映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

R100

2013年10月29日 | 邦画(13年)
 『R100』を渋谷TOEIで見ました。

(1)松本人志監督の前作『さや侍』を見たこともあり、かなり評判が悪そうですが(注1)、映画館に行ってきました。

 本作では、主人公の片山大森南朋)が、クラブ「ボンデージ」に入会したところ、日常生活の思いもよらないところで、いろいろな「女王様」から酷い目に遭うようになります(注2)。しかし、彼はその強い刺激に酔いしれるのです。



 でも、勤務する家具店の中とか、果ては自宅にまで「女王様」がやってくるようになると、片山はとても耐え切れず、プレイの中止をクラブの方に申し入れます。ですが、最初の入会の決まりに「途中退会はできません」とあったことから(注3)、一向にプレイは中止されず、それどころか、………?

 どうしようもない酷い作品といった評価を目にすることもあり(注4)、心して見たのですが、わからない部分はいろいろあるものの(注5)、一応きちんとしたストーリーがあり、言われるほどむちゃくちゃな映画ではないのではないかと思いました(注6)。
 あとは、この映画を撮ることで監督は何を言おうとしているのかということでしょうが、まあ主人公が、ちゃんとしたところに勤めながらも虐められたいという欲求を持っている人物だというところから、経済的には先進国の仲間入りを果たしたものの自虐的な姿勢を拭い去れない戦後日本の姿をかたどっているのではないか、という気がします(注7)。
 全体として、前作の『さや侍』同様、まずまずの出来栄えではないかと思いました。

 主演の大森南朋は、『東京プレイボーイクラブ』で演じた勝利とは正反対の酷く困難な役柄ながら、実に上手くこなしていると思いました。

(2)本作について問題にするとしたら、下記(3)で触れる渡まち子氏が、「すべての不条理を一発で解決する“必殺技”」と言及している事柄(注8)をどう評価するのか、という点ではないかと思われます。
 この点について、一方で渡まち子氏は、「こんな“映画的”な仕掛けを施すようになったのは、監督としての進歩なのかもしれない」と評価しているところ、他方で、下記(3)で触れる相木悟氏は、「決定的にいただけないのが、劇中に仕組まれたメタ的な“ある構造”だ。挿入された当該シーンで訴えたかったこと、やりたかったことは分かる。でもほとんどの観客は、本シーンを監督の自己弁護、いわゆる卑怯な“言い訳”に解釈するであろう」と批判します。
 ただ、この記事によれば、松本監督自身が、「あえて監督の僕が言いますが、これはひきょうな映画でもある。めちゃくちゃにした責任を全部、僕がかぶりたくなかった。逆に言えば、本当にめちゃくちゃにするためには必要な仕掛けだったということです」と述べているのです。
 つまり、監督自身が、そう批判されることを百も承知でこの仕掛を施しているように考えられるのです。
 そうだとすれば、このブログの記事では、「松本人志監督がこの映画でメッセージをしたいのは、「映画にくる観客ってMでしょ?」だと断言する」と述べられていますが、それはそうかもしれないものの、さらに、水道橋博士が言うように、「このバカぶりを一般公開する映画のポジションそのものが世間及びに世界に対してM側(ボケ側=バカ側)であり、ツッコミ待ちを前提としている」とも考えられるのではないでしょうか?
 要すれば、松本監督自身が皆に酷評されてこっぴどく虐められたいのだとも考えられるところです。全国展開で公開したにもかかわらず、観客に入りが酷く悪いというのも、松本監督にとっては、本作で片山が女王様に突然足蹴にされるのと同じことなのかもしれません。
 でも、ひとたびそんなポジションをとってしまったら、松本監督の映画制作自体が否定されてしまうことになり、次回作の制作など考えられないことになってしまいます(既製の映画に「No」を叩きつけたところ、その規制の映画の中に自分自身の映画も入ってしまっている、という構図になりかねないのではないでしょうか)。
 さあ事態は今後どのように展開するのでしょうか?クマネズミとしては、次回作も大いに期待しているのですが。

(3)渡まち子氏は、「謎のSMクラブに入った男が不条理な体験をする異色作「R100」。ワケがわからない物語には、実は大きな仕掛けがある。おかげで過去作品の中で一番“映画らしい”かも」として40点をつけています。
 また、前田有一氏は、「万人向けどころか10人向けにもなっていないが、こういう映画は稀有であり、出てくる土壌まで否定してはなるまい。松本監督には、素人の批判意見に惑わさ れることなく、間違っても対抗心など抱くことなく、してやったりと心で笑ったうえで、ゴーイングマイウェイで次回作に取り掛かってほしい」として60点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「松本氏の根本意識に疑問は覚えるが、作品の発想自体は面白く、ここまで書いておいてなんだが、結果からいうと大いに楽しんだ」などと述べています。




(注1)例えば、この記事とかこの記事
 ただし、後者の「評価」で言及されているトロント映画祭に関しては、当初の「東スポ」の記事に右へ倣えした記事が溢れているところ、このブログ記事が言うように、その「東スポ」記事はたった一つの地元紙の評価だけを取り上げたにすぎず、この記事によれば、現地の評価は実際には様々のようです。
 なお、アメリカの映画情報サイトIndiewire による評価によれば、本作は「A-」とされています(このレビューは、劇場用パンフレットに翻訳が掲載されています)。

(注2)ここらあたりは、これまでの松本作品と類似の構造になっています(ただし、『しんぼる』は未見です)。
 すなわち、本作では、喫茶店で回し蹴りをする女王様(冨永愛)、寿司屋で寿司を叩き潰す女王様(佐藤江梨子)、家具店のトイレで鞭を振るう女王様(寺島しのぶ)、片山の妻(YOU)の病室に現れその声を真似る女王様(大地真央)、片山の自宅に出現して唾液を吐く女王様(渡辺直美)、それに丸呑みの女王様(片桐はいり)という女王様が次々に登場しますが、この構造は、『さや侍』における「若君を笑わせようとして次々に披露される20以上もの芸」に、さらには『大日本人』において「「締ルノ獣」、「跳ルノ獣」、「匂ウノ獣」、「睨ムノ獣」、「童ノ獣」といった怪獣が次々と登場して大佐藤と戦」うことに通じているものと考えられます〔『さや侍』についての拙エントリの(2)を参照〕。



(注3)クラブの支配人(松尾スズキ)が、入会にあたって説明するクラブのルールには、その他に、「日常生活の中で楽しんでもらうことになっている」「契約期間は1年間」などがあります。
 そして、片山は、このクラブのやっていることが不当なことだと警察に行って訴えますが、警察の担当者(松本人志)は、「自分の意思でそこへ行ったんですよね」「骨折などもないんですよね」「お互いに納得の上でということですよね」等と言って、片山の話は聞くものの、まともに取り合ってくれません。



(注4)上記「注1」に記載した記事のほか、例えばこのブログ記事

(注5)例えば、片山に「このままだと家族も巻き込まれて大変なことになるぞ」と忠告しに来た岸谷渡部篤郎)という男の役割がよくわかりません(「反社会勢力を撲滅する者」と自分で言いますが)。
 また、前田有一氏は、「その後の二人の驚愕のオチ、あれはいったいなんだろう。片桐はいり演じる女王様の存在は、あのラストシーンが見た目の(常識的な)意味とは異なるという伏線かもしれない」と述べています。ただ、「片桐はいり演じる女王様」は、片山が大切に思っている妻や義父(前田吟)を飲み込んで片山にダメージを与えるわけですから、他の女王様と類似の行動と思えるのですが、確かに「二人の驚愕のオチ」の解釈は難しいものがあります。
 あるいは、Sとなった片山とSそのもののCEOリンジー・ヘイワード)とが合体して、それこそ正真正銘のSを片山が身ごもったということになるのかもしれません〔クラブの支配人が、「「Mは、それが昂じるとSになる。そのSは、Sにひれ伏して巨大なSとなって身ごもる」(確かな内容ではありません)というような意味合いのことを言っていましたし〕。

(注6)相木悟氏が、「松本氏は、“映画という概念を壊す”心意気で、かつてないものをつくろうとしているのだろうが、これまでの作品も本作も大言のわりには、それほど革命的な代物ではない。むしろ、ありきたりである」と言うように。

(注7)前田有一氏が、「MなオヤジがいじめぬかれてSに変貌する様子は、主人公を「日本」に例えれば近年のネトウヨレイシスト化を茶化しているようにも見える。おそらく松本監督はああいう連中を何より嫌うだろう」云々と述べているように。
 とはいえ、その程度のことを言うのであれば、何もわざわざこうした映画にせずとも、もっと簡便な方法があるのではないかと思われるのですが(それに、すでに「“自虐”史観」などとさんざん論われてしまっていることですし)。

(注8)本作の途中で、この映画の試写を見ているプロデューサーら5人の男女が、映写室を出たり入ったりします。初めのうちは、試写室を出てくると、黙ってお互いに顔を見合わせるばかりですが、最後の方になると、「あのBondageという組織の目的が全然わからない」とか、「知らない人のモノマネができるって何なの?」、「100歳越えないとこの映画を理解できないと監督が言っているそうだが、100歳を越える人がこの世の中に何人いると思っているの?」などと批判を口にするようになります。本作に対し評論家などから投げつけられるであろう批判を先取りしている作りになっています。



★★★☆☆




象のロケット:R100

ムード・インディゴ

2013年10月26日 | 洋画(13年)
 『ムード・インディゴ うたかたの日々』を渋谷のシネマライズで見ました。

(1)なんの予備知識もなく、単に『タイピスト!』に出演していたロマン・デュリスとか、『最強のふたり』のオマール・シーが本作に出演しているというので見てみようかと映画館に行きました。

 ストーリー自体は実に単純で、親の遺産で働かなくても暮らしていける主人公コランロマン・デュリス)は、専属シェフのニコラオマール・シー)と日々を送っています。



 ただ、ニコラにはイジスという恋人がいて、また親友のシックガッド・エルマレ)(注1)にも、ニコラの姪のアリーズという恋人がいるのに対し、コランには誰もいません。



 そこで、コランはパーティーに出かけていき、クロエオドレイ・トトゥ)という女性を見つけます。
 そして半年後に結婚。



 ですが、クロエは、肺に睡蓮の花が咲くという奇妙な病気にかかってしまいます(注2)。
さあ、いったい2人の生活はどうなってしまうのでしょうか、………?

 こんな他愛のないストーリーですが、実際には、その映像はなかなかシュールなもので呆気にとられてしまいます。例えば、ピアノを弾くと、そのメロディーに従って違うカクテルが作られるという「カクテルピアノ」が登場したり、水道の蛇口から「うなぎ」が飛び出したり、喋る「ハツカネズミ」が登場したり、踊るコランたちの足が長く伸びて湾曲したり、などなどです。

 映画を見ている時は、映画制作者の方でこうした遊びをしているのかなと思っていたのですが、映画館から帰って原作〔ボリス・ヴィアンうたかたの日々』(野崎歓訳、光文社古典文庫、2011)〕にあたってみると、驚いたことに、そうしたものはかなり原作自体に書き込まれているのです(注3)。

 そうした幻想的なものを色々取り込みながら、本作は、コランとクロエの愛が結ばれ結婚するものの、クロエが病魔に襲われ、それまでの天国のような明るく楽しい生活から一転して薄暗い境遇に落ちるまでが(注4)、映像として大層見事に描き出されていると思いました。

(2)ところで、ボリス・ヴィアンの原作に基づく作品は、日本でも2つほど発表されています。
 まず、漫画家の岡崎京子氏による漫画『うたかたの日々』(宝島社、2003年)。
 これは、ほぼ原作に忠実に描かれています(注5)。
 もう一つは、利重剛監督の映画『クロエ』(2001年)(注6)。
 これは、原作を現代日本に置き換えて映画化しており、かつまた原作の持つ幻想的な部分はかなり省略されています。

 本作とこれらとを比べてみますと、例えば、
 本作の場合、登場人物の年齢が、扮する俳優の年齢に影響されて30代後半に思えるところ、岡崎氏の漫画にあっては、原作と同じように20代前半とされ(コランとシックは22歳)(注7)、また映画『クロエ』では、雰囲気的には本作と同じような印象を受けます(注8)。

 また、原作の幻想的な部分、例えば、カクテルピアノとかうなぎや喋るハツカネズミは、本作でも岡崎氏の漫画にも登場しますが、映画『クロエ』には登場しません。

 もっと言うと、原作に「その中は暖かくて、シナモンシュガーの匂いが」する「バラ色の小さな雲」と描かれているものは(P.79)、本作では工事現場にあるクレーンによって引き上げられる乗り物として登場しますが、岡崎氏の漫画では水蒸気の雲とされているに過ぎず、映画『クロエ』には登場しません(注9)。

 そんなこんなからごく大雑把にとらえてみると、本作→岡崎氏の漫画→映画『クロエ』の順で、幻想的で明るい要素が減少し、次第にリアルさを増し、暗い感じになってくるような印象を受けます(注10)。そして、原作はこうしたものすべてを飲み込んでいるように思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「ボリス・ヴィアンの代表作を遊び心たっぷりに映像化したラブストーリー「ムード・インディゴ うたかたの日々」。細部までこだわった手作り感たっぷりのヴィジュアルが見もの」として65点をつけています。
 また、土屋好生氏は、「題名にもあるデューク・エリントンの音楽と共に泡のように消え去る青春への憧憬と惜別の思いが痛いほど伝わってくる」などと述べています。



(注1)シックは本作で、ジャン=ソール・パルトルの熱烈な信奉者として描かれていますが、それは原作どおりであり、哲学者ジャン=ポール・サルトルをモデルにしています。
 なお、原作(光文社古典文庫版)には、初版本の『反吐に関する逆説』(P.64)、ミシン目なしのトイレットペーパーロールに刷った版の『吐き気に先立つ選択』(P.70)、半分ほどスカンクの毛皮で想定した版の『反吐』(P.89)、ボヴアール公爵夫人紋章入りの紫色のモロッコ革製の『かび臭さ』(P.111)、真珠のような光沢を放つモロッコ革装でキルケゴールによる別丁図版付きの『花のおくび』(P.194)、左人差し指の指紋がついた『文字のネオン』(P.228)等が出てきます。

(注2)10月19日付けの「図書新聞」に掲載の対談(野崎歓氏vs.菊地成孔)の中で、仏文学者の野崎氏が「この睡蓮が何なのかと文学研究者はずっと論文を書いている」と言うと、ジャズミュージシャンの菊地氏は、「エリントニストから見たら、それは単に『ロータス・ブロッサム』という曲のことだとなる」と答えています。

(注3)例えば、うなぎについては、原作において「毎日、ニコラの部屋の洗面台に、水道管をとおってやってきていたんだ」、「蛇口から頭を出して、歯磨きチューブにかじりついて中身を食べていたんだよ」などとコランがシックに語ります(P.24)。

(注4)無尽蔵のはずのコランのお金は、シックがアリーズと結婚できるように贈与したり(しかし、シックは、そのお金の大半をパルトルの稀覯本籍購入のために使ってしまいます)、クロエとの結婚のために使ったりして残り少なくなってしまい、さらにクロエの治療のためにたくさんの花を購入することにしたために、瞬く間に底をついてしまいます。
 それで、やむなくコランは働きに出るのですが、その仕事というのが、土の中から銃身がまっすぐに育つように体のぬくもりを与えるものだったり、人々に不幸が訪れる1日前にそれを予告するものだったりするのです。

(注5)例えばイジスについて、岡崎氏の漫画では、「とてもきれいな若い女の子で幼なじみだった」とされ、さらに「いかんせん2人ともお互いがチューインガムみたく気安すぎた」と書かれていますが(P.31)、原作では、「コランは彼女の両親をよく知っていた」くらいしか書かれていないようです(P.37)。
 このように微細な相違はいろいろ見受けられるものの、岡崎氏の作品は、原作のストーリーをほぼ忠実に漫画化しているものと思います。

(注6)TSUTAYAにVTRがあったので借りてきてざっと見てみましたが、全体として、原作の後半部分に焦点を当てているようで、トーンがものすごく暗い感じになっています。でも、かえってそのことによって、フランス臭さを感じさせず純日本的な締まった感じのする良質の作品に仕上がっていると思いました。
 特筆すべきなのは、主演の永瀬正敏(本作のコランに該当)とともさかりえ(クロエに該当)を取り巻く俳優陣が凄いことだと思われます。なにしろ、塚本晋也(シックに該当)や青山真治(パルテルに該当)、松田美由紀(アリーズに該当)などが出演しているのですから。

(注7)原作では、ニコラは29歳とされています(P.41)。

(注8)本作の場合、ニコラを黒人のオマール・シーが演じているため、その姪でシックの恋人のアリーズも黒人ですが、原作では、アリーズについて「並はずれて豊かなブロンドの髪が細かくカールして顔をふんわりとふちどっていた」と描写されているところからすれば(P.33)、ニコラもアリーズも白人と考えられます(岡崎氏の漫画でもそのように描かれています)。

(注9)他にも例えば、原作で「彼はバスタブのそこに穴をあけて水を抜いた」(P.10)とあるところは、本作では描かれますが、岡崎氏のマンガや映画『クロエ』では描かれません。

(注10)本作も、後半になるとモノクロとなり、ラストの葬儀の場面はかなり陰惨ながら、前半の底抜けに明るいトーンに影響されたのでしょう、映画全体からは何かしら明るい印象を受けました。



★★★★☆



象のロケット:ムード・インディゴ

トランス

2013年10月23日 | 洋画(13年)
 『トランス』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作のはじめの方では、競売人で主人公のサイモンジェームズ・マカヴォイ)の口から、彼が関与するオークション会場の警備の完璧さについて語られます。



 特にその日は、ゴヤの傑作『魔女たちの飛翔』がオークションに掛けられるのです。
 ところが、その作品に約40億円もの最高値が付けられた瞬間に、会場に強盗団によって催涙ガス弾が投げ込まれ、人々はパニックに陥ってしまいます。
 その隙にサイモンは、予め決められていたマニュアルに従って、ゴヤの絵を地下に運びます。
 するとそこには、強盗団のボスのフランクヴァンサン・カッセル)が待ち構えていて、彼によってサイモンは殴り倒されてしまいます。
 フランクたち強盗団は、意気揚々とその場を立ち去り、アジトに戻ってゴヤの絵が入っているはずの鞄を開けると、そこには額縁だけあり中身の絵はありませんでした!



 フランクは、サイモンが何か工作したに違いないと考え、彼を傷めつけるものの、フランクに殴られた際に記憶を喪失してしまったようなのです。
 そこで、フランクらは、催眠療法士のエリザベスロザリオ・ドーソン)を使って、サイモンの記憶を蘇らそうとしますが、果たしてうまくいくのでしょうか、………?



 本作は、中心的な3人の登場人物の位置関係がめまぐるしく変化し、おまけに現実と過去の映像とか想像の映像などが飛び交ったりするため、観る者を酷く混乱させます。でもそんな渦の中で色々考えたりすることがこの作品の面白さだといえるでしょう(注1)。

(2)これ以上はネタバレなしに進めません。でも、本作はサスペンス映画ですから、そんなことをすると面白さが消えてしまいます。本作をまだご覧になっていない方は、以下(特に下記の「注」)を読まれずに、まず映画館に行かれることをお勧めいたします。

 本作については、エリザベスが施す催眠療法の役割を誇大に取り扱いすぎているのが問題では、といえるかもしれません(注2)。
 いくらサイモンが、それに敏感に反応する稀有な人間だとしても(映画の中では、人口の5%がそうした人間だとされています)、エリザベスが自在にサイモンの記憶を操ったり、あるいは行動を指示したりできるというのは(注3)、リアルなことなのか随分と疑わしい感じがしてしまいます。
 とはいえ、これは娯楽映画であり、何であっても構わないといえば構わないわけで、本作はそれが可能であるという設定で作られたものなのですから、あまりその点にこだわっても無意味でしょう。

 としても、そのような強力な催眠療法という武器を使って、エリザベスは、果たして何を得たと言うのでしょう?結局彼女は、ベッドを共にした2人の男、サイモンとフランクとは一緒にはなりません。エリザベスは、どうやら、男の愛よりもゴヤの『魔女たちの飛翔』自体が欲しかったような映画の描きぶりです(注4)。
 でも、その絵の資産価値は莫大なものとしても、それを自分の部屋に飾っておく限りは、何らの価値も生み出しません。そして、それを第三者に売却しようとすれば、裏世界に通じたフランクにすぐに嗅ぎつかれてしまうのではないでしょうか?

 本作は、ラストで、エリザベスの笑っている顔がipadのディスプレイに映しだされている画像で終りますが、酷く虚しい感じを観る者に覚えさせてしまいます(注5)。

(3)渡まち子氏は、「記憶をテーマにしたスタイリッシュなクライム・サスペンス「トランス」。多彩な引き出しを持つダニー・ボイルらしい不思議な陶酔感が残る作品」として70点をつけています。
 また相木悟氏は、「現に、突っ込みどころ満載ではあるものの、一通りラストにはパズルがはまるようになっており、直線で語ればそれほど複雑な話ではない。一重にダニー・ボイルのエロティシズムやドロッとした変態&暴力性をスタイリッシュにみせきり、観る者を陶酔させる映像編集マジックの賜物といえよう」などと述べています。



(注1)主演のジェームズ・マカヴォイは、『声をかくす人』などで見ましたし、ヴァンサン・カッセルは『ブラック・スワン』で、ロザリオ・ドーソンは『アンストッパブル』で見ました。

(注2)本作について、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」の中で、ダニー・ボイル監督は、「人の心は、映画で探求するにはおもしろい題材だ。意識と無意識のどちらが人の心を支配するのかという大きな疑問を突き詰めたかった」云々と語っています。要すれば、本作のテーマは「潜在意識」ということになるでしょうが、実際には、催眠療法で弄ばれる人間が描かれているのであって、潜在意識そのものが取り上げられているわけではないのでは、と思われるところです〔本作で取り上げられているのは、どれも明確な意識であり、直ちには判別しがたい潜在意識(例えば、幼い時に被った性的トラウマ)ではないように思われます〕。

(注3)実は、サイモンは、以前エリザベスと恋人関係にあったのです。サイモンは、ギャンブル依存症を治療してもらいにエリザベスのクリニックに行き、それは治ったものの、治療の過程で彼女と愛人関係となります。
 ただ、サイモンの愛が度を越して、嫉妬の余りエリザベスに暴力を加えるようになったため、エリザベスは、自分についての記憶をサイモンの脳内から消去するとともに、以前のギャンブル依存症に戻してしまいます〔本作が監督の言うように潜在意識を問題にしているとしたら、エリザベスは、サイモンのギャンブル依存症とかDV(もっと言えば、彼の愛好する女性の特質)の原因こそをまずもって探るべきだったのではないでしょうか?〕。
 その結果、サイモンは借金がかさみますが、その借金を肩代わりしてくれたのがフランク。それでサイモンは強盗団に加わることとなり、事件の時も、彼は手にした鞄を直ちにフランクに渡す手はずになっていました。
 それをそうせずにサイモンがフランクに抵抗したのは、………?(下記の「注5」を参照)

 これで見ると、エリザベスは、サイモンの脳から自分の記憶を消去したり、ギャンブル依存症から彼を救い出したり再度そこに陥れたりするなど、自由自在に人間を操ることができるような極めて高度の催眠療法を身につけているようです。

(注4)エリザベスは、人を殺してまでも、とにかくその絵を自分の手元に置きたかったようなのですが、どうしてでしょう、本作ではうまく説明されていなかったように思います。
 エリザベスは、熱心な絵画のコレクターではなさそうですし、資産の運用先として絵画を考えているようなビッグな資産家でもなさそうです。
 ただ、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」の中で、ダニー・ボイル監督は「『魔女たちの飛翔』では、布を頭からかぶった男がいる。あれはサイモンというキャラクターそのものだと強く感じた」と述べているところからすると、あるいはエリザベスは、殺してしまったサイモンをまだ愛していて、彼を手元に置いておきたかったのだ、ということが考えられるかもしれません。
 でもそのくらいのことなら、複製画でも十分なのではとも思われますが(サイモンについて代用品で構わないわけですから)。

(注5)本作でよくわからない点の一つは、エリザベスのラストの説明で、サイモンに、ゴヤの絵を盗んだら自分のところに持ってくるように暗示をかけたとされていることを巡るものです。
 フランクに鞄を渡すときに抵抗したのは、サイモン自身としては、すぐに渡せば自分は事情を知るものとしてその場で撃ち殺されてしまうだろうと思ったからだと考えているようです。
 ですが、実はサイモンは、事件が起こった際にその絵を自分が着ているスーツの下に周到に隠しているのです。それはエリザベスの暗示に基づく行為だと考えられます。それで、鞄を開けようとするフランクに電気ショックで抵抗したものと思われます。
 現に、サイモンがオークション会場を出たら、エリザベスからメールが入り、そこには「brought it to me」と記されていました。
 でも、エリザベスは、一体いつの時点で、絵画強奪の計画を知り、そんな暗示を予めサイモンにかけることが可能だったのでしょう?
 というのも、エリザベスは、それ以前に、サイモンから自分の記憶を消去して、彼を賭博場に送り込んでいるわけで、その後絵画強奪計画の情報がサイモンからエリザベスのもとに入るとも思えないのです(フランクと通じたのも、強奪が行われてからのことではないでしょうか)。
 あるいは、先のメールは、サイモンの記憶違いで、事件後に送られてきたものなのでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:トランス

地獄でなぜ悪い

2013年10月21日 | 邦画(13年)
 『地獄でなぜ悪い』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)最近では『ヒミズ』とか『希望の国』を見ている園子音監督の作品だというので、映画館に行ってみました。

 本作は、一方に、なんとか素晴らしい映画を撮りたいものだと日夜努力を続けている高校生グループのファック・ボンバーズがあり、他方で、敵対し抗争にあけくれている暴力団が2つ(武藤組と池上組)あって、それらは10歳の女の子・武藤ミツコ(武藤組の組長の娘)でつながっていたことが、その10年後にわかります。
 すなわち、武藤組長(國村隼)は、その妻(友近)の出所祝のため、娘のミツコ二階堂ふみ)が主演する映画を組として制作しようとし、その監督に、ミツコと一緒にいた公次星野源)を使うこととするのですが、彼は、昔10歳のミツコが出演していたCM(注1)を見て以来の熱烈ファンだったのです。

 ただ、映画には素人だったため、公次は、不遇を囲っていたファック・ボンバーズ〔リーダーが平田長谷川博己)〕を映画制作に引っ張り出すことになります。



 その映画は武藤組が池上組に実際に殴りこみをかけるところをメインにするのですが、池上組の組長(堤真一)もまた、昔武藤組の組長宅に殴り込みをかけた時に10歳のミツコに出会ってから、彼女の虜になっています。



 さあ、この映画制作はどんなことになるのでしょうか、………?

 本作は、これまで見た園子音監督の作品の傾向とは大きく違って、全く破天荒なストーリーの映画で、あんぐりと口を開けて見守る他はありません。でも、破天荒だからこそ無類に面白く、さらには映画制作にかける園監督の情熱がどの画面にもほとばしっていて(注2)、すごい映画を作ったものだな、どうせやるなら中途半端なところで止まらないでここまでやらないとダメなのでは、という思いに囚われました(注3)。

(2)本作については、長く静止しているものを映し出している映像が少なく、絶えず何かが大きく動いているシーンばかりという印象を受けます。
 本作のクライマックスである武藤組と池上組の出入りの場面は言わずもがな、冒頭のミツコのCMの映像から、ラストの平田が走るシーンまで、ある意味では随分と忙しない映画なのです。

 最初の方をもう少し見てみると、ファック・ボンバーズが映画撮影のために生卵の投げ合いをしています。ですが、そばで学生同士の喧嘩が始まり、「こっちのほうが面白い」として撮る対象を変えたところ、看板を積んだ軽トラックが、運転手(板尾創路)の「どけーっ!」との声とともに突っ込んで来ます。
 その看板は、武藤組の事務所のあるビルにかけられるもので、ビル内にあるバーのママが交代するのに応じて、看板を「まちこ」から「じゅんこ」に付け替えるわけです。
 ビルの中では、武藤組の武藤組長が、これまでの愛人のまちこに引導を渡し、まちこが出て行くと、新しい愛人のじゅんこ(神楽坂恵)と抱き合います。
 武藤組長がこんなことをしている一方、武藤の家には娘のミツコが学校から帰ってきます。ドアを開けると、そこは文字通り血の海!その血の海のど真ん中をミツコが滑っていきます。たどり着いた先に、池上組の池上組長が流しのところにもたれて座り込んでいますが、………。

 という具合に、大層動きのあるそれぞれの場面が、引き続いて目まぐるしく変化していくのです。

 通常ならば、映画撮影を志すファック・ボンバーズが、狂言回し的に「静」の位置付けとなるのでしょうが、本作にあっては、そのリーダーの平田自身が実に激しく動きまわるのです。
 なにしろ、喫茶店で出会った女(成海璃子)を口説くときでさえ、いっときもじっとしていませんし、またファック・ボンバーズの仲間に向かって自分の夢を語るときも、あちこち動き回りながら饒舌にしゃべるのです(注4)。

 その平田ですが、一世一代の映画を撮れば死んでもいいと常日頃考えていたわけながら(「俺は、将来、永遠に刻まれる一本を撮る。それを撮れたら死んでもいい!」)、事前の念入りなシナリオ作りなどといった通常の手順など飛び越して(平田としては、それを海岸でやりたかったようですが)、結局は、ヤクザの出入りをドキュメンタリー的に撮影するハメになってしまいます。それでも、平田は嬉々としてカメラからフィルムを回収して、走って現場から引き上げ、最後に「カット」という声がかかって、この映画自体が終わってしまいます。
 『蒲田行進曲』的なカッコ良い終わり方も平田の頭のなかでは考えられているものの、そうはならずに、いつもの様にごく簡単な掛け声だけで。

 こうしたズレは、平田以外にもあちこちで見られます。
 例えば、公次は、ひょんなことからミツコの愛人とされ、挙句は、武藤組長に無理やり監督にさせられるものの、なんの経験もありませんから、実際の撮影現場においてはオロオロするばかりです。



 また、そのミツコも、ちゃんとした主演映画を望んていたにもかかわらず、実際に撮られる映画はヤクザ物ということで、大勢のヤクザの中の一員になってしまいます(注5)。



 もしかしたら、様々のズレが本作の画面を大層動きのあるものとしているのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「もとより、園作品は誰にでもすすめられる口当たりのいいものではないのだが、本作は娯楽作といいながら、しっかりマニアックな作りなのが素晴らしい。荒唐 無稽と言ってしまえばそれまでなのだが、誰よりも濃い映画愛と、最後の最後で虚実をミックスするオチにはガツンとやられてしまった」として65点をつけています。
 また、前田有一氏は、「意外なエロボディと極道キャラのギャップ、いつも何か叫んでいる必死感。園子温がこれまでちらほらと繰り返してきた理想の女像。それに対する己の欲求をついに大爆発させた、まさに監督の私的なエンターテイメントと私は受け止めた。彼のファンにとっては、きっと記念碑的作品となるだろう」として60点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「現在、日本映画界で気を吐く園子温監督のほとばしる映画愛とロックな哲学が詰め込まれた怪作の登場である」云々と述べています。



(注1)CMで10歳のミツコが歌う「全力歯ぎしりLet’s GO」は、『謝罪の王様』で3歳の倉持がしつこく繰り返す「腋毛ぼうぼう、自由の女神!」という文句に相当しているのでは、と思いました。

(注2)本作の中で描き出される個々のエピソードは、園子温監督の経験を踏まえてもいるようですが(例えば、武藤組の組長の娘ミツコと公次との関係は、園監督が著した『けもの道を笑って歩け』において、園監督が実際に経験したものとされています)。

(注3)國村隼については『許されざる者』で見たばかりであり、また長谷川博己は『鈴木先生』、星野源は『箱入り息子の恋』、二階堂ふみは『脳男』、堤真一は『俺はまだ本気出してないだけ』で、それぞれ見ました。

(注4)加えて、そのフック・ボンバーズには、アクション俳優を目指す佐々木坂口拓)がいて、“未来のブルース・リーだ”と持ち上げられ、黄色いジャージ(トラックスーツ)姿でヌンチャクを振り回すのです!

(注5)もっと言えば、武藤組長は、腕っ節の強いヤクザの親分にしては随分の親馬鹿であり、恐妻家でもあったりしますし、池上組長も、マッチョのはずがロリコンです。



★★★★☆



象のロケット:地獄でなぜ悪い

ランナウェイ

2013年10月18日 | 洋画(13年)
 『ランナウェイ 逃亡者』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)ロバート・レッドフォードが、監督のみならず久々に出演もする作品(2007年の『大いなる陰謀』以来)だというので、映画館に行きました(注1)。

 本作は、妻を交通事故で亡くしていたにもかかわらず、11歳の娘と平穏無事に暮らしていた弁護士のジムロバート・レッドフォード)が、30年前に一緒の反政府グループに所属していたソラーズスーザン・サランドン)がFBIに逮捕されるとわかると、生活のすべてを投げ出して身を隠します。
 一方で、地元の新聞社の記者のベンシャイア・ラブーフ)は、上司(スタンリー・トゥッチ)にこの件を調べるように言われ、ジムが、過激派グループ「ウェザーマン」の一員のシャローンであり、銀行を襲撃した際に守衛を殺したことから殺人罪を問われていることを突き止めます。



 ただ、身を隠すにあたり、ジムが一人娘を同行させずにジムの弟(クリス・クーパー)に預けたことを、ベンは不審に思います。上司がそれ以上の追求を止めるように指示したにもかかわらず、そこには何か深い意味があるに違いないと調査を続行します。
 果たして、ジムはFBIの追求をうまくかわすことができるでしょうか、そしてその逃亡劇の真の狙いは何だったのでしょうか、………?

 如何にもレッドフォード好みのシチュエーションであり、そこにサスペンス性が加わり、また家族に対する深い情愛や、若い新聞記者の真相追求にかける情熱も見られ、最後まで観客を飽きさせません(注2)。

(2)とはいえ、FBIの追求を逃れて走り回ったり、更には11歳の娘がいたりするという設定は、今年77歳のレッドフォードにとり荷が重いのではという感じが見ていてしてしまいますが。

 さらにいえば、新聞記者のベンは、ジムのような論理性の高い人間が一人娘を同行しないはずがなく、何か目的を持って逃亡しているに違いないと考え、そうした見方に立ってジムを追い詰めますが、その点がよくわかりません。
 常識的には、幼い子供を連れて逃亡すれば、足手まといになるだけでなく、酷く目立ってすぐにFBIに通報されてしまう可能性の方が高いのではないでしょうか?むしろ普通は、ジムのやり方は当然とし、通常の逃亡と考えるのではないでしょうか?
 また、ジムは、昔の「ウェザーマン」の仲間を次々と訪ね歩きますが(注3)、ジムのような人間にとってそうするのは当然であり(親族と連絡をとることは難しいでしょうから)、女の子を連れて行くかどうかということと関係がないのではとも思えてしまいます。
 ただ、こんなことを言い出すと、お話が何も進展しない恐れがありますが(注4)。

 なお、本作には、「ウェザーマン」という過激派の活動グループ(1969~75年に政府機関や銀行の爆破を行う)が描かれていますが、これは日本で言えば、ちょうど同じ頃連続企業爆破事件(1974~75年)を引き起こした武闘派左翼グループ「東アジア反日武装戦線」に相当するのかもしれません。
 そう思って、本作を最近の邦画に引き当ててみると、例えば新聞記者ベンは、ある意味で『凶悪』の雑誌記者・藤井(山田孝之)のような感じですし(上司の命令を聞かずに調査を続けてしまうところなど)、また本作のラストは、『藁の楯』のラストシーンに類似しています(注5)。
 もしかしたら、日本でも類似のプロットの映画を作れるのかもしれないと思うと(注6)、面白くなってきます。

(3)渡まち子氏は、「潜伏していた過激派メンバーの逃避行と秘められた真実を描く社会派サスペンス「ランナウェイ 逃亡者」。あまりにも豪華な出演者にレッドフォードの人脈の豊かさを見る」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「レッドフォードの演出も流行のせかせかしたサスペンス・アクションにせず、じっくり腰を据えたクラシックな趣き。今となっては逆に新鮮である。が、生真面目すぎてケレン味がなさ過ぎ、正直、ちょっと退屈してしまった。ご都合主義の展開や、結局、アメリカ映画定番の家族主義におちつく大甘ぶりもシビアな題材にしては残念なところ」と述べています。
 さらに、粉川哲夫氏は、「レッドフォードは、明らかに、ネットやライブラリーでデータを自力で調べあげて、事実に迫る〝ネットオタク〟的なベンの姿勢に期待をいだいているように見える」などと述べています。




(注1)レッドフォードの監督作品としては、最近では『声をかくす人』を見ました。

(注2)新聞記者ベンを演じるシャイア・ラブーフは『トランスフォーマー ダークサイド・ムーン』で、ジムの弟になるクリス・クーパーは『リメンバー・ミー』や『ザ・タウン』で、最初に逮捕される元活動家ソラーズ役のスーザン・サランドンは『ソリタリー・マン』で、それぞれ見ています。

 なお本作には、『50/50 フィフティ・フィフティ』や『マイレージ、マイライフ』、『恋愛だけじゃダメかしら?』で見たアナ・ケンドリックが、ベンの元恋人のFBI局員ダイアナとして出演していますが、ほんの少しの役割しか与えられていません。

(注3)ドナルニック・ノルティ)には車を用立ててもらいますし、ジェドリチャード・ジェンキンス)からはミミジュリー・クリスティ)に関する情報を教えてもらいます。
 ジムは、昔の恋人のミミに会って、自分が銀行襲撃には参加していなかったことを証言してくれるよう頼むつもりなのです。



(注4)もっと言えば、ジムは何かあった時に直ちに行動できるように準備していたようですが、娘のために身の潔白を証明する必要があるのだとしたら、なぜもっと早くに行動を起こさなかったのでしょうか?なぜ、自分に危険が迫ることを察知するまで、行動を起こさなかったのでしょうか?もっと早くに行動を起こして、身の潔白が明かされたなら、娘と早くから平穏無事に暮らすことが出来たのではないでしょうか?
 まあ、ジムとしては、なかなか踏ん切りがつかず、ズルズルとここまで来てしまったのかもしれません。でも、それではベンが期待するジムの論理性に反することになるのではないでしょうか?
 それに、本来的には、娘との間で信頼関係が出来上がっていれば、たとえ冤罪で逮捕されたとしても、その絆が壊れることはないのではないか、と思われるのですが。

(注5)大沢たかおの銘苅警部補が、清丸(藤原竜也)に殺された白石巡査部長(松嶋菜々子)の遺児とともに画面の奥に向かって歩いていくというシーンでした。

(注6)冤罪にもかかわらず警察から追われる主人公を描いた邦画としては、例えば堺雅人主演の『ゴールデンスランバー』があるのではないでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:ランナウェイ

クロニクル

2013年10月16日 | 洋画(13年)
 『クロニクル』を新宿のシネマカリテで見てきました。

(1)アメリカで大ヒットしたSF作品(2012年、84分)で、日本でも見た人の評判が高いようなので映画館に行ってきました。

 高校生のアンドリュー(デイン・デハーン)が主人公。
 友達がいなくて一人で過ごす生活を、中古のビデオカメラで記録しています。



 ある日、同じ学校に通ういとこのマット(通学の際にマットを車に乗せてくれます)とパーティーに出席した際に、学校の人気者・スティーヴとも一緒になって、林の中の空き地で見つけた穴に潜り込み、そこで3人は、巨大な結晶状の不思議な物体に触れます。




 それをきっかけに3人は驚くべき超能力(「念動力」というのでしょうか)を身につけますが、最初のうちは、ボールを投げ合って力を確認したり、スーパーマーケットでおもちゃのクマを宙に浮かばせて女の子を驚かせたり、駐車してある車を移動させ持ち主の女性をビックリさせたりと、他愛のないことにその力を使うだけでした。
 そのうちに空をも自在に飛べるようになり(自分自身に念動力をかけることにより)、さらにアンドリューは高校で開催されたタレントショー(日本の「文化祭」でしょうか)で超能力を使って見事な手品を披露し、一躍人気者となります。
 ですが物事は順調にいかず、次第に不満を募らせるアンドリューは(注1)、3人で決めたルール(注2)を外れて自分の超能力を使い始めます。
この先一体どうなることでしょうか、………?

 本作に登場する3人の高校生のキャラクターが実にうまく造形されていて(注3)、ありきたりの高校生の生活にちょっと変化を与えるに過ぎなかったところから出発しながらも、次第に事態が自分でコントロール出来ないほどオオゴトになっていく様子が巧みに描かれており、その面白さに画面を見入ってしまいます。

(2)本作のように、素人がVTR機器を持って撮影した映像を編集して映画にしたという設定の作品(POV)については、以前『クローバーフィールド』を見たことがありますが、最近ではノルウェー映画『トロール・ハンター』を見たところです。
 ただ、様々の方が指摘するように、本作においては、ビデオカメラを念動力によって自在に操れることから、これまでの同類の作品とは違って、色々な視点から安定した画像を得ることができるため、映画の面白さが増幅されることになります(注4)。
 例えば、高層ビルの屋上の縁に座るアンドリューらを、空中に浮かんだビデオカメラが撮影するという具合です。
 これが可能になれば、従来のPOV作品では見られなかった客観的な映像(神の視点からの映像)もふんだんに使えることになるので、まだるっこさがなくなり面白さが増すというわけです。

 また、下記(3)で触れる相木悟氏が、「大友克洋の漫画にもろに影響をうけたアクション描写」と述べているように、本作と大友氏の『AKIRA』との関係も注目されています(注5)。
 確かに、TSUTAYAで『AKIRA』を借りてきて見てみると、鉄男が超能力で周囲の物をことごとく破壊する有り様は(ついには、ネオ東京が海中に沈むことになります)、ずっと小規模とはいえ本作を彷彿とさせます。
 ただ『AKIRA』の鉄男は、単に、自分を取り押さえてコントロールしようとする勢力(「大佐」の一派)に対抗しようとしてその超能力を発揮しますが、本作のアンドリューの場合は、そのラストの方での行動について一応の理屈付けがなされているように思われます(注6)。

 本作は、SF映画を観客がスムースに受け入れることができるよう様々な工夫を凝らされていて、そこが興味深いところだなと思いました。

(3)前田有一氏は、「85年生まれの若いジョシュ・トランク監督による低予算映画ながら、全米初登場1位となった「クロニクル」は、スタイリッシュな映像が見所のSF映画。と同時に、迫真の青春学園ヒエラルキードラマでもある」として80点をつけています。
 また相木悟氏は、「若手クリエイターの才気がみなぎる、刺激的な一本であった」云々と述べています。




(注1)人気者になったアンドリューは、一人の女の子とベッド・インしますが、イザという時に女の子の頭に嘔吐してしまい、その話が学校中に広まって、またもや引きこもりの生活に入ってしまいます。

(注2)その力を、生き物に対して使わないこと、怒っている時に使わないこと、そして公衆の面前で使わないこと(誰にもそのことを話さないこと)をマットが決めます。
 アンドリューは承服できない素振りを見せるものの、マットとスティーヴはルールが必要だと主張します。

(注3)アンドリューは他人とうまくコミュニケーションが出来ない引きこもりタイプ(したがって、女の子はおろか、男の子の友達もいません)、マットは熟慮して行動するタイプ、スティーヴは根っから開放的なスポーツマン、という具合です。
 特にマットは、哲学方面の知識を持っており、ショーペンハウアーの本を読んでいますし(ショーペンハウアーに基づいて「すべての感覚的で肉体的な欲望は達成され得ない」などと言ったりします:この言葉は本作のラストを見ると意味深長といえます!)、パーティー会場に行くと、「ユングは「パーティーは自分の価値を確認するところだ(people's way of seeking widespread validation)」と言った」などと自分の知識を披瀝したり、結晶体のある穴を探検するときには“You ever heard of Plato's allegory of the cave?” と言ったりします。
 あるいは、制作者側にそうした傾向を持った人が入っているのかもしれません。

(注4)尤も、マットやその彼女のケイシーもビデオカメラを持って撮影することを趣味にしていて、本作は彼らの映像も使われているように構成されています。

(注5)さらにラストでは、マットはチベット・ラサのポラタ宮が背景に見えるところに立って、今は亡きアンドリューに「チベットに来たよ」と言います〔図書館でどこに飛んでいきたいかを語り合った時、マットはマウイがいいと言ったのに対し、アンドリューはチベットに行きたいと言っていました(スティーヴは、「チベットにはビキニの女がいない」と混ぜっ返します)〕。こんなところから、本作の制作者には東洋に対する憧れが強いように思われます(上記「注3」で触れるショーペンハウアーもインド思想とのつながりが強いようですし!)。

(注6)アンドリューは、消防士でありながら事故に遭遇して家でぶらぶらして酒浸りの父親からガミガミ言われるのに業を煮やして、超能力を使って父親を傷めつけてしまいますが、次第に、自分のような力を持った者は「頂点捕食者」(食物連鎖の頂点に位置する者)だと考えるようになり、自分の行動を規制しようとする者を排除しようとします(心配したスティーヴの話を聞こうともしませんし、アンドリューが放り投げた父親を救助したマットに怒りをぶつけ、ついには警官隊と対決します)。



★★★★☆



象のロケット:クロニクル

謝罪の王様

2013年10月14日 | 邦画(13年)
 『謝罪の王様』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)宮藤官九郎の監督・脚本作品として5月に『中学生円山』を見たこともあり、映画館に行ってきました。

 本作では、謝罪師である東京謝罪センター所長・黒島譲阿部サダヲ)の奮闘ぶりが、6つのエピソードで綴られますが、それらのエピソードはバラバラに描かれるわけではなく、相互につながりを持っています。
 例えば、「case1」では、帰国子女の倉持井上真央)が運転する車がヤクザの車に追突してしまった件が取り扱われるところ、倉持はその件が解決すると東京謝罪センターに居着いてしまい、あとのエピソードにも顔を出します(注1)。



 さらに、取り上げられるエピソードは、以前自分の娘にした仕打ちを謝るというプライベートで他愛のないもの(「case4」)から(注2)、外国の国王に日本の総理大臣が謝りに行くという大掛かりなもの(「case5」)まで幅が広く、なおかつ愉快な内容ですから、見ているものを飽きさせません。

 ただ、それらのエピソードは、テーマの「謝罪」という観点から見るとどうかなと思えるものもあり、それほど笑えるものでもないように思われます。
 例えば、「case1」では、黒島の奮闘でヤクザの親分(中野英雄)の許しを得るものの、肝心の倉持は、実際のところほとんど謝罪していないようなのです。
 また「case2」でも、会社員の沼田岡田将生)が共同プロジェクトの担当者の宇部尾野真千子)にセクハラをしてしまった件が描かれるところ、宇部が和解するのは黒島の意表をつくパフォーマンスによるもので、ここでも沼田はきちんと宇部に対して謝罪をしていません。



 興味深いエピソードは、大物俳優(高橋克実)と元妻の女優(松雪泰子)が、息子の引き起こした事件についてする謝罪会見を取り扱う「case3」でしょう。



 毎日のようにTVニュースで謝罪会見が流される今の風潮(例えば、東電の謝罪会見!)を風刺していて、それに着眼したことはとても面白いと思います。
 ただ、ここでもそれほど笑わせてはもらえませんでした。

 あるいは、現実の方が先を行っているような感じで、このくらいのデフォルメでは鋭い風刺にならないのかもしれません。
 例えば、10月8日に行われたみずほ銀行の佐藤頭取の謝罪会見では、頭取が「深々と頭を下げ続けた。その時間、およそ20秒」とニュースで書かれているのです!
 本作でも、「とりあえず20秒間謝ろう」というレクチャーが依頼人に対し授けられます。

 また、ちょうど同日の夜に放映されたNHKクローズアップ現代「氾濫する“土下座”」では、謝罪会見の練習を行う危機管理コンサルタント会社が実際に登場しています(注3)。
 本作では架空とされる「謝罪師」なるものが、どうやらすでに実在しているようなのです!

 こうなると、例えば、阿部サダヲ扮する謝罪師・黒島譲(注4)の仕事に大きな誤りが見つかり、自分自身が謝罪会見するハメになるとか、そんな謝罪会見などは元々無意味だったとかするくらい(あるいは、それ以上)でなければ、現実の事態はすでにどうしようもないことになっているのではないでしょうか(注5)?

 それでも、本作の主演・阿部サダヲの活躍ぶりは眼を見張るものがあり、更には、最後のエンドクレジットで映しだされるEXILEなどによるダンスシーンには圧倒されました。こうしたシーンを映画の中ほどに持ってくれば、インド映画のようにもっと楽しい映画になったのかもしれないと思ったところです。

(2)渡まち子氏は、「バカバカしい謝罪もあれば、本当に人の心をくんで頭を下げるケースも。主人公の黒島がなぜ謝罪師になったのかというエピソードにこそ、その謝罪のエッセンスが詰まっていた。ラストの謝罪ダンス・パフォーマンスまで、たっぷりと楽しもう」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「おじぎ文化を持つ日本において「謝罪専門業」という題材は、もっと人々をハッとさせる風刺にもなれたはずで、この程度で収束させてしまった点については不満を感じる」としつつも60点をつけています。



(注1)特に、「case4」で黒島のところに相談にやってくる超一流国際弁護士の箕輪竹野内豊)は、倉持の大学時代の講師なのです

(注2)上記「注1」の箕輪が、アメリカ留学中、大事な試験前だったにもかかわらず3歳の娘がしつこくフザケたので(「腋毛ぼうぼう、自由の女神!」という文句を繰り返しました)、手を挙げてしまったことを酷く悔やんでいます(実はこの娘が、………)。



(注3)同番組では「土下座」の流行について、さらに、映画監督の森達也氏が、「謝罪よりも、恐らく懲罰化しているんでしょうね」、「基本的には、ほとんどの人が土下座をしながらも、本気で謝罪はしてないでしょうし、また僕らも、それをなんとなく感じてるからこそ、見てて、あまりいい感じがしない。つまり屈服ですよね、謝罪ではなくて。全面的な屈服、降伏、そういったものを強要する」などと、また歴史家の山本博文氏も、「日本人は非常に名誉心が強い、その名誉心が強い人を、全面的に屈服させる形にするっていうことが、今の土下座の本質なわけですから、これはかなりなんて言いますかね、社会的には、相手に対する制裁のようなものがあるんですね」などと分析しています。

(注4)黒島は、ガードマンをやっていた時に入ったラーメン屋で、店員(松本利夫)のやったこと(湯切りの作業中に汁を飛ばし、黒島の顔面に当たったこと)を店員自身に謝罪して貰いたかったにもかかわらず、その気持がなかなか相手側に伝わらなかったところから、謝罪師になったとされています(「case6」の中で描かれます)。

(注5)話は飛躍しますが、最近もまた(10月11日)、人権問題について話し合う国連総会の委員会で、韓国の女性家族相が従軍慰安婦問題で日本を念頭に謝罪を要求し、日韓が反論を繰り返す展開となったそうですが、すでに村山談話や河野談話などが出され、アジア女性基金が設けられている現在、いったいどんな解決策がこの問題に見いだせるというのでしょうか〔「case5」のマンタン王国のエピソード(良かれと思ってした“土下座”が、マンタン王国では、相手を侮辱する仕草だったとは!)のように、まともな話が韓国との間では何も通じなくなってしまったような危機的な感じがします〕?



★★★☆☆



象のロケット:謝罪の王様

そして父になる

2013年10月10日 | 邦画(13年)
 『そして父になる』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)あちこちで流される予告編で本編を見た気になってしまい、わざわざ行くまでもないのではと思い始めたものの、これほど評判の作品ならばやはり見ておかなければと考え直し、映画館に行ってきました。

 映画の始めの方では、6歳の野々宮慶多のお受験風景が描かれ、父親・良多福山雅治)と母親・みどり尾野真千子)との一緒の面接で、慶多は「お父さんとキャンプに行って、タコ揚げをした」と答えますが、終わったあとで、良多が「パパとキャンプに行ったりしなかったよな?」と尋ねると、慶多は「塾の先生がそう言えって」と言います。
 家に戻るとみどりは、母親(樹木希林)に、「あとになって公立で苦労するよりも、今頑張っていた方がって良多さんが言うの」などと電話で話しています。
 夜になって職場から帰ってきた良多に対して、みどりは「もっと遅くなると思ってた」と急遽うどんを用意する一方、慶多も習っているピアノを披露します(どうもうまくありません)。
 そのあと自分の部屋で仕事をしている良多に対し、みどりは「今日は忙しいところをありがとう」と言うと、良多は「このプロジェクトが終わるとゆっくりできる」と答えますが、みどりは「6年間ずっとそう言っていた」と応じます。

 こんな細かい場面の積み重ねで、野宮家の中の様子が随分とわかってきます。
 大手建設会社に勤める良多は、仕事中心人間であり、自信に溢れていて、全てを自分の判断で処理しようとします。みどりは、そんな夫に甲斐甲斐しくついてきましたが、その母親同様、内心不満がたまっている感じです。また、子供の慶多も、おとなしい性格で自分の気持ちを内に抑えこんでしまうようです。

 そんな野々宮家に、慶多が生まれた前橋の総合病院から電話がかかってきて、物語が動き出します。
 信じ難いことに、病院で赤ん坊の取り違えがあり、慶多は実の子供ではなく、みどりが生んだ子供・琉清は前橋の斎木家〔父親・雄大リリー・フランキー)と母親・ゆかり真木よう子)〕で育てられていることが判明します。



 さあ、良多やみどりはどうするのでしょうか、………?

 ストーリー自体は予告編から想像されるものと殆ど変わりはなく単純そのものながら、実際に映画を見てみると、子供を交換するまでのそれぞれの家庭の様子、交換の手続き、そして交換したあとのことが、それぞれかなり繊細なタッチで入念に描かれていて(注1)、見る者を感動させ、そして、こうした厳しい場面に追い込まれたら自分の場合どんな風に判断すべきか考えさせられます(注2)。

 今が旬といった福山雅治は、『真夏の方程式』で見たばかりとはいえ、こうした地味な役も大層うまくこなしていて演技の幅の広さを感じます(注3)。



 尾野真千子も随分と売れっ子になりあちこちで元気な姿を見かけますが(最近では、『探偵はBARにいる2』で見ました)、本作の抑えた演技も印象的です。
 リリー・フランキーは、『凶悪』での悪役ぶりを見たばかりなのでいささか戸惑ってしまいますが、実に味のある演技をしています。
 真木よう子も、『さよなら渓谷』での渋い演技から本作での肝っ玉母さん的な演技まで抽斗の多い女優であることがわかります。

(2)とはいえ、違和感も覚えました。
 最初は、なんで父親が問題なのだ、子供の取り違えで一番傷つくのは母親ではないか(自分のお腹を痛めた子供と思っていたら、それが違っていたというわけですから:注4)、まずは「そして母になる」ではないのか、などと思ったりしましたが、本作は父親に焦点をあてているのだから(子供の取り違えを契機としながら父親のあり方を問うている作品ではないでしょうか)、これはこれで構わないのかもしれないと思い直しました。

 ただ、一方の当事者の良多が大手建設会社勤務のエリート社員で、都心の高級マンションの上層階で贅沢に暮らしているのに対して、もう一方の当事者の雄大は、前橋でしがない電気店(古びた平屋建ての店構え)を営んでいるという対立的な状況設定にすると、常識からすれば、人間的なのは後者だということになり、“そして父になる”のは良多の方だということに自ずとなってしまいます(注5)。
 これは現今のごく一般的な見方でしょうが(最近見た『エリジウム』や『アップサイドダウン』でも、「」の方で暮らす人たちは富裕で、かつ非人間的とされていて、対する「」で暮らす人間は、人間的ながらも、「上」の人間に搾取されているとされます!)、仕事に邁進する良多の生き方だって十分評価できるのではと思われ(注6)、何も雄大のようにいつも家にいて、子どもとタコ揚げをしたり、一緒に風呂に入ったり、おもちゃをハンダゴテで直したりするばかりが良い父親の条件ではないのではと思ってしまいました(注7)。



 それになんだか、一方の雄大は重厚長大時代を引き摺っている人、他方の良多はその後の軽薄短小時代の人のように見え、第二次産業から第三次産業へウエイトが移ってきている今に適合しているのは、雄大ではなく良多であり、彼が頑張って仕事一筋というのも当然ではないのか、少なくとも父親としては同レベルと見るべきではないのか、と考えるのですが(注8)。

(3)渡まち子氏は、「私生活でも俳優業でも父親の経験がない福山雅治だが、繊細で見事な演技を披露している。他のキャストも絶妙。子供たちの自然な演技もまた素晴らしい。複雑で深いストーリー、脇役に至るまで丁寧な人間描写、俳優の良質な演技を引き出す是枝監督の演出の上手さが光る、年間屈指の秀作だ」として90点もの高得点をつけています。
 また、前田有一氏は、「「6年間育てた息子を交換できるか」この一点シミュレーションで見せる「そして父になる」は、人間ドラマとしてもエンターテイメントとしても優秀で、この月に一本選ぶならコレ、レベルの出来のよさ。アイデアもいいし、イクメン時代の男性たちの共感を得られる題材だし、映画作りもうまい。見ていて単純に面白し感動もある。適齢期以降の男女、とくにカップルで見られる真面目な映画として貴重である」などとして75点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「共に暮らした慶多と新たな愛情が芽生える琉晴への想いに葛藤する良多とみどりの感情を、ドロドロとした展開なしに繊細かつ丁寧にすくい取り、子供をお涙頂戴のダシにせず、リアルな空気感を醸成する監督の演出力はさすがという他ない」等と述べています。




(注1)本作を制作した是枝裕和監督の作品としては、最近では、主演のペ・ドゥナが印象的な『空気人形』や、本作同様に子役が活躍する『奇跡』を見ています。

(注2)この映画に登場する病院側(小倉一郎:事務長でしょうか)は、できるだけ早く交換した方がいい、これまでの他の例でもそうだ、などと述べますが、それは事態の早期収拾を図りたい病院側の思惑が混じっているように思われます。
 良多の継母(風吹ジュン)が、「血なんて繋がらなくても情は湧くし、親子なんてそんなもの、私はそういうつもりであなた達を育てたんだけどな―、」と良多と彼の兄に対して言いますが、
 やはり6年間一緒に暮らしてきたことは重要な点ではないかな、と思います。
 とはいえ、良多は生みの母に会うために小さい頃家を飛び出したこともあるようで、またみどりも琉清と暮らし始めると、「琉清が可愛くなってきた、慶多に申し訳なくて、あの子を嫌っているようで」と言い出したりして、血の要素も見過ごしには出来ない感じです〔良多の父(夏八木勲)も、「親子ってのは血だ、人も馬と同じで血が大事なんだ」と言います〕。
 多分この映画の行き着くところもそうなるのではと想像するのですが、これまで通り野々宮家は慶多を、斎木家は琉清を育てることとし、ただ両家の交流は密にして、子供たちの理解を待つということではないのかな、と思うところです。

(注3)この映画を見る前に、『徹子の部屋』に出演した福山雅治を見たのですが、TVカメラが入り込んだ録音中のスタジオに置いてあったギターが、良多の部屋にも置かれていたのではと思われ、またその番組でカメラ好きであることを話していたところ、本作でも良多のデジカメが重要な働きをします。それに、良多が、自分の子供の頃の写真と琉清の写真を見比べるシーンがあるところ、その際に使われた写真は、同番組で映し出された福山の子供の頃の写真です。

(注4)劇場用パンフレット掲載の真木よう子のインタビュー記事の中に、「本編ではカットされてしまった台詞の中に、「男はどうせわからない。だって私たちはお腹を痛めて産んだんだから」というものがあ」った、とあります。

(注5)ラストの方でも、慶多に良多は「出来損ないだけど、パパだったんだよ!」と謝りますし、ラストでは雄大の電気店に皆が集まって家の中に入っていきます。
 全体として本作は、良多が雄大の子供の育て方をあるべきものとして評価する方向に向かっているように思えます。

(注6)忙しい仕事の合間を縫って、子供の入学試験に付き合ったり、父兄参観日にもでかけ、家では慶多のピアノ練習を聴いたりもしているのですから。

(注7)この点は、本文の(3)で触れる前田有一氏も触れているところです。 すなわち、同氏は、「福山雅治演じる野々宮は、私に言わせれば最初から十二分に良い父親である。物語的におさまりがいいとはいえ、わざわざ映画の中で「成長」する必要は感じない。そうした展開は下手をすると偽善的に見えてしまう。およそ親子愛というものは、多少のグダグダや親の至らなさを吹き飛ばす無条件の絆である。理想主義的かもしれないが私はそう思うし、わざわざ「立派な父親」にならずとも、必死にわが子を育てているありのままを肯定するメッセージのほうがより現代的で力強い」と述べています。
 ただ、こうした言い方では、リリー・フランキー演じる雄大の方が、「立派な父親」でありレベルが上であることを認めてしまうことにもなるのではないでしょうか?
 前田氏が言っていることは、今の良多で十分であり、何も雄大に「成長」することはないということでしょうが、でも、そうではなく、良多と雄大とは、父親という点から見ると、同じレベルなのだと考えられもするのではないでしょうか?

(注8)と言って、自分たちの世界は自分たちだけで動かしていけるといったような良多のこれまでの考え方を肯定するわけではありません。
 映画『エリジウム』や『アップサイドダウン』では、富裕層が壁を作って自分たちだけの世界を築きあげているように描かれていますが、それは難しいことではないでしょうか?
 良多は、宇都宮の研究所に行って自然界の奥深さにも気づきますが(セミが羽化するまでに10年以上かかることを知らないなんて!)、自分やその同類以外の者について、もっと大きく視野を広げて認識・評価していく必要があるのではと思います。



★★★★☆



象のロケット:そして父になる

アップサイドダウン

2013年10月08日 | 洋画(13年)
 『アップサイドダウン 重力の恋人』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)本作は、先週見た『エリジウム』とかなり類似するシチュエーションの映画です。
 なにしろ、一つの惑星のすぐ上空に別の惑星が浮かんでいるのです(注)。
 それぞれの惑星は地球とそっくりながら、上空の惑星は「上の世界」とされ富裕層が住み、下の惑星は「下の世界」とされ貧困層が暮らしています。
 ただ、重力が反対方向に作用していて、それら2つの世界の間での交流は法で禁じられています。
 そんな中で、偶然に、「下の世界」の少年アダムと「上の世界」の少女エデンとが知り合い親しくなるものの、警備隊に見つかってしまい、二人は引き裂かれてしまいます。
 10年後に、大人になったアダム(ジム・スタージェス)は、2つの世界をつなぐ巨大企業トランスワールド社にエデン(キルスティン・ダンスト)が働いていることを知ります。そこで彼もなんとかその会社に就職するのですが、果たして二人は再会し、一緒になることができるのでしょうか、………?

 

 反対方向に作用する重力を持つ惑星が近接しているという設定は意表をつくもので、その設定に基づいてスクリーンに描き出される映像が大層美しく、また『エリジウム』では不十分にしか描かれていないラブストーリー的な面が展開されてもいて、それなりに面白い作品だなと思いましたが、SF的な部分は突っ込みどころが多そうです(注)。

(2)本作では、強く愛する二人がそれぞれ乗り越えがたい問題を抱えているという「ロミオとジュリエット」(あるいは「ウエスト・サイド・ストーリー」)式のラブストーリーが中心的に描かれているとはいえ(注)、悲劇に終わるのではなくハッピーエンドを迎えるのですから(注)、となるとやはりSF的なシチューションの方に目が向いてしまいます。

 といっても、2つの惑星がこんなに近接したまま中に浮かんでいることなどありえないなどと言ってみても始まりません。本作は、そういう前提で出発して作られたファンタジーなのですから。

 さらに、そのファンタジーの世界には3つのルールが設けられていると、映画の冒頭で説明されます。
・どの物質も、それが生み出された星の重力の作用を受けます。
・反対の星の物質は「逆物質」といわれ、上に落下したり、下に上昇したりします。
・「逆物質」に長時間触れていると燃え出します。

 でも、麗々しく掲げる割には、余り厳密には守られてはいないようです。
 例えば、最初の方で、少年アダムは、立入禁止の「賢者の山」へ登って行き、そこで紙飛行機を上に向かって飛ばすと、それは「上の世界」にある山に飛んでいってしまいますが、偶然そこに居合わせた少女エデンが拾うことになります。ですが、どうして「上の世界」に行った紙飛行機は、「下の世界」に“上昇”してしまわないのでしょうか?また、エデンが手にしたら、どうして燃えてしまわないのでしょう?
 とは言え、それは二人が知り合うきっかけとなる出来事なのですから、大目に見る他はありません。

 また、「上の世界」と「下の世界」を行き来できるピンク・ミツバチの集める花粉が重力の作用を排除する力を持っていることから、アダムは、顔のシワを伸ばすことができるクリームを作り出すことに成功しますが、そんな場面などを見ると(注)、一々目くじらを立てることなく、おとぎ話的なユーモアがいろいろと仕込まれていると受け取ったほうがよさそうです。

 それでもよくわからないのは、『エリジウム』でも同じように思ったのですが、「上の世界」で暮らす富裕層の富はどこから生まれるのかという点です。
 本作のオフィシャルサイトのイントロダクションには、「下の世界の燃料を不当に搾取する富裕層の上の世界」とあります。要するに、「下の世界」は「上の世界」の植民地ということでしょうが、「燃料を不当に搾取する」とはどういうことでしょうか?
 あるいは、今の世界でいえば、富裕な国が、貧困国にある石油を独り占めしてしまうということでしょうか?
 ただ、映画の中では、「「上の世界」は電力を高い価格で「下の世界」に売る」とも説明されていますから、「上の世界」は、「下の世界」の「燃料」から電力を作り出して、それを 「下の世界」に高く売りつけているということなのでしょうか?
 でも、「下の世界」は、「上の世界」に対して電力の対価をどのような形で支払うというのでしょうか?
 金で?紙幣で?でもそんな物は、「上の世界」に持っていけば燃えてしまうのではないでしょうか?

 しかしそれを言うのも野暮の極みでしょう。なにしろ、「上の世界」の高い山と「下の世界」の高い山の頂上同士が近接している様を描き出している映像などは、とても素晴らしくうっとりと見入ってしまうほどなのですから!



(3)渡まち子氏は、「身分違いの恋という古典的ラブストーリーと、誰も見たことがないドラマチックな映像の組み合わせが斬新な1本だ」として65点をつけています。
 また、北小路隆志氏は、「恋人たちの間で働く引力が、いかにして重力の法則との戦いに勝利するか………との命題を介し、明快に可視化される点こそ本作の新しさであり、誰もが一度は頭を悩ます“恋愛とは何か?”との問いに答えを示す魅力的な愛の寓話を形作るのだ」と述べています。




(注)この双子の惑星にそびえるそれぞれの高い山が、逆向きながらもすれすれで接近していたりするのです!

(注)アダム役のジム・スタージェスは、『ワン・デイ―23年のラブストーリー』でエマ(アン・ハサウェイ)の相手役のディクスターに扮していました。
 また、エデン役のキルスティン・ダンストは、あの印象的な作品『メランコリア』で主役のジャスティンを演じています。

(注)エデンは、警備隊に追われた際に墜落し、頭を強く打って記憶を喪失してしまいます。アダムが再会しても、彼女はなかなか思い出すことが出来ません。アダムが思い余って彼女に手を握ったりすると、エデンは逆に怒り出してしまいます。
 一方でアダムは、その怒りを解いて、エデンの関心を自分に向けさせるよう努力を傾け、他方でエデンは次第に記憶が蘇ってきますが、ここらあたりが本作の見所なのでしょう。

(注)他にも、アダムは、「逆物質」を装着したチョッキを身にまとって「上の世界」に侵入しますが(それで「上の世界」でも正常に歩けるようになります)、トイレで用を足すと、小便は下降せずに上昇してしまい、それが天井を這って行き感知器に入り込んで非常ベルが鳴り渡ることになります(小便でそうなるのなら、汗だって、ひいては体内の血液も、逆向きに流れることになるのではないでしょうか?)。
 また、エデンは、双子を妊娠したために体質が変わって「下の世界」でも普通に暮らせる体になりますが、単に妊娠したくらいで(重心が下にズレるから?)、もう一つの世界の重力の作用を受けなくて済むというのなら、これまでも2つの世界は簡単に行き来ができたのではないでしょうか?




★★★☆☆




象のロケット:アップサイドダウン

凶悪

2013年10月03日 | 邦画(13年)
 『凶悪』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、実話(注1)に基づいたフィクション。

 主人公の藤井山田孝之)は、大手出版社が刊行している雑誌の記者です。



 あるとき、会社に死刑囚から手紙が届き、雑誌の編集長から調査するように言われます。
 そこで藤井が、ある事件で死刑の判決(最高裁へ上告中)を受けている須藤ピエール瀧)に面会すると、須藤は、「誰にも話していないが、自分には余罪が3つある。こんなことを言うのは、その3つの事件の首謀者である木村リリー・フランキー)が娑婆でのさばっているからで、彼に復讐したいのだ」と告白するのです。

  

 藤井から話を聞いた編集長は、記事にならないと取材の中止を彼に言い渡します。
 ですが、藤井は須藤の熱意にほだされたのでしょう、調査を始めます。
 ただ、須藤が話した事件は茫漠としていて輪郭をつかむのが難しそうです。さらに、彼の家庭では認知症の母親(吉村実子)を抱え、妻・洋子池脇千鶴)との関係がうまくいっておらず、取材を続けるには最悪の状況にあるといえます。
 さあ、藤井は、このさきうまく取材を続けていくことができるでしょうか、………?

 本作は、「埼玉愛犬家連続殺人事件」(園子音監督の『冷たい熱帯魚』で描かれました)にも似たグロテスクな実話に基づいた作品ですから、目を背けたくなるような殺人シーンが何度も描き出されますが、不思議な事にとても面白くこの映画を見ることが出来ました。脚本や映画の撮り方とか、出演した俳優陣の熱演によるものと思われます(注2)。

(2)『冷たい熱帯魚』に関する拙エントリで書きましたが、その映画で「主に描かれているのは、崩壊しかかっている家族」ではないかと思いました。
 すなわち、主人公の社本吹越満)の「現在の妻は後妻で、娘はこの継母を酷く嫌っているばかりか、母親の死後すぐにそんな女と結婚した父親をも大層憎んで」おり、また後妻も、夫が「営む熱帯魚店が酷くシャビイなこともあり、結婚したことをいたく後悔してい」るのです。
 こうしたことに、本作の主人公・藤井の家庭がかなり類似しているようにみえます。
 どちらの家庭も崩壊しかかっているのです(注3)。

 その上、一方の社本は、殺人鬼・村田でんでん)の人殺しを見ると、警察に通報すべきにも関わらず、次第に共犯者的な関係に陥りますが、他方の藤井も、殺人鬼・須藤の告白を聞くと、編集長の消極的な姿勢にもかかわらず、余罪の3件の殺人事件の解明にのめり込んでしまうのです。

 ただ、『冷たい熱帯魚』の主人公は、自分の家庭をなんとか立て直そうとして、結局は死ぬハメになるものの、「ある意味で社本は、最後に自分の思いを成し遂げて死んだのではない」かと思われるところ、本作の藤井の場合、その家族は元に戻ることはないのではないかと思われます(注4)。

(3)同じように“悪”という言葉がタイトルに使われていることもあり、最近そのDVDが出された『悪の経典』(三池崇史監督、2012年)を、TSUTAYAで借りてきて見てみました。

 この映画の物語は、生徒の間で絶大な人気のある高校教師の蓮実伊藤英明)が、実はサイコパス(反社会性人格障害)であって、自分にとって目障りとなる人間を次々に殺してしまうという、これまた実に陰惨なものです。
 とはいえ、それだけのことですから、悪とは何か家族とは何かといった問題を考えさせることもなく、ラストの蓮実による大量殺人のシーンに流れ込んでしまいます〔まるで、同じ監督の『十三人の刺客』のように、スポーツショーを見ているかのごとくです。同作では、ショーの最初に、主人公の島田新左衛門(役所広司)が、「斬って斬って斬りまくれ!」と仲間に向かって叫びます(注5)〕。

 ですが、例えば、吹越満が扮する釣井先生(蓮実の怪しい過去を調べて真相に接近)は、電車の中で蓮実によってブラックジャックで頭を打たれ、気絶したところを自殺したように偽装されてしまいます。
 また、釣井先生から話を聞いた生徒の早水圭介染谷将太)も、蓮実によってガムテープでぐるぐる巻きにされたあと、理科室でハンダゴテで殺されてしまいます。
 こんなところを描くシーンからは、本作において須藤が殺人を犯すシーンと通じるものを感じます。

 ただ、蓮実が、仮に「サイコパス」ということで死刑を免れることになるとしたら(注6)、本作の須藤にしても、人を殺す際のあの恐ろしい顔つきなどから、同じように「サイコパス」とみなされる可能性はなかったのでしょうか(どうやら、須藤はとんでもない数の人を殺しているのではないかと疑われるのですが)?

(4)渡まち子氏は、「死刑囚の告発で明かされる、おぞましい人間の本質を描く衝撃的な社会派サスペンス「凶悪」。出演俳優たちの張りつめた演技合戦が見所」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「海外作品のように実名バリバリとまではいかないものの、昔から実録犯罪路線は我が国でも盛んに造られ、ご存じのように数々の名作を生み出してきた。それが今回、若松孝二監督の弟子筋の白石和彌監督が手掛けるというのだから、否が上でも期待は高まったのだが…。これが予想を上回る、ハイ・クオリティな一作であった」と述べています。
 さらに、柳下毅一郎氏は、「死刑囚と記者、二人の運命を狂わせる「先生」は、いわばフィルム・ノワールのファム・ファタールのような存在だ。暴力性をひたかくし、巧みな口説で相手をあやつる「先生」はどこか女性的にも見える。これは魔性の存在にとらわれた男たちの恋愛ドラマなのである」と述べています。




(注1)本作の原作は、『凶悪―ある死刑囚の告発』(「新潮45」編集部、新潮文庫)。同書で取り上げられている「上申書殺人事件」については、ネットでは例えば、このサイトの記事を。

(注2)主演の山田孝之は、最近では、『ミクローゼ』や『その夜の侍』などで見ていますし、またピエール瀧は『俺達急行』で、リリー・フランキーは『きいろいゾウ』や『モテキ』で見ています。
 特に、山田孝之が、面会室でピエール瀧の須藤と話をするごとに変化していく藤井の様をうまく演じているのには感服しました。

(注3)さらにいえば、木村が逮捕され起訴されることになる殺人事件の被害者の家庭も崩壊しています。
 なにしろ、電気店を営む被害者の妻(白川和子)は、保険金で多額の借金の弁済ができるとの木村の話に飛びついて、夫の殺害に同意してしまうのですから(加えて、実の娘もその夫も同意するのです)。

 なお、木村の裁判には須藤が証人として出廷するところ、須藤は木村に対して、「ねえ、先生、地の底まで一緒に行きましょう」と言い放ちますが、こんなところは、『許されざる者』のオリジナル版で、シェリフのダゲットがマニーに対して「地獄で待っているぜ」と言うところを連想させます〔同作のリメイク版に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕。

(注4)ラストの方で、藤井と洋子とが一緒になって、藤井の母親を老人ホームに入所させるシーンが映しだされますが、だからといって藤井と洋子との関係が元に戻ることはないように思われます。たとえ洋子が差し出した離婚届に藤井がまだ印を押していないとしても、藤井は、この先も須藤や木村の犯した犯罪を追求していこうという強い意気込みを持っているのですから。
 なお、このシーンは、車椅子に乗った老人たちが向かう先に老人ホームがあって、その前で木村が須藤に、「どうしようもない老人が次から次に現れる。まるで油田だ。そいつらを殺すだけで、金が溢れてくる」と語るシーンにダブってきます。

 こんなところを見ると、随分練り上げられた脚本だなと思いました。

(注5)三池監督の『十三人の刺客』では、敵方300人に対して刺客13人が挑むわけで、一人あたり25人弱と蓮実先生(ラストで散弾銃で殺したのはおよそ40人)よりも少ないですが、まあ似たり寄ったりでしょう。

(注6)映画『悪の教典』の最後には「to be continued」という字幕が表れ、蓮実がこの先まだ生き延びることを示唆しています。




★★★★☆




象のロケット:凶悪