映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

「皇室の御物(2期)」展(下)

2009年12月01日 | 古代史
 昨日取り上げました「三角縁四神四獣鏡」と同じ第一会場に、下図の「法華義疏」が展示されています。



この展示物に興味を惹かれたのは、そばのキャプション・パネルに「聖徳太子筆」と明記されていたこともあります。

イ)聖徳太子の事跡のみならずその実在性について、従来から疑問視されなかったわけではないところ、1999年に刊行された『<聖徳太子>の誕生』(大山誠一著、吉川弘文館)は、広範な論点から聖徳太子虚構説を強く打ち出しているため、大きな反響を呼びました。 

 同書で大山氏は、次のように述べています(P.5)。

聖徳太子に関する確実な資料は存在しない。現にある『日本書紀』や法隆寺の資料は厩戸王(聖徳太子)の死後1世紀ものちの奈良時代に作られたものである。それ故、〈聖徳太子〉は架空の人物である。

 さらに、今回の展覧会で展示された「法華義疏」について、「現在宮内庁所蔵の『法華義疏』に貼付された紙には「此れは是れ大委国上宮王の私集にして、海彼の本に非ず」と記されている」が、「いつ貼付された紙かわからず、是によって聖徳太子の著作と信ずる勇気は、少なくとも私にはない」(P.37)と述べています。

 聖徳太子虚構説については、その後も様々な人がいろいろの観点から論陣を張っていて、素人が無闇に口を出すべきではないところ、単なる感想にすぎませんが、「聖徳太子」像として必要不可欠な基幹的な事項は何と何なのか、そしてそれらがどこまで否定されれば聖徳太子が実在しなかったと言えるのか、という点が曖昧なままに議論されているような気がします(注1)。

 それはさておき、「法華義疏」については、田中英道氏がその著『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所、2004.9)で引用する見解、すなわち、「文中には、文字の誤りが、訂正後の今もなお少なくなく、文字の順序の入れ替えを示す倒置法も多く見られることから、中国の学者(仏教者)が書いたものとは考えにくい」(P.72)とする見解に従い、「太子以外の著者はほとんど考えられない」(P.149)としておく方が無難ではないかと思われます(注2)。

ロ)ところで、前々日の記事で触れた書家・石川九楊氏の『日本書史』の第3章「古風とやさしさと」は、「日本に残る最も古い本格的な肉筆の書は、「法華義疏」(615年)である」と書き始められ、あらまし次のように述べられています。

「法華義疏」に見られる書きぶりの特色は、「縦画の起筆の力が、ないとは言わないまでも、弱」く、「その弱さが、右回転の力に主律される「法華義疏」の文字をもたらす」。
また、「「生」字の第3画など、強い垂直で書かれるべき縦画」でも「ほとんど垂直の画が出現せず、柔らかく回転する筆蝕の中に垂直に構成しようとする力が吸収されてしまってい」て「くっきりとした姿を現さない」。
もともと、「起筆の強さは決意と決断の象徴であり、また天を意識するところに垂直の力線は生まれ、垂直に画は書かれる」が、「その決意や決断と天を意識するところが、いかにも弱い」。
こうしたことから、「政治や思想という垂直軸、決意や決断が強く要求されることのない地方や社会―おそらく倭の書ではなかろうか」。
さらに、「筆尖と紙との接触と摩擦」に対して「微細な極微の神経」が使われていて、これは「中国の写経のように文字の字画を紙に確実に定着するという筆蝕の姿とは、少し違うように思われる」。
従って、「法華義疏」の書き手は、「聖徳太子であるか否かはわから」ないものの、「東アジアの、政治的にはいくぶんか穏やかな社会の、しかし接触感度の鋭敏な社会、中国の最尖端からはいくぶん遅れた社会の一級の知識人であるとは言えよう」。

 以上の石川氏の見解は、「書」として「法華義疏」を詳細に分析した上で得られた極めてユニ―クなものといえましょう。
 そして、石川氏が言う通りならば、「法華義疏」は中国から輸入したものであるとする大山氏らの説は成立しないことになるでしょう。

ハ)ここで若干話は逸れますが、「法華義疏」に関する石川氏の見解は、最近刊行された内田樹氏の『日本辺境論』(新潮新書、2009.11)にも通じるところがあり、大変興味深いものがあります。



 内田氏は、同書の目的は、「「辺境性」という補助線を引くことで日本文化の特殊性を際立たせようとする」ことだと述べ、さらには、その本でたくさん挙げられている事例の1つとして、昨日のブログで取り上げた邪馬台国の卑弥呼に触れて、日本列島に「最初の政治単位が出現したその起点において、その支配者はおのれを極東の蕃地を実効支配している諸侯のひとりとして認識していた」のであり、「列島の政治意識は辺境民としての自意識から出発した」のだ、と述べています(P.60)。

 内田氏に従えば、石川氏の見解は、「法華義疏」には「辺境性」がうかがえる、と言い換えることが可能なのかもしれません(注3)!

ニ)さらにまた、平岩弓枝氏の最新時代小説『聖徳太子の密使』(新潮社、2009.10)は、聖徳太子の命を受けて、その愛娘・珠光王女が、男装のうえで3匹の猫と愛馬を供に従えて西に向かうファンタジーですが(注4)、その小説の中で聖徳太子は彼らの出発に際し、「渺茫たる青海原の彼方には、わたしの知らぬ多くの国々があろう。そこには如何なる知識があり、如何なる文明が栄えて居るのか、人々はどのように生きているのか。もし、それらの国々に学ぶべきものあらば、生きて学び、その知恵の宝を我が国にもたらせぬものか」と言います(P.12)。



 こう述べられている聖徳太子の願望は、まさに内田氏の言う「辺境性」の表れと言えましょう!
 たとえば、同書において内田氏は、「日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的地位が定まる。よその国が示す国家ヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える」などと述べています(P.38)。

 ちなみに、最近のオバマ米国大統領のアジア歴訪に関しても、大統領と鳩山首相との首脳会談の中身もさることながら、日本には24時間しか滞在しないのに、中国には3日も滞在する、これはオバマ政権の中国重視の表れだ、いいや日本訪問を第1番目にしているからむしろ日米関係重視だ、などとする報道が随分と流されました!




(注1)たとえば、大山氏は、津田左右吉博士の研究に全面的に従って、「憲法十七条」は捏造されたものであると主張しますが(前掲書P.75)、曾根正人氏が『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館、2007.3)で指摘するように、「『日本書紀』に見える憲法の文章に道慈の恣意的な筆がかなり入っていたとしても、それは憲法が存在しなかったという結論には直結しない」のです(P.22)。
 また、厩戸皇子まで否定するのなら話はわかりますが、この皇子の実在性を認めておいて、聖徳太子を否定することの意味はどこにあるのでしょうか。どのような人物でも、後世になって事績やエピソードなどが付加されることがありますが、こうした事情により、実在性が否定されるのでしょうか?
(注2)大山氏は、「法華義疏」を含む「「三経義疏」が中国製であることは、当時の日本の文化レベルを考えても当然すぎることと言えよう」と述べています(前掲書P.66)。また、大山氏の「聖徳太子虚構説」に批判的な曾根正人氏ですが、「三経義疏」については、中国製であり「成立してまもなく倭国にもたらされた」と主張します(前掲書P.168~P.169)。
(注3)もともと、石川九楊氏の『日本書史』の「序章」においては、「少なくとも明治維新以前の江戸時代までは、日本、朝鮮、ベトナムなどの東アジアの書史は、中国書史を厚みと高さと広さとする文化圏域に包摂され、その辺縁に小さな花を咲かせたにすぎない」などと述べられています(P.8)。
(注4)この時代小説のタイトルは「聖徳太子」となっていますが、本文ではすべて「厩戸王子」と表記されています。販売政策からでしょうか?


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「皇室の御物(2期)」展(中)

2009年11月30日 | 古代史
 前日に引き続いて、「皇室の御物」展の第2期で興味を惹かれた展示物を紹介いたしましょう。今回は、第一会場を入ってスグに展示されている「三角縁四神四獣鏡」です。
 
イ)この鏡は、奈良県の新山古墳から出土したものとのこと。



(上図の鏡は、椿井大塚山古墳出土の三角縁四神四獣鏡)

 「古墳」ときたらマズ目を通すことにしているのが、8月25日の記事で紹介しました宝賀寿男氏の『巨大古墳と古代王統譜』(著)。早速調べてみますと、この古墳につき概略次のように述べられています(P.206~P.207)。

・北葛城郡広陵町にある前方後円墳。
・三角縁神獣鏡を中心に合計34枚の銅鏡や、勾玉、刀剣、Ⅱ期の埴輪などが出土。他にも、鍬形石・石釧・車輪石という古墳時代前期の貴重な碧玉製装飾品も出土。
・さらに、東晋代の金銅製帯金具が出土したことなどから、その築造は4世紀中葉に遡るとみられる。
・被葬者は、地域的にみて葛城国造の族長であり、『日本書紀』の景行紀に見える「葛城の人、宮戸彦」か、そうでない場合はその子・荒田彦ではないかと推される。

ロ)ところで、今回の展覧会で展示されている「三角縁四神四獣鏡」を含む三角縁神獣鏡は、邪馬台国を巡る論争において大層注目されてきました。というのも、邪馬台国の記載がある『魏志倭人伝』に、あらまし次のような記述がみられるからです。

西暦239年に、倭の女王「卑弥呼」が、「難升米」等を魏国に送ったところ、魏国の明帝は卑弥呼に、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」を与え、さらに「銅鏡百枚」を含む多くの贈り物を与えた。

 そこで、畿内地方に分布の中心をおいて出土する三角縁神獣鏡は、魏で生産されたものであり、卑弥呼が受け取った「銅鏡百枚」に該当するから、邪馬台国は大和にあった、などと主張されてきました(注1)。

ハ)しかしながら、『巨大古墳と古代王統譜』の著者は次のように反論します。
「三角縁神獣鏡については、中国産説がわが国ではいまだ根強く主張されているが、中国や朝鮮半島では1枚も出土しないのに対し、わが国では約500枚も出土しており、その殆どが4世紀代に日本列島内で作られた大和朝廷の鏡だとみる説のほうが説得力が強」いのであって、「鈕孔が鋳放しで実際の使用を念頭に置いたものでなく、鏡の銘文には省略形であるなど、公的な鏡として大きな疑問があり、棺外に数多く置かれる例が多いことも国産説を裏付ける」(P.220)。

 したがって、三角縁神獣鏡は卑弥呼の受け取った魏の鏡ではないことになり、むろん邪馬台国畿内説を裏付ける証拠品でもないことになります(注2)。
 三角縁神獣鏡魏鏡説は、多分に思込み(それに、倭国用に特別鋳造したのではないかという想像論)に基づくものといえますが、あくまでも現実の出土状況から考えていく必要があるわけです。

ニ)こうした見解については、強力な援軍も現れています。すなわち、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(新井宏著、大和書房、2007)では概略次のように述べられています(注3)。

三角縁神獣鏡の鉛同位対比(4種類の鉛同位体の比率)は、真の中国鏡とは全く異なっていて、仿製鏡(中国から輸入した鏡に模して国内で生産された鏡)や銅鏃などとよく一致している。
この場合、漢代の鉛と後漢や魏晋の鏡の鉛を混合して作成した可能性も考えられるが、三角縁神獣鏡の鉛組成を詳細に検討すると、韓国産か日本産の鉛の添加を想定しないわけにはいかないことがわかる。
こうしたことから、「三角縁神獣鏡は中国で製作されたものではない」ことが判明する(P.72~P.74)。

ホ)こうした地道な研究がいくつもなされてきているにもかかわらず、11月3日の記事に対する「ディケンズの都」氏のコメントにあるように、「最近、桜井市の纏向遺跡から大規模な建物跡が見つかって、関西系考古学者は、これこそ卑弥呼の宮殿だと吹聴し、マスコミがこれを持ち上げて大騒ぎしている」状況下にあります。
 同氏が言うように、「考古学も科学の一分野であるのなら、合理的総合的な論理思考をしないで、判断してよいはずがない」のであって、冷静な対応が望まれるところです(注4)。 



(注1)たとえば、『三角縁神獣鏡の時代』(岡村秀典著、吉川弘文館、1999)では、銘文に中国人の作者名があること、「景初」「正始」という魏の年号をもつ鏡が発見されていること、中国で1枚も出土しないのは倭に贈るために特鋳されたものと考えられること、等の理由から、「倭王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡である」と述べられています(P.147)。
(注2)同様の見解は、安本美典著『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』(廣済堂出版、1998.11)やHP「三角縁神獣鏡の謎」などでも見られます。
 さらに、下記のコメント欄に投稿していただいた「羽黒熊鷲」氏による詳細な論考がHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、是非それもご覧下さい(「三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し」)。
(注3)この著書については、当ブログ8月23日の記事の③の注でも触れています。
 なお、雑誌『古代史の海』の本年9月号に掲載された論考「「三角縁神獣鏡魏鏡説」は危機に瀕しているか」において、下司和男氏は新井氏の見解に対し、やや周辺的と思われる問題点をいろいろ挙げて批判しています。とはいえ、どんな科学的な見解であっても、それはあくまでも仮説なのであって、それだけで完全に問題にケリが付いてしまうわけでないことは言うまでもありません。結局は、どの仮説が最も合理的であるかの問題なのですから、こうした論評の仕方にどれだけの意味があるのか疑問です。
(注4)11月3日の当ブログ記事のコメント欄に記載された「ディケンズの都」氏のコメント(12月11日)により判明しましたが、上記の注2で触れた「羽黒熊鷲」氏が、調査報告「纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告」をHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、どうかご覧下さい。



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邪馬台国を巡って(下)

2009年08月26日 | 古代史
 前々回と前回述べたことから、本年5月31日の国立歴史民俗博物館の報告に従って、箸墓古墳の築造年代は西暦240~260年ごろであり、だから卑弥呼の墓である可能性が高く、もとより邪馬台国は畿内に存在した、と簡単に言うわけにはいかないことがおわかり願えると思います。

 それでは、邪馬台国はどこにあったと考えるべきなのでしょうか?

①この問題については、前回ご紹介した在野の古代史研究者・宝賀寿男氏が、『「神武東征服」の原像』(青垣出版、2006.11)で示す見解が大変参考になると思われます。



イ)本書において、宝賀氏は次のように結論的に述べています。

 「筑後国の山本郡山本を根拠とした部族国家は、筑後川中流域の扇状地を統合して邪馬台国(=山本国)と号し、鉄器制作の技術とその地域の豊かな生産力を背景に北九州の筑前・筑後・肥前一帯の盟主となったものか。
 後年、邪馬台国王家の一支分家から出た神武が、畿内の大和盆地に遷って新しい国家を建てたとき、その地に故国・原郷たる筑後川中流域の地名を配置し、本国の宮都と同様な地理的条件の地を盆地内に見つけて同様に「山本」と名づけ、国名も先達者饒速日命の命名を踏襲してヤマトとしたものであろう」(P.296)。
〔饒速日命(にぎはやひのみこと)については、本書P.122を参照〕

ロ)もう少し補足しながら説明しましょう。
 まず、邪馬台国は、筑後川中流域の「筑後国の山本郡山本」(現久留米市山本町)あたりに存在しました。近隣の御井郡(両郡ともに久留米市域)も一帯として考えてよいと思われます。

 そして、邪馬台国本国は、その地にそのまま存続して、「3世紀前半の女王卑弥呼の時代に最盛期を現出させたが、…王位継承争いや狗奴国との抗争の中で次第に衰えていった」(P.328)ようです〔従って、大和盆地にある箸墓が卑弥呼の墓であるはずがないのです!〕。


(この地図は「邪馬台国大研究 本編 21」に掲載されているものを借用しました)


 他方、支分国の伊都国(筑前沿岸部)にあった神武が、「東方の新天地に活路を求め」(P.328)て東に向かって軍を進め、大和盆地に入り、「最大の難敵であった長髄彦」を滅ぼし、「大和平定を終えたのち、神武は橿原の地で初代大王(天皇)として即位することとな」(P.121)りました〔2世紀後半〕。



(上図は、『国史画帳・大和桜』〔1935〕に掲載されている「神武天皇東征之図」。宝賀氏の著書においても、この図の金鵄について検討しています〔P.123〕)

 その際に、「本国にあたる邪馬台国の王都の地理的条件に似た土地を大和盆地内で探しもとめて自己の宮都として定め、その周辺地域に原郷と同様な地名を配置したもの」(P.291)と考えられるわけです。

 以上は、よくいわれる「邪馬台国東遷説」(邪馬台国自体が大和へ遷ったとみる説)ではありません。単に、邪馬台国の「王家の嫡流本宗的な存在ではなく、支庶家系統のそのまた庶子くらい」(P.281)の者が、その地に明るい前途を見いだせずに新天地を求めて東に向かったと考えるべきでしょう。それにまた、古事記・日本書紀では、神武の率いた軍隊はかなり貧弱なものとして書かれているのです(「神武はせいぜい一部隊の長という描写」〔P.280〕)。

②こうした頗る魅力的な宝賀氏の見解を受け入れるには、やはり本書全体をよく読んでもらうしかありません。

 その際に一番問題となるのが、神武天皇のことでしょう。ここまで読まれた方は、神武天皇は神話上の人物であって歴史上の人物ではないのではないか、これは戦後の古代史学の当然の前提ではないのか、とあるいはおっしゃるかもしれません。

 ですが、宝賀氏は、そうした見解は、単に津田左右吉博士の学説をヨク検討もせずに右へ倣えしているだけのことであり、そもそも「津田博士の批判は疑問が大き」く、「記紀の記事についての自己の受け取り方や理解をもとに、神武天皇の存在を部分的に否定しただけである。ましてや、神武天皇の実在性の全否定に及ぶものでもない」(P.23)と述べます。
 つまり、宝賀氏によれば、津田博士は、自ら描く神武天皇像を自分で否定しただけのことなのです。自らの把握が間違っていれば、いくらそれを否定しようにも、神武自体の存在否定にはなりようがありません。津田博士の批判的精神は立派だとしても、だからといってその導かれた結論が正しいということには直ちに繋がらず、別個に検討を要する問題だということでしょう。

 結局のところ、戦後の史学界の歪み―一方で、古事記・日本書紀等の我が国の「史書の意味する内容(原型)をできるだけ的確に理解しようとする地道な努力」を殆どせずに、それらは「大和朝廷の当時の支配者・皇統の権力を裏付けるための歪曲、粉飾された歴史」だと頭から決めつけ、他方で、中国の史書である『魏志倭人伝』に「膨大な努力や検討」が傾注された―が、神武否定説をもたらしたといえるでしょう(P.24)。

 今やもう一度原点に戻って、日本の古代史(その上古分野)を検討すべきものと思われます。その際には、本書は何度も読み返すべきコーナースートーンの一つだと言えるでしょう。
 確定的な証拠が出てこなければ、どのような議論も蓋然性の大きさを検討するくらいですが、その場合にも、頭を柔軟にして学問的権威やマスコミ報道に拠らず、合理的に考えていくことが新しい知見につながるかもしれません。歴史を学ぶ(楽しむ)意味の一つも、その辺にあるのではないかと思われます。

邪馬台国を巡って(中)

2009年08月25日 | 古代史
 前回では、5月31日の国立歴史民俗博物館の報告につき、放射性炭素を使った年代測定の問題点を取り上げましたが、今回は、卑弥呼の墓の有力候補とされている箸墓を巡る問題点を取り上げてみましょう。

 在野の古代史研究者・宝賀寿男氏が著した『巨大古墳と古代王統譜』(青垣出版、2005.11)では、「箸墓」として知られる「箸中山古墳」について実に緻密な分析がなされています。



①この古墳につき、「邪馬台国大和説をとる論者からは、卑弥呼ないしは台与の墓として3世紀後半の築造とすらみられてい」ますが、宝賀氏は、「こうした取扱で問題ないのだろうか。具体的な陵墓治定を行う過程で、十分検討してみる必要があろう」と述べます(P.93)。

 すなわち、奈良県の大和盆地東南部にある大和・柳本古墳群について、「多くの考古学者が箸中山(278m)→西殿塚(219m)→行燈山(242m)→渋谷向山(276m)の順の築造とみているから、これがそのまま、倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめ)→崇神→垂仁→景行に比定されそうである。しかし、後2者は妥当としても(垂仁には佐紀の宝来山古墳という所伝があるが)、前2者については十分な検討を要する」(P.100)として、例えば次のような論点を挙げます。

イ)そもそも「当時急速に伸張していた大和政権の勢力・土木力を基礎として何年か後になって築造された大王(崇神)の墓が、一巫女(倭迹迹日百襲姫命)の墓より小さかったと考えるのは、むしろ不自然」(P.101)。
 巫女がいかに偉かったにせよ、かたや大和王権の(実質的)創設者ともされる大王ですから、両者のバランスをどうみるかの問題といえるでしょう。
ロ)「箸中山→西殿塚」とする論拠には問題があり、「西殿塚古墳のほうがやや先行して作られた可能性が十分考えられる」(P.104)。
 この辺りは「特殊器台形埴輪」の時期をいつと見るのかにもかかっているところ、いちがいに言い切れないということでしょう。
ハ) 崇神の「陵墓は、磯城瑞籬宮(崇神の宮都)から2㎞余東北の位置という少し離れた天理市柳本町(行燈山古墳―現崇神陵)に築くよりも、ま近の箸中集落辺りにそびえ立つように築いたほうが自然」(P.105)。

②こうして、結論的には、「西殿塚古墳はむしろ倭迹迹日百襲姫命の陵墓に比定されるのが妥当であり、それにほぼ同時期ないし多少遅れて築造された箸中山古墳が崇神陵に比定されるべきと考えられる」(P.106)ということになります。



 なお、崇神天皇については、著者は、「推定在位期間は西暦315~331年頃の約17年間」であり、「当時の日本列島における最大の政治統合体たる大和朝廷の実質的な初代大王とみて問題なかろう」と述べています(P.44)。
 これは、著者が、日本列島において統合国家が初めて出現した時期を、かつての通説と同じく4世紀前半頃とみているわけで、この立場に立つと、4世紀後半の朝鮮半島への出兵(好太王碑文など)にもつながります。
 
③こうした箸墓を巡る著者の見解は、それだけが独立して与えられているものではありません。古代史全体の流れに関する著者独自の見方が背後にあり、それをよく理解しないと、個別の古墳の築造時期や被葬者についての体系的・総合的な見解も十分な納得がえられないかもしれません。

 すなわち、「陵墓治定や古墳被葬者比定のために重要な基礎作業」として、「上古代の歴史の流れとその時期の大王の系譜(及び活動年代)の把握」が必要なわけです。ですが、「応神天皇より前の諸天皇(及びその活動年代)を具体的に考えることに無理があるとみる見解が多」く、困難を伴います。とはいえ、「応神より前の天皇(大王)を文献を含め様々な面から考察することが歴史の分野にあって「科学的」ではない、とは決していえるはずがない」と著者は言い切ります(P.38)。

 要すれば、様々な可能性を多方面から考えていき、合理性・論理性を検討し、検証していくという過程が重要であって、端から信念的に決めつけ簡単に否定するのは「科学的思考」ではない、と著者は主張しているものと考えられます。

④本書は、上古史そのものを考察する場所ではないので、これ以上の議論はなされてはおりません。
 是非、本書を含め、著者のそのほかの著作もお読みいただき、著者の独創的な見解の詳細に触れ、ご自身の頭と手足で考えていただきたいと思います。
 ただ、本書では、話をわかり易くするために多少とも「言い切り調」で書かれている部分もあるように見受けられます。とはいえ、そうした辺りへ疑問点を持ったり理解を深めたりすることで、自ずと読者は次のステップへ導かれることにもなると思われます。

邪馬台国を巡って(上)

2009年08月24日 | 古代史
 前日のブログにおいては、映画「まぼろしの邪馬台国」のDVDを見た際の感想を書きましたが、今回から3回にわたって、その映画の背景になっている「邪馬台国」を巡って、傍目八目的ではありますが、少々議論してみましょう。

①よく知られているように、邪馬台国がどこにあったのかという問題に関しては、100年以上にわたって畿内説九州説(宮崎康平の説もこれに含まれるでしょう)がしのぎを削ってきました。
 畿内説では、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡を邪馬台国の都に比定する説が最近では有力とされているようですし、他方九州説にあっては、福岡県ないし佐賀県の筑後川流域周辺説、大宰府天満宮付近あるいは福岡平野説や大分県の宇佐神宮などの付近を都とする説などが乱立しているようです。

②そうしたところ、本年5月31日付け朝日新聞には、概要次のような記事が掲載されました。

 奈良県桜井市の箸墓古墳の築造年代が西暦240~260年ごろとする国立歴史民俗博物館の研究成果が、31日、早稲田大で開かれた日本考古学協会の研究発表会で報告された。
 同館は、箸墓古墳やその周辺で出土した土器の付着物の放射性炭素(C14)年代を測定し、築造時期を絞り込んだ。春成秀爾・名誉教授は、中国の史書「魏志倭人伝」の記述から、卑弥呼が247年に死去したと推定。さらに、「全長280mの古墳を築造するには10年前後かかったとみられ、今回分かった年代から、卑弥呼が生前に自分の墓の築造を始め、死亡時に大部分は完成していたとも考えられる。卑弥呼自身が箸墓古墳を築造していた可能性が高い」と報告した。



このように、仮に、奈良県にある「箸墓」が邪馬台国の女王であった卑弥呼の墓であるとすれば、邪馬台国自体も当然その近くにあったことになり、長かった論争も結局畿内説で決着を見ることになるでしょう。

③しかしながら、この発表についてはいくつかの問題点が指摘でき、国立歴史民俗博物館(歴博)による報告をとても鵜呑みには出来ないところです。

イ)まず、その後8月6日付けの朝日新聞には、本件に関し、概要次のような記載が見られます。

 国立歴史民俗博物館による5月の発表には考古学者から疑問や異論の声があがった。土器の型式変化と製作年が記された中国鏡などを手がかりに、奈良地方の弥生~古墳時代の歴史の物差しを作ってきた奈良県立橿原考古学研究所の寺沢薫総務企画部長もその一人。「数十年という誤差が避けられない放射性炭素をもとに、5年、10年という 微妙な歴史の違いを論じることができるのか」と述べている。

ロ)加えて、その朝日新聞記事には、放射性炭素を使った年代測定に関して、グラフ(下図)に添えて次のような解説がなされています。



縦軸が炭素14年代法による理論的な年代値で、1950年より何年前かを示す。横軸は年輪年代法などを使って補正された「実際の年代(暦年代)」。表の見方は、炭素14年代法で測定した年代値を、横にのばして網の帯と交わらせる。その部分を横軸の補正年代で読みかえて実際の年代幅を導く。

ハ)詳しい説明は省きますが、上記の解説については次のような問題点を指摘できます。
.年代の補正に当たって、大きな問題のある「年輪年代法」を用いていること。
 補正の結果、「1~3世紀では、「歴史の物差し」は日本版と国際版で100年ほどのずれがある」とされていますが、何故そんな〝ずれ〟が生じるのかも何ら説明されてはおりません。
.同一の測定値であっても、読みかえるとかなりの年代幅が存在すること。
 朝日新聞の記事には、「歴博の今村峯雄名誉教授(年代科学)は「誤差が±3年という精度で年代を得る見通しがたってきた」と語る」とありますが、果たしてそうなのでしょうか? この辺の年代数値は、誰が検証できるのでしょうか。

ニ)要すれば、5月の国立歴史民俗博物館の報告が依拠する「炭素14年代法」には大きな問題があり、考古学者の間でもその測定結果については強い異論がある、ということなのです。この辺の問題は、新井宏氏の論考など(注)にも、歴博の測定方法や数値に対する疑問が多く示されています。

(注)新井宏氏の論考は、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007)に掲載されていますが、例えばこのHPが参考になると思われます。  また、主に日本古代史や古代中世の氏族系譜を取り扱っているHP「古樹紀之房間」に掲載されているこの論考も、時点はヤヤ古いもののもしかしたら参考になるかもしれません。
 
④邪馬台国をめぐる諸問題は、年代論だけで解決できるものではありません。文献学的なアプローチや広く東アジアのなかの歴史の流れなど多くの総合的な視点が必要だと思われます。
 すなわち、福岡平野にあった「奴国」が後漢の光武帝から金印を賜ったのが西暦57年、その50年後に倭国王「帥升」が後漢に使いを出していて、ここまでは北九州に倭の王権があったことに誰も異論がないはずです。
 ですが、その100年後には、早くも、畿内大和の三輪山麓に北九州までを広く版図とする王権が成立して箸墓のような巨大古墳を築いたとみる見方は、歴史の流れとして正しいといえるのでしょうか。
 その当時、列島内には原始部族国家がいくつか複数で成立していたにすぎないとしたら、考古学的な見地だけで邪馬台国所在地問題を考えるのは、大きな無理があります。
 ですから、この問題を議論される方にあっては、客観的・総合的な視野が必要とされるものだと思われます。さらに、鉄器使用やわが国弥生文化の開始などの時期についても、中国大陸や朝鮮半島と対応する時期という視点が当然必要になってきます。