映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

カラスの親指

2012年12月26日 | 邦画(12年)
 『カラスの親指』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)阿部寛がお笑いの村上ショージと共演するのが面白いと思い、映画館に出かけました。

 物語の冒頭では、競馬場で、どの馬券を買うべきか思案に暮れている男タケ阿部寛)が映し出されます。すると彼のそばに、いかにも訳知りの男テツ村上ショージ)が近づいてきて、自分は競馬場の獣医で秘密の情報を持っていると告げ、確実に入りそうな馬を教えます。
 その忠告に従って、タケが馬券を買うと、なんと当たってしまうのです。
 その一部始終を、別の男(ユースケ・サンタマリア)が見ていました。彼はタケに近づき、前日の分をも含めた当たり馬券を買い取ってくれます。
 ところが、実際には、タケとテツはつるんでいて、一緒になってユースケ・サンタマリアを騙したというわけです。彼が、当たりのはずの馬券を引換機に入れると、「読み取れません」という表示が出てしまうのですから。
 映画は、こうしたタケとテツとが一緒になって生活している家に、若い3人組が転がり込んでくるところから、新しい展開となり、皆でタケを脅かす闇金業者を、得意技の詐欺で騙してやっつけてやろうという話となっていきます。
 さあ、そんな危ない話はうまくいくのでしょうか、……?

 本作は、コンゲームに絡むお話ながら、手が込んでいる仕掛けが何重にも施されていて面白く(従って、さすがのこのレビュー記事でも余り多くを書けません)、実に楽しく見ることができました。
 さらに、お笑い芸人としての村上ショージは余り買いませんが、この映画における演技は絶妙で、彼なくしてこの映画の味は出てこなかったのでは、と思ったところです。



 肝心の阿部寛は、このくらいの役どころだと手慣れた感じで、無難にこなしています(注1)。



 さらに、タケとテツの家に転がり込む3人組のうちの2人は姉妹で、それを石原さとみと能年玲奈とが演じています。
 石原さとみは、『月光ノ仮面』などで見ましたが、本作の姉・やひろの役は、恋人(小柳友)と一緒ながらも妹におんぶにだっこという難しい役ながら、持ち前の演技力でうまくこなしています。



 また、能年玲奈は本作で初めて見ましたが(注2)、若いながらもなかなか頑張っているなと思いました。




(2)本作と同様にコンゲームを扱っている作品として、最近のものでは『夢売るふたり』があります(注3)。
 同作品では、確かにコンゲームが何件も取り扱われていますが、すべて妻の里子松たか子)の指示に基づいて夫の貫也阿部サダヲ)が実行する単純な結婚詐欺であり、本作のような大掛かりなものとは言えません。
 また、同作品では、2人が結婚詐欺というコンゲームをやるのは、焼けて失ってしまった自分たちの小料理店を再建するための資金を集めるためという目的が明確ですが、本作においては、むろんお金をせしめることが重要なのでしょうが、それよりなにより、皆でコンゲーム自体を楽しんでいます。
 そういうこともあってか、同作品では、資金集めという目的が薄れてくると、里子と貫也の関係にもヒビが入ってきてしまいますが(注4)、本作においては、自分たちのやっていることに対する反省は一切せずに(注5)、皆が新たな方向に向かって幸せに旅立つことになります。

 一年のうちのこうした対照的なコンゲーム物を2作品見ることができるというのも、なかなか面白いことだなと思っているところです。

(3)渡まち子氏は、「サギ師が仕掛ける一世一代の大芝居を描く「カラスの親指」。コンゲームの爽快さより人情噺のウェットさが勝っている」として60点をつけています。




(注1)阿部寛については、前作『麒麟の翼』で何もこの人が出演しなくともという感じがしましたが、世評が高いものの見逃してしまった『テルマエ・ロマエ』をDVDで見たところ、なかなかの演技で見直しました(なお、『テルマエ・ロマエ』について、原作にない役を演じている上戸彩がイマイチだとか、映画の後半部分は不要だとかの批判があるようですが、クマネズミは決してそのようには思いませんでした)。

(注2)能年玲奈は『告白』に出演していたようですが、印象に残ってはおりません。

(注3)『夢売るふたり』をクマネズミは映画館で見たものの、専らその怠慢のせいでレビューを書かなかったのですが、本年は、そうした作品が他にもたくさんあり、いたく反省しているところです。

(注4)『夢売るふたり』では、ちょっとした偶然で貫也が大金を手にし、それを店の再建に使おうとしたところ、里子は、その出所に気が付き夫を激しく責め立てながらも、ある計画(それが結婚詐欺)を思いつくところから、コンゲームが開始されます。
 ただ、里子が、貫也の最初の浮気を許したのかどうかはっきりしないうちに、貫也は様々の女に結婚詐欺を働くわけで、当然のことながら、騙した女と夫との肉体関係を里子は認めているのでしょう。ですが、里子と貫也との間には肉体関係がなくなってしまっているようなのです。
 そうこうするうちに、貫也は、ある女(木村多江)との関係にのめり込んでしまい、里子のもとを離れてしまうのですが、そこで事件が持ち上り、結局、当初の小料理屋再建計画も頓挫してしまいます。
 とはいえ、貫也が木村多江との関係にのめり込むのは、どうやら子供のせいなのですが、そのことを里子が知ってガーンときてしまうシーンが挿入されているのには、自分たちが夫婦生活を営んでいないのに、という感じがしてしまいました。
 それはともかく、『夢売るふたり』は、結婚詐欺というコンゲームを描いてはいながらも、専らの焦点は、里子と貫也の関係の微妙な変化(それも性的な)の方に当てられているように思われます。
 逆に、本作では、性的な要素は徹底的に排除されているといえそうです(やひろは恋人を連れ回しているものの)。

(注5)騙された人が、実際に損害をうけないようにいろいろ配慮されています。
 例えば、上記(1)の冒頭で最終的に騙されるユースケ・サンタマリアが受け取る馬券は2重貼りになっていて、表面の馬券はインチキなものにしても、その裏にもう一つの馬券が隠されていて、それは当たり馬券なのです。



★★★★☆



象のロケット:カラスの親指

ミロクローゼ

2012年12月17日 | 邦画(12年)
 『ミロクローゼ』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)最近、『その夜の侍』で見たばかりの山田孝之が一人三役をこなすというので、映画館に足を運びました。

 映画の冒頭は、映画のラストの方で成人となって登場するオブレネリの子供の頃のお話。
 といっても、姿は子供ながら、朝は新聞を読み、電車で通勤もするのです。
 その彼が、公園で「偉大なミロクローゼ」(マイコ)と称する女性と出会い、直ちに好きになってしまい、家を買って一緒に暮らすことになるものの、ある時から彼女は家にやってこなくなります。



 そこで彼女の後を付けると、他の男と楽しそうに歩いたりするではありませんか。心に空洞のできたオブレネリは、再びつまらない日々を送るようになります(注1)。

 次いで、画面には、青春相談員の熊谷ベッソン山田孝之)が登場し、青春の悩みを持つ相談者からかかってくる電話を受けて、次々に過激なアドバイスを返していきます(注2)。
 どんどん彼の調子が上がって行き、果ては女を連れて車に乗り込んで走らすところ、とある道路で人を跳ね飛ばすことに。

 車が跳ね飛ばした男たちは、片目浪人の多聞山田孝之)が熱心に追い求めていたユリ石橋杏奈)の居場所を知る者どもでした。
 さあ、多聞は無事ユリと出会えるでしょうか、……?

 本作は、前に見た『チキンとプラム』のような恋を巡るおとぎ話と言えるでしょうが、そのテイストはまるで違っていて、見る者は、次々と繰り出される思いがけない場面の連続に呆気に取られてしまいます。それでも、恋する女性をどこまでも追い求める男の熱気が全編に漲っていて、不思議なことに混乱は起きないどころか、その面白さに目を奪われてしまいます。

 山田孝之は、途中から出ずっぱりで頑張っているところ、時代劇『のぼうの城』の大谷吉継といい、前作『その夜の侍』の木島といい、本作の三役といい、その演技の幅の広さ(ことに俊敏な動き)に驚いてしまいます。

 なお、ヒロインの「偉大なミロクローゼ」に扮しているマイコは、以前『カフーを待ちわびて』で見ましたが、その映画でも本作と同様に、主人公のもとから隠れてしまう女性を演じていました。

(2)本作には思いがけないところに思いがけない人が登場するので驚きます。
 その最たるものが、鈴木清順監督でしょう。



 多聞は、あちこちユリを探していると、蛾禅という刺青師が知っているという情報をつかみ、乗り込むと、その蛾禅に扮しているのが鈴木清順監督、なにやら呆けたようにTVのアニメを見ているのです(注3)。

 次いで登場するのが、最近見た『ふがいない僕は空を見た』で主人公・卓巳の母親を演じている原田美枝子
 多聞は、蛾禅の言った言葉に従って女郎を探すうちに、天拓楼という遊郭にユリがいることが分かります。ただ、登楼するための持ち合わせが少な過ぎるため、楼の中に設けられている賭場に入ったところ、そこで壺振り師として場を取り仕切っているのが、原田美代子扮するお竜です。



 前作と余りに違う役柄なこともあって、原田美枝子だとはなかなか気が付きませんでした。

 この天拓楼の場面は本作のクライマックス。登場人物だけでなく、威容を誇る天拓楼の外観、そこにいる女郎の扮装、玄関で多聞に対峙する案内人の雪音岩佐真悠子)の背景画などなどヴィジュアル的にも素晴らしく(注4)、さらには、多聞と楼の大勢の用心棒たちとの大立ち回りは、超スローモーションで描き出されますが、なかなかの見ものです(注5)。




(3)この作品を製作した石橋義正監督に関し、「ふじき78」さんが、「これ気にいった人は『オー! マイキー』より『狂わせたいの』を見た方がいいよ」と推薦されているので、前者についてはYouTubeで、後者はTSUTAYAでDVDを借りて見てみました。
 『オー! マイキー』は3分程度の話の集積で、現在まで100話以上制作されているようなので、ごく最初の方だけ見ましたが、日本に引っ越してきた外国人家族を巡るお話ながら、登場するのが全てマネキン人形だったり、最後に皆で大笑いしたりと、随分と毛色の変わった動画です(注6)。
 確かに『オー!マイキー』と本作との繋がりは薄そうな感じですが(注7)、他方、『狂わせたいの』は、本作と違ってモノクロで、全体が重苦しいトーンでありながらも、あっけにとられるような場面が薄いつながりで次々と繰り出されたり(注8)、歌(70年代昭和歌謡)と踊りがあったりと(注9)、本作に通じるものを持っているように思いました。

 なにはともあれ、こうした多方面にわたる特異な才能を持った石橋義正監督の存在を知ることができただけでも、本作はクマネズミにとり意義深い作品でした。



(注1)この話は、後半に再度登場し、そこでは大人の姿になったオブレネリを山田孝之が演じています。

(注2)新幹線の可愛い売り子に夢中だという青年からの電話相談に対しては、「天竜川の河川敷でコーヒーを作って、鉄橋を通過する新幹線に向かって捧げるポーズを取ってみたまえ、そうすれば、次回新幹線に乗ったら彼女は君に抱きついてくるだろう!」などと答えます。
 なお、新幹線の売り子役の佐藤めぐみは、ブログの映画レビューではほとんど取り上げられていない『あんてるさんの花』に出演していました!

(注3)多聞が蛾禅にユリの写真を見せると、「3年前にここに来たが元気だった」と応え、「うちに来るのは皆女郎だが、ここに女郎はごまんといる」と付け加えます。

(注4)天拓楼は、なんだか『千と千尋の神隠し』に登場するお湯屋「油屋」のような感じがしますし、楼の中に入ると蜷川実花監督の『さくらん』のような極彩色。さらに、雪音の背景画は、劇場用パンフレット掲載「Director’s Interview」によれば、弘前の「ねぷた」のようです。

(注5)多聞の話しの後は、もう一度最初のオブレネリの話の続きです。大人になったオブレネリが「偉大なミロクローゼ」を探してとある旅館に入ったところ、彼女はその旅館の若女将に就いていて、そばにいるのが旦那・なきゃむら奥田瑛二



 彼は、別に変わった格好をしているわけではないので驚きませんが、『汚れた心』や『るろうに剣心』とはまた全然違ったキャラクターを演じています。
 大人のオブレネリが、思い切って「偉大なミロクローゼ」に「もう一度帰っておいでよ」と言ったところ、なきゃむらに、「何なんだ、あんた!」と怒鳴られ殴られたあげく、旅館から追い出されます。

(注6)例えば、第1話「日本での生活がはじまる」(監督・脚本:石橋義正)は、歯磨きをしないと口が臭くなるといった会話、日曜日に学校に行ったら休みだったということ、マイキーが水まきの水をかぶってしまうことなどから構成されています。

(注7)『オー!マイキー』のアニメ的な雰囲気は、本作のオブレネリを巡る物語のそれに通じているのかもしれません。

(注8)『狂わせたいの』は、話の展開がループをなしていて、最後の場面が冒頭の場面につながっています。この点も、冒頭のオブレネリの話が最後に再度登場する本作と類似しているといえるでしょう。

(注9)がら空きの最終電車に乗り込んだサラリーマンの前の席に座る女は、男が「あのー」と声をかけると、やにわにブラウスを開きますが、その下は裸で、乳首には鈴が付けられ、おまけに緊縛状態。アレッと思う間もなくオープニング・クレジットが流れ、背後には「狂わせたいの」を歌う女が映し出されます。そして場面は、……。



★★★★☆


象のロケット:ミロクローゼ

カミハテ商店

2012年12月12日 | 邦画(12年)
 『カミハテ商店』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)高橋恵子による久方ぶりの主演映画ということで映画館に出向きました。

 物語の舞台は、山陰の鄙びた港町(上終:カミハテ)(注1)にある小さな商店



 高橋恵子が演じる初老の千代は、その商店を長い間一人で営んできました。
 一応は雑貨店ながら、置いてある商品はわずかで、めぼしいものは千代が焼くコッペパンと毎朝届けられる牛乳くらい。
 ただそのコッペパンは、店の裏手にある崖で投身自殺をする者が、最後の食事としてその商店で牛乳と一緒に買っていくものなのです。
 千代は、自殺をすると分かっていても、それを止めるようなことはせずに、淡々と対応するだけでした。
 そうこうするうちに、コッペパンを巡る話がネットに流れて噂となり、果てはその噂を聞いて物見遊山で訪れる者まで出てくるようになりました。町役場の担当者は、町のイメージが悪くなるので、それらしい者を見かけたら通報してほしいと千代に言ってきます。
 としたところ、幼い子供を連れた女性が港町に現れます。
 その子供が、母親に言われて店に牛乳とコッペパンを買いにやってきたところ(注2)、千代は、母親の後を追い「待って」と言って止めるのですが、……。

 全体として随分と暗い話で、またその描き方もどんよりとしたものになっていて(例えば千代は、普段、暗い家の中でコタツに入ってじっとしているだけなのです)、かつテンポも酷くゆったりとしています(例えば、到着したバスから人が降りてくるのを調理場の窓越しに見る場面では、その人物が店に到着するまでの時間、千代の見守る姿だけを静かにゆっくりと映し続けます)。
 ただこれを救うのが、都会で働いているという千代の弟の良雄寺島進)のひょうきんさと(注3)、牛乳配達の奥田青年の無類の明るさ(注4)、そして、崖の外に広がる青々とした大海原でしょう。不思議なことに、作品の後味は決して悪くありません。

 高橋恵子は、『ちゃんと伝える』以来ですが、台詞の少ない難しい役柄を味のあるすぐれた演技力でこなしていると思いました。



 また、寺島進も、最近では『スマグラー』や『ヘルタースケルター』でチラッと見かけましたが、本作では、映画に奥行きを与える重要な役柄を味のある演技で演じています。




(2)この映画を見ていてアレッと驚いたのは、ラストで「上終」止まりのバスから降りてくる人物が、千代の弟・良雄の関係者であることです(注5)。
 それまでバラバラに進行しているように見えた千代の話と良雄の話とが、こんな風に絡んでくるなんて、という思いになりました。
 振り返ると、こんな場面もありました。その前に千代の店にやってきた若い女性にコッペパンと牛乳を売らなかったにもかかわらず(注6)、翌朝千代が起きて冷蔵庫の上を見ると、代金の180円が置いてあるではありませんか。一体誰が、……(注7)。
 この物語は、一見するとバラバラの感じを受けるものの、実は綿密に考え抜かれた相互関係が設えられているようです。
 そこまでいくと、千代の店に現れ牛乳とコッペパンを買っていった大男が、もしかしたら良雄の取引先でカネ詰まりのため代金を支払えなくなって自殺した経営者なのでは、と考えてみたくなってしまいます(むろん穿ち過ぎでしょうが)。

 この映画は、そうした様々の人間関係に絡め取られながらも、そしてコッペパンと牛乳を買って食べるという人間的行為(さらには、靴を脱いで揃えて置いておくという行為も)をして、人間界との繋がりをなんとか保持しようとしながらも、やっぱりそれを断ち切って自殺してしまう人間の様を描きながら、逆に、そうした細々とした繋がりをとっかかりにすれば、あるいはなんとか彼らをこちら側に引き戻せるのではないか、ということを暗に描いているようにも思えます。

 12月8日付朝日新聞記事には、「警察庁は7日、今年11月までの自殺者数が前年同期比9.8%減の2万5754人(速報値)だったと発表した。1ヵ月の自殺者数は2千人台で推移しており、1997年以来15年ぶりに年間3万人を切る可能性が高くなった」とあります。
 このように自殺者の減少が見られたのにはいろいろな要因があるでしょうが、自殺者を何とか減らそうとしている関係者たちの多大な努力も寄与していることと思います。
 でも、手を緩めるわけにはいかないでしょう。本作でも、千代が一度は助けた母娘連れが、すぐ後に列車に飛び込んで自殺してしまったとされています。
 本作にはわずかの光明が感じられるものの、この問題には、決して一筋縄ではいかない難しさが潜んでいるのではないかと思います(注8)。

(3)公式サイトに谷川俊太郎氏などのコメントが掲載されています。



(注1)ロケ地は隠岐の島海土町。

(注2)女の子が、「おばちゃん、パンちょうだい。ママと遊園地に行くの。ママは外で待っているって」といってパンを買いに来ます。
 千代は、自分の幼い頃、父親がここの崖から飛び降りて独り残されたことをその女の子の姿にダブらせたのかもしれません。映画の冒頭で、父親の靴を手にして崖からの道を降りてくる幼い千代の姿が映し出されます。

(注3)良雄は、都会(ロケ地は京都)で事務用品納入業を営んでいますが、資金繰りでいつも四苦八苦しています。あるときは、事務所が入っているビルの屋上に上って、そこから飛び降りるマネまでする始末です。
 そんなとき、スナックで余り客に相手にされない女・さわと知り合います。

(注4)でも奥田青年は、劇場用パンフレット掲載の「Story」では「自閉症」とされ、周囲の人たちとうまくコミュニケーションが出来ないところ、オートバイに跨って牛乳配達の仕事だけは、「毎度ありー」と言いながら続けています。ただ、集めたからの牛乳瓶を地面に並べるという行為を繰り返し行っているところは、自閉症に関するDDMの診断基準のうちの、例えば「特定の機能的でない習慣・儀式にかたくなにこだわる」に該当しているようです。

(注5)実は、バスから降りてきたのは、良雄が急接近し出した女・さわなのです(上終のことは、良雄が実家のことを話したので記憶にあったのでしょう)。
 良雄のいる都会の方では、彼がその女の家に行くと、女の娘から通帳と、「娘をよろしくお願いします」と書いてある紙を渡されます。

(注6)女がコッペパンと牛乳を求めると、千代は「悪いけど、店を閉めた」と言って売らなかったのです。女が、「聞いてない、勝手にやめないでよ」と言うのに対して、千代は「あんた崖に行くんでしょ。なんでここに立ち寄るの?止めてほしいから?行きなさいよ」と応じると、女は「そんなことあんたに関係ない」と言い、千代は「そうね、関係ないわ」と言って中に引っ込み、女も立ち去ります。
 ですが、翌日バスの運転手(あがた森魚)に聞くと、「昨日の女は、バスに戻ってきた」とのこと。さらに運転手は、「町まで帰るなんて、珍しいこともあるもんだ。乗せた人が戻らないのは寝覚めが悪いが、今朝はいい朝だった」と言い、さらにその女が「調子悪いから、パンぐらい焼け」って言っていたことを付け加えます。

(注7)千代が、慌てて裏手の崖に上って行くと、あろうことかそこに立っているのは牛乳配達の青年でした!前日、仕事ぶりのいい加減さを牛乳販売店の主人に酷く怒られたことを気にしてのことでしょう。千代は、必死になって「毎度あり」と叫び、体を投げ出して奥田青年を抱き留めます。

(注8)我が国の自殺者数とか自殺率に関しては、『スイッチを押すとき』についての拙エントリの(3)及び「注9」と「注10」を参照してください。



★★★★☆




その夜の侍

2012年12月07日 | 邦画(12年)
 『その夜の侍』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)当代の人気俳優、堺雅人山田孝之が対決するというので見に行ってきました。

 物語の舞台は地方都市、山田孝之扮するトラック運転手・木島に妻を轢き殺された鉄工所経営者・中村堺雅人)が復讐を企てるというものながら、この2人が両極端に描かれていて、全体としてなかなか面白い仕上がりとなっています。
 中村の方は、経営者といっても真面目一方の技術者で、従業員ともまともに話せないほどの大人しい性格、5年前に妻(坂井真紀)を交通事故で失ってからは、時間があると鉄工所の裏の自宅の部屋に引きこもって、ちゃぶ台の上に置かれた遺骨箱(5年前からズッとそこに置かれているようです)を前にして、事故の直前に録音された妻からの留守電メッセージを繰り返し聴いている有様。



 他方で、木島は、轢き逃げということで2年間服役し、出所後は、事故を引き起こしたトラックの助手席にいた友人の小林綾野剛)の家に同居、自分の過去のことを言いふらしたとして職場の仲間の田口トモロヲ)を激しくいたぶったりします。



 こんな状況下で、中村は、事故から5年目の日に木島を殺して自分も死ぬというメッセージを、繰り返し木島に送りつけます。
 そんなことを止めさせようと、中村の亡妻の兄・青木新井浩文)が動き回るのですが、果たしてどうなることでしょうか?




 どの登場人物も、その行動の軸線が真ん中と思えるもの(常識でしょうか)からズレていて、そのためバラバラに孤立していながらも、やっぱりコミュニケーションを求めていて、でもその求め方も普通のものとはズレが出てきてしまう、そんな微妙なところが巧みに描かれているのではないかな、と思いました。

 堺雅人は、最近も『鍵泥棒のメソッド』で印象的な演技を披露していたところ、本作における偏執病的な人物の演技にも十分説得力がありました(『ツレがうつになりまして。』では“典型的なうつ病患者”の役を演じていたところです!)。

 山田孝之も、つい最近も時代物の『のぼうの城』で見たばかりながら、こうした現代物の方がやはり様になっているように思いました。

(2)上で、行動の軸線がズレていると申し上げましたが、本作では、そのズレ方がそれぞれ大変面白いな、と思いました。
 なにしろ、中村は、家に戻ると絶えず留守電の妻の声を聞いているのですが、その中で彼女が「プリンを食べるな」と言っているのに反して(注1)、そして自身糖尿病ながらも、いくつものプリンを頬張ってしまうのです。
 その中村に青木が紹介した教職員の女性(注2)は、中村が明確に断ったにもかかわらず(注3)、「他愛ない話をしたいんです」と言って再び中村の前に顔を出し、キャッチボールまでします。
 また、木島は木島で、職場の仲間の星とか亡妻の兄を激しく痛めつけるものの(注4)、ある時点でフッとそのことに無関心となってしまい(注5)、後事を別の人間に託してしまうのです。
 さらに、星は、木島に痛めつけられながらも、あろうことか木島にぴったりとくっついている始末(注6)。
 これは、中村の妻を木島の車が轢き殺した際に助手席に乗っていた小林も同じです(注7)。
 さらには、バイトで交通誘導員をしていた谷村美月)も、木島に大金を強奪された上に手籠めにまでされるものの、部屋に気安く入り込んできた木島にごく普通に対応しています(注8)。

 こうしたズレにズレた関係の縺れ合いがピークに達するのがラストのクライマックスではないか、と思いました(注9)。
 でも、様々なズレが描き出されながらも、それほど違和感を覚えずに本作を見終えることができるのは、それぞれのズレがなんとなく小さくなるような兆しが仄見えるからなのかもしれません(注10)。

(3)渡まち子氏は、「狂気と日常の狭間で葛藤する男を描く異色の人間ドラマ「その夜の侍」。堺雅人が今までにないしょぼくれた役を怪演している」として65点を付けています。



(注1)中村の亡き妻は、留守電で、「また隠れてプリン食べているんでしょ、聞いたんだから。いい加減にしないと死んじゃうから」と言っています。

(注2)ありていにいえば、青木は中村のために見合いの席を設けたわけです。「彼女は自分の同僚で、数学を教えていて、理屈っぽいが強く、バツイチだ」と青木は中村に告げます(なお、彼女に対して、青木は、「彼(中村)は一応社長だから玉の輿だ」と言っています)。

(注3)中村は、手に亡き妻のブラジャーを持ちながら、「私は、あなたと結婚できるような、そんな男ではありません。申し訳ありません」と言って頭を下げるのです。

(注4)木島は、自分の過去のことを職場で言いふらしたとして怒り、星に対し灯油をかけライターの火を近づけて焼き殺す寸前にまで至ります。また、青木に対しても、期日までに100万円の現金と中村の詫び状を持ってこなかったことから、公園で穴の中に生き埋めにしようとします。

(注5)木島は、星に対して、突然、「お前帰っていいよ。もう飽きた」と言いますし、青木についても「俺は疲れた、あとはお前(小林)に任せたよ」と言って、現場から立ち去ります。

(注6)星は、木島が青木を痛めつけている現場で、木島の友人の小林に対して「俺、なんでこんなところにいるのかわかんない、だけど特に趣味とかはないし、TVもつまらないし、一人はもう嫌だなあと思って」と言い、でも他方で谷村美月が扮する関には、「あいつ(木島)は最低の人間だ」と言うのですが。

(注7)一方で小林は、木島から「俺のことを警察にチクリやがって」となじられるものの、他方で星から、「なんで君は木島と一緒にいるの?」と尋ねられると、「あいつには俺が必要なんだ」と答えます。

(注8)関は、「なにかいいですね、人がいるのって」と木島に話します。また、出て行った木島に入れ替わって部屋に入ってきた星に対して、「なんか私、こういう雨の日は好きです」と言うと、星は「やっぱり黄色いソファーがあるといいね」と応じます(木島が関から巻き上げた大金は、関がこの黄色いソファーを買うために用意したものです。黄色いソファーが置いてあるということは、木島はその金を関に返したということでしょう)。

(注9)タイトルに「侍」とあり、中村が妻の復讐をしようとしていることから、このシーンは、あるいは宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘とか(漫画『バガボンド』第33巻―今秋刊行出た最新巻の一つ前―の巻頭には、「この島は後の世に「巌流島」とよばれることになる」とあります!)、もしくは江戸時代の仇討(『花のあと』!)とも比べることができるかもしれませんが、そのズレ方には甚だしいものがあります。
 なにしろ、相対峙すると、双方で「今晩は」と挨拶し合い、さらに中村は、「さっきカレー食べたのは失敗だった、こんな時に息がカレーカレー臭くてかなわない」などとしゃべり、木島が「どーすんだよ」と尋ねると、中村は「できることなら、昨日見たテレビのことなど他愛のない話がしたい」と応ずるのですから。
 さらに、中村は、持っていた包丁を放り出すと、「俺を殺せ、二人も殺せば死刑になるから」と言いながら、ナイフを持っている木島の手を取って自分を刺そうとするのです。
 そんなことにはならずに、二人は雨の中泥まみれになって“転げ”回ります。
 「転がる」?
 そういえば、本作では随分と人が“転がる”ことになります。
 自転車に乗っていた中村の妻は、木島の車と出会い頭に衝突し、地面に転がって動かなくなります。
 木島の職場仲間の星は、小林の部屋で畳の上に転がされて、あわや焼き殺されそうになります。
 さらに、中村の亡妻の兄の青木も、公園で木島に痛めつけられて地面に転がり、果ては掘られた穴の中に転がり落とされます。
 本作では、普通なら立っている人間の“転がって”いる姿が描かれている点が、あるいはズレの最たるものといえるのかもしれません!

(注10)たとえば、ラストで中村は、プリンを食べずに潰しながら、留守電に入っている亡妻の声を消去します。



★★★★☆


象のロケット:その夜の侍

ふがいない僕は空を見た

2012年12月05日 | 邦画(12年)
 『ふがいない僕は空を見た』をテアトル新宿で見ました。

(1)評判を聞き込んで見に行ってきましたが、まずまずの出来栄えではないかと思いました。

 映画は、ある家に入ってきた制服姿の高校生が、コスプレ衣装に着替えて、これまたコスプレ姿の女とベッド・インするところから始まります。



 二人は、ノートに書いてあるシナリオに沿って話したりするところ、どうやら女はその家の主婦・里美田畑智子)で、夫がいない昼間にその高校生・斉藤卓巳永山絢斗)を引っ張り込んでいるようです(注1)。
 卓巳は、助産院を営む母親(原田美枝子)と暮らしているところ(注2)、学校では同級生の女生徒から告白されたりして、里美との関係を絶とうとしますが、なかなか断ち切れないでいます。



 この映画には、もう一人クローズアップされる人物が登場します。
 卓巳の親友である同級生・福田良太窪田正孝)で、母親は近くにいるものの義理の父親と一緒のため、痴呆症の祖母とともに別に暮らしています。



 両親の稼ぎが少なく援助など期待できないことから、良太は、コンビニでのアルバイトや新聞配達などをして、生活費や学費を稼いでいる始末です。
 こうした状況の中で、卓巳と里美の情事の画像があちこちにばらまかれてしまい、皆の知るところとなります。
 さあこれから物語はどのように展開されていくのでしょうか、……?

 卓巳と里美の話がメインで描かれると思って見ていたら、途中からまるで良太が主人公のようになって、二人が暫く画面から消えてしまうとか、コスプレ、痴呆老人、体外受精などなど、現代日本で見かける風俗や社会問題が次から次へと描き出されたりして、全体としてゴッタ煮のような印象を受けてしまいますが(従って、上映時間も142分!)、却って見る者に、人々の多様な生きる姿を生のまま突きつけてくれているようにも思いました。

 主演の永山絢斗は、『I’M FLASH!』で見かけましたが、多面性を持った卓巳役を実に上手くこなしていると思います。

 また、田畑智子は、一昨年の『さんかく』での演技がすごく印象的ですが、本作においては、さらに体当たりで頑張っていて感心しました。

 さらに、窪田正孝は、『はさみ』で、理容学校の先生・池脇千鶴の生徒役を演じていました。

(2)劇場用パンフレットに掲載されている「director’s interview」において、タナダユキ監督は、「卓巳と里美のラブストーリーであると同時に、群像劇にしたいという意識が最初からありました」と述べています(注3)。
 そんなところからなのでしょう、この映画に登場する主要な人物は、卓巳と里美のみならず皆、複雑な性格付けがなされています。

 良太は、祖母と一緒に暮らすためにいろいろアルバイトまでしていますが、最後にはアルバイト先のコンビニで、出しっ放しの店長の財布から金を盗み取ろうとして、クビになってしまいます。
 また、同じコンビニで働く先輩・田岡三浦貫太)は、こうした環境から抜け出すには勉強しなければだめだなどと言って様々のアドバイスをしていたものの、児童ポルノ撮影の咎で逮捕されます(注4)。
 里美の夫(山中崇)は、酷いマザコンで、里美が作ったものには手をつけずに、母親が作った朝食の方をおいしいと言って食べますが、他方で、里美の不倫が分かった後も、彼女とは絶対に別れないと言い張ります。

 男だけでなく女の方も、様々の問題を抱えています。
 里美の義理の母親は、孫の顔が見たいという執念に取り憑かれていて、子供が出来ない里美に向って、結婚前に病院で検査をしてもらえばよかったとまで言う始末です(母親の命で体外受精までしますが、上手くいきません)。
 また、良太の母親は、マチ金に借金があるらしく、携帯に電話がかかってきたりして、果ては、良太が米櫃の中に隠していた預金通帳からなけなしの金を引き出すことまでするのです。

 なかでは、助産婦の卓巳の母親だけが、比較的マシと思われます(注5)。
 この世の荒波にもまれて皆が皆おかしくなってしまうところ、赤ん坊の誕生の瞬間だけは真実の喜びが感じられるということなのでしょう。

 ただ、これだけ様々の性格付けをされた登場人物たちを映画の中で上手く描き出し、一本の作品にまとめ上げるには、製作者側によほどの力が必要なのかもしれません。本作の構成については、映画評論家がすでに指摘しているところながら、一考の余地があるのではないか、と思いました(注6)。

(3)映画評論家の宇田川幸洋氏は、「性と生、生まれることと生きていくことが、郊外の人間模様のリアルなスケッチの上に浮き彫りになる。それを見つめる監督の目はたしかで、信頼がおける。しかし、構成の技法には疑問を感じる」として★4つを付けています(☆5つのうち)。



(注1)里美は、夫に愛情を感じていないようですが、それでも精一杯尽くそうとはしています。
 なお、里美は、小遣いとして2万円を卓巳に手渡します。

(注2)卓巳は、家に戻って母親からお産の手伝いを求められると、嫌々ながらも慣れた手つきで対応します。

(注3)次の(3)でも触れる宇田川幸洋氏は、本作について「群像劇としても、余りに散漫だ」として、「原作を読んで、理由がわかった。小説は短篇連作形式で、5人の人物のかたりになっている。映画はこれをある程度なぞっているがうまくいっていないのだ」と述べています。
 確かにそうなのでしょうが、窪美澄氏の原作に基づく以上、「原作をある程度なぞ」るのは当然であって、問題はあくまでも脚本家と監督による「なぞり方」なのではないでしょうか?
 なお、この点については、映画評論家の小梶勝男氏も、「短編の連作を映画化したため、卓巳と、主婦と、貧困から抜け出そうと苦しむ卓巳の親友の物語が、バラバラに感じられる」と述べているところです。

(注4)さらに田岡は、以前は、有名予備校の人気講師だったところ、同じ犯罪でその職を追われてしまったとされています(父親は病院長で、金には困らないようです)。

(注5)ただ、自然分娩を推奨するものの、産院に救急車で運びこむ破目になったりもします。また、別れた夫から連絡があると、密かに金を手渡したりもしています。

(注6)雑誌『シナリオ』12月号掲載の「脚本家インタビュー」において、本作の脚本を書いた向井康介氏は、作品の構成につき、「大きく3回くらいバッサリ変わったんですかね」、「最初、卓巳から始まってたんです」、それを変えて、「卓巳・あんず(里美)VS福田で、最後母親が締める、みたいな分量がいちばんバランスがいいんじゃないかと思って、やってみたらまあ上手くいった。だから二人が最初に出てきて、窪田くん(福田良太役)、母親ってことになっていったんですけど」などと述べています(同誌P.73)。
ただ逆に、本作では、卓巳・あんずの話を最初にまとめて描いたために、次に良太が前面に出ると、彼らが画面から消えてしまうことになってしまったのでは、と思われます。
 そこを、向井氏が言う最初の案のように、「あんずだけ窪田くんの後に入ってきたりして、あえてゴチャッとまぜてみた」ら、どのような作品になったのでしょうか?
 こんなことを言うのも、向井氏が、「タナダさんとの相性もいいんで。あの人、すごくホンを尊重して撮ってくれる。セリフとかにしても」と述べているところから(同誌P.74)、作品の構成に関しては向井氏によるところが大きいと考えられるからですが。



★★★☆☆





のぼうの城

2012年12月02日 | 邦画(12年)
 『のぼうの城』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)本作は、1年前に劇場公開される予定だったものが、3.11によって今頃公開の運びとなったものです。

 物語の舞台は、およそ400年前、戦国時代末期の忍城(現在は、埼玉県行田市)。

 時の関白の豊臣秀吉市村正親)は、全国統一を成し遂げるべく、自分に従わない北条氏を攻め滅ぼそうと、北条家の当主・氏政が居住する小田原城を攻めるとともに、その周辺に置かれている22の支城にも攻撃を仕掛けます。
 支城の一つ忍城に対しては、石田三成上地雄輔)に2万の兵を与えて攻めさせます〔副将として大谷吉継山田孝之)らが付き従います〕。



 他方、忍城の城主・成田氏長西村雅彦)は、北条氏政の命によって小田原城に入ったため、代わりに氏長の従兄弟の成田長親野村萬斎)が、城代として石田三成軍を迎え撃ちます。
 といっても、氏長は、豊臣方に内通するつもりでおり、籠城は見かけだけとしすぐに開城せよと、小田原に向う前、忍城に残留する者たちに命じていました。
 ところが、皆から「のぼう様」と言われていた長親は、石田軍からの使者・長塚正家平岳大)に対して「戦いまする、いくさ場で出会おう」と言ってのけてしまいます。
 長親の元には、家老の正木丹波守佐藤浩市)、自称“軍略の天才”の酒巻靱負成宮寛貴)、豪傑の柴崎和泉守山口智充)といった強者らが控えているものの、いったい500の軍勢(注1)が2万の大軍にどう立ち向かうのでしょうか、……?



 本作は、常識では絶対にあり得ない戦いを挑んだ武士たちを描いた娯楽大作で、そのアクションシーンは「動」を描くものとしてなかなかの面白さが見られますし、他方大軍を前にして長親が踊る「田楽踊り」のシーンは「静」の部分として味わいがあります。

 出演する俳優陣は、皆それぞれところを得てなかなかの演技を見せています。
 中でも、主役の成田長親を演じる野村萬斎は、クライマックスの「田楽踊り」のシーンを見ると、まさにこの人以外には考えられないという気がしました。



 ただ、『東京公園』や『アントキノイノチ』で見た榮倉奈々の甲斐姫は、その男勝りの腕前を発揮する場面が少なく、やや期待外れでした。

(2)本作は、黒澤明監督の『七人の侍』と比して語られることが多いようです(注2)。
 確かに、野武士集団に取り囲まれた村を、農民たちが、雇った七人の侍と一緒になって守り、勝利を収めるという『七人の侍』の物語は、石田三成を総大将とする大軍に囲まれた忍城を少数の武士と農民で守るという本作のストーリーと類似しているといえるでしょう。
 さらに例えば、湖の中に城(浮城!)があるという利点を生かして(注3)、相手を少人数に分断して撃破するという本作で見られる戦法は、『七人の侍』でも採られています。
 でも、そんな戦法が通じるのは敵の第一波の攻撃であり、第二波の攻撃ともなれば、平城の忍城は到底耐えきれなかったのではと思われます(注4)。

 しかしながら、ここで敵将・石田三成が採った戦法は水攻めでした。
 ここがクマネズミにはよくわからないところです。
 なぜ、そんな時間のかかる迂遠な方法をわざわざ採る必要があったのでしょうか?
 なるほど、忍城の周囲は湖で、城の門に向って取り付けられている細い道以外のところを進もうとすれば、泥濘に馬や足軽たちの足が取られてしまい身動きできなくなるのかもしれません(注5)。
 ですが、水攻めの堤が決壊した後、水浸しの城に向かって、石田軍は大量の土嚢を敷いて兵を進めているのです(注6)。その方法を当初から採れば、そんなに長い時間をかけずとも(注7)、簡単に城を陥落させることができたのではないかと思われます。
 特に、城門と城門との間は非常に脆弱でしょうから(注8)、石田軍は一気にそこを突き破れたのではないでしょうか?
 といっても、歴史の事実としては、水攻めが行われたようです。
 そこら辺りが、本作ではあまりうまく描かれてはいないのではないか、ほとんど軍議などせずに、単に石田三成の鶴の一声で決まってしまったように描かれているのでは、という気がしました。

 あるいは、そこら辺りは観客側で考えればいいのかもしれません。
 たとえば、「定石」どおりの戦法で忍城を揉み潰しても何の面白いことはないと考えていた三成に(注9)、なんとも風変わりな男・長親が戦いを挑んで来たため、世の中が驚くような戦法を採ってみたくなってしまった、とでもいうように。
 ただその場合には、映画における三成のポジションを長親と並ぶくらいに引き上げたら、「長親vs三成」としてもっと面白さが増すのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「肉食系アクションに草食系キャラのこの映画、人間ドラマよりアクションが勝った印象が残る。湖上での田楽踊りが最大の見せ場というのがその証拠だ。ともあれ、敵の鼻を明かして一矢報いる。これもまた日本人好みのエモーションかもしれない」として60点をつけています。



(注1)劇場用パンフレット掲載の河合敦氏によるエッセイ「史実の忍城戦と、成田長親という男の矜持」によれば、「侍はわずかに六十九人、足軽(下級武士)は四百二十人しかいなかった」とのこと。
 ただ、領民も城に入ったので、「忍城に籠もる人数は三千七百四十人に膨れあがった」(ただし十五歳以下が三分の一)ようです。

(注2)たとえば、ブログ「お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法」の11月9日のエントリ

(注3)「忍城は、洪水が多いこの一帯にできた湖と、その中にできた島々を要塞化した城郭であった」(原作文庫版上 P.30)。

(注4)このブログによれば、小田原城の支城であった八王子城は、山に設けられた堅固な守りの城で、それを1,000名の武士と農民らが守っていたにもかかわらず、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの北国軍15,000の前にはひとたまりもなく、一日にして落城してしまいました。

(注5)「問題はあの異様に深い田じゃ。あれでは大軍を擁したところで使うことができぬ」と長束正家が述べます(原作文庫版下 P.61)。

(注6)「深田が城を囲んでいるのは、忍城だけではない。そうした場合、田圃に埋草を突っ込みながら進軍するのが常套手段であった。三成は、これを土俵(つちだわら)で実施するよう全軍に指示した」。このやり方について、柴崎和泉守は、「定石」と言っています(原作文庫版下 P.156)。

(注7)石田三成は、「足掛け五日で」7里(28km)に及ぶ人口堤を完成させましたが (原作文庫版下 P.84)。

(注8)石田三成からすると、忍城は、「土塁を掻き揚げただけで石垣はなく、天守閣もなく、櫓といえば材木を組み上げた積み木のようなものがあるだけの城など、城郭というより湖を結衣つの要害と恃んで人が集まった単なる島のようにしかみえなかった。城の堀端に柵を結い回し、棘のような逆茂木も差し並べているようではあるが、これも取り立てていうほどのものではなく、ごく普通の城の守りであると三成は知っている」(原作文庫版上 P.166)。

(注9)三成に命じられていた攻略目標の内の館林城は、石田軍が取り囲んだだけで自ら開城してしまいました。



★★★☆☆



象のロケット:のぼうの城


希望の国

2012年11月20日 | 邦画(12年)
 『希望の国』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)このところ、『冷たい熱帯魚』、『恋の罪』、『ヒミズ』となかなか面白い作品を矢継ぎ早に製作している園子温監督が、福島原発事故を取り上げた映画だということで見に行ってきましたが、クマネズミにとっては園監督らしさが余りうかがえないなんとも退屈な作品でした。 

 物語の舞台は、東日本大震災から数年後の長島県大葉町。
 冒頭では、町の郊外にある農家の状況が牧歌的に描かれます。
 主人公の小野泰彦夏八木勲)は、認知症の妻・智恵子大谷直子)、それに息子・洋一村上淳)とその妻・いずみ神楽坂恵)と一つ屋根の下で暮らし、共同して酪農を営み、なおかつ畑ではブロッコリーを作っています。
 また、泰彦の家の前の鈴木家では野菜作りをしているのでしょう、できたホウレンソウを泰彦に引き取ってもらう一方で、父親のでんでん)は、家業を手伝いもしない長男ミツル清水優)が恋人ヨーコ梶原ひかり)をオートバイに乗せて出かけようとするのを見咎めたりします。
 さらに、大葉町の商店街の入り口には、「原発の町へようこそ」と記されたゲートが設けられており、その酒屋の主人・松崎のところへは、泰彦から「ブロッコリーを早く取りに来い」との電話が入ります。
 そんなところに、突然轟音が鳴り渡り、激しい揺れが。
 小野の家では、電気が消え、家の中がめちゃくちゃになります。
 今夜ブロッコリーを取りに来るはずの松崎とも電話が通じません。
 前の鈴木家のミツルとヨーコのオートバイは戻ってくるものの、ラジオが「震源地は長島県東方沖 地震の規模はマグニチュード8.5」と言っているのを聞くと、泰彦は町の原発のことが心配になってきます。
 さあ、この先一体どうなることでしょう、泰彦や健の家族の行く末は、……?

 本作は、原発事故により強制立ち退きを求められた人々の大変さを家族愛の中で描いているわけながら、こうしたものならばNHKのドキュメンタリーで十分なのでは、と思えてきます(言い過ぎかもしれませんが)。また、家族愛の描き方もストレートに過ぎ、演じる俳優たちもなぜか頗る新劇調になってしまっていて(注1)、クマネズミは違和感を覚えざるを得ませんでした。

 主演の夏八木勲は、『アンダルシア』とか『ロストクライム』で見ましたが、本作を見るとその演技力はさすがと思わせます。



 また、その妻を演じる大谷直子は、スクリーンで見るのは『肉弾』(1968年)とか『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)以来のような気がして頗る懐かしかったものの、セリフ回しがやや大仰な印象を受けました。

 息子の洋一に扮する村上淳は、『ヘヴンズストーリー』とか『生きてるものはいないのか』など実に様々の作品で見かけましたが、どのような役柄でもうまくこなしてしまう得難い俳優だなと思いました。




(2)本作は、いつもの園監督の作品とはどうも様子が違うなという気が強くしたので(注2)、「映画『希望の国』原作 〝半ドキュメンタリー〟小説」と帯にある小説『希望の国』(園子音著:リトルモア、2012.9)に目を通してみました。
 実際のところ、この小説は、シナリオの展開の中に、メイキングを明かす文章が織り込まれているのです(あるいは、逆に、メイキングに触れた文章にシナリオが埋め込まれていると言った方がいいかもしれません)。
 むろん、このメイキングの部分もまたフィクショナルな要素を持っているのかもしれません。でも、ここではドキュメンタリーと受け取っておくこととします。
 そうすると、次のような言葉に注意が向きます。
 「テレビでみんなが見て知っているありきたりな物語……それをもっと深く作りたい」(P.20)。
 「みんなが想像できる単純な物語を更に深めたい。かといって想像だけに頼りたくもない。 現実に起きていることを想像力で作って行こうとすれば、薄っぺらな嘘になる」(〃)。
 「自分の目と耳と手足で、具体的に知ったことを物語にしなくてはいけない」(P.21)。
 どうやら、こうした基本的なコンセプトに立ちつつ、映画の舞台を「近未来の20XX年のとある日」(P.44)の長島県とし、「ナガシマとは、長崎と広島、そいて福島の三つの地名を重ねている」(P.43)と架空の場所と日時としているようです。
 すなわち、「福島で起きた全てのこと―いろいろな場所で、色々な経験をした人々の声を、一つの家族の物語、一つの町の物語にできるだけ、集約してい」って(注3)、「具体ばかりの事実ばかりの話」、「空想や妄想の混じりっ気なしの本当にあった話」ばかりを語ろうとシナリオを作っていったものと考えられます(P.46)。

 確かに、映画で描かれている個別のエピソード自体は、つきつめていけば、どれもこれも本当にあった話に基づいているのでしょう。
 でも、現実の日時や場所を離れて描こうとすれば(注4)、逆に個別のエピソードに嘘らしさが付きまとってくのではないでしょうか(注5)?
 さらにまた、たとえ個別のエピソードが真実によるものだとしても、それを集めた作品全体が、見る者にリアリティをもって迫るとは限らないのではないでしょうか(注6)?
 それに、ここで描かれているのはすべて真実だと言われてしまうと、見る側の方は、それらをそのままパッシブに受け入れざるを得なくなってしまい、ポジティブに立ち向かう気力が失せてしまいます(また、製作者側の方でも、クリエイティブな面をギリギリまで追及する努力を払わなくなるのではないでしょうか)(注7)。

(3)渡まち子氏は、「原発事故に直面した3組の男女を描く「希望の国」。美しい映像、美しい旋律、目に見えない恐怖の中にも希望がある」として75点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「結論として、「希望の国」は、原発問題を真剣に考え、勉強している人がみてももどかしいばかり。決して我が意を得たりとならないところが残念である。かといってニュートラルな人がこれを見て、原発や放射能について理解を深めたり、興味を持つとも思いがたい。どういう人に勧めたらいいのか、ちょいと考えてしまう」として30点をつけています。



(注1)特に、洋一といずみの夫婦が泰彦の家に最後に戻ってきた際に、庭で洋一が「原発の畜生め」などと叫ぶ場面などは、いかにも新劇調だなとうんざりしました。

(注2)2009年の『ちゃんと伝える』に雰囲気が似ているとの意見もあるようですが。

(注3)さらに園氏は、「架空の県と嘯いて、福島のことばかりを語る。そこにいろいろな町と人の気持ちを詰め込もう」などと述べています(P.46)。

(注4)園氏は、「もしも、あの日を再現しようとすれば、それぞれの場所での固有のドラマに限定される。それがもったいない、一つの場所の再現に限定すれば、色々な真実がこぼれおちてしまう」と述べていますが(P.45)。

(注5)たとえば、大きな地震に襲われた後、原発事故が心配になった泰彦は、チェルノブイリの事故(1986年)に際して購入したガイガーカウンターを物置小屋から探して測りだしますが、福島原発事故後という映画の想定時点においては、簡易の測定器が既にかなり普及していて、そんな古色蒼然とした線量計など使っている人など最早いないのではないでしょうか?

(注6)ここらあたりのことは、話がすごく飛んでしまい恐縮ながら、この間出版された『ヘンな日本美術史』(祥伝社、2012.11)において著者の日本画家・山口晃氏が、次のように述べているのと通じているように思われます。
 「そもそも、写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。そのイリュージョンに「真実」を見るのであれば、別に写実的な描き方ではなく、漫画的な、平面的に描く方法であっても構わないはずです」、「要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか」(P.115)。
 この分の中の絵(あるいは絵画)を「映画」に置き換えてみたらどうでしょう。

(注7)ここらあたりのことは、映画『アルゴ』についての拙エントリの(2)でごく簡単に触れました。



★★☆☆☆




象のロケット:希望の国

終の信託

2012年11月09日 | 邦画(12年)
 『終の信託』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)これまで周防正行監督の作品は、『シコふんじゃった』(1991年)、『Shall we ダンス?』(1996年)、『それでもボクはやってない』(2007年)と見てきていますので、この作品もと思って映画館に出かけました。

 物語の舞台は1997年のある大きな病院。
 映画の冒頭は、大きな川の堤防を、花束を持って歩く女が映し出されて、タイトル・クレジットが入り、次いで、同じ女が「検察庁」の看板が掛けられている建物に入って、事務官に待合室で待つように言われます。
 映画の大部分は、その女性、すなわち、病院で呼吸器内科医として働く折井医師(草刈民代)が、塚原検事(大沢たかお)の呼び出しを受けながらも、1時間近くも待合室で待たされている間の回想として描かれます。
 まず、彼女は、同僚の医師・高井浅野忠信)と長年不倫関係にありましたが、ある出来事がきっかけで簡単に捨てられてしまいます。



 そんなこともあってか、彼女は、自分の患者である江木役所公司)のいかにも誠実な生活態度に惹かれるものを感じて行きます〔具体的なきっかけは、江木にオペラのアリアの入ったCDを手渡されたことです〕。
 さらには、江木の小さい頃の話を聞いたりし、江木に対し好意の念が募っていきます。
 ですが、江木の病状(重い喘息)が次第に昂進し、あるとき、「その時が来たら、なるべく早く楽にしてください」「僕がもう我慢しなくていい時を決めてほしいんです」と江木に言われ、折井も「わかりました。でも江木さんがいなくなったら、私はどうしたらいいんですか」と答えてしまいます。
 そして、2001年になって、江木が、突然心肺停止状態で折井の病院に運ばれます。
 さあ、折井はどのように江木に対応するのでしょうか?
 塚原検事の呼び出しとは、……?

 恋人にすげなく捨てられて自棄的になった主人公の折井医師が、誠実な生き方をする患者の江木に心を惹かれていって、ついには大変なことをしでかすに至る流れがなかなかうまく描き出されているのではと思いました。

 主人公の折井医師を演じる草刈民代は、折井医師の純心さを実にうまく出しているだけでなく、大沢たかおの塚原検事との長時間のやりとりでも破綻なくこなしていて、元バレリーナなことを忘れてしまいます。



 また、喘息患者江木に扮する役所公司は、彼にしてはそれほどの演技力を示さずに済む役柄のような気がしたものの、それでも、喘息の発作が起きて川の堤防で倒れこむシーン(注1)などは印象深いものがありました。



 塚原検事役の大沢たかおは、40分以上に渡る折井医師の取調シーンが圧巻でした。
 映画『桜田門外ノ変』において主役の関鉄之助に扮しているのを見ただけながら、自分の信念をかたくなに信じてそれを貫こうとする人物を演じるにはうってつけの俳優だと思いました。




(2)本作は、周防監督の言によれば、「終末医療」や「検事の取調べ」などの社会的な問題を描き出すことに力点があるわけではなく、折井と江木との「ラブ・ストーリー」を描くことに主たる狙いがあるとのことです。
 でも、たとえそうにしても、折井と江木の関係はプラトニックなものである一方(注2)、「終末医療」や「検事の取調べ」といった問題は現在のところ非常に大きなものがありますから、どうしても後者の方に目が行ってしまいます。
 ただ、「尊厳死/安楽死」については、現在までのところ司法では認められていないので(注3)、塚原検事の取調べは、当局に都合のいい方向に持って行こうと誘導しているのが明らかだとはいえ、大きな問題はないのではと思われます(注4)。

 問題は、折井医師の方にあるのではと思われます。
 というのも、彼女のやることなすことがあまりにも“初心”過ぎる(良く言えば、過度に“純心”でしょうか)のではと思えて仕方がありません。
 元々、同僚の高井との関係も、彼女ほどの歳で、それも長年付き合っていれば、彼が幅広く女に手を出しているくらいなことが分かりそうにもかかわらず、現場を見つけるまで気が付かなかったとは初心過ぎる気がします。
 ですがそれはさておき、いくら、江木に好意を寄せているからといって、江木に安楽死を要請された際に、「はい」と簡単に請け合ってしまうのは、常識的にはなかなか考えにくいことではないでしょうか(注5)?

 そして、最悪なのが、チューブを外してからの折井医師の慌てふためき様(注6)。
 見ながら、クマネズミは、「アレ、この映画は“安楽死”の映画ではないの?」と思ってしまいました。
 逆にいえば、それほど江木を演じた役所公司の苦悶の演技がすごかったわけながら、一方で、チューブを外したらどのような事態になるのかについて、そして予想外の出来事にどう対処すべきかについて、折井医師が何も考えていなかったという点に酷く驚きました。
 これに関しては、このサイトの記事を書いている長尾和宏氏は、「彼女がした行為は全くの殺人と言われて返す言葉が無い」と述べています。

 とはいえ、こうした思いがけない出来事がなく、チューブを抜き取るとすぐに江木が死んでしまったとしたら、それでも刑事事件としては立件され塚原検事載取調は行われるにしても、この映画は全くつまらない作品になってしまったのではないでしょうか?
 あの出来事が描かれているからこそ、人間の死というのはなかなか簡単にはとらえられないものであり、「尊厳死/安楽死」に関しては、確かに、living willを明確化しておくことは大切にしても、決してそれだけで済まされる問題ではないかもしれない、と思いました。

(3)渡まち子氏は、「ほとんど会話劇とも言える構成で、ヒロインの人間性や死生観をくっきりと浮かび上がらせる構成は見事だ。尊厳死は「もし、自分だったら…」と誰もが考えてしまう、非常に同時代性の強いテーマで、作品としての訴求力は大きい。本作がヒロインに下す“裁き”は苦いが、このあいまいさに倫理観が揺らぐ現代日本のビター・テイストが感じられる」として65点をつけています。



(注1)とはいえ、江木に関しては、全体が折井医師の回想のはずですが、このシーンは客観的第3者の視点になってしまっています。

(注2)折井医師は、高井医師とは病院内で性的関係を持つほどですが、その関係は極秘になっていたようで、そして江木とは無論そんなことはありません。としたら、あれだけ美貌の医師ですから、周囲の男が放っておくわけはないと思われるところ、そんな兆候は微塵も見られません。暫くしたら、病院の担当部長になったほどですから、折井医師に人格的におかしなところがあるわけでもなさそうで、なんだか不思議な気がするところです。
 あるいはこうした点は、いくらフィクション仕立てとはいえ、映画の原作(朔 立木氏の同名小説)が依拠した「川崎協同病院事件」〔1998年(平成10年)〕における当事者(このサイトの記事には実名が記載されています)が実在することからくる制約なのかもしれませんが。

 なお、この当事者に対しては、このサイトの記事によれば、2011年10月から2年間の医業停止の行政処分が下されています(当事者は、事件後、病院を退職し、診療所を開いていました)。

(注3)映画の中で、塚原検事が引用する「横浜事件」とは、平成3年(1991年)に起きた「東海大学安楽死事件」でしょうが、同事件に関するWikipediaの記事によれば、「日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた現在までで唯一の事件」とのことです〔その前に、「名古屋安楽死殺人事件」(1961年)がありますが、この事件には医師は関与していませんでした〕。
 そして、その判決では、「被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とした(確定)」ようです〔平成(1995年)7年3月28日〕。
さらにまた、このサイトの記事でも、「今までに日本で安楽死が認められた実例はない」と記載されています。

(注4)何回か、塚原検事が大声で折井医師を威嚇するシーンがありますが、殺人容疑者に対しては、あの程度のことならやむを得ないのでは、という感じがします。

(注5)江木の方も、妻になかなかそんなことを言えないのは妻が「勇気がないから」、などと言って、妻を酷く気遣うわけで、そうした気働きが十分にできる人間なのですから、折井医師に対し、CDを貸してあげたり、「信頼している」と言ったりして好意を持っているのであれば、そんなことを言えば、折井医師を窮地に追い込む可能性があることくらい、よく分かりそうなものです。

(注6)「川崎協同病院事件」に関するWikipediaの記事では、「S医師は患者Aが死亡することを認識しながら、気道確保のため鼻から気管内に挿入されていたチューブを抜き取った。ところが、予想に反して患者Aは身体をのけぞらすなど苦悶様呼吸を始めたため、S医師は、鎮静剤のセルシンやドルミカムを静脈注射したが、これを鎮めることができず、そこで、S医師は同僚医師に助言を求め、その示唆に基づいて筋弛緩剤のミオブロックをICUからとりよせ、3アンプルを看護師に静脈注射させた。注射後、数分で呼吸は停止し、11分後には心拍も停止して患者Aは死亡した」と述べられています。
 こうした経緯もあって、本事件はいわゆる「安楽死事件」として数えられないように思われますが、それでも尊厳死を巡っての事件であることに違いがないように思われるところです。



★★★☆☆



象のロケット:終の信託

アウトレイジ ビヨンド

2012年11月03日 | 邦画(12年)
 『アウトレイジ ビヨンド』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)ビートたけし監督の作品はこれまでも随分と見ていることもあり、特に前作の『アウトレイジ』が面白かったので、遅まきながら映画館に出かけてみました。

 物語は、警察官の死体の入った乗用車を海から引き上げるところから始まります。
 どうやら、暴力団「山本会」を内偵中だった刑事が、殺されたようです(注1)。
 今や山本会は、かなりの大組織になっていて、初代会長を排除して二代目会長の座に就いた加藤三浦友和)と、大友組(組長大友ビートたけし)を裏切ってその右腕となった若頭の石原加瀬亮)とが会を牛耳っています(注2)。



 これを快く思わない古参幹部の富田中尾彬)は、関西の暴力団「花菱会」のサポートを受けようとしますが、逆にそのことを知った加藤会長(注3)に射殺されてしまいます。
 こうした動きの背後でいろいろ画策しているのが、“マル暴”刑事の片岡小日向文世)(注4)。
 前作において刑務所内で殺されたはずの大友ですが、実は生きていて(注5)、片岡は、この大友を使って加藤や石原に揺さぶりをかけようともします(注6)。



 “マル暴”刑事の片岡としては、巨大組織になった山王会の力をなんとしてでも削いで手柄を立てたいのでしょうが、果たしてそんなことが上手くいくのでしょうか、大友の運命はどうなるでしょうか、……?

 本作も、前作について申し上げたのと同様、「組の名前と組同士の関係、誰がどの組に所属しているのかさえ把握してしまえば、今回の北野作品はとても理解が容易で、映画自体を娯楽作品として楽しむことができる」ように思われます。
 そして、前作について『ソナチネ』との違いを申し上げましたが、本作のラストにおいて、ビートたけし扮する大友が、仲間の葬儀の際に、片岡から拳銃を受け取った後(注7)、山王会と花菱会の面々が打ち揃う葬儀場に乗り込みますが、『ソナチネ』において、主人公(ビートたけし)が、自分たちを抹殺しようとする組織の本拠にマシンガンを持って乗り込んでいく姿を彷彿とさせました。

 さらに、本作においては、前作同様、これまで北野作品では見かけなかった俳優とか、「ヤクザ映画には向いていなさそうな俳優」が多数見られるのも興味深いことです。
 前作との重複を避けると、花菱会の若頭に扮する西田敏行、同会幹部の中田役の塩見三省、片岡の部下の刑事を演じる松重豊、ヒットマンの高橋克典、などなど。

(2)この映画を見て、登場人物たちの怒り方に面白さを覚えました。
 なかでも、花菱会若頭の西野に扮した西田敏行とか、同会幹部の中田役の塩見三省の怒りの形相には、年期が入っているとでもいったらいいのか、すさまじいものがあります。



 これに対して、主役の大友役のビートたけしの怒りの面貌は、また違った感じです。
 怒りをそのまま派手に表に出さずに、押さえていながらも、心の中は激しく燃え立っているというところでしょうか。



 ありきたりの連想で恐縮ながら、奈良の東大寺戒壇院の四天王とか、新薬師寺の十二神将といった仏像の忿怒の面構えを思い出してしまったところです。
 例えば、西田敏行や塩見三省の怒りの様は、十二神将の「伐折羅大将」に似ているように見えます。



 また、ビートたけしの怒り方は、戒壇院の四天王のうちの「広目天」でしょうか。



 こんな変なことを思いながら本作を見るのも、また楽しいかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「ヤクザ社会の壮絶な下剋上のその先を描く「アウトレイジ ビヨンド」。ヤクザ社会と政治の世界は実に良く似ている」として60点を付けています。



(注1)山本会の若頭・石原は、国土交通省の大臣や課長にも手を伸ばしていたところ、それを内偵中だった刑事が殺されたわけながら、映画ではこの側面は余り展開しないまま終わります。
 ただ、暴力団内の若い者が警官殺しの犯人として差し出されると、片岡は、その若い者を無理矢理犯人に仕立て上げますが、こんなところは、昨今の“でっち上げ”捜査批判というところでしょう。

(注2)加藤会長は、「これからは実力主義でいく」といい、若頭・石原も「これからはデカイ金を動かす」といったりして、まるでどこかの国の金融機関の感じです。

(注3)花菱会の会長(神山繁)から、富田がやってきた旨の連絡が入ります。これは、花菱会と山王会とが盟友関係(仙台会長の時に和平協定を結んでいます)にあることによってなのですが、実は、花菱会も東京進出を狙っているようなのです。

(注4)山王会の古参幹部の富田が、花菱会の幹部と会えるようにお膳立てしたのも片岡なのです。
 その前に富田に会い、片岡は、「最近の山王会はやりたい放題で困る。加藤会長が引退し、富田さんに変わってもらいたい」などと焚き付けます。

(注5)大友が殺されたとの情報を流したのは片岡のようなのです。

(注6)若頭の石原は、大友組を裏切って山王会に入ったのですから、大友が仮出所したことを知ると恐怖に駆られます。また、加藤会長も、大友組潰しを指令した張本人なため、大友が恨みを抱いてもおかしくはありません。
 ただ、大友自体は、仮出所後は、暴力団に戻ろうとはしなかったのです。
 そこで、片岡は、大友を刑務所内で刺したはずの木村(中野英雄)―先に出所しています―を大友に料亭で引き合わせ、木村の力で大友を加藤会長に立ち向かわせようとします。

(注7)大友は、片岡から受け取った拳銃でまず片岡を撃ち殺してしまい、それから葬儀場に向かうわけですが、……。



★★★☆☆


象のロケット:アウトレイジ ビヨンド

中島みゆき 歌姫 

2012年10月21日 | 邦画(12年)
 『中島みゆき 歌姫 劇場版』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

 中島みゆきのことですから、映画にしてもなかなかチケットが取りにくいのではと思っていましたが(2週間限定公開でもあり)、実際には予約は至極簡単で、当日も半分くらいの入りだったので、意外でした。
 でも、いくら何でもご本人がもう60歳ですから(注1)、最早そんなに入りを見込めなくなったのかもしれませんし、料金も一律2,000円と高目なこともあるでしょう。
 それに、実際の映像は、2004年にロスのソニースタジオで製作されたものが中心で(注2)、それにいくつかのPVが添えられているだけですから(注3)、中島みゆきファンには新鮮味が乏しいとみられたのかもしれません(注4)。
 特に、PVの方は、大きな画面にすると粒子の粗さが目立ってしまい、また映像自体もありきたりな感じのもので、なくもがなと思いました。
 とはいえ、本作のメインとなるロスでのライヴ映像の方は、大画面でも映りはシャープであり、かつ大音量ですから、さすがは中島みゆきと至極感動してしまいました(注5)。




(注1)とはいえ、最近でもドラマとかラジオに出演したり(こんな映像もあります)、またツアーも行なわれるようで、元気一杯です(24日には、ニューアルバム『常夜灯』もリリースされます)!

(注2)「中島みゆきライヴ! Live at Sony Pictures Studios in L.A.」としてDVDが販売されています!

(注3)YouTubeで見ることができるPVもあります(「見返り美人」、「空と君のあいだに」、「愛だけを残せ」、「一期一会」、「恩知らず」)。

(注4)ただ、最後のオマケとして、最新のライヴ映像〔2011年東京国際フォーラムにおける「時代-ライヴ2010~11-」〕が付けられていまて、これは拾い物です。
 なお、映画の中で歌われた歌はこのサイトに記載されています。

(注5)特に、大好きな「歌姫」は8分以上もあり素晴らしいものがあります(歌だけは、このサイトで聴くことができます)。



★★★☆☆