映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

吉祥寺の朝日奈くん

2011年11月30日 | 邦画(11年)
 『吉祥寺の朝日奈くん』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)この映画こそは吉祥寺の1館のみの上映と思っていましたら、どうやらアチコチの映画館で上映されているようなので、意外な感じがしました。
 というのも、事前に何の情報もなく、タイトルから、我が家の近くのこと、それも毎週最低1回は出かけるところが舞台となっているのではという期待だけで見に行ったわけで、まして、映画の中でもバウスシアターが登場しますから、他の映画館は手をひいてしまうのではと思った次第です。
 マア、吉祥寺がうまく紹介されていればいいかな、ストーリーは期待しない方がいいのでは、と思っていましたら、意外としっかりした物語が描かれているので、正直言って驚きました。

 主人公の朝日奈くん桐山漣)は、25歳ながら定職もなくアルバイトでしのいでいる有様(その仕事も、アルバイト先が潰れてしまったため、目下のところ失業中というわけです)。
 その彼が、吉祥寺のある喫茶店に通いつめています。どうも、そこで働く山田さん星野真里)に気があるようなのです。



 ただ、なかなか話すきっかけが掴めないでいたところ、突然、若い男女がその喫茶店に入ってきて喧嘩をし出し、あろうことか女が投げた椅子で、朝日奈くんは顔面に傷を負ってしまったことから、山田さんと話すようになります。
 メルアドを教えてもらったりして、なんとなく付き合い出しますが、彼女はすでに結婚していて幼い娘までいることは、最初から明らかにされています。
 にもかかわらず、朝日奈くんは山田さんとの付き合いをやめようとはしません(注1)。
 2人が出歩く場所は、それこそ吉祥寺駅周辺のよく知られたところばかりながら(注2)、実にさりげなく画像の中に収められているな、このくらいならギリギリのところでいわゆるご当地物にはならないのではないのか、などと思いました(注3)。

 物語は、そこから朝日奈君の先輩(要潤)をも巻き込んで、実に意外な展開をし出しますが(注4)、結局はそうなるだろうな、という結末を迎えます。
 「思ったよりよかったじゃん!」という感じで、映画館を後にすることができました。

 この映画は、タイトルからすれば、桐山漣が演じる朝日奈くんが主役なのでしょうが、山田さんを演じる星野真里になんともいえない魅力があってこその映画ではないかと思いました。と言って、クマネズミには、彼女の出演作品は全く記憶がありません。これからはよくフォローしてみようと思っています。

(2)この映画には、映画と同じタイトルの原作があります。中田永一著『吉祥寺の朝日奈くん』(祥伝社、2009.12)(注5)。



 原作では、映画を見ながら変な感じがした点が、納得がいくように書かれているところがいくつも見受けられます(注6)。
 でもそれらは些細な事柄でしょうし、元々原作と映画は違う作品ですから当然のことともいえるでしょう。

 逆に、映画を見てから原作を読むと、原作に対して大きな違和感を持ってしまいます。というのも、原作小説が、朝日奈くんが「僕」として物語る第一人称小説の形式を取っているからなのですが。
 ネタバレになり過ぎてしまうので本文には書かずに「注4」に記載しましたが、そこに記載したことは、第3者の視点から描かれる映画においては、“実は”として極く自然に受け容れ可能です。ですが、朝日奈くんが物語っている原作においても、映画とマッタク同じ構成になっているのですから、それなら原作の読者に対する作者の大きな裏切り行為ともいえるのではないか、と思えてきます。
 というのも、例えば、原作では、山田さんが“朝日奈くんの舞台姿を見たことがある”と言うと、「奇跡、と心の中でつぶやく。はたして、そのようなものが、そうかんたんにおこるだろうか」と、朝日奈くんの心の中が書き込まれています(P.266)。
 でも、これはその時に朝日奈くんの心の中でリアルに思われたことなのだろうか、との疑問がスグサマ湧いてきてしまいます(注7)。
 この点、映画の観客は、朝日奈くんを演じる桐山漣の表情から、そんな心の中まで読み取る事は出来ませんから、何の問題もなく話は進行します。

 要すれば、原作の方が、全体としては映画的に作られているといえるのかもしれません(注8)!




(注1)たまたま、吉祥寺駅前の献血ルームで「成分献血」を一緒にやったこともあって、より一層2人の関係は接近します。 

(注2)吉祥寺駅前のハモニカ横丁のみならず、メンチカツを求めていつも長い行列ができている「ミートショップ・サトウ」とか、焼き鳥の「いせや」などなど。
 そうした名物店だけでなく、井の頭公園の井戸を源流とする神田川の川岸に作られた遊歩道を三鷹台から久我山方面まで歩くシーンが挿入されてもいたりして、全体として実に好ましい仕上がりになっています。

(注3)クマネズミは、小学校の遠足の際に入ったきりのため知らなかったのですが、井の頭公園に設けられている動物園ではアジアゾウが飼育されていました(山田さんは、「すぐそばの家で暮らしている人は、こんなところに象がいることをどう思っているだろう」などと言います)!

(注4)実は、山田さんは先輩の奥さんで、朝日奈くんは、先輩の要請で奥さんと不倫関係をもつべく努めていたわけなのです(先輩は、奥さんと別れたがっていただけでなく、その際に、慰謝料をもまき上げようとも企んでいました)。でも、よくある話ながら、朝日奈くんは、山田さんに恋心を抱いてしまうのです。その結果、……。

(注5)同書は短編集で、原作の他に4作が掲載されています。

(注6)例えば、映画では、山田さんとその娘が高知の実家へ帰る日に、彼女らが乗るタクシーが、井の頭公園を西端を横切る道路を歩く朝日奈くんと遭遇します。ですが、いくら何でもそんな偶然が起きる確率はごく小さいでしょう(それに、歩道が設けられておらず、車が頻繁に通るあの道路を歩く人など、滅多におりません)。
 この点、原作では、彼女らは朝日奈くんのアパートにやってきて別れの挨拶をするのです。これなら十分に受け容れ可能です。
 映画の改変は、井の頭公園を別れの場としたいためなのでしょうが、いささかやり過ぎではと思いました。
 それに、映画のラストでは、朝日奈くんが役者の道に戻ったことを明らかにするために、台本を覚えている彼の姿を映し出し、また、高知の山田さんとの関係が途切れていないことを示すためでしょう、山田さんから送られてきた手紙(娘が書いた象の絵まで添えられて)を公園の池の端で彼が幸福そうに読むシーンまで描き出されます。
 むろん、原作には、そんな陳腐な場面など書き込まれてはいません!

(注7)原作では、朝日奈くんが、“先輩の部屋に居候していたときに、舞台のチラシをそこに置いていったことがあって、それを山田さんが見て劇場に行ったのでは”、と山田さんに話します(P.304:映画でも同じ説明をします)。要すれば、山田さんとの出会いは、朝日奈くんにとっては「奇跡」でも何でもない事柄のはずです。

(注8)いくらでも例示することが出来ますが、もう一つ例を挙げれば、映画の初めの方で、若い男女が山田さんのいる喫茶店に入ってきて喧嘩をし出し、女が投げた椅子で、朝日奈くんは顔面に傷を負うというシーンがあります。
 同じ場面は、原作の冒頭でも描かれているところ、そのカップルの男について、「大学生くらい」とか「普通の風貌」と、いかにも朝日奈くんは何も知らなかったように書かれていますが(P.233)、実はよく知る劇団の後輩なわけで(そのことは、ラスト近くで明らかにされます:P.296)、そうだとすれば、朝日奈くんが話している物語においてこんなソッケナイ書き方は出来ないのでは、と思われます。




★★★★☆


〔追記:2011.12.12〕本作の主題曲『空に星が綺麗~悲しい吉祥寺~』〔アルバム『FIRE DOG』(1996年)収録曲〕を歌っている斉藤和義が、『ナニワ・サリバン・ショー』に出演しています。








家族の庭

2011年11月28日 | 洋画(11年)
 『家族の庭』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)予告編を劇場で見て、きっと良い映画に違いないと思って出かけたところ、期待に違わず優れた出来栄えの作品でした。

 このイギリス映画では、病院でカウンセラーを担当するジェリーと、その夫の応用地質学者・トムの夫婦を中心に、ジェリーの同僚のメアリー(病院事務)とか、息子のジョー(弁護士)、友人のケン(職業安定所勤務)、トムの兄ロニーなどが、入れ替わり立ち替わりその夫婦の家にやってきては、様々な話をしていく様子が映し出されます。

 全体が春夏秋冬の4つの部分に分かれてはいるものの、1年を通して特段変わったことが起こるわけではありません。せいぜいのところ、メアリーは赤い車を買い、ロニーの奥さんが亡くなってしまったり、そしてジョーは30歳になってようやく彼女・ケイティをみつけたり、といったところ。



 そうした彼らを受け止めるトムとジェリーの夫婦は、暇な時間ができると、四季を通して市民菜園での農作業に明け暮れています。



 それでも、独身のメアリーとかケイが抱える寂しさとか不安は底が深く、そのためアルコールに頼ることになってしまいます。また、ロニーもその長男とはコミュニケーションがうまくいきません(注1)。
 それでも、なんとかAnother Year(原題)も同じようにやり過ごすことになるでしょう。

 若いジョーが30歳、兄のローニーが70歳と設定されているほかは、特に何歳と明示されていませんが、全体の感じから、男性の方は60歳代の初めの方で、もうそろそろ定年を迎えるといった年格好であり、女性の方は50歳台といったところでしょうか、そしてよく知られた俳優が登場するわけでもないものの、なんともいえない深みをたたえた優れた作品です。

(2)ジェリー&トムの夫婦が、一人は病院のカウンセラーで(注2)、一人が応用地質学者ということでもあるのでしょうか(注3)、彼らには、皆が自分の悩みを打ち明けてしまうようです。
 ですから、クレジットでは彼らは主役の扱いとされていながらも、実際には狂言回しの役どころで、映画の中心人物は独身のメアリーといえるでしょう。
 彼女は、客観的に見ればもはや若くはないものの、気だけは若い時分のままで、そのギャップに悩み続けているようです(注4)。
 同じく独身のケンが、一人者の寂しさを訴えて(注5)、メアリーに気があるところを示しますが、メアリーの方はケンを嫌がり、むしろ若いジョーの方にすり寄り、しかしながらジョーに恋人ができると、酷く落ち込むことになってしまいます(注6)。
 それでも、ラストの方で、留守番をしているロニー(奥さんを亡くした後、サムの家に暫く滞在しています)に対して、初めて出会ったにもかかわらずメアリーは、「私は独りだから、何か家の片づけに行きましょうか」、「話し相手がいるって、素敵ね」、「どこかへ引っ越すの、やり直すの」などと話しかけています(注7)。
 さあメアリーは、その後どうなることやら……。

(3)福本次郎氏は、「きっといい人なのだろう、ただ少し己を客観視できず感情を抑制できないおばさんをレスリー・マンヴィルが好演。まだまだチャーミングだと思い込んで頑張っているけれど、どこかズレている女心のイタさと哀しさを見事に表現していた」などとして70点を付けています。
 また、映画評論家の土屋好生氏は、「鋭い人間観察眼と卓越した作劇術。ユーモアと機知に富むせりふと舞台育ちの名優たちの競演。特筆すべきは俳優が役になりきり、自分の言葉としてせりふを自在に操っていること。俳優の即興芝居から逆に脚本を仕上げていく独創的な映画作法が功を奏している。/誰しも結局は独りで死んでいくにしても、限りある人生をどう生きるか。そこに「老いと孤独」という永遠の命題を避けては通れない68歳のリー監督の偽らざる今の心境がだぶって見える」と述べています。



(注1)長男のカーリーは、ずっと両親と離れて暮らし続けているにもかかわらず、母親の葬儀の日には遅れて到着して、自分が来ないうちに葬式を済ませてしまったと言って、酷く親族を責めたりするのです。

(注2)同僚の医師から回されてきた不眠症の女性患者には、「家族のことは話したくない」、「不眠症を薬で治してもらうだけでいい」、「カウンセラーのところなどこなければよかった」などと言われてしまいますが。

(注3)サムは応用地質学者で、何か工事があると、その地面をボーリングで掘り下げて地盤の強度を調べたりしています。そんなところから、彼の家に来る人間も、その心の中を彼によって掘り下げて探られてしまうのかもしれません。

(注4)メアリーは、20歳で結婚したのが間違いで、結局捨てられた、と話しています。
 今や気だけは強く、ジェリーに対して、「今、幸せよ。あなたの方に問題があれば、私が聞いてあげる」などと言い放ちます。
 ですが、それも初めの方で、暫くすると、「時々彼のことを思い出すの。でも奥さんがいたの。それでも、私を愛してくれたの」などと寂しい現在の様子を打ち明けるようになって、ジェリーに「相手を選ばなくてはだめよ」などと忠告されてしまいます。

(注5)ケンは、「歳を取ってパブに行けなくなった。若者ばかりだから。昔は仲間とよく飲んだ。今や誰と休暇を過ごせばいいんだ」と嘆きます。これに対して、サムが、「お前だって、昔はよく飲んでパブから追い出された。喧しいのは、若者の特権だ」と言うと、ケンは、「わかっている」と答えます。

(注6)ジョーは、3か月前のバーで知り合ったというケイティ(作業療法士で、脳卒中のリハビリに従事)という女性を連れて両親の家にやってきて、メアリーと鉢合わせします。メアリーは、ケイティが若く2人の仲がいいのを見せられて、酷くショックを受けてしまいます。ケイティたちが帰った後に、ジェリーに向かって、「ケイティはジョーにお似合いというわけでもなさそう。余り急ぐこともないのじゃない」などと言ったりします。

(注7)メアリーが「私ビートルズが好きなの」と言うと、ロニーは「わしはエルビスだ」と答えたのには驚きました。まさか、70鷺の老人の口から「エルビス」が出てくるとは思わなかったので。でも、ロニーの青春時代は1950年代後半以降でしょうから、まさにエルビスと重なっているのは何の不思議もありません!




★★★★☆



象のロケット:家族の庭

マネーボール

2011年11月26日 | 洋画(11年)
 『マネーボール』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)『ツリー・オブ・ライフ』では、出演している意味合いを余り感じなかったブラッド・ピットですが、今度の主演作はどうかなっと思って映画館に出かけてみました。
 見る前は若干の不安はあったものの、本作におけるブラピは、その魅力を十分に発揮しているものと思いました。

 前年の地区優勝決定戦では、いいところまで行きながらも敗退してしまった大リーグのアスレチックス(アメリカンリーグの西地区)は、来年に向けて選手補強しようとしたところ、有力選手が何人も、上位チームから高額で引き抜かれてしまい、このままでは大変な戦力ダウンとなってしまいます(貧乏球団のため、引き抜きに対抗できませんし、また力のある選手を補強出来るわけでもありません)。
 そこで、同球団のGMのビリーブラピ)は、イェール大学で経済学を修めたというピータージョナ・ヒル)を補佐として雇い入れ(注1)、その野球理論(マネーボール理論、あるいはセイバーメトリクス)に従って、選手の補強をしていきます(要するに、有力選手の抜けた穴を、何人かの選手―特定の指標から見れば優秀にもかかわらず、誰もその点を評価しないので、トレードの費用が安い―で埋めるというものです)。



 シーズン当初は、GMらの方針がチーム内に浸透せずに負け続けるものの、ビリーの強気の姿勢が功を奏し、そのうちに連戦連勝し出し、あわや優勝というところまで行きつきます(注2)。
 とはいえ、映画では、地区優勝決定戦で負けてしまうと、野球はそうした理論で割り切れるものではないとするマスコミ報道(注3)をなぞっているかの如くに描かれます。

 ただその反面で、人間的な要素がすごく大事なことをも、映画はキチンと描いているのです。
 例えば、ビリーは、出場する選手に向かって、「自覚はないだろうが、君らは優勝する!」と鼓舞したり、さらには一人一人に声をかけ、自分の考え方が浸透するように努めています。

 また、自分が試合を見に行くとチームが負けてしまうというジンクスを大事にしていて、20連勝達成の試合でも、11点差があることがわかってはじめて野球場に足を運びます。ですが、その途端に、相手チームが点を取り出すのを見てとると、急ぎ選手控室に退散してしまいます(そのお陰かどうか、同点とされたにもかかわらず、その裏にホームランが飛び出し、アスレチックスは歴史に残る20連勝を達成してしまうのです)。

 さらには、ビリーは、元は大リーガーとして将来を嘱望されながらも芽が出ずに、入団後10年ほどしてスカウトに転身したという過去があると設定されています。
 ですから、チームの補強策を議論する会議において、スカウト連中が、口々に昔からの見方(ビリー自身が言われたこと)に従って補強すべき選手を言い出すと、そんなものは駄目だと一蹴して、ピーターの理論に基づく補強策を貫こうとします(注4)。

 もう一つ大事なファクターがあります。ビリーは、離婚していて娘のケイシーケリス・ドーシー)ともたまにしか会うことができません。



 でも、ビリーは娘に首ったけで、欲しがっていたギターを買ってあげたりします。ケイシーも嬉しさの余り、父親が求めるままに、買った楽器店でギターを弾きながら歌まで披露してしまいます。さらに、ケイシーが歌う歌が入っているCDが、ビリーの運転する車の中に流れますが、本作の一番の感動シーンです。



 ただ、劇場用パンフレットは、野球の方面に傾斜し過ぎていて、元の妻シャロンと新しい旦那のがいる家にビリーが行って彼らと話す場面があるにもかかわらず、シャロンを演じる俳優(ロビン・ライト)の写真は一枚も掲載されていないのです。

 そんなことはともかく、野球の話とそれ以外の話とがうまくマッチングして、全体としてなかなか優れている作品に仕上がっているな、と思いました。

 ブラッド・ピットは、本作のプロデュサーの一人でもあり、4年も関与していただけのことはあって、随分と説得力のある演技を披露しています。
 それと映画を見て初めて気が付いたのですが、あのフィリップ・シーモア・ホフマンが、アスレチックスの頑固な監督役を演じていたのには驚きました(注5)。

(2)この映画では、ビリーの斬新な球団管理手法(マネーボール理論)に目が行ってしまいます。
 ただ、それは、このサイトの解説によれば、統計的な手法に基づく野球理論(セイバーメトリクス)とは違うとされます(注6)。
 すなわち、ビリーが球団管理を行う上で一番重視するのはコストパフォーマンスであって、その観点からセイバーメトリクスを用いているに過ぎない、とされています(注7)。
 おそらく、ジェイソン・ジオンビの抜けた穴を埋める際に、ピーターは出塁率の高い選手を選びだしますが、彼らの年俸が酷く安かったからこそ、ビリーはOKを出したのだと思われるところです。

 いずれにせよ、ビリーは、ヤンキースの3分の1程度の予算ながらも、自分の考えに従って集めた選手を監督に委ねることによって地区優勝を遂げてしまうのですから、目を見張ってしまいます。
 ただ、優勝決定戦という短期決戦ではそのやり方が通用しないのは、当然と言えば当然なのでしょう!なにしろ、地区優勝までの試合数は162であるのに対して、決定戦ではわずか5試合なのですから、前者では統計数値に近いものが達成されるにせよ、後者では別のファクターの影響の方が大きく出てしまうと思われますから。

(3)渡まち子氏は、「特に善人でもなく、かといって強烈な悪人でもない、むろんルックスの良さなど売り物にもしない、普通の中年男を演じるブラッド・ピットが新鮮で好感が持てる。離れて暮らす娘とのエピソードは、残念ながら物語に効果的に溶け込んでいるとは言い難い。それでも主人公が見せる、優しい父親の笑顔は、野球と家庭を愛する良きアメリカ人そのもの。そのことが、作品に温かさを加えている」として65点をつけています。
 福本次郎氏は、「「夢」が動機の成功譚は胸を打つが「カネ」が動機では共感は呼ばない。それをわかったうえであえて感動的なシーンを省いた演出が非常にクールで、端正な映像とマッチしていた。現代のプロ野球界がいかにマネタリズムに蝕まれているかがよくわかる作品だった」として60点をつけています。
 なお、前田有一氏は、「この作品は、誰もがもうだめだと思っていた弱小チームが、変化を恐れず新理論にすべてを委ねたおかげで旧勢力に勝ち上がる下剋上のお話。つまり今こそ変わるのだという、一種の革命ムービーである。そういえばどこかの国は今、変わろう変わろうとリベラリストに訴えて当選したリーダーが窮地に陥っている。そんな時代、国でいま、この企画が実現した理由をこそ、考えてみるべきなのかもしれない」として70点を付けていますが、相変わらず、映画を直接的に現実の政治状況と結びつけて見方を狭めてしまっているように思われます。




(注1)ピーターは、「野球で何を把握すべきか理解していない人が多い」、「金で選手を買おうとしているだけだが、しかし勝利こそを買うべきだ」などとビリーに向かって言います。

(注2)ビリーは、「俺は、この世界にずっと長くいる。目的は、記録ではないし、優勝指輪でもない。最後に勝たなければ何の意味もないのだ。我々が、この予算で勝てば世界が変わる。そこにこそ意味があるのだ」などとピーターに話します。

(注3)「アスレチックスは健全なチームではない」、「統計という奇策ではだめなのだ」など。

(注4)ビリーは、「おしゃべりばっかりだ。何が問題なのか分かっていない」とか、「ここでヤンキースの真似をしても勝てない」などと言います。

(注5)彼の出演作としては、『ダウト』、『パイレーツ・ロック』それに『脳内ニューヨーク』などを見ています。

(注6)セイバーメトリクスに関するこの論考も、興味深いものです。

(注7)同じことは、このサイトでも言われています(「『マネー・ボール』は普遍的な野球理論そのものではなく、少ないリソースでいかに効率よくチームの勝ち星を積み重ねたり、選手を採用したりするかという、経営戦略及び最適化の一つのアプローチを描いたドキュメントだ」)。




★★★☆☆





象のロケット:マネーボール

ハラがコレなんで

2011年11月23日 | 邦画(11年)
 『ハラがコレなんで』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)『あぜ道のダンディ』に続く石井裕也監督の作品であり、また、『ゼブラーマン2』や最近の『モテキ』に出演している仲里依沙が主演とのことで、大いに期待したのですが、何回も彼女の口から飛び出す「粋だねっ!」の台詞に、どうも最後まで馴染めませんでした。

 もう少し作品に接近してみましょう。
 冒頭暫くすると、妊婦の光子仲里依沙)は(注1)、住んでいたマンションを引き払い、旅行鞄一つと300円を持って外に出ます。
 公園を通りかかると、保険会社をリストラされた男(近藤芳正)がベンチに座って泣いているので、その300円をあげてしまいます。
 光子は、「風が向いていないときは、昼寝が一番。風向きが変わったら、その時、ドーンと行けばいいんだから」と言って、暫くベンチで休み、空の雲が動き出すと、「ホラ風向きが変わった。行くかな」とタクシーを捉まえて、「あの雲が流れる方へズーッと行って」と乗り込み、昔いたことのある長屋に辿り着くと、タクシー料金など払わずに降りて、ズンズン行ってしまいます。

 そして、光子は、その長屋の大家・稲川実代子)と運命的な再会を果たします。



 というのも、15年前に、両親(並樹史朗と竹内都子)が営んでいたパチンコ店が立ちゆかなくなって、夜逃げしてこの長屋に3人が転がり込んだことがあり、その際に清から、「あんたらは、所詮夜逃げだろう。だけど、あんたらばかりじゃない、みんなでドーンといけよ。粋に生きようとする姿勢が必要だ」とか、「金のない人間には、粋と人情だけが残されたもの」などと、その後の光子の人生観の核となることを言われているのです。

 光子にとって、さらにモウ一つ運命的な再会がありました。その長屋を出て元のパチンコ店に戻るときの別れ際に(注2)、「大きくなったら結婚してくれ」と言われた陽一中村蒼)に出会ったことです。



 彼は、伯父の次郎石橋凌)と一緒に、相変わらず同じ長屋に住み、同じレストランで働いているのです。15年前には、レストランで客の呼び込みをしている陽一を見て、光子は「粋だね」と思い、また今回も、彼が大家の世話を焼いているのを見て「粋だね」と言ったりします。

 物語は更に進行しますが、とにかく光子は、何でも「粋だね」、「OK」とか「大丈夫、大丈夫」とか言って、自分なりの考え方でドンドン前に行こうとするのです。
 周囲の人々は、その勢いに気圧されてしまうのでしょうか、敢えて異を立てようとはしません。
 ただ、彼女の一本調子なところを、映画はくどく描きすぎているのでは、という気がしました。

 仲里依沙は、やっぱり『ゼブラーマン』の黒ゼブラでしょうし、また『モテキ』でも、そんなに長い出番ではありませんでしたが、アゲ嬢・愛もなかなか良かったと思います。
 ですが、今回の光子役では、その魅力がうまく生かされていないように思え、残念でした。

(2)本年7月に、石井裕也監督の前作『あぜ道のダンディ』を見たばかりなので、どうしてもそれと比較してみたくなります。

 両作で共通するところが、いくつかあると思われます。
 例えば、前作の主人公の宮田(光石研)も、本作の光子と同様、頗る一本気で、無理を承知しながらも、なんとか子供達を東京の大学に通わせようとどこまでも頑張るのです。
 また、宮田の胃癌騒動は、身体の異変という点で、光子の妊娠と類似するといえるでしょう。そして、胃癌に違いないという宮田の思い込みは、検査によって解消されますし、光子の妊娠も出産によって解消されることになるでしょう。

 ただ、宮田は、どこまでも自分一人でやり通そうとする光子と違って、真田という絶妙の相棒を持っているのです。それに、真田を演じる田口トモロヲのひょうひょうとした味のある演技ともあいまって、宮田の一本気は、観客側にとってそれほど押しつけがましく感じられません。
 また、前作で印象深かったのは、皆で「兎のダンス」を歌うシーンですが、本作ではそれが見当たりません(『川の底からこんにちは』でも、傑作な社歌を歌うシーンがありました!)。

 総じて言えば、クマネズミとしては、前作の『あぜ道のダンディ』の方を買いたいと思います(いくらなんでも28歳の監督が、年2作というハイスピードで傑作を作り続けるのは無理なのでしょう!といっても、クマネズミにとって石井監督の作品は、★3つが最低持ち点なのです)。

(3)本作品は、“とにかく頑張っていこう”というテーマが、鮮明に、かつ前面に出てしまっています。
 もちろん、これまでの作品にもそうしたテーマはスグに見て取れますが(特に、『川の底からこんにちは』)、他のファクターでうまくまぶされて嫌味を余り感じませんでした。
 でも、今回の作品のように、モロにしつこく何回も提示されると、見ているこちら側としては、それからはドンドン引いてしまい、別のファクターに注意を向けたくなってきます。
 例えば、空に浮かぶ雲の固まりがスーッと動く様は、なんだか同監督の『ガール・スパークス』の空を飛ぶロケットを思い出させますし、喫茶店のママ(斎藤慶子)に思いを告白できないレストランの次郎とか、映画の冒頭に登場する会社をリストラされた男なども、同監督作品にお馴染みの“ダメ人間”だな(注3)、それに、次郎達が住んでいる長屋は、このところの邦画でお馴染みの日本家屋だな、などなど。



 特に、長屋の地下に埋まっていた不発弾が爆発して(注4)、寝たきりだった大家がスクッと立ち上がれるようになるなど風向きが変わるのは、マズマズの仕掛けといえるでしょう(注5)。

(4)渡まち子氏は、「光子には自分を顧みず人を助ける、義理と人情こそが“粋”の定義なのである。ただ、彼女が“粋”という言葉を頻繁に口に出しすぎて、かえって野暮に聞こえてしまうのは私だけか? 1983年生まれの石井監督世代が感じる粋とはどんなものなのかが知りたくなる。いずれにしても破天荒な妊婦ヒーロー(ヒロインだけれど)が周囲を元気するこの物語、仲里依紗のカラリとしたキャラのおかげで、見ていてるこちらまで励まされる、賑やかな作品に仕上がった」として60点を付けています。
 福本次郎氏は、「本来、彼女(光子)の善意の空転ぶりが面白いはずなのだが、切れ味の悪い映像はユーモアにまで至らず、いつまでたっても笑いが弾けないのには閉口した」として40点を付けています。



(注1)光子は、かかりつけの産婦人科医に、「また逆子に戻っちゃったね」とか、「妊娠9ヶ月目でまだ吐き気があるとは、なかなか安定しないね」、などと言われます。
 暫くしてまた行くと、「安定期がなかった人だね」と医者に言われますが、光子は、「あたしの人生には安定期はなかったんだ。でも、それでいいんだ、自信ありますから」と言い返します。
 なお、お腹の中の子供について、光子は、「ジャック・ハドソンの子供。彼は黒人で、流れでアメリカに行き、そこで捨てられて帰国した」などと話しています。

(注2)その時は、長屋暮らしはスグに切り上げることが出来ました。その後両親は、15年ほどパチンコ経営に勤しむのですが、またまた銀行融資が受けられなくなって、再度この長屋に転がり込んできたところ、カリフォルニアにいるものとばかり思っていた光子に出会うことになります。

(注3)昨年5月29日の記事の(3)をご覧下さい。

(注4)長屋の大家は、「東京大空襲の際に、この長屋だけは焼けなかったものの、不発弾がいくつか残ったままになっている、そのため、気づいたら長屋の連中は皆いなくなっていた」、「もう人情も粋も日本に残ってはいない」と話しています。

(注5)不発爆弾の爆発のような一発逆転の仕掛けは、これまでの石井裕也監督の作品では、あまりみかけないようです(ただ、『ばけもの模様』の女主人公は、夫をバットで一発殴って重傷を負わせることで、便秘が治ってすっきりしますが)。




★★★☆☆





象のロケット:ハラがコレなんで

ラビット・ホール

2011年11月21日 | 洋画(11年)
 『ラビット・ホール』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)クマネズミにとっては、久しぶりの二コール・キッドマンの主演作です〔以前、『毛皮のエロス』(2006年)とか『オーストラリア』(2008年)を見ました〕。

 この映画は、4歳の愛児を交通事故で失った夫婦が、その喪失感からなかなか脱出できない様子をジックリと描き出している作品です。

 妻ベッカニコール・キッドマン)は、愛児の遺品を自分の周りから取り除けようとしますし(それだけ悲しみが深いということでしょう)、逆に夫ハウイーアーロン・エッカート)は、携帯に保存されている愛児の映像を1人眺めては涙にくれています(注1)、。



 冒頭のシーンでは、庭に草花を植えているベッカのところに、隣の家の主婦が夕食の誘いに現れ、ベッカは別件があるからと断りますが、その際その主婦は、植えたばかりの草花を踏んづけてしまいます。
 ここには、ベッカの心理的な危うい状況がヨク表現されていると思われます。
 隣家の主婦に対して、ベッカは“かまわない”とは言うものの、内心ではその思いやりのなさを酷く非難していることが顔の表情で分かるように描き出されています。
 また、夕食の誘いを断ったにもかかわらず、特段の予定があるわけではないことや、そしてパーティーがどんな具合なのか気になることも、窓のカーテンの陰から隣家の様子をこっそり覗く2人の姿からわかるようになっています。

 さらに、心の傷というと、アメリカではすぐにグループ・セラピーになりますが、本作の場合も、子供を亡くして立ち直れない人達の集まりに彼らは参加します。ですが、いくらそういう集会で自分の状況を話してみても、覚醒剤とかアルコールの依存症などと違って、事態が改善されるわけのものでもなく、かえって懐かしい思い出に囚われることになってしまいます。
 さらに、自分の子供が天使となったのは神の御心だという夫婦に対して、ベッカは、「そんなに天使が必要なら、自分で作ればいいのよ、だって神なんだから」などと言って、スグにその会を抜け出てしまいます(注2)。

 そんな時、ニコール・キッドマンは、事故の加害者の青年ジェイソン(マイルズ・テラー)をみかけ、その内にその彼と話すようになります(注3)。



 ジェイソンが、『並行宇宙』という本を読んでいるのが分かると、自分も同じものを図書館から借り受け、また青年が描いている漫画にも興味を持ち出します。
 そのことを知った夫は、大変怒りますが、逆に妻の方は、その青年とのコミュニケーションや、ずっと以前息子(妻の兄)を亡くしたことがある母親(ダイアン・ウィースト)の話にも支えられて(注4)、ゆっくりながらも次第に立ち直ってくるようです。



 ブロードウェイの舞台を映画化したものでありながら、そういった臭みはまるで感じさせない作品で、ことさらな事件は起きないものの、その分、2人の心の葛藤が上手く描き出されているのでは、と思いました。

 ニコール・キッドマンの美しさと演技力は申し分はなく、また彼女を取り巻く脇役陣も落ち着いた大人の味わいを出していて、随分と見応えがありました。

(2)ベッカたちの子供を轢いてしまった青年ジェイソンは、『並行宇宙』の本を参考にして、ウサギの穴を通って父親をパラレルワールドに探しに行くという漫画を描いていると、ベッカに話します。
 出来上がった漫画を見ると、3人家族の宇宙が沢山描かれています。



 ベッカが、「素晴らしい漫画。まるで地獄で愛する人を探すオルフェウスのよう。あなたも父親を探しているの?」と尋ねると、ジェイソンは、「いや、これはすべて創作。父親は英語教師だった」と答えます。
 ベッカは何か悟ったようで、「こちらの世界で起きていることは悲劇バージョン。愉しくやっている私がどこか別にいるのかも」などと語ります。

 ただ、『ミスター・ノーバディ』についての記事(コメントを含めて)で申し上げたように、本来的な並行宇宙論=「多世界解釈」とは、「互いに行き来できたり、別世界の自分と会話できたりする、過去に戻って重大な選択をやり直して歴史を変えてしまったりする」ような「SF やアニメに出てくるパラレルワールド」ではなさそうですから、ジェイソンの描く漫画の世界とも違っているようにも思われます。

 でも、そんなことは、本作を鑑賞する上では余り意味がないことでしょう。
 その漫画が描く世界が何であっても、それをベッカが立直りの切っ掛けの一つとする方を見るべきでしょう。

(3)樺沢紫苑氏は、「もし将来、私が「グリーフワーク」について本に書くことがあれば、間違いなくこの映画を引用することになるでしょう」、「見ていて苦しくなりますが、息子の死を簡単に乗り越えることなどできるはずがないのです」、「ドラマティックな感動はありませんが、淡々と描かれる現実は心にグサグサ刺さります」として90点も付けています。
 渡まち子氏は、「ベッカの母が言う「悲しみは消えないけれど、重さが変わる。時間が経てば、のしかかっていた重い大きな石が、ポケットの小石に変わるのよ」というセリフが深い滋味を醸し出す。絶望の中から自分なりの方法で立ち上がり、もう一度前を向くヒロインを演じるニコール・キッドマンの切実な演技が素晴らしい」として70点をつけています。
 福本次郎氏は、「自分の胸中を分かってほしい、でも誰にも理解できるはずがない。そんな繊細なヒロインの心情を、ニコール・キッドマンは時に感情を爆発させてリアルに演じきる。世界中の悲しみをひとりで背負っていると思い込んでいて、確かに同情の余地はあるのだが、むしろイヤな女を演じて現実から逃避しようとする姿が痛々しい」として60点をつけています。



(注1)ハウイーは、遺児が可愛がっていた犬が、ベッカの両親の家で飼われているのが嫌で、暫くするとその犬を取り戻して自分で飼うようになります。

(注2)ベッカが行かなくなって、ハウイーは一人でグループ・セラピーの会に行きますが、そこで夫に逃げられたという東洋系の女性と親しくなって、マリファナを一緒に吸ったりします。でも、結局、深い仲にはなりませんでした。

(注3)青年ジェイソン(コネチカット大学への進学が決まっています)は、ベッカに会ったときに、「ズット気にはなっていた」、「ごめんなさいと言うしかない」、「あの日別の道を通っていれば」、「制限速度を2~3キロ上回るスピードで走っていたかもしれない」、「犬が突然飛び出してきて、その犬を避けようとした、でも記憶がない」などと話し、ベッカの方もジェイソンに対し、「わかったわ。それで十分よ」と言います。

(注4)母親はベッカに、「長男は、麻薬中毒で死んだのだから、あなたの子供と一緒にしないで」と言いながらも、「子供を亡くした悲しみは消えない。でも、変化はする。重さは変わる。耐えられる重さになる。重い石がポケットの石にまで変わるし、時々忘れることもある。でも、それでも消えはしないのだから、それでいいのだ」などと諭します。



★★★☆☆




象のロケット:ラビット・ホール

ゲーテの恋

2011年11月19日 | 洋画(11年)
 『ゲーテの恋~君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」~』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)この映画は、『ソウル・キッチン』や『ミケランジェロの暗号』で大活躍のモーリッツ・ブライブトロイが出演し、さらにゲーテの『若きウェルテルの悩み』を下敷きにしている作品でもある、というので見に行ってきました。

 ただ、この映画では、モーリッツ・ブライブトロイは主役ではなく、ヒロインのシャルロッテ(以下は、愛称のロッテとします:ミリアム・シュタイン)を、主役のゲーテアレクサンダー・フェーリング)と争うケストナ―参事官(裁判所である帝国高等法院の事務方)を演じています。



 ある時、教会で歌うロッテの姿を見て、ゲーテは一目惚れしてしまい、とうとう肉体関係を持つまでに至ります。



 ですが、実は、ゲーテの上司に当たるケストナ―参事官が(注1)、以前からロッテに目を付けていたのです。
 ロッテの父親も、ケストナ―参事官とロッテが結婚すれば、その財力で貧しい自分たちの家族を救ってくれると踏んでいましたから、2人の接近を喜んでいます(注2)。
 そうこうするうちに、ケストナ―参事官は、彼女と婚約をしてしまいます(注3)。
 もちろん、ケストナ―参事官は、ゲーテとロッテとの関係を知らなかったのであり、さらにまた、ゲーテも、その祝賀パーティーに偶然に出くわして、初めて厳しい事態を認識します。
 サテこの事態は、どのようなエンドに繋がって展開していくのでしょうか?

 『若きウェルテルの悩み』というゲーテの著書の出版、及びそのストーリーなどを実に巧みに絡ませ、当時(18世紀後半)の風景などもCGを使ったりして蘇らせつつも、その実、現代風な味付けも怠らないという、なかなか面白い出来栄えの作品です。

 特に、本作では、ゲーテというよりも、奔放かつ思慮深いロッテの描き方が興味を惹きます。
 愛するゲーテを最初に城の廃墟に引き込むのも彼女ですし、牢屋にいるゲーテ(注4)のもとに出かけて行って、ゲーテに、自分を諦め作家として生きるよう強く勧めるだけでなく(注5)、ゲーテから受け取った『若きウエルテルの悩み』の草稿を、独断で出版社に持ち込んで出版してもらったりします(注6)。



 また、ロッテの父親も、娘から実はゲーテを愛していると告げられると、ケストナーとの結婚について強いことを言えなくなって悩むというのも(注7)、まだまだ家父長制のもとにあった当時からすれば、随分と優しい性格づけがなされているように思われます。

 ただ、期待したモーリッツ・ブライブトロイについては、至極真面目な法律家に扮しているために、それほどの活躍がみられないのは残念ですが。

(2)本作と、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』とを比べてみると、後者の場合、ゲーテはあくまでも狂言回しであり(ヴィルヘルムという名前になっていますが)、ウェルテルから、ロッテに対する恋の悩みなどを打ち明けている書簡をもらって、それを公開すると同時に(第1部)、事件の顛末を述べる(第2部)という形になっています。

 これに対して、本作では、ゲーテそのものがロッテに恋をするという形に改められ、ピストル自殺するのは、帝国高等法院で彼の同僚であるイェルーザレムなのです(注8)。
 イェルーザレムは、人妻との恋に落ちたものの、彼女が夫のもとに戻ると絶望の余り自殺してしまいます。
 でも、それではインパクトが足らないと見たのか、本作においては、ゲーテもピストル自殺を試みますが、むろん実行するまでには至りません。

(3)渡まち子氏は、「映画には、18世紀のドイツらしい美しい田園風景や、素朴だが魅力的なコスチュームなど、いかにもヨーロッパ映画らしい気品があふれている。主演のアレクサンダー・フェーリングは、ハリウッド映画にも出演するドイツ人俳優だが、誰もが知る母国の偉人をはつらつと演じていて魅力的だ」などとして60点をつけています。
 福本次郎氏も、「直接顔を合わせるか手紙だけが気持ちを伝える手段、そんな当時の空気が、舗装されていない泥だらけの道やろうそくの炎しかない夜に象徴されていた」などとして60点をつけています。



(注1)ゲーテは、詩人を目指していましたが、父親の命で弁護士となるべく、フランクフルトの近くのヴェッツラーにある帝国高等法院の実習生となっていました。

(注2)ロッテの家は、母親が1年前に亡くなったばかりで、たくさんの弟妹をロッテが母親代わりに面倒を見ています。

(注3)ケストナー参事官が、プロポーズの仕方が分からないというので、ゲーテはアドバイスまでするのです。

(注4)ゲーテは、ケストナー参事官から決闘を申し込まれ、実際に彼に向けてピストルを放つのですが、その途端に、決闘を禁止する法律に触れたとして牢屋に送り込まれてしまいます。
そして、本作では、その牢屋にいる間に、ゲーテが『若きウェルテルの悩み』を書き上げたことになっています。

(注5)ロッテはゲーテに会うと、いきなり平手打ちをして、「あなたが死ねば私が喜ぶとでも思っているの!」となじった上で、「ケストナーを愛している、学位をとって出世するのは彼。ただ、ウェルテルは天才。彼と私とはいつも一緒、でも物語の中で」などと言います。

(注6)その本が洛陽の紙価を高めたために、ゲーテは、6ヵ月後、父親の尽力で牢屋から釈放されてフランクフルトに戻ると、一躍、時代の寵児としてもてはやされることになります。

(注7)ロッテが「愛がない人と結婚するの」と言うと、父親は「時が解決する」と説得する一方で、ケストナー参事官に、娘はゲーテをまだ愛しているようだ、と打ち明けたりします。

(注8)劇場用パンフレットに掲載されているドイツ文学者・池内紀氏のエッセイによれば、こちらが事実のようです。




★★★☆



象のロケット:ゲーテの恋

1911

2011年11月16日 | 洋画(11年)
 『1911』を渋谷TOEIで見ました。

(1)この映画は、『桜田門外ノ変』と類似の歴史物だから、きっと同じ感じになるのではないか、と見る前から危惧していたものです。ただ、大層面白かった『孫文の義士団』の流れがあることや(その映画のラストに、孫文が登場します)、ジャッキー・チェンの100本目記念作品ともPRされていて、それならばと行ってみたところです。

 ですが、事前に抱いた危惧の念は、残念ながら当たってしまいました。
 クマネズミには全然面白くないのです。
 冒頭、武田泰淳の本(注1)でも知られる女性革命家・秋瑾が処刑されるシーンがあって、これはと期待させましたが、『孫文の義士団』から受け継がれたはずの孫文ウィンストン・チャオ)は、本作での登場時間は長いものの、最初から最後まで建前的なことを喋るだけで(注2)、そんなことならわざわざ映画を見るまでもないのでは、と言いたくなってしまいます。



 注目のジャッキー・チェンは、革命軍の軍事的な中心となる黄興に扮し(注3)、広州蜂起など最初のうちは活躍します(注4)。



 ですが、後半になるとどこかに消えてしまい、それではあの戦闘の際に死んだのかと思っていると、後半、なぜか孫文の隣にいたりするのです。



 そして、彼もまた、単純そのものの動きしかしないのです。
 特に、孫文の女性関係は一切触れられず(注5)、ラブ・ロマンスとしては、黄興と徐宗漢リー・ビンビン)の物語があるだけですが、通り一遍の描き方に終始しています。



 こうした平板な感じになってしまうのも、歴史的な人物を描く場合には仕方がないとはいえ、本作の場合、孫文らの革命派の動きだけでなく、清朝の中枢部の動き、それに袁世凱の動きなどをも並行して追っているために、勢い各人物の掘り下げはおざなりになってしまい、建前的で、誰でもよく知っている動きしかしなくなっています。その結果、全体として、新鮮味に乏しく、面白味のないものとなってしまうのでしょう(注6)。

(2)本作のとりえの一つは、チュニジア、エジプト、リビアといった国々で、独裁者を追放して民主制を樹立するという中東革命の嵐があった時期に、こうした帝政を排して共和政を樹立しようとする映画(注7)を見ることは、もしかしたらそれなりの意味があるのでは、と思える点でしょうか?
 でも、革命軍の若者が、最初の広州蜂起に際して随分と死んでしまったことをジャッキー・チェンが悼み、彼らの死体が水中に浮かぶ様が何度も描き出されますが、自分たちの方から清国軍に武力攻撃を仕掛けておいて、とも言いたくなってしまいます(事前に相手側の防備体制と自分たちの武力とを詳細にチェックしたうえで、大丈夫だと判断した上でのことではないかと思えるのですが、にもかかわらず、思いもかけない犠牲が出てしまって黄興らはうろたえているようです。とすれば、自分たちの判断ミスではないでしょうか。まあ、だからこそ、慙愧の念に堪えないのかもしれませんが)。

 それに、孫文らは、革命を成就するにあたり、フランス革命とは違って、清朝の皇帝らを処刑することはないとして、現にラストエンペラーの宣統帝溥儀は、その後満州国皇帝に就いたりしています。
 とはいえ、革命がそんなに綺麗事に終わるはずもなく、どうしても流血は避けられないものと思われます(注8)。一方で、革命軍の方に多数の死者が出ますが、他方で革命軍だって相手側(清国軍だけでなく、アンチ革命軍の者)を多数殺しているに違いありません(具体的なデータを持っているわけではなく、あくまでも推測ですが)(注9)。
 本作が、その面を完全にオミットしてしまっているのも、厚みのない作品になってしまった要因ではないかと思われます。

(3)酷く詰らないことながら、見たのは「吹替え版」ではなく「字幕スーパー」のところ、冒頭、「19世紀末、清王朝は衰退の一途をたどり」云々という解説めいたことが日本語で語られるので、間違って「吹替え版」の方に入ってしまったのかな、と思ってしまいました。
 この解説は、実際のものでは中国語でなされているのでしょうか、それとも日本で上映されるにあたり付け加えられたものなのでしょうか?前者でしたらその「字幕」を流すべきでしょうし、後者でしたら、そんな金魚の糞みたいな無意味な解説など不要だと思われます。

 関連で、本作では、著名人が登場するたびに、その名前や経歴が字幕で左側に映し出されます。それが漢字で示されるために、日本語字幕の一部かとツイツイ見てしまうと、暫くして右側に日本語訳が現れるものの、すぐに消えてしまうため見逃してしまうことになってしまいます。
 むろん、こんなことは観客側でうまく対応すれば済むことではありますが。

(4)渡まち子氏は、「ジャッキー得意のアクションは最小限に抑え、歴史大作にふさわしい重厚な物語に仕上がっている。ついに清朝最後の皇帝・溥儀を退位に追い込み、革命政府が樹立されるのだが、そこまでの道のりにあるのは、数え切れないほどの屍の山。ラストに革命に身を投じた若者たちの笑顔が登場するが、革命とは、多くの尊い命を犠牲にして成し得るものだということを痛切に思い知る」として60点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「物語は時代の大きなうねりに呑み込まれた人々の濃厚なドラマにするために、戦場を駆け巡った黄興にスポットを当てる。革命の偉大な成果は、数え切れないほどの無名の兵士や市民の犠牲の上に成り立っていることをあらためて考えさせる作品だった」として60点をつけています。



(注1)『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女士伝』(筑摩書房、1968年)

(注2)孫文は外国での講演において、「わが国では、人が家畜同様に扱われている。それだからこそ革命を起こさなくてはならない」などと演説をします。

(注3)黄興は、「孫文とともに民国革命の双璧」とされながらも、従来、余り注目されてこなかった人物で、本作がそんな彼に焦点を合わせている点は評価されます。とはいえ、軍事面を専ら担当したためでしょうか、具体的な事績については本作を見ても曖昧なままです。
 ただ、本作では、孫文が大総統の地位を袁世凱に譲ることについて、黄興が、「彼は皇帝になるかもしれない」として反対した場面が描かれています。実際、袁世凱は、1915年に帝政を敷いて中華帝国を宣し、中華帝国大皇帝となっていますから、その予言は当たりました(尤も、袁世凱が皇帝に就いていたのは83日間だけでしたが)。

(注4)黄興は、広州総督府攻撃に失敗した後、とうとう倉庫にまで追い詰められ、そこに清国軍から大砲を撃ち込まれますが、なぜか無事なのです。
 ちなみに、映画の説明によれば、広州蜂起について、一般に72名の犠牲者の遺体が引き取られたとされているところ、実際には86名だったとのこと。
 なお、広州蜂起時に孫文はサンフランシスコにいて、華僑に向かって革命の意義を説明し(「華僑の皆さんが屈辱を受けているのは、国が腐敗しているからだ」など)、募金活動を行っています。

(注5)20歳くらいで結婚して妻がいました(後に結婚する宋慶齢とは、辛亥革命の後に出会っています)。

(注6)本作では、ホーマーという米国人が孫文と親しくなって、金など要らないから革命に参加したいということで、革命軍の軍事顧問となりますが、さて彼がどんな活躍をしたのか何も描かれません。

(注7)本作において、孫文は、17省の代表者で構成される会議で選出されて「臨時大総統」になり、「長い中国の歴史において、初めて共和政が生まれた」などと感慨深げに語ります。
 確かに、それまでの長い中国の歴史において、元首はすべて君主でしたから、画期的なことではあるでしょう。
 とはいえ、孫文は、決して国民の投票によって「大総統」に選ばれているわけではありません。就任の経緯が明らかではなく、権限の明確ではない各省の「代表者」によって、選ばれたにすぎないわけで、はたしてそれで本来的な「共和政」が生まれたことになるのかどうか、疑問なしとしません。

(注8)その後のロシア革命に際しても、時の国王・ニコライ2世らは、レーニンの命によって殺されています。

(注9)いわゆる「赤色テロル」については、本年5月1日の記事の「注4」、及び5月3日の記事の「注3」を参照してください。

★★☆☆☆





象のロケット:1911

サウダーヂ

2011年11月14日 | 邦画(11年)
 『サウダーヂ』をユーロスペースで見ました(注1)。

(1)個人的事情もあって比較的よく知っている甲府市を舞台にし、それもブラジル日系人が登場すると聞き、なおかつ、『映画芸術』誌で特集を組まれたりもしたので(注2)、是非見たいものだと思っていました。
 ところが、その公式サイトの「劇場案内」を見ても、しばらくは、8月下旬の1日限りの上映が甲府市内の映画館で行われることしか、掲載されていませんでした。
 としたところ、渋谷ユーロスペースでロードショーと聞き及んで、勇躍、出かけた次第です(当初はレイトショーだけだったところ、今や1日3回の上映になっています。今月25日まで)。

 39歳の富田克也監督の3本目の作品であり、出身地である甲府市の状況を、土方のセイジとラッパーのアマノを中心にして、日系移民をも交えつつ、描き出しています。

 甲府市は、東西に走る中央本線によって南北に分断され、甲府駅の北側には武田神社などがあるものの、商店街は専ら、舞鶴城公園とか県庁のある駅の南側で発展していました。特に、岡島百貨店の周囲は、いくつもアーケード街があって、かなり賑やかでした。
 ところが今や、そこにあったはずの商店の大部分がシャッターを降ろしていて、ところどころは歯が抜けたように駐車場になっています(注3)。



 これは、中規模の県庁所在地がどこでも抱える、中心市街地の空洞化現象の一つの表れといえるでしょうが(甲府市の場合、大型ショッピング・モールが作られた昭和町の方に中心が移っているようです)、大きな流れとしては、停滞する日本経済に起因するとも考えられ、それは、土方のセイジの仕事の減少といったところにも現れ、また沢山いる外国人労働者の生活にも現れています。

 映画の冒頭は、セイジ鷹野毅)が、新入りの保坂伊藤仁)と、「15番」というラーメン屋で飯を食べている場面。
 セイジが保坂に向かって、「午前中、きつかったでしょう。ここ悪現場なんですよ」と言うと、保坂は、「ついてなかった、でも俺、派遣だから」と言い、さらに「俺、タイに住んでいた」などとも打ち明けます。
 こうした場面などから、セイジは35歳くらい、土方の仕事を長く続けており、ただ今の現場は水が出るところで、かつ石もあり、仕事が相当きついことなどが分かってきます。
 さらに、日本人の妻・恵子工藤千枝)がありながらも、別途タイ人ホステス・ミャオに入れ揚げている様子です。

 また、一時は一つの団地を丸ごと占拠していたほど大勢いたブラジル日系3世達は、日本経済の停滞とともに、職場がなくなってドンドン帰国してしまいます。
 映画で象徴的なのは、ある日系ブラジル人の家族の食事風景で、夫ロベルトは、日本語混じりのポルトガル語で、「もうそろそろブラジルに帰らないといけないと思うよ」などと子供達に話しますが、フィリピン人の妻メイは、日本語と英語とポルトガル語のチャンポンで、子供に「ブラジルに帰りたいの?」、「でも、一度ブラジルに帰ってしまったら、日本には2度と戻れないし、フィリピンにも行けなくなってしまうよ」などと話します。
 彼らは、小綺麗な団地に住んでいたのですが、やがて一家を挙げてブラジルに帰って行きます。

 ただ、ディスコでは、そうしたブラジル人達の勢いが未だ強く、ラッパーのアマノ田我流)は、いくら♪政治家が一番のギャングスター♪などと声を張り上げて歌ってみても、あまり聞いてはもらえず、相当苛ついています。



 ラッパー達と一緒に国道の側を歩いているときでも、アマノは独り、「俺たちの歌を全然聞いてない、なんとかしなくちゃいけんよ」などと言い募ります。

 という具合に映画は映し出されていきますが、それぞれの物語は、ゆるく交錯しつつもほぼ独立して展開され、それらが大きな流れに押し流されていくように描かれることによって、全体として、甲府市の今、ひいては日本の今を浮き彫りにしようと作り上げられています。

 まず、土方のセイジに関しては、一方で、所属している会社の親方から事業を止めることにしたと告げられ、職を失い、他方で、入れ揚げているタイ人ホステスに「タイに行って一緒に暮らそう」と言うも、あっさりと断られてしまいます(注4)。

 アマノの方は、昼間は、建築現場でセイジたちと一緒で、土のう作りなどのアルバイト仕事をしています。その際にも、日系人がらみと思われる窃盗事件に遭遇すると、「あいつらはロクなことをしない」と、ディスコでの恨みがさらに増幅してしまうようです。

 そのアマノは、幼馴染の「まひる」(尾崎愛)の企画でブラジル人たちと一緒に舞台に上がることを了承するも(注5)、「まひる」が単に挨拶として抱擁した相手のブラジル人を、その彼氏と誤解して追いかけた挙句、ナイフで刺してしまいます。

 結果として、甲府市の観光名所やその明るい未来を描く御当地物とはほど遠い(注6)、実に興味深い作品が出来上がり、3時間近い長尺(167分)ながら、大層面白く見ることが出来ました。

 映像として興味深いところは幾つもありますが、例えば、冒頭の工事現場のシーンは様々なことを示唆しているように思われます。すなわち、ビルの土台を作るために、セイジら土方が地面を下に掘り進むのですが、後から後から水が湧き出てくるのです。
 常識的には、セイジらを待ち受けている苦労の種が尽きないことを読み取れるものの、また、毛嫌いしようが何しようが、外国から長期滞在者がドンドン日本に入り込んできてしまっている状況を表しているともいえるかもしれません。

 また、アマノが心を寄せている「まひる」が企画するイベントは、ブラジルの土着格闘技「カポエイラ」とアマノ達の日本語の歌とを同じ舞台に上げようとの企画ながら、アマノがブラジル人の若者を刺してしまうということは、両者はそれほど簡単に融合などできないことを示唆しているのかもしれません。

 こうした様々の印象的な映像に加えて、さらにまた、出演している人たち一人一人が実に生き生きと描かれていて、まるでドキュメンタリー映画を見ているように思われるほど、足が地に着いた感じがするからでもあると思われます。
 実際には、プロの俳優はごくわずかで、出演者の大部分が地元の人たち、ということも与っているのでしょう(注7)。

(2)季刊誌『映画芸術』夏号(No.436)に掲載された論考(P.48~)で、社会学者・宮台真司・首都大学東京教授(注8)は、本作について、「あえて言えば、「客観的」で綿密な社会観察と、それをベースにした「主観的」で強力な世界観の、組み合わせ。「僕たちよりも社会を知る者たちの世界観だ」と身をゆだねることができる」等と論評した上で、「本作の意味を深く理解する」のに必要な知識として、次のような事柄を取り上げています。

a)日本では、「「いわゆる単純労働者」を排除することになっている。だが、外国人の「いわゆる単純労働者」なくして、既に日本は回らない。そこで、さまざまな制度を用いた「ペテン」がまかり通っている」。

b)すなわち、「一般永住者に占める割合がいちばん高いのが中国人で、30%、約17万人、続いてブラジル人で、21%、約12万人、だ。彼らは制度の「ペテン」によって長く在留した人たちである」。

c)「中国人の場合は技能研修という「ペテン」」。
 「研修だけで労働をしない建前なので、労働基準法が適用されないから妥当な賃金を支払う必要がなく、僅かな手当だけ渡される」。

d)ブラジル人の場合は日系人という「ペテン」。
 「1989年に入管法が改正され、日系三世(より以前)とその扶養者は全員、無条件で定住ビザを貰えるようになった」。
 「かくして、日本語を解さないポルトガル語コミュニティが、工業団地や周辺に分布するようになった」。

 こうした事態がそのまま放置されていると、ノルウェーで本年7月22日に起きた銃乱射事件のような、悲惨な出来事が突如として日本でも起きかねないのでは、と思ってしまいます。
 本作でも、ラッパーのアマノは、「あいつら(日系ブラジル人たち)、ファベイラというゲットーから出てきた。俺たち舐められている。俺たちも、マジにならないといけない」と、敵意をあらわにします。

(3)この映画を論じたものは、例えば次のようなものがあります(注9)。
 日経新聞編集委員の古賀重樹氏は、「こころの荒廃に加え、過激な民族主義が台頭するという物語もあながち空想とは思えない。土木労働者をはじめ現実に甲府近辺で働く人々を配役し、じっくり撮影した。画面は力強く、その存在感に圧倒される」と述べ、星5つのところ5つ(「今年有数の傑作」)をつけています(10月14日付)。
 次いで、上記(2)で取り上げた『映画芸術』夏号に掲載された論考「やまなしの水は」において、詩人の手塚敦史氏は、「これほどまでに好ましい後味の悪さとインパクトとを併せ持つ映画は、久しぶりに観たように思う。派手なアクションや映像美といったものには依拠せず、生きている根源的な側面を引き寄せる力のありかと、それを丹念に確認する手触りとが、ここにはあるのだ」(同誌P.46)等と述べています。
 また、ブログ「映画芸術DIARY」に掲載されている「『サウダーヂ』クロスレビュー」において、ライターの若木康輔氏は、「いい映画の価値には娯楽、美学から社会啓蒙の意義まで色々あり、そのひとつに、すでに大勢が意識の下で思い当たっているけれど形にならなかったことを提示し、気付かせてくれる、鏡の効果がある。ああ、言われてみれば確かにそうだよ! というやつ。『サウダーヂ』にはその、言われてみれば、がある。いまは地方の市街を描いたら別に狙わなくても国際色たっぷりになるのだ。この切り口の発見ひとつだけでも、僕らの視界は相当に拡がる」等と述べています。
 さらに、同じ「クロスレビュー」において、映画監督の深田晃司氏は、「そのスクリーンに映し出される顔の得も言われぬ説得力にやはり驚かされた。確かに彼らはジャンキーであったりヤクザであったり移民であったりと、ある社会的雛形を背負ったキャラクターとして設定されているが、それは腐るほど繰り返された物語のステレオタイプにギリギリのところで決して隷属しない」等と述べています。



(注1)“サウダージ”については、10月2日の記事の「注2」を参照。
 なお、下記の「注9」で触れている「宇多丸」氏は、「ここではないどこかに憧れる」ことが「サウダーヂ」だと述べています。

(注2)月刊誌『シナリオ』12月号には本作のシナリオが掲載されています(ただし、実際の映画とは、様々な個所で違いも見受けられるところです)。

(注3)例えば、このサイトの記事を参照。

(注4)セイジが、「俺、向こうで働くから、向こうで一緒に暮らさない?俺、こんなところ嫌なんだ。何も起きないよ。タイにだって土方の仕事があるだろう」などと言うと、タイ人ホステスは、「ダメ。向こうはとっても安いから無理。家族を養えない」などと答えます。

(注5)映画では、「カポエイラ」というブラジル生まれの格闘技を演じるグループが映し出されています。

(注6)ビルの屋上から甲府の中心街を見下ろしながら、保坂が「この街もモウ終わりだな」と言うシーンがあります。
 なお、保坂は、タイにも住んでたことがあるようで、セイジと一緒に「水パイプ」を吸っている時に、「掘りまくれば、真下はブラジル、ちょっと曲がればタイ!」などと叫びます(サバンナ八木の「ブラジルのみなさん、聞こえますかあ」を思い出します)。



(注7)たとえば、アマノを演じた田我流は、山梨県で活動するMCで、今回映画初出演。

(注8)驚いたことに、本作では、宮台氏が、民寿党の若手政治家・赤尾大輔として出演しているのです!演説会のシーンがあり、「個人と個人のふれあいをモット大切にしたい」などと述べています。なお、セイジの妻は、赤尾の熱烈な支持者になっています。

(注9)『SRサイタマノラッパー2』の(5)「で触れた宇多丸」氏のTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の11月5日分の放送で、本作について同氏の論評を聞くことが出来ます。
 その中で同氏は、本作は今年屈指の傑作であり、日本語ラップ映画として、『サイタマノラッパー』と表裏一体をなすのではないか、『サイタマノラッパー』は、崖っぷちに立たされた個人が立ち直っていく様子を描き出すが、『サウダージ』は、個人は無力だが、それでもここではないどこかを憧れてる様子を描いており、かつ映画の外側の社会にまで触れようとしている、などと語っています(大体の趣旨ですが)。


★★★★★





ステキな金縛り

2011年11月12日 | 邦画(11年)
 『ステキな金縛り』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)あれだけ様々な手段でPRすればそうなること必定でしょうが、大きな映画館が観客で一杯でした。

 映画の主役は、裁判でドジばかり踏んでいる弁護士・エミ深津絵里)。これが最後だぞと、所属する法律事務所の上司・速水悠阿部寛)に宣告されて渡された案件は、自分の妻・鈴子竹内結子)を殺害した容疑で逮捕起訴された男(KAN)を巡るもの。
 同人は、アリバイを立証できないために窮地に陥っているものの、犯行時刻には別の場所にいたとして、犯行を全面否認しています。
 エミは、被告の主張を検証すべく、奥多摩にある旅館「しかばね荘」に行くと、被告の証言通り、落武者・更科六兵衛西田敏行)の幽霊に遭遇します。
 そこでエミは、更科六兵衛に裁判で証言してくれるよう頼み込み、なんとか了解をもらいます。
 はたして、そんな前代未聞の裁判は、エミの思惑通りに実現するのでしょうか、実現できたとして、エミは裁判に勝てるのでしょうか……。

 さすが、三谷幸喜監督が、構想10年のアイディアを作品化しただけのことはあり、やや他愛がないという感じは伴うものの、物語はそれなりの面白さを持っていますし、なおかつ、裁判映画であって、一応の謎解きまで備えているのですから、サービス満点といえるでしょう。
 それに、超豪華メンバーのオンパレードで、主演の深津絵里が持てる力をフルに出して素晴らしい演技を披露しますし、幽霊役の西田敏行も、喜劇俳優としての第一人者ぶりを縦横に発揮(2009年の『釣りバカ日誌ファイナル』以来でしょうか)、上司の阿部寛はタップダンスを見せ、検事役の中井貴一エアドッグ(注1)までやってしまいますし、また、浅野忠信、佐藤浩市、深田恭子や篠原涼子、市村正親、などなど錚々たる面々が、次から次に出演するのですから堪えられません。





 ただ、深津絵里が主演ながら、彼女を巡るラブ・ロマンスの面がほとんどないのが物足りないところでしょうか。彼女の上司の阿部寛とか、裁判における担当検事の中井貴一が、独身状態と見られるにもかかわらず、そんな様子は全然見られないのです。
 それに、何の兆候もなし上司の阿部寛が突然死んでしまうというのも、彼に冥界にいる事件の被害者を連れてきてもらうためかもしれないものの、観客側としてはあまり納得がいかないところです。

(2)この映画を巡っては、他の作品の監督とは桁違いに多くの回数 、三谷幸喜監督があちこちに露出しています。

 TV・ラジオなどへの出演ぶり等については、公式サイトにある「メディア露出情報」を見れば一目瞭然ですし、また、他の作品ならば、劇場用パンフレットにおいては、映画評論家のエッセイが2、3本掲載されるところ、本作についてはそんなものは見当たらず、代わりに監督自身の「ロング・インタビュー」とか、監督が本作を製作するに当たってインスピレーションを受けた映画、といったものが掲載されています。

 それもこれも、すべてをさらけ出しサービスすることによって、制作側のみならず、観客側も皆一緒になって映画を楽しみましょうということでしょう。
 それはわからないではありませんし、そうしたものが嫌なら見なければいいのですから!
 ただ、こうも多く顔を出されると、観客側としても少々煩わしくなってくるのではないでしょうか(注2)?
 そして、そんなに言うのなら少しチャチャを入れてみようでは、という気にもなってきます〔野暮で申し訳ありません(でも、仲里依紗さんから「粋だね」なんて言われても仕方ありませんし!)〕。

 例えば、劇場用パンフレットに掲載されている「ロング・インタビュー」の終わりの方で、「出来上がったものは過去の4本に比べると一番映画っぽくなっている気が」するが、その「理由のひとつに、主人公エミの日常生活を描いているということがあ」り、「ベッドルームが出てきて、彼氏まで出てくる」と述べています。
 ですが、あんなに生活臭のないダイニングキッチンで、彼氏の工藤万亀夫木下隆行)がフライパンを使っている姿とか、あんなに新品のベッドで2人が川の字になって寝ているシーンによって、はたして日常生活が描き出されているといえるのでしょうか?

 それに、この彼氏の存在は疑問に思えるところです。エミに彼氏がいるということで、この映画からラブ・ロマンスの要素がなくなってしまっているのですから。
 確かに、役者である工藤のツテで、TV局のスタジオに入れて、チャンバラシーンに立ち会うことができたりするのですから、全く意味がないわけではないでしょう。ただ、皆の関心が更級六兵衛に集まってしまい、自分が無視されているのを感じたときに、彼は家出をしようとしますが、エミは断固としてそれを引き留めようとしないのですから、エミを工藤とは引き離して、もっとラブ・ロマンスの中に置いてもおかしくはないように思えるのですが?

(3)そんなことはサテ置いて、「幽霊」です。
 本作の英題(?)は『A GHOST OF A CHANCE』とされていますが、このところ幽霊(ゴースト)を扱う映画が多いような気がします。
 9月に見た『ゴーストライター』では、「ゴースト」といっても比喩的に使われているところ、『東京公園』では、榮倉奈々の彼氏だった染谷将太の幽霊が、生きている時のままの恰好で登場します。この場合、榮倉奈々には見えないものの、親友の三浦春馬には見えるのです(マサカ、彼がシナモンを好んでいるわけではないでしょうが!)。

 それでも、その映画とか本作に登場する幽霊と、一般に考えられている幽霊とでは、だいぶ異なっているのではないでしょうか?
 本作に頻繁に登場するのは、西田敏行が扮する更級六兵衛の幽霊。
 ただ、囚われの身になって打ち首になって死んだはずなのに、幽霊は鎧を着けてちゃんと首が繋がっています。そればかりか、両足がついていて、裁判所内を縦横に歩き回ります(注3)。

 ですが、一般の幽霊は、例えば、下の松井冬子氏(昨年1月7日の記事の中で触れています)が描くものが典型的だと思いますが(注4)、死んだ時の姿で、それも下半身がない状態で現れるものではないでしょうか?



 あるいは河鍋暁斎の次のような「幽霊図」(部分、1870年)。



 むろん、だからといって本作の更級六兵衛の幽霊がおかしいというわけでは更々なく(注5)、むしろ常識的なものに囚われていない奔放な姿の方が、本作に適っているようにも思われます(注6)。
 とはいえ、更級六兵衛の幽霊は、「証人」に該当するかどうか疑問なしとしないのですが(注7)?また、「証人」になり得るとしても、幽霊は、はたして被告を「金縛り」状態にすることなど出来るものでしょうか(注8)?それも“ステキ”に!?

(4)渡まち子氏は、「さすがは構想10年。練られた脚本は笑いのツボを押さえていて、監督5作目となる三谷幸喜の手腕は相変わらず見事」で、「法廷ものとしては弱いが、人情劇として楽しめる」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「映画は殺人事件を担当する弁護士が落武者の幽霊と心を通じ合わせていくうちに、亡くした父への感情と仕事に対する自信を取り戻していくまでを描」いており、「髪を振り乱して周囲の人々を動かすコミカルかつエネルギッシュなヒロインを深津絵理が熱演、スクリーンから強烈な吸引力を放っていた」として60点をつけています。



(注1)「エアドッグ」ならぬ「エアギター」についてなら、『トイレット』を取り上げた記事の(2)で触れています。

(注2)監督が本作を製作するに当たってインスピレーションを受けた映画として挙げられている中に、例えば、クマネズミの大好きな『真夜中のサバナ』があり、それに関して、「(山本耕史さんについて)ずっと僕は彼を日本のケビン・スペイシーにしたいとおもっているんです。今回も『真夜中のサバナ』のケビン・スペイシーとほぼ同じようなメイクにしてもらいました」との監督による注釈付きですが、和風ケビン・スペイシーなど使い道が他にあるのでしょうか!

 逆に、郷土史家役の浅野忠信の格好は、例えば『父と暮らせば』(2004年)で、宮沢りえの美津江が心を寄せる木下青年と類似している、といったくらいの注釈ではどうでしょうか(ちなみに同作では、先般亡くなった原田芳雄が、父親・竹造の「幽霊」役として出演しているところです)?

(注3)辻惟雄監修『幽霊名画集』(ちくま学芸文庫)に掲載されている諏訪春雄氏のエッセイ「日本人の幽霊観と全生庵幽霊画」には、「幽霊が足をうしなった理由」として、「死者の乗物に雲が使われたこと」と、「地獄で亡者が鬼たちによって足を切られると信じられていた」ことが挙げられています。

(注4)『夜盲症』(2005年)。
 なお、この作品をも含めた「松井冬子展」が、12月17日から横浜美術館で開催される予定です。この展覧会は、「公立美術館における初の大規模な個展」とのことで、今から楽しみです。

(注5)Wikipediaの「幽霊」のには、「日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた」が、「江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子をつけ白衣を着ているとされることが多くなった」などとあり、特段、確定的な姿形などないようです。

(注6)ただし、更級六兵衛の霊が、特定の誰かを恨みに思って出現するのではなく、「しかばね荘」の特定の部屋に繰り返し出現するということであれば、池田彌三郎著『日本の幽霊』(中公文庫)における議論(P.54)を踏まえると、「幽霊」というより、むしろ「妖怪」と呼ぶべきなのかもしれませんが。

(注7)刑事訴訟法第143条 「裁判所は、この法律に特別の定のある場合を除いては、何人でも証人としてこれを尋問することができる」における「何人」に、はたして「幽霊」は該当するのでしょうか?

(注8)残念ながら、本作においては、更級六兵衛から重要な証言が開陳される前に、真犯人が明らかになってしまい、裁判は終わってしまいます。
 ただ、Wikipediaの「金縛り」のには、「人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっている」などとあるものの、このサイトの記事によれば、「20世紀初頭、ドイツの医師団は死期が迫っている人を精密な体重計に横たえて、死亡直後に約35g体重が減ることを確認した」そうですし、また「人間の魂の重さは21g」とするもあるようで、仮にそのくらいの体重だとしたら、幽霊に上に乗られても金縛り状態になるとは思えないところですが?
 ただ、更級六兵衛は鎧を着用していますから、それで重いかもしれません(ちなみに、『一命』に登場する井伊家の甲冑は、このサイトの記事によれば24.5kg)。でも、鎧もシナモンを愛用していないと見えないのでは?ということは、鎧も霊魂?
 ちなみに、小泉八雲の「耳無芳一」にも、芳一を案内する「武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した」と書かれているところで(戸川明三訳の青空文庫版)、幽霊が鎧を着けていてもおかしくはなさそうですが。



★★★☆☆




象のロケット:ステキな金縛り

ウィンターズ・ボーン

2011年11月09日 | 洋画(11年)
 『ウィンターズ・ボーン』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)予告編を見たのと、『あの日、欲望の大地で』で主人公の娘時代を演じたり、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で女性ミュータントとして活躍したジェニファー・ローレンスが主役で出演するというので、映画館に足を運びました。

 タイトルの「ボーン」は、「ボーン・アイデンティティ」のような人名ではなく(注1)、単に「bone」とのことで、原作(注2)の「訳者あとがき」によれば、犬に与えられる骨→ちょっとした贈り物、といったような意味合いのようです。
 それがなぜ「ウィンター」なのかというと、映画が取り扱っている時期が冬だからで、さらにまた舞台が実に荒涼とした山岳地帯だからということもあるのかもしれません。
 そうした場所に設けられている壊れかけた小屋に、心が病んでしまって何も出来ない母親と3人の子供たちが一緒に住んでいます。
 ただ、生活のすべては17歳のリー(ジェニファー・ローレンス)の肩にのしかかってきます。というのも、一家の大黒柱である父親のジェサップが失踪中だから。
 彼らは、周囲の者に支えられてヤットのことで毎日を凌いでいるものの、それもモウ限界だという頃に、あろうことか父親の問題で、住んでいる家や持っていた森までも取り上げられそうになります(注3)。
 それを何とか回避しようと、リーは父親を捜しに親族の間を尋ね回りますが、逆に親族の皆から、そんなことをしてはダメだと酷く冷たい仕打ちを受けます。
 どうも父親は事件に巻き込まれたらしく、親族たちは官憲の詮索を受けることを嫌って、皆口を噤んでいるのです。それでも、なんとかしないと自分たちがのたれ死にしてしまいますから、リーはアチコチ探し続けると、……。

 リーは半殺しになってまでも頑張りますが、それは親族の中でただ一人、ジェザップの兄ティアドロップ(ジョン・ホークス)が支えてくれたことも大いに与っています(注4)。



 リーと伯父ティアドロップとのこうした関係について、評論家の町山智浩氏は、劇場用パンフレット掲載のエッセイにおいて(注5)、『トゥルー・グリット』のマティとコグバーンに似ていると述べていますが、マサニそんな感じもしました(注6)。

 とはいえ、この映画で目立つのは、『トゥルー・グリット』が保安官コグバーンやラビーフらの男どもであるのに対して、女どもなのです。
 まず、リーは、親友のゲイルに随分と助けられますし(注7)、旦那の顔色をうかがって遠巻きにしていた親戚筋の女たちが、最後には、リーが何としても探し出そうとしてしていたものを見つけるべく手を貸してくれるのです(注8)。
 ここら辺りに住む男たちは、地域共同体の掟に縛られて、身動きが取れなくなってしまっている感じです。これに対して、女たちは、男に頼らざるを得ないとはいえ、そんな掟をむしろ馬鹿らしいと思っているのでしょう、より人間的な見地から事態を見据えて、最後にはリーに手を差し伸べたのではないでしょうか?

 それにしても、こんな地味な映画がアメリカで作られているとは、と驚きでした(勿論、ハリウッドではなく、インディ系の作品なのですが)。
 なにしろ、家の軒先にシカの肉がぶら下がっていたり、リスの肉をむしり取る光景が描き出され、また登場するのは、うらぶれた身なりをした年配者で、それも覚醒剤中毒者とか精神に障害がある人だったりするのですから!
 でも、ジェニファー・ローレンスの演技は、随分と見ごたえがあり、これからの一層の活躍が期待されるところです。




(2)この映画でいたく興味を引くのは、こんな荒涼とした山岳地帯に住んでいる人々が、まだアメリカには存在していて、それも外部からの侵入をなかなか寄せ付けない強固な共同体を作り上げているという点です。
 映画では、当該地域は「ミズーリ州オザーク山脈」とされていますが、アメリカについて詳しくない者にはなかなかピンときません(注9)。
 そこで、上で触れた町山智浩氏のエッセイを見ますと、「オザークはミズーリとアーカンソーの州境に東西に延びた丘陵地」で、「傾斜が多くて耕地面積がが少なく、しかも岩だらけなので、農業には適さない」とあります。
 さらに、町山氏によれば、リーたち一家のような「人々は「ビルビリー」と呼ばれ」、その「多くがスコッチ・アイリッシュ、つまり英国が合併した北アイルランドに入植したスコットランド人たち」であり、「19世紀にアイルランドを襲ったジャガイモ飢饉を逃れてアメリカに渡って来た」ものの、「当時、耕作に向いた土地は既にイングランド系移民が独占し」ていたために、独立して暮らすには、こうした荒涼とした山奥で暮らす以外に選択肢がなかったようです(注10)。

 なお、通常のアメリカ映画ではあまり見慣れない風景という点で思い出すのは、『フローズン・リバー』でしょう。その作品では、セントローレンス川を間に挟んでカナダにも広がるインディアン保留地の同じように荒涼とした風景が描き出されていました。
 同作品では、インデアン保留地を通ってなされる密入国を巡る物語が描かれていますが、主人公の夫が、貯めてあったお金を持って失踪している点とか、また女性を中心とする作品であるという点でも、本作と類似するといえるでしょう。

(3)伯父のティアドロップの風貌については、映画ではよくわかりませんでしたが、原作では、「(覚醒剤)密造所で起きた事故で、左耳がちぎれ、首から背中のまんなかにかけてひどい火傷を負って、肉が溶けたような跡が残」り、「耳の残りはごく小さく」、「耳の周囲は髪がなくなり、首の火傷の跡が襟からのぞいていた」とされています。
 そして、「左の目尻からは、青い涙の粒ティアドロップ)が縦に三つこぼれている」とあり、それは、「刑務所で青インクを使って入れた刺青」とされています(P.35)。
 ここまでくると思い出すのが、『闇の列車、光の旅』のヒーローのカスペルの右の眼尻にあるティアドロップです。こちらの場合は殺人を犯したことを示しているようですが、『ウィンターズ・ボーン』の原作では、「噂によれば、服役中に人にいえないある事柄を3回やらねばならなかったことを意味しているらしい」とのことです。

(4)渡まち子氏は、「この物語は、わずか17歳の少女が、アメリカ伝統の自立自助のスピリットを、満身創痍になりながら体現してみせた魂の旅路だ。あきらめることに慣れた大人の想像を超えた勇気。それが、閉塞感に満ちたアメリカ社会の希望と重なってみえることが、感動の震源となっている」として85点をつけています。
 福本次郎氏は、「映画は、保釈中に行方をくらました父を探す少女が、地域を支配する見えない掟と大人たちの妨害を受けながらも、何が起きたのかを探り真実を知っていく姿を描く。どんな状況でも卑屈にならず、困難に対して挑みかかるような彼女の視線には命がけで家族を守る覚悟が宿る」として70点をつけています。



(注1)「ボーン・アイデンティティ」の「ボーン」は“Bourne”で綴り自体も違うのですが。

(注2)邦訳は、『ウィンターズ・ボーン』(黒原敏行訳、AC Books、2011.10)。

(注3)父親は、覚醒剤密造容疑で警察に逮捕され、その後、保釈金保証業者から金を借りて保釈金を支払い、保釈されはしましたがすぐに失踪してしまいます。
 ただ、父親は、保釈金を借りる際に、リーたちが住んでいる家や森を担保に入れていました。失踪したままで裁判の当日に出廷しないと、保釈金は官に取り上げられてしまいますから、保釈金保証業者は担保物件を競売にかけて処分しようとします。
 そこで、リーは父親を必死で探し出そうとするのです。

(注4)リーが殺されかけた時にティアドロップが現れ、「弟のジェサップは掟に背いたから、どうなろうと当然だ。だが、その子は関係ない。残り少ない家族の一人だ。この子の保証人になる。何かしたら自分の責任だ」と言って、リーを家に連れ帰ります。

(注5)原作の邦訳には、町山智浩氏の「解説―ヒルビリー、まつろわぬ者たち」が掲載されていて、同趣旨のエッセイながら、やや詳細に書き込まれています。

(注6)本作では、21歳のジェニファー・ローレンスが17歳のリーを演じていて、14歳のヘイリー・スタインフェルドが14歳のマティを演じる『トゥルー・グリット』とは異なる面もありますが、町山智浩氏のエッセイによれば、『トゥルー・グリット』の原作者は、「オザーク地方の大学で新聞記者として地元のお婆さんたちから聞き取り調査した昔話からマティのキャラクターを創造」したとのことです。

(注7)ゲイルは、結婚していて赤ん坊もいるため、当初、親友にしてはつれない対応だったのですが(夫の言うことを聞かなくてはいけないからという理由で)、暫くすると、夫から車を奪ってリーを全面的に助けてくれるようになります。

(注8)父親ジェザップの死体が捨てられた沼に船を出してくれて、とうとう父親の死体の一部をリーは手に入れることができ、それを保安官に見せることで、出廷が不可能なことを証明することができたのです。それにより、保釈金の没収は行われなくなって、家や土地の競売も行われないこととなります。
 さらに、保釈金保証会社の者によれば、保釈金の足りない分を出してくれた見知らぬ人がいたとのことで、それがリーに渡されたために、リーの一家の生活は、一時的にせよ少しは安定すると思われます。
 なお、タイトルの“bone”は、直接的には、沼で見つかった父親の死体(その一部)を指すのでしょうが、「ちょっとした贈り物」という意味もあるとすれば、ラストでリーの妹のアシュリーが手にしているバンジョーもあるいは該当するかもしれません。

(注9)Wikipediaの「オザーク高原」のには、「時にオザーク山脈とも言われるが、この地域は高くまた深く侵食された高原である」と述べられています。

(注10)たとえば、原作によれば、リーが探しに行く先の親戚筋の「ほとんどの家は、いまでも玄関のドアがふたつある。聖書のある種の解釈をもとに、男用と女用とを分けてあるのだが、実際にはそれほど厳密な区別をしてはいない」(P.66)などとあります。




★★★★☆






象のロケット:ウィンターズ・ボーン