映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ノア 約束の舟

2014年07月28日 | 洋画(14年)
 『ノア 約束の舟』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て興味を持ったので映画館に行ってみました。

 本作(注1)のはじめの方では、アダムからノアまでの系譜が辿られた後(注2)、成人したノアに対して父のレメクが「アダムの子孫のお前が仕事を引き継ぐのだ」と言って蛇の皮を手渡そうとしているところに、トバル・カインレイ・ウィンストン)率いるカインの末裔の集団が襲いかかります(注3)。
 ノアは岩陰に隠れて助かりますが、父のレメクは殺されてしまいます(蛇の皮はトバル・カインに奪われます)。

 場面は変わって、ノアラッセル・クロウ)は家族と暮らしています。
 天幕の家に妻のナーマジェニファー・コネリー)と三男のヤフェトレオ・キャロル)がいて、ノアは長男のセムダグラス・ブース)と次男のハムローガン・ラーマン)を外に連れ出して様々なことを教えます。
 そんな時に、ノアは、夢を見ます。
 先ずはエデンの園の様子。
 次いで、ノアが家の外に出てみると、地面が血でぬかるんでいて、雫が垂れると花が咲いたりしますが、突然、大洪水に襲われて水中に。ノアの周りじゅうは死体だらけ。
 驚いてノアは飛び起き星空を眺めます。
 妻が「神のお告げ?」と尋ねると、ノアは「そう思う」と答え、さらにナーマが「お救いくださるの?」と訊くと、ノアは「神は世を滅ぼす」と応じます。



 神のお告げの真意を聞き出すために、ノアの一家は、赤い山に住む祖父のメトシェラアンソニー・ホプキンス)に会いに出かけます。
 途中で、廃墟となった村のガレキの中に、女の子・イラエマ・ワトソン)が瀕死の重傷で倒れているのを見かけます(注4)。
 その時、その村を襲ったカインの末裔たちが戻ってきたので、ノアたちはイラも連れて逃げます。

 そこに番人(ウォッチャー)と呼ばれる堕天使が現れ(注5)、彼らをメトシェラに案内してくれます。
 さあ、ノアとメトシェラとはどんな話をするのでしょうか(注6)、いったい「ノアの箱舟」とはどんなものなのでしょうか(注7)、そして………?

 本作は、旧約聖書の創世記にあるノアの箱舟の話を実写化したもので、巨大な箱舟とか、それに乗り込む沢山のつがいの動物たち、さらには大洪水の光景といったものが大層うまく映像化されて、中々の迫力です。とはいえ、よりリアルな人間的な話にしようとノアの家族の構成を創世記とかなり異なるものにした点などは、逆にそれほど説得力を持たないようにも思いました(注8)。

(2)皆さんが指摘していることながら、念の為に述べておきます。
 旧約聖書の創世記では、ノアは500歳になって、3人の息子を生み(5章32節)、また神の啓示を受け(6章13節)、洪水が起きた時は600歳だったとされています(7章6節)。
 こうしたノアの年齢にどこだわる必要性は乏しいとはいえ(注9)、少なくともその家族構成については、創世記と本作とでは随分と違っています。
 すなわち、創世記においては、「ノアと、ノアの子セム、ハム、ヤフェトと、ノアの妻と、その子らの三人の妻とは共に箱舟にはいった」(7章13節)とされているのに対し(全部で8人になります)、本作では、ノア、ノアの妻ナーマ、セム、セムの妻イラ、ハム、ヤフェトの6人に過ぎません。
 さらに、創世記では、「神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(9章1節)と述べられているところ、本作では、ノアは「人類は終わるのだ。セムとイラはナームと私を埋葬し、ハムがセムとイラを、ヤフェトがハムを埋葬する。ヤフェトが最後の人間となる。そして、ヤフェトも塵となるだろう。こうしてパラダイスがやってくるが、そこには人間はいない」と言うのです(注10)。
 これでは、創世記が述べていることとは随分と違ってきてしまいます。
 本作のノアは、この世の穢れの原因はすべて人間にあり、彼らがいなくなりさえすれば、この世は元のパラダイスに戻るだろうという究極のエコロジー哲学を展開しているようです(注11)。
 これに対して、創世記では、8人のノアの一族からその後の人間たちが生まれ出たとされていて〔「この三人(セム、ハム、ヤフェト)はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである」9章18節〕、神はそれを祝福しているのです。

 もちろん、本作においても、実際には、ノアは自分の言ったことを実行せずに、結局は創世記と同じような事態がもたらされます(注12)。
 だとしたら、どうして創世記の設定をわざわざ変えてしまったのでしょうか?

 とはいえ、創世記のとおりに映画化したのでは、随分と盛り上がりに欠けた平板な作品になってしまったかもしれません。ハムの設定を変えることによって、この話が随分と人間的でドラマティックなものとなりましたが、それと同時に、創世記に描かれた神話という性格がかなり失われてしまったのでは、と思っています。

(3)渡まち子氏は、「聖書的解釈はさておき、一滴の水からみるみる花が芽生え、森ができ、川が大地を潤す奇跡の映像美と、大洪水のスペクタクルの迫力には間違いなく圧倒される」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「「ノア 約束の舟」はどんな映画かというと、この監督らしい突き放したクールな視点による、ノアの大洪水伝説の新解釈、である。パニックやアクションなど娯楽要素もかなり強い。いや、厳密には新解釈というよりも、どこか非現実的な寓話にすぎないあの話を現実に持ってくると、じつはこんな風になるんですよと、そういうことをやっている」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「額面通りの教義的な側面はあるものの、一大スペクタクル、アクション、ヒューマンドラマと見どころの詰まった娯楽作であった」と述べています。



(注1)原題は「NOAH」。監督は、『レスラー』や『ブラック・スワン』などのダーレン・アロノフスキー

(注2)アダムとイヴ→カインとアベルとセト→カインはアベルを殺し、その子孫が文明を築きますが、同時に悪をまき散らしました。また、セトの子孫がノア。

(注3)トバル・カインらは、レメクらがいる原野の地中からZoha(Zoharに関係するのでしょうか)を掘り出して、我らの土地だと叫びます。

(注4)ナームは、イラがもう子供が作れない体だとノアに告げます。

(注5)番人は、「我らを助けたのは、お前の祖父だけだ」、「お前の中に、アダムの面影を見る。アダムは、我々が助けようとした人間だ」、「我々は人間を助けようとしたために、神に罰せられた」などと語ります。

(注6)メトシェラは、「父のエノクから、人間がこのままの所業を続けるのなら、神はこの世を絶滅させる」「逃れるすべはない」「神は火によってこの世を破壊する」などとノアに語ります。
 それに対して、ノアは、「自分が見たのは水であり、火はすべてを壊滅してしまうが、水は浄化する。穢れたものとそうでないものとを分ける。神はすべてを破壊するものの、再生のきっかけは残してくれる」と言います。
 するとメトシェラは、「エデンの園で得たこの種が必要になろう」と言って、種をノアに手渡します。

(注7)創世記に「箱舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビト」とあるのを踏まえて(6章15節)、本作では「長方形の箱」型にしたようです(劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」にある監督談話より)。



(注8)最近では、ラッセル・クロウは『スリーデイズ』、レイ・ウィンストンは『ヒューゴの不思議な発明』、アンソニー・ホプキンスは『ヒッチコック』で、それぞれ見ています。

(注9)映画に映しだされるノアを500歳だとみなせばいいのですから。

(注)ノアがイラをセムの妻として受け入れたのも、イラが子供を産めない体だと思い込んでいたからでしょうし、ハムの相手のナエルをノアが見捨てたのも、子供を作ってほしくなかったからでしょう。
 でもそんなことなら、箱舟に乗るのはノアだけにすれば、ノアが理解した神のお告げはたちどころに達成できるでしょう(ノア自身も乗船しなければ、達成できるでしょうが。やはり、箱舟に乗り込んでいる動物を世話したりする者が必要なのかもしれません)。

(注11)本作において、ノアがセムとイラの間に出来た双子の女の子を殺してくれれば(あるいは、ノアの祖父メトシェラがイラの傷を治してしまわなければ)、イスラエルとハマスとの戦争も、ウクライナでの戦闘やシリア、イラクでの戦争もなかったのになと思ったことでした。でも、その場合には、こうした伝承自体が残らなかったでしょうが。

(注12)ハムは旅に出てしまい、ヤフェットは幼いままですが、子供を産めない傷を負ったとされたイラも、メトシェラが手を当てることによりその傷が癒えて双子の子供を産むのですから。
 それに、ノアにしたって子供が出来ないこともないかもしれません〔創世記によれば、メトシェラは「レメクを生んだ後、782年生きて、男子と女子を生んだ」(5章26節)のですから〕。



★★★☆☆☆



象のロケット:ノア 約束の舟

マレフィセント

2014年07月22日 | 洋画(14年)
 『マレフィセント』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)待ち合わせまで時間があったということもあって映画館に入ってみました。

 本作は、1959年のディズニー・アニメ『眠れる森の美女』を改作したもの。

 まず、「人間の国」と「ムーア国」(注1)とが隣り合っていたものの、仲が悪いとされます。
 人間の国はヘンリー王が支配していて、ムーア国をも支配下に置こうとしています。

 これに対して、ムーア国は魔法の国であり、人間の国では見かけない生き物がいろいろ住んでいます。
 崖に生えている大きな樹木に住む妖精のマレフィセントもその一人。両角と翼を持つ女の子で、その翼で空を飛び回ります。
 そんなところに、見張番が国境の宝石池で人間を見たとの話が。
 マレフィセントは、人間を見てみたいと思ってその場所に行きます。
 隠れていた洞窟から出てきたのは、人間の男の子のステファン
 二人は何度も会って話す内に、共に両親がいないことがわかったりし、憎しみは消え、友情からいつしか恋心が。16歳の時、ステファンはマレフィセントに「真実の愛のキス」を贈ります。

 その後、マレフィセントアンジェリーナ・ジョリー)は、ムーア国で最強の妖精となります。



 他方で、人間の国のヘンリー王は、ムーア国を滅ぼしてその財宝を手に入れようと目論見、攻撃を仕掛けますが、逆にマレフィセントらに反撃されてしまい、瀕死の重傷を追ってしまいます。王は、翼を持った妖精に復讐した者が自分の後継者になると宣言。
 今や野心家となったステファンシャールト・コプリー)は、密かに再会したマレフィセントを騙して眠らせ、その隙に彼女の翼を切断して王のもとに証拠品として持参し、王の後継者となります。

 ステファンの裏切りを許せず復讐心に燃えるマレフィセントは、ステファン王と王妃との間に女の子が生まれたと知ると(注2)、その子のオーロラ(注3)に呪いをかけるのですが、さてその呪いとはどんなもので、マレフィセントとオーロラとの関係はどのようなものとなるのでしょうか………?

 本作は、ディズニー・アニメ『眠れる森の美女』を改作し実写化したもので、主役のマレフィセントに扮するアンジェリーナ・ジョリーの演技とか、妖精たちが飛び交うムーア国の光景などのCGとかはなかなか優れているものの、改作の意図がいまいち判然としない印象を受けました(注4)。

(2)劇場用パンフレットに記載されている「『眠れる森の美女』vs.『マレフィセント』比較」でもわかるように、本作と元のディズニー・アニメ『眠れる森の美女』との違いはいろいろあります。

 特に注目されるのは次のことでしょう。
 元のアニメでは、本作の主人公マレフィセントは、生誕のお祝いに招かれなかったためにオーロラに呪いをかけ、最後にオーロラを助けに来たフィリップに殺されてしまうのですが、本作では、なぜか最初からオーロラがマレフィセントになついてしまい、最後はマレフィセントが彼女にキスをすることで、その呪いが解けてしまうのです(結局、マレフィセントがオーロラに対して「真実の愛」を抱いていたということでしょう)。
 ですがこれは、オーロラがマレフィセントの娘だったということであれば理解できなくもないとはいえ、そうではなく赤の他人の子供、それも自分を裏切ったステファン王の子供なのですから、一般的にはなかなか受け入れ難いところがあります。

 それに元々、マレフィセントを避けるために、ステファン王が3人の妖精に託して森のなかの隠れ家でオーロラを養育させたにもかかわらず、オーロラの方からどんどんマレフィセントに近づいてしまうのですから(ムーア国にも自由に入っていきます)、世話はありません(注5)。
 一体何のために、両親が住む城を離れてオーロラは暮らさなければならなかったのでしょうか?

 さらに、本作でもオーロラは、呪いのかかる16歳の直前に隣国の王子フィリップに出会って一目惚れします(注6)。
 『眠れる森の美女』では、彼が口づけをすることでオーロラは目を覚まします。ところが、本作では、マレフィセントとカラスのディアヴァルが、わざわざフィリップ(ブレントン・スウェイツ)を城の中に運び込んでオーロラにキスさせたにもかかわらず、彼女は目を覚まさないのです!

 こんなところから、下記の(3)で触れる渡まち子氏は、「それにしても、「アナ雪」といい本作といい、目につくのは王子様の役立たずぶりである。昨今の女性は、出会ったばかりの白馬の王子様なんぞには何も期待していないということか」と述べていますし、また相木悟氏も、「野心家の国王はもちろん、至極どうでもいい他国の王子や、泣ける献身キャラにできたはずのカラスにもさしてドラマを与えられず、『アナ雪』のフェミニズム路線を完全に踏襲している」と述べています。

 確かにそんな風に思えるところもあるでしょう(注7)。
 ただフィリップは、『アナと雪の女王』に登場するハンス王子とは違って(注8)、別に悪い人間として描かれてはいません。これからの修行次第で立派な人間になる可能性を秘めています。
 それに、元々の二人の出会いも随分と淡いものであり、とても「真実の愛」といえる段階に至ったものとまでは言えないように思われます(注9)。
 オーロラがそんな王子の口づけで目を覚まさないのも、ことさら「フェミニズム路線」を持ち出さずとも当然と思えるところです(注10)。

 もっと言えば、オーロラとフィリップとの関係と違って、マレフィセントとステファンとは、何度も会って話している内に強い恋愛関係に至ったように思われます。にもかかわらず、ステファンが裏切ったわけですから、マレフィセントは彼を金輪際許せなかったのではないでしょうか?
 としたら、ここには、男性を無視するといった「フェミニズム路線」と対極的をなすもの(十分に男性を意識していること)がうかがわれるのではないでしょうか?

 要すれば、「フェミニズム路線」というほどご大層な作品といえるかどうか疑問であり、かといってなにか新たなものを打ち出しているかといえばそうとも思えない作品なのではと思いました。

 なお、この話のはじめに、仲の悪い人間の国とムーア国があったとされていますが、それぞれは国の体をなしているでしょうか?
 特に、ムーア国においては、単に妖精とか怪物とかが自由に暮らしているだけのように見えます。 そこには国家の三要素の一つである「権力」(支配機構でしょうか)といったものが見当たりません(注11)。
 もう一方の人間の国にはヘンリー王(あるいは、その後継者のステファン王)が君臨しているようにみえるとはいえ、そして彼に従う臣下や兵士もいるとはいえ、肝心の「人民」をどこにも見かけないのですが(注12)。
 そんな両国の闘いといっても、垣根を隔てたお隣同士の単なるケンカ騒ぎにしか見えません。なにしろ国境などなきも同然であり、マレフィセントは、オーロラの洗礼式に堂々と入り込んでしまいますし、また3人の妖精もオーロラの養育をしに人間の国に入り込んでしまうくらいなのですから。
 それに、支配機構がはっきりしない国に攻め込んでも、どんな意味があるというのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「おとぎ話の悪役の視点で真実の愛を描く実写ファンタジー「マレフィセント」。アンジーの魅力で邪悪な妖精はいつしか慈愛の美女へ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「「眠れる森の美女」のアニメ版から続けてみることで、こどもたちに「善悪は見た目だけでは簡単にはわからない」といった高度な教育をできるなど、存在意義は大いにある」として60点をつけています。
 相木悟氏は、「奇抜な設定の割には、それほど驚きはない拍子抜けの娯楽作であった」と述べています。



(注1)「ムーア国」とは「the Moors」で、湿原の多い国ということでしょう(Wikipediaの「ムーア」の項を参照)。

(注2)マレフィセントは、その生命を助けたカラスのディアヴァルを使って、人間の国の様子を探らせます。
 なお、マレフィセントはカラスをいろいろに変身させますが、人間の姿になったときのディアヴァルを演じるのはサム・ライリー

(注3)幼少期は、アンジェリーナ・ジョリーの愛娘ヴィヴィアン・ジョリー=ピットが、少女期はエル・ファニングが演じます。



(注4)最近では、アンジェリーナ・ジョリーは『ツーリスト』、エル・ファニングは『幸せへのキセキ』、シャールト・コプリーは『エリジウム』で、それぞれ見ました。

(注5)元のアニメでは、マレフィセントはオーロラの居場所が16歳の直前まで全然わかりませんでしたが、本作では、カラスのディアヴァルの探査能力によってすぐに分かってしまい、最初はマレフィセントの方からオーロラに近づきます。

(注6)ただ、『眠れる森の美女』の場合、フィリップは親が決めた許婚者とされています。と言っても、オーロラが隠れた場所で養育されたために、フィリップは彼女が16歳直前になるまで会ったことがありませんでした。

(注7)凍ったアナを溶かすのは、男のクリストフの愛ではなく、姉のエルサの“真実の愛”なのですから!

(注8)むしろ、ハンス王子は、その野心家への変身ぶりから(何しろ、アナとエルサの王国を乗っ取ろうとするのですから!)、本作におけるフィリップというよりもステファン王に対応すると考えられるのではないでしょうか?

(注9)特に、本作のフィリップは、マレフィセントらに強いられてオーロラにキスをしたような感じも漂っているところです。

(注10)元のアニメでは、フィリップはマレフィセントを倒すという関門をくぐり抜けていますが、本作のフィリップは、オーロラの愛を勝ち取るためにいったい何をしたというのでしょう?

(注11)マレフィセントが大きくなると、強い力を持っているために皆が従うようになったようですが。
 なお、本作の製作段階では、Wikipediaの本作についての項の「キャスト」に掲載されている「ウラ女王」(同項の「製作」によれば、「マレフィセントの叔母であり、姪を嫌っている妖精の女王」だったそうです)と「キンロック王」とが「ムーア国」にいたようですが、公開された映画では削除されています(例えば、脚本のドラフトでは二人は存在していました:ステファンが「人間の王の息子で人間と妖精のハーフ」とされていたりするなど、元の脚本と公開された映画とでは違いがかなりあるようです←例えばこのような記事)。

(注12)ヘンリー王は、その支配機構を維持するための費用をどのようにまかなっているのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:マレフィセント

豊臣秀吉の系図学

2014年07月20日 | 
 豊臣秀吉は、現在でも依然として話題性に事欠きません。

 最近でも、秀吉の軍師とされる黒田官兵衛の物語がNHK大河ドラマになって放映中ですし、また、「豊臣秀吉が太閤検地の実施以前に、大名らに土地の面積や石高を自己申告させた「指出検地」の具体的な内容を記した文書」が見つかったとの報道が新聞を賑わせています。
 
 そんななか、系図学の第一人者たる宝賀寿男氏が、秀吉を巡る系図をメインテーマにしつつ系図学のあらましを述べた著書を発刊しました(注1)。
 『豊臣秀吉の系図学』(桃山堂、2014年7月10日)です。 

 本書を読んで直ぐに目につくのは、全体が「です・ます調」とされているなど、誰にとっても実に読みやすく書かれていることで、特に、系図などの原典に当たることが少ない読者の便宜を考えて、インターネットとの連携が実に巧みに図られているのです。

 例えば、本書の14ページに概要が記載されている方法に従ってみましょう。最初に、普通のネット検索によって「東京大学史料編纂所」のウェブサイトを探し出し、「データベース検索」→「データベース選択画面」→冒頭にある「史料の所在」の「所蔵史料目録データベース」→「キーワード」の欄に「美濃国諸家系譜」とインプットし「検索」→「全表示」→第6冊目の「イメージ」→左側の欄にある「0400.tif」をそれぞれクリックすると、たやすく「竹中家譜一傳」に辿り着けます。

 また、本書の24ページにある渡辺世祐氏の「『豊太閤と其家族』〔国立国会111コマ〕」についても、「国立国会図書館」のウェブサイト→左欄の「デジタルコレクション」→検索欄に「豊太閤と其家族」をインプットして「検索」→黄色の網掛け→「コマ番号」の「111」を選択、という手順で、該当の引用句に出会えます(注2)。 

 そればかりか、こうした方法によってアクセス出来ない史料に関しては、本書の出版元の桃山堂のウェブサイト「豊臣秀吉の電子書籍」を開けば、右欄下に「『豊臣秀吉の系図学』で紹介している系図」というコーナーが設けられていて、例えば「『諸系譜』秀吉母方系図」をクリックすると、幕末生まれの鈴木真年(注3)という国学者の手になる系図を見ることが出来ます。

 こんな系図など初めてのクマネズミにとり、大変興味深い史料にいろいろ出会えたわけで、あたかも研究者の一員になりおおせたような気分です。
 さらには、パソコンのディスプレイ上ながらも、これらの系図等に実際に目で触れると、なるほど著者の宝賀氏はこうしたものを見ながら研究しているのだなと、楽屋裏を垣間見たような感じになります。

 さて、様々の史料を目の前にしながら本書を読み進めると、今度は、瞠目すべき著者の見解に色々と出会えます。
 その内容については、上記の桃山堂のウェブサイトに記載されている紹介文に簡潔にまとめられているのでそちらに譲りましょう。

 付け加えるとしたら、本書の210ページに掲載されている地図こそが、本書の核心的なところを鮮明にかつ具体的に表しているのではないかと思いました。なにしろ、秀吉に関係する者の居住地とか伝承が伝わる地区とかが、鉄鉱石鉱山の「金生山」(岐阜県大垣市赤坂)の周辺に集まっているというのですから(「もつれ乱れた種々の系図や所伝の結節点が赤坂エリア」本書P.208)!

 また、この拙エントリの最初のところで「生まれ故郷に近い滋賀県の彦根や長浜」と申し上げたクマネズミからすると、本書の「近江の丁野(秀吉父方のルーツ?)と美濃の杉原(おねのルーツ?)は、国境で隔てられてはいるものの、一日で歩ける距離だ」との記述(P.190)には随分と心がときめきます。というのも、丁野は滋賀県東浅井郡(現在は長浜市)にあり、少し離れたところではクマネズミの母方の親類縁者が住んでいるのです。

 色々申し上げましたが、皆さんも、関連する系図等をパソコンのディスプレイ上に見ながら、本書を読み進めるという無類の楽しみを味わってみてはどうでしょうか(注4)?



(注1)本ブログにおいては、宝賀寿男氏による既刊書について、不十分な取り上げ方とはいえ、その大部分を取り上げてきました。
 すなわち、この拙エントリでは、その(3)で『神功皇后と天日矛の伝承』(法令出版2008年)に、同エントリの「注13」で『古代氏族の研究② 葛城氏―武内宿祢後裔の宗族』(青垣出版、2012年)に、引き続く「注14」で『古代氏族の研究④ 大伴氏―列島原住民の流れを汲む名流武門』(青垣出版、2013年)に、それぞれ触れています。
 また、この拙エントリの①で『「神武東征服」の原像』(青垣出版、2006年)を、この拙エントリの③で『越と出雲の夜明け―日本海沿岸地域の創世史―』(法令出版、2009年)を、それぞれ取り上げています。
 さらに、この拙エントリで『巨大古墳と古代王統譜』(青垣出版、2005年)を取り上げています。

(注2)また、例えば、本書50ページにある「秀吉父方系図」については、「国文学研究資料館」のウェブサイト→左欄の「電子資料館」→「所蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース」→「書名一覧」→“尊卑分脈”をインプット→「書誌詳細」の「200000669」→「画像データ」の「13冊」→「全57コマ」の「37」をそれぞれクリックすると、目的のものを見ることが出来ます。

(注3)鈴木真年については、本書でも1章が設けられて記述されていますが(「第九章鈴木真年と秀吉 知られざる学統」)、宝賀氏の『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会、1986年)では、第一部「古代氏族系譜についての基礎的考察」の第一編が「鈴木眞年について」と題されて、様々な検討がなされています(なお、Wikipediaの「鈴木真年」の項を参照)。

(注4)本書を読む楽しさは、なんといっても著者の斬新な見解に接することにありますが、そればかりではありません。
 例えば、「太閤母公系」において秀吉の母方の遠い先祖が佐波多村主とされている点を検討するに際しては、「村主はいまでも苗字として残っており、女子フィギュアスケートの村主章枝さんはそのひとり」といった記述(本書P.40)に出会います。
 また、本書の第七章では、映画『のぼうの城』に登場する「甲斐姫」(映画では榮倉奈々が演じました)が触れられています〔「慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は、京都の醍醐寺を舞台に空前絶後の壮麗なる花見を催してい」るが、「この席に甲斐姫という人がいた可能性がある」(P.158)など〕!

トランセンデンス

2014年07月15日 | 洋画(14年)
 『トランセンデンス』をTOHOシネマズ六本木で見ました。

(1)余り好まないSF物ながら、ジョニー・デップの主演作というので映画館に行ってみました。

 本作(注1)のタイトルクレジットの後(注2)、舞台はカリフォルニア州バークレーとされます。
 全体に酷く荒廃した光景が映し出される中で(注3)、一人の男(マックスポール・ベタニー)が随分と植物が繁茂した家の中に入っていきます。そしてその男は、「私は、キャスター夫妻をよく知っていた」と、5年前の話を始めます。

 場面はその家の庭。様々な植物が所狭しと植えられている中で、男(ウィル・キャスタージョニー・デップ)とその妻(エヴリンレベッカ・ホール)が何やら作業をしています(注4)。

 さらに場面は、カリフォルニア州のリバモア研究所へ。
 男がケーキを持って研究所の中に入ります。入口でチェックされるものの、問題なく通過。
 その後、そのケーキは、ウィルの恩師であるジョゼフモーガン・フリーマン)らに振る舞われたところ、ジョゼフ以外の研究者は、ケーキの中に隠されていたダイオキシンの毒で死んでしまいます。

 次いで、UCLAのバークレー校で行われた講演会。
 「人工知能(AI)が様々な問題を解決します。次のゲストほどそれに近い人はいません」として紹介されたウィルが壇上に登場します(注5)。



 しかしながら、講演が終わって会場の外に出たところで、ウィルは、反テクノロジーを謳ってブリー(ケイト・マーラ)が率いるテロ集団RIFT(注6)によって銃撃されてしまいます(注7)。
 幸いにして一命を取り留めたものの、銃弾に放射性物質が仕込まれていて、その中毒により1ヶ月ほどで死ぬと宣告されてしまいます。

 ウィルは「もう仕事はやめる。最後くらいは妻と一緒にいたい」と言い、エヴリンも、「PINN(ウィルと共に開発してきたAIコンピュータ:注8)計画は終わりにする」と表向きは言うのですが、密かに、ウィルの意識をPINNにアップロードできるのではと考えつき、実行に移してしまいます(注9)。



 夫が死んだ後に(注10)、モニター上にウィルのものと思われる反応が現われます(注11)。
 エヴリンは狂喜するものの、大学時代から親友のマックスは疑いを持ちます(注12)。
 さあ、ウィルはどんなふうに蘇るのでしょうか、ウィルとエヴリンは元のような生活を取り戻せるのでしょうか、………?

 『her 世界でひとつの彼女』と同様にAIの話ながら、そして同じようにラブストーリー物ではあるのですが、SF的な要素が色々と持ち込まれるだけでなく、エコロジーの要素までも加味され、全体としてごった煮的で散漫な作品という印象を持ちました(注13)。

(2)本作は、やっぱり最近見た『her』と比べてみたくなってしまいます(注14)。どちらも近未来SF物であり、同じようにAIを取り扱っていますから(注15)。

 さらに、『her』では、人間のセオドアがAIのサマンサを愛してしまうのに対し、本作では、元々強い愛情でエヴリンと結ばれていたウィルの頭脳が蘇るのです。

 また、AIが体を持った場合の相手の反応が両作で共通しているところもあります。
 『her』でサマンサは、自分のように喋るイザベラをセオドアの元に送り込みますが、セオドアは引いてしまいます。本作においても、ウィルが入り込んだマーティンクリフトン・コリンズ・Jr)に対してエヴリンもはかばかしく対応しません(注16)。

 それに感情についても、『her』では“リアルな感情”が問題となりますが、本作でも、マックスがエヴリンに、「感情をAIで取り扱うことは難しい。論理的に矛盾することが両立するのだから」などと言ったりします。

 とはいえ違うところもあって、例えば、『her』では、進化したサマンサはセオドアの元から消えてしまいますが、本作では、ウィルはどんどん進化していくにもかかわらずエヴリンを見捨てることはありません。
 そんなウィルの進化に危機感を抱いた人間たちが、ウィルとエヴリンが建設した施設(ブライドウッドのデータ・センター)を攻撃するなどというSF物らしい展開となっていきます。

(3)本作でことさらに問題だと思われるのは、ウィルを襲ったRIFTはあくまでもテロ組織であって、様々な破壊活動により研究者の命を奪ったりしているにもかかわらず、そのことは映画で無視されてしまい(注17)、FBI捜査官のブキャナンキリアン・マーフィー)や軍と一緒になってウィルとエヴリンの作った施設の攻撃に当たることになるのです(果ては、マックスまでもRIFTに同調します)。
 ですが、いくら当面の目標が両者で一致するからといって、そしていくらSFファンタジーだからといって、これは認められないのではないでしょうか?(注18)

(4)渡まち子氏は、「デジタルとリアルを超越(トランセンデンス)した場所に愛があるとした本作、なかなかセンチメンタルなSF作品だった」として65点をつけています。



(注1)本作の制作総指揮は『バットマン』シリーズのクリストファー・ノーラン、監督は初監督のウォーリー・フィスター

(注2)実は冒頭では、「トランセンデンスの世界へようこそ。200万年前から、人間の脳は進化してきた。人類を超える人工知能完成したら、そしてそれが自我を持ったら、何が起こるのか?永遠の命の第一歩なのか、絶滅への第一歩なのか。トランセンデンス、これはあなたにも起こる未来です」といったようなことが音声で述べられます。
 これは、この記事によると、本編前のナビゲーションということで爆笑問題が担当しているわけながら、一瞬、「吹替版を選んでしまったのかな?」と思ってしまいました。
 (本来的には、モーガン・フリーマンがこの語りを行っているようなのですが)

(注3)街角に兵士が立ち、人々が、スーパーらしき店に行列を作っていたりします(ただ、「乳製品、冷蔵庫なし」といった貼り紙が)。
 ボストンの電力事情やデンバーの電話サービスといったものが昔とはマッタク違ってしまった、などと語られます。
 どうやらこの光景は、本作のラストで描き出される世界と通じているようです。

(注4)ウィルは、庭を銅線で覆う作業をしているところ、彼が、「銅は電波を通さない。携帯も届かない」と言うと、エヴリンは、「そのくらいのことなら、携帯を切ればいい」と応じ、それに対して彼は、「なるべく遮断されたいと言っていたから」と答えます。妻は「数学的証明がそんなに大事?みんな意味ないわ」というのですが。

(注5)ウィルは、講演で、「人間の理性の限界は使われていない」、「自我を持つAIがつながれば、人類を超える。これまでのどんな天才の知性をも超える」、「人間とマッタク同じ感情を持ったとしたら、私はトランセンデンスと呼ぶ」などとしゃべります。
 会場から「あなたは神を創り上げたいのか?」との質問があり、それに対して彼は、「良い質問だ。人間はいつでもそうしてきた」と答えます。

(注6)劇場用パンフレットによれば、「Revolutionary Independence From Technology」とのこと。

(注7)リバモア研究所における毒殺事件もRIFTの仕業。
 人工知能を研究する他の研究機関でも爆発などがおき、ジョゼフは「数十年分の研究成果が失われてしまった」と嘆きます。

(注8)例えばこの記事によれば、PINNとは「Physically Independent Neural Network」(劇場用パンフレットの訳では「独立型人口神経回路網」)。

(注9)親友のマックスは「猿とは違う」と言って反対しますが、エヴリンは「彼を救える。テロで死ぬなんて」と強行します(ウィルも同意)。

(注10)ウィルの遺骨は、エヴリンやマックスらの手で湖に散骨されます。

(注11)「誰かいるか?」、「暗い」、「突然夢から覚めた感じだ」などといった反応。

(注12)マックスは、PINNのウィルが「金融市場につないでくれ」と言うので、「ウィルがパワーを欲しがるとは思えない」として、疑いを持ちます。

(注13)最近では、ジョニー・デップは『ツーリスト』、レベッカ・ホールは『ザ・タウン』、ポール・ベタニーは『ツーリスト』、モーガン・フリーマンは『グランド・イリュージョン』、キリアン・マーフィーは『インセプション』、ケイト・マーラは『127時間』で、それぞれ見ています。



(注14)『渇き。』を見ると『私の男』と比べてみたくなるのと同じように。

(注15)どちらも時点は明示されてはいません。
 ただ、本作の劇場用パンフレットに掲載されている「徹底検証 科学者たちが語る『トランセンデンス』の描く世界」の第4章「“テクノロジーのない進化”をモットーに掲げる過激派テロ組織RIFTとは?」においては、「2019(現在)」と記載されていますが。

(注16)とはいえ、ウィルが、生前の姿形を再生してエヴリンの前に現れた時は、彼女も混乱してしまいますが。

(注17)むしろ、ウィルの調査と通報によって、RIFTの拠点が次々と暴かれてメンバーが逮捕されるテイタラクなのです。

(注18)それに、ラストでは、ウィルが作り出したナノテクノロジーによって、自然が瑞々しさを取り戻すさまが描き出されていますが(雨の雫の中にナノマシンが見えます)、その代償として本作冒頭の街の光景があるとしたら(大停電下にあるようです)、そんな自然の回復にどんな意味があるのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:トランセンデンス

渇き。

2014年07月11日 | 邦画(14年)
 『渇き。』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)本作(注1)は、役所広司の主演作であり、久しぶりの中島哲也監督の作品(注2)ということもあって、映画館に行ってきました。

 本作の最初の方では、2012年12月24日という時点が示され、雪が降ったりするクリスマスイブの街の風景が映し出されますが、女子高生が何人も出てきたり、ときおり「ぶっ殺す」「ふざけるな!」などといった声がかぶさります。
 そして、「8ヶ月後」とされて、男がナイフで刺されます。さらには、「さいたま市のコンビニで店員を含む3名の死体が発見、ナイフで刺された模様」というニュースの声が流れます。

 次いで場面は、警察の取調室。
 現場を見つけた警備会社勤務の藤島役所広司)(注3)が、刑事から事情聴取されています。「何かないんですか、思い出したことは?」と訊かれ、「ないですよ」「おれが3人殺したと思っているんだろ」などと答える藤島。

 終わって藤島が取調室を出たところで、待ち構えていた元部下の浅井妻夫木聡)が、「先輩!」と声をかけ、数枚の写真を見せながら、「お宅のほうどうです?お嬢さん、確か高校生ですよね?」と尋ねます。



 「関係ない」と答えた藤島が家に戻ると、離婚した桐子黒沢あすか)から娘の加奈子小松菜奈)がいなくなったとの連絡が入ります。
 藤島は、以前暮らしていたマンションに行き、加奈子の部屋に入り彼女の鞄を開けてみると、中からは覚醒剤の入った袋などが、………。
 そこで、藤島が加奈子を探すことになるのですが、探している過程で明らかになる加奈子の実像はどんなものでしょうか、果たして加奈子を無事に探しだすことができるのでしょうか………?

 人物が説明不十分なまま突然現われたり、時点が様々に入れ替わったりして(注4)、少しも落ち着かない感じを与えるとはいえ(注5)、中島監督独特の溢れるような色彩に満ちた映像が次から次へと展開され、特に作品の一部でアニメーションが使われ、全体としても漫画的な印象で、なかなか面白く見ることが出来ました。

 主演の役所広司は、これまで演じてきた役柄とはガラリと変わって「ぶっ殺す」と言った言葉を絶えず口にするハチャメチャな男を、実に壮絶に演じていて感心しました(注6)。



(2)本作は、やっぱり、すぐ前に見た『私の男』と比べたくなってしまいます。
 どちらも、中年過ぎの男性とその娘との関係がメインになっていますし、『私の男』で浅野忠信と共演した二階堂ふみが本作にも出演しているのですから。

 それに、本作の冒頭はクリスマスで雪が降ってくるシーンですし、またラストでは一面の銀世界が描かれ、こんなところは『私の男』の主な舞台が北海道の紋別で、流氷群の印象的なシーンがあることに対応するように思われます。
 また、本作の藤島は元警察官であり、『私の男』の淳悟も海上保安官でしたから、どちらも元公務員ということになります。それも取り締まりに従事する職種ですから、暴力に対してある程度ルーズなのかもしれません(注7)。

 とはいえ、本作では、藤島はいなくなった娘の加奈子を探しまわるわけで、二人が一緒の場面はごく僅かしか描かれませんが、『私の男』では逆に、浅野忠信扮する淳悟と二階堂ふみの花とはなかなか離れようとしません。
 それに、『私の男』は、過去から順序立てて展開していくという常識的な話の流れになっているのに対して(原作では、現在から過去に遡るという特異な手法をとっていますが)、本作では、現時点と3年前の過去、それに回想シーンがめまぐるしく入れ替わります。
 例えば、上記(1)で触れた映画の最初の部分でも、実際には、藤島が通う神経科医院の診察室のシーン(注8)などが何度も途中に挿入されます。

 さらに加えて、本作では、もう一つ別のストーリーも組み込まれています。
 すなわち、3年前のこととして、加奈子の中学の同級生・ボク(一人称の僕:清水尋也)と加奈子との関係にまつわる話が挿入されるのです。ただ、ボクは藤島とはなんの関係も持ちませんが(注9)。



 こうしたことが組み合わさって、本作で描き出される加奈子の実像は、結局は曖昧模糊としたものとなり(注10)、その解釈は見るものの方の委ねられていることになるのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「元刑事の父親が失踪した娘を探すうちに娘の恐ろしい実態を知るサスペンス「渇き。」徹底した悪意とバイオレンスに、見終われば疲労度マックスだった」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「けっして悪くはない、むしろよくできている。だが、いい監督は過去の自作と常に対決させられるジレンマを抱えている。この監督ほどの才能でさえ、全勝は難しい」として65点をつけています。
 相田悟氏は、「人間の悪意が脳髄を刺激し、掻き回すクレイジーな怪作であった」と述べています。



(注1)本作の原作は、深町秋生著『果てしなき渇き』(宝島社文庫:未読)。同作は、第3回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞〔なお、同賞受賞作では『完全なる首長竜の日』(第9回)や『さよならドビュッシー』(第8回)などが映画化されています〕。

(注2)中島哲也監督の作品としては、『下妻物語』、『嫌われ松子の一生』、『告白』を見ています。

(注3)藤島は、元大宮北署刑事課の警部補でしたが、妻・桐子の不倫相手に暴行したため、コンビニで殺人事件があった数カ月前に依願退職しています。

(注4)基本的には「現在(2012年のクリスマス以降)」と「3年前」とが何度も入れ替わりますが、さらに様々の回想シーンも挿入されたりします。

(注5)冒頭に「ある時代が混乱して見えるのは、見るほうの精神が混乱しているからに過ぎない」というジャン・コクトーの言葉が映し出されますが、「この映画が混乱して見えるのは、編集で見る方を混乱させているに過ぎない」と言ってみたくもなります。

(注6)最近では、役所広司は『清須会議』、妻夫木聡は『ぼくたちの家族』、加奈子の中学の同級生役を演じる二階堂ふみは『私の男』、加奈子の高校の同級生役を演じる橋本愛は『俺はまだ本気出してないだけ』、國村隼は『抱きしめたい』、黒沢あすかは『冷たい熱帯魚』、悪徳刑事役のオダギリジョーは『人類資金』、加奈子の中学の元担任役を演じる中谷美紀は『清須会議』で、それぞれ見ています。

(注7)と言っても、淳悟は経理や調理を担当する主計士だったのですが。

(注8)医師が、「どうです、具合は?薬飲んでますよね」と訊いたり(藤島は、統合失調症と躁鬱症の薬を処方されています)、「夢は見ますか?」と尋ねたりします。

(注9)これに対して、『私の男』では、主人公の淳悟に絡んでこないエピソードは描かれてはいないと思います。

(注10)特に、『私の男』との対比で注目される藤島と娘の加奈子との性的な関係。
 『私の男』では、淳悟と花との性的な関係が強調して描かれているのに対して、本作においては、加奈子が受診した神経科医院の医師・辻村國村隼)が、「父親に暴行された」と加奈子が言っていたと藤島に告げたところ、藤島は「違う!娘だぞ、あいつは!」と怒鳴り返します。
 映像でも、加奈子は藤島を抱きしめて「愛しているよ」と言ったり、キスしたりしますが、その一方で藤島は、加奈子を突き飛ばして「ぶっ殺されたいのか」と言ったりします。
 結局のところ、実際に関係があったのかどうかはっきりと描かれていない感じがします。

 総じて言えば、本作の公式サイトのIntroductionに「愛する娘は、バケモノでした」というコピーが掲載されているとはいえ、加奈子が“バケモノ”だとする話はどれも加奈子以外の人間による証言であり、疑おうとすれば疑えるものではないかと思えてきます。
 なにしろ、加奈子をよく知る中学や高校の同級生は、皆、藤島に証言できない姿になっていて、残る森下橋本愛)も、好きだった長野森川葵)をめちゃくちゃにしてしまった憎むべき存在として加奈子を見ていますから、余りアテにできない感じがします。
 また、加奈子がルールを破ったとして追跡しているヤクザの咲山青木崇高)がいますが、藤島によって悪徳警官・愛川オダギリジョー)を始末させるために、加奈子についてのあることないことを藤島にしゃべっているというふうにも受け取れるかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:渇き。

her 世界でひとつの彼女

2014年07月08日 | 洋画(14年)
 『her 世界でひとつの彼女』をシネマライズで見てきました。

(1)アカデミー賞脚本賞を獲得した作品ということで映画館に行ってきました(注1)。

 本作(注2)の舞台は、近未来のロスアンジェルス(注3)。
 主人公セオドアホアキン・フェニックス)は、本人に代わってメールを送る代筆業を営む会社に勤務。
 幼馴染で結婚したキャサリンルーニー・マーラ)と折り合いが悪くなって離婚調停中で別居中ながらも、彼女との思い出に浸りきっています(注4)。
 チャットをしても鬱な気分の晴れないセオドアは、「AI型OS」のことを知って家でアクセス。
 最初にいくつかの質問(注5)に答えると、パソコンでそのOSが起動し、女性の声(スカーレット・ヨハンソン)で「ハロー!お元気?お会いできて嬉しい」と言ってきます。
 セオドアが「名前は?」と尋ねると、「サマンサ」と答え、さらに彼が「どうやってつけたの?」と訊くと、「本に書かれている18万の名前の中から音が一番好きなのを今選んだ」と応じます。
 また、彼女が「自分は、基本的には直観で作動するが、経験から学んでどんどん進化している」と言うのに対して、セオドアが「それは奇妙だ(weird)」と感想を述べると、彼女は「口知能の理解力はその程度」と答えたりします。

 酷く興味を覚えたセオドアは、サマンサをインストールした携帯端末を胸ポケットに入れて外出したりしますが、「沢山のメールが保存されてるが、必要な物は86件だけ」とか「あと5分でミーティング」などと言ってくれたりするので、たちまち彼女は、セオドアの仕事とか日常の営みに無くてはならない存在に。



 そんな時に、セオドアは、大学時代の彼女で同じマンションに住むエイミーエイミー・アダムス)が夫と別れたと聞きます(注6)。



 さあ、セオドアとサマンサ、そしてエイミーとの関係はどのようになっていくのでしょうか、………?

 本作は、離婚調停中の主人公が、どんどん進化する「AI型OS」のとの会話を通じて心の空洞を埋めていくというとても優れた近未来SFながらも、そんなソフトならその内に開発されそうな感じがしますから(注7)、かなりリアルな印象を受けてしまいます。とはいえ、数千人の相手を処理できる能力を持っているとされるサマンサを、受け入れることはとても難しい気がしますが。

 俳優陣については、主演のホアキン・フェニックスにしてもエイミー・アダムスにしても、このところよく見かけるところ、この人ならではの抜群の演技力を示していますし、声でしか登場しないスカーレット・ヨハンソンは、ローマ国際映画祭(注8)で最優秀女優賞を受賞するのもなるほどと思える見事さです(注9)。

(2)セオドアは、女性とのデート(注10)に失敗して家に戻ってきて、サマンサに「もう無理だ。新しい感情はもう湧かないんだ。既に味わった感情の劣化版でしかない」と言うと、サマンサは「あなたの感情はリアルよ。私も、あなたのことを心配したり、傷ついたりするけど、これってリアルな感情?そうじゃなくて単なるプログラミング?」と応じ、それに対してセオドアが「僕にとって君はリアルだよ」と答えます(注11)。

 続いて、セオドアは、離婚手続きを進めるためにキャサリンと会います。



 その際、キャサリンが「彼女は?」と尋ねると、セオドアは「いるよ、ここ2、3ヵ月。人生にときめいている」と言ってOSであるサマンサのことを打ち明けてしまいます。するとキャサリンは、「コンピュータとデートしているって!あなたがリアルな感情に向き合えないとわかって悲しくなる。あなたは、リアルな事柄に挑戦しようとする妻を好まなかったんだ」と怒りだしてしまいます。

 ここらあたりは、AIの反応はリアルなものといえるのかどうか(単にプログラミングされたものにすぎないのではないか)、そしてAIは感情を持つことができるのかどうか、など酷くセンシティブな問題が絡まっている感じがします。

 感情を持つという点からすると、インド映画『ロボット』を思い出します(注12)。
 その映画で主人公のバシー博士は、善悪の判断が出来る感情を持ったロボットの開発に成功するものの、あろうことかこのロボットは、バシー博士の恋人サナを愛してしまうのです。
 AIにとって感情はやはり難問のように思えるところです。

 そして、ここまでくると、サマンサは、『ロボット』に出てくるロボットのように、どうして体を持たないのだろうか、と思えてきます(注13)。
 特に、日本は「パワーアシスト技術で世界をリードする」等と言われていて(14注)、人間に類似する体躯を持ったロボットが生身の人間にように動きまわるのを見る日もそう遠くないのではと思えるものですから(注15)。

(3)渡まち子氏は、「近未来を舞台にした作品なのに、驚くほど真実味にあふれた物語だ」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「なるほど、OSと人間などといってはいるが、要するにこの極端なストーリーは、そのじつ普通の男女がたどる物語そのもの」などとして70点をつけています。
 相木悟氏は、「“AI(人工知能)と人間との恋愛モノ”と聞くと一発ネタに思われるが、さにあらず。誠実に心をうつラブ・ストーリーであった」と述べています。



(注1)今年の第86回アカデミー賞関係の映画として注目してきたものの最後になりました。
 今年は、作品賞にノミネートされた映画は全部見ようと思っていましたが、結局は、作品賞のみならず、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞、脚色賞、美術賞、編集賞にノミネートされた映画を全て見たことになります(と言っても、重複するものがかなりあるからにすぎませんが)。
 逆に、ノミネートされていながらも見ていない作品がいろいろとあることから、クマネズミの見ている映画の傾向がわかるというものです(『ホビット』とか『グランド・マスター』などは見ておりません)。
 なお、今回のアカデミー賞にノミネートされた作品のタイトルはこのサイトに掲載されています。

(注2)監督は、『脳内ニューヨーク』をプロデュースしたスパイク・ジョーンズ
 なお、彼が制作した約30分の『I’m Here』はYouTubeで見ることが出来ます。
 また、彼は『ウルフ・オブ・ウォールストリート』にも出演しています(ペニー株を取り扱う田舎のしがない証券会社社長の役で)。

 ところで、タイトルの「her」ですが(常識的にはサマンサを指しているのでしょう)、日本語ならば「彼女」になるところ、それを邦題にしなかったのは、「彼女」の英訳は「she」とされているからではないかと思われます。
 この辺りのことについて、スパイク・ジョーンズ監督が日本で行った記者会見の記事において、次のように書かれています。
 「なぜタイトルが「she」ではなく「her」なのか”という質問は、日本に来て他の人にも聞かれたという。ジョーンズ監督はその理由について「herは sheよりも親密な感じがするんです。セオドアの心の中、彼の視点で描かれているこの物語にはこの方がぴったりだと思いました」と話した」。
 おそらくは、このサイトの記事にあるように、「she」では堅苦しすぎ、口語的な「her」を使ったということではないでしょうか?

(注3)劇場用パンフレット掲載の「Production Note」によれば、監督は「具体的に何年先の時代かは断定されていない」と言っています。

(注4)離婚に同意して1年経つものの、セオドアは離婚届にまだ署名をしていないのです。

(注5)例えば、「社交的(social)ですか?」、「声は男性のものと女性のものがありますが?」、「母親との関係はどんなもの?」。

(注6)そのエイミーが、PCに夫の残していった「OS」と友達になったと言うので、セオドアも、OSのサマンサに恋していると答えると、エイミーは、「恋に落ちた人は奇人だし、恋ってクレイジーなものよ」と理解してくれます。

(注7)なにしろ先月5日には、ソフトバンクが、最新の音声認識技術や人の感情を推定する感情認識機能を搭載し、自らの意思で動く世界初のロボット「Pepper」を発表したくらいなのですから(この記事)!

(注8)同映画祭については、このサイトの記事を参照。
 なお、その記事によれば、監督賞は日本の黒沢清(『Seventh Code』)が受賞(『もらとりあむタマ子』についての拙エントリの「注5」で、ちょっと触れています)。

(注9)最近では、主演のホアキン・フェニックスは『エヴァの告白』、エイミー・アダムスは『アメリカン・ハッスル』、ルーニー・マーラは『ソーシャル・ネットワーク』、オリヴィア・ワイルドは『ラッシュ/プライドと友情』、スカーレト・ヨハンソンは『ヒッチコック』でそれぞれ見ました。

(注10)あるとき、セオドアの友人が紹介してくれた女性(オリヴィア・ワイルド)とのデートについて、サマンサは世話を焼いてくれます(デートの場所を予約するなど)。

(注11)ここらあたりからセオドアとサマンサの感情が高ぶってきて、ついには二人が「全身であなたを感じる」と言うに至ります。

(注12)それと、上記「注7」で触れた「Pepper」は、「表情と声からその人の感情を察する最新のテクノロジー(感情認識機能)が備わってい」るとされています。ただ、これは、対する人間の感情を推測するだけで、ロボット自ら「感情」を持つわけではなさそうです。

(注13)サマンサも、セオドアに「君がここにいたらいいのに!抱きしめて、君に触りたいよ」と言われて気にしていて、イザベラ(若い女性ですが、イヤホンと付け黒子によってサマンサが考えているとおりにサマンサの声で話します)をセオドアの元に送り込みますが、セオドアは引いてしまいうまくいきませんでした。

(注14)6月25日放映のNHKTV番組「クローズアップ現代:“パワーアシスト”が社会を変える」から(同番組の内容についてはこのサイトの記事でその概要が分かります)。

(注15)さらには、映画『ロボジー』に関する拙エントリの(3)で触れました大阪大学大学院教授の石黒浩氏(「人間酷似型ロボット研究の第一人者」)も各方面で活躍されています(この記事を参照)!



★★★★☆☆



象のロケット:her 世界でひとつの彼女

私の、息子

2014年07月04日 | 洋画(14年)
 『私の、息子』を渋谷ル・シネマで見てきました。

(1)予告編で見て良さそうな作品と思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は、ルーマニアの首都ブカレスト。
 映画の最初の方では、主人公のコルネリアルミニツァ・ゲオルギウ)(注2)が、居間で義理の妹オルガと話し込んでいます。
 コルネリアが、「私は味方なのに、息子のバルブボグダン・ドゥミトラケ)(注3)の方は、強制されるのが嫌なのか、一月電話1本かけてこない」と言うと、オルガは「放っておきなさい。だから前から、子供は2人作るべきと言っていたのに。バルブに子供でもできたらおしまいよ」と答えます。さらに「私達の世代は絶滅すべきだわ」とコルネリアが言うと、オルガは「それならもうすぐよ」と応じます。



 次いで、場面はコルネリアの誕生祝いのパーティー。
 コルネリアは夫と踊ったりしているところ、バルブがいないのを不審に思った客が「息子さんは?」と尋ねると、「急用で出かけたの」と答えます。

 別の日、家政婦のクララには、部屋の掃除が終わると、「クローゼットを整理したの、まだ新品同様よ」と言って、コルネリアは靴をあげたりします。クララが「自分には合いません」と嫌がるにもかかわらず、「じゃあ、娘さんにあげて」と言って手渡します。

 そんなアレヤコレヤがあった後、コルネリアがオペラの舞台の稽古に立ち会っていると、オルガがコルネリアを呼び出しに来て、「バルブに問題が。交通事故で、子供を撥ねて死亡させてしまったの」、「酔ってはいないよう。前の車を追い抜こうとしたら、逆方向から自転車に乗った少年が飛び出てきたらしい」と告げます。

 さあ大変です、コルネリアはどうするでしょう、それに対してバルブは、………?

 本作は、30歳になってもなかなか自立できない息子バルブと、その息子を自分のもとにいつまでも置いておきたい母親コルネリアとの関係を、息子が引き起こした交通事故を巡る騒動を通じて描き出すというものです。日本ではなかなかお目にかかれないルーマニア映画ながら、母親と息子との確執という普遍的なテーマを個別の出来事を通じてなかなか巧みに描き出していると思いました。

(2)劇場用パンフレットに掲載の斎藤環氏のエッセイ「映画「私の、息子」にみる親子の相克」で指摘されているように、コルネリアとバルブとの関係は実に微妙なものがあります(注4)。
 それだけに、一層バルブは苛ついて(注5)、コルネリアが「土曜日には亡くなった子供の葬式があるから出席して」と言っても(注6)、バルブの方は「そんなことはあんたたちでやっておいてくれ」などという反応しかできないのでしょう(注7)。



 本作では、さらに、バルブとコルネリアの間には、カルメンイリンカ・ゴヤ)というバルブの恋人がいて、話は一層複雑なものとなっています。



 コルネリアは、バルブが自分から離れたのはこの女のせいだと考えています。
 ですが、コルネリアがカルメンと向い合って話をじっくり聞くと、そんな単純なことではないことがわかってきて(注8)、この映画に一層の深みを与えているように思いました。

(3)母親と息子との関係を描いた作品としてクマネズミが思い出すのは、大部分の方と同じように、やはり韓国映画の『母なる証明』です(注9)。
 その映画では、女子高生殺人事件の容疑者として息子・トジュンが警察に捕まってしまうところ、息子の潔白を信じて疑わない母親がアチコチを駆けずり回ります。
 交通事故と殺人事件というように両作で状況が異なるところがあるとはいえ(注10)、息子のためを思って一生懸命になる母親の姿は共通するものがあるように思いました(注11)。

 親と子供との関係は、何時の時代のどこの国であっても様々な問題を引き起こし、身につまされますが、それはそれとして、見る前には本作がルーマニア映画と知らなかったところ、昨年の『汚れなき祈り』とは違って、ルーマニアも随分西欧化しているのだなという印象を持ちました。
 無論、賄賂等が横行する(注12)など旧体制のままのところがあったり、都市を外れた農家などはまだまだ貧弱そうだったりするとはいえ、主人公のコルネリアは富裕な舞台美術家(もとは建築家)で、立派な家に住み、その夫は医者であり、またコルネリアの誕生日のパーティーも随分と華やかなものです。
 ルーマニアは2007年にEUに加盟していますから、EUの経済力がより向上していけば次第にその恩恵を受けるようになるのではないでしょうか?

(4)村山匡一郎氏は、「親子の愛憎に満ちたもたれ合いを題材に、母親と息子の関係を通して家族の絆を問いかける」映画だとして、★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 佐藤忠男氏は、「近年、ルーマニア映画が国際的に注目を集めている。自国の現状を地道に批判的に見つめる佳作が次々に現れるからである。カリン・ペーター・ネッツァー監督のこの作品はなかでも出色の出来だ」と述べています。
 読売新聞記者の近藤孝氏は、「母であることの真実に迫る、まごうことなき傑作である」と述べています。



(注1)本作の英題は「Child’s Pose」(胎児の姿勢)。
 また、本作は、2013年のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞。

(注2)主演のルミニツァ・ゲオルギウは65歳であり、彼女が扮するコルネリアも大体そのくらいの年齢ではないかと思われます。

(注3)ラストの方でコルネリアが語るところによれば、バルブは大学院生で、来年辺り化学で博士号を取得する予定とのこと。

(注4)ギリシア神話におけるオイディプスとイオカステとの関係を暗示するような。

(注5)例えば、コルネリアが、バルブが購入を依頼した品物を間違えて買ってきて、「中身は同じ、値段は倍だけど」と言い訳すると、「完全な馬鹿か!」と怒鳴ります。
 バルブの怒りは、父親にも向かい、「腰抜けめ、あの女の言いなりだ」と言ってしまいます。
父親は黙っていますが、コルネリアは「あの子の言うとおり。あなたはあの子の言うとおりなんでもあの子に与えていた」と言います。

(注6)コルネリアは、亡くなった子供の家族の心証をよくして、できれば訴訟を取り下げてもらいたいと考えているようです(葬式の費用も夫が1万ユーロ出そうと言います)

(注7)それに、バルブは事故を引き起こした際に、付近にいた村人に殴られていて、葬式に出たりすれば殺されてしまうと怖れているのです。バルブは、コルネリアの介入をうるさがって「放っておいてくれ」と怒鳴るものの、かといってとても一人でこの件に立ち向かうことなど出来はしない相談なのです。

(注8)カルメンには連れ子がいて、現在、3人で暮らしているものの、近いうちに別れるとカルメンは言います。さらにカルメンは、別の男ができたからというわけではない、バルブは子供をつくろうとせず、この1年間何の徴候もなかった、などと語るのです。

(注9)母親と息子の関係を描いた映画作品はいろいろあると思いますが、最近では『あなたを抱きしめる日まで』とか『美しい絵の崩壊』でしょうか。でも、前者では息子は既に亡くなっていますし、後者は親友の母親を愛してしまうという内容ですから、本作とは雰囲気が違っています。
 なお、韓国映画では、同じような雰囲気を持ったものに、DVDで見た『嘆きのピエタ』があります。
 ただ、十字架から降ろされたイエス・キリストを抱くマリア像であるピエタがタイトルに使われているとはいえ、結局は、主人公のミソンはガンドの実母でないことがわかるのですから、本作と比較するのは適当ではないように思われます。

(注10)本作の場合、バルブが子供を轢き殺してしまったことは動かしがたい事実ながら、『母なる証明』においては、トジュンとは別の男が真犯人と判明したとしてトジュンは釈放されてしまいます。
 また、本作のバルブはなかなか自立できない男として描かれていますが(ラストでは立ち直るきっかけを掴んだようです)、トジュンは知的障害があるという設定になっています。

(注11)本作でコルネリアは、例えば、バルブが運転していた車が法定速度を超えていたと言う証人にかけあって、その証言を変えてもらうよう頼み込みます(明らかな嘘を言わなくてはならないために、証人から法外な金を要求され、コルネイアも最初は支払いを拒否するものの、証人の男が「過失致死で17年、双方に過失があれば7,8年。なにしろ前科がつく」などと言うので、要求に応じざるを得なくなります)。他方、『母なる証明』でトジュンの母親は、トジュンが女子高生の頭を石で殴ったのを見ていた廃品回収業者を殺してしまいます。

(注12)バルブの取調べにあたる警察官は、上の方からの電話があると、バルブが調書に記載した事故時の時速(146㎞)を制限速度(110㎞)内に書き換えることを黙認しますし、さらにはコルネリアが建築家であることがわかると、建築制限にかかわる当局の知人の紹介を依頼したりします(ここらあたりのことは、劇場用パンフレットに掲載されている中島崇文氏のエッセイ「映画『私の、息子』にみる現代ルーマニア社会」で取り上げられています)。



★★★★☆☆



象のロケット:私の、息子

超高速!参勤交代

2014年07月01日 | 邦画(14年)
 『超高速!参勤交代』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)時代劇コメディで面白そうだと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、1年にわたる江戸での暮らしを終えて故郷の磐城国湯長谷藩に戻ってきた藩主・内藤政醇佐々木蔵之介)の一行が田舎道を進んでいると、百姓がとれた大根を献上しますが、藩主はそれにかぶりつきます(注2)。

 参勤交代を終えた一行は、城内に入って荷を解いて、以前の生活に復帰します。
 藩主が、扉を少し開けたままで厠に入っていると(注3)、家老の相馬西村雅彦)がやってきてツイうっかりと扉を閉めてしまったから大変です。藩主は慌てふためいて厠から飛び出します。

 そんな藩主は、部下の侍たちが剣術や弓術などの稽古している様子を見回りますが(注4)、皆「やはり国元は良いですわ」とか「国元は心が和む」と言っています。
 他方で、家老の相馬は、「財政が思わしくなく、年貢を引き上げなくては」と藩主に進言し、さらに「殿はお人が良すぎる。飢饉の際に他藩(注5)を助けたりしたので、今回の参勤交代で蓄えも尽きました」と述べます。

 そこへ江戸屋敷の家老が早駕籠で飛び込んできて、「今より5日以内に参勤交替せよとの上様からのお達し。我が藩の金山の届け出に偽りがあったからとのことで(注6)、江戸に参上しなければ我が藩はお取り潰しに」と藩主に告げます。

 さあ大変、家老の相馬は、「無理に決まっている、常の参勤交代でも8日かかる上(注7)、要する382両もの金もなく、宿の手配もできない」と嘆きますが、藩主は「決めたぞ。すぐに支度せよ。5日のうちに江戸に行く。相馬、金はなくとも、お主には知恵があろう」と宣言します。



 さあ、藩主以下総勢七人(注8)はこの難題をいかにして乗り切ることができるでしょうか………?

 本作は、5日以内に参勤交代せよとの理不尽な命令を達成しようと頑張る貧乏小藩の藩主以下の侍たちのお話です。むろん、時代考証などはすっ飛んでいて面白さを追求するだけながらも、とても斬新な企画であり、深田恭子が女郎役で出てきたりもし、まあこうした斬新な企画の作品もそれなりにいいのかなと思いました(注9)。

(2)本作は、13人の侍が一丸となって残忍極まりない明石藩主(稲垣吾郎)を参勤交代の途中で襲撃する『十三人の刺客』のコメディ版といった感じがします。

 例えば、同作では、リーダーの島田新左衛門(役所広司)の「斬って斬って斬りまくれ」の合図で壮絶なチャンバラ合戦が始まるのに対し、本作では、藩主が「こんどの参勤は過酷なものになる。皆、精一杯走るぞ!」と檄を飛ばして城門から7人が走り出ます。
 また、同作では、明石藩主襲撃を阻止するために鬼頭半兵衛(市村正親)以下300人の侍が13人に立ち向かうところ、本作では、参勤を阻止すべく大勢の御庭番衆(注10)が藩主の一行に襲いかかります。
 さらには、同作では、山の民の木賀小弥太(伊勢谷友介)が山道について島田らの一行を道案内しますが、本作でも抜け忍の段蔵伊原剛志)が高萩宿から牛久宿までの山道につき相馬らを案内します。
 もっといえば、同作に登場する芸妓お艶(吹石一恵)が、本作の女郎・お咲深田恭子)にやや似ているのではとも思います(注11)。

 ともかく、『十三人の刺客』では、藩主襲撃を敢行した13人の侍を含めものすごい数の人が死んでいくさまが描かれているのに対して、本作はコメディですから藩主以下7人の侍は全員無事で(注12)、めでたしめでたし!

(3)渡まち子氏は、「幕府から無理難題の参勤交代を命じられた貧乏藩の奮闘を描く歴史エンタテインメント「超高速!参勤交代」。逆境に立ち向かう弱者応援ムービーにして痛快娯楽時代劇だ」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「膨大な鉱脈を秘めた時代劇の可能性を示す痛快作ではあった」「がしかし…、惜しいかな、脚本のクオリティに対し、演出が足を引っ張っている」と述べています。



(注1)脚本の土橋章宏は、本作で城戸賞を受賞。なお、監督は、本木克英

(注2)湯長谷藩の大根は将軍・吉宗市川猿之助)にも献上されていて、そのことがラストの方で効いてきます。

(注3)実は、藩主は幼児の時のトラウマによって閉所恐怖症なのです。

(注4)藩主が武芸の稽古に励み、それぞれが「一騎当千の兵」と自覚していることから、江戸城の悪徳老中・松平信祝陣内孝則)が放つ隠密集団に遭遇しても藩主を守ることが出来ます。

(注5)飢饉の際に藩主・内藤政醇の決断で米を贈られたことで、恩義を感じていた磐城平藩の藩主・内藤政樹甲本雅裕)は、窮状に陥っていた相馬らの一行に助け舟を出すことになります。

(注6)隠密によって金山の情報をつかんだ悪徳老中の阿部は、その金を独り占めしようと画策し、今回の「5日以内の参勤交代」の下命となります。

(注7)この記事によれば、いわき市と東京との距離は約195㎞。1時間に4㎞(=1里)で1日6時間歩くとすれば、約8日で歩けるでしょう〔4(㎞)✕6(時間)✕8(日)=192(㎞)〕。
 ただ、映画のように実質4日間で歩こうとすれば、歩行の速度と1日の歩行時間を長くすれば可能かもしれないとはいえ〔5(㎞)✕10(時間)✕4(日)=200(㎞)〕、相当厳しいでしょう。

(注8)“七人の侍”の内訳は、藩主と家老の相馬のほか、剣の使い手・荒木寺脇康文)、囲碁を愛好する冷静沈着な秋山上地雄輔)、弓の名手・鈴木知念侑李)、槍の使い手・今村六角精児)、それに二刀流の増田柄本時生)。

(注9)最近では、佐々木蔵之介は『大奥』、深田恭子は『偉大なる、しゅららぼん』で見ました。



 また、西村雅彦は『草原の椅子』、伊原剛志は『汚れた心』、上地雄輔は『土竜の唄』、六角精児は『悪夢ちゃん』、柄本時生は『ジャッジ!』、甲本雅裕は『県庁おもてなし課』で、それぞれ見ています。
 なお、江戸城の老中首座の松平輝貞石橋蓮司が扮しています(『銀の匙』で見ました)。

(注10)劇場用パンフレットによれば、総勢100人とのこと。

(注11)『十三人の刺客』では、お艶を演じる吹石一恵が、山の民の木賀小弥太が愛しているウパシの役をも演じているところ、本作において、飯盛女に過ぎないお咲がラストで藩主の側室に変身するのに対応しているのでは、とも思いたくなってしまいます。

(注12)とにかく、御庭番衆に壮絶に斬られたはずの秋山が、藩主の妹である琴姫舞羽美海)に介抱されているシーンがあるのですから!



★★★☆☆☆



象のロケット:超高速!参勤交代