映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

セデック・バレ

2013年04月30日 | 洋画(13年)
 『セデック・バレ』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)本作は、台湾で大ヒットしている作品であり、それも戦前の台湾を扱ったものと聞いて、あるいは以前見て大変感動した台湾映画『非情城市』(1989年)のような雰囲気を持っているのかなと期待して、映画館に出かけました(注1)。

 舞台は、昭和初期の台湾の山岳地帯の一つの地区。
 1895年(明治28年)の下関条約によって統治することとなった日本は、台湾原住民(戦前は「高砂族」といわれていました)の抵抗を排除して、急速に台湾での支配を確立していきます。
 ただ、昭和初期になると、それまでの統治実績に自信があったのでしょうか(注2)、日本側は、自分たちを防護することにそれほど重きを置いていないように見受けられます(注3)。
 他方、原住民の方では、貧困などから日本に対する恨みがかなり積み重なっていました(注3)。
 きっかけは、日本人警察官と原住民の若者との乱闘騒ぎ。それを引き金として、原住民による反乱が勃発します。




 具体的に本作で取り上げられるのは、満州事変の前年に当たる1930年10月に起きた霧社事件
 台湾原住民の一つであるセデック族のおよそ300人が、頭目(注4)の一人モーナに率いられて立ち上がり、日本人の警察官のいる駐在所を襲撃したあと、運動会のために学校の校庭に集まっていた日本人約140名を虐殺したのです。



 映画の第1部「太陽旗」では、1895年に日本が統治するために乗り込んできたときから決起の日までが描かれ、第2部「虹の橋」では、彼らが3,000名近くに増強された日本の警察と軍隊によって鎮圧されるまでが描かれます。

 本作を見ると、遠くは、アメリカにおけるインディアンと騎兵隊の戦いなどに連想がいきますし、近くは、この間のアルジェリア人質事件など様々な事件が思い起こされるところです。
 でも、そんな現実的な面よりも、モーナ達決起したセデック人が守ろうとしたのがあくまでも自分たちの「狩り場」であり、勇者として死んで「虹の橋」を渡って祖先の仲間に入ろうとセデックの人たちが望んだという点に(注5)、クマネズミは歴史ロマンを感じました。

 とはいえ、何しろ2部作の合計で4時間半以上かかる長尺で、いろいろ興味を惹くものが画面に登場してこないと相当の忍耐が必要になるわけながら、とどのつまりは日本による台湾統治期に起きた原住民による反乱を描くだけですから(注6)、全体として酷く単調な感じになってしまいます(注7)。

(2)勿論、本作に、日本による戦前の植民地政策の問題点を感じる見方もあるでしょう。
 例えば、映画評論家の山根貞男氏は、4月19日付朝日新聞に掲載された「原住民の目に映る愚行」と題する映画評において、次のように述べています。
 「アジアの映画人が結集した大作といえよう。その映画的な力のもと、画面には、大自然の豊かさ、原住民のおおらかさ、彼らの文化の素晴らしさが充満するが、それだけに、戦いの残酷さは際立つ。ことに後半、山岳地帯を走り回って勇壮に戦う原住民が、大砲はおろか空爆や毒ガスまで用いた日本軍に追い詰められ、女性たちが集団自決に至るくだりは、戦争という人間の愚行を生々しく描」いている。
 「それにしても、我々日本人には痛い映画である。アクション映画の面白さを満喫するからこそ、そう感じる。後半、日本の巡査になり日本名を名乗る若い原住民2人が、戦う両方の側に引き裂かれて苦悩する。その姿は我々に通じるといえば、いい気なものだとセデック族の戦士に罵倒されようか。現代史に根ざしたそんな活劇である」。

 「原住民の目に映る愚行」というタイトルとか(注8)、「我々日本人には痛い映画である」や、「セデック族の戦士に罵倒されよう」といった文章からは、戦前の日本統治に対する山根氏の強い反省の念がうかがえるところです。

 しかしながら、本作で描かれる霧社事件は、既に80年以上も昔の出来事です。歴史的な事実として、もっと客観的に見た方がいいのではないかな、と思われます。
 さらに、この映画を制作した(ウェイ・ダーション)監督も、「「これは時代が作り出した過ちだ」と言えるようにしたかった」などと述べているように、特定のイデオロギーに立って映画を撮ったわけではないように考えられます(注9)。

 そこで、この点についてクマネズミは、次のフリー・ジャーナリストの福島香織氏の見解に、まだしも同感します(注10)。
 同氏は、『日経ビジネス』オンラインの2011年10月5日の記事で、次のように述べています。
 「自分の目で前後編を見た上で言えば「セデック・バレ」は抗日事件を題材にしながらも反日映画ではなかったと思う。誤解を恐れずに言えば、むしろ親日映画かもしれない。さらに言えば、ひょっとすると反中華映画かもしれない」。
 「映画の最初の「霧社事件を改変している」と字幕で説明しているように、歴史の真実を訴える映画でも、歴史を解説する映画ではないだろう。また、戦争の非人道性や日本統治時代の過ちの批判をメーンテーマにした映画でもなさそうだ」(注)。
 「この映画が親日映画ではないか、と感じるのは、原住民の抗日事件を描きながら、靖国神社や武士道に象徴される日本人の感性を台湾人が理解していることをそこはかとなく表現しているからだ」。

 要すれば、本作は抗日事件を題材にしながらも戦争の非人道性や日本統治時代の過ちの批判をメーンテーマにした映画ではない、ということでしょう。
 クマネズミもそう思いましたが、でもさらに言えば、福島氏のように、「抗日」「反日」「親日」「反中華」といった言葉をことさら持ち出すこともないのではないか、と思いました。

 いうまでもなく、本作には日本軍や日本人警察官が登場し(注11)、かなり蔑んだ態度をセデック族の人々に対してとったりしますが、原住民の領域に乗り込んでくる外国人部隊がどこでもとった態度の範囲を出ていないように見受けられます。
 他方で、モーナ―が決起を決断するに際しては、森の奥にある滝の前で、日本軍討伐隊との戦いで死んだはずの父親の姿を見、父が「お前はセデック・バレ(真の人)だ」と言うのを聞き、最後に一緒に歌を歌う様子が描かれます(注12)。
 また、実際には、日本軍戦死者は22人とごくわずかだったにもかかわらず、本作では、モーナたちに機関銃をいくつか奪われたりして、相当の数の日本兵が殺されます。

 こんなところからも、本作は、虐げられてきた民族が武器をとって反逆の狼煙を上げながらも結局は打ち負かされてしまうというファンタジックな歴史ロマンの一作ではないかと思えたところです(注13)。




(注1)台湾映画はあまり見ておりませんが、本作を制作した魏監督の『海角七号/君想う、国境の南』とか、さらに『モンガに散る』を見ています。
 また、台湾を舞台とする映画としては、邦画『トロッコ』が印象的でした。なお、同作に登場するのと似たトロッコが、本作では、日本軍の兵員や武器の輸送に使われています!

(注2)例えば、本作でもちらっと映し出されますが、「蕃童教育所」における日本語教育。「お父さん」「お母さん」などを黒板に大書して、原住民児童に繰り返し言わせています。
 『日本語教育と近代日本』(多仁安代著、岩田書院)によれば、台湾原住民に対する「日本語教育は、本島人(漢族系台湾人)より成果が上がっていたというのが定説になっている」ようです(同書P.104)。
 なお、同書によれば、「蕃童教育所」は警察が所管するもので、「警察官が執務のかたわら日本語や礼法を教えたのが始まりらしい」とのこと(「修業年限は4年で、教科目は修身・国語・算術・図書・唱歌・体操など」)。 また、台湾人に対する日本語教育の機関としては、もう一つ総督府学務部所管の「国語伝習所」があったようです。

(注3)各地に設けられた警察組織の中にも、セデック族を取り込んでいたりします。映画では二人描かれますが(花岡一郎と花岡二郎:ただし、兄弟ではありません)、花岡一郎は師範学校を卒業しています。二人とも、日本の取締当局と反乱を起こしたセデック族との間に立たされて悩み、結局は自決してしまいます。
 なお、上記「注2」にあるように、彼らは「蕃童教育所」で教鞭もとっています。
 また、花岡二郎の妻の役には、母親が台湾原住民のビビアン・スーが扮しています。

(注3)映画で描かれているのは、例えば、森林伐採に携わる原住民に支払われる賃金の低さ。

(注4)セデック族は10以上の(社)に別れていて、霧社事件で決起したのは6社。モーナは、そのうちのマヘボ社の頭目。

(注5)劇場用パンフレットに掲載の「STORY」には、セデック族の信じていることとして、「先祖から受け継いだ狩り場」において「鍛錬をし、顔に刺青を入れることによって真のセデック族になってこそ、死後は祖先のいる虹の橋を渡ることができる」とあります。

(注6)幻想的なシーンを取り入れたり、歌と踊りの場面が挿入されたり、ある程度の変化は付けられているのですが。

(注7)2時間半に短縮されたインターナショナル版の方がクマネズミには良かったのかもしれません。

(注8)尤も、タイトルと評論の中身(「戦争という人間の愚行」との得ているに過ぎません)とがズレている感じですが。

(注9)「映画「セデック・バレ」を製作した目的は?」との質問に対して、魏監督は、「歴史を語ることで恨みを解きたいと考えた。歴史とは本来、非常に難解で、遺憾なことも多い。映画を通じて歴史を理解し、その時代の見方に立って、当時の人々の環境や立場を考えてほしいと思う。理解して初めて和解がある。霧社事件では、先住民族と日本人が文化と信仰の違いから誤解が生まれ、衝突した。衝突の原点に戻らなければ原因は分からない。「これは時代が作り出した過ちだ」と言えるようにしたかった。物事は善悪だけでは判断できない。日本側も先住民族側も完璧であるはずがなく、複雑な要素が絡み合う。「日本を好きか嫌いか」という簡単な質問では答えられない複雑な気持ちを分かってほしい」などと答えています〔2011年10月20日(木)付『毎日新聞』掲載―このサイトの記事に再録されています〕。

(注10)また、このサイトの記事でも、次のように述べられています。
 「中国大陸でよくある“愛国的”な視点では、決してない。もちろん、過去の日本の所業を無批判に受け入れているのでもない。セデック族の生活と昔ながらの考え方を、まずは「人としての誇りの問題」としてとらえているが、「現代社会では、とても受け入れられない伝統」ということも、よく分かる。歴史の流れの過程で発生した悲劇を、数々な残虐な出来事を含めて冷徹な視点で描写した作品だ」。

(注11)日本人の警察官役として安藤政信木村祐一が、日本側の最高司令官として河原さぶが出演しています。



 また、『海角七号』似出演していた田中千絵が、安藤政信扮する日本人警察官の妻の役で出演しています。

(注12)歌い終わると、モーナの父親は、滝壺の中に消えていきます。

(注13)それでも、立ち上がったセデック族の若者が、戦いの不利を悟って次々と自死する様には(その妻たちも、足手まといにならないようにと自死します)、かなり違和感を覚えました(生きて戦うことよりも死んで先祖の列に加わることの方に意義を感じているようなのです)。
 尤も、日本側の最高司令官も、本作のラストの方で、セデック族の戦い方について「我々が百年前に失った武士道の精神を見たのか?」と訝しがるくらいですから、その時よりさらに80年以上も経過してしまった現在、分かろうとしても無理なのかもしれません。




★★★☆☆




象のロケット:セデック・バレ第一部第二部

舟を編む

2013年04月24日 | 邦画(13年)
 『舟を編む』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)昨年の本屋大賞を受賞した際に原作本〔三浦しをん著『舟を編む』(光文社)〕を読んだことから、本作にも興味が湧いて映画館に出かけてみました。

 本作の最初の方の時代は1995年、舞台は出版社・玄武書房の辞書編集部。
 そこには、辞書監修にあたる老国語学者の松本加藤剛)や、ベテラン編集者の荒木小林薫)、それにヒラ編集者でフットワークの軽さが売りの西岡オダギリジョー)とか契約社員の佐々木伊佐山ひろ子)がいます。
 そんなところに、定年間近の荒川の後釜をどうするのかという問題が持ち上がり、西岡では頼りないため、他の部署に適任者を探しに行くもなかなか見つかりません。
 ですが、遂に、営業部にいる馬締松田龍平)が最適だということで貰い受けてきます。何しろ、彼は、大学院で言語学を学んだという経歴で、また荒木の質問にも辞書編集向きの返答をするのですから。
 馬締が加わり、辞書編集部は、見出し語約24万語の新しい辞書『大渡海』の編纂に走り出します。
 そんな中、馬締の下宿先に、大家(渡辺美佐子)の孫娘の香具矢宮崎あおい)が住むこととなり、たまたま彼女に出くわした馬締は、一目惚れしてしまいます。
 さあ、辞書の出版と馬締の恋はふたつながら成就するでしょうか、……?

 辞書の編纂という極めて地味な仕事、それも何回もの校正という根気のいる作業が中心の辞書編集部の様子をマジメに描き出しているにもかかわらず、それぞれのキャラクターがうまく練り上げられ、あまつさえラブ・ストーリーも絡み、石井裕也監督の作品としては、傑作『川の底からこんにちは』に次いで面白く見ることができました(注1)。

 主演の松田龍平(注2)は、これまでとはかなり違った難役ながら、持ち前の優れた演技力によって、なかなかうまくこなしています。



 また、『きいろいゾウ』で見たばかりの宮崎あおいも、馬締にいい具合に寄り添っているなと思います。



 さらに、久しぶりに見た加藤剛の辞書監修役は実に的確なキャスティングであり、さらにオダギリジョー(注3)もなかなかいい味を出していると思います。




(2)原作本を読んでいることもあり、映画との違いを少々書き並べてみましょう。
例えば、
・荒木の後継者探しに関し、原作本では、すぐに西岡が馬締を見つけ出してきますが、本作では、馬締とは対極的な人間に話を聞いてみるという手順を一度踏んでいます(注4)。このことによって、馬締が社内で特別な存在であることがすぐに観客に納得されるでしょう。

・本作では、契約社員の佐々木に言われて馬締は香具矢に対する恋文を書くことにしますが、原作本では、馬締が自発的に恋文を書いています(注5)。それも、いくらなんでも巻紙に毛筆で草書体でというわけではありません。でも、本作のようにすることで、誇張されたおかしみが醸し出されることになります。

・本作では、巻紙のラブレターに対し、香具矢は「どういうつもりでこんなの書いたの、読めると思ってるの、嫌がらせなの?」と怒り、「口から聞きたい」と馬締に詰め寄りますが、原作本では、香具矢は、馬締の部屋に入ると、すぐに「本格的に馬締の腹に乗り上げ」、「あんなに丁寧で思いのこもった手紙をもらって、来ないわけにいかないでしょ」などと言う始末(P.92~)(注6)。
 本作では、女だてらに板前修業をする香具矢のしゃきっとした性格がうまくとらえられていると思います。

・原作本では、『大渡海』の出版が中止になるかもしれないという噂が出た時に、既成事実を作ってしまおうと言い出したのは馬締ですが、本作ではその役割は西岡が担っていて、馬締の性格の単純化に寄与しています(注7)。

 以上のほんの少しの例示からもわかりますが、本作では、スクリーンで動き回るキャラクターが、それぞれ明確に性格づけされているだけでなく、笑える要素もいろいろ散りばめられていると思います。

 とはいえ、映画のように時点を具体的に明確にしてしまうと(注8)、例えば、最後の2010年の時点で、はたして辞書編集者は「用例採集カード」なるものを所持していたかどうか、疑問に思えます。
 まだタブレット端末がそんなに普及してはいないとはいえ、その時には小型ノートPCくらいあったでしょうから、それで簡単に用例採集を行えたのではと思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「主人公は、他者と交わることによって、キラめく言葉の海へと舟をこぎ出していった。淡々としたタッチで途方もない情熱を描く、奥ゆかしい秀作である」として70点をつけています。




(注1)石井裕也監督の作品を評価することにかけては人後に落ちないつもりながら、ただ、前作の『ハラがコレなんで』はちょっと受け付けませんでした。
 なお、これまで挙げた作品の他には、『あぜ道のダンディ』とか『君と歩こう』〔それ以前の作品に関しては、この作品のエントリの(3)をご覧ください〕をクマネズミは見ています。

 そうした関係で本作について不満を言えば、『川の底からこんにちは』の木村佐和子(満島ひかり)とか、『あぜ道のダンディ』の宮田(光石研)、『ハラがコレなんで』の光子(仲里依沙)のような、はちゃめちゃに頑張るもののなんだかどこかヘンというような人物が登場しなかったような点でしょうか。
 いうまでもなく本作の馬締は、「はちゃめちゃに頑張るもののなんだかどこかヘン」なことは間違いないものの、どうもこれまでの石井作品の登場人物とはやや違うような感じがします。それというのも、馬締は、恋愛と辞書作りの二つとも上手いこと達成してしまい、「どこかヘン」の部分が帳消しになってしまうためではないでしょうか。

(注2)松田龍平は、最近では、『まほろ駅前多田便利軒』とか『探偵はBARにいる』、『I'M FLASH!』で見ています。

(注3)オダギリジョーは、このところ、『マイウェイ 12,000キロの真実』とか『悲夢』『Plastic City』といった外国映画で活躍していて、邦画では目立つ役に就いていない感じです。

(注4)雑誌編集部の編集者(浪岡一喜)に、「右」についての説明を求めたりします。

(注5)「口では言えないなら、文章にすればいい。そう思いついた馬締は、超特急で本日の仕事を片付け、便箋に向かってうなっているところだった」(P.73~P.74)。

(注6)もちろん、原作本でも、香具矢は馬締の恋文をうまく読みこなせず、「大将には、『俺ぁ漢文なんざ読めねえよ』って言われるし、先輩は笑うばっかりだし」と、店の人にラブレターを見せたことをバラしてしまいます(P.93)。

(注7)原作本の場合、「おまえ、けっこう駆け引きのできるやつだったんだな」と西岡に言わしめています(P.61)。

(注8)劇場用パンフレットの原作者インタビューで、三浦しをん氏が「原作では時代設定をぼかしているんですよ」、「私は時代を曖昧にしちゃったんですよね」と述べています。





★★★★☆



象のロケット:舟を編む

君と歩く世界

2013年04月22日 | 洋画(13年)
 『君と歩く世界』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)ウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』に出演して魅力的だったマリオン・コティヤールの主演映画というので映画館に出かけました。

 舞台は、南フランスのリゾート地・アンティーブ(コート・ダジュールに面しています)。
 そこにあるマリンランドのシャチ調教師・ステファニー(マリオン・コティヤール)は、シャチのショーに出演しているときに、ステージが壊れてしまい水中に投げ出され、シャチに両足を食いちぎられるという事故に遭遇します。
 そんな悲惨な目に遭遇したステファニーは、絶望に陥ってしまいます。



 ですが、彼女は、暫く入院していた病院から家に戻るとアリマティアス・スーナーツ)という男に電話をかけます。
 事故の前にステファニーがナイトクラブで騒ぎを起こして怪我を負ってしまった際、そこの用心棒だったアリに助けてもらったことがあり、そのときの彼の姿に何となく心が惹かれるものを感じたのでしょう。
 そのアリはステファニーの家にやってくると、嫌がるステファニーを外に連れ出し、海岸に出ます。
 さらに、彼が「泳ぎたい、君もどう?」と言って泳ぎだすのを見て、ステファニーもたまらず「私も泳ぐわ」と言い出します。アリは、彼女を抱えて海に入りますが、暫くすると、ステファニーは一人で泳ぎ出します。
 アリは、5歳になる息子サムを連れて姉のいるアンティーブにやってきたものの、夜警の仕事くらいしかなく、ときおり賭の格闘技試合に出場したりしています。



 こんなアリと両脚のないステファニーとの関係は、いったいどのように展開していくのでしょうか、……?

 ストーリー自体なかなかよくできていると思います。ただ、それもさることながら、本作は、やはりコティヤールが見ものではないかと思いました(注1)。



 なにしろ、『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』(2007年)でアカデミー賞主演女優賞を受賞した彼女が、両足のない姿(CG処理によって可能となっています:注2)を画面に見せているわけで、さらには性的シーンにも意欲的に挑んでいます。
 本作を見ると、同じような年格好(38歳)で最近評判の吉瀬美智子とか中谷美紀などは、まだまだ甘いのかなと思えてきます(日本の俳優は、総じて外国人俳優に比べたら随分と甘えている感じがするところです)。

(2)本作は、誰もが感じるところながら、そのシチュエーションが、大評判の『最強のふたり』(注3)に類似していて、あるいはその女性版かといった感じがします。
 まず、『最強のふたり』では、スラム街出身で元気いっぱいの黒人ドリスと首から下が麻痺した大富豪フィリップのコンビが登場するのに対し、本作では、格闘技に長けた屈強の男アリと、車椅子の生活を余儀なくされているステファニーのコンビという訳です。
 さらに、『最強のふたり』では、フィリップの気持ちなどお構いなしに、ドリスは最初からいきなりフィリップを普通人扱いし続けるところ、本作でも、アリはステファニーを海岸に連れて行くと「泳ごう」といって海に入れてしまいます。

 また、DVDで見た『ソウル・サーファー』(2011年)にも類似している点があります。
 この映画では、13歳の少女ベサニーが、ある日突然サメに襲われて、左腕を肩のすぐ下のところから食いちぎられてしまいます(注4)。
 本作のステファニーの場合は、マリンランドで買われているシャチに襲われたとはいえ、その両脚の傷痕はベサニーの傷痕とよく似ています(この映画の場合も、CGによって上手く画像処理がなされています:注5)。

 本作が、これらの作品と違う点は、『最強のふたり』についていえば、例えば、アリには5歳になるサムという息子がいて、それが彼の生きがいになっていることでしょうし、また、『ソウル・サーファー』のベサニーは、片腕の姿でサーファーとして甦り、全国大会で上位入賞を果たしたりしますが、本作のステファニーの場合、事故の後はショーから全く離れてしまいます。

 とはいえ、一番違うのは、本作の場合、男女の愛情関係描かれている点ではないかと思います。
 このことに関連して、監督・脚本のジャック・オディアール氏と共同脚本家のトーマス・ビデガン氏は、原作本のクレイグ・デヴィッドソン著『Rust and Bone』〔(邦訳『君と歩く世界』(峯村利哉訳)集英社文庫〕について、「ステファニーとアリというふたりのキャラクターは、この短編集には登場しない。僕たちはデヴィッドソンの短編集からアイデアを引き出し、それを出発点として新しい物語の中に彼らを織り込んでいった」と述べています(注6)。

 そんなことを踏まえると、本作に対しては、ステファニーの悲惨な事故の方にどうしても目が向けられてしまうものの、両足をなくして不安にさいなまれるステファニーと、朴訥で一途のアリとの関係が、突然の電話で始まって、紆余曲折を経たあと、最後に「俺を見捨てるな」「見捨てないわ」に至るまで、実に入念に描かれている点にこそ注目すべきなのではと思いました。

(4)渡まち子氏は、「オスカー獲得後、ハリウッドでも大活躍のマリオン・コティヤールだが、本作ではほぼすっぴんでハンディキャップを持つヒロインという難役を好演している。南仏の輝く海の陽光や空気感もまた大きな魅力だ」として70点をつけています。



(注1)コティヤールのインタビュー記事については、例えば、こちらを。

(注2)この点については、この記事が参考になるでしょう。

(注3)この映画は映画館で見ているものの、クマネズミの怠慢によってブログに記事をアップしませんでした。

(注4)『ソウル・サーファー』では、片腕をなくして傷心のベサニーが、2004年のスマトラ沖地震津波に襲われたタイのプーケット島にボランティアとして行き、地元の子供たちにサーフィンを教える場面がとても印象的です。

(注5)この点については、この記事が参考になります。

(注6)邦訳本を当たってみると、本作は、同書の中の「君と歩く世界」と「ロケットライド」という2つの短篇について、「名前や性別や国境や舞台を変え、新たな世界観を作り上げて映像化し」ていることが分かります(邦訳本の「訳者あとがき」P.395)。
 なお、前者においては、テキサス州生まれのエディが語り手で、賭の格闘技の試合を戦っているところ、その最中に過去のことを思い出します(その中の一つとして、5歳の甥っ子ジェイクが氷の張った湖に落ちてしまう15年前の事故―その結果、ジェイクは20歳になっても植物人間状態のままです―のことが語られます)。
 また、後者においては、カナダ人のそれも男のシャチ調教師ベンジャミンが語り手で、シャチに左足を食いちぎられたことなどを語ります(他には例えば、両腕のないハイジと知り合いになるものの、「腕がない」ことが気になってすぐにわかれてしまいます)。



★★★★☆



ヒッチコック

2013年04月17日 | 洋画(13年)
 『ヒッチコック』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)本作は、60歳のヒッチコック監督が『サイコ』を制作した際の経緯を描き出しています。

 映画では、まず、映画『サイコ』の原作小説の素材となった殺人事件が再現されます。
 そこに、ヒッチコックアンソニー・ホプキンス)が登場して、「ごきげんよう、撲殺された兄も驚いたことでしょう、石に頭をぶつけたんだという弟の話を警察が信じたのですから」などと、紅茶のカップを手にしながら、いつもの調子で話します。
 そして、タイトル・クレジットが流れ、『北北西に進路を取れ』が上映される映画館にヒッチコックらが入って行く場面に。
 ただ、「60歳だともう引き時では?」などという声がかけられ、また新聞に掲載された批評でも、「クライマックスが退屈」と書かれる始末。
 これに対して、ヒッチコックは、皆の鼻を明かすべく新企画用の素材を必死で探します。
 そんな中で、誰もが対象となり得ないとした長編小説『サイコ』を、ヒッチコックの嗅覚が探り当てます。
 さあ、新企画の映画はうまく制作されてヒット作となるのでしょうか、……?

 本作の主役はヒッチコックとなっているものの、実質的な主役は彼の妻アルマヘレン・ミレン)でしょう。なにしろ彼女は映画『サイコ』のキャスティングに関与し、「女優は最初の30分のうちに殺すことよ!」と言ったり、ラストの場面は脚本家でもある彼女の手にかかるもので、また観客に衝撃を与える映画の作りも彼女の編集の才能によるところが大きかったように、映画の中で描かれているのですから。
 それに、本作では、妻アルマが、夫ヒッチコックが映画に出演する女優に色目を使うのを苦々しく思っていたところ(注1)、脚本家のウィットフィールドダニー・ヒューストン)と親しくなって、ヒッチコックに強い嫉妬心を抱かせたりもするのです(注2)。

 まあ要すれば、大ヒットした映画の背景にはヒッチコック夫妻の強い絆があったというところなのでしょう。
 ただ、せっかく映画『サイコ』を持ち出すのですから、本作自体のラストにも観客をアッと驚かす仕掛けがあったらなと無い物ねだりをしたくなってしまいます。

 ヒッチコックに扮しているのがアンソニー・ホプキンスだということは見る前に知っていましたが、その妻アルマを演じるのがヘレン・ミレンで、さらには映画『サイコ』にマリオン役で出演するジャネット・リーに扮するのがスカーレット・ヨハンソンだとは知らずにいたので驚き、本作を見るのが俄然楽しくなりました。

 アンソニー・ホプキンスは、既に76歳ながら相変わらず達者な演技で、もともとそんなにソックリさんになる必要はないことながら、メイクもよくできており、ヒッチコックになりきっている感じです(注3)。



 ヘレン・ミレンは吉永小百合と同じ年ですが、本作でも水着姿でプールに飛び込むなど頑張っています(注4)。



 こうした二人を見ると、洋画では年配の俳優が主役級でかなり活躍しているのに(注5)、邦画ではあまり見かけないなという印象を持ってしまいます(注6)。

 なお、スカーレット・ヨハンソンは、このところ『幸せへのキセキ』を除いてあまり目立たない感じでしたが、本作ではその魅力を十分に振りまいています。




(2)ところで、本作は、映画『サイコ』の舞台裏を探究したスティーヴン・レベロ著『ヒッチコック&メイキング・オブ・サイコ』(岡山徹訳、白夜書房、2013年3月)(注7)に基づいて制作されています。
 ただ、メイキング物としたら通常はドキュメンターとなるところ、本作では、原作本に存在しない「脚本家ウィットフィールド」が登場することからも分かるように、かなりの脚色がなされていて、それ自体が劇映画となっているのです(冗談ながら、本作のメイキングすらも考えられるところです)(注8)。

 確かに、映画『サイコ』はヒッチコック監督の最大ヒット作ですから(注9)、どんな経過で制作されたのかは大層興味深い点です。
 とはいえ、それをわざわざ劇映画で描くというのはどうでしょうか(スティーヴン・レベロ氏の本で十分では)(注10)?
 でも、映画制作者はそうは考えなかったのでしょう。
 あるいは、その映画に盛り込まれている様々の斬新なアイデアがどんなところからやってきたのか(創造の秘密!)、という点に興味があったのかもしれません。
 というのも、一つは、映画『サイコ』の原作小説の素材となった殺人事件の犯人エド・ゲインの映像が何度も本作では映し出されるからですが。あるいは、ヒッチコックの夢の中に、エド・ゲインが何度も現れたのかもしれません。
 でも、そんなことは原作本には書かれていないことです。
 加えて、ヒッチコックの夢については、『定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー』(晶文社、1981年)のなかで、彼自身が、「あまり夢はみないな。……ときどきだね……それも、ちゃんと筋のとおった、まともな夢しか見ない」と言い(邦訳本P.269)、インタビュアーのトリュフォーも「あなたの作品には夢の影響が強くあるのではないかと思って質問してみたのですが、この夢談義からは、率直に言って、期待した成果が得られないことがよくわかりました」と匙を投げています(邦訳本P.270)。

 また、本作においては、上でも書きましたように、映画『サイコ』を巡る重要な事柄には妻アルマの役割が大であったとされています(注)。
 でも、この点もまた、ざっと読んだにすぎませんが、原作本ではそのように書かれてはおりませんし、仮にそうであれば、今度は妻アルマのことをもっと仔細に描き出さなくてはいけなくなるだけのことでしょう。
 それに元々、そんな天才的なアイデアがどうやってもたらされたのかなど、本人以外にはうかがい知れないものではないでしょうか(あるいは、本人でも分からないことかもしれません)?
 これまでも、例えば、『マーラー 君に捧げるアダージョ』では、マーラーの音楽的才能の因って来るところが、また『これでいいのだ!!』では赤塚不二夫のギャグ漫画の素晴らしさの背景が描かれたりしているものの、その創造の秘密に分け入ることはできなかったのではないでしょうか?

 ということから、本作の見所は、ヒッチコックとアルマとの愛情関係ということになりそうですが、それがごく他愛のないものとなると、本作に対するクマネズミの評価も大したものにはなり得ないところです。

(3)渡まち子氏は、「描かれるのは、コンプレックスや嫉妬心、殺人や倒錯を嗜好する異常性。さらに、公私ともに強い絆で結ばれた夫婦の葛藤を浮き彫りにするアプローチが新鮮だ」などとして65点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「自分を日陰者と感じている主婦とか、あるいはいわゆるフェミ的な思想を持って男社会に不満をもっている女性とか、そういう人にはぴったりだ」が、他方「映画ファンにとっては再現された未公開の「サイコ」撮影セットをみて、有名な殺害場面の撮影風景について想像を膨らませたり、レーティングや製作費における対立で監督自ら相手方とやりあう様子を楽しんだり、相変わらず唯我独尊の役作りで、本人とは似ても似つかないけれどそれなりに魅せてしまうアンソニー・ホプキンスの演技に注目するといいだろう」などとして40点をつけています。




(注1)映画『サイコ』にマリオンの妹役で出演するヴェラ・マイルズジェシカ・ビール)について、本作のヒッチコックは、「『めまい』の主役に抜擢したのに、妊娠したと言われた。なぜ、私を裏切るのだ!スターにしたかったのに、主婦になったのだ」とジャネット・リーに話します。
 さらにヴェラに対しても、ヒッチコックは「グレース・ケリーのようなスターにしたかったのに」と言いますが、彼女は「あなたのブロンドの大スターは幻想よ」と答えます。
 下記の「注7」で触れる『ヒッチコック&メイキング・オブ・サイコ(改訂新装版)』では、「マイルズは、「『めまい』でスターダムにのし上がるチャンスをうしなったことを達観してこう語っている。「ヒッチコックは自分の映画を生んで、わたしは自分の子供を生んだのです」」と述べられています(邦訳書P.120)。

(注2)二人は、海辺に設けられているウィットフィールドの秘密の別荘に行ったりしますが、ウィットフィールドが期待しているのが、自分の手掛けている脚本の手直しとヒッチコックへの売り込みに過ぎないことが分かると、アルマの熱も一遍に冷めてしまいます。

(注3)本作の前には、『恋のロンドン狂騒曲』に出演しているのを見ました。

(注4)『RED/レッド』や『終着駅―トルストイ最後の旅』など、着実に映画に出演してきている感じです。

(注5)女優で言えば、他にも、『007 スカイフォール』に出演したジュディ・デンチ(78歳)とか、これから公開される『カルテット!人生のオペラハウス』に出演したマギー・スミス(78歳)など、偉い人たちだなと思います。

(注6)女優で言えば、樹木希林(70歳)とか吉永小百合(68歳)くらいではないでしょうか?

(注7)原書は1990年に出版され、その邦訳本も『ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ』として同じ年に出されています。ただ、今書店で並んでいる邦訳本は、原書が、著者の新しい序文入りで本年再刊されたのに合わせて、『ヒッチコック&メイキング・オブ・サイコ(改訂新装版)』として発刊されたものです。

(注8)メイキングを劇映画にしたものとして最近作としては、例えば『マリリン』が挙げられるでしょう。その映画では、映画『王子と踊り子』の制作状況が描かれており、なおかつ監督・主演のローレンス・オリヴィエも登場しますが、あくまでも焦点はミシェル・ウィリアムズが扮するマリリン・モンローに当てられているので、本作とはかなり性格の違った作品と言えるでしょう。

(注9)このサイトの記事を見ると、なるほど『サイコ』の興業収入が他のヒッチコック作品を圧倒していることが分かります。

(注10)スティーヴン・レベロ氏の本が1990年に出版され、その後2004年に2人のプロデューサー(2人は本作の「製作」にも名を連ねています)から映画化の話が持ち込まれたようですが(上記「注7」で触れるスティーヴン・レベロ氏の本の2012年の「序文」によります)、それからおよそ10年経過し、本作まで実現することはありませんでした。




★★★☆☆




象のロケット:ヒッチコック

フランシス・ベーコン展

2013年04月15日 | 美術(13年)
 東京国立近代美術館で開催されている『フランシス・ベーコン展』を見てきました。
 クマネズミは、これまでフランシス・ベーコンの絵はわずか1点しか見ておりませんから(注1)、今回のように30数点をまとめて見られるというのは実に幸運なことでした。

 本展で展示されるベーコンの絵については、一方で、朝日新聞編集委員・大西若人氏が、この4月10日の夕刊紙上で、「ベーコンが描く衝撃的な人物像は、現代の自画像ではないか」、「そのリアルさゆえに、見る者に深く浸透してくる」などと述べているように、高く評価する向きがあります(注2)。
 また、他方で、「僕は『フランシス・ベーコン展』を見て三度笑った」と豪語する評論家もいます。

 実のところ、画集などでベーコンの絵にはこれまで随分と触れているところ、展覧会で実際の絵を見たら果たしてどんな感じになるのかな、ということもあって美術館に出向いた次第です(注3)。

(1)実際に見てみると、例えば、1952年の『叫ぶ教皇の頭部のための習作』などを見ると、なかなかの迫力であり、なんの先入観なしに見た当時の人たちはかなりの衝撃を受けたのではないかと想像されます。



 また、今回の展覧会では、第3章「物語らない身体 1970s-1992」において、「三幅対(トリプティック)」(一つの作品が3枚の絵から構成されています)が4点も展示されています。印刷物ではある程度知っていたものの、実際に見るとこんなに大きなものなのかと驚きました(注4)。

 なお、ベーコンは、絵と見る者の間にガラス板を置くことによって、両者の間に距離をとろうとしたようで、ガラス板と金縁という額装がなされている絵がかなり展示されています。これは、明るい色調の絵の場合はそれほど問題ありませんが、暗い色調の絵の場合、照明が反射したり見る者が写ったりして、かなり見づらくなってしまいます。そんなことも、実際に展覧会に出かけなければ分からなかったことでしょう。

(2)全体としてなかなか面白い展覧会だと思いましたが(酷く貧弱な感想しか持てませんでしたが)、あえて文句を言うとしたら、展示されている絵画に付された解説のひとつに不満を持ちました。
 1983年の作品『人体による習作』に関するものです。



 この絵について、「この身体に頭が見当たらないのは、特定の個人ではなく、あらゆる人間に共通する死をこそ描こうとしているためでしょう。だからこそ、私たちは本作をとおして自らの死を思うのみならず、親しい人たちの死をも考えることになるのです」と、『展覧会カタログ』のP.92には書かれています(注5)。

 その際には、「扉のを回すというモチーフ」を、ベーコンの1967年の作品『イザベル・ロースソーンの三つの習作』(注6)や、1971年の『三幅対 ジョージ・ダイアを偲んで』の中央パネルに見出し、特に、後者については(本展覧会には出品されていませんが)、「ダイアは、おそらくベーコンのアトリエか、あるいは自死したホテルの部屋へと続くであろう扉の鍵穴に鍵を差し込んでいます。このダイアの右腕は本作においても反復されています。そこでは、死へと向いつつあるまさにその移行が扉と鍵穴に託されています」と述べられています。



 また、「のモチーフ」については、T.S.エリオットの『荒地』の一節(注7)がベーコンの念頭にあったことを語っているとして、「ベーコンが死を強く連想していたことが分かります」と述べられています(注8)。

 こうした説明は、この絵についての情報を増やすわけでもあり、それなりに意味があるのでしょう。
 でも、絵にまつわる単なる一つの物語に過ぎないのではないでしょうか?
 なにより、この絵は、本展覧会の第3章「物語らない身体 1970s-1992」のカテゴリーの中に収められているのです(注9)
 にもかかわらず、なぜ、この絵について「死をこそ描こうとしている」と予め決めつけ、それを他の絵を参照しながら物語ってしまうのでしょうか?
 この絵だけを見れば、ジョージ・ダイアのことなど思い浮かびませんし、また頭部がないことが普遍的な死を想起させるわけでもないでしょう。
 この絵を見て、見る者に「死」のことしか思い浮かばせないのであれば、貧弱な連想しかもたらさないどうしようもない作品としか言えないのではないでしょうか(注10)?

 こうした一方的な解説が、公共的な美術館で展示される作品に付されることについては、かなり疑問を感じざるを得ないところです。




(注1)本ブログのこのエントリで申し上げたように、今回の展覧会でも展示されている『横たわる人物』(富山県立近代美術館)です。




(注2)例えば、著名なフランス哲学者ジル・ドゥルーズがベーコン論である『感覚の論理(1981年)』(山縣煕訳、法政大学出版局、2004年)を著わし、またフランスの作家のフィリップ・ソレルスも『フランシス・ベーコンのパッション(1996年)』(五十嵐賢一訳、三元社、1998年)でベーコンを論じたりしています。

(注3)というのは表向きのことであって、この展覧会へ行こうとする自分自身を振り返ってみると、ベーコンが描いた絵自体が本当に素晴らしいと思うからというのではなしに、むしろ、この画家にまつわって流されている様々な情報に突き動かされているな、自分はやっぱりミーハーにすぎないな、ということがよく分かります。
 もともと、作品を素の状態で鑑賞することなど、一般人にはとても出来そうもないのではないでしょうか?
 例えば、最近まで六本木の森美術館で開催されていた『会田誠展』にしても、かなりの評判でクマネズミも見に行きましたが、どうも、その前に会田誠氏についてのドキュメンタリー映画が公開されたり、彼の本も出版されたり、その特集記事が美術関係の雑誌に掲載されたりして、同展を見に行かなくてはという気にさせられてしまったのでは、と思わざるを得ないところです。

(注4)他に、小型の「三幅対」の絵が2点展示されています。その内の一つが、冒頭に掲げた『ジョージ・ダイアの三習作』(1969年)です。

(注5)豊田市美術館の学芸員・鈴木俊晴氏の担当部分。
 なお、この絵の右脇に張られているパネルにも同趣旨のことが書かれていました。

(注6)この作品は、今回の展覧会には出品されていません。



(注7)このサイトに記載されている翻訳では次のようになっています。
 「僕は鍵が 扉の中で回るのを一度聞いたことがある ただ一度だけ回るのを 僕たちは鍵のことを考える それぞれ牢獄の中で 鍵のことを考えて それぞれ牢獄を確かめる やっと夕暮れ時 あの世の噂が 滅びたコリオラヌスを 一瞬だけよみがえらせる」
 〔『荒れ地』(V. 雷の言葉(V. What the Thunder Said))から〕

(注8)ただ、上記「注2」で触れた『フランシス・ベーコンのパッション』において、ベーコンは当初、1978年の『ペインティング』という作品に「T・S・エリオットの名を結びつけようと考えた」が、最終的には「この対象関係を抹消することを選んだ」とフィリップ・ソレルスは述べています(邦訳P.121~P.122)。



 そうだとしたら、『展覧会カタログ』の解説のように、まともにエリオットを持ち出すのは如何かと思われるのですが!
 それに、同解説では、「このエリオットのフレーズには死者を想起する行(くだり)が続く」とあります。確かに、上記「注7」で引用したところからすると、古代ローマの伝説的将軍の「コリオラヌス(コリオレイナス)」が「死者」なのでしょう。でもエリオットの詩の場合、その死者を「よみがえらせる」のですから、はたして「私たちは本作をとおして自らの死を思うのみならず、親しい人たちの死をも考えることになる」のでしょうか?

(注9)『展覧会カタログ』の第3章についての解説(東京国立近代美術館学芸員・保坂健二朗氏が担当)では、例えば、「1970年以降のベーコンは、三幅対に積極的に取り組みました。しかも複数の空間と人物を描くにもかかわらずストーリーの発生を忌避していました」と述べられています。

(注10)この絵からは、早く扉の向こう側に入り込みたいとの願いから、頭部がドアの向こう側に入り込んでしまったとも受け取れますし、あるいは、頭部は下を向いているために隠れているのだとも受け取れるのではないでしょうか?
 さらにまた、ベーコンにおいて「」が描かれているのを見たら「死」を連想する必要もないことは、1978年の『ペインティング』に関し、上記「注8」に引き続く部分において、「この人物はドアを開けているのだとどうして言えるのだろう(ドアはドアではないかもしれないではないか)?この人物は、開いたドアを自分のほうに引っぱって遊んでいる、すなわち、閂の思いがけないヴァージョン、18世紀へのオマージュであるかもしれないではないか」などと、フィリップ・ソレルスが述べていることからも明らかでしょう(邦訳P.124)。
 〔なお、『感覚の論理』のなかでジル・ドゥルーズは、1978年の『ペインティング』で、扉の上に描かれている「金色がかった非常に美しいオレンジ色の円形の輪郭」に注目しています(邦訳P.14)〕
 そうです、1983年の『人体による習作』についても、そもそもそこに敷居と扉と鍵が描かれていると頭から決めつけてしまう必要もないのではないでしょうか?
 それに、「扉の」は、その部屋に入ろうとして使うばかりでなく、その部屋から人を導き出すためにも、その部屋に何かを隠すためにも、様々な用途に使われるものです。どうして、こちら側からあちら側への「移行」のためにものとしか考えないのでしょうか(こうした点は、映画で使われている「鍵」について触れている本ブログの例えばこのエントリの(2)を参照していただければと思います)?


千年の愉楽

2013年04月10日 | 邦画(13年)
 『千年の愉楽』をテアトル新宿で見ました。

(1)本作は中上健次の小説(1982年)が原作で、なおかつ、先般交通事故で思いがけず亡くなってしまった若松孝二監督の遺作ということで、映画館に足を運びました。

 舞台は紀州の海岸沿いにある漁村、そこにある「路地」と言われる被差別に住むオリュウ寺島しのぶ)という産婆が主人公。
 彼女は、「路地」の子供を沢山取り上げていますが、なかでも「中本の血」を引く3人の男のこと(注1)が忘れられません。死の床に横たわり、既に亡くなっている夫の礼如さん佐野史郎)の遺影写真に向って話しかけながら、昔のことを思い出していきます。
 3人の男(半蔵高良健吾三好高岡蒼佑達男染谷將太)は、それぞれ「中本」の血を引いているのでしょう、次々と若死にしていくのです。
 はたしてオリュウはどんな思い出話しを語るのでしょうか、……?

 映画では、全編に、中村瑞樹ハシケン(注2)の哀切きわまりない唄と三味線が流れ、時折映し出されるロケ地の尾鷲市須賀利町の海の風景が美しく、その中で若手俳優のうちでも評判の3人が登場するのですから、なかなかの見ごたえです。
 さらには、赤ん坊を取り上げる産婆オリュウを演じる寺島しのぶは、本作の物語自体を取り上げる産婆役としてもうってつけの演技を披露しているところです。




(2)ただ、原作が随分と特異な物語なため、その小説世界をよく知らない人がこの映画を見たらどんな感じになるのだろう、と思いながら見ていました。
 というのも、映画では、特段「路地」のことは説明されませんし(注3)、また3人の男に「中本の血」が流れていることが強調されて彼らが次々と若死にする様が描かれるものの、これはいったい何なのだろうと不思議な感じがしてしまうのではないか、と思いましたから。

 実際のところ、本作では、半蔵らが産み落とされるたびに「花の窟(いわや)」と称される巨岩が映し出され、彼らと日本古代神話との繋がりが暗示されたりしますし、また中村瑞樹&ハシケンによる音楽も、物語に幻想的な雰囲気を強くもたらします(注4)。

 とはいえ、映画で3人の男がリアルな俳優に演じられて画面に映し出されると、なかなか「中本の血」(注5)といったものは受け入れ難く、単に彼らが次々に死んでいく様が描かれているだけのことのように思えてしまいます。

 そんなところからクマネズミとしては、本作は、若松孝二監督の『実録・連合赤軍』や『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』などと同じように、現実の厚い壁にぶつかって虚しく死んでいきながら、にもかかわらずあくまでも壁に向かって突き進むのを止めない若者らを執拗に描き出している、と考えておきたいと思っています。

 確かに、一方で、半蔵の父親の彦之助井浦新)は、「親父が首吊ったのも、オジキの目が見えなくなったのも、中本の血がそうさせた」と言い、オリュウが「誰もが若死にだ、中本の男らの死に様を何べん見聞きしたことか」と言うと、礼如さんも「血から誰も逃れられない」と答えたりします。
 そしてやっぱり、半蔵は、関係を持った女の旦那に刺殺されてしまいます。



 また、三好は若くして自殺します。



 さらに、三好の死体を見た達男も、その後、北海道で暴動を起こそうとして殴り殺されたとの噂が流れます。



 ですが、他方で、半蔵は自分の顔(「中本の男の顔」)を小石で傷つけますし、その半蔵の死に様を見ていた三好は、「俺は、半蔵のようにはならない、中本の血など屁の河童だ」とうそぶきます。
 「中本の血」というものをよく知っていながらも、3人はそれぞれ、それに絡めとられまいと必死に抗ったようにみえます。
 こんなところは、世界革命を訴えながらも自壊していった連合赤軍派とか、自衛隊の決起を促すも失敗してこれまた消滅した「楯の会」といったものを想起させます。

 ただ、本作が『実録・連合赤軍』や『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』ではなく、むしろ『キャタピラー』とか『海燕ホテル・ブルー』に近いと思わせる点は女性の描き方です。
 なにより、本作で中心的な役割を果たすのは、『キャタピラー』で主役を演じた寺島しのぶが扮するオリュウであり、3人の男たちはオリュウによってこの世に取り上げられて以来、その掌の中で動き回ったようにも思われ(注6)、また『海燕ホテル・ブルー』でも梨花片山瞳)(注7)を巡って男たちが騒ぎ回るのです。

 こうして見ると、もちろん、若松監督にはそんなつもりはさらさらなかったでしょうが、本作は、最近の自作をある意味で集大成した作品ではないかと受け取れます。

(3)渡まち子氏は、「不慮の交通事故で唐突に逝った若松孝二監督の遺作になってしまったが、それが熱い政治を描くのではなく、人間の業を慈愛を持って描いた小品だったことは感慨深い」として60点をつけています。
 映画評論家の白井佳夫氏は、「日本の若者たちへの遺言の映画なのだ、と考えていい作品であろう、と私は思う」と述べています。
 読売新聞の近藤孝氏は、「本作と前後して撮影され、昨年公開された「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」に近いかもしれない。死へ向かう男と一体化し、ドラマをぐいぐい押し進めるのでなく、あっけない死と同時に聖性を帯びる男たちを、慈父のように見守る視線を感じるのだ。オリュウノオバのそれと重なるような」と述べています。



(注1)さらには、半蔵の父親・彦之助を入れるべきかもしれません。
 なお、原作では、彦之助が本作のように女に腹を刺されたようには描かれていません。
 あるいは、原作では、「女の恋人に刃物で斬られ」、「浮島のはずれのお堂の脇の小屋に、体中を布でおおった富繁がボロ布のようにうずくま」っているのを礼如さんが見る場面が描かれているところ〔『千年の愉楽』(河出書房新社)P.210〕、この中本富繁(彦之助の弟で、達男の父親)のイメージを、本作の彦之助に貼りつけたものと思われます。

 また、映画の中で言われている人々の関係を図示すると、次のようになるかもしれません。



(四角で囲った名前は、本作に登場する人物)

(注2)中村瑞樹は、奄美大島の島唄を歌う女性歌手であり、またハシケンは、『朱花の月』の音楽を担当したこともあるミュージシャン。

(注3)最初の方で礼如さんが、「世の中に貶められた路地」とか、彦之助が「穢れを背負わされた」などと言うものの、随分と漠然としています。
 原作小説では、例えば、「路地はオリュウノオバが耳にしただけでも何百年もの昔から、今も昔も市内を大きく立ちわる形で臥している蛇とも龍とも見えるという山を背にして、そこがまるでこの狭い城下町に出来たもう一つの国のように、他所との境界は仕切られてきた」などと書かれています(前掲『千年の愉楽』P.37)。
 さらには、『若松孝二 千年の愉楽』(遊学社、2013.3)に掲載の菅孝行氏の論考「〈路地〉の背景に広がるもの」が参考になるでしょう。

(注4)吉本隆明氏は、原作小説の世界を次のように述べています〔『マス・イメージ論』(福武書店、1984年)P.91〕
 「主人公たちはギリシャ悲劇やわが古典物語の主人公たちのように、卑小な小悪事にからまったり、女をだまし動物のような情交にふける日々の遍歴を、「路地」の世界を根拠地のようにして繰返しているうちに、次第に悲劇の頂きまでのぼりつめていく。そして頂きのところで、女たちのいざこざのはてに殺されたり、自殺したりして卑小な死を成し遂げて物語は終わる」。

(注5)原作小説では、例えば、「路地の中でも中本は歌舞音曲で日夜をついやして来た者らの血の澱みそのままに、汗して働いて飯を食う考えにうとく、世の中に取って食おうとする者らがいないというように腹に力が入らずそれで何をしても途中で嫌気がさし、食うものに事かくありさまでも浮かれて遊び酒を飲んでいたいし、女の脂粉のにおいの中につかっていたい」などと書かれています(前掲『千年の愉楽』P.48)。

(注6)達男はオリュウと性的関係を持つに至りますが、半蔵が大阪から連れてきたユキノや浮島の後家の初枝などと、また三好が亭主持ちの芳子などと親密になるのも、もしかしたらオリュウの身代りとしての女たちと関係を持とうとしたからから、と言えるかもしれません。

 なお、吉本隆明氏は、上記「注4」で触れた論考の同じ箇所において、「作品の世界で「オリュウノオバ」は古代やアジア的な世界を透視し、その世界に理念をあたえる最高の巫女のように存在し、世界を遍照する」と述べています。

(注7)片山瞳は、本作において、蘭子(強盗仲間が三好に紹介した女)を演じています。



★★★★☆




ベルヴィル・トーキョー

2013年04月08日 | 洋画(13年)
 『ベルヴィル・トーキョー』を渋谷のイメージ・フォーラムで見てきました。

 題名から「美しい街、東京」がある程度描き出されているフランス映画なのかなと思っていたところ、まるで違いました。

 映画の舞台はパリ(ある年の9月から翌年の2月まで)。
 冒頭で描かれるのは、これから出張でヴェネチアに行く夫ジュリアンを駅で見送る妻マリー(注1)。
 実は、彼女は妊娠しているのです。
 にもかかわらず、夫は妻に、「愛しているが恋心がなくなった。距離を置きたい」などと言って列車に乗って去ってしまいます。どうやら新しい恋人とヴェネチアで合流するようです。
 でも、暫くすると夫は彼女の元に戻ってきます。
 初めのうちは、当然のことながら妻も相手にしませんでしたが、夫が「前よりも愛するから許してくれ」などと言うものですから、一応は元の状態に戻ります。



 そうこうするうちに、夫はまた「トーキョー」へ出張するとのこと。
 夫の方からたびたび電話がかかってくるので妻は信用していたところ、偶然、パリ市内のカフェに夫がいるのを発見してしまいます。



 妻が密かに後を付けていくと、なんと「ベルヴィル」という街にある長距離電話格安店から電話をかけているではありませんか。
 さあ、二人の関係はどうなっていくのでしょうか?

 全体として妻の妊娠中に夫が浮気をした夫婦のお話であり、男性側からすると、なんとも他愛がない作品としかいいようがありません。
 また、39歳の女性監督エリーズ・ジラールの長編第1作ということで、なんだか映画学校卒業作品のような感じも受けました(映画の中で、ヴィスコンティ監督の『イノセント』の一部分が引用されたりします:注2)。

 なお、本作で夫婦を演じているヴァレリー・ドンゼッリジェレミー・エルカイムとは、かつて実生活でパートナーであり、昨年公開されクマネズミも見た『わたしたちの宣戦布告』においても夫婦役で出演していました(本作の方が前に作られていますが)。

(2)公式サイトには、「妊娠時期をシングルで過ごし情緒不安定な妻と、父親になることをなかなか受け入れられない夫のすれ違い」とあり、おそらく女性側のことについては、監督・脚本が女性によるものだけに、上手く描かれているものと思いますが、「父親になることをなかなか受け入れられない夫」の方はなんともはやという感じです。
 デルフィーヌという女性とヴェネチアで一緒だったようですが、ジュリアンは妻のマリーに理由を全く言いません(マリーが、「何故なのか理解できない、説明して」と言っても、答えようとしなかったり、「自分でも分からない」などと言ったりするだけです)。また元のようにやろうと言うだけです。
 にもかかわらず、今度は嘘を吐いて家を空けるのですが、妻に見つかるようなカフェに全く無防備に座っているのです。
 それに、子供が出来たら原稿を書く場所がなくなるからと、より広い家に移ろうと言い出したりします(追記:この点に関しては、下記の「milou」さんのコメントを参照してください)。
 とにかく、夫ジュリアンは、結婚して子供をもうけることについて責任を全く自覚しておらず、単なるでくの坊のように見えてしまいます。
 挙げ句は、「戻ってきたのは親切心からだ」と言ってみたり、妻がニセ出張のことを後からとがめると「知っていながら黙っていたのは酷い」などと開き直ったりするのですから、やっていられません。

 ただ、夫ジュリアンの行動に関し、エリーズ・ジラール監督のインタビューが掲載されているこのサイトの記事において、インタビュアーの上原輝樹氏が、「ジュリアンという男性が非常に不条理な行動ばっかりしているというか、女性からの視点が浮き上がっていて面白いと思った」と述べたのに対し、同監督は、「人生においても黒白がはっきりしていることばかりじゃないと思うんです、そういう意味でグレーゾーンというか、こっちでもあるし、あっちでもある、そういう多義性をもたらす方が正解だなと、人間ってそういうものじゃないですか」と答えています。
 でも、クマネズミには、「不条理」とか「多義性」といった言葉で把握される以前の無責任な行動のようにしか思えませんでした。



(注1)夫は映画評論家であり(「クロサワ論」などを書いているようです)、妻はパリ市内の名画座「Grand Action」に勤めています。

(注2)妻が勤める映画館で、夫がヴィスコンティについて講演をし、最後に「妻マリーに捧げる」と言って話し終えると、『イノセント』(1976年)の上映が始まります。
 ところが、『イノセント』には、主役のトゥリオ伯爵が、妻ジュリアーナの生んだ不義の赤ん坊を寒さに晒して殺してしまう場面があり、それを見て妻マリーは映画館を飛び出してしまいます。
 夫ジュリアンに彼女は、「わざとあんな映画を私に捧げたのね」と詰りますが、夫の方は、「映画の中の出来事に過ぎない。君は変わったね、以前なら映画にあんなに反応しなかったのに」と応じます。

 なお、本作では、『アレンジメント』(エリア・カザン監督、1970年)とか『イグアナの夜』(ジョン・ヒューストン監督、1964年)といったタイトルが会話の中に登場します。



★★☆☆☆



汚れなき祈り

2013年04月05日 | 洋画(13年)
 『汚れなき祈り』をヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

(1)本作は、見る機会の少ないルーマニアの映画だということと(注1)、出演した二人の女優がカンヌ国際映画祭で女優賞を受けたことから(さらに脚本賞も受けました)、見に行ってきました。

 本作は、ルーマニア正教会の修道院が舞台。
 幼い頃から、アリーナヴォイキツァとは孤児院で一緒に暮らしてきましたが(アリーナは一時、里親のところにいました)、ドイツへ行き(注2)、ヴォイキツァは修道院に入ります。



 ですがアリーナは、やはりヴォイキツァと一緒にいたいとルーマニアに戻り、修道院に出向きます。アリーナのつもりとしては、ヴォイキツァを連れ出してドイツで共に暮らしたかったところ、ヴォイキツァは修道院の生活で満足を得ていて、出たくないと言います。
 やむなく、アリーナは修道院に居つくことになるものの、次第に精神に失調を来してきます。
 果たして二人の関係はどうなっていくでしょうか、……?

 映画は殆どが修道院のシーンであり(特に、そこにいる修道女たちは黒い服をすっぽり被っているのです)、全体として酷く地味なものとなっています。



 とはいえ、ヴォイキツァを演じる女優コスミナ・ストラタンは、『彼女が消えた浜辺』でエリを演じたタラネ・アリシュスティにも似てなかなか魅力的であり、また、本作では、ルーマニア正教会の問題というよりも、むしろ、現代社会にも通じる集団内の問題が取り扱われているように考えれば、かなり興味が惹かれるところです。

 例えば、本作は、特定の集団内に束縛されている人を外部の人間が救い出す様を描いていると捉えてみてはどうでしょうか(注3)。
 あるいは言い過ぎになるかもしれませんが、ある集団に紛れ込んできたトリックスターとしてアリーナを看做しても面白いかもしれません(注4)。
 特に、アリーナは、修道院側が「至聖所」とみなしている聖堂祭壇の裏側に入り込んでしまい、大騒動を引き起こしたりするのですから(注5)。

(2)また、舞台となる修道院は人里離れた丘の上にあって、映画の冒頭で、アリーナと彼女を出迎えたヴォイキツァは、列車の駅からバスに乗り、更に徒歩で丘を登って、やっとのことで修道院に辿りつきます。
 乱雑な木の塀で囲まれている修道院の中には、木造の粗末な建物がいくつかあって、その内の一つが聖堂となっています。



 といっても、俗界と切れているわけではなく、周辺と繋がりを持ち、車で食糧が届けられたり、また危急時には町から救急車がやってきたりします(注6)。

 となると、この修道院がどのように維持されているのか不思議な感じがしてきます。
 というのも、この修道院は酷く財政状態が悪く、板に描かれた大切な宗教画も、十分な支払いができず途中で画家が逃げ出してしまったために未完成となり、今や井戸の覆いに使われている有様なのです。
 なおかつ、壁画がないという理由で、上位の僧侶(主教)も来てはもらえません。
 そうなると信者の拡大も図れず、その寄付を仰ぐといっても限度があるのではないでしょうか(様々な行事のたびに、周辺の信者がこの修道院の聖堂にやってきますが)。

 こうした事情もあって、この修道院では、現在収容されている以上の者をとても受け入れることができないようなのです(注7)。
 修道院の司祭(神父)(注8)は、アリーナを受け入れることに酷く難色を示しました(注9)。




 同じ事情は、アリーナやヴォイキツァが暮らしていた里親の家についても当てはまるようなのです(注10)。既に次の子供が来ていて、再度アリーナを受け入れることはできないと言われてしまいます。

 ヴォイキツァとしては、アリーナに修道院から出て行ってもらいたいと思っているのですが、無暗にそんなことをすると、彼女を寒空に泊まる場所もなしに放り出すことになってしまうことが分かっているのです。
 奇矯な行動を繰り返すアリーナに閉口した神父は、2人に修道から出て行くように言います。
 でもヴォイキツァは、自分も修道院の外に居場所が見つからないと分かっていますから、神父に、アリーナとともにこの修道院においてくれと懇願せざるを得ず、結局は悲劇がもたらされることになります。

(3) 中条省平氏は、「主題は宗教の独善と不寛容だが、これは特殊なカルト教団の出来事ではなく、人々の善意がかえって地獄への道を開くという、人間が作る集団。組織の本質的、普遍的問題を抉っている」と述べています。
 また、木下昌明氏は、「同じ孤児院で育った2人の若い女性が再会し、丘の修道院で暮らすようになる……。独裁時代は労働力として“産めよ増やせよ”の政策がとられたが、経済力が伴わず人々は飢え、子どもは捨てられた。マンホール生活をする子どもが大勢でた。映画はそんな負の遺産を背景に、主人公2人が「心に神」を求めて葛藤する姿をとらえている。心のよりどころを失った日本の若者にも通じて痛ましい」と述べています。
 さらに、柳美里氏は、「(同じムンジウ監督の)『4ヶ月、3週と2日』と『汚れなき祈り』のラストシーンの視線の遮り方は、「あ!」と小さな叫び声を上げるほど斬新で、スクリーンから突き飛ばされたような衝撃を受ける。2作共に殺人によって一つの命が奪われるのだが、死者によって告発されているのは、殺した者ではなく、観客席でただ見ているしかない私たちであるような居たたまれなさを感じるのだ」と述べています。




(注1)本作を監督したクリスティアン・ムンジウ監督の『4ヶ月、3週と2日』を2008年3月に銀座テアトルシネマで見たことがあります(同作は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞しました)。
 以下は、その際に記したメモ書きです。
 「映画の内容は、ルームメイトの中絶を助ける正義感溢れる女の子の話という実にシンプルでトテモ分かりやすく、ことさらなものは何もありません(話自体であれば10分程度の映画で済むでしょう)。ただ、それよりなにより、その単純なことを描き出す映像自体が実に素晴らしい出来栄えだと思いました。
 というのも、饒舌な米国映画と違って、何もしゃべらないシーンが長々とワンカットで映し出されることで、主人公の心の動きが返って大層リアルに手に取るように分かる感じがしますし、また、そのことによって、主人公の彼氏の家におけるパーティーの俗っぽさ加減も強調されます。
 さらに、潜りの医者の嫌らしさも、怒りで押し黙った主人公の様子からヒシヒシと感じ取れます(彼は、チャウセスク独裁体制下の状況を象徴しているのでしょう。あるいは、胎児の捨て場所を探しに主人公が夜の街を歩き回るシーンも、独裁政権が出した夜間外出禁止令の最中の都会を描いているのかもしれません)。
 一番のシーンは、ラストでルームメイトとレストランで対峙しているところです。お互い何もしゃべらないまま時間がどんどん過ぎていく様子が、二人の無限に拡大してしまった距離をトコトン表しているように思いました。」

(注2)この記事によれば、ドイツでは、最近トルコ系移民が減少し、ルーマニアなどからの移民が増えてきているようです。なお、ヴォイキツァによれば、アリーナは、普通のバーのウエイトレスとして働いていたとのこと。

(注3)誰でもが思い浮かべるのはオーム真理教事件にかかわるものでしょうが、他にも例えば、統一教会に入信した飯干景子氏を父親が救出する事件がありましたし、最近では、オセロの中島知子氏を占い師のもとから関係者が奪還するという事件もありました。
 本作においては、主に修道院側から描かれているために、悪魔にとりつかれているのはアリーナと思われてしまいますが、一般社会の側から見れば、修道士こそが宗教にとりつかれているとみなされるでしょう。

(注4)前回取り上げた『ザ・マスター』におけるフレディも、風貌や行動から、ある意味でトリックスターと言えるかもしれません。尤も彼は、教団「ザ・コーズ」に何ら影響を与えることなく立ち去ることになってしまいますが。

(注5)アリーナが、「そこに入れば願いがかなうかと思った。何もないのに嘘をついているのではないか。何かあるのなら見せて」と言ったために、神父は至聖所の中に入って「聖画」を取り出してきて見せますが、彼女は「何よこんなもの」と言って壊してしまいます(お稲荷様のご神体の石を投げ捨て、別の石に入れ替えたという福沢諭吉の話と類似するところがあります)。

(注6)最初にアリーナが暴れたときには、車で彼女を病院に運びこんで、さらに、アリーナが意識を失った時には、救急車によって病院に運ばれましたが、すでに死亡しておりました。担当した医師が、死因に疑義があると警察に通報したところから、事件が明るみに出ることになります。
 映画のラストも、本格的な取り調べが行われる警察署に神父たちを運ぶ車の中のシーンです。

(注7)とはいえ、アリーナの兄は受け入れたようです(この知的障害のある兄も、同じ孤児院にいたのですが、その後自動車清掃工場に行き、次いで修道院で働くことになりました)。

(注8)ヴォイキツァの話によれば、神父は30歳であり、発電所で働いていた時に天使を見たとのこと。なお、彼女は、神父のことを「お父様」とも呼んでいます(修道女長を「お母様」とも)。

(注9)神父は、「ここはホテルではない。また、信者でない者はここの生活を乱す」などと言います。

(注10)アリーナは、ドイツで稼いだお金を里親に預けていたのですが、病院での治療代などで使われてしまい、残っているのはごく僅かにすぎませんでした。




★★★☆☆



象のロケット:汚れなき祈り

ザ・マスター

2013年04月02日 | 洋画(13年)
 『ザ・マスター』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)本作は、ヴェネチア国際映画祭で様々の賞をとった作品だということと、フィリップ・シーモア・ホフマンの姿が見られるということで映画館に足を運びました。

 舞台は1950年代のアメリカ。
 職もなく彷徨い歩いていたアルコール依存症のフレディホアキン・フェニックス)は(注1)、中でパーティを繰り広げている船に密かに潜り込んでしまいますが、見つかってそのパーティを取り仕切っている男(フィリップ・シーモア・ホフマン)のもとに連れて行かれます。



 男は宗教団体の「ザ・コーズ」の主宰者(ランカスター・ドッド)で、皆にマスターと言われています。



 マスターは、フレディが飲んでいた自家製のアルコール飲料に興味を示し、彼を追い出すどころか、パーティ(彼の娘の結婚式)にも参加しろといいます。
 その後、フレディに対し、マスターは自分が開発した様々な治療を施したりして(注2)、二人の中は急速に深まっていきます。



 ですが、マスターの妻ペギーエイミー・アダムス)や娘婿らは、フレディに対しよそよそしい態度を取ります(注3)。
 マスターとフレディの関係はどう展開していくのでしょうか、……?

 本作では、『フライト』と同様アルコール依存症の主人公を取り扱っていますが、同作のようなあからさまに教訓的なテーマは盛り込まれてはおらず、またトム・クルーズが加入したことで知れるサイエントロジー教会類似のカルト教団を取り上げているものの、それは物語の背景であって、専ら、主人公のフレディとマスターとの激しいぶつかり合いが描かれていて、長尺ながらもその長さを見る者に意識させない充実ぶりです。
 本作は、第85回アカデミー賞の作品賞にはノミネートされなかったものの(注4)、ノミネートされた作品でクマネズミが見たものと比べても、格段に優れているのではと思いました。

 何にせよ、本作では、マスターに扮したフィリップ・シーモア・ホフマンの演技がすばらしく(注5)、冷静に考えればそんなに説得力があるとは思えない教義内容とか治療法を、一点の曇りもないような姿勢で展開する様を見ると、彼に傾倒する人々が増えていくのも分かるような気になってくるほどです。



 さらに、それに対するフレディを演じる主演のホアキン・フェニックスについては、『ウォーク・ザ・ライン』(2005年)でジョニー・キャッシュに扮したのを見ただけですが(注6)、本作ではこれまたホフマンに勝るとも劣らないものすごい演技で圧倒されました。



 彼らに並ぶと、本作で高く評価されたエイミー・アダムスも霞んでしまうほどです(注7)。




(2)フレディは、最初のうちは、自分を対等のものとして認めてくれたマスターに心酔して、その教義に異論をとなえる者を暴力で抑え込もうとしたりします(注8)。
 ですが、自分に施される治療法に効き目がなかったりすることなどから、次第に疑問を感じ出し(注9)、ついにはマスターのもとから離れてしまいます。
 フレディは精神的に病んでいるにしても、自己に忠実に生きているように思われます。

 こうした点から、フレディは、マスターが密かに抱え持っていた負の部分を人格化した人物(分身)のようにも思えてきます。
 マスターは、あるいは、フレディのように自分に忠実に生きてみたかったのかもしれません。強いアルコールを思い切り飲んだり、妻以外の女性と奔放な性的行為を行ってみたかったりしたかったのではないでしょうか(注10)?また、自分の教義の欠陥についても、マスターは十分に自覚しているのではないでしょうか(注11)?
 でも、結婚して家族を持ち、また大きくなった教団を抱えてもいますから、そのようなことはできませんし、教義を放り出すわけにもいきません。
 そんなところから、手に負えないとうんざりしつつも、離れ難いものをマスターはフレディに感じていたものと思われます(注12)。

 ラストの方で、マスターはフレディを自分の元に呼び寄せます。
 そして、「ここを去るなら二度と会いたくない、しかしここに残ってもいい」とフレディに言いますが、フレディは「たぶん次の人生で」と答えます(注13)。
 最後に、マスターは、フレディに対して優しく「中国行きのスローボート」(注14)を歌うのですが、この場面は、一緒にやって行きたいんだが君が嫌だって言うんなら仕方がないな、といった感じが溢れていて、実に素晴らしいものがあります(フレディの方も、マスターの気持ちが分かり、目に涙を浮かべます)。

 ただ、実際には、マスターはフレディを迎え入れたいのに対し、フレディはマスターのもとから完全に離れることによって、過去の束縛から解き放たれて自分自身を取り戻すことができたように思われます(注15)。

(3)渡まち子氏は、「新興宗教団体を舞台に人間の心の闇をえぐる「ザ・マスター」。PTAの作品は見る側にも力を要求する」として75点をつけています。



(注1)映画の冒頭で、上陸用舟艇らしき船から鉄兜を被った顔をのぞかせて遠くを見つめていたり、また艦内用ラジオからマッカーサーの演説が流れてきたりしますから、フレディは、太平洋戦争で日本軍相手に戦ってきたものと思われます。
 その戦争の影響でしょう、彼は、度数がきわめて高いアルコール飲料を自分でブレンドして飲むに至るほど、アルコール依存症に陥っています。
 また、ロールシャッハ・テストを受けると、どのカードについても、強い性的な反応を示してしまいます(さらには、海岸で仲間と憩っている時も、砂で象られた女の体に対し、卑猥な行為をしてしまったりするのです:この時の映像は、その後も何回か流れます)。

(注2)例えば、マスターは「プロセシング」と称する治療法をフレディに施します。
 その際マスターは、フレディに、瞬きをせずに直ちに質問に答えさせます。例えば、人を殺したか(日本兵を)、父親は(酒におぼれて死んだ)、母親は(精神病院にいる)、親類と性行為をしたか(叔母と)、何回か(3回)、後悔していないか(いない)、「影の支配者」のメンバーか(違う)、共産党か(違う)、などなど。

(注3)マスターが家族と食事をしている際に、家族はフレディについて問題を指摘します。
 娘婿のクラークは、「フレディはザ・コーズの熱心な仲間じゃない、スパイだ」と非難しますし、娘のエリザベスは、「彼がそばにいると不安」と言い(実は、その前にフレディの手を触ったりしたのですが)、妻のペギーも、「彼が何者か分からない、私たちの破滅につながる」と申し立てます(ぺギーも、自身でいろいろフレディに働きかけるのですが、何の効果も上がりません)。
 ここら辺りは、組織に闖入した余所者に対する一般的な反応でしょうが、あるいは、エリザベスやペギーについては、自分らの働きかけが功を奏さないのに対する苛立ちの表れといえるかもしれません。

(注4)アカデミー賞及びゴールデングローブ賞では、主演男優賞(ホアキン・フェニックス)、助演男優賞(フィリップ・シーモア・ホフマン)、そして助演女優賞(エイミー・アダムス)の3部門でノミネートされました。

(注5)フィリップ・シーモア・ホフマンについては、最近では、『スーパー・チューズデー』や『マネーボール』を見ましたが、本作では、『カポーティ』(2005年)における演技が蘇ったかの如くです(というか、久しぶりに彼にマッチした役柄がまわってきたというべきでしょうか)。

(注6)ホアキン・フェニックスが『ウォーク・ザ・ライン』で演じたキャッシュも、本作のフレディと同様に、依存症(アルコールとドラッグ)でした。
 なお、ずっと以前ですが、『帰らない日々』(2007年)をDVDで見たことがあります。同作で、ホアキン・フェニックスは、轢き逃げ事故で亡くなった愛息のことが忘れられず、事故の真相を自分で解明しようとする大学教授の役を演じています。

(注7)エイミー・アダムスについては、最近では『人生の特等席』や『ザ・ファイター』などを見ましたが、本作では、それらよりもさらにレベルアップして、フレディの妄想の中にせよ、そして遠目ながらも、妊娠中の裸の姿を見せたりするのです(この場面は、『テイク・ディス・ワルツ』におけるプールのシャワー室の場面を思い起こさせました)!

(注8)ニューヨークでのパーティにおいて、モアという男が、マスターに対して、「あなたのやっていることは催眠術ではないか、すべてを治療できるというのはおかしいではないか(白血病は治せるのか)、「過去への旅」と言うが、タイムトラベルは不可能ではないか」などと批判しますが、パーティの後、フレディはその男の部屋に行って殴りつけてしまいます。

 なお、モアが「催眠術(hypnosis)だ」と言ったことに対して、マスターは「違う、脱・催眠術(de-hypnosis)だ」と答えますが、こんな言葉遣いも評論家に本作が受けがいい理由の一つなのかもしれません(ただ、マスターの妻は、議論のレベルが低いとして、機嫌が悪くなりますが)。

(注9)マスターの息子ヴァルが、フレディに「何もかもがデタラメだ」と言いますし、マスターとフレディが、フィラデルフィアで警察の留置場に入れられた時、マスターは大人しく、「囚われの境遇は数万年前からのものだ。我々は、何兆年も前から悪と闘っている」云々と喋りますが、フレディは大暴れして「デタラメだ」と応じます。

(注10)マスターは、妻から「私が気が付かなければ、望む誰とでも何しても結構。でも、それができないのなら大人しくするのよ」と厳しく釘を刺されます(性的手慰みを受けている最中に)。

(注11)マスターが2冊目の本〔『The Split Sabre』:第1冊目が『The Cause』〕を出したところ、その出版記念パーティで、女性信者が、最初の本とは表現が違っている部分(recall→imagine)があると言いにきます(マスターは、いらついて彼女を怒鳴りつけてしまいますが)。
 また、助手のビルも、2冊目の本は失敗作で3ページほどのパンフレットで足りるなどとフレディに言ったりします(フレディは、ビルをぶちのめしてしまいますが)。

(注12)マスターは、フレディに対し、「君はいつも自由だ、束縛がない、マスターに仕えることなく生きる最初の人間だ」などと言います。ある意味で、フレディはマスターにとって理想の人間なのであり、導いてもらいたいのはマスターの方かもしれません。

(注13)最初にフレディに会った時に、マスターは、「どこかで会ったことがある」と言いますが、イギリスで再会した時も、「普仏戦争の際に、通信兵として、プロシア軍に囲まれたパリに君と一緒にいた」などと話します。マスターの方は相変わらずなのです。

(注14)「Slow boat to China」(このサイトの歌詞によります)
I'd love to get you
On a slow boat to China
All to myself alone ……

(注15)フレディは、映画の最初の頃は、砂で象られた女の体に性的行為をしかけたり、マスターの集会に参加する女性について性的妄想を抱いたりしていたのが、最後には、酒場で知り合った女とドッキングするに至るのですから(その際には、マスターが行っていたプロセッシングをこの女に冗談交じりで施したりするのです)。

 この背景には、もう一つ、ドリーという娘(知り合った当時は16歳)のことがあるかもしれません。
 戦争に行く前に彼女と知り合ったものの、突然出征することとなり、「必ず戻る」と言って別れたものの、復員後会いに行っていないという後ろめたさが彼をずっと苛んでいました。
 それが、久し振りでボストンの彼女の家を訪ねたところ、母親が出てきて、彼女は3年前に結婚してアラバマにいて子供が3人いる、などと答えます。
 彼女の歳を尋ねると「23歳」と母親が言うものですから、フレディも「出会ったのが早すぎたんだ、幸せなら何よりだ」と納得してその家を立ち去ります。
 この過去のわだかまりが彼から消えたことも、立ち直りの要因の一つと考えられるのではないでしょうか?

 といっても、この先フレディが上手く生きていくことが出来るかどうかは保証の限りではありませんが。



★★★★★



象のロケット:ザ・マスター