映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

寄生獣

2014年12月15日 | 邦画(14年)
 『寄生獣』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)2部作の前半に過ぎないということで躊躇しましたが、まずは見てみようと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公・新一染谷将太)は、母親(余貴美子)の女手一つで育てられてきた高校生。
 ある日、彼の右手に寄生獣が入り込んでしまい、以来、新一とその寄生獣・ミギー(声:阿部サダヲ)とは共存関係に。



 新一に親しみを感じている同学年の村野里美橋本愛)は、そうした状況は知らないながらも、最近の彼がどこかオカシイと感じるようになります。



 そんなところに、新しく村野のクラスの担任として赴任してきた田宮良子深津絵里)に寄生獣が取り付いていることがわかり、新一は田宮と対決します。



 田宮は、新一とミギーとの関係に興味を示すも、田宮が連れてきた警官Aと男(池内万作東出昌大)は、いずれも寄生獣が取り付いていて、新一たちに敵意をいだき、現に攻撃してきます。
 ここを起点に、新一(そしてミギー)は寄生獣たちとの戦いに入っていくのですが、さてどんな展開になるのでしょうか………?

 本作は、主人公・新一と、その右手に棲みついた寄生獣・ミギーを巡るお話の前半部分。新一を演じる染谷将太がその持ち味を十分に発揮しており、またヒロインの橋本愛や深津絵里、それに今売り出し中の東出昌大なども活躍し、なかなか面白い仕上がりを見せています。次作の後半部分では、どんなに話が拡大してクライマックスになるのか、十分期待させます(注2)。

(2)とはいえ、映画の冒頭では、虫状の寄生獣が深海で育ち(注3)、ガントリークレーンが設置されている港湾の岸壁から這い上がってコンテナの中に入り込み、トラックに乗って街に行き、寝ている人間の耳の中に侵入するという経過をたどりますが、実際にはその寄生獣は大変な能力を持った知性体であり(注4)、また仲間同士緊密な連携をとっているようなのです。
 イルカが優れた知性を持っていると言われていますから、知性のことはさておくとしても、寄生獣は深海生物ということからエラ呼吸をしているに違いありません。そうなると、寄生獣は地上でどうやって呼吸をするのでしょうか?
 また、深海ではプランクトンを食べていたと思われますが、それが地上に出るとどうして人間を捕食するようになるのでしょうか(注5)?
 そもそも、なぜこの時期に来襲することになるのでしょうか?
 ここは、原作のように、宇宙から異星人が地球に突如侵入するとする方が受け入れやすいのでは、と思いました(注6)。

 上記とも関連するかもしれませんが、本作は、特殊日本での出来事になっています。
 『インターステラー』でも感じたことながら、映画製作国限定の話とするのであれば、それなりの説明があってもいいのかなと思いました(注7)。

 なお、原作との違いで言えば、本作の新一はシングルマザーに育てられていますが、原作では父親も存在するのです(注8)。
 といっても、原作を刈りこんで映画化するにあたって、これは適切なやり方ではないかと思います。

(3)本作については、下記の(4)で触れる前田有一氏が、「失敗作に終わった」として25点と極めて低い評点を付けています。
 その理由として挙げるのは、次の点。
a.「キャスティングの違和感」。
b.「この物語をお気楽なバディムービーにしてしまったこと」。
c.「読者として、(監督が)作品の胆を理解されていない悲しさを感じる」こと。

 ですが、本作の面白さに堪能したクマネズミとしては、とても前田氏の見解を受け入れるわけには行きません。

 最初のaについて、前田氏は、「具体的には染谷将太、橋本愛、阿部サダヲの3主要人物ともにまずい」と述べています。
 特に橋本愛につき、「気弱な同級生の主人公に恋をする母性豊かなヒロインにはまったく見えないところが痛い。むしろスマホでぎゃるるでもやっていそうな正反対のルックスであり、いかに人気者とはいえ村野里美役には適さないというのは万人の認めるところであろう」と誠に手厳しい書きぶりです。
 しかしながら、「「人間らしさ」と母性の関係性というものが、重要な物語の要素となっている」と前田氏が麗々しく記している点は、本作を見れば誰でもがすぐに分かる事柄に過ぎないにせよ、だからといって、どの登場人物もその「要素」を持っていなければならないということにはなりません。
 本作では、上で記したように、原作にある父親を描き出さないようにしてまで母親の存在を強調しているのですから、その上さらに村野を「母性豊かなヒロイン」などとしてしまったら、観客の方で食傷してしまうことでしょう!
 ここは「スマホでぎゃるるでもやっていそうな正反対のルックス」の橋本愛で結構であり、クマネズミは、前田氏のように、次作の完結編における彼女が「少年漫画きってのエロさ」をどう演じるか「大きな期待を持って見守っていく」ようなことはしないつもりです(注9)。

 次のbについて、前田氏は、「ひらたくいうと、新一にとってのミギーが、ちょっぴり変わったお友達、になってしまっている」と述べています。
 この点は、原作をどう読むかという点に関わることであって、前田氏のように、「ごく平凡な新一は人間らしさの象徴で、一方寄生生物であるミギーは冷酷な自然界の摂理そのもの」であり、「互いの価値観はなかなか相容れない、理解しあえない関係であるがゆえに、サバイバルの場ではきわめて強力な補完関係となっている」と読み取ることも可能でしょうが、また山崎貴監督のように、「僕は原作を読んだ時から可愛いイメージでした」と言うことも十分に可能でしょう(注10)。
 この点についてもクマネズミは、他の人間の脳に入り込んだ沢山の寄生獣が「冷酷な自然界の摂理そのもの」を体現し、人間とは「理解しあえない関係」となっているのですから、ミギーにまで同じような行動をさせたら、作品がひどく単調なものになってしまうと思って、本作における新一とミギーの関係を肯定するものです。

 それに、一方のミギーは新一の脳内に入り込むのに失敗したという中途半端な状況にあり、他方の新一も、ミギーの体の一部が体内に残ってしまったために(注11)、身体も精神も変質しているわけで、両者が「理解しあえ」るのもそんなにおかしくないと思います。

 この点に関連して、前田氏は、「新一ばかりがどんどん強く成長していき、あっというまに新一>ミギーになってしまう」と述べています。
 ですが、劇場用パンフレット掲載の「コメント」で、脚本の古沢良太氏は、「前編は、いわば新一の物語。普通の少年がパラサイト(寄生獣)と出会って変貌してゆく話です。個人的には、パラサイトと混じったこと以上に、極限の経験と悲しみを経た「狂気」と「覚悟」が彼を変えていったのだと考えています」と述べていて、そのようにストーリーが展開することによって、この前半部分はそれ自体がまとまりのある一つの作品として受け止めることができるように思われます(注12)。

 最後のcは、上記のaとbとを含んだ全体評というべき点でしょうが、ここには、映画はその原作と原則的に同一でなければならない、という前田氏の基本姿勢が伺えます。
 ですが、クマネズミは、これまでも繰り返し申し上げていますように、映画作品とその原作とは別物ではないかと考えており、こうした前田氏の姿勢には基本的に疑問を感じます。

(4)渡まち子氏は、「人間とは何者か、人類と他者との共存は可能か、などの哲学的テーマは完結編に持ち越されたが、そこに母性をからめてどのように描いていくのかが非常に気になる。完結編に大いに期待したいところだ」として70点を付けています。
 これに反して前田有一氏は、「岩明均の原作コミックを実写映画化した「寄生獣」はこの秋一番の大作として期待される話題作。だからこそ大ヒット請負人の山崎貴監督で挑んだわけだが、残念ながら失敗作に終わった」として25点しか付けていません。
 相木悟氏は、「賛否両論うず巻く人気漫画の映画化市場に、屈指のクオリティを誇る一本の登場である」と述べています。



(注1)本作の原作は、岩明均氏の漫画『寄生獣』(講談社文庫:1と2以外は未読)。
 監督は、『永遠の0』の山崎貴。

(注2)俳優陣について、最近では、染谷将太は『TOKYO TRIBE』、深津絵里は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』、阿部サダヲは『謝罪の王様』、橋本愛は『渇き。』、東出昌大は『0.5ミリ』、余貴美子は『武士の献立』で、それぞれ見ました。

(注3)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、山崎監督は、「空からのシーンをそのまま映画で描写すると異星人と誤解されそうだと思ったんです。でも、地球から送り込まれたのかも?というコンセプトが面白かったので、それをより確実に表現するために深海生物をイメージのベースにしました」と述べています(どうして「異星人」と誤解されてはいけないのか、クマネズミにはよくわかりませんが)。

(注4)寄生獣は、様々なものに変身できる能力とか、ものすごい攻撃能力などを持っていますが、それらの能力は、深海においてどのように活用されているのでしょうか?
 そもそも、深海においてはどんなものに寄生しているのでしょうか?
 深海にいた時は使わなかったというのであれば、そうした能力は退化してしまうのではないでしょうか?

(注5)ミギーは、新一が食べるもので満足していますから、寄生獣にとって人間の捕食は必ずしも必要ではなさそうです(田宮良子の寄生獣も、人間と同じ食べ物を食べていると言っています)。
 そもそも、人間を食べてばかりいたら栄養に偏りが生じてしまい、寄生獣も宿主の人間もすぐに病気になってしまうのではないでしょうか?

(注6)原作漫画の冒頭(文庫版1のP.11)では、空から「テニスボールくらい」のものがいくつも降ってきて、それが「パクン」と割れて、中から寄生獣が這い出てきます。
 また、新一はミギーに対し「宇宙人め」と言ったりします(文庫版1のP.59)。

(注7)原作漫画では、例えば「ひき肉(ミンチ)殺人―そう呼ばせるほどずたずたに引き裂かれた肢体が“世界各地”でいくつも発見されていた」(文庫版1のP.90)というように、一応、地球規模の出来事の一つとして物語が描かれています。

(注8)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、山崎監督は、「裏テーマに“母親とは何か”というものもあったので、その部分を強調するためにもそういう設定(新一の父親は出さない)に変えることにしました」と述べています。

(注9)むろん、前田氏の述べているようなことが次作において見ることができるのであれば、それはそれで嬉しい限りとはいえ、そうでなくとも何の問題もないと思っています。

(注10)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューから。
 なお、同パンフレット掲載の「コメント」で、脚本の古沢良太氏は、「ミギーはコメディキャラでもあ」り、「恐ろしいのにカワイイ、冷酷なのに可笑しい、というのがミギーの魅力ではないでしょうか」と述べています。
 それに、原作においても、例えば、喫茶店で新一が村野とデートした時、彼女が「生き物は好きだよ、ヘビはダメだけど」と言うと、右手のミギーはペニスに変身して、新一が驚き慌てることになる場面(文庫版1のP.62)が描かれたりしており、決して「理解しあえない関係」というような杓子定規なものとなっていないように思います。

(注11)寄生獣に殺された新一を蘇生させようとミギーが新一の体内に入り込んだために。

(注12)また、前田氏は、「彼が初めて戦闘参加することになる展開も早すぎていけない。そんなに簡単に、平和国家日本のヘタレ少年が、人間を殺せるわけがない。殺そうと決意できるはずがない」と述べていますが、それは今の青少年をあまりにも見くびった一方的な見解ではないか、と思います。
 前田氏によれば、「その時点での二人の関係性は圧倒的にミギー>新一」であるべきなのでしょうが、別に「新一=ミギーの関係性」だからといって、新一が人間を殺せないわけではないいのではないでしょうか?
 それに、新一が、警官のAと対峙するに際しては、その前に中華料理店の「万福」において、ミギーが寄生獣と戦うのを経験しているのですから、前田氏が「彼が初めて戦闘参加することになる展開も早すぎていけない」と言うのも当たっていないように思います。
 また、原作漫画においても、ごく最初のほうで、ミギーは「これからはお互い協力しあい生きることだ/それ以外に道はない」と(文庫版1のP.51)、本作同様に「新一=ミギーの関係性」がほのめかされているのです〔文庫版の2になると、新一は「おれはもう……ミギーのこと、敵だなんて思ってないよ」と言い出します(P.144)〕。



★★★★☆☆



象のロケット:寄生獣


想いのこし

2014年12月08日 | 邦画(14年)
 『想いのこし』を渋谷TOEIで見ました。

(1)長目の作品が続いたため、少々肩の凝らないものをということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の初めでは、一方で、主役の本田ガジロウ岡田将生)というダメ男の暮らしぶりが描き出されます。
 ガジロウは、ライブ会場の外でチケットを売り捌いて手数料を受け取るというダフ屋であり、それで手に入ったお金で女の子を取っ替え引っ替えしながら、「結婚なんてやめておけ、何が面白いのか」、「俺が他人と暮らすなんてありえない」、「子供のための人生なんて悲しいでしょ」などとうそぶいています。

 他方で、シングルマザーのユウコ広末涼子)の生活ぶりも描かれます。



 家の台所で作業をしていると、一人息子の幸太郎巨勢竜也)が帰宅。
 ユウコは、逆に家を出るため、「ご飯炊けているから、ハンバーグを温めて食べて。塾に行きなさいよ」と言い、さらに「最近どう?」と訊くと、幸太郎が「まあ順調だよ」と答えるので、「そこは、お父さんに感謝ね」と付け加えます。
 ユウコが玄関を出ると、外ではジョニー鹿賀丈史)が運転する車が待っています。車には既に、ルカ木南晴夏)やケイ松井愛莉)が乗り合わせています。

 車が向かった先は、ポールダンスのステージがあるキャンディー・ホール。
 ユウコ、ルカ、ケイはそのホールでポールダンスを踊るダンサー(注2)であり、ジョニーは、運転手兼DJ(注3)なのです。

 今夜は、結婚してダンサーを辞めるルカの卒業公演ということで、3人は張り切ります。
 公演が終わってから、楽屋で、ユウコはルカに、「結婚して家族を作るのがルカの夢だったんだから、頑張ってね」と激励します。

 そして、3人はジョニーの車で帰途に。
 丁度そこへ、ダフ屋の元締めから受け取った札びらを数えているガジロウが。
 突然の風に一枚のお札が道路の方に吹き飛ばされ、それを拾おうとして、ガジロウは慌てて道路に飛び出しますが、ジョニーが運転する車に跳ねられます。
 ガジロウを避けようとジョニーは慌ててハンドルを切ると、対向車線に車が飛び出してしまい、運悪くやってきた車と衝突。

 さらに、病院の場面。
 ガジロウはベッドに横たわっていますが、どうやら助かる見込み。
 他方、ユウコ、ルカ、ケイ、それにジョニーは、自分らの遺体が運びだされるのを眼にします。



 なんと、彼らは、車の衝突によって即死してしまったのです。
 さあ、これから一体どんな展開になるのでしょうか、………?

 本作は、同じ車に乗っていて交通事故に遭って死んでしまった4人が、突然のことなので現世に未練があって成仏できずにいたところ、交通事故の原因を作り出した男にとり着いて、彼を動かして、それぞれが想い残している事柄を実現してもらうというストーリー。こうした話はこれまでも何度も制作されて来ましたから、何か新味でもと思っていたところ、専ら広末涼子のポールダンスが取り柄という作品でした(注4)。

(2)本作のエピソードの一つは、ダンサーを辞めて結婚式を挙げる予定だったルカの話ですが、似たようなストーリーは、最近では例えば、あまり人口に膾炙されなかった『さよならケーキとふしぎなランプ』で見ました。
 そこでは、吉祥寺のカフェ「パーラム」に置かれている不思議なランプに店長が火を灯すと、この世に未練を残す人たちが現れるのです。
 その人達に関係する人が、カフェで待ち受けていて、中の一人が、結婚式の前に交通事故で婚約者を亡くした草本君。
 その草本君と、魔法のランプによって現れた婚約者とのために、カフェにいる皆で結婚披露パーティーを開いてあげるのです。
 その結果、亡くなった婚約者はカフェに現れなくなります。

 とはいえ、両作の間で大きく異なる点は、『さよならケーキとふしぎなランプ』では、草本君ら生きている人間が亡くなっている婚約者の姿を見ることができるのに対して、本作の場合、ルカの姿を目にできるのはガジロウだけだということで、それでルカに代わってガジロウが、ウエディングドレスを着て教会での結婚式に臨むのです。
 勿論、ガジロウがそこまでするのは、ルカが長年金庫に溜め込んでいたお金700万円をもらえるからなのですが。

 ガジロウは、ケイやジョニーの「想いのこし」についても、彼らからお金をもらうことによって実現させていきます。
 ですが、皆の「想いのこし」の一途さにガジロウの精神も次第に変わっていき、最後のユウコの「想いのこし」については、進んで取り組むようになっていきます。
 こうしたガジロウの精神的な成長が描かれている点が、あるいはこの作品のユニークなところといえるのかもしれません。

 それと、本作で何度も描かれるポールダンスですが、例えば、『Somewhere』で見ましたし(ホテルの部屋に出張して演じるものですが)、Wikipediaによれば「ポールダンスはまた舞台芸術としても広く認められ」ているようで(注5)、本作においても、広末涼子らが熱演しています。

(3)渡まち子氏は、「金目当てに死者の願いを叶える青年の心の成長を描くファンタジー・ドラマ「想いのこし」。岡田将生のコスプレ大会か?!」として60点を付けています。
 また、前田有一氏は、「「想いのこし」は、観客にさわやかな涙を流してもらい、増税オタクの総理大臣のせいでよどみきった日常のストレスを洗い流すことを目的とする映画である。その意味では、そこそこ泣ける、コンセプトに忠実なつくりになっている 」として60点を付けています。



(注1)原作は、岡本貴也著『彼女との上手な別れ方』(小学館文庫:未読)。岡本氏は、本作の脚本も手がけています。
 なお、監督は平川雄一朗

(注2)劇場用パンフレットの「Cast」によれば、ユウコは33歳、ルカは26歳、ケイは17歳とされています。そんな年齢にばらつきがあってもチームを組めるのかとも思いますが、それはさておき、ルカはポールダンスの仕事で700万円も貯金できるのでしょうか?また、高校生のケイは深夜勤務ができませんが、キャンディー・ホールの仕事は夜10時前に終わるのでしょうか?

(注3)ジョニーは、消防士を退職した後にDJをやっていて、劇場用パンフレットの「Cast」によれば年齢は70歳とのこと。いささか非現実的な設定のように思われます。

(注4)俳優陣について、最近では、岡田将生は『偉大なる、しゅららぼん』、広末涼子は『柘榴坂の仇討』、鹿賀丈史は『武士の献立』で、それぞれ見ました。

(注5)最近もこんな記事が産経新聞に掲載されました。



★★★☆☆☆



象のロケット:想いのこし

紙の月

2014年12月03日 | 邦画(14年)
 『紙の月』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)東京国際映画祭での話題作(注1)ということもあり、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、賛美歌が聞こえるカトリック系の中学校の教室に独り机に向かって座っている女生徒の姿。机の上には1万円札が5枚並べられていて、彼女はそのお金を封筒に入れます(注3)。
 次いで、時点は1994年となり、通勤電車の中で立っている梨花宮沢りえ)と夫の正文田辺誠一)の二人。新聞を読んでいた正文が、「じゃあ」と言って先に電車を降ります。



 さらに、場面は変わり、わかば銀行の制服(外回り用)に着替えた梨花が、自転車に乗って、顧客の平林石橋蓮司)の家に行きます。
 梨花は「4年目になって、パートから契約社員になりました」などと言い、国債の利点を説明します。「それじゃあ買うよ」と言った平林が、お茶を淹れようと台所に行った梨花の後を追うと、丁度彼の孫の光太池松壮亮)が顔を出します。
 梨花が銀行に戻って平林と契約出来たことを告げると、支店次長の井上近藤芳正)が褒めてくれます。
 他方で、支店のベテラン事務員の小林聡美)が、窓口のテラー・相川大島優子)に事務ミスを指摘し注意します。
 そうこうするうちに、19年勤務したベテラン事務員(梨花の前に平林を担当していました)の送別会が終わり、電車に乗ろうと駅に行くと、梨花は偶然光太に出会います。
 これが一つのきっかけとなって事件が引き起こされるのですが、果たして事態はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作で主人公が引き起こす事件は、これまでも類似の事件が何度もマスコミを賑わせていますから、それほど新鮮味はありませんし、まして、男に貢いで破綻してしまった女というように主人公を捉えてしまえば、TVのワイドショーを見ているも同然になってしまいます。とはいえ、本作はほんの少し別の角度から見ることもできるような気がして、その意味からしたらなかなか面白いなと感じました。

 主演の宮沢りえは、『謎解きはディナーのあとで』での印象が強かったので期待したのですが、さすがに素晴らしい演技で見る者を魅了します。
 また、大島優子は、この記事を読むと散々ながら、本作での演技はなかなかのものであり、今後が十分に期待されます(注4)。

(2)上で触れた本作の冒頭のシーンで、中学生の梨花が机の上にひろげていたお金は、その後のシーンから、父親の書斎の机に置かれていた財布から抜き取ったものであることがわかります。梨花は、それを封筒に入れて、教室の後ろに設けられている募金箱の中に入れるのです。
 元々、そのお金は貧しい国の子どもたちに贈られるのですが、学校の方では、大きな金額の寄付をしてひけらかしたりしないよう、あくまでも慎ましく行うように生徒に言っていました。
 最初のうちは、寄付を受け取った貧しい子供たちからお礼の返事が来て、読んだ女生徒たちが喜んだりしていましたが、そのうちに熱気が冷めて募金に皆の関心がなくなってしまいます。
 そんな時に梨花が5万円もの大金を投入したために、募金のプログラムは中止になってしまいます。
 梨花はそれが不満で、皆の前で、「何がいけないのかわかりません」とシスターに反論します。

 このエピソードは、原作では小さな扱いに過ぎず、またその意味合いも本作とは違っている感じがします(注5)。
 反対に本作では、冒頭と終わり近くとラスト間際という極めて重要な場所に、一つのエピソードがわざわざ3つに分割されて描き出されていて(注6)、まるで、梨花が事件を引き起こした動機はこれだよと言っているような感じを受けます。

 ここからはいい加減な議論に過ぎませんが、クマネズミには、梨花は、効率的に使われておらず眠っているお金があったら、それをもっと良い目的に向けて効率的に使っても構わない、という考えを持っているように思えました。
 中学生の時のエピソードについては、寄付を受け取った子供たちからの手紙を読むことが嬉しく幸福になるのであれば、それをもっと味わうために、必要なさそうに無造作に投げ出されている財布からお金を掠め取っても何の問題もないのではないか、と梨花が考えたような気がします。

 それと同じように、梨花は、スグに露見してしまうことは十分に承知のうえで、「社会常識」を投げ打って、束の間の自由の気分をお金をふんだんに使って(注7)味わってみたかったのではないでしょうか(注8)?

 さらに言えば、至極細かい規則でがんじがらめになっている金融機関の現場では(注9)、ちょっとしたきっかけから、主人公のような派手に「自由」を求める女性(注10)が現れてもそんなに不思議ではないように思われ、特に、映画『25 NJYU-GO』が参考にしたと思われる「長野年金基金横領事件」では24億円もの横領事件でしたから(注11)、金額的にもありうることではないかと思います(注12)。

(3)渡まち子氏は、「平凡な主婦が起こした巨額横領事件の顛末をスリリングに描くドラマ「紙の月」。堕ちていくことによって自分を解放するヒロインを宮沢りえが好演」として65点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「目前の大金が紙切れの月ほどにも実在感のなかった日々の息苦しさや不満を逃れるように、大金横領に走った主婦に満たされるものはない。その不満からの解放を求めるにはひたすら駆けるしかないだろう」などとして★3つ(見応えあり)をつけています。
 北小路隆志氏は、「お金は善意や悪意を持たず、空っぽな神である。そして梨花は身近にお金に触れることで、それが誰のものでもないと知ってしまい、終わりなきお金の運動の化身となるのであって、彼女のアクション=行動も善悪の彼岸にある。本作は、現代資本主義への優れた考察でもある」と述べています。



(注1)今回の東京国際映画祭で、本作は「観客賞」を、主演の宮沢りえは最優秀女優賞を受賞しました。

(注2)本作の原作は、角田光代著『紙の月』(ハルキ文庫)。
 監督は、『クヒオ大佐』、『パーマネント野ばら』、『桐島、部活やめるってよ』の吉田大八

(注3)その中学生が後の梨花となるようです。
 また、机の上には、貧しい男の子の写真が置かれていますが、その頬に大きな傷があります(同じ傷痕を持った青年に、ラストで梨花はタイで出会うことになります!)。

(注4)俳優陣について、最近では、宮沢りえは『謎解きはディナーのあとで』、池松壮亮は『海を感じる時』、大島優子は『闇金ウシジマくん』、小林聡美は『マザーウォーター』、田辺誠一は『ジーン・ワルツ』、近藤芳正は『WOOD JOB!(ウッジョブ)』、石橋蓮司は『ふしぎな岬の物語』で、それぞれ見ました。

(注5)原作では、第4章の「岡崎木綿子」の節で6ページにわたって書かれているに過ぎません。それも、梨花が募金プロジェクトに投入しているお金は「月に50万とも100万ともいわれていた」とされ、贈った先も「6人」とされています。なぜそんなにまでするのかという岡崎木綿子の問に対し、梨花は、「(寄付をもらった)子が一生(感謝をしなければならないという)重荷を背負うのなら、私は一生この子の面倒を見なければならない。私のできる範囲内でそうしなければならない」と答えます(文庫版P.205)。

(注6)上記の「注3」で触れた青年のシーンまで加えると4つに分割されています。

(注7)梨花は、「お金は偽物であり、本物に見えて本物じゃない。偽物だから壊してもいい。そう思ったら“自由”になった感じ」とベテラン事務員の隅に語ります。



(注8)それも、かなりお金を貯めこんでいる老人の平林とか、認知症気味のたまえ中原ひとみ)や外車を買ったり世界一周クルーズに行こうかと言ったりしている夫婦らに、偽の預金証書を掴ませてのことなのですから、お金の一層の効率的な使い方と梨花には思えるのではないでしょうか?

 特に、光太は、平林について、ケチで自分の学費も出してくれない、そのためサラ金から150万円も借りてしまった、と梨花に打ち明けます(尤も、平林老人に言わせれば、「あいつは借金まみれで、金をたかりに来る。あいつに金を渡すくらいなら、女に使うよ」なのですが)。

 その光太ですが、原作によれば、彼の方から梨花に対して何度もアプローチしているのです(P.119とかP.135など)。その上で、「梨花が光太と関係を持ったのは、撮影現場に遊びにいくようになってから3ヵ月ほどのちのことである」(P.146)とされます(それも光太の部屋で)。
 他方、本作の方では、送別会があった日とは別の日の夕方、電車のホームの反対側にいた二人が互いに気がつくところ、梨花の方が光太がいるホームにやってきて、二人は同じ電車に乗り込み、スグにラブホテルに入ってしまいます。



 まるで、梨花の方が光太を積極的に誘って関係を持ったような感じなのです。
 それに、光太に女子大生の恋人がいるとわかった際、なおも関係を続けようとする梨花に対して光太が「それは無理だよ」と言うと、梨花はいともアッサリと「じゃあおしまい」と宣言します。
 梨花は、こういう関係が長続きしないことを十分に認識しながら、あくまでも主体的に行動しているように見えます。

(注9)梨花には子供がおりませんし、また夫の正文が彼女の自由を束縛するような亭主関白でもありません。彼女が“自由”ではないと感じるとしたら、職場関係でしょう(尤も、嫌なら、辞めて元の専業主婦に戻ればいいだけのことですが)。
 なお、原作では、もう少し梨花の夫のことが書かれています〔「正文は言葉数は少ないが、おだやかでやさしい男だった」(P.69)が、「夫婦間に「そういうこと」はまったくないままだった(P.95)〕.。

(注10)ラストの会議室の場面で、ベテラン事務員の隅が梨花に対して、「お金なんてただの紙切れ。でもお金で“自由”は買えない。あなたが行けるのはここまで」と言うと、梨花は、近くの椅子を手にして窓ガラスを叩き割り、そこから外に飛び出して走りに走ります!
 そして、日本を飛び出してタイに現れます。
 原作では、当局者が現れて「パスポートを拝見させてもらってもいいでしょうか?」と言い、梨花は「ここまでだ。これで終わりだ」と梨花は観念しますが(文庫版P.348)、本作のラストでは、警官が市場に現れるものの、梨花は姿をくらましてしまい、捕まったかどうかわかりません。本作の範囲内では、“自由”のままではないでしょうか?
(尤も、元々、あのような事件を起こした梨花が、無事に日本を出国できたとは考えにくいところではありますが)

(注11)事件の現場は銀行ではありませんし、犯人も男性ながら、梨花と同様にタイに逃亡しました!

(注12)このサイトの記事を読むと、本作と類似の事件が過去に何度も起きていることがわかり、驚きます。



★★★★☆☆



象のロケット:紙の月

0.5ミリ

2014年12月01日 | 邦画(14年)
 『0.5ミリ』を有楽町スバル座で見てきました。

(1)この映画については、先般同じ映画館で『太陽の坐る場所』を見た際、ロビーに置いてあるチラシで知りました。
 その後、フジテレビの『ボクらの時代』(この動画)、BS朝日の『ザ・インタビュー』、テレビ朝日の『徹子の部屋』などで本作の主役を演じる安藤サクラ(注2)を立て続けに見たこともあって、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は高知県。
 主役のサワ安藤サクラ)は介護ヘルパーをしていて、老人の昭三織本順吉)の面倒を見ています。
 ある日、その家の主婦・雪子木内みどり)から、「おじいちゃんと一緒に寝てあげて」と頼まれます。
 サワは、支払いは十分すると言われたこともあり、2階で添い寝することに同意しますが、その夜、昭三がしつこくサワに迫ってくるので払いのけたところ、足元に置かれていたストーブが倒れて火事になってしまいます。
 慌てて階段を1階に駆け下りると、何も言葉を喋らない子供のマコト土屋希望)が、首吊り自殺した母親・雪子の死体を呆然と見上げている始末。
 そんな事件に巻き込まれたサワは派遣会社をクビになり、寮も追い出されてしまいます。

 サワが高知の街をあてもなく歩いていると、カラオケ店をホテルと間違えてフロントで言い合いをしている康夫井上竜夫)に遭遇します。
 うまく店員(東出昌大)と話を付け、カラオケをしながら一晩楽しく騒いだサワは、康夫から感謝され、彼のコートと1万円を手にすることに。



 そこから、サワの老人を巡る遍歴が開始されるのですが、さあ一体どんなことになるのやら、………?

 本作には認知症気味の老人が何人も登場し(注3)、また主役のサワ(安藤サクラ)はヘルパーで、そうした老人を介護したりするのですが、決して今の介護制度の問題点といったものを描いている作品ではなく、まさにキャッチコピーが言うように「前代未聞のハードボイルド人情ドラマ」となっています。特に、主演の安藤サクラの演技が奔放さと繊細さに溢れて実に素晴らしく、さらには老人役の津川雅彦や坂田利夫らがしっかりと脇を固めているために(注4)、196分とかなりの長尺ながら、おしまいまで大層面白く見ることが出来ました。

(2)本作のタイトルになっている「0.5ミリ」ですが、一体何を意味しているのでしょう?
 この点に関しては、サワが「おしかけヘルパー」をすることになる元教師の義男津川雅彦)が、サワ宛に作成したカセットテープの中で、「それが集結して同じ方向に動いたのが革命だ」と言っていたと思います。
 ただ、これではよくわかりませんから、原作に当たってみました。
 すると、文庫版には、「極限に追い込まれた人の輝きは極限状態を凌駕し、自己の実存として覚醒され、それは山をも動かす事となる。その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度の事かもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである」とあります(P.174)。
 「山」の捉え方がよくわからないところがあるとはいえ(注5)、作者の安藤桃子は、どうやら人の心“そのもの”を「0.5ミリ」と見ているような気がします。

 さらに、監督の安藤桃子に対するインタビュー記事を読んでみました。
 例えば、この記事では、「監督にとっての0.5ミリは?」との質問に対し、監督は、「答えは無限大にあるものだと思っています。……ですから、自分の0.5ミリを押しつけたくないっていうのはありますが、自分自身としては、0.5ミリは「心の尺度」だと」、「「心の尺度」っていうものが、どこかに確かに存在するんだろうなって。それが、ちょうど “0.5ミリ”。産毛は触れますし、静電気も起きるし、体温も感じる。だけど実際に触れてはいない。1ミリの半分で、間の場所、中間地点のような気がしています」と答えています。
 この答えもよくはわからないのですが(注6)、あるいは心と心の間の“距離”といったものを指しているのかもしれません(注7)。

 心そのものなのか、心と心の距離なのか、いずれにしても「0.5ミリ」というタイトルには、皆が同じ方向にホンのちょっとだけ歩み寄れば世の中がうまくいくといったような意味合いが込められているのかもしれません。
 でもひねくれ者のクマネズミは、そうした解釈はとりたくありません(注8)。
 むしろ、人々が「0.5ミリ」づつ離れてテンデンバラバラの方向に歩いているというのが世の中であって、それでいいのではないかとも思っています。

 そうした観点から本作を眺めると、本作では、「0.5ミリ」という小さな心を持った個々の人間(あるいは、お互いに「0.5ミリ」の距離を置いて勝手な方向に動いている人々)も、一人ずつ拡大してみると決して同じではありえず、それぞれ実に興味深い点を持っている、といった有り様が描かれているように思えてきます。

 例えば、坂田利夫が扮するは、駐輪場に置いてある自転車を千枚通しでパンクさせたり、ベンガル扮する斉藤君に持ち金を騙し取られそうになったりするどこにでもいそうな認知症気味の老人ながら、自分できちんと整備した「いすゞ117クーペ」を隠し持っていたりするのです。



 また、元教師の義男も、定年退職して行く宛がないにもかかわらず、勉強会があると称して鞄を後生大事に抱えて家を出る生活を送っている老人です(注9)。ですが、彼は元海軍将校であり、認知症のレベルが上がってからも、サワに対して、「戦争くらい馬鹿らしいことはない。生きているのが不思議なくらい。戦争で亡くなった人たちは本当に気の毒。相手だってそうだ。なんのためにやっているのか。人間っておかしなものだ」などと長広舌をふるいます。



 こうした様々の老人たちのそれぞれ特色ある行状が、サワを演じる安藤サクラの類い稀なる演技(注10)と、監督の安藤桃子の素晴らしい構想力(注11)とによって、本作では実に的確に活き活きと描き出されていると思いました。

(3)渡まち子氏は、「どこからともなくやってきてどこへともなく去って行くサワは、風の又三郎、あるいはメリー・ポピンズのよう。この映画は、時に可笑しく、時に残酷で、それでも優しい、現代の寓話だ」として80点を付けています。
 山根貞男氏は、「介護という切実な題材を、ユーモラスな人情ドラマとして描き、介護とは何かにも迫る。そんなユニークな映画で、古い男物のオーバーを着た流れ者ヘルパーの主人公の姿には、おとぎ話の味わいもある」と述べています。
 外山真也氏は、「物語が物語を進めるのではなく、行動や画面の劇性によって物語れる技量も含めて、安藤桃子は希代のストーリーテラーである」として★5つを付けています。



(注1)本作の原作は、安藤桃子著『0.5ミリ』(幻冬舎、2011年10月)。
 本作の監督は、同じ安藤桃子(他に『カケラ』を製作していますが未見)。

(注2)安藤サクラについては、これまで『愛のむきだし』、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、『かぞくのくに』、『春を背負って』で見ています。
 その他、『ペタルダンス』はDVDで見ました〔この拙エントリの(3)を参照〕。また、『きいろいゾウ』には声の出演をしています。

(注3)尤も、東田勉氏による『認知症の「真実」』(講談社現代新書、2014年11月)によれば、「認知症」と一纏めに括ってしまうことに問題があり、少なくとも、原因と治療法が異なる4つのタイプ(アルツハイマー型認知症、前頭側頭型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症)に分けて考える必要があるようです。

(注4)出演している俳優の内、最近では、津川雅彦は『偉大なる、しゅららぼん』や『セイジ-陸の魚-』、柄本明は『幕末高校生』や『許されざる者』、草笛光子は『武士の家計簿』、東出昌大は『桐島、部活やめるってよ』、ベンガルは『みなさん、さようなら』で、それぞれ見ました。

(注5)最初に出てくる「山」は大きくて簡単に動かすことができなさそうなものでしょうし、次の「山」は「0.5ミリ」ほどのちっちゃなものという感じではないでしょうか?

(注6)「心の尺度」とは一体心の何を測る尺度なのでしょう?

(注7)こちらのインタビュー記事では、安藤監督は、「0.5ミリは、違う世代の人たちが歩みよれる、ちょうど真ん中にある尺度、心の尺度なんです」と述べています。
 また、こちらの記事でも、「触れない、けど静電気は起きるかも、体温は感じるかも、という距離」と言っています。
 さらに、この記事でも、「人との距離感の取り方とか、人とのコミュニケーションはどんどん掴みにくくなってくる。その距離感を測るのはどんなものなだろうと考えたら1ミリの半分の0.5ミリウぐらいだろうなと思ったんです。触れてはいないけど体温は感じる距離、そして静電気も起きる距離なんです」とあります。

(注8)例えば、太平洋戦争も、様々な要因があるとはいえ、国民が煽り煽られて同じ方向に突き進んだがために突入してしまったのではないでしょうか?尤も、その際に動いてしまった幅は「0.5ミリ」ほど小さなものではなかったかもしれませんが。

(注9)義男の妻・静江草笛光子)が、認知症で寝たきり。サワは、まずはその介護をするということで、義男の家に入り込みます。

(注10)例えば、書店で万引きをした義男に対して、その後ろから「セーラー服着てあげる」と言いながら覗きこむ時のサワの様子に感心しましたし、また、“少年”マコトの父親だという柄本明)がサワの足に触れるとその顔にまたがって気絶させたりもするのです!

(注11)例えば、本作の冒頭の昭三を巡るエピソードでは投げ出されたままになっている雪子の自殺とか“少年”マコトの不思議な感じについては、健を巡る最後のエピソードで説明されるのです。
尤も、十分な説明は与えられず、残余は観客側の想像に委ねられるのですが。



★★★★★☆



象のロケット:0.5ミリ

小野寺の弟・小野寺の姉

2014年11月25日 | 邦画(14年)
 『小野寺の弟・小野寺の姉』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)本作(注1)については、片桐はいり向井理というコンビネーションが秀逸と思え、映画館に行ってきました。

 両親が早くに亡くなったことから、姉のより子(40歳:片桐はいり)が弟の(33歳:向井理)(注2)の面倒を見るという形で20年以上一緒に暮らしてきました。



 より子は、早いところ進にお嫁さんをと願っているものの、進の方は、より子に長年世話をしてもらってきていることもあり、なかなか踏ん切りがつきません。
 そんなところに、進の前に、絵本を作っているという山本美月)が現れ、より子も、働いている商店街の眼鏡屋に出入りする営業の浅野及川光博)と親しく口を利くようになります。
 さあ、これらの関係はどうなっていくでしょうか、………?

 元は戯曲ながら新劇調なところがなく、出演者が皆映画らしい演技を見せており、その上、適度の笑いがアチコチに散りばめられていて、総じてなかなか面白い作品に仕上がっています(注3)。

(2)本作の冒頭では、唐辛子が2個床に転がっていて、進による「姉に殺意を抱いたことが3度ある。1度目は、かりん糖のようなものとして人に唐辛子を食べさせた時」とのナレーションが入ります(注4)。
 そして、「それ以来20年以上は穏やかに暮らしてきたことになる」と続いて、遊園地で遊具のコーヒーカップに興じる二人のシーンへ。
 どうやら、スーパーの福引でペアチケットが当たったために、遊園地にやってきたようです。



 まあ、こんな感じで、以後もそれほど大した事件も起こらずに淡々と二人の生活が描かれるわけながら、ただ少々厳しい場面が2つほどあります。

 一つは、進の回想シーンですが、恋人だった好美麻生久美子)に、「私とお姉さん、どっちが大事なの?」と進が質問された時です。
 これは、その前に好美が進に、「うちに住むことにすれば」と提案したのに対し、進が「好美がうちに来れば?」と応じたら、好美が「そろそろ姉さんにも一人で暮らすことに慣れてもらわないと」と言うので、進が「姉ちゃんがこの先ズーッと一人だと決めつけないでよ。姉ちゃんには中学くらいから色々世話になっているし、まずは姉ちゃんに幸せになってもらいたい」と反論してしまったことに対する好美の反応です。

 一方で、進が、そこまで言うのは何故なのかについてもっと本心を好美に打ち明ければよかったのかもしれませんが(注5)、他方で、進に対してそんな選択を迫る好美の方にも問題があるような気もします。
 というのも、進の答えとしては「肉親として姉を愛しているし、恋人として好美を愛している。その二つは両立する」というのがありうるわけで、そうであれば、そんな選択を進に迫るべきではなかったことになるのではないでしょうか(注6)?

 もう一つは、営業の浅野がより子に「明日の夜、お時間いただけませんか?」と誘うのです。この言葉で舞い上がってしまったより子は、一世一代の舞台とばかりに着飾って、約束の時間の1時間前に待ち合わせ場所に到着してしまう始末。
 ところが、浅野が目的の店により子を連れて行って言った言葉が、「(より子が勤める眼鏡店の)お向かいブッテックの斎藤さん(寿美菜子)にするプレゼントについて、小野寺さんに選んでもらいたい」。
 より子はひどく傷ついてしまい、浅野が「食事でも」というのを断って早々に家に返ってきて大泣きします。

 これも、一方でハヤトチリしたより子が悪いのですが、他方で、女性を夜に誘うのであれば、浅野は、エチケットとしてもう少しきちんとした誤解を招かないような内容で申し込むべきだったのでは、と思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「互いを思いやりながら生きる不器用な姉弟の日常をユーモラスにつづるヒューマン・ドラマ「小野寺の弟・小野寺の姉」。毎日の暮らしぶりを丁寧に描く細部が味わい深い」として65点を付けています。
 秋山登氏は、「姉と弟の絆を描いたこの映画は、手擦れのしたテーマに現代の風をさわやかに通わせて、面白く楽しく見せる」と述べています。



(注1)原作は、西田征史著『小野寺の弟・小野寺の姉』(幻冬舎文庫)。
 監督・脚本も同じ西田征史(『アフロ田中』の脚本を担当)。
 なお、同じタイトルの舞台版もありますが、ユースケ・サンタマリア扮する映画監督が登場して姉弟の家で撮影をするという内容で、小説や映画とはかなり違ったものとなっています(こちらの記事こちらのサイトが参考になります)。

(注2)職業は調香師で、進が勤務する会社の上司(大森南朋)から、「ありがとうの香り」の制作を任されています。アチコチ探しまわるものの、進はその香りになかなかたどり着けませんが、ラストの姉の言葉でヒントをつかんだようです。
 なお、「ありがとう」は舞台版のキーワードとなっています。

(注3)俳優陣について、最近では、向井理は『きいろいゾウ』、片桐はいりは『R100』、山本美月は『黒執事』、及川光博は『イン・ザ・ヒーロー』で、それぞれ見ました。
 なお、麻生久美子(『ニシノユキヒコの恋と冒険』で見ています)が、進の別れた恋人・好美として回想シーンに登場するのには驚きました(事前の情報では掴んでいなかったもので)。

(注4)進によれば、2度目は、小2の夏休みに仮面ショーを見た時、姉が「あの中の人、アルバイト」と言った時であり、3度目は、「サンタクロースなんていない」と姉に言われた時。
 なお、床に転がった唐辛子のシーンは、本作のラストでも再度映し出されます。
 また、原作(舞台版も)では本作と違い、2度目は、進が小4の時、「(宝物にしていたブーメランを)失くしちゃった」と姉に言われた時、そして3度目は、そのブーメランについて「投げたのに戻ってこないなんてブーメランがひねくれているからだ」と姉に言われた時、とされています。
 原作に比べて映画の方は、ずっとわかりやすい一般的な例示になっている感じがします。

(注5)進が中学の時、自転車により子と乗っていた際に、後ろの彼がフザケて自転車をこぐより子の目を塞いだために、自転車が横転し、投げ出されて顔面を地面に打ち付けたより子の前歯が折れてしまい、それ以来彼女が引っ込み思案になってしまったという事件があって、その件について、進はずっと自責の念を抱いてきました〔友人の河田ムロツヨシ)は、「そんなのはお前のひとりよがりだ」というのですが〕。

(注6)と言っても、進はそのようには答えなかったわけですし、業を煮やした好美が進の家から立ち去った時、その後を進は追いかけませんでしたから、その意味では好美の言葉は的を突いていたのかもしれませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:小野寺の弟・小野寺の姉

まほろ駅前狂騒曲

2014年11月22日 | 邦画(14年)
 『まほろ駅前狂騒曲』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)第1作の『まほろ駅前多田便利軒』を見て面白かったので、この作品もと思い映画館に行ってきました。

 本作は(注1)、第1作と同様、まほろ駅前で便利屋を営んでいる多田啓介瑛太)と、そこに転がり込んできた行天晴彦松田龍平)とが巻き込まれる様々なトラブル・事件を描いた作品です。
 第1作では、2人の出会いとそれぞれの過去が、様々な出来事の間にサラッと描かれていたのに対し(注2)、本作では、どちらかといえば行天の過去が重点的に取り扱われている感じがします(注3)。

 そして、本作では、バスジャック事件が起きたり、大層胡散臭い農業団体が登場したりするなど、第1作に比べてややスケールが大きくなっていながらも、第1作と同様に、W主演の瑛太と松田龍平の持ち味が上手く生かされていて、その独特の雰囲気をまずまず愉しむことが出来ました(注4)。

(2)本作は、下記の(3)で触れる前田有一氏が言うように、「一見さんお断りの、こぢんまりとしたファン専用作品」となっている面もないではないと思われます。
 例えば、本作でまほろ駅前においてビラを配っている子供・由良横山幸汰)の塾への送迎を、第1作の多田と行天は請け負っていましたし、由良自身は本作にも登場する高良健吾)の下でクスリの運び屋となっていました。
 ですが、そんな細かなことをクマネズミはあらかた忘れてしまい、今回の劇場用パンフレット掲載の「「まほろ」シリーズ全エピソード」でそうだったなと思いだしたくらいです。
 それでも、クマネズミ(注5)は、本作を楽しく見ることが出来ましたから、本作は決して「一見さんお断りの」作品になっているわけではないと思います。

 さらに、前田氏はイロイロな理由を挙げて「まほろワールドの相当なマニア以外の一般人は、見る理由が全く見当たらない」とまで述べていますが、果たしてそうでしょうか?

a.前田氏は、「のんびり登場人物描きをやるスローモーな展開」振りを批判します。
 本作は、多田と行天がビニール袋に入った荷物を持ちながら坂道をブラブラ歩いているシーンから始まるところ、一方で多田が自分たちのことをモノローグで語っていると(「行天がやってきてもう2年」)、他方で頭にサッカーボールがぶちあたって行天が倒れます。
 子どもたちやコーチが様子を見にやってくるのですが(注6)、行天が「人は簡単に死ぬのだよ」と言って立ち上がった途端、彼らは慌ててその場から立ち去ります。
 そんなところに多田の携帯が鳴って、曽根田のばあちゃん(奈良岡朋子)の具合が良くないとの知らせが入院先の病院から。
 彼女の息子の依頼で週1回病院にお見舞いに行っているので、二人は病院に駆けつけます。でも、特段のこともなく(注7)、彼女と二人は病院の屋上で語り合います。
 こうしてみると、まさに「のんびり」した導入部なのかもしれません。
 でも、こんなふうな本筋とは直接関係のない「スローモー」な描きぶりこそが前作及び本作の独壇場とも言えるわけで、それが嫌ならば前作だって高い評価を付けられないのではと思われます(注8)。

b.前田氏は、「男だけで子供を預かり面倒を見るストーリーは既視感たっぷり」だとか、「無農薬栽培農業とあやしげなカルト団体が絡んでいる設定もまたしかり」と述べます。
 でも、設定だけなら、瓜二つの作品は世の中に数多く存在するのではないでしょうか?重要なのは、そうした設定が作品の中でどのように生かされているかの方ではないかと思います。
 例えば、後者のあやしげな農業団体HHFA(「家庭と健康食品協会」)については、ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」が指摘するように、まさに村上春樹の『1Q84』と類似するところがあるように思われます。



 とはいえ、本作では、HHFAの代表である小林永瀬正敏)と行天との関係の方に重点が置かれていて、HHFAがカルト教団であることはあまり重視されていないような気がします(注9)。

c.「90分近くたってようやく始まるバスジャック事件も遅きに失した感があるし、そこで行われる人物たちの行動、取り巻く警察の動き等々、リアリティも説得力も皆無」とまで、前田氏は言い切ります。
 ですが、本作ではバスジャック事件自体は二の次であり(注10)、一連のシーンはHHFAの代表・小林と行天とがバスの中で対決する本作のクライマックスなのですから、言われるように映画の最初の方に持ってくるわけにも行かないのではないでしょうか?



 それから、澤田刑事(古川雄輝)が小林をピストルで撃ってしまうシーンなどは、実際にはありえないことでしょう。その意味では「リアリティ」がないといえるかもしれません。
 とはいえ、前田氏が評価する第1作においても、上で触れたように小学生がクスリの密売に関与していたりしていて、そんなことは常識的には考えられませんから、コメディタッチのこうした作品にそうした観点からの批判は筋違いのような気がします。

(3)渡まち子氏は、「便利屋を営む多田とその相棒の行天が思わぬピンチに遭遇する「まほろ駅前」シリーズ第2弾「まほろ駅前狂騒曲」。エピソードが多く賑やかな展開だがユル~い雰囲気はしっかり継承」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「テレビドラマ版を挟んでの映画版2作目となる本作だが、早くも一見さんお断りの、こぢんまりとしたファン専用作品となっている」として30点しか付けていません。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「人間誰しも荷物を背負っている。みんなワケありだ。大森(監督)はそれをくだくだ説明せず、具体的な映像で一瞬に見せる。「さよなら警告」など思い作品の一方で、こんな娯楽作も撮る。娯楽作でありながらえらく人間臭い」として★4つ(見逃せない)を付けています。



(注1)本作の原作は、三浦しをん著『まほろ駅前狂騒曲』(文藝春秋)。
 監督は、第1作と同様の大森立嗣(『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』とか『さよなら渓谷』)。

(注2)多田には子供を死なせてしまった過去があり、また行天には、その精子を使った体外受精によって生まれた子供がいること、など。

(注3)上記「注2」で触れている行天の娘・はる岩崎未来)を、行天らが短期間預かることになります。



 また、行天の母親は、HHFAの前身である「天の声教団」の信者であったこと、さらにHHFAの代表・小林と行天とは幼なじみであったこと、など。

(注4)俳優陣に関し、最近では、瑛太は『モンスターズクラブ』、松田龍平は『麦子さんと』、高良健吾は『私の男』、永瀬正敏は『戦争と一人の女』、麿赤兒は『朱花の月』で、それぞれ見ています。
 その他、多田が思いを寄せる女性・柏木役の真木よう子は『そして父になる』、星に取引を持ちかけるヤクザの若頭役の新井浩文は『春を背負って』で見ています。

(注5)クマネズミは、TV版は見ておりません。

(注6)子供の一人が「ごめんなさい」と謝ると、コーチが「簡単に謝るな」とか「そんなところに立っている方が悪い」と言ったりします。

(注7)「先週危なかった時に息子さんは来ませんでした。便利屋さんのほうが優しいですね」と看護婦に言われます。

(注8)第1作の導入部も、多田が女性から愛犬チワワを預かったり、老人の麿赤兒)から路線バスの運行チェックの依頼を受けたりする場面から始まります。
 そんな第1作についての前田氏の評価は60点でした。

(注9)ただ、HHFAが単なる無農薬野菜を栽培しているまっとうな農業団体なら、多田と行天も由良の救出作戦を実行しなかったことでしょうが。

(注10)映画『EUREKA』とは違って。
 それに本作では、バスジャック事件を引き起こした老人たちは釈放されています。



★★★☆☆☆



象のロケット:まほろ駅前狂騒曲

25 NIJYU-GO

2014年11月19日 | 邦画(14年)
 『25 NJYU-GO』を渋谷TOEIで見ました。

(1)久しぶりに哀川翔を見ようということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、東映Vシネマ(注2)25周年記念の作品ということで、哀川翔を主演に迎え、ハチャメチャのアクションが描き出されます(注3)。

 物語は、九十九温水洋一)が年金基金から横領した金の残金25億円を巡っての争奪戦。
 戦いに参加するのは、まず西池袋署の悪徳警官の桜井哀川翔)と日影寺島進)。



 捜査で押収した250万円の行方がわからなくなっている問題の責任を問われ、明朝までにそれを提出するように署長(大杉漣)から命じられていて、至急、金が入用です。

 それから、田神組の組長(小沢仁志)は、中国マフィアのジョニー・ウォン竹中直人)との間で2,500億円もの麻薬取引をするために25億円がぜひとも必要となっています。
 また、真田井上正大)が率いる半グレの武装集団・武蔵連合も、この争奪戦に加わってきますし、さらには、高級クラブのママ(高岡早紀)もおこぼれに与ろうとします。
 さあ、この争いはどのように決着がつくでしょうか、………?

 確かに本作では、哀川翔と寺島進の悪徳刑事コンビと、暴力団田神組、半グレの武装集団・武蔵連合などが、年金基金からの横領金の残金25億円を巡って、壮絶にドンパチをやらかします。そのアクションシーンが次から次に引き起こされてなかなか面白いものの、『るろうに剣心』を見た者からすると、時代劇でさえすごく斬新に面白く描けるのに、どうして現代アクションがこんなに古色蒼然としているのだ、という思いにとらわれます。

(2)本作で使われる武器としては、添え物的にバズーカ砲やマシンガン、ダイナマイトが登場するものの、ピストルが主。とはいえ、なにしろ体を見せ合いながら撃ち合いをしても、お互い全然当たらないのですから!



 Vシネマの流れからすればこれは順当なのでしょうが、全体的にどうも迫力が乏しい感じがしてしまいます。

 また、本作で奪い合いの対象となる「25億円」ですが、なんとそれが、廃車場に置かれているバンの中に現金で袋詰めにされて隠されているのです。
 とすれば、九十九が年金基金から横領したとされる60億円も、はじめは現金で基金の口座から引き出し、それからその半分を使ってしまったということなのでしょうか(注4)?
 でも、いくらなんでも60億円(たとえ25億円にしても)もの大金を現金で引き出せば、スグに露見してしまうでしょう(注5)。
 あるいは、基金に納付される保険料を着服してどこかに隠しておいたのでしょうか?でも、今や、保険料の大部分は口座振替で納付されるのではないでしょうか?
 なんだか、現金が25億円も袋詰になっているのは、ラストの方で、華々しく札びらが舞い散るシーンを描き出したいがためと思えてしまいました。

 でもそれらのことはどうでもいいのでしょう、何しろ本作は記念の「お祭り」作品ですから(注6)、愉快に見ることができれば十分と思います。

(3)主演の哀川翔ついては(注7)、映画デビュー25周年にあたる2010年に制作された記念すべき3本の映画『誘拐ラプソディー』『昆虫探偵ヨシダヨシミ』『ゼブラーマン―ゼブラシティの逆襲―』で見た後は、あまり見かけなくなってしまいました(注8)。
 でも、本作では無事主役として蘇って、ラストの方では田神組の組長と1対1の対決を演じたり、中国マフィアのボスを1発で仕留めたりして、相変わらずの大活躍ぶりです。



 彼については、毎朝午前4時に起床してカブトムシを世話しているなどといった一風変わった生活振りが伝えられたりもしますが(注9)、そんな私生活的なところは極力ベールに包んでおいてもらい、この先もやっぱり「Vシネマの帝王」であり続けてほしいものと思います(注10)。

(4)渡まち子氏は、「ワケありの大金25億円をめぐってワルたちが争奪戦を繰り広げるバイオレンス・アクション「25 NIJU-GO」。現金争奪バドルは、まるでお祭りのよう」として55点を付けています。
 前田有一氏は、「ストーリーもアクションも結末も、すべてが予想の範囲内。決して現代の映画として優れた何かがあるわけではないが、どこか許せてしまうのはそのせいか」として55点を付けています。
 相木悟氏は、「不謹慎ながら無邪気に楽しめる大人のエンターテインメントであった」と述べています。



(注1)監督は、鹿島勤

(注2)本作の劇場用パンフレットの「TOEI V-CINEMA FILMOGRAPHY」では、1989年から2006年までに制作された250作品のタイトルが記載されています。

(注3)といって、小生自身は、Vシネマ自体あまり見たことがないのですが、本作を見れば哀川翔のそこでの活躍ぶりが垣間見れるのかなと思ったところです。

(注4)その他に約4億円が、九十九が後生大事に抱えているリュックサックに入っています。

(注5)よくはわかりませんが、昨年騒がれた「長野年金基金横領事件」では、この記事によれば、被告は、2005年6月~2010年9月の間、44回にわたり約23億8300万円を基金口座から着服したようですから、あるいはありえないことではないのかもしれませんが。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「CAST INTERVIEW」において、哀川翔が「これは祭りだからね」と言っています。

(注7)その他の俳優陣について申し上げれば、最近では、寺島進は『イン・ザ・ヒーロー』、温水洋一は『麦子さんと』、高岡早紀は『花宵道中』で、それぞれ見ています。

(注8)最近の哀川翔の出演作としては、2011年の『劇場版 目を閉じてギラギラ』がありますが未見(その後DVDを見ました)で、『銀の匙』(ヒロイン・アキの叔父の役)とか『サンブンノイチ』(窪塚洋介演じる破魔翔のバックに映像として登場するだけですが)などを見ています。
 なお、この記事によれば、品川ヒロシの4本目の映画が哀川翔の芸能生活30周年記念映画となるようです(この記事によれば、タイトルは『Zアイランド』で来春公開)。

(注9)その件については、『昆虫探偵ヨシダヨシミ』についての拙エントリの(1)でも触れていますが、今月2日放映のフジテレビ「ボクらの時代」でも明かされています。

(注10)哀川自身は、「(Vシネは)消えそうで消えないし、消えるはずがない!って思うよ」と述べています(このインタビュー記事)。



★★★☆☆☆



象のロケット:25 NIJYU-GO

花宵道中

2014年11月17日 | 邦画(14年)
 『花宵道中』をテアトル新宿で見ました。

(1)本年の東京国際映画祭の特別招待作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「ただひたすら男に抱かれ続けた、そんな風にしていたら、生きることの道筋さえも見失ってしまった、そんな道もないところには花も咲かない」などといった主人公の遊女・朝霧安達祐実)のモノローグが流れる中で、妓楼・山田屋(注2)の部屋で客をとる朝霧と、祭りの雑踏の中で倒れる朝霧が描かれます。

 雑踏の中で倒れた拍子に朝霧は、片方の下駄をなくしてしまい途方に暮れていると、若い男が朝霧を抱きかかえて「大丈夫か?怪我はなかったか?」と声をかけてくれます。



 さらに、朝霧が「下駄をなくしまって」と言うと、その男は下駄を探し出し、朝霧に履かせてくれます。
 その男は、「この下駄の鼻緒は俺が染めた」といいますし、また朝霧の手の傷口を吸ってくれたりもするのです。

 郭で間夫を持つことは厳禁とされていて、朝霧もこれまでそんなことはしてこなかったのですが、そんな男・半次郎渕上泰史)に恋心を抱いてしまいます(注3)。
 さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作については、吉原の遊女に関しこれまで映画等で作り上げられてきた定型的なものを一歩も出ていない作品内容だなという感じがし(注4)、取り柄は主演の安達祐実(注5)のヌードシーンだけのようにしか思えなかったため、彼女のファンでもない者にとっては100分が随分と長く感じられました。

(2)本作の原作は、宮木あや子氏の短編「花宵道中」(新潮文庫『花宵道中』に所収:注6)ですが、原作の短編と本作とで違いはそれほど見受けられません。

 と言っても、例えば、原作では半次郎は「縛り首」になったとされているところ(文庫版P.45)、本作では「打首」とされています(注7)。
 また、八幡様の祭りの際に半次郎が探してくれたのは、原作では「草履」となっていますが(文庫版P.14)、本作では「下駄」(注8)。

 さらに、本作では、半次郎の姉が朝霧の姉女郎の霧里高岡早紀)であり、朝霧を身請けするのが吉田屋津田寛治)だとされているところ、原作ではそのようには書かれておりません(注9)。

 そして、一番異なるのは、主人公の設定なのかもしれません。
 というのも、原作では、「あたしは不器量だから、そのままじゃ売れないってんで姉さんは意地んなって三味も踊りも唄も仕込んで、内八文字の踏み方まで教えてくれた」と朝霧が半次郎に語りますが(注10)、本作では、その朝霧を安達祐実が演じているのです!

 でも、そんなことよりなにより、映画は映画なりに、もう少し斬新な視点で吉原の遊女を描いてほしいものだなと思いました。

(3)外山真也氏は、「あまりにも説明的なフラッシュバックの挿入に至っては、柔軟さが裏目に出た残念な結果と思えなくもないが」としつつも、「安定した演出と確かな語り口、何より安達祐実の女優魂によって、見応えのある吉原花魁映画に仕上がっている」として★4つ(5つのうち)をつけています。



(注1)監督は、『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』の豊島圭介

(注2)天保8年(1837年)の吉原大火で吉原遊郭が焼けてしまい、原作によれば、山田屋は深川の富岡八幡宮の近くで仮宅を設けて営業しています(文庫版P.10)。

(注3)朝霧は誰も見ていないと思っていましたが、本作のラストによれば、妹女郎の八津小篠恵奈)が密かに見ていたようです。

(注4)本作は、劇場用パンフレット掲載の「Key Words」において、「水揚げ」とか「身請け」それに「気を遣る」といった用語を説明する必要がある観客を対象にしているので、定型的なものになってしまうのも仕方がないのかもしれませんが(「気を遣る」について、「男女が睦み合ったときに、達すること」と解説されていますが、「達する」に関するデジタル大辞泉のこの内容では、解説の意味することかわからないでしょう!)。

(注5)安達祐実が出演する作品は、最近見たことがありませんが、映画主演は約20年ぶりだそうですし、さらに今年は芸能生活30周年の節目でもあるそうです(この記事)。
 なお、半次郎役の渕上泰史は『共喰い』に出演していたようですが印象に残っておりません。また、朝霧の妹女郎・八津役の小篠恵奈は『ももいろそらを』などで見ています。
 さらに、山田屋の女将役の友近は『地獄でなぜ悪い』で、吉田屋役の津田寛治は『恋の罪』などで見ています。

(注6)文庫版は、連作短編小説が6つ集められたものとなっており、「花宵道中」はその第1編目。
 また、短編「花宵道中」は新潮社の「女による女のためのR-18文学賞」の第5回を受賞。
 なお、同賞は、第10回までは「女性が書く、性をテーマにした小説」をテーマとしてきたところ、第11回以降は「女性ならではの感性を生かした小説」とテーマを拡大しているようです。
 ちなみに、第8回の同賞を受賞した短編「ミクマリ」を所収する『ふがいない僕は空を見た』が映画化されています(この拙エントリをご覧ください)。

(注7)江戸時代における町人に対する死刑は、このサイトの記事によれば、6種類ありますが、「縛り首」はなかったようです。
 原作のコミック版(漫画・斉木久美子、コミック小学館ブックス)でも「縛り首」とされていますが、あるいは、文庫版の解説を書いている巌本野ばら氏が言うように、「(原作者の)宮本あや子氏自身、歴史にさほど詳しくないから」なのかもしれません(P.370)!

(注8)上記「注7」で触れたコミック版でも「草履」です。
 さらには、雑誌『シナリオ』12月号掲載のシナリオにおいても、一貫して「草履」となっているにもかかわらず、本作では「下駄」が使われます(劇場用パンフレット掲載のエッセイ「朝霧の“足”に主眼を置いた、「赤い糸の契り」の物語」において、轟夕起夫氏も、「原作では下駄ではなく草履なのだが」と述べているところです)。

(注9)尤も、新潮文庫『花宵道中』所収の「青花牡丹」では、朝霧の姉女郎の霧里と半次郎が姉弟であるばかりか、なんと吉田屋の子供だとされているのです!
 本作において、半次郎が吉田屋を殺すまでに至る理由をはっきりと描くために、他の短編の話しをもってきたのでしょうが、いくらなんでも霧里と半次郎が吉田屋の子供だったという設定まで映画に取り入れることができなかったのでしょう!
 ただ、本作では、吉田屋の策略により半次郎は吉田屋の遠縁筋の娘と祝言を挙げることになっていますが、これは、原作の「青花牡丹」で、東雲と言っていた半次郎が絹問屋の娘と結婚したこと(文庫版P.150)を映画に取り入れたものではないかと思われます。
 でも、ここらあたりは、原作にしても本作にしても、ご都合主義が過ぎているような感じがしてしまいます。

(注10)他にも、例えば、「ごめんね姉さん、あたしがもっと綺麗だったら。朝霧は申し訳なさそうに謝っていた」などとあります(文庫版P.133)。
 また、上記「注7」で触れたコミック版でも、朝霧は「そりゃあたしは綺麗じゃないし…/化粧してねぇ顔なんざ しおれてしぼんだ朝顔みたいだしよ…」と独り言を言います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:花宵道中

太陽の坐る場所

2014年11月08日 | 邦画(14年)
 『太陽の坐る場所』を有楽町スバル座で見てきました(注1)。

(1)本作で主演の水川あさみをたまたまTV(注2)で見かけたものですから、映画館に行ってきました。

 本作(注3)の冒頭は、現在から10年ほど前、高校時代の体育館の場面。
 バスケットボールをドリブルしていた響子古泉葵)は、後からやってきた今日子吉田まどか)に対し、「お願いがあるの、私を閉じ込めてくれない?」と告げ、驚く今日子にさらに「だけど覚えていてほしいの、閉じ込められるのと閉じ込もるとは違うということを」と付け加え、最後に「太陽はどこにいても明るいの」と言いながら体育館内の倉庫に入っていきます。

 場面は変わって、現在時点で、地方のラジオ局のスタジオ。
 アナウンサーの響子水川あさみ)が、リスナーからの手紙を読んで、リクエスト曲の「アマノ・イワト」(注4)のテーマ曲をかけます。
 曲がかかっている間、響子は窓の外を見ながら「私は暗闇に怯える者たちとは違う」などと呟きます。

 次いで、高校時代のクラスメートだった島津三浦貴大:現在は、地方銀行の東京支店に勤務)から電話がかかり、響子は、彼が幹事役のクラス会への出席を促されますが、「都合が悪い」と断ります。



 さらに、場面は新作映画の記者発表の会場。島津は電話で、その映画に主役で出演する女優の今日子木村文乃)に対し、クラス会への出席を求めします。ですが、響子と同様、「みなさんによろしく」と断られてしまいます。

 場面は、再び高校時代に戻って、響子たちのクラス。
 途中編入してきた鈴原今日子に対し、響子は、自分が皆から「キョウコ」と呼ばれて慕われていることから、「鈴原はとっても良い苗字。みんな、リンちゃんと呼びましょう」と宣言します。



 こうして本作は、現在、地味な地方放送局のアナウンサーをしている響子の姿を、東京で俳優として派手な活動をしている今日子と比べながら描き出しつつ、かつては、同じ高校の同級生であり、その時は響子の方が今日子よりもずっと輝いていたのに何故今こうなっているのだろうかと、高校生活を回想するシーンを挿入していきます。すると、そこに見えてきたものは、………?

 本作は、二人の女性の高校時代とその10年後の姿との落差の根元にあるものを探り出そうとするサスペンス物の作りになっているとはいえ、そんな落差などどこにでも転がっているでしょうし、また見出される事実も他愛ないことのように思えますから、謎解きの要素は後退している感じがし、むしろ、東京と地方都市との落差の受けとめ方といった点に興味が湧きました(注5)。

(2)本作では、二人のキョウコの高校時代以降現在に至るまでの経緯は描かれておりません。きっと、現在の二人のキョウコと高校時代の二人のキョウコを鋭く対比させるために、意図的にそれ以外のファクターは描かなかったのでしょう。そして、それはそれでなかなか効果的ではないか、と思いました。

 ただその結果、本作が、かなり観念的・図式的なものになってしまったきらいがある感じです。
 言ってみれば、高校時代における響子と今日子との関係が、ある事件の受けとめ方を通じて大きく変化し、それがそのまま現在の状況になっている、というような図式でしょうか。
 要すれば、特に主人公の響子が高校時代の出来事にずっと縛られ続けた感じです。
 そういうこともありうるでしょうが、それにしては、その出来事というのが他愛ないものではないか、とクマネズミには思えてしまいます。

(3)ところで本作は、山梨放送局開局60周年記念作品ということで、山梨県関連のことがアチコチに見出されます。
 まずは、本作の原作者・辻村深月氏と矢崎仁司監督が山梨県の出身者。
 また、本作の主題歌「アメンボ」の作詞・作曲・歌唱は、山梨県出身の藤巻亮太(レミオロメン)によります。
 そして言うまでもなく、本作の大部分の撮影場所は山梨県(注6)。

 これまで拙ブログでも、クマネズミの親族に山梨県関係者がいることもあり、山梨県関連の作品を何度か取り上げてきました(注7)。
 例えば、最近では、『ぼくたちの家族』。
 でも、描き出された場所は東京のベッドタウン化しているところで、余り山梨県という感じがしません。
 あるいは、『麦子さんと』でしょうか。
 この作品になると「この映画の全体の約70パーセントを都留市内で撮影」とされていますから(注8)、山梨県的な雰囲気が漂っています。
 そして、作品全体が山梨県を舞台にしていると言ったら、『もらとりあむタマ子』でしょうし、それに『サウダーヂ』でしょう(両作とも、甲府が舞台)。

 本作は、東京の場面がいくつか出てくるにしても、大部分は山梨県が舞台とされていますから(本作で場所の特定は明示的にされていませんが)、『麦子さんと』とか、さらには『もらとりあむタマ子』類似の作品と言っていいかもしれません。
 でも実のところは、特殊山梨県というよりも、東京以外の地方都市のいずれでも当てはまるような感じがしたところです(注9)。
 冒頭近くで、ラジオ局の窓から駅のプラットホームを響子が見下ろすシーンがありますが、見える駅はどの駅と特定しにくい感じですし、また何度も登場する高校も、どこにでもよくみかける外観です(注10)。

 あるいは、東京から甲府まで特急で1時間半ちょっとで行ける近さにありながらも、途中の山岳地帯のために(笹子子トンネルや小仏トンネルなどを通過しなくてはなりません)、まるで別の地域に着いた感じなるというようなことが(注11)、地元の人々の感覚に微妙な影響を与えて、それが本作にも絡んでくるということなのかもしれません(注12)。でも、山梨県で暮らしたことのないクマネズミにはそこら辺りまではよくわかりませんでした(注13)。

(4)渡まち子氏は、「ストーリーそのものは単調でパンチ不足。悪意も善意も中途半端では共感することも難しい。ただ、誰もが通過してきた青春時代の古い傷の疼きを、ほこりっぽい体育館にさしこむ光のようにぼんやりと思い出させてくれる作品だった」と述べて50点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「辻村深月の原作にある心理的リアリティーが映画には不足」と述べて★2つを付けています。



(注1)現在は、新宿のK’s cinemaで上映中です。

(注2)フジテレビで10月19日に放映された対談番組「ボクらの時代」。

(注3)原作は、辻村深月氏の『太陽の坐る場所』(文春文庫)。
 監督は、矢崎仁司

(注4)原作によれば、今日子は、映画『アマノ・イワト』でアマノウズメノミコトを演じてその踊りを賞賛され、一躍注目を浴びることになります(文庫版P.40)。

(注5)本作の出演者の内、水川あさみは『RETURN(ハードバージョン)』や『大木家のたのしい旅行』、木村文乃は『ニシノユキヒコの恋と冒険』や『ポテチ』、三浦貴大は『私の男』や『永遠の0』で見ました。

(注6)劇場用パンフレットによれば、「撮影は山梨県内で15日間、東京都内で1日の合計16日間」とのこと。

(注7)以下では、このサイトの記事を参考にしました(その記事を見て、そう言えば『休暇』や『ゆれる』も山梨県が舞台となっていたなと思い出しました)。

(注8)このサイトの記事によります。

(注9)特殊山梨県というよりも地方都市ならどこでもいいのではという点は、『麦子さんと』でも感じたところですが、本作ではもっと感じたところです。

(注10)とはいえ、響子が山梨学院大学の入試試験会場から「試験の初日です」とレポートするのを見れば、舞台が甲府であることは分かりますし、あるいは、高校生らの話す甲州弁からも山梨県だとわかります。
 なお、本作の方言指導は五諸川津平太氏(このサイトの記事に同氏が著した本のことが書かれています)。
 また、甲州弁については、この拙サイトの「注2」で簡単に触れたことがあります(尤も、こんな記事もありますが)。

(注11)この点で、千葉県や埼玉県などの関東圏にある地方都市と甲府などの山梨県の都市と異なるのではないでしょうか?

(注12)東京と地方との落差については、例えば、今日子が響子に対して、「あなたは、どうしてこんなクラス会に出席してるの?あなたほどの人が」、「あなたはここで終わるような人じゃなかった」などと言います。東京で女優として活躍する響子からすれば、地方ラジオ局のアナウンサーは格下に見えるのでしょう。
 そして、それに対して、今日子の方も、「恥晒しになりたいの。自分は18歳の頃にすべてを失った。正面から傷つくべきだと気がついた」などと、自分が格下の場所にいることを認めてしまっています。
 また他の東京で暮らす女性たちは、「地元で開かれるクラス会では肩身が狭い。地元に残った人たちの焦燥感が凄い」とか、「田舎の話題は結婚」とか言ったりします。

 こういった描き方にはなんら新味は見られないとはいえ、「地方創生」が声高に叫ばれている現在(あるいは「L型産業」の活性化でしょうか)、これから地方の意識がどのように変化するのか、あるいはしないのか、興味が持たれます。

(注13)なお、酷くつまらないことながら、ラストの方で東京から山梨に向かったはずの今日子の乗る車が画面の左から右に向かって高速道路を進行し、長いトンネル(今日子は「トンネルの数が27」などと言います)を出て車窓の左手に街が見えてくるというシーンには違和感を覚えました(別に、本作では、舞台となった地方都市が甲府と特定されていないので構わないとはいえ)。



★★★☆☆☆



象のブログ:太陽の坐る場所

ふしぎな岬の物語

2014年10月23日 | 邦画(14年)
 『ふしぎな岬の物語』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)吉永小百合が出演した前作の『北のカナリア』はパスしたので、今回作ぐらいは見ようと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、岬に設けられているカフェから主人公の悦子吉永小百合)が出てきて、カフェの前で海を描いている画家の姿を見ます。
 ですが、彼女が近寄るとその画家は消えてしまい、丸い木のテーブルと長椅子しかありません。
 悦子はその椅子に座り、悦子の甥の浩司阿部寛)のナレーションがかぶります。
 「エッチャンは、毎日、不思議な時間を過ごすのです。まるで、夢遊病者のように。俺は、この人を守ってやる義務がある」。

 次いで、小さなボートに乗って悦子と浩司が、岬の先にある島へ。
 島の湧き水(注2)を汲んで入れた容器を持って運ぶ浩司に対して、悦子が、「そうっと、そうっとよ」、「ゆっくり、ゆっくりね」と声をかけます。

 タイトルクレジットの後、「岬カフェ」の小さな看板の奥にカフェの全景が映し出され、中では悦子が、壁にかかっている虹の絵(悦子の夫が描いた作品)を拭いたり、コーヒー豆を挽いたりして開店の準備に余念がありません。

 そんなカフェに、毎日様々な人がやってきます。
 常連は、不動産屋のタニさん笑福亭鶴瓶)、漁師の徳さん笹野高史)、医師の冨田米倉斉加年)、牧師の鳴海中原丈雄)、僧侶の雲海石橋蓮司)など。
 常連ばかりでなく、カフェには、中学教師の行吉先生(吉幾三)(注3)とか地元の民ではない男(井浦新)やドロボー(片岡亀蔵)などが出現します。

 ある日、漁師の徳さんの娘のみどり竹内結子)がひょっこり村に戻ってきます。
 さあ、一体どんな波乱をもたらすでしょうか、そしてカフェの行く末は、………?

 吉永小百合を含めて、全体として可もなし不可もなしといった感じの作品で、この程度の仕上がりにもかかわらず、どうしてモントリオール世界映画祭で2冠獲得したのか不思議な感じがしましたが、メインテーマ等をクラシックギタリストの村治佳織が弾いている点で(注4)、クマネズミにとり救われた感じになりました。

(2)実のところは、予告編の時から、前に見たことがある映画『しあわせのパン』(このエントリの「注1」で触れています)的な雰囲気があるのかもしれない、と恐れていました。
 実際に本作を見てみると、『しあわせのパン』におけるパン屋と同じように、こんなところにこんなカフェなど普通ありえないのではという場所に設けられているカフェ(注5)に、悩みを抱えた人たちが色々とやってくるのですから、シチュエーションは両作でかなり類似しているといえるでしょう。
 ただ、若干違うのは、同作では、パン屋を営む夫妻(原田知世大泉洋)の過去が十分に明かされず、また店を訪れる主な客も一見さんばかりなのに対して(注6)、本作では、悦子の過去がある程度明かされ、またカフェに来る客も地元の常連が多いのです(注7)。そのためでしょう、前作がオムニバス的なのに対して、本作は、全体としてストーリーが辿れるように作られています。
 だからといって、まとまりのある本作が優れていると感じたわけではなく、ただ、『しあわせのパン』が酷かったことを再認識させられたに過ぎませんが。

(3)吉永小百合については、これまで『まぼろしの邪馬台国』とか『おとうと』などを見てきたところ、本作も、『おとうと』に関するエントリで申し上げたことの繰り返しになりますが、「控え目で堅実な演技を見せていてマズマズでした〔鳥肌が立つような良妻賢母型のセリフだけは言わないでくれと願っていたところ、そんなシーンはありませんでした〕」。
 というのも、彼女が扮する悦子は、カフェの店主として、そこを訪れるお客の話の聞き役であり、彼らの行動をそっと見守っていることが多く、自ずと控え目になるからでしょう。



 ただ、カフェが火災によって焼失してしまった後、悦子は浩司に向かって、「私を支えていると思っているでしょうが、それは違うよ。シュウイチさん(夫)がずっといてくれたの。毎朝、おはようと言ってくれるの。……」と言いながら、自分や浩司の過去のことを話し、「みんないなくなって寂しい」と独白する場面がありますが、この場面の彼女の演技はなかなか優れているなと思いました(注8)。

 さらに、本作の中では、金子みすゞの詩を彼女が2編朗読しますが、特に、ラストシーンでの「海の果て」(注9)が良かったように思います。

(4)渡まち子氏は、「カフェの女主人とそこに集う人々の人間模様を描く「ふしぎな岬の物語」。吉永小百合を中心軸に、キャストのアンサンブルが絶妙」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「吉永小百合自身が製作に名を連ね、初めて企画者としてかかわって作られた「ふしぎな岬の物語」は、なるほど彼女以外には誰も演じられない映画であった」としながらも35点しか付けていません。
 相木悟氏は、「移りゆく時の流れと幸福の意味を考えさせられるハートフルなメルヘンものであった」と述べています。



(注1)本作の原作は、森沢明夫氏の『虹の岬の喫茶店』(幻冬舎文庫:未読)。
 監督は、『草原の椅子』や『八日目の蝉』の成島出
 なお、本作の「企画」に主演の吉永小百合が加わっています。

(注2)その水を手で掬って飲んだ悦子は、「おいしい、ちゃんと生きている」と言います(毎日ここに水を汲みに来ているのですから、なんでそんな今更めいたことをわざわざ言うのかとチャチャを入れてはいけません!)。

(注3)久しぶりにカフェに現れた行吉先生が、「浩司はどうしています?不良だったので心配していました」と尋ねると、悦子は「私の監督不行届きで申し訳ありません。今は“何でも屋”を始めました」と答えます。また、丁度そこにいたタニさんが、「あいつは、球が速すぎて甲子園に出場できなかったそうですが」と言うと、行吉先生は「わが中学には野球部はありません」と答えます。
 こんなやりとりから、浩司のキャラクターが浮かび上がってきます。

(注4)それにしても、どうして村治佳織はあのように力を込めてギターを演奏するのでしょうか?あのような演奏法では、ギターの優しい美しい音色が損なわれてしまうのではないでしょうか?それに、彼女が腱鞘炎(Wikipediaでは「右手後骨間神経麻痺(橈骨神経麻痺)」〕を繰り返すのも無理からぬところがあるのかも、と思ってしまいます。

(注5)ただ、本作は、千葉県鋸南町の明鐘岬に実在する喫茶店「岬」をモデルにしていて、実際にも、そこにオープンセットを組んで撮影が行われたとのこと(劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によります)。



(注6)『しあわせのパン』では、東京からやってきた若い女性と地元から出ていけない青年との恋愛話や、母親が家を出て行ってしまった父親と娘の話とか、地震で最愛の娘を亡くした老夫婦の話とかが描かれています。

(注7)本作でも、地元の常連客ではない陶芸家(井浦新)とその娘や、ドロボー(片岡亀蔵)とかが登場しますが、両者は2度現れストーリーの展開に一役買っています。
 前者については、2度目にカフェを訪れた時に、カフェの壁に架かっていた絵を悦子から貰い受けますが、そのこともあって悦子は気が抜けたのでしょうか、カフェが火事に見舞われてしまいます。



 後者については、彼が置いていった包丁をタニさんが使って鯛のカルパッチョを作り、またラストの方では、彼は新装成ったカフェに御祝儀を持って駆けつけたりします〔ただ、彼が語る身の上話(「親から継いだ店をダメにしちまって、一家心中をしようとしたが娘の可愛い顔を見てできず、首を吊ろうとしたが枝が折れて失敗」)は、余りにも定型的に過ぎます。とはいえ、歌舞伎役者が演じているのですから、そうなっても仕方ありませんが!〕。

(注8)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によれば、「悦子の独白シーンでは、監督の強い要望から急遽、吉永の芝居に合わせて、村治が即興で演奏することに!」と書かれていますが、ギターの演奏によってこの場面が一層印象的なものとなりました。

(注9)詩はこのサイトに掲載されています。



★★★☆☆☆



象のロケット:ふしぎな岬の物語