映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

恋愛だけじゃダメかしら?

2012年12月24日 | 洋画(12年)
 『恋愛だけじゃダメかしら?』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)キャメロン・ディアス(注1)が出演するロマンティック・コメディということを聞き込んで、それだけの情報で映画館に行ったものの、これはダメでした!

 映画の舞台は、ジョージア州アトランタ(注2)。
 映画に登場するのは、5組のカップル。
 すなわち、TVのダイエット番組でトレーナーをしているジュールズキャメロン・ディアス)とダンサーのエヴァン



 その番組に出演したことのある歯科医のゲイリーとベビー用品店のオーナーのウェンディエリザベス・バンクス)。



 ゲイリーの父親ラムジーとその妻スカイラーブルックリン・デッカー)。



 スカイラーの姪のロージーアナ・ケンドリック)(注3)と高校同級生マルコ



 それにラムジー家の専属カメラマンになるホリージェニファー・ロペス)(注4)と広告代理店勤務のアレックス



 このなんとなくつながりがありそうな5組のカップルが次々に映画に現れるばかりか、アレックスは、育児に専念する4人組の男性(さらには、もうすぐ子育てをしなければならなくなるスポーツマンのディヴィスとも)と公園で知り合いにもなるのです。

 こんなにも大勢のカップルが登場するのですから、一つ一つのカップルを巡るお話は十分に掘り下げられることもなく(注5)、自ずと妊娠と出産の話ばかりとなり、その典型的なタイプがいくつも示されます。
 すなわち、ジュールズの場合は仕事中(TV出演の最中)に陣痛が、ウェンディは帝王切開と出産直後の大量出血、スカイラーは双子の出産、ロージーは流産、そしてホリーは子供が産めないために養子をとることに。

 ジュールズ、ウェンディそれにスカイラーは同じ頃同じ産院に来て産むことになるなど、制作者側は映画に統一感を与えようと工夫しているものの、女たちがわいわい騒ぎたてるだけの作品という印象は拭えず、これにイクメンの4人組まで加わり、最後に、“どんなことをやっても死んでしまえば皆おしまいだが、子供だけは後に残る”などといったつまらない教訓までラムジーが分かったように垂れたりもするのですから、見ていて退屈至極になってしまいます。

 結局のところ、登場人物の多い群像劇仕立てながら、皆が出産・子育てに絡むだけで物語性が乏しく単調で、おまけに笑える場面が少ないときてますから救いようがありません(これも、子育てと全然関係のない男性というクマネズミの属性のしからしめるところかもしれませんが!)。

(2)出産シーンを描いている作品でしたら、最近見たものでは『ふがいない僕は空を見た』の方が優れた出来栄えではないかと思います。
 なにしろ、その作品では、主人公の卓巳の母親が助産婦で助産院を営んでいて、卓巳も出産の手伝いまでさせられるのですから(注6)。
 さらに、出産の素晴らしさを描くだけでなく、生まれてきた赤ん坊に対し、卓巳が「お前、やっかいなものをつけているな」と言ったり、あるいは卓巳の母親が「思っている以上に子供は死ぬんだ」と言ったりするように、本作のような手放しの礼賛ではありません。

(3)毎日新聞に掲載された記事では、「お気楽なラブコメ風と思いきや、親になることの不安や戸惑いを軽妙なタッチで描いた。妊娠にかかわるユーモアとリアルのさじ加減が絶妙だ」と述べられています。




(注1)キャメロン・ディアスは、2年ほど前に見た『運命のボタン』以来です。

(注2)この記事のpremiseによります(ちなみに、この場合のpremiseは、the fundamental concept that drives the plot)。

(注3)アナ・ケンドリックは、『50/50 フィフティ・フィフティ』や『マイレージ、マイライフ』で見ました。

(注4)ジェニファー・ロペスについては、『ザ・セル』(2000年)をDVDで見たくらいです(『ザ・セル』及びジェニファー・ロペスについては、このエントリの(2)及び「注4」で触れています)。

(注5)一応は、様々なエピソードがちりばめられていますが。
 例えば、キャメロン・ディアスのジュールズが、TV番組で行われたダンス選手権で優勝するものの、受け取った優勝カップに吐いてしまいます。後からすれば、これは“つわり”だったのでしょう。また、歯科医のゲイリーとその父親ラムジーの折り合いは上手くいってはおらず、ゴルフカートの競争までする始末。などなど。

(注6)『ふがいない僕は空を見た』でも、自然分娩や帝王切開、さらには体外受精の話しまで出てきますが。



★★☆☆☆



ボス

2012年12月21日 | 洋画(12年)
 インド映画『ボス その男シヴァージ』をシネマート新宿で見ました。

(1)インド映画は、半年前に『ロボット』を見て、その面白さに堪能したところ、今回の作品も前作同様にラジニカーントが主演ということなので、映画館に出向きました(注1)。

 映画は、やってきたパトカーを取り囲む大群衆の場面から始まります。
 パトカーの中では、警官が「あなたの手錠姿が公開されると大騒動になる」と言って、その男に覆面を被せ、車の外に出します。警官とその男が行く先は中央刑務所。

 その男について、様々な声が聞こえてきます。
 数千億ルピーの詐欺をしたらしい。否、貧しい者に教育と食糧を与えた。
 やつはペテン師だ。いや、やつは仕事をくれたし、国が10年でやるところを10日でやってしまった。

 独房に入ると、近くの房の囚人が「旦那、詐欺で?」と尋ね、その男は「いいや国の改革だ」と答えると、囚人は「そりゃあ重罪だ!」と応じます。

 ここで、場面が変わって、その男・シヴァージが米国から帰国した時の様子が映し出されます。
 母親たちが空港に出迎え、シヴァージは「困っている人を助けたい、財産は2千億」と言い、さらにその後開催されたパーティにおいても、彼は「米国留学で成功した。獲得したお金で貧困を一掃したいが、それには教育だ。私は大学を作るし、さらには総合病院も建設する」と話します。

 そしてシヴァージは、一方で結婚相手を探そうとします。
 でも、周りの者が用意する女性には目もくれません。彼の望みは“古風なタミル女性”(彼が「伝統的なタミルのダンスがいい」と言うと、いきなり画面一杯ダンスが繰り広げられます)。
 そんな彼が一目惚れしたのが、楽器店で働くタミルシュリヤー・サラン)。



 しかしながら、彼女はなかなか首を縦に振ろうとはしません。

 他方で、シヴァージは、大学や病院の建設をどんどん進めようとします。
 ですが、彼の計画を快く思っていない連中がいます。その中心は、悪徳企業家のアーディセーシャン。無料の学校や病院を作られると、法外な学費や治療費などで富を築いてきた彼は、もうけが減ってしまうのです。

 さあ、シヴァージはタミルと結婚できるでしょうか、そしてアーディセーシャンとの戦いに勝利を得ることは、……?

(2)この映画を見るに当たっては、一抹の不安がなかったわけではありません。
 シチュエーションは違うにしても、前作『ロボット』と似たような構成になるのではないか、なにしろ『ロボット』では呆れるほど何回も歌と踊りが繰り広げられたのですから、それ以上のパターンがあるように思えないところです。

 実際のところ、その不安は当たらないわけでもありません。
 主演のラジニカーントは、前作同様、絶世の美女(注2)と恋に陥るものの、障害がいくつもでてきてなかなか結婚に至りませんし(注3)、また前作同様、前半と後半で性格がガラッと入れ替わります(注4)。また、同じように、ラジニカーントに対し強敵が現れます(注5)。
 なにより、目ぼしい場面で、画面一杯に歌と踊りが展開されるのです(注6)。



 それに、上映時間は、前作同様3時間(注7)。

 とはいえ、『ロボット』が前作とされるのは日本での話であって、実際には本作の方が、『ロボット』(2010年)よりも先に制作され先に公開されて爆発的なヒットになっていたのです(2007年)。
 あるいは、そんな順番で日本でも公開されたのであれば、もっと本作を楽しめたかもしれません。

(3)誠につまらないことですが、本作でシヴァージは、インドから貧困を一層するための鍵として大学と総合病院の建設を訴え、それに向けて自分の莫大な資産を投じてしまうのです。
 ですが、解決策は、いわゆる“箱物”ではないはずです(建設労働者の働き口が増えるにしても)。いくら大学や病院をどんどん作っても、そこで教える教師や、治療に当たる医師を大量に確保しなくてはならず、そうなってくると、そうした者を養成する機関と時間が必要であり、ひいてはそこに入学する者もいなくてはなりません。そのためには、そうした者を幼いころからサポートできる一定程度の経済規模が必要だということになります(家が貧しければ、家計を支えるために小さいうちから働きに出なくてはならないでしょう←その解決策としては、奨学金制度の充実←そのためには一定規模の財政←そのためには?)。とどのつまりは、貧困を追放するために貧困でないことが必要だということになってしまいます。
 これがこの問題の難しさではないでしょうか?

 また、シヴァージ財団は、一定の貧困地域を近代化された街に作り変えようとして、その計画に反対する者をこっぴどい目に会わせます(注8)。でも、そんなことをしたら、財団に対する敵対者を生み出し、結局は世の中に一層の対立・憎悪をもたらしてしまうだけのことになってしまうのではないでしょうか(注9)

(4) とはいえ、あれこれ言ってはみたものの、そんなこんなは歌と踊りが一杯に詰まった極彩色の本作を見て楽しむ上ではどうでもいいことでしょうし、実際に見てみれば、実に愉快な気分となること請け合いです。
 この次のも制作・公開されるのであれば、内容がいくら似ているとしても、やっぱり見に行くことでしょう!




(注1)シネマート六本木で11月23日に公開された時は、この記事によれば、「音楽フェスのように騒いでOK、踊ってOK、歌ってOK、鳴り物OK、撮影OK、しゃべってOK、しかもインドビール飲み放題&カレー付き」だったそうです!
 クマネズミが12月になってシネマート新宿に出向いた時も、上映の冒頭に“何でもOK”の案内がスクリーンに映し出されたものの、観客10名くらいの侘しい場内は、とても踊り出す雰囲気ではありませんでした。それでも、チケット購入の際に、レトルトカレーのプレゼントがありましたが!

(注2)『ロボット』のヒロイン役のアイシュワリヤー・ラーイは、38歳で実績もありますが、本作のヒロイン役のシュリヤー・サランは、30歳(映画製作時は25歳くらい)でそれほどの実績がなかったにもかかわらず大抜擢されたようです。

(注3)シヴァージの家が大富豪でタミルの家が貧しいという大きな障害がありましたが、そこはなんとか乗り越え、タミルはシヴァージの熱愛を受け入れるものの、ただタミルが占ってもらった占い師が、結婚するとシヴァージが死ぬことになると強く言うものですから、なかなか結婚に踏み切れません。

(注4)シヴァージは、前半では正攻法で臨み、自分の全資産を大学や病院の建設に充てるものの、結局は一文無しになってしまいます。
 そこで、後半になると、搦め手から臨み、大富豪の裏金を奪い取り、それを米国で資金洗浄し(マネーロンダリング!)、インドに回送して財団を立ち上げて、大々的な建設を展開します(映画のラストでは、資金洗浄という罪を犯したということで、シヴァージは自首したとされています)。

(注5)悪徳企業家・アーディセーシャンとの戦いは、最初のうちは、アーディセーシャンが政治力を行使して、建設の妨害をするくらいですが、シヴァージが彼らの裏金を強奪するようになるとその牙を剥き出し、ラストは2人の壮絶な戦いとなります。

(注6)ただ、『ロボット』におけるマチュピチュとかブラジルでの踊りのような奇想天外なものは、本作にはなかった感じですが。

(注7)『ロボット』の完全版の上映時間が177分であるのに対して、本作は185分。

(注8)計画に反対する者をOffice Roomと称する小屋に入れて、そこで暴力的に賛成させるのです。

(注9)さらに、映画のラストでは、インドでは、マネーのカード化が進んだために裏金が一掃された次第がドキュメンタリー風に描き出されます。ですが、この記事に従えば、インドにおけるカード化の進展は微々たるもののようです。
 それに元々、裏金は、紙幣が一掃されたからといって一掃されるものでもないと思われます(悪の集団が裏資金をため込む手段などは、いくらでも考えつくことでしょう)。
 よくは分かりませんが、こうした場面は、おそらくはインドの願望・期待が描かれていると考えるべきものなのでしょう。




★★★★☆



象のロケット:ボス その男シヴァージ

砂漠でサーモン・フィッシング

2012年12月19日 | 洋画(12年)
 『砂漠でサーモン・フィッシング』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)ユアン・マクレガーが出演するならハズレはないだろうと思って出かけたところです。

 物語は、英国の漁業・農業省に勤務する水産学者・ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー)のもとに、投資コンサルタント会社のハリエットエミリー・ブラント)から、メールが届くところから始まります。
 ただそのメールには、「イエメンに娯楽としての魚釣りを紹介したい、ついては、云々」とあったことから、ジョーンズは、たちどころに「実行不可能(fundamentally unfeasible)」との返事を出します。
 ところが、首相広報担当官のマクスウェルクリスティン・スコット・トーマス)は、「イエメンでサケを釣る」プロジェクトを、中東における英国のイメージアップに格好だと判断して、彼の上司サグデンを通じ、ジョンーズにハリエットと会うように命じます。
 ジョーンズと会ったハリエットは、本件が、その莫大な資産管理を引き受けているイエメンの大富豪・シャイフからの依頼であることを打ちあけます。



 ですがジョーンズは、サケがイエメンの環境のもとでは生きることができないなどと力説します(注1)。



 それでも彼は、しぶしぶながらもこのプロジェクトを引き受けることとなり(注2)、ハリエットとともに、シャイフが滞在するスコットランドの邸宅に向かいます。
 さあ、このプロジェクトはうまくいくでしょうか、ジョーンズとハリエットとの関係はどうなっていくのでしょうか、……?

 単純明快な筋立てながら、緑あふれるイギリスと砂漠のイエメン(実際のロケ地はモロッコ)との対比、そしてその荒涼たる土地に流れる川にサケを持ってくるという突飛な発想、さらには、ユアン・マクレガーとエミリー・ブラントという格好のコンビ、などといった要因から、大層面白い作品に仕上がっています。

 ユアン・マクレガーは、最近では『ゴーストライター』とか『人生はビギナーズ』で見ているところ(注3)、落ち着いた学者然としたところがありながらも、ひとたび取り組み出すと傾注してしまう性格のジョーンズ博士という役柄をうまく演じています(注4)。
 エミリー・ブラントは、昨年の『アジャストメント』で見ましたが、2人の男性(注5)の間で揺れ動くハリエットを魅力的に演じています。

 また、『サラの鍵』のクリスティン・スコット・トーマスが、首相広報担当官のマクスウェルを演じているのを見て、こんな役も上手く演じてしまうんだと驚きました。




(2)ところで、本作ではあまり問題とされていませんが、サケ(注6)は、一般に淡水→海水→淡水と回遊する魚であり、仮にイエメンの山岳地帯の川で放流されたサケが、本作のようにダムの方に向って遡上して産卵するにしても、そこで生まれた稚魚は成長した後、どこの海に回遊するのでしょうか?
 イエメン周辺の海(アラビア海など)は緯度がかなり低いところ、その海でサケは生息することが果たして可能なのでしょうか?
 ただし、Wikipediaの記述に従えば、サケの全部が全部海に下るわけでもないようですが(「多くの個体は銀化を経て海に下るが、中には銀化せずに川に留まる個体もいる。前者を降海型、後者を残留型と呼ぶ」)。
 それにしても、同じWikipediaの記事で、「魚種による差異はあるが、孵化浮上期は10℃程度、稚魚・成魚の生息には18℃以下の冷涼な水域が生存の必須条件」とされているところ(注7)、山岳地帯で20℃とされているイエメン(注8)で本当にサケは生息できるのでしょうか(注9)?
 などといった疑問がチラッと頭をよぎりましたが、そんなことは本作の出来栄えにとってどうでもいいことでしょう。

(3)渡まち子氏は、「途方もない夢が人生を輝かせる「砂漠でサーモン・フィッシング」。釣りの奥義が人生の奥義と重なる」として70点をつけています。



(注1)水の問題があるし、さらに北海でサケを1万匹捕まえ生きたままイエメンに運ばなくてはならず、まして全体の費用は5000万ポンドにも達するから、実現する可能性は人間が火星に行くよりも小さい、などとジョーンズは言います。
 こうしたことに対し、ハリエットは、イエメンでは雨期のある地域があり、山岳地帯では気温も20℃であり、さらに2年前にダムを建設したから、サケの住める環境だと言い、また費用の方もシャイフが面倒を見ることになります。
 くわえて、イエメンに運ぶサケに関しては、マクスウェルの命令で、上司サグデンの仕事となります(実際には、北海のではなく養殖のサケが運ばれることになりますが)。

(注2)何しろ、上司サグデンが、引き受ければ先方が2倍の給料を出すが、引き受けなければ解雇すると脅すものですから。

(注3)本作は、砂漠が舞台という点からすれば、その前に見た『ヤギと男と男と壁と』に近いのかもしれません。
 なお、ジョーンズ博士は、趣味として釣りをするだけでなく(ジョ-ンズの名前のついたフライを開発)、バロックの古楽器を演奏する音楽家でもあるようです。

(注4)ジョーンズは妻帯者ですが、妻は家庭よりも仕事が大事という人物で、ジョーンズに相談することなく、ジューネーヴへの単身赴任(6週間)を決めてきてしまいます。するとジョーンズは、家に帰って独りで池の鯉に餌をやるという生活はもう嫌だと言って、夫婦関係は危機的な状況にあります。
 妻は、ジョーンズがハリエットに心を惹かれていることも知っていて、「だけどあなたは私との生活の戻るDNAを持っている」などと言います。上記本文(2)の記述に従えば、彼女は、ジョーンズは「残留型」ではなく「降海型」なのだ、と言いたいのでしょうが、実のところは「残留型」だったようです!

(注5)実はハリエットには、付き合って3週間ながらロバートという軍人の恋人がいます。ただ、彼はアフガニスタンに派遣されて、行方不明になってしまいました。

(注6)本作で言われている“salmon”は、日本で見かけるシロザケではなく、むしろタイセイヨウサケではないかと思われます。

(注7)従って、サケが下って回遊する海域は、「日本海、オホーツク海、ベーリング海、北太平洋」とされています。

(注8)このサイトの記事によれば、「海岸部の平均最高気温は冬季(12~1月)でも32℃、夏季(7月)では40℃にもなる。標高2250メートルのサナアでは、平均最高気温は冬季25℃、夏季30℃程度。高原地帯では気温の日較差が激しく、サナアの平均最低気温は冬季で約0℃、夏季でも10℃位」とのこと。

(注9)サケと同じように淡水と海水を回遊するウナギ(産卵場所がサケと違って海ですが)の生態に関する実に興味深い記事が満載の『ウナギ 大回遊の謎』(塚本克己著:PHPサイエンス・ワールド新書、2012.6)を読みました。
 このブログで、管理者の小飼弾氏が、「ウナギが(食材として)嫌いな人は、(生物として)好きになる。ウナギが好きな人は、好きの意味が変わる」と大絶賛しているので手を出したのですが、確かに読み出したら、ニホンウナギの産卵場所の初めての特定に至るまでの過程が大層面白く、文字通りアッという間に読み終わりました。
 ただ、「稚アユが川を遡る回遊行動の尤も重要な部分は、この「動因」という、まだ現代生物学でも良く解明されていない、心理的な要因だった」とあり(P.26)、“魚の心理”って何だろう、と驚きます。
 また、肝心要の親ウナギの捕獲場所に調査船が赴いたことについて、「なぜこの地点なのか、理由はよく分からない」と書いてある点は(P.171)、やや拍子抜けしてしまいますが。




★★★★☆



象のロケット:砂漠でサーモン・フィッシング

人生の特等席

2012年12月14日 | 洋画(12年)
 『人生の特等席』を渋谷Humaxで見ました。

(1)『グラン・トリノ』の後、これ以上もう映画に出演しないと公言していた御歳82歳になるクリント・イーストウッドですが、本作にはその彼が出ているということで映画館に足を運びました。

 彼の役どころは、プロ野球球団アトランタ・ブレーヴズに所属する名高いスカウトマンのガス。彼は、IT機器をかたくなに拒否し、これまで培ってきた経験と勘とであくまでもやっていこうとするところ、彼のことを快く思わない若手の同僚フィリップマシュー・リラード)もいます。
 球団との契約期間も残り3か月となり、次のノース・カロライナでの仕事がうまくいかないと、ガスは引退に追い込まれてしまうかもしれません。
 ガスは、早くに妻を亡くした後、弁護士の娘・ミッキーエイミー・アダムズ)とは疎遠で、長年独り暮らしを続けています。
 そんな彼のことを心配して、職場の同僚で30年来の友人ピートジョン・グッドマン)が、久しぶりにガスの家にやってきます。ですが、家の中が荒れた感じで(注1)、ガスの立ち居振る舞いにもおぼつかないものが感じられます。
 実は、ガスの視力がかなり落ちてしまっているのです(注2)。
 そこで、ピートは、ガスのノース・カロライナにおける仕事に、ミッキーを同伴させようとします。
 ミッキーは、職場の法律事務所における昇進がかかった訴訟を控えていて(注3)、それどころではなかったのですが、父親ガスとの関係が6歳を境にしてなぜ疎遠になったのかを糺したいとの思惑もあって(注4)、行くことに同意します。
 他方で、ガスの方も、自分の仕事に娘が介入することを拒みますが、やむを得ないということで受け入れます。



 有望な新人・ボーがいると聞きつけて、ノース・カロライナには各球団のスカウトマン達が集まってくるところ、その中には、かつてガスがスカウトしたことのあるジョニージャスティン・ティレンバーグ:今では、肩を壊してトレードされ、ブレーヴズのライバル球団に所属)も入っています(注5)。
 さあ、ガス、ミッキー、そしてジョニーの関係はどのように展開していくのでしょうか、……?

 今時どうしてこんなに典型的なハリウッド映画が製作されてしまうのかというくらいに、すべてが収まりのいいところに収まってしまいます(注6)。とはいえ、かえってその徹底ぶりが見事であり、見終わった後爽快な気分にさせられます。

 さらにイーストウッドは、とても80歳を超えているとは思えないほどしゃきっとした演技をして、映画俳優としてもまだまだ頑張れるのではと思いました。



 また、エイミー・アダムスは、『ジュリー&ジュリア』や『ザ・ファイター』などで見かけましたが、本作では、その魅力を最高に発揮しているように思いました。



 さらに、ジョニー役のジャスティン・ティレンバーグは以前『ソーシャル・ネットワーク』で見ましたし、ピート役のジョン・グッドマンは先般の『アルゴ』で見たばかり、また同僚のフィリップに扮するマシュー・リラードも『ファミリー・ツリー』に出演していました。

(2)本作においてクリント・イーストウッドが扮するガスは、『マネーボール』においてブラッド・ピットが扮するビリーとは違って、IT機器を一切受け付けません(「そんなものは野球を知らない奴が使うに過ぎない」と言い放ちます)。
 本作でビリーに近いのは、むしろガスの同僚フィリップの方でしょう。  ノース・カロライナの有望新人に関しても、自分は現地に出向かないで、ガスの見張り役兼情報収集係を派遣して、コンピュータに入っているデータと彼からの情報で判断しようとします。
 それでも、ビリーは、ガスの方に親近性があるような感じがしてしまいます。
 というのも、フィリップは、ガスを蹴落としてGMの地位まで狙おうとする野心家であり、名声を得るための手段としてしか野球をみていないように思えるからです。
 これに反して、ガスやビリーは、地位とか名声よりも、野球を心底愛し、どこまでも野球のことしか考えてはいません。
 そんなところが見て取れるために、この映画に爽やかさを感じると思われますが、それにしてもガスは目の手術をいったい何時受けるつもりなのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「ベテランの底力と親子の和解。手垢のついた物語なのだが、ウェルメイドな安心感がある。その最大の理由は、しわだらけの顔にしゃがれた声の老優イーストウッドの魅力につきる」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も、「終盤、新人を見つける急展開は少々ご都合主義的な感もあるが、今より昔のアメリカ映画のほうがよかったと感じている人にとってこの映画は、久々に高揚感を与えてくれるはずだ。さすがはクリント・イーストウッドが惚れ込んだ物語というほかはない」として75点をつけています。



(注1)ピートが部屋に入って行くと、壊れたリビングテーブルが隅に片付けられています。実は、ガスがぶつかって壊したものです。

(注2)ガスが医者に行くと緑内障を疑われ、専門医での検査を勧められます。

(注3)ミッキーは、現在の法律事務所に7年勤務していて(35歳)、成績が良く、今携わっている訴訟に勝てば法律事務所のパートナーに昇進できるというのです(ただ、ライバルが一人いますが)。なお、現在ミッキーは、アソシエイトにすぎません。

(注4)実はガスは、娘ミッキーが6歳の時に母を亡くした後も、彼女とともに暮らしていたのです。ただ、その時にある事件がミッキーに起こり、それ以来親戚の家に彼女を預けることにしたのですが、そのことについてガスはミッキーにうまく話しておらず、ミッキーは、自分が父親に棄てられたと長い間思ってきたようです。その後電話すらもなく、寄宿舎に入れられたりもしたことから、大学の時からずっとセラピーに通っているともミッキーはガスに言います。

(注5)ミッキーとジョニーは、ノース・カロライナの酒場でクロッギング・ダンス(このサイトの記事によれば、「カナダのタップ・ダンス」とのこと)をしたり、また野球に関する蘊蓄を語ったりしたことから急接近します。

(注6)ノース・カロライナの有望新人・ボーの獲得については、各球団がスカウトを派遣してその獲得に熱心に乗り出しているところ、ドラフトでジョニーの所属する球団が獲得を放棄すると、どうしてガスの球団に獲得する権利がただちに回ってくるのでしょうか、ミッキーがモーテルの裏庭で見出すピッチャーの有望新人は、キャッチボールしかしたことがないように思えるところ、どうしていきなり球場で打者ボーを相手のピッチングができるのでしょうか、などの点が見受けられますが、この映画に対してそんなことを言うのは野暮の極みでしょう。



★★★☆☆



象のロケット:人生の特等席

恋のロンドン狂騒曲

2012年12月10日 | 洋画(12年)
 『恋のロンドン狂騒曲』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)『映画と恋とウディ・アレン』のなかで紹介されていた本作が公開されたというので映画館に行ってきました。

 本作は、ウディ・アレン監督の最新作『ミッドナイト・イン・パリ』より一つ前の作品、邦題で「恋の狂騒曲」というように、何組ものカップルが出来上がったり壊れたりします。
 まずは、40年もの長い間連れ添ってきた夫婦が離婚し、夫のアルフィーアンソニー・ホプキンス)は、若さを取り戻すべく、めちゃくちゃに若い女性・シャーメインと再婚してしまいます(注1)。



 これを愚痴りに妻のヘレナジェマ・ジョーンズ)は娘のサリーナオミ・ワッツ)の家に行きますが、その家でも、夫婦の間がうまくいってません。
 妻のサリーは、行き詰った家計を立て直すべく(注2)、画廊で社長の秘書として働きだすところ、社長・グレッグアントニオ・バンデラス)のかっこよさにイカレテしまいます。



 他方、夫の全然売れない小説家のロイジョシュ・ブローリン)も、サリーやその母親に酷くなじられ、目の前のマンションに住む若いディアフリーダ・ピント)に惹かれてしまいます。



 サリーの母親ヘレナにしても、初めのうちは離婚に打ちのめされていましたが、カード占い師のもとに通ううちに精神世界に惹かれ出し、ついにはその方面の書籍を取り扱っている店の経営者・ジョナソンと急接近し出します。
 さあ、これらのカップルはどうなっていくのでしょうか、……(注3)?

 おなじみのウディ・アレン的世界が展開さるところ、劇場用パンフレットをみると、ウディ・アレン監督が、制作意図や登場人物などについて縦横に語っているところから(注4)、そんなことをあれこれ詮索することなどやめにして、あとはもう映画の中の会話などを楽しめばいいのではないでしょうか。

 本作に出演する主な俳優陣は、映画的蓄積の乏しいクマネズミにとっても様々の映画でお馴染みです。
 アンソニー・ホプキンスは『最終目的地』、ジェマ・ジョーンズは『善き人』、ナオミ・ワッツは『J・エドガー』や『愛する人』、ジョシュ・ブローリンは『トゥルー・グリット』、アントニオ・バンデラスは『私が、生きる肌』、そしてフリーダ・ピントは『インモータルズ』や『ミラル』、という具合に(注5)。

(2)本作については、他愛ないストーリーと言えばそれまでながら、フリーダ・ピントが扮するディアがクラシック・ギターを練習する光景が映し出され、それだけでクマネズミには儲けものでした。



 ことの次第は、書き上げた小説の出版に関する連絡をいらいらしながら待っているロイが、ふと部屋の窓から隣のマンションの窓に目をやると、ディアが窓辺でギターの練習をしているのです。窓越しにロイが「ボッケリーニはいいね」と言うと、ディアは「知っているのね!」と答えます(注6)。

 そのディアが弾いているのは、ボッケリーニ(1743年~1805年)の「Grave Assai」〔「ファンダンゴ」と呼ばれるギター五重奏曲第4番―他の弦楽五重奏曲から編曲したもの―の第3楽章(その後半、あるいは第4楽章がfandango)〕。映画では、元々の五重奏曲用の楽譜(注7)を、ソロ用に編曲したもの(あるいはソロ用パート)をディアが練習しているのでしょう(注8)。

 最近では『ツリー・オブ・ライフ』がありましたが〔拙エントリの(3)をご覧ください〕、クラシック・ギター自体が映画の中で映し出される例は数少ないと思われますから(BGMで使われるにしても)、本作は貴重な作品といえます。

(3)渡まち子氏は、「年甲斐もなく、恋に右往左往する、彼らのバイタリティーに感心しつつも、野心、成功、盗作、密通など、すべては、アレンに言わせれば、広大な宇宙の営みの塵に過ぎない。どうやらウディ・アレン御大、悟りの境地に達しているようだ」として55点をつけています。
また、読売新聞編集委員の福永聖二氏は、「作風は「夫たち、妻たち」など以前のアレン作品に戻ったよう。だが、老いが深刻な問題となり、ほろ苦さの比重が増した。それは、77歳になるアレン自身が老境に達していることと無関係ではあるまい」と述べています。



(注1)アルフィーは、シャーマインを、何本かTVに出たことがある女優だと家族に紹介しますが、コールガールであるとすぐに見破られてしまいます。

(注2)夫のロイは、医学部出身でありながら小説家に転向、でもデビュー作は売れたものの、その後はとんと芽が出ません。タクシーの運転手をするものの、事故を引き起こしたりして上手くいかず、住まいの家賃は母親に援助してもらっている有様。

(注3)といっても、アルフィーはバイアグラを使っていますし、ロイも、新しく書き上げた小説の出版が、新鮮味がないと出版社に断られてしまいますから、両者とも新しい恋愛相手との先行きが明るいはずはありません。
 なかでもかわいそうなのは、サリーです。グレッグにオペラ鑑賞(ドニゼッティ!)を誘われたりしたことから、彼も自分に気があるのではと思ったところが、宝石店で一緒に見立てた超豪華なイヤリングが、サリーがグレッグに紹介した女友達の耳に輝いているではありませんか!

(注4)なにしろ、掲載されている「Production Notes」において、ウディ・アレン監督は、登場人物それぞれについて、出演者とともにああでもないこうでもないと語っていますし、また、本作の冒頭に、シェイクスピアの『マクベス』からの引用「騒ぐ響きと怒りはすさまじいが、意味は何ひとつない」(字幕では、「人生は空騒ぎ、意味などない」だったように思います)を掲げた理由〔何百年後も先になったら「野心も憧れも盗作も密通も、かつて大変なことと思われていたものはすべて何の意味もなくなるだろう」云々〕まで述べているのですから!

(注5)アンソニー・ホプキンスは、『最終目的地』と比べると、ちょっとの間に随分と老けてしまったなあ、ジェマ・ジョーンズは、『善き人』で主人公ハルダーの認知症気味の母親の役を演じていますが、本作のヘレナも随分惚けた感じだなあ、ナオミ・ワッツは、『恋する人』では臨月を迎えた女の役を演じていたのに、本作では子供を欲しがる役を演じているのだなあ、それにしてもジョシュ・ブローリンは、顔つきも仕草も佐藤浩市そっくりだなあ、などと全く余計なことを考えながら見ていました。

(注6)さらに、「最近越してきたの?」とロイが尋ねると、ディアは、「夏の間だけいるの」と応じます。その後のランチ時の会話で、デイアが音楽学で博士号を取得しようとしていることが分かります。

(注7)このサイトの記事によれば、元の曲はギターと弦楽四重奏の曲ながら、ヴィオラに代えてチェロ2本の編成とされていたようです。
 なお、YouTubeギター五重奏曲を聴くことができますが、ギターの音量が小さいために、とてもギターが主役の曲とは思えないところです(ヴァイオリン1本に対しても、音量的にはとても敵いません!聴衆に聴いてもらうためには、他の楽器をかなり弱く弾いてもらうか、あるいはギターの音を増幅する機器を設ける必要があるでしょう)。

(注8)本作のサントラ盤から取り出したものをYouTubeで聴くことができます。



★★★☆☆



チキンとプラム

2012年11月29日 | 洋画(12年)
 『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て、なんだかおしゃれな作品だなと思って映画館に出向きました。
 本来的にフランス映画ですが、監督・脚本のマルジャン・サトラピがイラン出身だからでしょう、主な舞台は、1950年代のテヘランになっています。

 主人公は、著名なバイオリン弾きのアリマチュー・アマルリック)。



 彼は、大切にしていた楽器を壊されてしまったため、代わりを探したもののなかなか見つからず、遂に絶望して部屋に閉じこもり、一切の食事を受け付けなかったことから(注1)、8日目に死んでしまいます。
 引き続いて映画は、その8日間にアリが振り返った過去を描き出していきます。
 それによれば、21歳でアリは、当代随一とされるバイオリンの名匠に弟子入りをし(注2)、完璧なテクニックを身につけますが、心がないと言われてしまいます(注3)。
 そうしたところ、街で出会ったイラーヌゴルシフテ・ファラハニ)に一目惚れ。



 でも、何度かデートを重ねた上で結婚を申し込んだところ、イラーヌの了解は取り付けるものの、父親に拒絶されてしまい(注4)、彼女も去ってしまいます(注5)。
 恋に破れ打ちひしがれたアリが師匠のもとに戻って演奏すると、今度は絶賛され、師匠愛用のバイオリンまで譲り受けます。
 アリは、その楽器を持って、国内はおろか世界中を飛び回ります。
 その間、アリは、母親の強い勧めに従ってファランギースマリア・デ・メディロス)と結婚します(注6)。



 ですが、心はバイオリンと、さらにはイラーヌに占領されたまま。
 それに苛立った妻のファランギースは、あろうことか彼が大切にしていたバイオリンを打ち壊してしまうのです。
 それで、アリは死ぬことを決意するのですが、……。

 原作がコミック(注7)ということもあって、本作全体がおとぎ話風なタッチで描かれ(注8)、なおかつ『彼女が消えた浜辺』に出演したゴルシフテ・ファラハニがイラーヌ役を演じるなどなかなかの配役陣(注9)でもあり、大層豊かな気分に浸されます(注10)。

(2)本作は、大雑把に言うと、恋に破れることによって音楽の本質をつかんだ音楽家の話なのでしょうが、劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes」によれば、映画化に当たり、原作のタール(長いネックのリュート属の楽器)がバイオリンに置き換えられたところ(注11)、それは「この映画で重要なのは楽器そのものではいないという、非常にシンプルな理由からだ」とのことです。
 だとしたら、楽器はさらにピアノに変えてもいいかもしれませんし、そうなるとここで本作との関連で思い浮かぶのは、カナダのピアニストのグレン・グールドです。

 グレン・グールドに関しては、拙ブログ本年5月15日のエントリの「(2)イ)」で若干触れましたが、昨年後半には映画『グレン・グールド―天才ピアニストの愛と孤独』が日本で劇場公開されたところです(注12)。



 同作品では、これまで公開されている映像に従って、そのピアニストとしての天才ぶりが描き出されるだけでなく(注13)、恋人だったフランシス・バローとか、その後彼がつきあうこととなった画家のコーネリア・フォス(作曲家の妻)、さらにはソプラノ歌手ロクソラーナ・ロスラックなどに対するインタビュー等によって、そのプライベートな側面が明らかにされています。
 最初のフランシスは(注14)、グレンを愛していたものの結婚は無理だったと述べています。
 また、コーネリアは、1968年に2人の子供を連れてグレンのところにやってきて(注15)、4人は家族のような関係となるものの、彼が薬物過剰摂取によって偏執症(パラノイア)に陥り、彼女の自由を奪うようになってしまい、結局彼女は夫の許に再び帰ることになります(1972年)。
 コーネリアの後はソプラノ歌手と昵懇になりますが(注16)、きっかけは、グレンが、ロクソラーナの歌声をカーラジオで聴いて、彼女を共演者として指名したこと。

 グレン・グールドのような天才芸術家と女性たちとの関係は一概には言えないでしょうが、彼らが創り出す豊穣な世界は、本作『チキンとプラム』も言うように、女性との葛藤なくしては考えられないでしょう。
 なお、この作品での女性たちがグレン・グールドを語る様子からは、前回取り上げた『映画と恋とウディ・アレン』でミア・ファローとかダイアン・キートンらが語るウディ・アレンを彷彿とさせます。ウディ・アレンが現在もなお精力的に活躍するのも、あるいは多くの女性たちと浮名を流したことと裏腹ではないでしょうか!

(3)渡まち子氏は、「ほろ苦い後悔と甘い記憶に包まれた哀切に満ちた作品だ。ユニークな映像感覚のおかげで、見終わってもなお陶酔感を味わえる」として70点を付けています。



(注1)アリは自殺しようとしますが、その方法として、鉄道に飛び込む、崖から飛び降りる、ピストルを使う、などを考えたところ、どれも痛そうなので止めることとし、また薬を飲むのも醜い死体を発見されるのが耐えられないとして、結局何も食べないで死の訪れをベッドで待つことにします。

(注2)シタールのラヴィ・シャンカルのもとに行ったビートルズのジョージ・ハリスンのような感じがしました。

(注3)師匠から、「指は動く、音は出る、だが空っぽ」、「人生はため息、このため息をつかむのだよ」と言われます(原作では、タールの師匠はこんな厳しいことを言いませんが)。

(注4)あれほど娘・イラーヌに優しい父親が、アリが音楽家で収入が安定しないことを捉えて結婚を厳しく拒絶するというのは、昔だったら、そしてイランだったらありうることかもしれませんが、どうも唐突感が否めません。クマネズミは、拒絶する父親の背後にアリのバイオリンの師匠の影を見たのですが、うがちすぎでしょうか?

(注5)後になってアリは、テヘランの街中で、孫を連れて歩いているイラーヌと遭遇し、「覚えておりませんか?」と声をかけるのですが、そしてそのシーンは、本作の冒頭で描き出されるところ、イラーヌは「ごめんなさい、覚えておりません」と言って立ち去ってしまいます。
 さらに、まったく同じシーンはラスト近くでも繰り返されますが、その際には、別れて角を曲がったところで、イラーヌは涙を流し、「ナセル・アリ、愛しい人!」と言うのです。

(注6)ファランギースは、幼い頃からズッとアリのことが好きで、数々の縁談を断って、アリが音楽の修行から戻ってくるのを心待ちにしていたのです。
 アリが引きこもってしまったこの8日間でも、4日目(原作では3日目)に、仲直りをしようとファランギースは、アリの大好物の「鶏のプラム煮」を作って部屋に入りますが、アリの方は受け付けませんでした。

(注7)本作を制作したマルジャン・サトリピが書いたコミック『鶏のプラム煮』(渋谷豊訳、小学館集英社プロダクション、2012.2)。ところで、何故、本作の邦題は「鶏のプラム煮」ではないのでしょうか?

(注8)背景は演劇の書割調ですし、また「死の天使」アズラエルなども登場します。

(注9)主人公のアリを演じるマチュー・アマルリックは、『潜水服は蝶の夢を見る』の主演でした。

(注10)ユーモアも忘れられてはおりません。例えば、死によって思想は永遠になるとのソクラテスの教えに従って、アリは、子供たちに貴重な話を残そうとするものの、話し出した途端の息子の放屁でおじゃんになってしまいます。

(注11)壊されたバイオリンの代わりに、アリは、遠くの街にある古道具屋まで行ってストラディバリウスを購入するのですが、いくらなんでもそんなところにあの世界的銘器が埋もれているとは考えられないことです。これは、原作のタールをバイオリンに取り替えたことから来る問題でしょうが、別にたいしたことではありません〔なお、原作では、「ヤヒヤーのタール」とされていて、それは「博物館に飾っておきたいような逸品」とされているところです(P.9)〕。

(注12)同作品の公開は見逃しましたが、その後DVDを購入しました。

(注13)Wikipediaによれば、グールドは、1932年にカナダのトロントで生まれ、1946年に「正式デビュー」するも、「1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引」き、「以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場と」し、1982年50歳で没します。

(注14)彼女はグレンにピアノを指導してもらい、そのピアノの腕前もなかなかだったようです。なお、グレンに「子鹿(fawn)」と言われていたとフランシスは証言しています。

(注15)コーネリアによれば、夫との関係は終わっていてグレンと結婚するつもりだったとのこと(ただ、夫は許しませんでした)。それでコーネリアはグレンの元にやってきますが、すぐそばに住まいを設けただけで、同居はしなかったようです。それでも、グレンは子供たちをかわいがったようで、彼らも「良い思い出しか残っていない」と言っています。
 また、「この時期のグレンは幸せそうだった」とグールドの友人のジョン・ロバーツは言います。さらに、「60年代末から70年代初め、グールドの生活は一番充実していた」、「コーネリアがトロントに来て、彼は初めて“家庭”を経験した」、「芸術と私生活の両面で一番生産的な時期だった」などと述べる関係者もいます。

(注16)どのような親密さだったのかはこの作品では分かりませんが、「彼女はグレンに“家庭”を教えようとした」と長年の友人のレイ・ロバーツは述べています。



★★★★☆



象のロケット:チキンとプラム

映画と恋とウディ・アレン

2012年11月26日 | 洋画(12年)
 『映画と恋とウディ・アレン』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)本作は、これまでに40本以上もの映画を製作してきたウディ・アレンの生涯を綴ったドキュメンタリー作品(2011年)です。
 今年76歳になる彼が、自分の生家の前で話すところから、最新公開作の『ミッドナイト・イン・パリ』の成功までの軌跡を描いています(注1)。

 本作によれば、彼は、たとえば、
・5歳の時に自分は死ぬとわかって幻滅、このゲームを抜けたいと思う(注2)、
・高校時代からジョーク(ギャグ)を作る才能を発揮していて、ライターとして新聞などに投稿(注3)、
・16歳の時に40ドルで買ったタイプライターを今でも使っている、
・その後コメディアンとして様々のクラブに出演するも(注4)、余り受けずに、ステージが嫌いになるが、そのうちに評判となって、ニューヨークタイムズの推薦をうけるまでになり、1967年にはエドサリバン・ショーに出演して全米的な人気を獲得、
・1965年の『何かいいことないか子猫チャン』の脚本を書くも、映画会社の介入でずたずたにされ苦い思いをしたことから、1969年の『泥棒野郎』以降は監督をもやるようになる、
・『アニー・ホール』より前は人を笑わせることだけを考えて制作していたところ、その作品では、人間を描きたいと思う(アカデミー賞4部門を獲得)、
などなどといった具合です。

 こうした彼の軌跡を、ダイアン・キートンなどの女優や、ショーン・ペン(注5)といった男優、そして脚本家や批評家などがいろいろ証言しながら辿っていきます。
 彼らによれば、ウディ・アレンは、夢に描いたことで実現しなかったものはないのではないか、とのこと。なにしろ、たくさんの映画を作っただけでなく、ジャズ・クラリネット奏者としても一流なのですから(注6)!
 また、彼の父親は100歳、母親は96歳まで生きていたということから、106歳まで現役を務めることになろう、などとも言われています。
 彼自身も、「ロマンスを過去のものとする年齢にはまだ達していない」などと嘯いていますから、ありうる話かもしれません。

 なお、家族に関して言うと、彼は、ダイアン・キートン(注7)との後、ミア・ファローと同居していた時、彼女の養女の韓国人女性に手を出して別れてしまいます(1992年)。ただ、ミア・ファローは、この映画に出演して色々話していますし、さらにまた、この映画の最後の方では、その養女と結婚したウディ・アレンの家族の映像も映し出されます。

(2)本作は、ウディ・アレンの映画製作の秘密がそれほど明らかにされるというわけではなく(注8)、また彼の作品について格別斬新な見解が展開されることもなく、従って通り一片のバイオグラフィーに過ぎないとも言えます。
 ただ、彼の製作した作品がいくつも紹介されるので、見逃している様々の彼の作品を見てみようかという気にさせられます。
 クマネズミの場合は、ごく初期の作品『泥棒野郎』(1969年)がTSUTAYAに置いてあったので、借りてきて見てみました。



 ウディ・アレンが扮するバージルは、前科53犯の悪党ながら、ドジばかりを踏む愛すべき存在。『泥棒野郎』は、その悪の履歴を幼いころから辿っているわけですが(注9)、様々なギャグが仕掛けられていて実に面白い作品となっています。
 吹奏楽団にチェリストとして入ったバージルが、椅子を持って吹奏楽団の行進を追いかける様子とか、銀行強盗の際に、脅迫文の綴りの誤りを指摘されるところ(注10)は本作でも取り上げられているところ、その他にも愉快な場面は満載です(注11)。
 さらに、『泥棒野郎』を見ると、その前のウディ・アレン出演作『何かいいことないか子猫チャン』(1965年:その脚本を書いた彼自身は、映画会社の介入によってドタバタ劇になってしまった作品、と本作で述べています)とか、批評家の評判が悪かったとされる『スターダスト・メモリー』(1980年:本作では、自分が一番気に入っている作品と述べています)までも見たくなってきます。

(3)渡まち子氏は、「女性を魅力的に撮ることで定評があるアレンだが、このドキュメンタリーを見ていると、アレンの作品が愛されるのは、彼自身が女性に深く愛されてきたからなのだと納得する」などとして60点を付けています。



(注1)来月日本で公開される『恋のロンドン狂騒曲』は、『ミッドナイト』よりも前に製作された作品。

(注2)学校は嫌いで(「教師は反ユダヤ的」)、呪われた日々だった、とアレンは述べます。

(注3)「週2ドル、1日50本も書いた」とアレンは、述べます。なお、その時から“ウディ・アレン”を筆名として使いだしたようです。

(注4)フォーク・グループPPMが出演していた「ビター・エンド」など。

(注5)彼は、「僕の演技についてのコメントを聞いたことがない」などと話します。

(注6)でも、ラストで、アレンは「人生の落伍者のような気持なのはなぜ」と言います。

(注7)本作で彼女は、「小さい人だなと思った、一目見た時に大好きになった、好きになってもらいたかった」などと述べています。、

(注8)彼自身は、本作で、「脚本を書くのは楽しい、アイデアを書いているときは、『市民ケーン』のような気がする、だが、撮影が始まると、そんな願望は消えうせてしまう」とか、「映画の案は無限にある、脚本はわりと早くできる」などと述べていたり、また俳優たちは、「彼は演技指導しない」などと証言したりしますが。

(注9)バージルの生年月日がウディ・アレンと同一だとすると(IMdbによります)、あるいは本作にも通じていると言えるかもしれません。

(注10)銀行に行って、窓口係に脅迫文を手渡すのですが、バージルは、gunとgub、それにactとabtを書き間違えてしまいます(どうやら「Please put $50,000 into this bag and abt natural, because I am pointing a gub at you.」と脅迫文に書いてあったようなのです:字幕では、「銃」と「銭」、「自然」と「白熱」との書き間違いとされています)。

(注11)なにしろ、バージルの両親が変装して登場し彼について証言するものの、見解が分かれてしまい夫婦喧嘩したり、最後には、バージルが脅迫した幼いころのクラスメートが実はFBIの捜査官で、そのまま刑務所入りになってしまうくらいなのですから!



★★★☆☆



声をかくす人

2012年11月15日 | 洋画(12年)
 『声をかくす人』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)ロバート・レッドフォードが、『大いなる陰謀』(2007年)以来5年ぶりに監督・製作した映画ということで見に行ったところ、大層地味ながらまずまずの作品だと思いました。

 物語は、1865年に起きたリンカーン大統領暗殺事件に関与したとされるメアリー・サラットロビン・ライト)の裁判を巡るもので、映画は、彼女の弁護を引き受けたフレデリック・エイキンジェームズ・マカヴォイ)を中心に描かれます。
 メアリーは、ワシントンで下宿屋を営む女性で、リンカーンを暗殺した一味に宿を提供していたことから、彼らと通じていたとされて逮捕され、裁判にかけられます。
 元々フレデリックは、弁護士ながら南北戦争に従軍し負傷したほどですから、ジョンソン上院議員(トム・ウィルキンソン)から自分に代わってメアリーの弁護をしてくれと言われたとき、はじめのうちは峻拒します。ですが、メアリーのような民間人を軍法会議(注1)で裁くことの不合理性などを議員から指摘されると、やむを得ないということで引き受けることになります。
 法廷は、案の定、はじめに結論ありきの場となっていて、まともな弁護活動はできそうもありません。最初消極的に対応していたフレデリックながら、持ち前の強い正義感から、メアリーの命を何とか救おうと努め出します。さあ、うまくいくでしょうか、……?

 本作は、クマネズミがあまり好まない純然たる歴史物ながら、国内の政治動向を優先させるべきか、はたまた憲法の精神を守るべきか、要すればどこまで法治主義(注2)を貫くべきか、という現代に通じる点(というか一層現代的とも思える点)が強調されていて、なかなか興味深いものがありました。

 主演のジェームズ・マカヴォイは、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』とか『終着駅』で見ましたが、誠実そうな風貌が正義感あふれるフレデリックにぴったりという感じです。



 また、メアリーに扮したロビン・ライトも、『50歳の恋愛白書』とか『トラブル・イン・ハリウッド』で見ましたが、それぞれ状況を踏まえた的確な演技を披露しているところ、下宿屋ながらプライドを失わない毅然としたメアリーを物凄い気迫で演じています。



 なお、何故か、昨今はリンカーン大統領に関する映画が目白押しで、本作の他にも、『リンカーン 秘密の書』が現在公開中ですし、スピルバーグ監督の『リンカーン』も来年4月に日本でも公開されるようです(注3)。

(2)原題は「The Conspirator(共謀者)」で、それは暗殺者一味に宿を提供したメアリーを指しているのでしょうが(注4)、邦題の「声をかくす人」となると、確かにメアリーのことながら、息子を助けたいがために沈黙する人ということで、両者はかなりニュアンスが異なってくる感じがします。
 それはともかく、クマネズミの理解が不十分なせいなのでしょう、よくわからないことがいくつかあります(どなたかご教示願えれば幸いです)。
イ)映画では、メアリーのみに焦点が当てられますが、リンカーン暗殺の主犯ジョン・ウィルクス・ブース(彼は、逃走の果てに射殺されてしまいます)をはじめ、捕えられた共謀者たちは誰もが民間人(俳優)と思えるところ、映画ではなぜかメアリーについてだけ民間人であることが強調されます。ジョンソン上院議員やフレデリックは、他の被告に対しては何ら関与しなかったのでしょうか?

ロ)メアリーは、本作のストーリー展開上からすれば無実なのでしょうが、映画の中では、宿泊人のジョン・ブースたちがリンカーン大統領に対して何かよからぬことを企てていることをある程度知っていたとされています(注5)。むろん、「共謀者」とまではいえないにせよ、真っ白というわけでもないのでは、とも思えるのですが?

ハ)メアリーがどんな振る舞いをしようとも、いずれにせよ陸軍側は彼女を死刑に処したいと狙っていたわけで、そのことはわかっていながら、なぜフレデリックは、息子が名乗り出さえすればメアリーは無罪になると考えていたのか、そしてなぜメアリーが息子のことを必死に隠そうとするのか、よくわからないところです(注6)。

(3)渡まち子氏は、「アメリカで初めて死刑になった女性の知られざる真実を描く「声をかくす人」。正義の在り方を改めて問う意義は大きい」として65点をつけています。



(注1)被告人は民間人ですが、スタントン陸軍省長官(ケビン・クライン)は、陸軍省の軍法会議にかけます。すなわち、その判事として9人の北軍将校を選任し、検事はホルスト総監(Judge Advocate General of the Union Army:ダニー・ヒューストン)なのです。

(注2)Wikipediaに従えば、むしろ「法の支配」というべきかもしれません。
 なお、池田信夫・與那覇潤著『「日本史」の終わり―変わる世界、変われない日本人』(PHP、2012.10)の中で、明治維新に際して、西欧型の法治主義など何も根付いていないところに、ドイツ式の精緻化された法律体系を持ち込んだがために、今や霞が関がにっちもさっちもいかなくなってしまっている、との見立てが述べられています。
 最近、田中真紀子文科大臣が、3大学の新設を認めないと記者発表しながらその後撤回した事件は、様々な論点があるところ、法治主義という点でも興味深い出来事ではないでしょうか?
 というのも、すでに審議会の答申をもらっていて、大学の建設工事もかなり進んでいたにもかかわらず、一度はそれが覆されたというのは、いくら大臣の認可事項だと法律に書かれているとはいえ、これまでの日本的な風土の中では起こりえないことでしょうから(大学の事務局までも、田中大臣の行為は“認めがたい”と言ったのも、日本は法治国家とされていながら、それはあくまでも建前にすぎないことがよく分かる感じがします)。

(注3)といって、クマネズミとしては、今のところどちらも興味を持てないところです。

(注4)メアリーが、リンカーン大統領暗殺計画に加担したのかどうか(その計画を知りながら、宿を提供したのかどうか)が裁判で争われるわけですから。

(注5)フレデリックに対して、メアリーは、当初ブースらは大統領の暗殺ではなく誘拐を計画していたと述べたりするのですから(メアリーによれば、彼らは、森でリンカーン一行を待ち伏せて誘拐し、南軍の捕虜と交換しようと企てていたところ、その計画がその後なぜか変更になったとのこと)。

(注6)加えて、法廷におけるフレデリックの巧みな弁論により(あるいは、ホルト総監が用意した検察側証人が余りにお粗末だったことにより)、検察側の有罪の論証は疑わしいものとなり、陸軍長官が選定した判事でさえ、メアリーを有罪とする者は少数となってしまったのですから、息子ジョンを法廷に引き出す必要性は少なかったのではないでしょうか?
 それに、仮に息子が名乗り出て法廷で証言したとしても、娘アンナの証言と同様に、身内の証言として価値を置かれないことになってしまうのではないでしょうか?
 また、息子は、暗殺団の一味だとして指名手配されていたのでしょうか?ただ、そうだとすると、1年後に名乗り出て裁判にかけられるものの無罪放免になってしまうことが理解できません。あるいは、暗殺が行われた時に、彼は現場にも下宿にもいなかったわけですから、無関係の人物とみなされたのではないでしょうか?とすると、そうした者が母親の裁判で証言したとしても、誰も取り合わないように思えるのですが?
 さらには、メアリーも、なにも息子について沈黙しているようなふるまいをことさらせずともよかったのではないでしょうか?

 こんな風に考えてくると、邦題の「声をかくす人」は、ややミスリードではないかとも思えてくるのですが?



★★★☆☆




象のロケット:声をかくす人

アルゴ

2012年11月05日 | 洋画(12年)
 『アルゴ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)本作は、イランのホメイニ革命の際に起きたアメリカ大使館員救出作戦(1979年)を描いたものです。

 ホメイニ革命の際に、アメリカ大使館がイラン側に占拠され、館員が人質になったところ(イラン側は、米国に逃亡したパーレビ国王の引き渡しを要求)、密かに館員のうちの6人が地下道を通って大使館脱出に成功し、カナダ大使館に逃げ込みました。
 そのことが発覚すると、その6人はおろか、人質になった残る52人の館員の命さえも危うくなるという事態。
 大使館の資料は焼却されたり裁断されたりしたものの、脱出した館員の存在が明らかになるのは時間の問題。
 出来るだけ早期に、それも極秘のうちに救出しなくてはなりません。
 CIAの救出作戦のエキスパートであるトニー・メンデスベン・アフレック)が担当者になって、様々な作戦が検討され、最後になってとんでもない案が浮上。でも、それしかないとして上層部の許可が与えられます。
 さあ、果たしてこの作戦はうまくいくのでしょうか、6人の館員の運命は、メンデスは、……?

 トニー・メンデスが考えついた作戦が奇想天外だっただけに、政府上層部の許可を得て実行するまでの紆余曲折、6人の大使館員の積極的な同意を取り付けるという困難な作業、そして実行に移された時に起こる様々の予想外の出来事というように、この映画には観客をハラハラさせる要素がてんこ盛りで、なかなかよくできた娯楽作品だと思います。

 監督で主演のベン・アフレックは、昨年の『ザ・タウン』で見ましたが、その映画と同様、事態の変化に対してあくまでも冷静に対応する主人公を的確に演じていると思いました。




(2)本作では、事実に基づいて制作されたと最初に断り書きが出ますが(注1)、映画の大筋は事実の通りだとしても、かなり脚色されているようです(注2)。
 そんなことは映画を見ていればよくわかりますから、そして描かれていることがフィクションだとわかったとしても見ている者を十分にハラハラドキドキさせますから、何もわざわざ“based on a true story”などと殊更めかしく言わずともと思うのですが(なお、この作戦のことは、18年間極秘扱いされていたとのこと)。
 逆に言えば、嘘っぽい事柄、起こりそうもなさそうな事柄をいかにも本物らしく見せるのが制作者側の腕ではないかと思うところ、“based on a true story”と言ってしまえば、いい加減なところで手を打てるのではないでしょうか(「事実なんだから仕方がない」などとして)?

(3)渡まち子氏は、「派手な銃撃戦や爆発などないのに、尋常ではない緊張感が漂う脱出劇のクライマックスは、間違いなく一級のサスペンス。隠し味は映画愛なのだから、映画好きにはこたえられない」として80点をつけています。



(注1)映画の最後に、当時のカーター大統領とメンデスや6人の館員との写真が映し出されたりします。
 また、劇場用パンフレットの「Introduction」には、「いま、すべてが真実の、命がけの“映画製作”が始まる―!」などと書かれています(映画の公式サイトの「イントロダクション」でも、「信じられなくて当然だ。だが、全てが実話なのだ」とあります)。

(注2)英語版Wikipediaの『Argo(2012 film)』の項では、「The movie is based loosely on former Central Intelligence Agency operative Tony Mendez's historical account of the rescue of six U.S. diplomats from Tehran, Iran during the 1979 Iran hostage crisis」とされていて、なおかつ「Historical Inaccuracies」の項まで設けられています。

 そこではいくつもの論点が記載されていますが、例えば、
a.カナダでは、映画が、CIAの役割をプレイアップしている代わりに、カナダ政府、特に脱出作戦におけるテイラー・カナダ大使の役割がないがしろにされているとの批判が巻き起こったようです。
 例えば、映画では、6人の脱出に際し、テヘラン空港で航空券の購入でトラブルが起きそうになりますが、実際には、テイラー大使の妻が、前もって3つの違った航空会社から3つの航空券のセットを購入していたので、こんなことは起きなかったとされています。
 また、6人がバザールに外出するなどといったことも行われなかったようです。

b.さらに、実際には、ニュージーランドとイギリスの外交官も、6人のイランからの脱出には寄与したのだ、との批判も出ているようです(ニュージーランドの外交官が、アメリカ人を空港まで車で送ったようですし、当初はイギリスの外交官がアメリカ人を匿ったようです―場所が危険なのでカナダ大使館の方に移らせたとのこと)。

c.より細かな点を見ると、その項目では次のようなことも記載されています。
・映画では、メンデスは、トルコにあるイラン大使館で入国ヴィザを取得していますが、実際にはドイツのボンにあるイラン大使館だったとのこと。
・映画では、メンデスは、単身イランに乗り込んでいますが、実際にはJulioというパートナーを連れていたとのこと。
・映画では、6人は全員、テイラー大使の公邸に滞在しているように描かれていますが、実際には、そこにいたのは2人だけで、他の4人は他のカナダ大使館員の家で暮らしていたとのこと。
・映画では、カーター政府が救出作戦をぎりぎりになって中止させ、事態が厳しい局面を迎えますが、実際には、カーターが作戦の承認を遅らせたのはわずか30分間だけのことであり、それも、メンデスがイランに向かうべくヨーロッパを出発する前のことだったとのこと。
・映画では、搭乗前の審査において、イラン側の監視兵とメンデスらの一行との間で非常に緊迫する場面が描かれていますが、実際には、技術的な問題によってフライトに遅延が生じただけで、空港における出国審査などには何の問題もなかったとのこと。



・最後の追跡の場面は、すべて作り事。

 こうした事柄は、面白い娯楽映画を製作するという観点からすれば、そしてアフレック監督も、「映画は、 “this is a true story”と言っているわけではなく、“based on a true story”と言っているのだから、“ some dramatic license”は認められる」と述べていることからすれば、どれもこれもどうでもいいことでしょう。
 クマネズミは、こうしたことを書き並べたからと言って、だからこの映画に問題があると言いたいわけでは全くありません。
 むしろ、事実とされていることとは違った様々の味付けこそが、この映画においては重要と言うべきなのではないでしょうか?
 そして、余り“based on a true story”という点を強調しすぎないようにすべきではないかと思います。



★★★☆☆



象のロケット:アルゴ

ミステリーズ

2012年10月30日 | 洋画(12年)
 『ミステリーズ運命のリスボン』を銀座シネスイッチで見ました。

(1)ブラジルの旧宗主国であるポルトガルの映画と聞いて、それなら見てみようと思ったわけですが、全部で4時間半近くの大長編(注1)。ただ、全編・後編に分けて上映され、別々に見ることができるとされていましたので、トータルでは100円ほど高くなるものの(続けて見れば一人2,500円)、二日に分けて映画館に足を運びました。
 とはいえ、入り具合は惨憺たる有様。クマネズミが行った時は、二日とも観客が5,6人ほど。ポルトガルの映画で、かつ大長編と聞いて、皆が二の足を踏んだのでしょう!
 ですが、フランスでは1年にも及ぶロングランで、その他の国々でも評判は上々とのこと。やっぱり、ヨーロッパと日本とでは国情が異なるようです。

 物語の舞台は、19世紀前半のポルトガル王国。
 まずは、修道院内の学校にいる少年ジョアンが登場します。



 ジョアンは、クラスメートとの喧嘩で気を失って倒れていて、その間、自分に関係すると思われる人物群の幻を夢見ています。一体彼らは何者なのかが、これからの長い物語の中で解き明かされることになるでしょう(注2)。

 最初は、実の母親・アンジェラ(注3)。



 彼女は、以前愛する男がいて妊娠していたにもかかわらず、父親に結婚を認めてもらえず(注4)、別の男と無理やり結婚させられたのです。
 結婚前に密かに生まれた子供がジョアンで、修道院のデイニス神父が匿っていましたが、彼女は、そのことを知った夫に、8年間も館に軟禁状態にありました。
 あるとき、彼女の夫の留守を知った神父は、彼女を館から連れ出して、14歳になったジョアンに会わせます。二人はしばらく神父の元で一緒の生活をするものの、結局彼女は、修道院に入ってしまいます。

 実は、母親・アンジェラの父親は、横暴な貴族で、母親の愛人とその子・ジョアンを殺してしまうように殺し屋を雇っていました。愛人は、殺し屋が放った銃弾が原因で死んでしまいますし(注5)、殺し屋にさらわれたジョアンも、すんでのところで殺されるところでしたが、デイニス神父が大金を支払って上手く救出します。

 その殺し屋が、しばらくすると、そのとき得た大金を元手に事業に成功したのか(注6)、大富豪・アルベルトとして社交界に登場します。



 ただ、パリ時代につきあっていた女・エリーズが、自分を袖にしてプライドを深く傷つけられたとして、復讐すべく何度も刺客を彼の元に送ってきます。



 ひょんな偶然で、大きくなったジョアン(今ではペドロとされます)もその刺客の一人となって、大富豪・アルベルトと決闘する羽目に。



 さあ、この結末は、……?

 本作は、非常に沢山の人物が登場し、後編冒頭からはデイニス神父の方に焦点があわせられたりするなど(注7)、物語の作りは、上で酷くはしょって申し上げたものよりずっと複雑ですが、それが、ポルトガルの貴族の豪華な生活と、修道院の清貧な生活との対比の中で、さらには人形劇を使ったりして(注8)、実に上手く描き出されていると思いました。

(2)この長い映画については様々な視点から語ることができるでしょうが、例えば、主人公の一人ジョアンが成長していく際に出会った二人の典型的な女性(貞淑なアンジェラと奔放なエリーズ)の物語と見なすことも、あるいはできるのではと思われます。

 アンジェラは、14歳のジョアンと会った後、暫くして夫が病気で亡くなると、夫が残した遺産を受け取ろうともせずに女子修道院に入ってしまいます。
 夫は、妻に子供がいることが分かると、彼女を館の部屋の中に閉じ込めるだけでなく、ポルトガルの社交界に彼女が身元の悪い女なことを言い触らしたり、愛人(注9)までもうけて館に連れ込んだりもするのです。
 でも、死ぬ間際に残した手紙で、夫がアンジェラに対する深い愛を告白したことを知ると、アンジェラは、夫の遺産を受け取らない一方で、自分は修道院に入ってしまうのです(注10)。

 もう一方のエリーズですが、貴族の夫の後、パリの社交界で随分と淫蕩な生活を送っていて、なかでも大富豪のアルベルトをいたく気に入ります。
 ですが、アルベルトは、契約を交わしてごくわずかだけつきあうと、契約に従って大金を支払った後は、彼女が会おうとやってきても追い払ってしまうのでした(注11)。
 それで、エリーズは、自尊心を深く傷つけられて、なんとしても彼を殺そうとします(注12)。

 そんなときに、エリーズが住む邸宅の隣に住む貴族の友人として、ペドロはエリーズと出会うことになり、一目でエリーズに魅入られてしまいます。
 それで、ペドロは、エリーズに唆されてアルベルトと決闘することになるのですが、逆にアルベルトの説得を受けて、その無意味なことを知り、放浪の旅に出ることに。

 こんな両極端の女性を知ることになったペドロ(昔のジョアン)のその後の女性遍歴は、さぞや面白いものとなるでしょうが、残念ながら映画では描かれず、観客の方で想像するしか仕方がありません。

(3)中条省平氏は、「多くの登場人物が交錯する迷宮のように複雑な物語が、最後にはパズルの断片のようにぴたりと嵌まりあい、人間と運命の不可思議を結晶させる。正統的な物語の力と、巧緻な映像の面白さが見事に結びついた傑作である」と述べています。
また、川口敦子氏も、「筋の起伏にのみ込まれつつふと気づくと長まわしのキャメラの優雅な動きの中、幽かに揺れたりゆがんだりしているフレームの周辺部、微妙に遠近が誇張された人物配置と、映像美のそこここに奇妙がぼこぼこと蠢いている。そんな実験性。その妙味。筋を先取りするように登場してくる少年の紙製の人形劇に、はたまた彼の死の床の夢に総てを収斂させるのかと、答えの出ない謎を仕掛けてほくそ笑む鬼才、そのスリリングな挑発に乗ってみたい」と述べています。


(注1)上映時間266分ですから、2年前に見た瀬々敬久監督の『ヘヴンズストーリー』(278分)よりわずかに短いだけです。

(注2)映画のラストでも、別途に横たわって気が遠くなったペドロの周りに同じような幻が見えることになります。

(注3)むしろ、サンタ・バルバラ伯爵夫人と言うべきかもしれませんが、煩瑣になるので、以下では他の登場人物も含めて、できるだけ簡便に記すことといたします。

(注4)父親のモンテゼロス侯爵は、アンジェラが次女のため財産を持たないことから、財力のある男のもとへと嫁がせようと考えていたところ、求婚の申し出にやってきた男ペドロ・ダ・シルヴァが財産を持っていないために(嫡出子ながら庶子扱いされていました)、その申し出を拒絶します。

(注5)実は、愛人のペドロ・ダ・シルヴァは、鉄砲で撃たれた後、デイニス神父の修道院にやってきて助けを求めるものの、暫くして息を引き取ります。

(注6)ポルトガルの社交界で色々の噂が飛び交う中には、アルベルトは、ブラジルで奴隷貿易に従事したことで富を築いた、というものがあります。
 アルベルトとブラジルとの関係は深いようで、気に行ったオペラ歌劇団を丸ごと買い取ってブラジルに持って行こうとしたりします。

(注7)アンジェラの夫がある修道院で息を引き取る際には、知らせを受けたデイニス神父もその修道院に駆け付けるのですが、そこで立ち会った修道士の一人が、実は、54年前に別れたデイニス神父の父親だったのです。



 彼は、友人付き合いをしていた伯爵の夫人を愛してしまい、伯爵が留守をした隙に、夫人と一緒に駆け落ちをして、最後はベネチアまで辿りつき、そこで生まれたのがデイニス神父。
 ただ、夫人は体質のせいでデイニス神父を生むのと引き換えに死んでしまいます。
 そこで、彼の方は修道院に入ることにし、デイニス神父をローマにいた従弟に預けます。
 その次に預けられたモンフォール家では、その家のブノワと兄弟同然に育てられます(なお、ブノワの娘がエリーズだとされています)。
 その後様々な経緯があって、神父になっているというわけです。

(注8)映画の節目では、人形劇の舞台が映し出されます。
 この舞台は、小さく折り畳んで鞄の中に入れることができ、ペドロがあちこち放浪しているときも、いつもそばに持ち歩いているようです。
 ただ、不思議なのは、それを操る人などいないのに自然に動き出しますし、また背景に人の顔が現れたりするのです(鏡になっていて、舞台を見ている人の顔が映るのかもしれません)。

(注9)驚いたことに、大富豪のアルベルトは、この愛人・エウジェニアと結婚するのです。

(注10)その後ポルトガルでコレラが流行すると、彼女はそれに罹って死んでしまい共同墓地に葬られます。その跡を探しにペドロが歩いていると、気が触れて盲目となって乞食に落ちぶれたアンジェラの父親のモンテゼロス侯爵に出会います。

(注11)エリーズは、一週間続けてアルベルトの元にやってきて、「本気になったから、金は返す」と言ったとのこと。

(注12)エリーズがアルベルトも元に送り込んだ刺客の中には、彼女の双子の弟まで入っていて、これは事故に近いのですが、エリーズの弟はアルベルトに殺されてしまうのです。そのことも、エリーズの復讐心を一層燃え立たせています。



★★★★☆



象のロケット:ミステリーズ 運命のリスボン