身も聖書に通じているのですから!)。ですが、そうした方面に無知なクマネズミには手に余ります。
 〔本作の冒頭の、それ以降の大層リアルなシーンに比べると酷く異質な感じがしてとてもリアルと思えないなシーン(戦車戦が終わった戦場に、ナチの将校が白馬にまたがって一人忽然と現れ、これまた突然戦車の中から飛び出したコリアー軍曹によってアッサリと殺されるのです)も、例えばこのサイトの記事によれば、聖書に基づいて解釈できるようです。そして、ラストのクロスロードでの激しい戦闘も、あるいはクロス(十字架)を巡る戦いとみなせるのかもしれません!〕



★★★☆☆☆



象のロケット:フューリー

寄生獣

2014年12月15日 | 邦画(14年)
 『寄生獣』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)2部作の前半に過ぎないということで躊躇しましたが、まずは見てみようと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公・新一染谷将太)は、母親(余貴美子)の女手一つで育てられてきた高校生。
 ある日、彼の右手に寄生獣が入り込んでしまい、以来、新一とその寄生獣・ミギー(声:阿部サダヲ)とは共存関係に。



 新一に親しみを感じている同学年の村野里美橋本愛)は、そうした状況は知らないながらも、最近の彼がどこかオカシイと感じるようになります。



 そんなところに、新しく村野のクラスの担任として赴任してきた田宮良子深津絵里)に寄生獣が取り付いていることがわかり、新一は田宮と対決します。



 田宮は、新一とミギーとの関係に興味を示すも、田宮が連れてきた警官Aと男(池内万作東出昌大)は、いずれも寄生獣が取り付いていて、新一たちに敵意をいだき、現に攻撃してきます。
 ここを起点に、新一(そしてミギー)は寄生獣たちとの戦いに入っていくのですが、さてどんな展開になるのでしょうか………?

 本作は、主人公・新一と、その右手に棲みついた寄生獣・ミギーを巡るお話の前半部分。新一を演じる染谷将太がその持ち味を十分に発揮しており、またヒロインの橋本愛や深津絵里、それに今売り出し中の東出昌大なども活躍し、なかなか面白い仕上がりを見せています。次作の後半部分では、どんなに話が拡大してクライマックスになるのか、十分期待させます(注2)。

(2)とはいえ、映画の冒頭では、虫状の寄生獣が深海で育ち(注3)、ガントリークレーンが設置されている港湾の岸壁から這い上がってコンテナの中に入り込み、トラックに乗って街に行き、寝ている人間の耳の中に侵入するという経過をたどりますが、実際にはその寄生獣は大変な能力を持った知性体であり(注4)、また仲間同士緊密な連携をとっているようなのです。
 イルカが優れた知性を持っていると言われていますから、知性のことはさておくとしても、寄生獣は深海生物ということからエラ呼吸をしているに違いありません。そうなると、寄生獣は地上でどうやって呼吸をするのでしょうか?
 また、深海ではプランクトンを食べていたと思われますが、それが地上に出るとどうして人間を捕食するようになるのでしょうか(注5)?
 そもそも、なぜこの時期に来襲することになるのでしょうか?
 ここは、原作のように、宇宙から異星人が地球に突如侵入するとする方が受け入れやすいのでは、と思いました(注6)。

 上記とも関連するかもしれませんが、本作は、特殊日本での出来事になっています。
 『インターステラー』でも感じたことながら、映画製作国限定の話とするのであれば、それなりの説明があってもいいのかなと思いました(注7)。

 なお、原作との違いで言えば、本作の新一はシングルマザーに育てられていますが、原作では父親も存在するのです(注8)。
 といっても、原作を刈りこんで映画化するにあたって、これは適切なやり方ではないかと思います。

(3)本作については、下記の(4)で触れる前田有一氏が、「失敗作に終わった」として25点と極めて低い評点を付けています。
 その理由として挙げるのは、次の点。
a.「キャスティングの違和感」。
b.「この物語をお気楽なバディムービーにしてしまったこと」。
c.「読者として、(監督が)作品の胆を理解されていない悲しさを感じる」こと。

 ですが、本作の面白さに堪能したクマネズミとしては、とても前田氏の見解を受け入れるわけには行きません。

 最初のaについて、前田氏は、「具体的には染谷将太、橋本愛、阿部サダヲの3主要人物ともにまずい」と述べています。
 特に橋本愛につき、「気弱な同級生の主人公に恋をする母性豊かなヒロインにはまったく見えないところが痛い。むしろスマホでぎゃるるでもやっていそうな正反対のルックスであり、いかに人気者とはいえ村野里美役には適さないというのは万人の認めるところであろう」と誠に手厳しい書きぶりです。
 しかしながら、「「人間らしさ」と母性の関係性というものが、重要な物語の要素となっている」と前田氏が麗々しく記している点は、本作を見れば誰でもがすぐに分かる事柄に過ぎないにせよ、だからといって、どの登場人物もその「要素」を持っていなければならないということにはなりません。
 本作では、上で記したように、原作にある父親を描き出さないようにしてまで母親の存在を強調しているのですから、その上さらに村野を「母性豊かなヒロイン」などとしてしまったら、観客の方で食傷してしまうことでしょう!
 ここは「スマホでぎゃるるでもやっていそうな正反対のルックス」の橋本愛で結構であり、クマネズミは、前田氏のように、次作の完結編における彼女が「少年漫画きってのエロさ」をどう演じるか「大きな期待を持って見守っていく」ようなことはしないつもりです(注9)。

 次のbについて、前田氏は、「ひらたくいうと、新一にとってのミギーが、ちょっぴり変わったお友達、になってしまっている」と述べています。
 この点は、原作をどう読むかという点に関わることであって、前田氏のように、「ごく平凡な新一は人間らしさの象徴で、一方寄生生物であるミギーは冷酷な自然界の摂理そのもの」であり、「互いの価値観はなかなか相容れない、理解しあえない関係であるがゆえに、サバイバルの場ではきわめて強力な補完関係となっている」と読み取ることも可能でしょうが、また山崎貴監督のように、「僕は原作を読んだ時から可愛いイメージでした」と言うことも十分に可能でしょう(注10)。
 この点についてもクマネズミは、他の人間の脳に入り込んだ沢山の寄生獣が「冷酷な自然界の摂理そのもの」を体現し、人間とは「理解しあえない関係」となっているのですから、ミギーにまで同じような行動をさせたら、作品がひどく単調なものになってしまうと思って、本作における新一とミギーの関係を肯定するものです。

 それに、一方のミギーは新一の脳内に入り込むのに失敗したという中途半端な状況にあり、他方の新一も、ミギーの体の一部が体内に残ってしまったために(注11)、身体も精神も変質しているわけで、両者が「理解しあえ」るのもそんなにおかしくないと思います。

 この点に関連して、前田氏は、「新一ばかりがどんどん強く成長していき、あっというまに新一>ミギーになってしまう」と述べています。
 ですが、劇場用パンフレット掲載の「コメント」で、脚本の古沢良太氏は、「前編は、いわば新一の物語。普通の少年がパラサイト(寄生獣)と出会って変貌してゆく話です。個人的には、パラサイトと混じったこと以上に、極限の経験と悲しみを経た「狂気」と「覚悟」が彼を変えていったのだと考えています」と述べていて、そのようにストーリーが展開することによって、この前半部分はそれ自体がまとまりのある一つの作品として受け止めることができるように思われます(注12)。

 最後のcは、上記のaとbとを含んだ全体評というべき点でしょうが、ここには、映画はその原作と原則的に同一でなければならない、という前田氏の基本姿勢が伺えます。
 ですが、クマネズミは、これまでも繰り返し申し上げていますように、映画作品とその原作とは別物ではないかと考えており、こうした前田氏の姿勢には基本的に疑問を感じます。

(4)渡まち子氏は、「人間とは何者か、人類と他者との共存は可能か、などの哲学的テーマは完結編に持ち越されたが、そこに母性をからめてどのように描いていくのかが非常に気になる。完結編に大いに期待したいところだ」として70点を付けています。
 これに反して前田有一氏は、「岩明均の原作コミックを実写映画化した「寄生獣」はこの秋一番の大作として期待される話題作。だからこそ大ヒット請負人の山崎貴監督で挑んだわけだが、残念ながら失敗作に終わった」として25点しか付けていません。
 相木悟氏は、「賛否両論うず巻く人気漫画の映画化市場に、屈指のクオリティを誇る一本の登場である」と述べています。



(注1)本作の原作は、岩明均氏の漫画『寄生獣』(講談社文庫:1と2以外は未読)。
 監督は、『永遠の0』の山崎貴。

(注2)俳優陣について、最近では、染谷将太は『TOKYO TRIBE』、深津絵里は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』、阿部サダヲは『謝罪の王様』、橋本愛は『渇き。』、東出昌大は『0.5ミリ』、余貴美子は『武士の献立』で、それぞれ見ました。

(注3)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、山崎監督は、「空からのシーンをそのまま映画で描写すると異星人と誤解されそうだと思ったんです。でも、地球から送り込まれたのかも?というコンセプトが面白かったので、それをより確実に表現するために深海生物をイメージのベースにしました」と述べています(どうして「異星人」と誤解されてはいけないのか、クマネズミにはよくわかりませんが)。

(注4)寄生獣は、様々なものに変身できる能力とか、ものすごい攻撃能力などを持っていますが、それらの能力は、深海においてどのように活用されているのでしょうか?
 そもそも、深海においてはどんなものに寄生しているのでしょうか?
 深海にいた時は使わなかったというのであれば、そうした能力は退化してしまうのではないでしょうか?

(注5)ミギーは、新一が食べるもので満足していますから、寄生獣にとって人間の捕食は必ずしも必要ではなさそうです(田宮良子の寄生獣も、人間と同じ食べ物を食べていると言っています)。
 そもそも、人間を食べてばかりいたら栄養に偏りが生じてしまい、寄生獣も宿主の人間もすぐに病気になってしまうのではないでしょうか?

(注6)原作漫画の冒頭(文庫版1のP.11)では、空から「テニスボールくらい」のものがいくつも降ってきて、それが「パクン」と割れて、中から寄生獣が這い出てきます。
 また、新一はミギーに対し「宇宙人め」と言ったりします(文庫版1のP.59)。

(注7)原作漫画では、例えば「ひき肉(ミンチ)殺人―そう呼ばせるほどずたずたに引き裂かれた肢体が“世界各地”でいくつも発見されていた」(文庫版1のP.90)というように、一応、地球規模の出来事の一つとして物語が描かれています。

(注8)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、山崎監督は、「裏テーマに“母親とは何か”というものもあったので、その部分を強調するためにもそういう設定(新一の父親は出さない)に変えることにしました」と述べています。

(注9)むろん、前田氏の述べているようなことが次作において見ることができるのであれば、それはそれで嬉しい限りとはいえ、そうでなくとも何の問題もないと思っています。

(注10)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューから。
 なお、同パンフレット掲載の「コメント」で、脚本の古沢良太氏は、「ミギーはコメディキャラでもあ」り、「恐ろしいのにカワイイ、冷酷なのに可笑しい、というのがミギーの魅力ではないでしょうか」と述べています。
 それに、原作においても、例えば、喫茶店で新一が村野とデートした時、彼女が「生き物は好きだよ、ヘビはダメだけど」と言うと、右手のミギーはペニスに変身して、新一が驚き慌てることになる場面(文庫版1のP.62)が描かれたりしており、決して「理解しあえない関係」というような杓子定規なものとなっていないように思います。

(注11)寄生獣に殺された新一を蘇生させようとミギーが新一の体内に入り込んだために。

(注12)また、前田氏は、「彼が初めて戦闘参加することになる展開も早すぎていけない。そんなに簡単に、平和国家日本のヘタレ少年が、人間を殺せるわけがない。殺そうと決意できるはずがない」と述べていますが、それは今の青少年をあまりにも見くびった一方的な見解ではないか、と思います。
 前田氏によれば、「その時点での二人の関係性は圧倒的にミギー>新一」であるべきなのでしょうが、別に「新一=ミギーの関係性」だからといって、新一が人間を殺せないわけではないいのではないでしょうか?
 それに、新一が、警官のAと対峙するに際しては、その前に中華料理店の「万福」において、ミギーが寄生獣と戦うのを経験しているのですから、前田氏が「彼が初めて戦闘参加することになる展開も早すぎていけない」と言うのも当たっていないように思います。
 また、原作漫画においても、ごく最初のほうで、ミギーは「これからはお互い協力しあい生きることだ/それ以外に道はない」と(文庫版1のP.51)、本作同様に「新一=ミギーの関係性」がほのめかされているのです〔文庫版の2になると、新一は「おれはもう……ミギーのこと、敵だなんて思ってないよ」と言い出します(P.144)〕。



★★★★☆☆



象のロケット:寄生獣


ニューヨークの巴里夫(パリジャン)

2014年12月13日 | 洋画(14年)
 『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)本作(注1)は3部作の最終章であり、クマネズミは前の2つを見ていませんから躊躇しましたが、それでも大丈夫だとの情報を得て、映画館に行ってきました。

 本作の主人公のグザヴィエロマン・デュリス)は、まずまずの小説家。
 今はニューヨークにいるのですが、一方でパソコンに小説を打ち込みながら、他方で、パリ在住の編集者とパソコンを通して連絡しています。
 その中で、この10年間の生活は幸福だったと言いながら、グザヴィエは、妻ウェンディケリー・ライリー)と2人の子供たちと一緒に写っている写真を編集者に見せます。
 そのウェンディとグザヴィエは半年ほど前に別れています。きっかけとなったのは、同性愛者のイザベルセシル・ドゥ・フランス)に精子を提供したことにあるようです。
 そして、ウェンディは、仕事で行ったニューヨークで愛人を作り、とうとう子供を連れてニューヨークに渡ってしまいました。
 別れる間際、飛行場で、子供のトムから、「ニューヨークに住みたくない。パリにいたい。僕と別れるのが嬉しい?」と言われたグザヴィエは、子供のことが気にかかって、ニューヨークにやってきたのでした。
 ニューヨークには、セントラル・パークを見下ろす高級マンションで暮らすウェンディばかりか、イザベルもその愛人のジューサンドリーヌ・ホルト)と一緒にブルックリンで暮らしており、さらには、後からグザヴィエの前の恋人のマルティーヌオドレイ・トトゥ)も現れます。



 さあ、いったいグザヴィエはどんなことになるのでしょうか、………?

 本作は、別れた妻と一緒に行ってしまった子供を追ってニューヨークに渡る主人公が、結局は、同地で暮らすことになるというお話。
 昔はアメリカ人が巴里に憧れたようですが、今ではそれが逆転しているのかもと思わせたり(邦題はガーシュインの「パリのアメリカ人」にちなむものでしょう)、主人公が移民局の係官との交渉で四苦八苦している様子が面白く描かれたり(注2)、ショーペンハウエルとかヘーゲルが画面に飛び出したりと(注3)、なかなかチャーミングな作品でした(注4)。

(2)本作のセドリック・クラビッシュ監督も、『6才のボクが、大人になるまで。』のリチャード・リンクレイター監督が3部作(注5)を制作したのと同様に、同じ俳優を11年間にわたって出演させています。それも、リンクレイター監督よりも多い4人もの俳優を継続して使っているのです。
 そうなると、ストーリーもかなり入り組んだものとなり(注6)、本作においては、グザヴィエは5人の子供に関係することになります(注7)。



 そういえば、『6才のボクが、大人になるまで。』においても、メイソンの母親オリヴィエが子供2人を連れて、子供が同じく2人いる大学の心理学の教授と一緒になったりしています。

 特に、レズビアンのイザベルに赤ん坊が生まれるのですが、それはグザヴィエが精子提供してできた子供なのです。
 なんだかどこかで見たような話ではと思いついたのが、『まほろ駅前狂騒曲』。
 同作に登場する行天松田龍平)が精子提供をした話は、その前作『まほろ駅前多田便利軒』で語られるところ、同作では、生まれた子供・はるを、多田瑛太)と行天が一定期間預かって面倒を見るというストーリー(注8)になっています。
 本作でも、イザベルとその愛人のジューが生まれた子供の世話をしていますが、グザヴィエは、その子供の認知を迫られたり、ほんの短い時間ですが預かったりもします(注9)。

 今や、先進国の家族の状況が似たようになりつつあるということなのでしょうか(注10)?

(3)渡まち子氏は、「40歳の小説家がNYで人生に悪戦苦闘するヒューマン・コメディ「ニューヨークの巴里夫(パリジャン)」。ロマン・デュリスっていつまでも若いなぁ」として65点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「演出は、ニューヨークの町のリアルな雰囲気を背景に、例えばグザヴィエの心象風景にヘーゲルを登場させるなど、人間模様や出来事をユーモラスに活写。その映像の積み重ねから人生の機微を浮き彫りにする様は何とも見事で心地よい」として★4つ(見逃せない)を付けています。



(注1)監督は、『Parisパリ』のセドリック・クラビッシュ
 なお、原題は「Casse-tete chinois」(中国のパズル)。
 ちなみに、英題の「Chinese Puzzle」は「難問(a complicated problem)」 という意味があるようですから(このサイトを参照)、主人公が書いている小説のタイトルに通じているようにも思われます(原題のcasse-tête chinoisにも、このサイトの記事によれば「難問中の難問」との意味があるとのこと)。

(注2)日本でも、この事件など偽装結婚を巡る事件が頻発していますから、移民局の係官の対応には興味深いものがあります。
 加えて、移民局の係官が、グザヴィエのアパートにやってきて家族の様子を実地に見に来るというのですから大変です。その際のドタバタが本作のクライマックスとなっていて、実に面白く描かれています。

(注3)グザヴィエが厳しい目に遭遇すると、彼らが登場します。
 ウェンディが、ニューヨークで子どもと暮らしたいと言い出した時に、ショーペンハウエルが現れ、「人生は刺繍した布に譬えることができる。誰しも生涯の前半には刺繍した布の表を見せられるが、後半には裏を見せられる。裏はたいして美しくないが、糸の繋がりを見せてくれるから、表よりはためになる」というようなことを、実際に刺繍してある布を見せながらグザヴィエに言うと、グザヴィエも納得した感じになります(引用は、このサイトの記事より)。
 また、小説『難問』の執筆に行き詰まったグザヴィエの前にヘーゲルが登場し、自分は『精神現象学』を著し、その中で「すべて無は有から生じる」(?:All nothingness is the nothing of something)と書いたと言うのですが、それをヒントにしたグザヴィエは、また小説にとりかかるのです。

 なお、グザヴィエがチャイナタウンのアパートで一人マットレスを敷いて過ごす夜には、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』(グレン・グールドが演奏しているものでしょう)のアリアが流れたりします。

(注4)俳優陣について、最近では、ロマン・デュリスオドレイ・トトゥは『ムード・インディゴ うたかたの日々』、セシル・ドゥ・フランスは『少年と自転車』、ケリー・ライリーは『フライト』で、それぞれ見ました。

(注5)『恋人までの距離(ディスタンス)』、『ビフォア・サンセット』、『ビフォア・ミッドナイト』。

(注6)第1作の『スパニッシュ・アパートメント』(未見)では、24歳のグザヴィエは、役人になるためにバルセロナに留学し、そこでの共同生活を通じてイザベルやウェンディと知り合いますが、パリで恋人だったマルティーヌを失います。
 次の『ロシアン・ドールズ』(未見)では、30歳のグザヴィエは小説家になろうとしています。マルティーヌやレズビアンのイザベルとも付き合いますが、ウェンディと親密な関係になります。

(注7)ウェンディがニューヨークに連れて行ったトムとミアはグザヴィエの子供ですが、マルティーヌがニューヨークに連れてきた2人の子供はグザヴィエの子供ではないのでしょう。

(注8)母親の三峯凪子本上まなみ)が、仕事でアメリカに1か月半行くことになったため。
 なお、三峯凪子は行天の元妻ですが、イザベルと同様に同性愛者とされています。

(注9)イザベルから、グザヴィエの部屋を1時間だけ使わせて欲しいとの連絡があったものですから(新しい愛人であるベビー・シッターと過ごすためです)、イザベルの子供まで預かることになります。
 ただ、グザヴィエの子供のトムが、イザベルからの電話をそばで聴いていて、預かった子供を見て「パパの子供なの?」と尋ねるので、グザヴィエは、事の顛末をトムに話さざるを得なくなります。

(注10)加えて、日本でも中国人観光客があふれている状況にありますが、この映画でも中国が溢れかえっています〔グザヴィエがニューヨークで借りることになる部屋はチャイナタウンにありますし(イザベルの愛人のジューが昔借りていたもの)、マルティーヌは中国茶の取引の関係でニューヨークに出張してきます(残留農薬検査を要請しに)〕。
 こんなところにも、世界共通の今の話題が描かれているように思われます。



★★★☆☆☆



象のロケット:ニューヨークの巴里夫(パリジャン)

6才のボクが、大人になるまで。

2014年12月10日 | 洋画(14年)
 『6才のボクが、大人になるまで。』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)評判につられて映画館に行ってきました。

 本作の舞台はテキサス州のある町。
 初めの方では、6歳のメイスンは、ベッドで母親のオリヴィアにハリーポッターの本を読んでもらったり、一人でブランコに乗ったり、友達と物陰で雑誌を見ながら「みんなおっぱいがデカイ」と言ったりしています。
 そんな時に、オリヴィアが、良い仕事に就くためにヒューストンに引っ越して大学に入ると言い出します。
 メイソンの姉・サマンサは、「嫌」と言っていたものの、最後は「ママの好きにすれば」と認めます。
 他方で、メイソンが「友達とはどうすれば?」と尋ねると、オリヴィアは「メールや手紙で連絡すれば」との返事。さらに、「ママはパパのこと好きなの?引っ越したらパパが僕達を探せなくなってしまう」と言います。父親のメイソン・Sr.は、既にオリヴィアと離婚しており、アラスカに行っているのです。

 それでも、ヒューストンへの引っ越しは決行されます。
 ヒューストンでは、祖母の家で暮らすことになり、また、アラスカから戻ってきたメイソン・Sr.が、2週間おきに子供たちと面会しに。



 レストランで、メイソン・Sr.が「9.11はイラクとはなんの関係もなかった」と言うと、サマンサは「学校の先生は、あの戦争は良い戦争だった、と話している」と答えたりします。
 最後にメイソン・Sr.が、「これからはもっと会おう。時間が必要だった。ママは扱いにくい人なんだ」などと二人に言います。

 3人は家に戻ります。
 メイソンがサマンサに「パパは今夜家に泊まるかな?」と期待を込めて話していると、外の庭ではオリヴィアとメイソン・Sr.が喧嘩している様子。メイソン・Sr.は一人で立ち去ってしまいます。

 そんなこんなで、メイソンを巡り様々な出来事が起きますが、サテハテ一体どんなことになるのやら、………?

 本作は、主役のメイソンが6歳の時から18歳になって大学に入学するところまでを描き出した作品です。
 一番大きな特色は、主役を演じるエラー・コルトレーンが6歳から18歳までを全部一人で演じている点でしょう。



 ということは、この映画の撮影は12年間にわたっていることになります。そして、彼だけでなく、母親のオリヴィア役のパトリシア・アークエット、父親のメイソン・Sr.役のイーサン・ホーク(注1)、姉のサマンサ役のローレライ・リンクレーター(監督の娘)も、12年間一緒にお付き合いをしたわけです。
 と言って、本作は、一人の子供の成長を記録したドキュメンタリー作品ではありません。きちんと脚本があって、劇映画仕立てになっているのです。
 加えて、本作も、『0.5ミリ』(196分)とか『インターステラー』(169分)と同様に長尺(165分)ながら、その長さを少しも感じさせませんでした。

(2)本作を制作したリチャード・リンクレイター監督は、これまで『恋人までの距離(ディスタンス)』、『ビフォア・サンセット』、『ビフォア・ミッドナイト』の3部作を制作していますが、そこにおいても、1995年の第1作から2013年の第3作(日本公開は本年)という18年間に渡り、同じ俳優(イーサン・ホークジュリー・デルビー)を継続的に使っています。
 ですから、同じ俳優を長期に渡り使うということは、この監督にとってそんなに大したことでないのかもしれません。とはいえ、本作の凄い点は、一本の映画においてそれを敢行したことにあるでしょう。
 それも、外形のみならず、精神面でもどんどん変化していく「少年期」(boyfood:原題)にある子供を主役に据えたのですから、驚いてしまいます(注2)。

 といって、本作は、議論したくなるような劇的な盛り上がりは特になく、どちらかと言えば淡々と展開されていきますから(それでいて、飽きさせずに最後まで観客を惹きつけるのですから見事です)、こちらとしてもたわいもない感想が次々と湧いてくるくらいでした。
 それをあえて書き出せば、例えば、メイソンの母親のオリヴィアを巡っては、
 


a.それにしても随分と何回も離婚をするものだな。
 オリヴィアは、メイソン・Sr.と離婚した後、大学で心理学を教える男と再婚しますが、アル中でDVが酷いことから離婚。しばらくすると、今度は元陸軍兵の男と一緒に暮らすようになります(注3)。
 メイソン・Sr.は芸術家風、2度目の夫は知性的、3番目の男は肉体派というように、オリヴィアは、自分の趣味に合った男というよりも、どちらかと言えば趣向を替えながら選んでいる感じがしてしまいます。
 そんな男と無理矢理付き合わざるをえないメイソンやサマンサの方は、堪ったものではないでしょう。

b.権威主義的な父親が多いのだな。
 オリヴィアの2度目の夫(注4)は、アル中のせいもあるとはいえ、家の者を自分が定めた細かい規則で縛り付けようとしますし(注5)、3番目の男も、帰りの遅いメイスンに対して、厳しい目つきをしながら、「ここは俺の家なのだから俺の規則に従え」と言います。
 この場合、最初のメイソン・Sr.は、随分と都合のいい位置にいると言えます。なにしろ、子供たちの日常の面倒は見ずに、月に何回か旅行気分で子供たちと過ごせるのですから(尤も、彼も、良い父親ではなかったことに悩み、そして良い父親になろうと努力していることを子供に打ち明けるのですが)。

c.いとも簡単に大学のポストが得られるのだな。
 無論、オリヴィアの才能が優れているのでしょうが、ヒューストンの大学で勉強し修士の資格をとると、さっそく大学で教鞭をとっているのです(注6)。
 どうやら、18歳になったメイソンは母親が教えている大学に入学することになるようです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「6歳の少年とその家族の12年間の変遷を描いた壮大な家族ドラマ「6才のボクが、大人になるまで。」。時間の流れを主役にした意欲的な実験作」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「この映画を見ると、たしかにいつの間にか主人公は成長する。そしてかわいらしいなあと思ってみていたはずの、ほんの数十分前の序盤のエラーくんの顔を、私たちはあっという間に忘れてゆく。まさに、12年間を2時間45分で疑似体験させる、画期的な映画である」として80点を付けています。
 相木悟氏は、「いやはや、眼の肥えたファンをも唸らせる驚愕の一本であった」と述べています。

 なお、前田氏は、本作は「いったいいまが何年のシーンなのかという情報をほとんど観客に与えない」として、「リチャード・リンクレイター監督は、「あれれ、映画を見ていたらいつの間にかエラーくんの背が伸びてる! パトリシアさんのしわが増えている……と思ったらエラーくんに髭が生えてるじゃん」と、このように感じさせたい。感じさせることに全力を尽くしたということだ」と述べています。
 確かに、劇場用パンフレットの「Production Notes」に、「監督リンクレイターにとって、この映画の主要なテーマは、人生同様全体をひとつの大きな流れとして感じてもらうということだった」とあるように、「(監督は)"いつのまにか時間がすぎている"という「現実の時の流れ」と同等の疑似体験をさせたかった」のかもしれません。
 ですが、前田氏が挙げる「ゲーム機」のみならず、実に様々な映像によって(注8)、むしろそれぞれのシーンがいつの頃なのかが観客によく分かるように制作されているように思います。



(注1)最近では、『ビフォア・ミッドナイト』で見ました。

(注2)町山智浩氏のラジオでの喋りを書き起こしたこのサイトの記事によれば、同じような種類の作品としては、フランソワ・トリュフォー監督による「アントワーヌシリーズ」(アントワーヌの成長を20年間に5本撮っているとのこと:この記事を参照)とか、ドキュメンタリー映画で「セブンアップシリーズ」(イギリスの14人の子どもを7年ごとに記録するもので、1964年から撮影が開始されているとのこと)などがあるようです。

(注3)彼は、最後の方では姿を見せませんから、あるいは別れたのかもしれません。

(注4)彼は、大学で「パブロフの条件」を講義している時に、ローリング・ストーンズの「Bitch」(1971年のアルバム『スティッキー・フィンガー』に収録)から「Yeah when you call my name I salivate like a Pavlov dog」を引用するほど洒脱な感じの男なのですが!

(注5)例えば、男の子は庭の草むしり、女の子は台所の後片付けといった役割分担にするとか、男の子は男らしい頭髪にしろと言って、床屋でメイスンを坊主頭にしてしまいます。

(注6)劇場用パンフレットによれば、テキサス州のヒューストンからオースティンにオリヴィアらは引っ越していますから、おそらくテキサス大学を想定しているのでしょう。
 オリヴィアの教室の黒板には、「Bowlby Attachment Theory」と板書されていて(ボウルビィの「愛着論」についてはこちらを参照)、その講義を聞いている女子学生は、講義内容について「知的で面白い」と言っていますから、オリヴィアはなかなかの才能の持ち主なのでしょう。

(注7)メイソン・Sr.がメイソンに、「テキサス大学へ願書を出したのか?」と尋ねたりしています。

(注8)例えば、このサイトの記事が参考になりました〔ただし、ハリーポッターの第2巻は1998年に発売されていますから、これをオリヴィアがメイソンたちに読んでいるのはそれより後のことになります。というのも、メイソン役のエラー・コルトレーンは1994年生まれで、6歳の時(2000年)から映画が始まりますすから。さらに言えば、第6巻の発売は2005年なので、映画の撮影開始よりも前になってしまいます。もしかしたら映画で映し出されているのは、2007年発売の第7巻(最終巻)の発売日の大騒ぎなのかもしれません!〕。
 その記事で挙げられているものの他に、ボーリング場に行くシーンなどからも、時代の情報はいろいろ読み取れるものと思います。
 ちなみに、劇場用パンフレットに掲載の「Interview with the director」では、リンクレー監督も、「今はコンピュータが何年型かを当てる時代なんだ」と述べています。



★★★★☆☆



象のロケット:6歳のボクが大人になるまで

想いのこし

2014年12月08日 | 邦画(14年)
 『想いのこし』を渋谷TOEIで見ました。

(1)長目の作品が続いたため、少々肩の凝らないものをということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の初めでは、一方で、主役の本田ガジロウ岡田将生)というダメ男の暮らしぶりが描き出されます。
 ガジロウは、ライブ会場の外でチケットを売り捌いて手数料を受け取るというダフ屋であり、それで手に入ったお金で女の子を取っ替え引っ替えしながら、「結婚なんてやめておけ、何が面白いのか」、「俺が他人と暮らすなんてありえない」、「子供のための人生なんて悲しいでしょ」などとうそぶいています。

 他方で、シングルマザーのユウコ広末涼子)の生活ぶりも描かれます。



 家の台所で作業をしていると、一人息子の幸太郎巨勢竜也)が帰宅。
 ユウコは、逆に家を出るため、「ご飯炊けているから、ハンバーグを温めて食べて。塾に行きなさいよ」と言い、さらに「最近どう?」と訊くと、幸太郎が「まあ順調だよ」と答えるので、「そこは、お父さんに感謝ね」と付け加えます。
 ユウコが玄関を出ると、外ではジョニー鹿賀丈史)が運転する車が待っています。車には既に、ルカ木南晴夏)やケイ松井愛莉)が乗り合わせています。

 車が向かった先は、ポールダンスのステージがあるキャンディー・ホール。
 ユウコ、ルカ、ケイはそのホールでポールダンスを踊るダンサー(注2)であり、ジョニーは、運転手兼DJ(注3)なのです。

 今夜は、結婚してダンサーを辞めるルカの卒業公演ということで、3人は張り切ります。
 公演が終わってから、楽屋で、ユウコはルカに、「結婚して家族を作るのがルカの夢だったんだから、頑張ってね」と激励します。

 そして、3人はジョニーの車で帰途に。
 丁度そこへ、ダフ屋の元締めから受け取った札びらを数えているガジロウが。
 突然の風に一枚のお札が道路の方に吹き飛ばされ、それを拾おうとして、ガジロウは慌てて道路に飛び出しますが、ジョニーが運転する車に跳ねられます。
 ガジロウを避けようとジョニーは慌ててハンドルを切ると、対向車線に車が飛び出してしまい、運悪くやってきた車と衝突。

 さらに、病院の場面。
 ガジロウはベッドに横たわっていますが、どうやら助かる見込み。
 他方、ユウコ、ルカ、ケイ、それにジョニーは、自分らの遺体が運びだされるのを眼にします。



 なんと、彼らは、車の衝突によって即死してしまったのです。
 さあ、これから一体どんな展開になるのでしょうか、………?

 本作は、同じ車に乗っていて交通事故に遭って死んでしまった4人が、突然のことなので現世に未練があって成仏できずにいたところ、交通事故の原因を作り出した男にとり着いて、彼を動かして、それぞれが想い残している事柄を実現してもらうというストーリー。こうした話はこれまでも何度も制作されて来ましたから、何か新味でもと思っていたところ、専ら広末涼子のポールダンスが取り柄という作品でした(注4)。

(2)本作のエピソードの一つは、ダンサーを辞めて結婚式を挙げる予定だったルカの話ですが、似たようなストーリーは、最近では例えば、あまり人口に膾炙されなかった『さよならケーキとふしぎなランプ』で見ました。
 そこでは、吉祥寺のカフェ「パーラム」に置かれている不思議なランプに店長が火を灯すと、この世に未練を残す人たちが現れるのです。
 その人達に関係する人が、カフェで待ち受けていて、中の一人が、結婚式の前に交通事故で婚約者を亡くした草本君。
 その草本君と、魔法のランプによって現れた婚約者とのために、カフェにいる皆で結婚披露パーティーを開いてあげるのです。
 その結果、亡くなった婚約者はカフェに現れなくなります。

 とはいえ、両作の間で大きく異なる点は、『さよならケーキとふしぎなランプ』では、草本君ら生きている人間が亡くなっている婚約者の姿を見ることができるのに対して、本作の場合、ルカの姿を目にできるのはガジロウだけだということで、それでルカに代わってガジロウが、ウエディングドレスを着て教会での結婚式に臨むのです。
 勿論、ガジロウがそこまでするのは、ルカが長年金庫に溜め込んでいたお金700万円をもらえるからなのですが。

 ガジロウは、ケイやジョニーの「想いのこし」についても、彼らからお金をもらうことによって実現させていきます。
 ですが、皆の「想いのこし」の一途さにガジロウの精神も次第に変わっていき、最後のユウコの「想いのこし」については、進んで取り組むようになっていきます。
 こうしたガジロウの精神的な成長が描かれている点が、あるいはこの作品のユニークなところといえるのかもしれません。

 それと、本作で何度も描かれるポールダンスですが、例えば、『Somewhere』で見ましたし(ホテルの部屋に出張して演じるものですが)、Wikipediaによれば「ポールダンスはまた舞台芸術としても広く認められ」ているようで(注5)、本作においても、広末涼子らが熱演しています。

(3)渡まち子氏は、「金目当てに死者の願いを叶える青年の心の成長を描くファンタジー・ドラマ「想いのこし」。岡田将生のコスプレ大会か?!」として60点を付けています。
 また、前田有一氏は、「「想いのこし」は、観客にさわやかな涙を流してもらい、増税オタクの総理大臣のせいでよどみきった日常のストレスを洗い流すことを目的とする映画である。その意味では、そこそこ泣ける、コンセプトに忠実なつくりになっている 」として60点を付けています。



(注1)原作は、岡本貴也著『彼女との上手な別れ方』(小学館文庫:未読)。岡本氏は、本作の脚本も手がけています。
 なお、監督は平川雄一朗

(注2)劇場用パンフレットの「Cast」によれば、ユウコは33歳、ルカは26歳、ケイは17歳とされています。そんな年齢にばらつきがあってもチームを組めるのかとも思いますが、それはさておき、ルカはポールダンスの仕事で700万円も貯金できるのでしょうか?また、高校生のケイは深夜勤務ができませんが、キャンディー・ホールの仕事は夜10時前に終わるのでしょうか?

(注3)ジョニーは、消防士を退職した後にDJをやっていて、劇場用パンフレットの「Cast」によれば年齢は70歳とのこと。いささか非現実的な設定のように思われます。

(注4)俳優陣について、最近では、岡田将生は『偉大なる、しゅららぼん』、広末涼子は『柘榴坂の仇討』、鹿賀丈史は『武士の献立』で、それぞれ見ました。

(注5)最近もこんな記事が産経新聞に掲載されました。



★★★☆☆☆



象のロケット:想いのこし

インターステラー

2014年12月06日 | 洋画(14年)
 『インターステラー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作(注1)は、『ダラス・バイヤーズクラブ』でアカデミー賞主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒーが出演するというので、映画館に行ってきました。

 本作の時代設定は近未来。
 地球上の穀物は大砂嵐(注2)の影響で疫病に冒され、食料供給に大きな問題が生じるとともに(注3)、このまま推移すると、大気中の酸素濃度が低下して人間が住めなくなってしまいます。



 NASAは、ブランド博士マイケル・ケイン)を中心にして、人類が居住可能な新たな惑星を宇宙に探すことを極秘裏に計画し、すでに12名の宇宙飛行士を探査に向かわせ、その内の3人から居住可能な新惑星発見の連絡が入っています。
 そこで、NASAは、クーパーマシュー・マコノヒー)をパイロットとし、ブランド博士の娘のアメリアアン・ハサウェイ)を含む3人の科学者たちから成るクルーを宇宙船に乗せて、それら3つの星に向かわせることにします。



 果たして、クーパーたちは3つの惑星にたどり着くことができるのでしょうか、そして人類はその惑星に移住できるでしょうか、………?

 ワームホールやブラックホールを突き抜けたりするなど、わかりにくいところはずいぶんとありますが、ワームホールを通り抜けたり、物凄い大波が主人公らの宇宙船に襲いかかる惑星があったりと、興味深い映像が次々に映し出され、169分もの長尺ながらも、結構面白く見ることが出来ました(注4)。

(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)

(2)本作は、なんだか、およそ1年前に見た『ゼロ・グラビティ』の後日譚のような印象を受けました。
 宇宙に投げ出されてしまったベテラン宇宙飛行士のマット・コワルスキージョージ・クルーニー)を、地球に帰還したライアン・ストーン博士サンドラ・ブロック)が探しに行ってワームホールかブラックホールかで出会って地球に連れ戻してくるお話、というような感じがするのです(注5)。

 とはいえ、
a.本作では、クーパーとアメリアとのラブストーリーがメインではなく(注6)、クーパーとその娘のマーフとの父娘の情愛がメインで描かれています。
 クーパーが宇宙から戻ってきて高齢のマーフに会うと、マーフは「私は帰ってくると信じていた。パパが約束したのだから」と言いますし、クーパーも「だから戻ってきた」と言うのです。

b.また、『ゼロ・グラビティ』は、ほとんどのシーンが宇宙空間でしたが、本作では地上のシーンの割合がかなりあります。
 例えば、『ゼロ・グラビティ』の冒頭では、宇宙船の外で作業をしている宇宙飛行士らが映し出されますが、本作の最初の方では、穀物畑の中にあるクーパーの家の様子が描かれます。
 特に、マーフがクーパーに、「部屋の本棚から本(7注)が自然に落ちる。幽霊がいるんだ」と言いますが、父は全然取り合いません。
 その後、窓から吹き込んだ砂の有り様から地図上の座標を読み取ったクーパーは、NASAの秘密基地を突き止めます。

c.さらに言えば、『ゼロ・グラビティ』では、マット・コワルスキーがヒューストンの管制官と交わす交信内容などが大層ユーモアに溢れていて面白かったところ、本作でもクーパーが軍用ロボットTARSと交わす会話が面白いとはいえ(TRSにはユーモアがプログラムされています)、全体として随分と生真面目に制作されているように思われます。
 なにしろ、独りライアン・ストーン博士の地球帰還が描かれている『ゼロ・グラビティ』とは違って、本作においては、人類全体の救出が問題となっているのですから!

(3)本作が取り上げている方面についてクマネズミの理解不足のために、ワームホールとかブラックホールといった事柄(注8)を抜きにしても、よくわからない点がいくつもあります。
 例えば、
a.本作では、NASA(アメリカ航空宇宙局)がプロジェクトの中心になっていますが、そうだとすると、大砂嵐によって穀物が取れなくなって大変な事態になっているのはアメリカだけのことのように思われます。
 でもアメリカだけのことなら、災害に見舞われていない国からの食料輸入によってアメリカは対応可能なのではないでしょうか(少なくとも、惑星移住を考えるまでもないように思われます)?
 ただ、本作では、穀物を冒す疫病の蔓延によって空気中の酸素の濃度が低下して早晩人類が窒息するから、他の星への移住が必要なのだとされています。それであれば、大砂塵は世界的なものとされているのでしょう(大気は国別に管理されているわけではありませんから!)。
 ですが、その場合には、アメリカが中心になってプロジェクトは進められるとしても、国連レベルの話でしょうし、プロジェクトには他の国の代表も参加することになり、いくらなんでもNASAが中心ということではなくなるのではないでしょうか(注9)?

b.ブランド博士はクーパーに対して、移住が見込める惑星に対して既に宇宙飛行士を派遣していると説明しますが、どうやら12の惑星に対して一人ずつしか送り込んでいないようなのです(例えば、マン博士も独りで冬眠していました)。
 でも、いくら地球の資源が乏しいとはいえ、そしてそれらの宇宙飛行士が極めて勇敢だとはいえ、単独でそんな厳しい目に遭わすのは非人間的であり(注10)、また目的も十分に達成されないのでは(問題に遭遇した時に議論できる相手がいないのですから)、と思えてしまいます(注11)。

c.クーパーは、アメリアをその恋人がいる惑星にむけ発進させた後、宇宙空間に放り出されたものの、目が覚めると「クーパーステーション」内の病院のベッドの上なのです。
 ただその間に、彼は異次元空間に入り込み、元の農場にあった家に戻ってマーフに会っているのです(実際には、お互いに次元が違うので、顔を合わせることはできませんでした)。
 一体いつの間に異次元空間を抜けだして、通常の空間の戻ることができたのでしょうか(注12)?

(4)渡まち子氏は、「人類の存亡をかけて宇宙へ旅立つ壮大なミッションを描くSFドラマ「インターステラー」。驚愕の映像と父娘愛のドラマで、169分の長尺をグイグイ引っ張っていく」として90点を付けています。
 前田有一氏は、「ノーラン監督はきっと無敵感に満ちたポジティブな人物なのだろうと、これを見ると強く思う。永遠の成長を信じて疑わぬその前向きな発想には敬意を払うが、そうした欧米的価値観はもはや時代遅れ」なのであって、「激しくかけ離れた価値観にちょいと白けさせられるクリストファー・ノーラン最新作であった」として55点を付けています。
 相木悟氏は、「哲学っぽい内容ながら、普遍的な感動を呼ぶスペース・エンターテインメントであった」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「圧巻の映像、マコノヒーをはじめとする役者の魅力を味方につけて観客の心を奪う。目の前の現実を突破して高みを目指そうとする、主人公の、監督の野心のうねりの中に身をひたす快感といったら。ああ、今、自分は映画を見ている。そんな喜びを感じさせる一本だ」と述べています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「見渡すかぎりのコーン畑もCGでなく、実際に牧場に種をまいて育てたという。黒澤明もびっくりのアナログぶりだが、その生々しい手触りが人間ドラマを支える」として★3つ(見応えあり)をつけています。



(注1)本作の監督・脚本・製作は、クリストファー・ノーラン
 以前の作品としては、『メメント』〔この拙エントリの(2)を参照〕や『インセプション』、それにバットマン・シリーズ(残念ながらブログにレビュー記事をアップしませんでした)を見ています。
 最近では、製作総指揮の『トランセンデンス』を見ています。

(注2)ダストボウルと類似の現象のように思われます。ただそれは、天災ではなく人災とされ、また特定の期間(1931年~1939年)に、特定の地域(米国のグレートプレイン)で引き起こされたものです。

(注3)「小麦の次にオクラがやられ、コーンもまもなく枯れる」などと言われています。

(注4)最近では、主演のマシュー・マコノヒーは『MUD-マッド-』、ヒロインのアン・ハサウェイは『ワン・デイ―23年のラブストーリー』、ジェシカ・チャステインは『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(シーリア役)、マイケル・ケインは『グランド・イリュージョン』(アーサー・トレスラー役)、マット・デイモンは『プロミスト・ランド』で、それぞれ見ました。

(注5)それに、両作は、SF物というとお定まりの宇宙人(あるいは異星人)的な存在が描かれないという点も類似するように思われます。
 尤も、本作では、「“彼ら”」とされる者が存在するようにも言われています。でも、具体的な形姿を伴って画面に現れることはありません(もしかしたら、より進化した人類なのかもしれませんし、あるいは、単にラッキーな出来事を引き起こした原因を擬人化してそのように言っているだけなのかもしれません)。

(注6)本作の場合、妻を病気で亡くしているクーパーがアメリアに恋心を抱くにしても、アメリアには恋人のエドマンズがいるのであり、さらに彼が既に死んでいることについても、クーパーは知らないのです。



(注7)驚いたことに、このサイトの記事では、本棚から落ちた本がどういうものであるか詳しく記載されています(その中のT.S.エリオットの『四つの四重奏』については、この拙エントリの「注7」で触れたことがあります)!

(注8)このサイトの記事が参考になりました(特に、ブランド教授が引用するディラン・トマスの詩について)。
 さらに、同サイトで紹介されているこのサイトに掲載されている図は非常に興味深いものがあります。
 なお、『パシフィック・リム』でも「時空を超えて他の天体とつながる通路」が取り上げられていました〔同作に関する拙ブログの(3)のハをご覧ください〕。

(注9)ただ、世界的な規模のプロジェクトとすると映画が複雑になりすぎるので、そんなことは十分に承知のうえで、こうした設定になっているのでしょう。

(注10)単独で送り込むこともさることながら、行ったきりで帰還を考えないというのは、片道の燃料しか積載していなかったといわれる神風特攻隊にも似た無謀なプロジェクトのように思えます。

(注11)まあ、ラストでクーパーも、軍用ロボットTARSだけを連れてアメリアのいる惑星に向かうのですが。

(注12)よくわかりませんが、クーパーが発見されたのが、ワームホールかブラックホールの中だったために、次元を渡り歩くことができたのでしょうか?あるいは、その頃には、マーフがブラッド教授の方程式を解いていたために、人類は次元をまたぐことのできる技術を持っていたのかもしれませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:インターステラー

紙の月

2014年12月03日 | 邦画(14年)
 『紙の月』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)東京国際映画祭での話題作(注1)ということもあり、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、賛美歌が聞こえるカトリック系の中学校の教室に独り机に向かって座っている女生徒の姿。机の上には1万円札が5枚並べられていて、彼女はそのお金を封筒に入れます(注3)。
 次いで、時点は1994年となり、通勤電車の中で立っている梨花宮沢りえ)と夫の正文田辺誠一)の二人。新聞を読んでいた正文が、「じゃあ」と言って先に電車を降ります。



 さらに、場面は変わり、わかば銀行の制服(外回り用)に着替えた梨花が、自転車に乗って、顧客の平林石橋蓮司)の家に行きます。
 梨花は「4年目になって、パートから契約社員になりました」などと言い、国債の利点を説明します。「それじゃあ買うよ」と言った平林が、お茶を淹れようと台所に行った梨花の後を追うと、丁度彼の孫の光太池松壮亮)が顔を出します。
 梨花が銀行に戻って平林と契約出来たことを告げると、支店次長の井上近藤芳正)が褒めてくれます。
 他方で、支店のベテラン事務員の小林聡美)が、窓口のテラー・相川大島優子)に事務ミスを指摘し注意します。
 そうこうするうちに、19年勤務したベテラン事務員(梨花の前に平林を担当していました)の送別会が終わり、電車に乗ろうと駅に行くと、梨花は偶然光太に出会います。
 これが一つのきっかけとなって事件が引き起こされるのですが、果たして事態はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作で主人公が引き起こす事件は、これまでも類似の事件が何度もマスコミを賑わせていますから、それほど新鮮味はありませんし、まして、男に貢いで破綻してしまった女というように主人公を捉えてしまえば、TVのワイドショーを見ているも同然になってしまいます。とはいえ、本作はほんの少し別の角度から見ることもできるような気がして、その意味からしたらなかなか面白いなと感じました。

 主演の宮沢りえは、『謎解きはディナーのあとで』での印象が強かったので期待したのですが、さすがに素晴らしい演技で見る者を魅了します。
 また、大島優子は、この記事を読むと散々ながら、本作での演技はなかなかのものであり、今後が十分に期待されます(注4)。

(2)上で触れた本作の冒頭のシーンで、中学生の梨花が机の上にひろげていたお金は、その後のシーンから、父親の書斎の机に置かれていた財布から抜き取ったものであることがわかります。梨花は、それを封筒に入れて、教室の後ろに設けられている募金箱の中に入れるのです。
 元々、そのお金は貧しい国の子どもたちに贈られるのですが、学校の方では、大きな金額の寄付をしてひけらかしたりしないよう、あくまでも慎ましく行うように生徒に言っていました。
 最初のうちは、寄付を受け取った貧しい子供たちからお礼の返事が来て、読んだ女生徒たちが喜んだりしていましたが、そのうちに熱気が冷めて募金に皆の関心がなくなってしまいます。
 そんな時に梨花が5万円もの大金を投入したために、募金のプログラムは中止になってしまいます。
 梨花はそれが不満で、皆の前で、「何がいけないのかわかりません」とシスターに反論します。

 このエピソードは、原作では小さな扱いに過ぎず、またその意味合いも本作とは違っている感じがします(注5)。
 反対に本作では、冒頭と終わり近くとラスト間際という極めて重要な場所に、一つのエピソードがわざわざ3つに分割されて描き出されていて(注6)、まるで、梨花が事件を引き起こした動機はこれだよと言っているような感じを受けます。

 ここからはいい加減な議論に過ぎませんが、クマネズミには、梨花は、効率的に使われておらず眠っているお金があったら、それをもっと良い目的に向けて効率的に使っても構わない、という考えを持っているように思えました。
 中学生の時のエピソードについては、寄付を受け取った子供たちからの手紙を読むことが嬉しく幸福になるのであれば、それをもっと味わうために、必要なさそうに無造作に投げ出されている財布からお金を掠め取っても何の問題もないのではないか、と梨花が考えたような気がします。

 それと同じように、梨花は、スグに露見してしまうことは十分に承知のうえで、「社会常識」を投げ打って、束の間の自由の気分をお金をふんだんに使って(注7)味わってみたかったのではないでしょうか(注8)?

 さらに言えば、至極細かい規則でがんじがらめになっている金融機関の現場では(注9)、ちょっとしたきっかけから、主人公のような派手に「自由」を求める女性(注10)が現れてもそんなに不思議ではないように思われ、特に、映画『25 NJYU-GO』が参考にしたと思われる「長野年金基金横領事件」では24億円もの横領事件でしたから(注11)、金額的にもありうることではないかと思います(注12)。

(3)渡まち子氏は、「平凡な主婦が起こした巨額横領事件の顛末をスリリングに描くドラマ「紙の月」。堕ちていくことによって自分を解放するヒロインを宮沢りえが好演」として65点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「目前の大金が紙切れの月ほどにも実在感のなかった日々の息苦しさや不満を逃れるように、大金横領に走った主婦に満たされるものはない。その不満からの解放を求めるにはひたすら駆けるしかないだろう」などとして★3つ(見応えあり)をつけています。
 北小路隆志氏は、「お金は善意や悪意を持たず、空っぽな神である。そして梨花は身近にお金に触れることで、それが誰のものでもないと知ってしまい、終わりなきお金の運動の化身となるのであって、彼女のアクション=行動も善悪の彼岸にある。本作は、現代資本主義への優れた考察でもある」と述べています。



(注1)今回の東京国際映画祭で、本作は「観客賞」を、主演の宮沢りえは最優秀女優賞を受賞しました。

(注2)本作の原作は、角田光代著『紙の月』(ハルキ文庫)。
 監督は、『クヒオ大佐』、『パーマネント野ばら』、『桐島、部活やめるってよ』の吉田大八

(注3)その中学生が後の梨花となるようです。
 また、机の上には、貧しい男の子の写真が置かれていますが、その頬に大きな傷があります(同じ傷痕を持った青年に、ラストで梨花はタイで出会うことになります!)。

(注4)俳優陣について、最近では、宮沢りえは『謎解きはディナーのあとで』、池松壮亮は『海を感じる時』、大島優子は『闇金ウシジマくん』、小林聡美は『マザーウォーター』、田辺誠一は『ジーン・ワルツ』、近藤芳正は『WOOD JOB!(ウッジョブ)』、石橋蓮司は『ふしぎな岬の物語』で、それぞれ見ました。

(注5)原作では、第4章の「岡崎木綿子」の節で6ページにわたって書かれているに過ぎません。それも、梨花が募金プロジェクトに投入しているお金は「月に50万とも100万ともいわれていた」とされ、贈った先も「6人」とされています。なぜそんなにまでするのかという岡崎木綿子の問に対し、梨花は、「(寄付をもらった)子が一生(感謝をしなければならないという)重荷を背負うのなら、私は一生この子の面倒を見なければならない。私のできる範囲内でそうしなければならない」と答えます(文庫版P.205)。

(注6)上記の「注3」で触れた青年のシーンまで加えると4つに分割されています。

(注7)梨花は、「お金は偽物であり、本物に見えて本物じゃない。偽物だから壊してもいい。そう思ったら“自由”になった感じ」とベテラン事務員の隅に語ります。



(注8)それも、かなりお金を貯めこんでいる老人の平林とか、認知症気味のたまえ中原ひとみ)や外車を買ったり世界一周クルーズに行こうかと言ったりしている夫婦らに、偽の預金証書を掴ませてのことなのですから、お金の一層の効率的な使い方と梨花には思えるのではないでしょうか?

 特に、光太は、平林について、ケチで自分の学費も出してくれない、そのためサラ金から150万円も借りてしまった、と梨花に打ち明けます(尤も、平林老人に言わせれば、「あいつは借金まみれで、金をたかりに来る。あいつに金を渡すくらいなら、女に使うよ」なのですが)。

 その光太ですが、原作によれば、彼の方から梨花に対して何度もアプローチしているのです(P.119とかP.135など)。その上で、「梨花が光太と関係を持ったのは、撮影現場に遊びにいくようになってから3ヵ月ほどのちのことである」(P.146)とされます(それも光太の部屋で)。
 他方、本作の方では、送別会があった日とは別の日の夕方、電車のホームの反対側にいた二人が互いに気がつくところ、梨花の方が光太がいるホームにやってきて、二人は同じ電車に乗り込み、スグにラブホテルに入ってしまいます。



 まるで、梨花の方が光太を積極的に誘って関係を持ったような感じなのです。
 それに、光太に女子大生の恋人がいるとわかった際、なおも関係を続けようとする梨花に対して光太が「それは無理だよ」と言うと、梨花はいともアッサリと「じゃあおしまい」と宣言します。
 梨花は、こういう関係が長続きしないことを十分に認識しながら、あくまでも主体的に行動しているように見えます。

(注9)梨花には子供がおりませんし、また夫の正文が彼女の自由を束縛するような亭主関白でもありません。彼女が“自由”ではないと感じるとしたら、職場関係でしょう(尤も、嫌なら、辞めて元の専業主婦に戻ればいいだけのことですが)。
 なお、原作では、もう少し梨花の夫のことが書かれています〔「正文は言葉数は少ないが、おだやかでやさしい男だった」(P.69)が、「夫婦間に「そういうこと」はまったくないままだった(P.95)〕.。

(注10)ラストの会議室の場面で、ベテラン事務員の隅が梨花に対して、「お金なんてただの紙切れ。でもお金で“自由”は買えない。あなたが行けるのはここまで」と言うと、梨花は、近くの椅子を手にして窓ガラスを叩き割り、そこから外に飛び出して走りに走ります!
 そして、日本を飛び出してタイに現れます。
 原作では、当局者が現れて「パスポートを拝見させてもらってもいいでしょうか?」と言い、梨花は「ここまでだ。これで終わりだ」と梨花は観念しますが(文庫版P.348)、本作のラストでは、警官が市場に現れるものの、梨花は姿をくらましてしまい、捕まったかどうかわかりません。本作の範囲内では、“自由”のままではないでしょうか?
(尤も、元々、あのような事件を起こした梨花が、無事に日本を出国できたとは考えにくいところではありますが)

(注11)事件の現場は銀行ではありませんし、犯人も男性ながら、梨花と同様にタイに逃亡しました!

(注12)このサイトの記事を読むと、本作と類似の事件が過去に何度も起きていることがわかり、驚きます。



★★★★☆☆



象のロケット:紙の月

0.5ミリ

2014年12月01日 | 邦画(14年)
 『0.5ミリ』を有楽町スバル座で見てきました。

(1)この映画については、先般同じ映画館で『太陽の坐る場所』を見た際、ロビーに置いてあるチラシで知りました。
 その後、フジテレビの『ボクらの時代』(この動画)、BS朝日の『ザ・インタビュー』、テレビ朝日の『徹子の部屋』などで本作の主役を演じる安藤サクラ(注2)を立て続けに見たこともあって、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は高知県。
 主役のサワ安藤サクラ)は介護ヘルパーをしていて、老人の昭三織本順吉)の面倒を見ています。
 ある日、その家の主婦・雪子木内みどり)から、「おじいちゃんと一緒に寝てあげて」と頼まれます。
 サワは、支払いは十分すると言われたこともあり、2階で添い寝することに同意しますが、その夜、昭三がしつこくサワに迫ってくるので払いのけたところ、足元に置かれていたストーブが倒れて火事になってしまいます。
 慌てて階段を1階に駆け下りると、何も言葉を喋らない子供のマコト土屋希望)が、首吊り自殺した母親・雪子の死体を呆然と見上げている始末。
 そんな事件に巻き込まれたサワは派遣会社をクビになり、寮も追い出されてしまいます。

 サワが高知の街をあてもなく歩いていると、カラオケ店をホテルと間違えてフロントで言い合いをしている康夫井上竜夫)に遭遇します。
 うまく店員(東出昌大)と話を付け、カラオケをしながら一晩楽しく騒いだサワは、康夫から感謝され、彼のコートと1万円を手にすることに。



 そこから、サワの老人を巡る遍歴が開始されるのですが、さあ一体どんなことになるのやら、………?

 本作には認知症気味の老人が何人も登場し(注3)、また主役のサワ(安藤サクラ)はヘルパーで、そうした老人を介護したりするのですが、決して今の介護制度の問題点といったものを描いている作品ではなく、まさにキャッチコピーが言うように「前代未聞のハードボイルド人情ドラマ」となっています。特に、主演の安藤サクラの演技が奔放さと繊細さに溢れて実に素晴らしく、さらには老人役の津川雅彦や坂田利夫らがしっかりと脇を固めているために(注4)、196分とかなりの長尺ながら、おしまいまで大層面白く見ることが出来ました。

(2)本作のタイトルになっている「0.5ミリ」ですが、一体何を意味しているのでしょう?
 この点に関しては、サワが「おしかけヘルパー」をすることになる元教師の義男津川雅彦)が、サワ宛に作成したカセットテープの中で、「それが集結して同じ方向に動いたのが革命だ」と言っていたと思います。
 ただ、これではよくわかりませんから、原作に当たってみました。
 すると、文庫版には、「極限に追い込まれた人の輝きは極限状態を凌駕し、自己の実存として覚醒され、それは山をも動かす事となる。その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度の事かもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである」とあります(P.174)。
 「山」の捉え方がよくわからないところがあるとはいえ(注5)、作者の安藤桃子は、どうやら人の心“そのもの”を「0.5ミリ」と見ているような気がします。

 さらに、監督の安藤桃子に対するインタビュー記事を読んでみました。
 例えば、この記事では、「監督にとっての0.5ミリは?」との質問に対し、監督は、「答えは無限大にあるものだと思っています。……ですから、自分の0.5ミリを押しつけたくないっていうのはありますが、自分自身としては、0.5ミリは「心の尺度」だと」、「「心の尺度」っていうものが、どこかに確かに存在するんだろうなって。それが、ちょうど “0.5ミリ”。産毛は触れますし、静電気も起きるし、体温も感じる。だけど実際に触れてはいない。1ミリの半分で、間の場所、中間地点のような気がしています」と答えています。
 この答えもよくはわからないのですが(注6)、あるいは心と心の間の“距離”といったものを指しているのかもしれません(注7)。

 心そのものなのか、心と心の距離なのか、いずれにしても「0.5ミリ」というタイトルには、皆が同じ方向にホンのちょっとだけ歩み寄れば世の中がうまくいくといったような意味合いが込められているのかもしれません。
 でもひねくれ者のクマネズミは、そうした解釈はとりたくありません(注8)。
 むしろ、人々が「0.5ミリ」づつ離れてテンデンバラバラの方向に歩いているというのが世の中であって、それでいいのではないかとも思っています。

 そうした観点から本作を眺めると、本作では、「0.5ミリ」という小さな心を持った個々の人間(あるいは、お互いに「0.5ミリ」の距離を置いて勝手な方向に動いている人々)も、一人ずつ拡大してみると決して同じではありえず、それぞれ実に興味深い点を持っている、といった有り様が描かれているように思えてきます。

 例えば、坂田利夫が扮するは、駐輪場に置いてある自転車を千枚通しでパンクさせたり、ベンガル扮する斉藤君に持ち金を騙し取られそうになったりするどこにでもいそうな認知症気味の老人ながら、自分できちんと整備した「いすゞ117クーペ」を隠し持っていたりするのです。



 また、元教師の義男も、定年退職して行く宛がないにもかかわらず、勉強会があると称して鞄を後生大事に抱えて家を出る生活を送っている老人です(注9)。ですが、彼は元海軍将校であり、認知症のレベルが上がってからも、サワに対して、「戦争くらい馬鹿らしいことはない。生きているのが不思議なくらい。戦争で亡くなった人たちは本当に気の毒。相手だってそうだ。なんのためにやっているのか。人間っておかしなものだ」などと長広舌をふるいます。



 こうした様々の老人たちのそれぞれ特色ある行状が、サワを演じる安藤サクラの類い稀なる演技(注10)と、監督の安藤桃子の素晴らしい構想力(注11)とによって、本作では実に的確に活き活きと描き出されていると思いました。

(3)渡まち子氏は、「どこからともなくやってきてどこへともなく去って行くサワは、風の又三郎、あるいはメリー・ポピンズのよう。この映画は、時に可笑しく、時に残酷で、それでも優しい、現代の寓話だ」として80点を付けています。
 山根貞男氏は、「介護という切実な題材を、ユーモラスな人情ドラマとして描き、介護とは何かにも迫る。そんなユニークな映画で、古い男物のオーバーを着た流れ者ヘルパーの主人公の姿には、おとぎ話の味わいもある」と述べています。
 外山真也氏は、「物語が物語を進めるのではなく、行動や画面の劇性によって物語れる技量も含めて、安藤桃子は希代のストーリーテラーである」として★5つを付けています。



(注1)本作の原作は、安藤桃子著『0.5ミリ』(幻冬舎、2011年10月)。
 本作の監督は、同じ安藤桃子(他に『カケラ』を製作していますが未見)。

(注2)安藤サクラについては、これまで『愛のむきだし』、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、『かぞくのくに』、『春を背負って』で見ています。
 その他、『ペタルダンス』はDVDで見ました〔この拙エントリの(3)を参照〕。また、『きいろいゾウ』には声の出演をしています。

(注3)尤も、東田勉氏による『認知症の「真実」』(講談社現代新書、2014年11月)によれば、「認知症」と一纏めに括ってしまうことに問題があり、少なくとも、原因と治療法が異なる4つのタイプ(アルツハイマー型認知症、前頭側頭型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症)に分けて考える必要があるようです。

(注4)出演している俳優の内、最近では、津川雅彦は『偉大なる、しゅららぼん』や『セイジ-陸の魚-』、柄本明は『幕末高校生』や『許されざる者』、草笛光子は『武士の家計簿』、東出昌大は『桐島、部活やめるってよ』、ベンガルは『みなさん、さようなら』で、それぞれ見ました。

(注5)最初に出てくる「山」は大きくて簡単に動かすことができなさそうなものでしょうし、次の「山」は「0.5ミリ」ほどのちっちゃなものという感じではないでしょうか?

(注6)「心の尺度」とは一体心の何を測る尺度なのでしょう?

(注7)こちらのインタビュー記事では、安藤監督は、「0.5ミリは、違う世代の人たちが歩みよれる、ちょうど真ん中にある尺度、心の尺度なんです」と述べています。
 また、こちらの記事でも、「触れない、けど静電気は起きるかも、体温は感じるかも、という距離」と言っています。
 さらに、この記事でも、「人との距離感の取り方とか、人とのコミュニケーションはどんどん掴みにくくなってくる。その距離感を測るのはどんなものなだろうと考えたら1ミリの半分の0.5ミリウぐらいだろうなと思ったんです。触れてはいないけど体温は感じる距離、そして静電気も起きる距離なんです」とあります。

(注8)例えば、太平洋戦争も、様々な要因があるとはいえ、国民が煽り煽られて同じ方向に突き進んだがために突入してしまったのではないでしょうか?尤も、その際に動いてしまった幅は「0.5ミリ」ほど小さなものではなかったかもしれませんが。

(注9)義男の妻・静江草笛光子)が、認知症で寝たきり。サワは、まずはその介護をするということで、義男の家に入り込みます。

(注10)例えば、書店で万引きをした義男に対して、その後ろから「セーラー服着てあげる」と言いながら覗きこむ時のサワの様子に感心しましたし、また、“少年”マコトの父親だという柄本明)がサワの足に触れるとその顔にまたがって気絶させたりもするのです!

(注11)例えば、本作の冒頭の昭三を巡るエピソードでは投げ出されたままになっている雪子の自殺とか“少年”マコトの不思議な感じについては、健を巡る最後のエピソードで説明されるのです。
尤も、十分な説明は与えられず、残余は観客側の想像に委ねられるのですが。



★★★★★☆



象のロケット:0.5ミリ