映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

森村泰昌展

2010年03月30日 | 美術(10年)
 恵比寿の東京都写真美術館では、ゴールデンウィーク明けまで「森村泰昌 なにものかへのレクイエム―戦場の頂上の芸術」展が開催されています。

 森村泰昌氏は、フェルメールやゴッホなどが描いた名画に登場する人物に扮したセルフポートレイトで著名ですが、「なにものかへのレクイエム」というシリーズで、20世紀の歴史的に有名な人物に扮したセルフポートレイトを発表してきています。
 今回の展覧会では、写真美術館の2階と3階の展示室を使って、同シリーズのこれまでの作品のみならず、最新作も展示されています。

 特に、目を惹いたのは、下記のチェ・ゲバラの肖像です。

 
 「なにものかへのレクイエム(遠い夢/チェ)」

 というのも、昨年、チェ・ゲバラの生涯を描いた映画『28歳の革命』『別れの手紙』を見たこともありますが、この画像の元になる写真は、キューバの写真家アルベルト・コルダの手になるもので、あるブログの記事に関連してアンディ・ウォーホルの作品を調べた際に出会っているからです。

 

 ウォーホルは、この写真に基づきながら、シルクスクローンを使ってチェ・ゲバラの肖像画を描き、それを9枚並べたものを作品として発表しました。

 

 ちなみに、森村氏は、今回の展覧会にウォーホルに扮した作品も発表しています。


 「なにものかへのレクイエム(創造の劇場/動くウォーホル)」(動画作品)


 歴史的に有名な人物に扮するといっても、なかなか複雑なプロセスが背後にあるのだなと思わせます。
 下記の作品は、歴史的に有名な人物であるヒットラーに扮したチャップリンに扮しているものの、制帽の記章が「笑」となっていたり、マイクロホンの形がおかしかったり、背後には家畜が背広を着て列席していたりと、随分と手が加えられています。

 
 「なにものかへのレクイエム(独裁者はどこにいる1)」

 
 「チャップリンの独裁者」

 上記の映画のシーンは、もしかしたら次のようなものがイメージとしてあったのかも知れません(ヒットラーについて適当な写真がなかったので、ここではゲッペルスで代用しました)。

 


 こうして見てくると、今回の展覧会は、森村氏が、これまでのように、対象となる人物になりきるという点もむろん面白いのですが、それだけでなく、コルダの写真やウォーホルの作品とか、チャップリンの映画など、森村氏から元の人物にまで連なる流れの方にも興味を惹かれます。

 そう思って展覧会場を見回すと、例えば、次の作品は1960年10月に起きた浅沼稲次郎・日本社会党委員長刺殺事件を扱っていますが、誰でもが、この場面と同じ報道写真(毎日新聞の長尾靖氏が撮影し、ピュリツァー賞を受賞)を思い起こすことでしょう。
 ただし、比べてみるとスグに分かることですが、非常に忠実に場面を再現しているにもかかわらず、背後に大きく掲げられているスローガンは、元の報道写真では演説者の肩書きと名前なのです!

 
 「なにものかへのレクイエム(ASANUMA1 1960.10.12-2006.4.2)」

 


 この展覧会の入口に掲げられている主催者の「ごあいさつ」には、「歴史の記憶に挑む森村泰昌の新たなセルフポートレイト」とありますが、いずれの作品も、「歴史の記憶」そのものではなく、それを保存しているメデイアに対する姿勢について、見る者の感覚を揺さぶろうとしているのではないかと思われました。

人間失格

2010年03月28日 | 邦画(10年)
 『人間失格』を渋谷のシネセゾンで見てきました。

 このところ太宰治の作品を原作とする映画がいくつか制作されており、『パンドラの匣』と『ヴィヨンの妻』は見たので、やはりこの作品も見ておこうということになりました。

(1)この映画は随分と配役陣が豪華だというのが、マズもっての感想です。
 なにしろ、葉蔵役の生田斗真こそ映画初出演で初主演ですが、その悪友・堀木を演じる伊勢谷友介はNHKドラマ「白州次郎」での活躍がありますし〔そのときの素晴らしい演技から、今度の堀木役を見ても、白州次郎の感じがしてしまいますが!〕、また後見人の平目は、『今度は愛妻家』でオカマ役を見事に演じた石橋蓮司なのです。

女優陣の見事さも目を見張ります。葉蔵と心中して死んでしまう女給の常子に扮する寺島しのぶは、このほどベルリン映画祭にて最優秀主演女優賞を獲得しており、子持ちの未亡人・静子役の小池栄子は、『接吻』での演技が光ります(昨年は、『わたし出すわ』に出演)。また、葉蔵にモルヒネを教える薬剤師の寿役は室井滋、葉蔵と結婚するものの、出入りの商人と間違いを犯してしまう良子には石原さとみ、下宿先の娘・礼子に坂井真紀(『ノン子36歳(家事手伝い)』)といった布陣です。

さらには、葉蔵がしばしば出入りするバーのマダムで、この映画の狂言回しといえる律子に大楠道代(『ジャージの二人』で、隣人役を演じてました)が、そして映画のラストで葉蔵の面倒を見る老女・鉄に三田佳子が扮しています。

こうした豪華メンバーに取り囲まれると、初々しい生田斗真も色褪せて見えてきます。特に、その役柄が、良子との結婚生活のはじめの方だけを除いて、ほとんどの場面で、ひたすらアルコールを飲んだり、モルヒネを注射したり、またカルモチンを飲んで自殺しようとしたりする自堕落極まりない男なのですから、大変です。

この葉蔵に太宰治を重ね合わせることができ、かつ太宰治の生き方などをよく知っている観客ならばともかく、本作品ではじめて太宰治を知る観客にとっては、こうした行動は、単なるアル中患者の症状としか見えないのではないでしょうか?

 むろん、映画は映画であって、原作とは無関係にそれだけのものとして見る必要があるでしょう。ただ、原作にはない人物(中原中也など)を配したり、年代設定を原作以上に明確にしたりしているところをみると、監督の方も、観客がある程度太宰治に関する知識を持っていることを前提にして映画を製作しているのではないかと思えます。

 要すれば、太宰治の原作を映画化すれば、自分の場合はこうなるよというものを監督は提示しているのであって、原作とは無関係にこの映画を製作したわけでもなく、また観客にもその関係性をわきまえてもらったうえで見てもらいたいと考えているのではないかと思いました。

 なお、映画のラストで、葉蔵が老女・鉄と暮らす家の居間から眺めることのできる岩木山の全貌は素晴らしいものがありました。学生時代に友人と、麓の岩木山神社の裏手から頂上まで登ったことがありますし、その後も何度か津軽平野からこの山を望んだことがありますから、ひとしお感激しました。

(2)この作品も、やはり太宰治の原作との関係が気になってしまいます。
 といっても、映画と原作とは別のものと考えるべきでしょうから、たとえば、映画に登場する中原中也は原作には出てこないとか(無論、井伏鱒二、小林秀雄、檀一雄も!)、映画のラストで大きく取り上げられる鉄という女性(三田佳子が演じています)は、原作では「60に近いひどい赤毛の醜い女中」であり、その「老女虫に数度へんな犯され方をし」たと書いてあるにすぎない、とかいったことは気にするまでもないでしょう。

 興味を惹かれるのは、『パレード』に関する記事の中でも申し上げましたが、小説が書かれている観点と映画が作られている観点との関係です。
 映画では三人称の全体を俯瞰する視点から描き出されているのに対して、原作は一人称の形を取っているのです。それも小説の場合、メインとなる3つの「手記」(一人称で書かれています)をそのまま掲載したと、作者は「あとがき」で述べています。そうすると、『人間失格』の作者は太宰治ですから、彼がそのまま小説の中に掲載した「手記」の作者は、当然太宰治ではありえないことになります。
 映画では、そんなことはうまく表現できませんから、主人公の葉蔵は太宰治に似せて造形されています。

 そうなると、時代設定は、原作ではかなり曖昧にされていたにもかかわらず(注)、映画の方では、当然のごとくに昭和10年代頃とされてしまっています。たとえば、皆がラジオの前に集まって「前畑がんばれ、前畑がんばれ」の放送に熱狂するのを見れば、明確に昭和11年のことだと観客にはわかります(一定の年齢より上の人たちとなるでしょうが)。

 だからなんだというわけではありませんが、以上のことからすると、映画の設定に関して、主人公をなにも太宰治に関連付けることをせずに、また時代も現代としてみる選択肢も十分考えられるのではないかと思った次第です。


(注)葉蔵が喀血するのは「東京に大雪の降った夜でした」としか原作には書いてありませんが、奥野健男の新潮文庫の解説によれば、これは「2・26事件の夜」だとのことです。


(3)映画評論家たちの評価も余り高くはなさそうです。
 小梶勝男氏は、「主人公の葉蔵を演じる生田斗真の印象が薄い。原作では極めて重要な「道化」としてしか生きていけない青年の内に秘めた緊張感が、十分に描かれて」おらず、「あえて近代的自我に逆らい、自滅していく男の悲壮感と、悲愴故の純粋さが、切実に伝わって来ない。荒戸監督の絵作りの上手さは認めるが、心に響くものは少ない」として、氏にしてはかなり低めの66点を、
 渡まち子氏も、「過剰なまでの自意識ゆえに破滅していく主人公・葉蔵を、レトロで幻想的な映像で描ききる。葉蔵を演じる生田斗真は、これが映画初出演で初主演。美形だが何 とも印象が薄いのは、周囲の女優たちがあまりに強烈な印象を残すからだろう」などとして50点を、
 福本次郎氏は、「映画はほぼ原作に忠実だが、そこに斬新な解釈があるわけでもなく、ただ表層をなぞっているに見える。葉蔵の心を支配する虚無感も、日中戦争から太平洋戦争 に突入する時期の日本の空気もあまり感じられず、無感動に生きている葉蔵の命の軽さが引き気味に語られるのみで、結局、堕落の蜜を楽しむまでには至らなかった」として40点を、それぞれ与えています。

 これらの評論は、総じて、映画を映画として見ずに原作を通して見ているような印象を受けますが、こうなってしまうのも、映画の作り自体がそうなっているからなのかもしれません。


★★★☆☆


象のロケット:人間失格

ハート・ロッカー

2010年03月25日 | 洋画(10年)
 『ハート・ロッカー』を、日比谷のスカラ座で見てきました。

 むろん、この作品が本年度のアカデミー賞の作品賞を受けたことから映画館に出かけたわけですが、見る前まで、タイトルはテッキリ『Heart Rocker』だとばかり思い込み、戦争と音楽がどのように関連付けて描かれているのだろうと興味がありました。ですが、実際には、『Hurt Locker』とのこと。『ワールド・オブ・ライズ』も、『World of Rise』ではなく『World of Lies』だったことが思い出されます!

(1)映画は、イラク戦争における爆弾処理班の様子を、実にリアルに描き出します。ですから、この映画はまずもって戦争映画といえるでしょう。

 さて、米国の戦争映画というと、従来は、まるでフットボールの試合を見ているような感じにさせられますが(ナチス・ドイツ兵が、いとも簡単に米軍の自動小銃で薙ぎ倒されたりします)、今時の映画で描き出される戦争は、どれも対テロ戦争であって、敵の姿がはっきりと確認されないうちに仲間が少しずつ欠けていくという、なんともやり切れない戦闘シーンとか、爆弾テロによるものすごい爆発のシーンとかがあるだけで、むろん恰好のいい突撃シーンなどはトンと見かけなくなってしまいました。
 とはいえ、敵の姿がはっきりと確認されないとか、軍艦、戦闘機とか戦車が現れないとかいった点は、ベトナム戦争のようなゲリラ戦の場合にも見られました。となると、イラク戦争における特徴は、まさに爆弾テロにあると言っていいかもしれません。

 この映画で中心的な役割を演じる爆弾処理班の役割は、発見された爆弾から危険性を除去することにあり、班を率いるジェームズ二等軍曹は、仕掛けられた爆弾から起爆装置を取り外すことに長けた人物として描き出されます。
 ですから、映画では、従来の戦闘シーンに代わり、爆弾から信管を抜き取る作業が何度も映し出されます。直接敵を倒すのではなく、爆弾テロから味方を守るという酷く地味な行動が専らとなり、それは決して格好のいいものではありません。
 それでも、ジェームズ軍曹の作業は、死の淵のギリギリのところまで毎回追いつめられるわけで、見ている方もおのずと手に汗握る感じになってしまいます。

 そのギリギリ感があるからこそ、ジェームズ軍曹は、いったん米国に帰って、家族と平和な日々を送ろうとしても我慢できずに、また戦場に戻ってしまうのでしょう。
 となると、イラクに派遣されている軍人は皆が皆そんな感じなのかというと、そんなことはありません。ジェームズ軍曹と同じ爆弾処理班にいる黒人のサンダーズ軍曹は、早く除隊になって子供をもうけたいと言ったりします。
 こうした常識的な米国人は、それではどんな意識を持ってイラクにまでやってくるのでしょうか?特に、ベトナム戦争時とは異なって、現在は「徴兵制」ではなく「志願兵制」ですから、なにも好き好んでこんなに大変な戦場に来なくてもよかったわけでしょうから。

 ですが、この映画では、何を達成するために若者がイラクで戦っているのか、についてはほとんど触れられてはおりません。太平洋戦争時の“民主主義の擁護”とか、ベトナム戦争時の“共産主義に対する戦い”、といったスローガンに相当するお題目は一度として登場人物の口から聞こえてきません(いわれるようなテロ撲滅は当たり前の目的であって、わざわざ声高に叫ぶには及ばないのかもしれませんが。また、手厚い待遇のためだとか、市民権が得られるから、などともいわれますが、死を賭してまで追求すべき事柄かどうか疑問が残ります)。
 それでいて、エルドリッジ技術兵は、現下の情勢下では今に皆死んでしまうのだよ、と悲しげに言ったりします。なぜ、わけもわからずに、そんな危険な戦場に自発的に出向いたりするのでしょうか?

 実際の戦場は、映画よりももっと過酷な状況なのでしょう。130分の上映時間の間中、こちらはハラハラドキドキし通しでしたが、イラクに赴いている米国の若者は、それどころではないと思います。ですが、何故あなた方はそこにいるのだとツイツイ問いかけてみたくなってしまいます。

 本作品は、以上のような戦争映画という面だけでなく、爆弾処理班内部の人間関係を濃密に描き出すことによって、男同士の友情が描き出されます。その際には、黒人のサンダース軍曹と白人のジェームズ軍曹との間の人種的な対立も取り扱われます。また、イラクにおける苛烈な状況と、米国本国における弛緩した雰囲気もうまく対比されています。
 この作品は、単なる戦争映画というよりも、それを起点にして様々な次元をも同時に映し出していて、なかなか深みのある仕上がりとなっているなと思いました。

(2)本作品は、「戦争アクション映画」と紹介されることがしばしばです(例えば、wiki)。
 ただそうなると、『日活アクションの華麗な世界』(未来社)で、著者・渡辺武信氏が、日活アクションについて、その核心にあるのは、「「我々には誰にも譲りわたせぬ〝自己〟というものがある」という信念」であり(P.16)、「日活アクションのヒーローたちは、いつも自己についてのくっきりとしたイメージを追い求めてきた」(P.17)と述べていることにどのように通じているのか、おのずと興味が湧いてきます。

 あるいはもしかしたら、ジェームズ軍曹が、米国本国における家族との穏やかな生活に自分を馴染ませることが出来ず、再びイラクの危険な戦場に舞い戻ってしまうところが、「最後まで自分をとり巻く世界と合体することはない」日活アクションのヒーロー(P.18)と類似していると言っていいのかも知れません。
 ただ、決定的に異なるのは、石原裕次郎の演ずるヒーローには、大部分の場合浅丘ルリ子が扮するヒロインが配されたのに対し、この映画ではヒロインはマッタク登場しないのです。
 ですから、日活アクションの一つのジャンルである「ムード・アクション」の傑作である『銀座の恋の物語』(蔵原惟繕監督、1962年)のように、ヒーローとヒロインの「それぞれの過去、または二人の共通の過去が強く意識され、ドラマ全体が記憶への固執に支配される」といったこと(P.280)には、言うまでもなくなりません。
 あるいは、この映画においてもそのように物語が進展するのであれば、『銀座の恋の物語』と同じように、イラク戦争に従軍した兵士の間で問題となっているPTSD(「心的外傷後ストレス障害」)についても、触れることが出来たのかも知れません(注)。


(注)ここらあたりで述べたことは単なる妄想にすぎませんが、あるいはHP「古樹紀之房間」に掲載されている「映画と記憶―『銀座の恋の物語』を巡って」が参考になるかも知れません。


(3)映画評論家の方々は、総じてこの作品を、戦争映画の側面からしか論評していないように思われます。
 渡まち子氏は、「この映画の優れた点のひとつは、爆弾処理の知られざる実態を詳細に描き、広く認知させたこと」であり、「戦争は、ドラッグのように兵士を魅了し、精神を蝕んでいく。全編を通して甘さや情緒を廃し、女性監督らしからぬ骨太な描写を貫いたキャスリン・ビグローの 演出が素晴らし」く、「爆発の瞬間を恐れながらその重圧が快楽となった人間のヒロイズムとその代償を、ドライなタッチで描いた本作、紛れもない傑作だ」として85点もの高得点を与えていますし、
 岡本太陽氏も、「ハリウッド女性アクション映画監督キャスリン・ビグローが監督を手掛ける本作は混沌とした戦地の状況をリアルに描き、手に汗握る展開で贈る驚きに満ち溢れた映画」であって、「今までわたしたちが知り得なかった隠れた英雄であるアメリカ軍爆発物処理班の活動に注目し、戦地において最も危険な役割を担う男達の生き様を描」いているとして85点を付けています。
 福本次郎氏までも、「イラクでの任務の恐ろしいところは、敵が身を潜めている場所分からず、街では市民にまぎれて砂漠では風景に同化しているところだ。そんな環境で、普通の人 間は神経を病み、タフな者でも正気を保つのがやっと、ぶっ飛んだ者だけが順応できる。戦争の異常な状況をリアルに伝える見事な演出だった」として、氏にしては高得点の70点を付けています。

 ただ、福本氏は、余りにもこの映画にのめり込んでしまい、まるでご自分が戦場にいるかの如く思いなして、「死と隣り合わせ、極限まで集中した命がけの作業は、見る者にも一瞬の気の緩みを許さない」とまで述べていますが、映画鑑賞者にどうして「一瞬の気の緩みを許さない」のかワケが分かりません!


★★★☆☆

象のロケット:ハート・ロッカー

長谷川等伯展

2010年03月22日 | 美術(10年)
 東京国立博物館で開催中の「長谷川等伯展」が本日(22日)で終了してしまうというので、先週金曜日に慌てて見に行ってきました。

 金曜日は、閉館時間が午後8時まで延長されるため、幾分ゆっくりと見ることが出来るのではと思っていましたら、あに図らんや、会場に入場するのに30分ほど待たされ、更に中に入るとどの絵の前も黒山の人だかりです。

 はて長谷川等伯とはこんなにも人気のある画家なのかと当惑してしまいましたが、先週の水曜日(10日)には、入場者数が10万人を超えたとのこと。開催期間が1ヶ月と比較的短かったにもかかわらず、こんなにたくさんの入場者があったというのは、画家に対する人気に加えて、没後400年ということで、国内に存在する彼の絵のほとんどすべてが今回展示されていることも与っているのではないか、と思いました。

 なにしろ、画家が26歳の時の絵から始まって、晩年の70歳頃の絵まで80点近いものが展示されているのです。
 といっても、富山の大法寺にある初期の仏画(日蓮宗関係)は、とても20代の若者が描いたとは思えないほどの仕上がりであり、展覧会カタログで松嶋雅人氏(東京国立博物館特別展室長)がいうように、「その完成度は極めて高」いものです。

 例えば、下記のものは「日蓮聖人像」で、法衣等の装飾は「きわめて細かく、そして丹念に描写」されています(絵の下の方には、「信春」の名を刻んだ袋形の印が捺されています)。



 私が等伯に関心があったのは、今回の展覧会でも中心的な所に置かれている「楓図」とか「松林図」といったところで、こうした仏画は初めて見るものであり、かつ「等伯ほど終生変わらず多くの作品を法華宗寺院のために描いた絵師はいない」との松嶋氏の指摘には目から鱗が落ちるものでした。

 さらに松嶋氏によれば、仏画を描くことで培われた「造形的特質」、すなわち、「画面空間のなかに奥行きを強くあらわそうとしない」描き方が、件の「楓図」にも見られるというのです。



 たとえば、「楓の木の向かって左側に優美に流れる水流は、画面上部に、水兵に描かれた水流と画面中央にある楕円の水流で表されているが、いったい水は画面奥に流れていくのか、あるいは、奥から手前に流れてくるものかよくわからない」とされます(これは、もう少ししたら、尾形光琳の「紅白梅図屏風などに引き継がれていくのでしょう)。

 さらには、晩年の水墨画「竹林七賢図屏風」において、「人物が力強い筆線で大きく強調されてい」て、かつ「場面状況を説明する地面や背景の樹木は人物の周囲に配置されるが、人物と樹木の大きさの関連には気をとめず並列的に描かれている」点にも窺われるとされます。



 こうした水墨画もこれまで見たことがなかったので、今回の展覧会では随分と大きな収穫がありました。

 ただそれでも、等伯というと、やっぱり「松林図」になるのではないでしょうか?




恋するベーカリー

2010年03月21日 | 洋画(10年)
 『恋するベーカリー』を吉祥寺で見てきました。

 この映画の主演のメリル・ストリープについては、昨年は3本もの映画を見ているため(年末の『ジュリー&ジュリア』を含めて)、今年もやはりこれまで同様追跡してみようというところから見に行ってきました。

(1)見る前までは、「ベーカリー」とあり、さらには映画のポスターにもパン屋の光景が映し出されていますから、これは前作『ジュリー&ジュリア』と似たような雰囲気の映画かなと思っていました。
 ですが実際には、料理の場面はごく少なく、専らジェーン(メリル・ストリープ)を巡って、弁護士の元夫・ジェイク(アレック・ボールドウィン)と建築デザイナー・アダム(スティーブ・マーティン)とが繰り広げるラブコメディ、といった趣の映画です(原題は「It’s Complicated」)。

 特に注目すべきは、この3人は皆50歳代後半以上の年齢という設定になっている点でしょう。
 そうなると、こうしたシチュエーションがうまく進んでいくためには、以前『新しい人生のはじめかた』のところでも申しあげたように、
・彼らに親とか子供がいても、ある程度自由に行動できること。
・それぞれ所得を得る職業に就いていること。
・自分に対してよりも相手に対してより大きな気遣いができること。
といった条件が確保されている必要があると思いますが、この3人にはそうした条件が実にうまく揃っているのです。
・独身のジェーンについては、そのの一番下の息子が、ちょうど大学を卒業して自立する時期にあたっていますし、ジュイクについても、その再婚相手には幼い連れ子がいますが、あまりいい関係にありません。また、アダムは独り身で、離婚して2年ほど経過しています。
・ジェーンの経営するベーカリーは順調に営まれているようですし、ジェイクは敏腕弁護士であり、またアダムも建築デザイナーとしてすこぶる有能なようです(大きな建築事務所を開いています)。
・還暦に近いかそれ以上の年齢になってくると、誰しも自分のことばかり言っていても物事はうまく進まない、ということがわかってくるようで、特にジェイクは、ジェーンと結婚していたときは、猛烈に働いてほとんど家にいなかったようなのですが(子供たちの話からそれが推測されます)、いまや二人の時間の方を優先させたいという気になってきています。

 そうなればラブストリーがどんどん進展しだし、ついには、ジェーンはアダムとジェイクの間に挟み込まれてしまいます。さあどうなるでしょうか?

 この映画は、以上のような現実にはあまり起こりえないシチュエーションにわざわざ設定したうえで、その中でメリル・ストリープらがどのように行動していくのだろうか、ということを描きだしたものです。
 このような雰囲気の映画に対して、いい気なものだ、厳しい現実が分かっていない、大体本人たちの親族(親や兄弟)どうなっているのかとか、病気の点はどうなのか(ジェイクは、前立腺に問題アリとのことですが)などが不分明なままではリアルさが足りないではないか、と言い募っても無意味でしょう。
 観客達の、こうだったら面白いな、素晴らしいだろうに、という密やかな願望を、映画の上で実現して見せただけのことですから(注)、出演者のコミカルな演技を十分堪能すればいいのでは、と思います。

 ただ、こうした映画でも、これまで見た映画には黒人とか化少数民族といったマイノリティが幾人かは出演していたはずですが、どうもこの映画には見当たらない感じです。そこれ辺りがチョット奇異に感じました。


(注)現在も漫画雑誌『ビッグ・コミック・オリジナル』で連載中の『黄昏流星群』(弘兼憲史、1995.12~)の中の1挿話としても、場違いではないのではないでしょうか?

(2)この映画では、ジェーンの元夫・ジェイクの再婚相手のアグネスが、背中(左肩甲骨のあたり)に比較的大きな虎のタトゥーを入れているのが目につきました。
 『ミレニアム』のリスベットのように皮ジャンを着たりしてそれを隠しているわけではなく、パーティーなどでは肩が露出している服を着て、皆に注目されています。

 注意していると、刺青に関する出来事は映画以外のところでも見つかります
 たとえば、3月2日の記事に対する「龍胤子」さんのコメントに、「明治期には、英国やロシアの重要王族が訪日した際に「龍」などの入れ墨をした例がある」と述べてありますが、4月号の文芸雑誌『新潮』には、ロシアの現代作家エヴゲーニイ・グリシコヴェツの短編『刺青』(沼野恭子訳)が掲載されていて、その中では、ある水兵がそ「の左手の親指の付け根に小さな彫り物(タトウ)というか小さな青い錨の刺青があること」に至る経緯を物語っていて、あまりの同時性に驚いてしまいました!

(3)評論家の感想もまずまずといったところでしょう。
 福本次郎氏は、「映画は、一度別れた夫と心に傷を負った男から求愛される彼女の「老いと性」を正面から見つめる。コミカルなシチュエーションと下品になりすぎない下ネタ、エスプリの利いたセリフで適度な笑いをまぶした脚本が素晴らしい」として、いつも辛口なのに70点もの高得点を与え、
 渡まち子氏は、「何より、いくつになっても母親や妻よりも「女」でありたいと願うヒロインの、前向きに生きる姿に感服する。原題は「ややこしい!」の意味。まったくそのとおりだが、いろいろあるからこそ人生は退屈しないのだ」として60点を与え、
 山口拓郎氏は、「メリル・ストリープとアレック・ボールドウィンとスティーブ・マーティンの3人で計180歳に迫ろうかというところだが、そうした年齢を感じさせないほど生き生きと元気な作品に仕上がった壮年ラブコメディ「恋するベーカリー」。今どきのクールな若者の恋よりも、こうした“オトナ”の恋のほうが断然おもしろい!?」として65点を、
それぞれつけています。

 福本氏のいうように、この映画が「老年」を巡るものなのか、それとも山口氏のいうように「壮年」に関するものなのか、微妙といったところですが、いずれにせよそのお盛んなことは見習うべきなのでしょう!


★★★☆☆


象のロケット:恋するベーカリー

しあわせの隠れ場所

2010年03月20日 | 洋画(10年)
 『しあわせの隠れ場所』を渋谷東急で見ました。

 この映画に主演したサンドラ・ブロックがアカデミー賞主演女優賞に輝いたということもありますが、おすぎの「この春、一番のスポーツ映画でしょう」という言葉に押されて映画館に行ってきました。

(1)この間見たイーストウッド監督の『インクビタス』はラグビーにまつわる話でしたが、こちらはアメフトです。
 ですが、邦題はどういう意味なのでしょう?この映画は、「しあわせ」が「隠れ」潜んでいる「場所」を明らかにしているのでしょうか 〔とはいえ、原題の『The Blind Side』では、アメフトの知識のない大部分の日本人にとっては、もっと理解できないでしょう!〕?
 ただ、なんでもかんでも“しあわせ(幸福)”といったフレーズをつければ、日本で大入り間違いないというわけでもないでしょうに!
 加えて、好悪がはっきり別れるサンドラ・ブロックが主演とあっては、いくら彼女がアカデミー賞主演女優賞を獲得したからと言って、大入りになるとは限らないと思われますが。

 そんな詰らないことはさて置くとして、映画の方は至極真面目な映画で、昨年観た『私の中のあなた』におけるキャメロン・ディアスと双璧をなすサンドラ・ブロックの演技だと思いました。ただ、あちらでは問題の子供は死んでしまう悲劇ですが、こちらは、問題の子供が成長して大成功を収める物語だという点で、受ける印象が全然違うものとなります。
 すなわち、黒人のマイケル・オアーが、アメフトのプロ選手として成功するに至るまでに、サンドラ・ブロックが扮する大金持ちの女性リー・アンが果たした役割を、随分と肯定的に描き出していて、見終わると実にスカッとした気分になります。

 とはいえ、問題点がないわけではないと思います。
・リー・アンの行為は、結果としては、各地のレースで優勝して賞金を稼ぐサラブレッドを見出した馬主とそれほど違わないではないか〔なお、マイケル・オアーが上流家庭の子弟の通う高校に入学するのを認めた学校側の判断が重要なのでは。リー・アンが彼を見出すのも、その学校に通っているときなのですから〕。
・リー・アンに見出された金の卵のマイケル・オアーは、荒んだ生活を送る母親とともに貧民街に住んでいたにもかかわらず、品行方正で高潔なのですが、どうしてそんな子供が出来上がったのかの説明が欠けているのでは(尤も、誰であってもそんな事を説明できはしないのですが!)。
・右利きのQBの左サイドは死角とされ、そこを守るOT(オフェンシング・タックル)の役割が非常に大きいとされていますが〔マイケル・オアーのポジションです〕、アメフトの知識のない者には、なかなかその点がよく飲み込めません。

 しかしながら、この映画では、サンドラ・ブロックの熱演と、マイケル・オアー役のクイントン・アーロンの落ち着いた中に闘志をたぎらしている演技とが見ものとなっており、さらにリー・アンの夫に扮しているティム・マッグロウが醸し出す優しい雰囲気とか、マイケルの弟分になるS・Jに扮する子役のジェイ・ヘッドの絶妙な演技によって、あまりそうした揚げ足取り的なことは言わないで、素直にこの映画を受け止めようという気になります。

(2)この映画は、『インクビタス』同様に「スポーツ映画」です。
 そして、これらの映画で強調されるのは、“実際にあった本当の話”なのだという点です。
 ですが、「本当の話」、「実話」とはどういうことでしょうか?
 むろん、実際の人物が画面に登場するニュース映画やドキュメンタリー映画ではなく、劇映画であって、役者(それもハリウッド・スター)が演技するのですから、映画で描き出される光景がそのままあったことでないのは、言うまでもないでしょう。
 とすると、物語の骨組みが実際にあったとおりであり、細部はリアルなものではないということでしょうか?しかし、何が骨組で、何が細部なのでしょうか?
 私は、「この話は実際にあった話である」とか「この話は実話に基づいている」とかのテロップが映画で流れると、途端に嫌な感じになってしまいます。そうでもしなければ、映画で描いている物語からリアルさがなくなってしまい、感動が得られなくなってしまう、と自信無げに宣言しているような感じを受けてしまうからですが。

(3)評論家もマズマズ好意的のようです。
 渡まち子氏は、「白人女性が不幸な境遇の黒人少年を助けたこの実話、一言で言うならば“いい話”だ」が、「この映画が単なるいい話に終わらないのは、リー・アンというサザン・ベル(米国南部の上流社会の女性で勝気な美人を指す言葉)の暴走気味の愛情に、アメリカ人が愛する母親像が確かにあるからだろう」として65点をつけています。
 福本次郎氏も、「マナーと謙虚さを教えた良識ある大人がいたからこそマイケルは裕福な白人社会から拒絶されなかった」のであり、「もう少し彼らとの関係を語ってほしかった」ものの、「マイケルと彼を“発見”し育てたリーのサクセスストーリーだけにスポットを当てることで、とてもさわやかな印象を残す」として60点を与えています。


★★★☆☆


象のロケット:しあわせの隠れ場所

しかし、それだけではない

2010年03月17日 | 邦画(10年)
 ドキュメンタリー映画『しかし、それだけではない。~加藤周一 幽霊と語る』を、渋谷のシネマ・アンジェリカで見てきました。

 2週間ほどの上映期間だというので、昔からの加藤周一ファンとしては、内容がどんなものなのかは全然確かめもせずに、先の日曜日に慌てて見に行きました。
 と言っても、亡くなった時はすでに相当高齢でしたから(2008年12月、89歳)、わざわざその映画を見たいと思う人はそんなにいないのではないか、と高を括っていました。
 ところが、驚いたことに各回ほぼ満席状態だとのこと。特に、先週の日曜日は、冷たい雨が降り続いていたものの、大勢の人が押しかけ、前回の上映が終わると、見終わった人が映画館を出ようとし、チケットを持った人は映画館に入ろうとし、合わせて、まだチケットを入手していない人が窓口に向かおうとして、雨でツルツル滑る狭い階段がニッチモサッチモいかなくなってしまい、大変でした!

(1)こういうドキュメンタリー映画について論評するのは至難の業ではないでしょうか?
 この映画の大部分は、加藤周一の語りなのです。であれば、その主張を正確に把握して検討するには、なにもこうした映画によらずとも、出版されている膨大な著書に当たるに如くはないでしょう。映画の中で加藤周一が語っていることを正確に覚えることなどできませんし、場内は真っ暗ですからメモ取りも困難です。無理をすれば、極めて不正確な内容となってしまうのがオチでしょう〔同じようなドキュメンタリー映画の『怒る西行』の場合は、まことにありがたいことに、シナリオが採録されていました!〕。

 でも、そんなことを言っていたら身も蓋もありません。以下では、加藤周一が何を映画で語っていたかを、少しだけ記してみることといたしましょう(全く不正確でいい加減なシロモノであることは、どうかお許しいただきたいと思います)。

 冒頭では、東大医学部に入学したことや、終戦直後には広島に被爆の実態調査に行ったことなど、彼の若い時分が辿られます。
 続いて、加藤周一が語り始めます。
 1941年に人形芝居を見に行ったこと、そこから能の話に飛んで、梅若万三郎の演じる「夢幻能」の話へ。そして、幽霊と語ることの意味に関し、幽霊は意見を変えないからいいのだ、と述べます。

 それから、たとえば次のように話しています。
 太平洋戦争の開始によって、自分は早晩死ぬ運命にあることを自覚した。そんな時に、絶えず暗殺を意識せざるを得なかった源実朝の『金槐和歌集』と出会って、滅び行く文化(和歌)に対する源実朝の執着に惹かれる(海について「沖」とか「嵐」を歌い込んだ歌人は、彼を除いていないのだ)。
 自分も彼も、“未来”はなかった。自分は26歳で終戦を迎えたが、26歳で暗殺された実朝と自分とを重ねて考えたりした(注1)。

 さらに、次のようにも語ります。
 友人の中西は、南方に派遣される途中、東京湾を出たところで米国潜水艦による攻撃によって戦死したが、そういう運命は自分が遭遇しても全然おかしなことではなかった。
 こうした強制的な死(死刑と戦争)には反対する。
 他方で、戦時中、言語学者の神田盾夫は、皆が国民服を着ていた時代に、ロンドンであつらえた背広で通勤し、またフランス文学者の渡辺一夫は、日記をフランス語で書いた。
 彼らは、戦争中に戦争に反対していたごく少人数の人たちだ。

 東大駒場での講演会(2006年12月8日)では、次のようにも話しています。
 「憲法9条擁護」という点で、老人と若者との結託ないし同盟が可能ではないか。というのも、若者は大学4年間が自由であり、老人は定年退職してから死ぬまでの期間が自由だから、自由なもの同士で手を握ることができるのではないか。
 世界に意味を与えるのは、それぞれの人間が持っている小さな意識なのであって、それは「平和」でなければ成立しない。だから平和が大切なのだ。

 死ぬ4か月前には、自宅で次のようにも語っています。
 10年後の未来は分からない。ただ、10年間憲法9条を守っていれば、少なくとも平和ではあるだろう。

 以上は語りに関してですが、残りの部分、たとえば、源実朝を高く評価している語りの部では、その著名な和歌と荒海の映像が流されたりします(ただ、私にはそんな事をする意味が全くわかりませんでした。源実朝が、現代歌人のように、実際の荒海を見てその光景をリアルに若に仕立て上げたとは考えられないからですが)。

 さて、こんな風に申し上げると、この映画がわざわざ制作されて一般公開されるに至った背景もおのずと分かろうというものです。要すれば、憲法九条擁護運動の一環として制作された、政治色の強いドキュメンタリーものといえるでしょう(注2)。
 なにしろ、見終わってから調べてみてわかったことですが、この映画の監督は、ノモンハン事変、アウシュビッツ、南京大虐殺などに関するドキュメンタリー番組を制作しているNHKディレクター・鎌倉英也氏なのです。
 先の、荒海の映像などは、日本が先の太平洋戦争に突入するに至る過程を象徴するものとして挿入されているのでしょう。

 なお、この映画では、東大構内の雑草が生い茂る一画に置かれた簡単な椅子に座って話す加藤周一の映像が映し出されます。また、構内を案内するかのごとく歩く姿も映し出されます。こういう映像を見ると、歩く速度は随分と早く、また眼光は鋭いものがあるものの、背中が相当曲がっていたりして、あの格好良かった人にしては随分と哀れな姿になってしまったな、とショックを受けました。
 ラストでは、亡くなる4ヶ月ほど前の自宅における映像が映し出されます。ただ、抗癌剤を飲んでいるとかで相当弱っている感じで、にもかかわらず語りの情熱は途切れずに熱心に話すものですから、もういいですよ、ゆっくりお休みくださいと言いたくもなってしまいます。

 全体としての印象ですが、この映画にもっと別のものを期待していたことから(あの切れ味鋭い物言いで、日本文化の最近の動向を縦横に分析してもらいたかったのです)、加藤周一があまりに戦争の話ばかりするため、かなり失望したというのが偽らざるところです。
 それでも、晩年の彼の姿を目の当たりにすることができ、感銘を深くしたのも事実です。


(注1)全くの偶然ですが、3月10日には、実朝を暗殺した公暁が隠れていたとされる大銀杏の巨木(樹齢1000年とされる)が、強風で倒れてしまいました!
 ただ、16日には、幹の植え付け作業が終わり、今後の再生が期待されるとのことです。
(注2)ご丁寧なことに、日曜日のお昼の回のあとでは、「九条の会」の事務局長である小森陽一・東大教授によるトークまで設けられ、より政治色が鮮明に出た催し物になってしまいました。


(2)ところで、このドキュメンタリー映画の最初の方では、信濃追分にある山荘の話がなされ、その現在の様子も映し出されます。
 『高原好日』(ちくま文庫)は、同地で出会った人々のことを綴った新聞連載をとりまとめたものですが、東京生まれの自分にとって、信州追分のある浅間高原は、「生涯を通じてそこへたち帰ることをやめなかった地点であり、そこに「心を残す」ことなしにはたち去ることのなかった故郷でもあるだろう」と加藤周一は述べています。




 さて、このブログの2月6日の記事で加藤周一について述べた際、その死を悼む核科学者・垣花秀武氏の文章を取り上げましたが、本書の中には、逆に加藤周一が垣花秀武氏について語った文章があります。
 そこでは、垣花氏の自然科学者でありカトリック信者でもある面に触れた後、「日本の伝統的文化への愛着」という「さらに第三の面」があるとして、「1941年12月8日の夜、新橋演舞場での文楽の引っ越し公演」の客席に同氏を見つけたことを書いています。
 おそらくこの出来事が、このドキュメンタリー映画の最初の方で「1941年に人形芝居を見に行った」と加藤周一が語っていることに符合するのでしょう。 



★★☆☆☆



パレード

2010年03月14日 | 邦画(10年)
 『パレード』を渋谷シネクイントで見てきました。
 予告編を見て興味をおぼえ、また監督の行定勲氏による前作『今度は愛妻家』が素晴らしかったこともあり、こちらもぜひ見てみようという気になりました。

(1)一見したところでは、今度の映画も、監督の前作と同じように、戯曲を映画化したものではないかと受け止められる恐れがあります。なにしろ、マンションの一室(2LDK)が主な舞台であって、リビングに接する2つの部屋への人の出入りを見ていると、そんな感じにもなってしまいます。
 ただ、主たる登場人物が、前作の場合2人(豊川悦司と薬師丸ひろ子)でしたが、こちらでは5人と増えているだけでなく、外部とのつながりもかなり設けられているので、全体としてはあまり戯曲めいた感じは受けませんでした(実際も、吉田修一氏の小説が原作です)。

 主な出演者は、28歳の藤原竜也が一番年上であり、中でも注目株の林遣都は19歳と若く、それからすれば青春映画そのものといえるかもしれません。特に、このマンションの一室では、二人の若い女性(香里奈と貫地谷しほり)も一緒に同居していますし。

 ですが、この作品が単なる青春映画と言えないのは、それら同居する若者の間の恋愛関係ではなく、むしろ付かず離れずのはっきりとしない関係、はっきりと真実の姿を見定めるのではなく、そんなことをしたらこの居心地のいい場所が壊れてしまうから適当な距離を置いて付き合うという関係が主に描かれているからです。

 そういうところから、精神科医の樺沢氏のような評価が出てくるのでしょう。すなわち、同氏は、「若者たちが抱える「孤独」の問題。表の顔と裏の顔という人間の二面性。依存と自立など、深い人間心理が描かれていて見応えのある作品であった」と、その『映画の精神医学(まぐまぐ)』で述べています。
 ただ、「若者たちが抱える「孤独」」といったテーマならば、これまでにも随分と映画で取り上げられており、むしろ、現代の若者を描きながらそんなテーマを無視した映画の方が見つけにくいというべきかもしれません(注1)。

 としたら、この映画はどういうところが目覚ましいのでしょうか?
 私としては、この映画で描き出されるマンションの一室は、樺沢氏がいうように、「一緒にいるだけで、何か「ホッ」とする」ような「居場所」、「リラックスできて、心からゆったりとできる場所」であるとしても、決して自由気ままに何の制約もなしに過ごせる場所ではなく、それを維持するために暗黙のルールが設けられているのであって、それが映画でうまく描き出されている点に興味を持ちました。

 たとえば、その一室の中には恋愛関係を持ち込まず、皆がその外部に相手を求めているのです。フリーターの小出恵介は、先輩の彼女といい仲になりますし、貫地谷しほりはイケメン・タレントからの電話を心待ちにしている毎日を送っています。先輩格の藤原竜也は、別れた彼女とだらだら関係を続けているといった具合。一緒に密接に生活していながらも、この内部では誰も恋愛関係に陥らないのです(林遣都は男娼です。また、香里奈が扮するイラストレーターは、特定の相手は持っていませんが、なかなか複雑な性格を持っています)。

 樺沢氏は、このマンションの一室を、「ゆるい関係性」を持った「居心地のいい場所」ととらえていますが、お互いに深い関係にならないように行動するというルールが厳然とあって、むしろ「夫婦、親子という濃い人間関係の場」である「自宅」よりも、ある意味で「濃い人間関係」のある場所となってしまっているといえるかもしれません(注2)。
 だからこそ、ラストで大変な事件を引き起こす藤原竜也に対して、ほかの皆が何事もなかったかのような態度を示すのではないでしょうか?そのことが藤原竜也にもわかって、立ち上がれないほどの衝撃を受けるのでしょう。


(注1)樺沢氏がことさらめかしく、「現代の日本人が抱える重要問題として、「孤独」「孤立」というのを以前から考えていた」とし、この映画について「今時の若者に広く存在する「孤独」というものを、深くえぐっているような気がした」と述べているのは、つとにリースマンの『孤独な群衆』が1950年に出版されていて(翻訳は1964年)、そんな問題意識は今や一般化され陳腐化しているところからすれば、何をいまさらという感じになってしまいます。
(注2)樺沢氏は、「趣味サークルの集まりだったり、行きつけの居酒屋やバーだったり」する「心からリラックスできる「居場所」を持っている人は、リフレッシュもできるし、クリエイティブな刺激も受けます」などと至極楽観的なことを述べていますが、そうした一見「ゆるい関係性」しかないように見える場所にも厳然と一定のルールは設けられていて、おのずと「濃い関係」になってしまっているのではないでしょうか(特に、現代日本においては)?
 あるいは、「ゆるい」「濃い」という対立からではなく、農村共同体的な「和」を重視する「居場所」と近代的な「個」を重視する「居場所」とがあるというように捉えることができるかもしれません。


(2)この作品は、吉田修一氏の小説を映画化したものです。
 渡まち子氏が述べているように、原作は、「登場人物それぞれの視点から描かれる一人称の物語5話」から構成されています。この5つの物語は、それぞれ別々の人格が語るわけですから、一つ一つが分離しています。ただ、ズレていながらも重なり合っている部分もあり、結局、5話を通して全体のストーリーが浮かび上がってくると言えるでしょう。
 もしかしたら、5人が語る話が、それぞれ一つ一つ分離しているようでいながらも横につながっていることから、小説の題名が選ばれたのではと思えるところです。

 これに対して映画の場合、登場人物(一人称)が見ることのできる光景をつないで全体を作ることはできないわけではないものの、一般的には、“三人称(神)の視点”から“俯瞰的”に全体を把握するようにしか描き出しません〔勿論、三人称の視点で作られるといっても、一人称の視点も紛れ込んでいるのが普通ですが〕。
 この作品の場合、登場人物の名前と職業が5回に分けて途中で画面に表示されるものの、むろん小説のように5つの視点に分割されているわけではなく、通常の映画のように、三人称の視点から全体として一貫したストーリーが展開されます(注1)。
 渡まち子氏が、「小説とは違い、映画は5人の関係性を俯瞰して淡々とみつめる」と述べているのも、そういう意味合いのことだと思われます。
 したがって、話が分離しながらもつながっていてラストに至るという小説から受ける印象は、この映画からは観客はうまく得られない感じです。『パレード』というタイトルに対する違和感が、最後まで残ることになってしまいます。

 渡まち子氏は、引き続いて、「小説とは違い、映画は5人の関係性を俯瞰して淡々とみつめる。その距離感がリアルなのだ」と述べています。具体的には、「若者のユルい共同生活には、表層的な付き合いで充足する人間関係の歪みや、日常性さえ持つ犯罪への麻痺感覚が透けて見える」というわけです。
 ただ、そのような点なら、映画に限らず、吉田氏の小説の方でも十分に書き込まれています。
 ですから、この点(何がリアルなのか)は、比較すべき事柄ではなく、描いているメディアの違いという点から議論すべきではないかと思いました(注2)。


(注1)黒澤明監督の『羅生門』とか、最近見たベルギー映画『ロフト.』のように、同じ出来事について別々の人格が違った内容のことを語る、というようにこの映画が作られているわけではありません。
(注2)最近読んだ『日本語は亡びない』(金谷武洋著、ちくま新書、2010.3)には、「日本語における<我>は、決して「対話の場」から我が身を引き離して、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線をもたない。<我>の視線は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である」などと書かれています(P.106)。
 あるいはもしかしたら、吉田修一氏の小説と行定薫氏の映画との違いも、ここらあたりにあるといえるかもしれませんし、ハリウッド映画に代表される洋画と、小津安二郎の映画(ローポジション!)に代表される邦画との違いも、こんなところにあるかも知れないなどと、いい加減な夢想に耽ったりしています。
 なお、大変興味深いことに、金谷氏の著書では、樺沢氏が注目した「居場所」について、別の視点ながら分析されているのです(同書P.136)!

(3)この映画に対しては、評論家も意見が分かれるようです。
 上記の渡まち子氏は、「久しぶりに行定勲監督の才能を実感した。秀作「GO」に次ぐ出来だと思っている」として70点をつけています。
 他方で、前田有一氏は、「噂のラストも、本来なら気味悪さ+説得力あり+しかも共感、といったあたりを狙えばもっといい味を出せたのだが、不発である。これは登場人物がこぞって変なやつらばかりで、その奇抜さを解消せず突っ走ったのが原因と思われる」などとして55点しか付けず、
 福本次郎氏も、「結末にたどり着くまでのエピソードの蓄積が弱く、意味ありげで思わせぶりなプロットの連続は、監督の謎かけにつきあわされているようで、結局何が言いたかったのと問い詰めたくなる。本心を偽りうわべを繕うのは、ルームシェアを良好な状態に保つための都会的若者の知恵なのは理解できたが。。。」として50点です。

 前田氏は、「犯人も最初の30分でバレてしまうのである。警戒している人間をだます難しさを、ミステリを作る脚本家、監督たちはもっと認識してもらいたい」と御託宣を垂れています。
 ですが、劇場用パンフレットには、「ネタバレ注意」といった断り書きもなく、「ある雨の夜、いつものようにジョギングする直輝は、すれ違った若い女性にスパナで殴りかかった」ときちんと書かれているところから見ても、この映画はサスペンスとして作られてはいないことがわかります。「犯人も最初の30分でバレてしまう」のも、決して前田氏が自漫気に語るべき事柄でも何でもないのです。
 さらに、「ロケ地も明大前、浅草、新宿等々、動線として不自然さを感じ」させるとしていますが、それは言わぬが花というものではないでしょうか。そんな事にいちいち不自然を感じてしまったら、時代劇映画など見れたものではないでしょう。
 また、福本氏は、「本心を偽りうわべを繕うのは、ルームシェアを良好な状態に保つための都会的若者の知恵」だなどとまじめに受け取ってしまっていますが、この映画は何も「ルームシェア」の在り方を問題にした映画ではないと思いますが。


★★★★☆


象のロケット:パレード

食堂かたつむり

2010年03月13日 | 邦画(10年)
 『食堂かたつむり』を恵比寿ガーデンシネマで見てきました。

 予告編で見たときから面白そうだなと思い、見に行こうとしたところがなかなか時間がうまく合致せずに、映画館に行くのがこんなに遅れてしまいました。

 この映画に対し前田有一氏は、4点という極端に低い点数をつけています。
 その論評を読んでみますと、「「人物描写が浅い」「期待はずれ」「話が薄い」「突っ込みどころ満載」などといった生の読者の声を、きっと富永まい監督も読んだのだろう。この映画版を見た人も、原作を読んだ人たちと同じ感想を持つことができる、きわめて原作に忠実な実写化となっている」などと、ストーリー紹介から論評に移った途端に、強烈な反語的表現による酷評がこれでもかと続き、末尾の「邦画では貴重なカルトホラーとして、まれにみる傑作の誕生となった」に至ります。
 いくら気にくわないからと言って、これほどの厳しい批評をした人にこれまで遭遇したことがありません。

 確かに、「突っ込みどころ満載」の映画でしょう。
 1日に1件の客しか受け入れず、一つ一つの料理にあれほどの食材を投入して時間をかけていては経営などおぼつかないでしょうし、おばあちゃんから糠漬けは教わったにしても、各国料理の精髄をいつの間にどうやって習得したのか、ジュテームスープを飲んだら愛が芽生えるというのも如何にも幼稚な感じであり、満島ひかりは、サンドイッチに虫を入れた張本人にもかかわらず、いつのまにか結婚式で皆と一緒に楽しく食事をしていたり、それに……。

 ですが、映画の冒頭から、ファンタジー映画なのだと割り切ってしまえば〔だって、食堂を取り囲む風景に「おっぱい山」を見たら、この映画をファンタジー以外に受け取りようがないではないですか!〕、そんなことはすべてどうでもよく、前田氏が酷評するほど駄目な映画ではないのではないか、むしろ大変楽しい映画ではないか、と思えてきます。

 こんなすごい料理を食べることができ、同時に夢まで叶うことができたら、それは素晴らしいことだなあ、そんなことが実現したら世の中どんなにいいだろうな、さらには、トレイに入っているロース肉などとしてしか接していない豚とあのように通じあえたらどんなにいいだろうな、死ぬ間際に思い焦がれていた人と結婚できたらどんなに素敵だろうか、などというところを映画にしてみたのでは、と受け取ってみたらどうでしょう。

 そんなことは子供騙しで馬鹿馬鹿しいというのであれば、それはそれで仕方のないことです。ですが、だったら一人でそう思っていれば済むことで、あるいは見なければいいのであって、前田氏のように大上段に構えておおぴらに批評するのは、実に大人げないことだとしか思えないところです。
 子どもの絵本を見る感じでこの映画に接すれば、「原作者は、食というものを根本的に勘違いしている(もしくはそう装っている)」などといった高飛車な物言いは飛び出さなかったことと思います。

(2)この映画の原作本について、amazonのカスタマーレビューを見ると、ペットとして飼っていた豚の「エルメスの」のところが一番の問題のようです。 
 下記の小梶勝男氏も、「余貴美子が演じる母親が、自分がガンであることを知り、それまで可愛がっていたブタを突然、「食べる」と言い出すという、それだけなのだ。ブタを食べるという行為や意味は提示されるが、それが提示されるだけでドラマになっていかない」と批判的です。
 ただ、この点については、宗教学者・文化人類学者の中沢新一氏の『熊から王へ(カイエ・ソバージュⅡ)』(講談社選書メチエ、2002年)が、あるいは参考になるかも知れません。

 たとえば、中沢氏は、次のように述べています。
 「アメリカ・インディアンたちは鮭を捕り、肉や内臓をきれいに食べた後、残った骨や皮の部分をじつに丁寧に取り扱いました」。「なるべく骨を折らないようにして、丁重に川に流したのです」。「トナカイや熊などの動物を人間は長いこと獲ってきましたが、これらの動物の内臓にはとりわけデリケートな配慮が必要だとされてきました。内臓は丁寧に扱われ、その社会で最も高貴な人々だけが、口にすることができたと言われています」(P.15)。

 また、サハリン中部以北などに住むニヴフの人々の「熊送り」の儀礼が取り上げられています。
 中沢氏によれば、小熊のころから大層可愛がってきた熊が2,3歳になったころを見計らってこの儀式が行われます。「木に結わえつけれれた熊は儀礼用の矢で射られて死」にますが、「人々は亡くなった熊のからだを、細心の注意を払いながら解体します」。「そうやって解体と熊の霊の送りが完全におこなわれると、熊の霊はよろこんで、人間への友愛を回復してくれるというのです」(P.85)。

 映画において、結婚式のパーティーで、各国の料理が豚のエルメスのどの部位を使ったものかを示すボードが登場しますが、このことで、皆が如何にエルメスを丁重に取り扱ったかが示されているのではないでしょうか?
 また、窓にあたって死んでしまった鳩を丁重に扱って料理したことのお礼として、倫子の声が蘇るのではないでしょうか?

(3)評論家諸氏は、前田氏ほどではないにせよ、総じて辛めの評価です。
 小梶勝男氏は、「真っ向から「癒やし」を描かれると、見ていてどうにも居心地が悪い。映画の中で登場人物たちが癒やされるほどには、観客は癒やされない」、「何故か今ひとつ、すべてが心に響いてこない。いろんなものを一通り並べただけ、のような印象なのだ」として、同氏としてはかなり低めの66点を付けています。
 渡まち子氏は、「柴咲コウ自身が作っているという料理シーンにうそがないことや、余貴美子演じる母親のキャラが抜群に立っていることで、お互いに屈折しながら歩んできた母 と娘の和解の物語として味わうことができる。料理がもたらすとされる幸せが、劇的な変化ではなく、何かのきっかけになるささやかなサイズであることが好ま しい」として、かろうじて55点を付けています。
 福本次郎氏となると、「もともとスカスカな内容の原作は映画化でいっそう隙間風を吹かせてしまった」として30点です。
 福本氏は、「ヒロインの半生を手短に紹介するイントロ部分は、魔法の国の扉を開けるようなメロディに乗せた歌と簡潔な映像でテンポよく語られる。これからどんなおとぎ話が展開するのかと期待はふくらむが、ブタを飼う母親が出てくるあたりで急速にしぼんでしまう」と述べているところ、「ブタを飼う母親が出て」くれば、普通ならばおとぎ話としての「期待」が一層ふくらむのではないでしょうか?
 それに、「熊さん」や「お妾さん」が一人で食べている光景は「味気ない」と述べていますが、ここは観客と一緒になって食べていると想像力を働かせればいいのではと思います。


★★★☆☆

象のロケット:食堂かたつむり

新しい人生のはじめかた

2010年03月10日 | 洋画(10年)
 『新しい人生のはじめかた』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

 予告編で、ダスティン・ホフマンの主演映画だとわかり、久し振りだから見てみようということになりました。

(1)ダスティン・ホフマンは、『卒業』とか『クレーマー、クレーマー』、『トッツィー』などで演技力のある素晴らしい俳優だなと思っていましたが、その後はあまりパッとせず(というか、私の方であまり追跡しませんでした)、3年ほど前の『パフューム』で見かける程度だったところ、今回の主演です。
 この映画では、すでに72歳すぎながら、まったく老いを感じさせず、実に若々しい演技を披露しているので、驚いてしまいました。ただ、翌日のデートに心が躍って、ホテルの階段を歩いて昇るうちに、持病の不整脈が現れて救急病院に運ばれるというシーンがありますが、さすがにそんなことをしてはやり過ぎだよな、という思いに観客はなってしまいますが。
 相手役のエマ・トンプソンは、婚期を逸した40代の女性の役で、新しい事態に飛び込むのが怖い、恋愛は小説の中で味わえば十分だ、といった気分を持った女性をトテモ巧みに演じています(実年齢より5歳~10歳若い役柄です)。

 この映画のストーリーは、アメリカからイギリスにやってきた初老の男性と、ロンドンに住む女性とが紆余曲折を経て一緒になるというもので、見終わった後とても癒された感じになります。

 ただ、映画のように幸福な結末に至るには、現実には様々な障害があって、実際にはかなり困難なことでしょう。
 たとえば、次のような環境が必要なのかもしれません。
・親とか子供がいても、ある程度自由に行動できること。
・それぞれ所得を得る職業に就いていること。
・自分に対してよりも相手に対してより大きな気遣いができること。

 これらのうち、気持ちの持ちようといった部分は努力によってある程度カバーできるにしても、親とか子供の存在は、簡単に解決できない問題でしょう。
 この映画では、ダスティン・ホフマンの方は、離婚相手に引き取られた娘(その結婚式に出席するためにイギリスにやってきました)がいるだけで問題はマッタクなく、またエマ・トンプソンの方には年取った母親がいるものの、隣家の男性となんとかうまく付き合っていけそうだということになり、結局二人ともかなり身軽なものですから、ラブストーリーはうまく進展しました(ただ、ダスティン・ホフマンは、アメリカでの仕事をなげうってロンドンに住み着こうとしますから、一体今後どのようにして所得を得ていくのか、という問題は残りますが)。

 ですが実際には、自分が年をとってくると、介護しなければならない親に直面したり、いつまでも親の脛を齧り続ける子供がいたりして、とても恋愛どころの話ではないのではないでしょうか?しかし逆に、だからこそ、こうしたハッピーエンドで終わる映画を見て心が癒されるのかもしれませんが。

(2)アメリカ人が結局はイギリスに住み着くようになる物語ですから、ヘンリー・ジェイムズの小説でも取り上げればいいところ、ここでは目先を変えて、あまり映画とは関係なく、唐突過ぎるきらいはあるものの、「統計のウソ」に少し触れてみましょう。

 というのも、ヒロインが就いている職業が、空港の統計局員で、飛行機の乗客に対するアンケート調査をしているからですが(ヒロインが、調査をしようとダスティン・ホフマンに接触したのが、この物語のそもそもの出発点なのです!)。

 さて、最近、「極東ブログ」において、「地球温暖化防止には気象観測所を増やしたらどうかという間違った提言について」というタイトルの記事が掲載されました(2月24日)。
 その記事では、「科学と政策研究所(SPPI)」から1月23日に公開された報告書に掲載されているグラフが示されます。
 このグラフについて、ブログ作成者は、「地球温暖化が加速する1990年代以降、気温の観測所の数が激減している」さまが読み取れ、「グラフを一見する限りでは、観測所数の低減が地球の温暖化をもたらしているようにも見え」、であれば、「このデータからは、観測所の数を1990年代以前にまで増やすことで、温暖化防止が実現できるのではないかという期待がもてそうだ」と述べます。
 ですが、すぐに、「そんなわけないです。すいません。悪い冗談でした」と手の内を明かしてしまいます。
 要すれば、ブログ作成者は、「BがAに続いて起こるなら、AはBの原因であるとする誤謬」(注)を使って冗談話をしてみたわけでしょう。
 ただし、「グラフ自体には冗談は含まれて」おらず、「地球温暖化の統計の背後に、観測所の低減という事実は存在する」ようです。

 統計というのは、それだけでは真実の姿を現すものではなく、極端に言えば、読み取り方次第、使い方次第で如何様にでもなります。この映画のヒロインは、こうした統計の原データを作成する仕事に就いているわけで、あるいは実際の生活に間接的にしか触れていない、という感じを持っているのかも知れません。恋愛も小説を読むことで済ませているようなところがあり、全体として、真実の人生体験からはなるべく距離を置いたところにいたいと思っているのかも知れません。そうしたところに、ダスティン・ホフマンが現れたというわけです。


(注)ダレル・ハフ著『統計でウソをつく法』(ブルーバックス B-120)P.142。

(3)映画について評論家の感想は次のようです。
 渡まち子氏は、ヒロインのケイトにつき、「恋や夢を諦めてしまうのは、その方が楽だからだと言う彼女は、本当はチャレンジが怖いだけ。ちょっとモッサリとしたエマ・トンプソンがそんな中年女性の屈折を繊細に演じていて上手」く、「決して華やかな作品ではないが人生の豊かさを感じさせる小品。ロケ地であるロンドンの街のプチ探訪気分を味わえるのも楽しい」として60点をつけ、
 福本次郎氏も、「もう若くないふたりの、とりあえず不幸ではないけれど、このまま近づいてくる老いへの漠然とした不安がリアルに再現されて」おり、「人と人の出会いはタイミングと好奇心、日々のルーティーンから少し寄り道してみようという気にさせる映画だった」として50点をつけています。

 二人の評論家は、どちらも全く問題点は挙げずに辛めの点数をつけているところ、まずまずの出来栄えだということなのでしょう。


★★★☆☆



象のロケット:新しい人生のはじめかた