映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

20世紀ファッションの文化史

2009年08月31日 | 
 せっかくシャネルの映画を見たのですから、少しはファッションについて勉強してみようと思い立ち、京都造形芸術大学准教授・成実弘至氏による『20世紀ファッションの文化史―時代をつくった10人』(2007.11)の第3章「ガブリエル・シャネル モダニズム、身体、機械」を開いてみました。

 としたところ、驚いたことにまず次のように述べられています。
 シャネルが「デザイナーとしてなにを達成したかを見きわめるのはそう簡単ではな」く、例えば「シャネルはパリモードにおいてはじめて成功した女性として語られることがあるが、これは事実ではな」いのであって、また「シャネルはスポーツウエアやテーラードスーツを女性ファッションに取り入れたとされるが、これも彼女の専売特許ではない」。
 結局のところ、「ヴァレリー・スティールによると、シャネルのデザインは1920年代のほかのデザイナーとくらべて大きな相違はなかった」ようなのです。

 ではシャネルのどこが凄かったのでしょうか?
 著者は次のように述べています。
 「なによりシャネルの偉大さは20世紀女性にふさわしい人生をみずから生き、ひとつの模範解答を示したことにある。…シャネル最大の作品はまず彼女自身であり、その存在が神話化したのもゆえなきことではなかった」。
 「斬新なデザインは女性たちの憧れとなるカリスマがまとうことで流行となる。シャネルは現代を生きる若い女性であり、新しいファッションにふさわしい魅力的な容姿と個性的な雰囲気をもっていた。実は、これこそがほかの女性ドレスメーカーにはなく、彼女だけがもっていたものである」。

 なるほど。映画「ココ・シャネル」を見た今では、本書で述べられている見解は十分に納得出来ます。

 実際の具体的なデザインについてはどうでしょうか?
 例えば、「小さな黒いドレス」について、「このスタイルにはモダニズムの精神が明確に表現されていた」として、「装飾を極限まで削ぎ落としたデザイン」と「身体を機械としてとらえるような発想」というポイントを挙げます。
 そして、著者は、同時代のル・コルビュジェの建築美学との関連性について、「コルビュジェが「住むための機械」としての住宅を提唱したとするなら、シャネルのドレスは「着るための機械」というイメージをアピールしたといえるだろう」とまで述べています。

 こうした分析を踏まえて、著者は結論的に次のように述べます。
 「シャネルはモダニズムの精神のもとに女性身体をひとつのスタイルに統合した。彼女の才能は独創的なものをつくりだすというより、時代の息吹を感じ文化のさまざまな要素を自在に編集することで、新たな価値観を生みだすことにあった」。

 なお、本書は、昨年1月13日の朝日新聞書評で取り上げられました。
 冒頭で、評者の建築史家・橋爪紳也は、「著者は、これまでの服飾文化史に挑戦状を叩き付ける。ポワレ、シャネル、ディオール、ヴィヴィアン・ウエストウッド、川久保玲(コム・デ・ギャルソン)など著名な10人のファッションデザイナーの足跡を紹介する。その視点と語り口が従来の人物評とは根本的に違うのだ」と本書の特色を明らかにした後、末尾で、「教科書的な服飾様式史や、著名なデザイナーたちの単なる成功談の類に飽きた人に、まず本書を薦めたい。これほど生き生きとした服飾産業と近代の社会システムとをめぐる物語は、これまで読んだことがない」と大変な賛辞を送っています。

ココ・シャネル

2009年08月30日 | 洋画(09年)
 渋谷のル・シネマで「ココ・シャネル」を見ました。

 もう一つのル・シネマの方で「クララ・シューマン 愛の協奏曲」を上映していることもあり、狭いロビーが女性客で一杯で、かつ座席の方も完売という状況でした。

 この映画は、ファッションのあれこれが描き出されるのであれば困ったなと思っていたのですが(そういう方面の知識に疎いもので)、暗に相違して、通常の伝記映画どころか、ありきたりのフィクションなど遙かに凌駕するラブ・ロマンスものでした。

 なにしろ、教会付属の孤児院にいたガブリエル・シャネルが、田舎町でしがないお針子をやっていたところ、大金持ちの若い将校に見出されてその館で暮らすようになるものの、出身階層が合わないため結婚できないと言われ、それなら独り立ちするとパリで帽子屋を開業します。
 それがうまくいかずに店を閉めようかというところに、その貴族の友人の実業家が現れ、資金を提供してくれます。ココ・シャネルは、事業がうまくいったらその実業家と結婚しようと考えていたものの、彼は昔なじみの未亡人と結婚してしまいます。ですが、やはり彼はココのことが忘れられず、クリスマスを一緒に過ごすために、彼女の元にやってこようとしますが、その途中で車の事故で死んでしまいます。そして、…、という具合です。

 実際とは違って話は随分と脚色されているかと思われるものの、実物の彼女は、この映画で描かれた恋愛話ばかりか、亡命ロシア貴族とか英国の名門貴族など様々の大物とも浮き名を流しているのですから、当たらずとも遠からずといえるでしょう。

 とはいえ、話がフィクションかそうでないかはどうでもよいことでしょう。
 ノンフィクションの伝記映画というのであれば、ココ・シャネルが、ナチス・ドイツの占領下においてドイツ軍将校と愛人関係を結んだために、フランス解放後に、対独協力者として国中から非難を浴びて、愛人とともに戦後の数年間スイスのローザンヌへ脱出し亡命生活を送ったことなどが、映画においては完全にオミットされている点を問題にすべきでしょう。

 この映画では、72歳になったココ・シャネルが回想するという設定で、上記の二人の男性との関係に絞り込んで描き出されているために(いくつもあった浮いた話はすべて省略されています)、強い印象を与えるのではないか、と思いました。
 主人公を巡るスキャンダルを数多く描き出していた映画「サガン」とは対照的な作品と言えると思います。

 さらに、このラブ・ロマンスの展開の中で、ココ・シャネルのデザイナーや事業家としての才能が開花する様もうまく描き出されます。むしろ、彼女の才能が発揮されていく展開の中でラブストーリーも進展すると言うべきなのかもしれません。
 ただ、こちらは、彼女のデザインの才能の素晴らしさを十分に評価できないために、ラブストーリーの方に目がが奪われてしまいました。

 なお、若き日のココ・シャネルを演じた女優(バルボア・ボブローヴァ)はなかなか魅力的ですし、と晩年のココ・シャネルを演じたシャーリー・マクレーンも貫禄のある演技でなかなかのものだと思いました。

 また、ココ・シャネルを取り扱った映画が今後2つほど上映されるようです。

 (シャネルのデザインに関しては、8月31日の記事を参照して下さい)

邪馬台国を巡って(下)

2009年08月26日 | 古代史
 前々回と前回述べたことから、本年5月31日の国立歴史民俗博物館の報告に従って、箸墓古墳の築造年代は西暦240~260年ごろであり、だから卑弥呼の墓である可能性が高く、もとより邪馬台国は畿内に存在した、と簡単に言うわけにはいかないことがおわかり願えると思います。

 それでは、邪馬台国はどこにあったと考えるべきなのでしょうか?

①この問題については、前回ご紹介した在野の古代史研究者・宝賀寿男氏が、『「神武東征服」の原像』(青垣出版、2006.11)で示す見解が大変参考になると思われます。



イ)本書において、宝賀氏は次のように結論的に述べています。

 「筑後国の山本郡山本を根拠とした部族国家は、筑後川中流域の扇状地を統合して邪馬台国(=山本国)と号し、鉄器制作の技術とその地域の豊かな生産力を背景に北九州の筑前・筑後・肥前一帯の盟主となったものか。
 後年、邪馬台国王家の一支分家から出た神武が、畿内の大和盆地に遷って新しい国家を建てたとき、その地に故国・原郷たる筑後川中流域の地名を配置し、本国の宮都と同様な地理的条件の地を盆地内に見つけて同様に「山本」と名づけ、国名も先達者饒速日命の命名を踏襲してヤマトとしたものであろう」(P.296)。
〔饒速日命(にぎはやひのみこと)については、本書P.122を参照〕

ロ)もう少し補足しながら説明しましょう。
 まず、邪馬台国は、筑後川中流域の「筑後国の山本郡山本」(現久留米市山本町)あたりに存在しました。近隣の御井郡(両郡ともに久留米市域)も一帯として考えてよいと思われます。

 そして、邪馬台国本国は、その地にそのまま存続して、「3世紀前半の女王卑弥呼の時代に最盛期を現出させたが、…王位継承争いや狗奴国との抗争の中で次第に衰えていった」(P.328)ようです〔従って、大和盆地にある箸墓が卑弥呼の墓であるはずがないのです!〕。


(この地図は「邪馬台国大研究 本編 21」に掲載されているものを借用しました)


 他方、支分国の伊都国(筑前沿岸部)にあった神武が、「東方の新天地に活路を求め」(P.328)て東に向かって軍を進め、大和盆地に入り、「最大の難敵であった長髄彦」を滅ぼし、「大和平定を終えたのち、神武は橿原の地で初代大王(天皇)として即位することとな」(P.121)りました〔2世紀後半〕。



(上図は、『国史画帳・大和桜』〔1935〕に掲載されている「神武天皇東征之図」。宝賀氏の著書においても、この図の金鵄について検討しています〔P.123〕)

 その際に、「本国にあたる邪馬台国の王都の地理的条件に似た土地を大和盆地内で探しもとめて自己の宮都として定め、その周辺地域に原郷と同様な地名を配置したもの」(P.291)と考えられるわけです。

 以上は、よくいわれる「邪馬台国東遷説」(邪馬台国自体が大和へ遷ったとみる説)ではありません。単に、邪馬台国の「王家の嫡流本宗的な存在ではなく、支庶家系統のそのまた庶子くらい」(P.281)の者が、その地に明るい前途を見いだせずに新天地を求めて東に向かったと考えるべきでしょう。それにまた、古事記・日本書紀では、神武の率いた軍隊はかなり貧弱なものとして書かれているのです(「神武はせいぜい一部隊の長という描写」〔P.280〕)。

②こうした頗る魅力的な宝賀氏の見解を受け入れるには、やはり本書全体をよく読んでもらうしかありません。

 その際に一番問題となるのが、神武天皇のことでしょう。ここまで読まれた方は、神武天皇は神話上の人物であって歴史上の人物ではないのではないか、これは戦後の古代史学の当然の前提ではないのか、とあるいはおっしゃるかもしれません。

 ですが、宝賀氏は、そうした見解は、単に津田左右吉博士の学説をヨク検討もせずに右へ倣えしているだけのことであり、そもそも「津田博士の批判は疑問が大き」く、「記紀の記事についての自己の受け取り方や理解をもとに、神武天皇の存在を部分的に否定しただけである。ましてや、神武天皇の実在性の全否定に及ぶものでもない」(P.23)と述べます。
 つまり、宝賀氏によれば、津田博士は、自ら描く神武天皇像を自分で否定しただけのことなのです。自らの把握が間違っていれば、いくらそれを否定しようにも、神武自体の存在否定にはなりようがありません。津田博士の批判的精神は立派だとしても、だからといってその導かれた結論が正しいということには直ちに繋がらず、別個に検討を要する問題だということでしょう。

 結局のところ、戦後の史学界の歪み―一方で、古事記・日本書紀等の我が国の「史書の意味する内容(原型)をできるだけ的確に理解しようとする地道な努力」を殆どせずに、それらは「大和朝廷の当時の支配者・皇統の権力を裏付けるための歪曲、粉飾された歴史」だと頭から決めつけ、他方で、中国の史書である『魏志倭人伝』に「膨大な努力や検討」が傾注された―が、神武否定説をもたらしたといえるでしょう(P.24)。

 今やもう一度原点に戻って、日本の古代史(その上古分野)を検討すべきものと思われます。その際には、本書は何度も読み返すべきコーナースートーンの一つだと言えるでしょう。
 確定的な証拠が出てこなければ、どのような議論も蓋然性の大きさを検討するくらいですが、その場合にも、頭を柔軟にして学問的権威やマスコミ報道に拠らず、合理的に考えていくことが新しい知見につながるかもしれません。歴史を学ぶ(楽しむ)意味の一つも、その辺にあるのではないかと思われます。

邪馬台国を巡って(中)

2009年08月25日 | 古代史
 前回では、5月31日の国立歴史民俗博物館の報告につき、放射性炭素を使った年代測定の問題点を取り上げましたが、今回は、卑弥呼の墓の有力候補とされている箸墓を巡る問題点を取り上げてみましょう。

 在野の古代史研究者・宝賀寿男氏が著した『巨大古墳と古代王統譜』(青垣出版、2005.11)では、「箸墓」として知られる「箸中山古墳」について実に緻密な分析がなされています。



①この古墳につき、「邪馬台国大和説をとる論者からは、卑弥呼ないしは台与の墓として3世紀後半の築造とすらみられてい」ますが、宝賀氏は、「こうした取扱で問題ないのだろうか。具体的な陵墓治定を行う過程で、十分検討してみる必要があろう」と述べます(P.93)。

 すなわち、奈良県の大和盆地東南部にある大和・柳本古墳群について、「多くの考古学者が箸中山(278m)→西殿塚(219m)→行燈山(242m)→渋谷向山(276m)の順の築造とみているから、これがそのまま、倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)→崇神→垂仁→景行に比定されそうである。しかし、後2者は妥当としても(垂仁には佐紀の宝来山古墳という所伝があるが)、前2者については十分な検討を要する」(P.100)として、例えば次のような論点を挙げます。

イ)そもそも「当時急速に伸張していた大和政権の勢力・土木力を基礎として何年か後になって築造された大王(崇神)の墓が、一巫女(倭迹迹日百襲姫命)の墓より小さかったと考えるのは、むしろ不自然」(P.101)。
 巫女がいかに偉かったにせよ、かたや大和王権の(実質的)創設者ともされる大王ですから、両者のバランスをどうみるかの問題といえるでしょう。
ロ)「箸中山→西殿塚」とする論拠には問題があり、「西殿塚古墳のほうがやや先行して作られた可能性が十分考えられる」(P.104)。
 この辺りは「特殊器台形埴輪」の時期をいつと見るのかにもかかっているところ、いちがいに言い切れないということでしょう。
ハ) 崇神の「陵墓は、磯城瑞籬宮(崇神の宮都)から2㎞余東北の位置という少し離れた天理市柳本町(行燈山古墳―現崇神陵)に築くよりも、ま近の箸中集落辺りにそびえ立つように築いたほうが自然」(P.105)。

②こうして、結論的には、「西殿塚古墳はむしろ倭迹迹日百襲姫命の陵墓に比定されるのが妥当であり、それにほぼ同時期ないし多少遅れて築造された箸中山古墳が崇神陵に比定されるべきと考えられる」(P.106)ということになります。



 なお、崇神天皇については、著者は、「推定在位期間は西暦315~331年頃の約17年間」であり、「当時の日本列島における最大の政治統合体たる大和朝廷の実質的な初代大王とみて問題なかろう」と述べています(P.44)。
 これは、著者が、日本列島において統合国家が初めて出現した時期を、かつての通説と同じく4世紀前半頃とみているわけで、この立場に立つと、4世紀後半の朝鮮半島への出兵(好太王碑文など)にもつながります。
 
③こうした箸墓を巡る著者の見解は、それだけが独立して与えられているものではありません。古代史全体の流れに関する著者独自の見方が背後にあり、それをよく理解しないと、個別の古墳の築造時期や被葬者についての体系的・総合的な見解も十分な納得がえられないかもしれません。

 すなわち、「陵墓治定や古墳被葬者比定のために重要な基礎作業」として、「上古代の歴史の流れとその時期の大王の系譜(及び活動年代)の把握」が必要なわけです。ですが、「応神天皇より前の諸天皇(及びその活動年代)を具体的に考えることに無理があるとみる見解が多」く、困難を伴います。とはいえ、「応神より前の天皇(大王)を文献を含め様々な面から考察することが歴史の分野にあって「科学的」ではない、とは決していえるはずがない」と著者は言い切ります(P.38)。

 要すれば、様々な可能性を多方面から考えていき、合理性・論理性を検討し、検証していくという過程が重要であって、端から信念的に決めつけ簡単に否定するのは「科学的思考」ではない、と著者は主張しているものと考えられます。

④本書は、上古史そのものを考察する場所ではないので、これ以上の議論はなされてはおりません。
 是非、本書を含め、著者のそのほかの著作もお読みいただき、著者の独創的な見解の詳細に触れ、ご自身の頭と手足で考えていただきたいと思います。
 ただ、本書では、話をわかり易くするために多少とも「言い切り調」で書かれている部分もあるように見受けられます。とはいえ、そうした辺りへ疑問点を持ったり理解を深めたりすることで、自ずと読者は次のステップへ導かれることにもなると思われます。

邪馬台国を巡って(上)

2009年08月24日 | 古代史
 前日のブログにおいては、映画「まぼろしの邪馬台国」のDVDを見た際の感想を書きましたが、今回から3回にわたって、その映画の背景になっている「邪馬台国」を巡って、傍目八目的ではありますが、少々議論してみましょう。

①よく知られているように、邪馬台国がどこにあったのかという問題に関しては、100年以上にわたって畿内説九州説(宮崎康平の説もこれに含まれるでしょう)がしのぎを削ってきました。
 畿内説では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡を邪馬台国の都に比定する説が最近では有力とされているようですし、他方九州説にあっては、福岡県ないし佐賀県の筑後川流域周辺説、大宰府天満宮付近あるいは福岡平野説や大分県の宇佐神宮などの付近を都とする説などが乱立しているようです。

②そうしたところ、本年5月31日付け朝日新聞には、概要次のような記事が掲載されました。

 奈良県桜井市の箸墓古墳の築造年代が西暦240~260年ごろとする国立歴史民俗博物館の研究成果が、31日、早稲田大で開かれた日本考古学協会の研究発表会で報告された。
 同館は、箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素(C14)年代を測定し、築造時期を絞り込んだ。春成秀爾・名誉教授は、中国の史書「魏志倭人伝」の記述から、卑弥呼が247年に死去したと推定。さらに、「全長280mの古墳を築造するには10年前後かかったとみられ、今回分かった年代から、卑弥呼が生前に自分の墓の築造を始め、死亡時に大部分は完成していたとも考えられる。卑弥呼自身が箸墓古墳を築造していた可能性が高い」と報告した。



このように、仮に、奈良県にある「箸墓」が邪馬台国の女王であった卑弥呼の墓であるとすれば、邪馬台国自体も当然その近くにあったことになり、長かった論争も結局畿内説で決着を見ることになるでしょう。

③しかしながら、この発表についてはいくつかの問題点が指摘でき、国立歴史民俗博物館(歴博)による報告をとても鵜呑みには出来ないところです。

イ)まず、その後8月6日付けの朝日新聞には、本件に関し、概要次のような記載が見られます。

 国立歴史民俗博物館による5月の発表には考古学者から疑問や異論の声があがった。土器の型式変化と製作年が記された中国鏡などを手がかりに、奈良地方の弥生~古墳時代の歴史の物差しを作ってきた奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫総務企画部長もその一人。「数十年という誤差が避けられない放射性炭素をもとに、5年、10年という 微妙な歴史の違いを論じることができるのか」と述べている。

ロ)加えて、その朝日新聞記事には、放射性炭素を使った年代測定に関して、グラフ(下図)に添えて次のような解説がなされています。



縦軸が炭素14年代法による理論的な年代値で、1950年より何年前かを示す。横軸は年輪年代法などを使って補正された「実際の年代(暦年代)」。表の見方は、炭素14年代法で測定した年代値を、横にのばして網の帯と交わらせる。その部分を横軸の補正年代で読みかえて実際の年代幅を導く。

ハ)詳しい説明は省きますが、上記の解説については次のような問題点を指摘できます。
.年代の補正に当たって、大きな問題のある「年輪年代法」を用いていること。
 補正の結果、「1~3世紀では、「歴史の物差し」は日本版と国際版で100年ほどのずれがある」とされていますが、何故そんな〝ずれ〟が生じるのかも何ら説明されてはおりません。
.同一の測定値であっても、読みかえるとかなりの年代幅が存在すること。
 朝日新聞の記事には、「歴博の今村峯雄名誉教授(年代科学)は「誤差が±3年という精度で年代を得る見通しがたってきた」と語る」とありますが、果たしてそうなのでしょうか? この辺の年代数値は、誰が検証できるのでしょうか。

ニ)要すれば、5月の国立歴史民俗博物館の報告が依拠する「炭素14年代法」には大きな問題があり、考古学者の間でもその測定結果については強い異論がある、ということなのです。この辺の問題は、新井宏氏の論考など(注)にも、歴博の測定方法や数値に対する疑問が多く示されています。

(注)新井宏氏の論考は、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007)に掲載されていますが、例えばこのHPが参考になると思われます。  また、主に日本古代史や古代中世の氏族系譜を取り扱っているHP「古樹紀之房間」に掲載されているこの論考も、時点はヤヤ古いもののもしかしたら参考になるかもしれません。
 
④邪馬台国をめぐる諸問題は、年代論だけで解決できるものではありません。文献学的なアプローチや広く東アジアのなかの歴史の流れなど多くの総合的な視点が必要だと思われます。
 すなわち、福岡平野にあった「奴国」が後漢の光武帝から金印を賜ったのが西暦57年、その50年後に倭国王「帥升」が後漢に使いを出していて、ここまでは北九州に倭の王権があったことに誰も異論がないはずです。
 ですが、その100年後には、早くも、畿内大和の三輪山麓に北九州までを広く版図とする王権が成立して箸墓のような巨大古墳を築いたとみる見方は、歴史の流れとして正しいといえるのでしょうか。
 その当時、列島内には原始部族国家がいくつか複数で成立していたにすぎないとしたら、考古学的な見地だけで邪馬台国所在地問題を考えるのは、大きな無理があります。
 ですから、この問題を議論される方にあっては、客観的・総合的な視野が必要とされるものだと思われます。さらに、鉄器使用やわが国弥生文化の開始などの時期についても、中国大陸や朝鮮半島と対応する時期という視点が当然必要になってきます。

まぼろしの邪馬台国

2009年08月23日 | DVD
 映画「まぼろしの邪馬台国」をDVDで見ました。  

 この映画は、昨年秋に劇場公開されましたが、そのときはパスし、本年5月にDVD化されたものが最近TSUTAYAで「準新作」としてレンタルできるようになったことから、借りてきたわけです。  

 作品は、島原鉄道の社長の宮崎康平竹中直人)と後妻の和子吉永小百合)とが、一緒になって邪馬台国の場所を九州のあちこち旅行して探し回り、ついには『まぼろしの邪馬台国』という著書を書き上げ(第1回吉川英治賞を受賞)、その後もさらに調査を進めた、という夫婦愛をメインにしたストーリーで、大筋は実話に基づきながら作られています。    

 評価できる点がないわけではありません。例えば、
イ)吉永小百合が出演する映画は、生真面目で堅苦しい感じが彼女の演技から漂ってくるのではないかとの予感が見る前からしてしまい、このところ敬遠気味でした。   
 ただ、この作品の場合、相変わらずの演技ながら、わがままきわまりない夫を支える妻の役としては、かえって打って付けなのかもしれないと思わせ、余り違和感なく受け入れることが出来ました。  

 なお、今も健在な宮崎和子氏によれば〔2008年3月30日放送のRKBインタビュー番組「元気by福岡」〕、竹中直人の演技(素人目には演技過剰に見えるところ)は宮崎康平にそっくりだったとのことです!   

 また、Wikiによれば、宮崎康平は、映画が描くように島原鉄道の社長ではなく常務であり、さらに、古代史研究にのめり込みすぎ事業を顧みなかったために解任されたわけでもなさそうです。それを今回の映画のように脚色したのは、わがままで一徹な宮崎康平の姿にある程度の説得力を持たせようとしたためではないか、と思われます。

ロ)脳梗塞を患ったせいか台詞回しに若干難が見受けられるにせよ、江守徹の元気な姿が見られたこと、「ディアー・ドクター」で良い演技を見せている余貴美子が、ここでも凄い演技力を発揮していること、宮崎康平の孫娘が和子の少女時代を演じていること、など話題満載の作品になっています。

ハ)宮崎夫妻が、邪馬台国を探しに九州の各地に足を運んだことから、映画では関係各地の光景が映し出され、それがなかなか綺麗な出来映えであり、それだけでも一見の価値があると言えるかもしれません。  

 とはいえ、ちょっと考えてみれば、問題点が多い映画ではないかと思われます。例えば、
イ)映画のタイトルと同名の原作が出版されたのが昭和42年と、今から40年以上も昔にもかかわらず、なぜ今の時点で映画化するのか、制作者側の意図がうまく汲み取れません。  
 あるいは、現代では見失われてしまっている真の夫婦愛を実話に基づいて描くことが目的だから、その実話の古さは問題にならないと言うのかもしれません。とはいえ、描き出される夫婦愛それ自体が如何にも古めかしいものですから、今の人には共感を呼びにくいのではと思われるところです。

ロ)映画の原作を書いたのは宮崎康平で、原作の内容も彼の生活記録と自説の展開であるにもかかわらず、映画の主演は妻の吉永小百合の方に替わっており、その内助の功を描き出すことに主眼が置かれています。  

 そのためと思われますが、あまり十分な説明もなしにいきなり宮崎康平が邪馬台国の位置の探求に乗り出すような具合に描かれることになります。
 ですが、学界の中に限られていたとはいえ、それまでに邪馬台国の位置などに関しては熱い議論が積み重ねられており、宮崎康平の研究もそれなくしてはあり得ませんでした。  

 とにかく、早稲田大学で津田左右吉の授業を受けたこと、島原大水害による線路の復旧工事の際に多数の土器が見つかったこと、こんな事情を背景にするだけで、突然、邪馬台国を探すのだ、と竹中直人に叫ばれても、観客の方は戸惑うばかりです。  
 なにより、夫の研究の客観的な意味合いが観客に旨く伝われなければ、そんな夫に黙って従う妻の行動に共感を寄せることが難しくなってしまいます。宮崎夫妻ともに、心の奥底にそうした情熱があったことをなにかで説明できなかったのでしょうか。

ハ)やはり一番の問題は、邪馬台国の位置に関することでしょう。  
 宮崎康平の著書『まぼろしの邪馬台国』については、それまで学界の中でしか議論されてこなかった問題を一般の人々に広く開放し世の中の関心を集めたことの意義は高く評価されているものの、彼の見解(邪馬台国は「諫早湾南岸地帯」にあった―『まぼろしの邪馬台国』〔講談社文庫版第2部〕P.328)そのものをサポートする研究者は、現在では見出しがたいようです。  
 それは、学問には必須の検証・裏付けという過程が宮崎説に欠けているからではないかと思われます。他の諸説でも同様なものがありますが、思いつきや言いっぱなしだけではダメだということです。  

 にもかかわらず、映画では、結局そのことには触れずに、彼の葬儀のシーンで終わってしまいます。  

 勿論、この映画は、邪馬台国論争を描いたものでもなく、また宮崎康平の主張を描くことに主眼を置いているわけでもないのでしょうから、これでもかまわないともいえましょう。  
 でも、そうであれば、なぜ今頃このような映画をわざわざ制作するのか、という最初の疑問に再度ぶつかってしまいます。女性をヒロインにするのなら、多少ともフィクションを入れて、たんなる内助の功だけでなく、亡き夫への情熱も邪馬台国への情熱も、ともに持ち続けて生きる女性に描かれなかったのでしょうか。

「骨」展

2009年08月22日 | 美術(09年)
 六本木の東京ミッドタウンの北隅に設けられている「21_21 DESIGN SIGHT」という「デザインのためのリサーチセンター」(設計:安藤忠雄)にて開催されている「」展に行ってきました。  

 この展覧会は、慶大の山中俊治教授がディレクターとなって開催されたもので、「洗練された構造を持つ生物の骨をふまえながら、工業製品の機能とかたちとの関係に改めて目を向けます。キーワードは「骨」と「骨格」」だと、その趣旨が述べられています。  

 私の方では、本年のお正月に、東京都現代美術館(MOT)で開催された「ネオ・トロピカリア─ブラジルの創造力」展で展示されていた「リヴァイアサン・トト」の作者であるブラジルのエルネスト・ネトの作品が、今回の展覧会でも見られるということもあって、関心がありました。  

 会場の中に入ると、入口には、車(フェアレディーZ)の車体の骨格が実物で示され、さらには動物の骨格の写真から始まって、椅子の骨格や精密機械の内部構造などが示され、その奥にはお目当てのエルネスト・ネトの作品も見つかりました。  

 彼の作品は、「リヴァイアサン・トト」に比べたらズット小振りですが、お馴染みの薄い布を使いながらも骨組みが明示されている点が異なっています。1個所空いている入口から中に入ると、薄いソフト皮膜の感触が伝わってきて、優しさに身体が包まれた感じを持つことが出来ます。  

 ネトの作品以外にも興味深い作品がいくつも並べられています。特に、本来骨格を持たない蜘蛛の骨格を示している「骨蜘蛛」が面白いと思いました。  

 昔から機械の構造がどうなっているのだろうかと、ラジオなどを壊してみることが好きでしたから、今回の展覧会には興味がありましたが、ただいまごろなぜこんな展覧会が開かれて若い人たちが大勢入場しているのか、なかなか理解しがたいところもあります。  
 あるいは、写真集『BONES』などに見られるような動物の骨格にあらためて美しさを感じるようになったこと(撮影技術の向上等によって)が一つの背景としてあるのかもしれません。
 さらに、もしかしたら、様々な精密な機械が身近に溢れているにもかかわらず、その中の機構が殆どブラックボックスになっていて仕組みを把握しがたくなっていることに対する反発といった側面があるのかもしれません。  

 なお、この展覧会の内容はそのHPで見ることが出来ますし、またディレクターの山中俊治教授のブログ「デザインの骨格」でも、各作品についての解説が与えられています。

 (画像は「骨蜘蛛」)

扉をたたく人

2009年08月19日 | 洋画(09年)
 「扉をたたく人」を恵比寿のガーデンシネマで見てきました。

 映画は、予告編とか、渡まち子氏による「孤独な大学教授ウォルターは、NYでシリア出身の青年タレクと出会い心を通わせるが、タレクが突然不法滞在を理由に拘束されてしまう」といった紹介によって、見る前からあらかた予測がついてしまうストーリーといえるでしょう。

 とはいえ、単純な展開ながらそれが大層ジックリと描き出されていて、良い映画を見たなとの感想を持って映画館を後に出来ました。

 特に、予告編ではあまり見えてこなかったウォルターとタレクの母親とのラブストーリーは、実際の映画においてはジワジワと進展する様子がうまく描かれていて、加えて母親役の女優(ヒアム・アッバス)の好演もあり、酷く印象的でした(ただ、ラスト近くで、この母親は、強制送還された息子の後を追ってシリアに帰りますが、なぜ主人公もシリアに向けて一緒に飛び立たなかったのか、という憾みは残ります。また、つまらないことですが、母親の見送りにタレクの恋人の姿がなかったのも頷けないところです)。

 それに、この映画で重要な役割を果たすアフリカ原産の太鼓(「ジャンベ」)についても、映画館で大きな音量で聴いてみる価値は十分にあります。

 とはいえ、シリアの青年がアフリカ産の太鼓をたたくというのは、タレクの恋人がわざわざセネガル人と設定されていることからすると、若干の違和感を覚えざるをえません。青年が、身についたアフロビートで太鼓をたたくというのであれば、彼こそがセネガル出身者だと設定する方がすんなりと受け入れることが出来るでしょう。
 ただ、9.11後の厳しい米国の入国管理状況(特に中東関係者に対する)を描き出すという制作者側の狙いから、わざとシリア出身という設定にしたのでしょう。

 さらにまた、この映画の場合、タレクとその恋人は、自分たちが不法滞在者であることを(捕まれば強制送還される恐れがあると)十分自覚しながら、毎日NYで生活しています。
 ですから、タレクが、不正乗車の疑いで捕まった際に不法滞在が見つかって拘置所に留置されたとしても、何ら文句は言えないはずです。
 さらにまた、捕まって留置されていることに対して、タレクが、「俺はテロリストか?自由に生きて演奏したいだけなのに。それは罪なのか」と言ったり、教授が、「人をこんなふうに扱っていいのか」とか「こんなの間違っている。我々は何て無力なんだ」とまで言うのは、やや大袈裟すぎる表現では(制作者の思いを前面に出しすぎてしまったのでは)、と思えてしまいます。

 モット言うと、大学教授ウォルターが他人に対して心を閉ざしている姿は、9.11以降海外からの入国者に対する管理を厳しくしているアメリカをなぞらえているいるように描かれています。そして、タレクとの偶然の遭遇によって次第に心を開いていく教授のように、アメリカも以前の姿に漸次戻ることが期待されます。
 ただ、厳しい言い方になってしまいますが、不法滞在者を拘留する拘置所の係官に対し、教授が大声でその不当性をなじったところで、また地下鉄の駅で太鼓をたたき続けたところで、事態の改善に向けて何の効果もないことは明らかではないでしょうか?

 なお、日本では、不法滞在の両親(フィリピン人)から生まれた少女が日本語しか話せないので、両親と一緒に日本で暮らしたいと要望していたのに対して、少女だけの滞在を認める措置がとられました(本年3月)。これは、支援運動の高まり等があったとはいえ、米国などからすればかなり緩い対応だったといえるかもしれません。やはり不法なものは不法であり、個別のケース毎の事情を吟味した上で判断していたら行政が滞ってしまうでしょう!よほどの事情がない限り、機械的に一律に措置すべきものではないか、と思われるところです(そうすることによって、逆に、今回のような問題含みのケースが起こらなくなるのではないでしょうか?)。

サンシャイン・クリーニング

2009年08月16日 | 洋画(09年)
 渋谷のシネクイントで「サンシャイン・クリーニング」を見てきました。

 この映画のプロデューサーが携わった「リトル・ミス・サンシャイン」が大層面白かったこともあり、これもきっと良い作品に違いないという期待感をもって映画館に出かけました。

 実際に見てみますと、殺人とか自殺の凄惨な現場を清掃するという、普通には思いつかないような3Kの仕事に乗り出す若い姉妹のことが描かれていて、なかなか面白い映画でした。
 と言っても、前田有一氏のように「アメリカ版おくりびと、といえなくもない」と書くまでのことはありません。何しろ、姉妹の母親を除いて死人はマッタク登場しないのですから!

 この映画では、理由は不明ながら母親が自殺してしまい、父親と共に貧しい暮らしを余儀なくされている姉妹が、何とかその境遇を克服しようとしてハウスクリーニング業に就いているものの、それくらいでは多寡がしれています。そこで、姉のローズの愛人のアドバイスもあって特殊な清掃事業に乗り出しますが、云々という具合に話は進みます。

 その母親の死について、前田有一氏は、「姉妹がおちぶれた原因について、いかにもそれらしいトラウマ設定があったりするが、そうした「説明」は感情移入したい側にとってはむしろ邪魔。 人々が、ダメ人間になる事に理由など要らない。…、単に「ダメだから負け組になった」でよかった。人は誰しも弱い面を持ち、その弱さを肯定するところにルーザームービーのキモがある。この最重要ポイントをはずしていないだけに、この詰めの甘さは少々惜しかった」と述べています。

 ですが、姉のローズは、昔から「負け犬」だったわけではなく、かってはチアリーダーとして学園のアイドルだったのですから、その彼女がなぜ「負け犬」に落ちぶれてしまったのかについての説明は必要でしょう。
 
 それに、リンという献血センターで働く女性に妹のノラが近づくキッカケも、その母親の写真を手にしたからです(トラウマがなければ、そんな写真を後生大事に取ってはおかなかったでしょう)。

 加えて、ローコウスキ(Lorkowski)というファミリー・ネームから、外国(ポーランド?)からの移民の子孫ではないかと推測され、だから(?)一家がかなり貧しい暮らしをしてきた設定になっています。たぶんローズは、高校で成績も良かったのでしょうが、家の事情もあって大学に進学できず、それもあって満足な職にも就けずにいたところ、事件現場の清掃という新しい事業がうまくいきそうになり、「ベビーシャワー」(出産前のお祝いパーティ)で友達を何とか見返してやりたいという気持ちからノラだけを清掃作業に送り出し、…というようにストーリーが展開するのですから、「単に「ダメだから負け組になった」でよかった」で済ますわけにはいかないのではと思われます。

 なにより、「ダメ人間になる事に理由」をつけることが、どうして「詰めの甘さ」に繋がるのか理解できないところです。きちんと構成された細部までも読み取るのが映画評論家の役割であって、それを放棄してしまえばタダの素人に過ぎないのではないでしょうか(映画「おくりびと」も、本木雅弘とその父親との関係が一つの核になっていました〔ラストのシーンには問題はあるものの〕)?

 とはいえ、「リトル・マイ・サンシャイン」と同様に、ワゴン車(前作ではミニバス)でアチコチ走り回ったり、父親役のアラン・アーキンが前作と同様の雰囲気を醸し出していたりと、随分見所が多く、前田氏が85点を与えているのも肯けました。

 なお、こんな商売は日本ではどうなのかと考えてみたところ、これが成立するには銃が簡単に入手出来るという環境が必要であり、日本ではとても事業にならないのではと思えます(電車の人身事故の際の処理については、その数の多さから、東京に限ってあるいは仕事になるのかもしれませんが)。

玉川上水緑道

2009年08月10日 | その他
 以前なら1度に10㎞以上ジョギングしても疲れを覚えませんでした。ですがそのうち、走る度に太股の内側に痛みが走るようになり、自然と走ることから遠のいてしまいました。

 これといった運動もせずにいたところ、NHK番組「ためしてガッテン」(6月10日)で、スロージョギングの方が通常のジョギングよりも効果がヨリ高いのだ、との常識を覆す話が持ち出され、なんだこれなら足も痛まず健康にもプラスだし一挙両得ではないか、とランニングの再開を思い立ちました。
 とはいえ、今年は雨の日が多く、それにスローの方が効果的なのか半信半疑だったため、まだ愚図愚図していました。そうしたら、8月5日の同番組でも再度スロージョギングが取り上げられ、具体的に「(1)歩幅を小さく(2)音を小さく」 の2点を守るべしと言われ、一度ならず二度までも言うのならやってみようかと重い腰を上げることとしました。
 
 何しろ我が家の近くには、玉川上水緑道という格好のランニング・コースがあるのです。

 玉川上水は、多摩川の羽村取水堰のところから四谷大木戸まで全長約43㎞。そのうち、浅間橋(井の頭線富士見ヶ丘駅南方)から東の新宿へ向かう区間は、大体暗渠化されていますが、その西の多摩川へ向かう部分では、開渠になっていて、かつかなりのところに土の露出した緑道が設けられています。
 春から秋にかけて、繁茂する川岸の木々に沿って緑道を走るのは、何とも言えず爽快です(森林浴といえるでしょう!)。雨が降った後はぬかるんで大変なのは確かですが、とにかく、コンクリ―トで舗装された道に比べて膝に与える衝撃がずっと少ないのです。
 
 にもかかわらず、都の道路計画(放射5号線)によって、この素晴らしい道に変化が加えられようとしています。牟礼橋(人見街道と上水とが交叉するところ)から浅間橋までの約1.3㎞の区間に、片側30mで2車線の道路を建設しようというのです。

 尤も、計画によれば、車道と上水との間に遊歩道が設けられる予定です。ただ、それが土の露出した緑道になるとは思われず、たとえそうなったとしても、そこでウォーキングやジョギングをする人は、スグソバの車道を走る自動車の排気ガスをマトモに吸い込むことになるでしょう。ジョギングに最適のコースが、一転して劣悪なものになってしまいます(尤も、今回計画されている約1.3㎞の区間の内、兵庫橋から岩崎橋までは、以前から緑道部分が舗装されています)。
 そればかりか、自動車の排気ガスや騒音などは、川の土手の木々などにも大きな影響を与えるに違いありません(都の計画に反対する住民の動き等についてはこのブログを参照)。

 この計画は現在かなり進捗しており、上水両側の道路予定地に建てられていた家屋の大部分は撤去されてしまいました(マダ何軒かは残ってはいますが、時間の問題と思われます)。
 完成予定が平成24年度とされていますから、これから建設のピッチが上がるものと予想されます。

 東京都は、一方で、環境に配慮するために、ディーゼル車排ガス規制によって都心への車の乗り入れを規制していながら、他方で23区内に残る貴重な自然を破壊しようとしているのです。

 ところで、玉川上水は、今年生誕100年を迎えた太宰治が入水した川として有名です。ただ、それだけでなく、余り知られてはおりませんが、国文学者・金田一京助の手になる石碑が、今回の計画の中に入っている場所に据えられています。
 兵庫橋から上流へ50mほど行ったところの柵内にある小さな供養塔で、表に「水難者慰霊碑」とあり、昭和24年に投身した愛娘を含めた水難者の霊を慰めるために建てられています。石碑の裏面には、昭和27年に詠んだ歌「うれいなく さちかぎりなく あめのくにに さきそひいませ とわやすらかに」が刻まれているそうです(柵に阻まれて裏面を見ることが出来ません)。

 そんな文学的でもある玉川上水の自然破壊を憂えることもあるのでしょう、東大教授の松浦寿輝氏が、川の土手に住むクマネズミ一家を主人公とする小説『川の光』(中央公論新社、2007.7)を著しました(元は読売新聞に連載)。

 むろん、小説で重要な役割を与えられている川が「玉川上水」と名指されているわけではありません(小説の「あとがき」にも、「土地にも登場人物にもそっくりそのままのモデルがあるわけではありません」とあります)。
 ただ、表紙の見返しに描かれている地図の中で、北東から南西に走る「石見街道」とは「人見街道」を指していると思われますし、裏表紙の見返しの地図にある「木原公園」は「井の頭公園」でしょうし、駅の部分では川が地下に潜っていますが、これは三鷹駅の上水の現況とそっくりです。
 なにより、父親と2人の兄弟タータとチッチからなるクマネズミ一家が、長年住み慣れた川岸の巣穴から退去を余儀なくされるのは、東京都建設局が立てかけた看板に「放射※号線の建設に伴い、この川の暗渠化工事が9月※※日から始まります」と書いてあったことによるのです。

 とはいえ、舞台が玉川上水であるとしても、この小説で取り上げられている工事は、ずっと昔に行われた暗渠化工事であって、これから本格化する道路敷設工事ではありません。ですが、どちらの工事によっても、川を取り巻く貴重な自然が破壊され、それが付近の動物たちに様々な影響を与えるのは間違いないところです。

 この小説は、クマネズミ一家が「新天地を求め手川を上流に遡ってゆく冒険」を物語るのが主眼としても、その背後には、やはり人間による自然破壊を嘆く気持ちがあるものと考えます(「プロローグ」では、「年寄りネズミ」が、「人間は地面が欲しい。…だから川にふたをして、そのうえを地面に変えようってわけさ。烏滸の沙汰ってもんじゃあないか」、「とんでもないことをやるんだ。あいつらは」と嘆きます)。

 クマネズミ一家は、手に汗を握る波瀾万丈の冒険の末に、無事新しい巣穴を確保できて幸せな生活を営むことになります。一方、人間の生活の方はこれからどうなるのでしょうか?環境破壊は止められるのでしょうか?
 いうまでもなく、現状維持ばかり求めていては住民エゴになりかねません。多摩地域の住民のことにも配慮しなければならないでしょう。と言って、この貴重な玉川上水の景観はそのままにしておきたいし…、そんなアレコレを考えながらスロージョギングに励んでいるところです。

 なお、この小説に基づいたアニメが、6月20日にNHKで放送されました。

(画像は、玉川上水に架かる牟礼橋)