映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

クィーン・オブ・ベルサイユ

2014年08月29日 | 洋画(14年)
 『クィーン・オブ・ベルサイユ 大富豪の華麗なる転落』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)これは、アメリカで大評判を取ったドキュメンタリー作品ということで見に行きました。前回は休日に見に行ったところ満席だったので今回は平日にしたら、それでもほぼ満席状態でした。

 本作(注1)は、タイムシェア(共同所有)リゾートビジネスであてて一躍大富豪(注2)となったデヴィッド・シーゲルが、元ミセス・フロリダのジャッキーと結婚して(注3)、豪奢な生活を送っていたところでリーマン・ショック(2008年9月)に遭遇し、一転してシーガルの会社は巨額の負債(1200億円)を抱えるはめになり(注4)、二人の生活が激変するという次第を描いたものです。

 なかでも見ものは、「ベルサイユ」と名付けられた大邸宅。



 ジャッキーが、「昔はトイレが1つ寝室が3つという狭い家に住んでいたが、それに比べて今住んでいる家は2415㎡あり、トイレも17あるほど広い(注5)。にもかかわらず、物が入りきらないために、近くに新しい家を建築中だ」として、まだ完成していない家の中を案内するのですが、その規模たるや途轍もないものです。
 外観は、フランスのベルサイユ宮殿とラスベガスにあるパリス・ラスベガスを重ね合わせたもので、10のキッチン、15のベッドルーム、500人収容できる大舞踏場などが内部にあり、また外には観覧席のあるテニスコートとかフルサイズの野球場まで設けられるのです。
 全体で8361㎡、総工費100億円とされ、アメリカ最大の一戸建て住宅となるところでした(2006年に建設着手)。
 ですが、6割ほど完成したところで資金が途絶えて、建設が中断してしまいます。

 本作は、あるアメリカの大富豪とその妻が絶頂を迎えた途端に奈落に落ちる様を描いたドキュメンタリー作品で、その副題に「大富豪の華麗なる転落」とあるので、どんな転落ぶりが描き出されるのかなとミーハーとして興味津々だったところ、実際には、急降下したとはいえ主人公に収入がなかったわけではなく、むろん以前の豪勢な暮らしは無理としても、あいかわらず庶民とはかけ離れた生活ぶりを見せつけられるので、拍子抜けしてしまいました。

(2)確かに、シーゲルの会社では数千人の従業員を解雇し、所有する資産のかなりのものを売却し、19人いた家政婦を3人に減らしたりしているものの(注6)、あいかわらずこれまでどおりの豪邸暮らしを続けています。
 そればかりか、ジャッキーは、「節約」と称してリムジンをマクドナルドに横付けして、これからはナゲットも食べなくてはなどと言ったりします。
 さらには、シワ取りのためのボトックス注射を欠かしませんし、ウォルマートで買い物するといっても、同じようなものを無駄にいくつも買ってくる有り様。
 家が差し押さえられている高校時代の友人のティナに(低所得のため、車が買えず、クレジットカードも持てない)に5000ドル贈ったりもします(注7)。
 あるいは、ジャッキーは、「30万ドルの家に住むことになって寝室が4つになってしまっても、2段ベッドで寝ればいい」と言い放ちます。

 本作と比べるとしたら、ドキュメンタリー作品ではありませんが、最近では何と言っても『ブルージャスミン』でしょう(注8)。
 なにしろ同作は、主人公のジャスミンが、ニューヨークで豪勢な暮らしを送っていたところ、夫の事業の失敗によって無一文になってサンフランシスコで暮らす妹を頼るというものなのですから。そして本作と同様、無一文になってもなかなかそれまでの生活が忘れられずにいろいろな失敗を犯してしまうという点でも、類似するところがあります。
 でも、大きく異なる点は、同作においてジャスミンの夫は、詐欺容疑でFBIに逮捕されて自殺してしまうのですが、本作のジャッキーは、8人の子どもとともにしっかりと夫を捕まえて放さないでいるところでしょう(注9)!

(3)渡まち子氏は、「成金夫婦の転落を描いているのに、終わってみれば、なかなかいい家族ドラマを見たような気がしてしまった」として60点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「どこかがズレた感覚をふりまく合間に覗くジャッキーの金銭への執着とその反対の無頓着。これはアメリカンドリームの付属品?いずれにしても大きすぎるスケールがゴージャスで笑える」として★4つ(見逃せない)をつけています。
 島田映子氏は、「決して立ち止まらない飽くなき消費欲をご堪能下さい。ぜってー真似できないし、したいとも思わないけどさw」と述べています。



(注1)本作の監督は、ローレン・グリーンフィールド。彼女は監督インタビューにおいて、「この映画は、ベルサイユ建設計画についてのコメディとして始まりますが、デヴィッドとジャッキーが金融危機の圧力に対処していくにつれて、悲劇へと変化していきます。それは、家や夢を失うという現実に直面した、あらゆる社会経済レベルの家族たちと同じなのです」などと述べています。

 なお、本作の概要については、このサイトの記事が大層参考になると思います。

(注2)その純資産額は1800億円とされています。

 ところで、本作の劇場用パンフレット掲載の竹田圭吾氏のエッセイ『クィーンの悲喜劇、ニューリッチ王国の虚栄』によれば、アメリカにおける「格差の現実は凄まじ」く、「所得が最も多い上位1%の国民(スーパーリッチ)が占有する全体所得の割合」は「リーマン・ショック直前の07年には23・5%に達していた」とのこと。
 こうしたことが背景になって、アメリカでは、本作について「全米最大のレビューサイト・Rotten Tomatoesで94%という驚異の満足度を記録した」そうですし(この記事)、またフランスの経済学者トマ・ピケティが書いた『Capital in the Twenty-First Century』〔資本収益率(r)が経済成長率(g)よりも基本的に大きいことなどを主張:なお、このサイトの記事を参照してください〕がベストセラーになったのでしょう!
 ちなみに、メリカほど格差が開いていないとされる日本では、本書の翻訳本は本年末に刊行されるようですが(この記事)、果たしてその売れ行きはどうなるでしょうか?

(注3)2000年に31歳の年の差ながらも結婚(65歳と34歳で再婚者同士)。
 映画の撮影開始時(2007年)は、72歳と42歳ということでしょう。

(注4)上記「注1」で触れたサイトの記事によれば、タイムシェアの対象となるリゾートマンションの購入費用(年に1週間利用できる権利の購入)は2万5000ドル。購入者は申込時に約10%の手付金を支払い、残金は10年間の分割払いとなります。他方で、シーゲルの会社「ウェストゲート」は、約5%の利率で金融機関から融資を受け、それを購入者に18%の利率で貸し付けています〔このような高い金利にもかかわらず「ウォルマートのお客さん」(劇場用パンフレット掲載の町山智浩氏のエッセイ「アメリカン・ドリームの首領シーゲル」より)が借りたのは、利用権を転売したら価格の上昇によって返済できると見込まれたからでしょう〕。
 ただ、金融機関がウェストゲートに融資をしている間は、同社はその金利差だけの利益を獲得できますが、リーマン・ショックにより金融機関から同社が融資を受けられなくなると、収益があげられなくなるどころか資金自体がショートしてしまうでしょう。

(注5)フロリダ州オーランド近郊の湖に面する「シーガル・アイランド」という邸宅。
 上記「注1」で触れたサイトの記事によれば、新しい邸宅「ベルサイユ」は、「シーガル・アイランド」から8㎞離れたところに位置するとのこと。
 ちなみに、オーランドに新邸宅があるために、「その窓からデズニー・ワールドの花火が見える」とジャッキーは説明したのでしょう。

(注6)シーゲル夫妻には7人の子どもがいて、さらに一人養子としてもらっていますから、その面倒を見るだけでも何人かの家政婦は必要かもしれませんが。



(注7)後から、家は取り戻せなかったとの電話がティナからかかってきます。

(注8)本作の前半で描かれるシーゲル夫妻の豪奢な生活ぶりは、ニューリッチのド派手な暮らしぶりという点で、『華麗なるギャッツビー』とか『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で描かれているものと類似していますが(大邸宅、プライベートジェット、大型クルーザー!←上記「注2」で触れた竹田氏のエッセイに依ります)。

(注9)余りに金銭感覚が麻痺してしまっているジャッキーに対して、どうもデヴィッドは嫌気がさしているようです。
 仕事から帰って家に入ると、どこもかしこも電気が煌々と点いているのに怒り、「不要の電気を消せ」と言って自分の書斎に入ってしまい、食事もそこで取るようになってしまいます。ですが、ジャッキーは夫の言っていることが理解できずに、夫が怒っているのは家族の愛情の示し方が足りないせいだと考えて、自分が言うばかりか、子どもにまで夫に対して「愛している」と言うように求めます。これに対して、デヴィッドの方はうるさがり、「不要な電気は消せ」と繰り返すばかりです。



★★★☆☆☆



象のロケット:クィーン・オブ・ベルサイユ

友よ、さらばと言おう

2014年08月27日 | 洋画(14年)
 『友よ、さらばと言おう』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)これは、『クイーン・オブ・ベルサイユ』を見ようとして映画館に行ったものの、公開直後の休日のためか上映1時間前ですでに立ち見席のために諦めて、代わりの映画として見たものです。

 本作(注1)の舞台は、南フランスの港町トゥーロン
 以前は同僚刑事として親しくしていたシモンヴァンサン・ランドン)とフランクジル・ルルーシュ)ですが、シモンは大きな交通事故(注2)を引き起こして警察を懲戒免職になってしまいます。
 でも、フランクは、今では警備会社に勤務するシモンの面倒をいろいろ見ようとしているところ(注3)、離婚した妻アリスナディーン・ラバキー)のもとにいるシモンの息子のテオが、マフィアが人を殺している現場を目撃したために(注4)、マフィアにしつこく付け狙われることになります(注5)。
 そのことを知ったシモンはテオをマフィアの手から守ろうとし、フランクもそれに協力するのですが、果たしてうまく守りきれるのでしょうか、………?

 本命の代わりに見た作品ながら、そして随分と単純なストーリーのアクション映画とはいえ、アクションシーンにかなりのスピード感があって、まずまずの出来栄えの作品だなと思いました。加えて、主演のヴァンサン・ランドン(注6)の渋さが光る演技がよく、またジル・ルルーシュがヴァンサン・ランドンの親友役に扮するところ、これまた随分の活躍です。

(2)前半の山場は、テオがマフィアによる追跡を辛くも逃れ切るところでしょう。
 逃げる方は9歳の子どもですし、追う方は大の大人ですから、スグに捕まってもおかしくないとはいえ、そこは街をよく知るテオ。何とか逃げ切って警察に保護されます。
 ですが、事情を聴取しただけで、警察はそのままテオらを帰宅させてしまいます。
 すると、警察署の前で待ち構えていたマフィアの一味がテオを殺そうとするものの、様子を見ていたシモンがマフィアを倒し、その隙にテオは走って逃げます。



 その後を別のマフィアがオートバイで追跡し、さらにその後をシモンが追いかけます(注7)。
 最後にはフランクが駆けつけテオとシモンは助けだされるとはいえ、そこに至るアクションシーンはなかなか優れていると思いました。

 ここから、シモンとフランクは、守る一方よりも攻めるべきだとして、付け狙うマフィアを叩き潰そうとし(注8)、挙句はTGV内での必死の戦いとなって大いに盛り上がるのですが、それは見てのお楽しみ。

 シモンを演ずるヴァンサン・ランドンは、自分の犯した罪(交通事故で3人も死なせてしまった)の重さから逃れ切れずに毎日鬱々として過ごしていながらも、警備会社では本来の正義感が頭をもたげて新入りを虐める古参の警備員を懲らしめたり、息子テオを救い出すために超人的な活躍をしたりという、なかなか難しい役を説得力ある演技でこなしています。



 また、ジル・ルルーシュが、前作の『この愛のために撃て』における逃げまわる役と正反対の追っかける役(注9)においても本領を発揮していることを付け加えておきましょう。



(3)渡まち子氏は、「強い絆で結ばれた男たちが、愛するものを守るために命がけで戦うフレンチ・ノワール「友よ、さらばと言おう」。いぶし銀の魅力とはこういう映画のことだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「これから作っていたらこの監督もここまでの高評価は得なかったであろう。あくまでこれまでの成功があるからこその、新たな引き出しの披露。フレッド・カヴァイエ監督、ハリウッド進出への期待が高まる一作といえる」として60点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「かつての仏製暗黒映画にあったハートに原題の高速アクションを加えて見る者の心をつかんで離さない」として★3つ(見ごたえあり)をつけています。


(注1)原題は「Mea Culpa」(この記事によれば、ラテン語で「わが罪」の意味)。監督・脚本は、『すべて彼女のために』や『この愛のために撃て』のフレッド・カヴァイエ

(注2)シモンが運転しフランクが同乗する車が、交差点で乗用車の側面に衝突、その車に乗っていた家族が死んでしまいます。被害者の中には3歳の幼児が含まれていたことや、シモンがアルコールをかなり飲んでいたことなどから、その責任が大きく問われ、彼は懲戒免職になるだけでなく6年間刑務所に入っていました。
 ただ、この事故にはなにか裏があるようです〔補注〕。

(注3)フランクは自分に娘マノンがいるにもかかわらず、シモンの元妻のアリスのところで暮らすテオの面倒を見ています(マノンはパリの姉に世話してもらっています←フランクも一人暮らしのようです)。
 テオが、算数の勉強をしている最中に、「パパは刑務所にいたの?」とか「死んだ親子のことを知っている?」などと尋ねるので、フランクは「パパは悪くない。自分が悪くなくとも刑務所に行くことはある」などと答えます。

(注4)テオは、アリスが今付き合っている男ジャン・マルクと一緒に闘牛場に行きますが(「フランスで闘牛?」と思ったところ、例えばこのサイトの記事を見るとフランスでも盛んなようです)、一人でトイレに行ったところでマフィアの殺人現場を目撃するはめになります。

 なお、アリスは、ジャン・マルクが闘牛に興奮するのを冷ややかに見ていて、「子供向けじゃない」などと言ったりします。この二人はあまりうまくいっていないようです(テオたちがマフィアの追跡を逃れてフランクの家に集まった時に、アリスはそばにいたジャン・マルクに、「もう帰って、電話もしないで」と言い放ちます)。
 とはいえ、前の夫のシモンとも、子どもの柔道の試合だから早目に見に来てと言っていたにもかかわらず仕事で遅れてしまい試合後に会場に現れるたりするので、うまく行きません(毎週シモンはテオと会うことになっているのですが)。

(注5)トゥーロでは麻薬がらみで殺人事件が何件か起きていて(当然、マフィアが絡んでいるのでしょう)、フランクはその捜査に従事しています。

(注6)ヴァンサン・ランドンは『すべて彼女のために』で見ました。

(注7)シモンがマフィアと戦うさまを見て、あとでテオがシモンに、「柔道やったことがあるの?」と尋ねると、シモンは「昔だけどな」と答えます。
 柔道を習っているテオは、父親シモンを誇らしく思うようになるでしょう。

(注8)シモンは、マフィアの一味が集結する場所(ホワイト・ノッドというクラブ)に独りで乗り込もうとしますが(勤務する警備会社から沢山の拳銃を盗みだして←フランスでは、警備会社が銃を沢山所有しているようです!)、フランクが「一人では行かせない、俺も行く。昔みたいに組もう」と言うと、シモンは「なぜそこまで親身になってくれるのか?今回は独りで行く」と答えます。これに対してフランクは、シモンに拳銃を向けて「逮捕する、一人じゃ無理だ」と言い放ち、とうとう二人でクラブに乗り込むことになります。

(注9)パリにいるフランクの姉のところでテオを匿おうと、シモンとアリスとテオはTGVに乗って南仏からパリに向かいますが(でも、パリに逃げたくらいでおそろしいマフィアの手から逃げ切れるものだろうか、と思いますが)、なんとそのことを察知したマフィアの一味もまた同じTGVに乗り込んだことがわかり、安心していたフランクもまた必死になってTGVの後を追いかけるのです。


〔補注〕(重大なネタバレですのでご注意を)
 劇場用パンフレットに掲載の「監督インタビュー」では、フレッド・カヴァイエ監督が、「交通事故を起こした時、フランクはシモンが死んだと思う。だからシモンを替え玉にすることを考えつくわけです。もし自分が捕まってしまったら娘がひとりきりになってしまう。それはどうしても耐えがたくて、娘のためにシモンを裏切ってしまった」とあからさまに述べています。
 ただ、フランクが娘へのプレゼントを取りに警察署に戻った時、助手席にいたシモンは反応しているのですから、そこまでの記憶はあるのではないでしょうか(そんな自分が、わざわざ助手席から運転席に移動して運転をしたというのはおかしいとシモンは思うのではないでしょうか)?
 また、フランクは単なる素人ではなくベテランの刑事なのですから、いくら事故直後の混乱のさなかにあるとはいえ、シモンが意識不明状態にあるのか既に死んでいるのかにつき冷静に判断できるのではないでしょうか?
 ちなみに、このインタビュー記事によれば、原題「Mea Culpa」(わが罪)は、シモンが抱える罪の意識とともにフランクが抱えるそれをも表しているとのこと。



★★★☆☆☆




2つ目の窓

2014年08月21日 | 邦画(14年)
 『2つ目の窓』をテアトル新宿で見てきました。

(1)これまでも色々と見ている河瀬直美監督(注1)のカンヌ国際映画祭出品作品ということで映画館に行ってきました(以下、特に「注」において、結末まで触れていますので未見の方はご注意ください)。

 本作の舞台は奄美大島(注2)。
 そこに暮らす16歳のカイト(界人:村上虹郎)とキョウコ(杏子:吉永淳)の二人の高校生の物語。

 カイトは、母親・渡辺真起子)と一緒に暮らしていますが、東京にいる父親・村上淳)と離婚して奔放に生きているように見える母親(注3)に対しわだかまりを持っています(注4)。



 キョウコは、杉本哲太)とイサ松田美由紀)の両親と暮らしていますが、父親・徹は喫茶店を開いているものの、母親・イサは病気で死期が迫っています(注5)。



 そんな二人に愛が芽生えるものの(注6)、なかなか進展しません(注7)。



 こんな関係が、カジュマルやマングローブなどの木々が豊かに生い茂る一方で台風にも襲われる奄美大島を背景に描かれるわけですが、はたしてどんなところに行き着くのでしょうか、………?

 なんだか河瀬監督が頭で思い描く観念的な図式に従って登場人物が動かされ台詞を喋っているような感じがして(注8)、それも常識的な図式(自然と人間との調和的なつながりとでも言えるのでしょうか)と思えるものですから、いつもその作品に感じるアレッなんだろうこれはといった謎めいた感じは余りありませんでした(注9)。その分物足りなさを覚えたものの、奄美大島の類い稀なる自然の景観の素晴らしさがそれを補っているように思えました(注10)。

(2)キョウコは服を着たまま海で泳いだりしますが、カイトはそんな彼女に、「怖くないか?」と訊いたりします。
 また、キョウコがカイトに、「サーフィンを始めてみたら?父さんは「サーフィンをやっていると、海と一体になれる瞬間がある、セックスみたいだ」と言っていた」と言うと、カイトは「海は怖い、海って生きてるじゃん」と答えます。
 全般的に、都会育ちのカイト(注11)と奄美育ちのキョウコが、文明対自然と言った如くに対比的に描かれているように思われます。

 さらには、キョウコの母親のイサは、「お母さんは、神様と人間との入口のところにいる。死ぬことはちっとも怖くない。神様がいるところを知っているから」、「お母さんの命はキョウコにズーッとつながっている。お母さんだけの命じゃない。ずっとキョウコの子どもにもつながっている。だから怖くない」、「内地では、病気になってもズーッと生きてるみたいだから大変だね」とキョウコに言ったりします(注12)。
 ここには、生と死とは対立するものではなくて自然につながっているものというような捉え方が伺えるように思われます。
 そして、どうやら男はこうした人のつながりから弾き出されているようにも感じます(注13)。

 それに、カイトの父親・篤は彫物師でその背中に龍の刺青があります(注14)。母親・岬の愛人とされる男の背中にも龍の刺青があります。奄美の穏やかな自然を荒らす嵐(注15)を刺青は象徴しているのでしょうか?
 もしかしたら男というものは、穏やかな自然を荒らす撹乱要因なのでしょうか?

 もっと言えば、本作のラストの方を見ると(注16)、いくら男は撹乱要因であるにしても、所詮は女の掌の上で暴れまわっているにすぎないというようにも監督は考えているのかもしれません。
 男側の観客としてクマネズミは、こうした男の描き方につき少々違和感を覚えたところです。

(3)渡まち子氏は、「奄美大島を舞台に独特の死生観を描く青春映画「2つ目の窓」。命の循環という深淵なテーマと奄美大島の野性的な自然が呼応している」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「本作に限らず、彼女の映画は彼女の内面を彼女の好きなやり方で探るものなので、映画の題材ではなく河瀬直美に興味があるかどうかで鑑賞を決めるのがポイントである」などとして40点をつけています。



(注1)河瀬直美監督の作品は、これまで『朱花の月』とか『七夜待』などを見てきました。

(注2)映画の冒頭では、長老の亀次郎常田富士男)が、山羊の足を縛って吊るした上で首をカミソリで切って血を噴出させるシーンが描き出されます。
 同じようなシーンは、もう一度ラストのほうで、カイトやキョウコなどが加わった形で映し出されます。

(注3)カイトが学校が終わって家に帰ると、机の上に「仕事にいってきまーす」との母親・岬の手紙が置いてあります。しばらくすると、電話があり、岬は「今晩遅くなるけど大丈夫?全部仕事だから」とカイトに言います。
 ただ、実際にどの程度岬が奔放に生きているのかは、本作では明示的には描かれていないようにも思われます。すべてはカイトの思い過ごし・妄想かもしれないのです(キョウコの父親・徹はカイトに、「岬さんにとってエネルギーの源はお前だ。だから滅多なことはしない」と言ったりします)。

(注4)カイトは、海岸に打ち上げられた背中に彫り物のある男の死体を目にしますが、母親と付き合いのあった男と思ったからでしょう、あとでキョウコから「見たでしょう?」と尋ねられても「知らない」と答えるだけでした。

(注5)イサは自分で死期が迫っているのを自覚して、病院から自宅に戻ります。
 なお、カイトはキョウコに、「キョウコの母さんて“ユタ神様”なんだろ、“ユタ神様”って死なんよ」と言うのですが、長老・亀次郎は「神様も死ぬんだ」と言いますし、キョウコが父親の徹に「母さん死ぬの?」と尋ねると、徹は「そうやな、あの医者はそう言っていた」と静かに答えます。
 〔奄美大島の民間霊媒師(シャーマン)である「ユタ」については、Wikipediaのこの項を参照してください〕

(注6)カイトもキョウコが好きなのですが、「自転車に乗せて」とか「好き」と言ったり、キスをしたりと、キョウコの方が積極的です。
 果ては、キョウコは「セックスしよう」とまで言うのですが、母親の行状から女性不信にあるカイトは「できないよ」と答えます。

(注7)カイトは東京で暮らしている父親・篤を訪ねて行きます。
 篤が、「岬に出会って運命だなと思った。自分のほうが一方的に好きになった」と言うので、カイトは「だったら、ズーッと一緒にいるんじゃないの?」と尋ねると、篤は、「一緒にいない方が一緒にいる感じがする」「もっと長い意味で運命的だなと感じている」と答え、さらに「東京しかないパワーと温もりとか豊かさを感じて、それを絵にしたい」と言います。
 こうした篤の話で納得するとは思えないものの、カイトは何事もなかったように島に戻ってきます。
 そんなカイトは、母親・岬が男と電話で話しているのを耳にして切れてしまい、「あんた、父さん以外の男と抱き合ったりできんだ。おかしいじゃないか。淫乱っていうんだよ」などと罵しったところ、彼女は家から姿を消してしまいます。

(注8)前作『朱花の月』についても、「この冒頭のコンセプトに従って、登場人物は皆衝き動かされているような感じ」がするように思いました〔同作についての拙エントリの(1)をご覧ください〕。

(注9)前作『朱花の月』についての拙エントリをご覧になっていただければお分かりのように、同作には沢山の謎が転がっています。

(注10)最近では、杉本哲太は『アウトレイジ』(池元組若頭役)、松田美由紀は『モンスターズクラブ』、渡辺真起子は『ヒミズ』、村上淳は『戦争と一人の女』で、それぞれ見ました。
 また、キョウコを演じた吉永淳は、『あぜ道のダンディ』で見ました。

(注11)イサは、「カイトは東京っ子だから泳げないの」、「ただ、プールでは泳ぐ」、「母さん、ああいうのタイプ」と言っています。

(注12)母親と話す前に会った“ユタの親神様”は、「死んでしまったら温もりがなくなってしまうのでは?」と尋ねるキョウコに対して、「そのとおり。でも、お母さんの温もりは、あなたの心の中にある」と答えます。
 なお、島の長老・亀次郎はキョウコに対して、「あんたをひいおばあさんだと思った」などと言いますから、将来彼女は“ユタ神様”になるのかもしれません。

(注13)家に戻ったイサに膝枕をするキョウコを見て、父親の徹は「あんたらええな、気持ちよさそうで」と羨ましがります。
 また、イサは、島の人達がサンシン(三線)を弾いたり、民謡を歌ったり踊ったりする中で、皆に看取られながら死んでいくのに対して、カイトの母親・岬の愛人とされる男は、上記「注4」で触れたように、海岸にその溺死体が打ち上げられる酷さです。

(注14)河瀬監督のドキュメンタリー作品『ぎゃからばあ』(未見)では、「突如として河瀬はひとり父親が命をかけて背負った刺青を自身に施すことで、唯一の絆を見いだせるのではないかと彫師をたずねるのだ」そうです(このサイトの記事によります)。
 なお、刺青に関しては、拙エントリの「最近の刺青事情」をご覧ください。

(注15)河瀬監督の作品では、嵐ではなく自然の風が木々を揺らすシーンが印象的に描かれますが(例えば、『沙羅双樹』)、本作では、イサの死に際して風が庭のカジュマルなどの木々を揺らします。

(注16)上記「注7」で触れたように行方不明だった母親・岬が見つかった後、カイトとキョウコは、マングローブの林の中で抱き合い、体に何も身につけずに海中を泳ぎまわります。
 非常に美しいシーンで感心しましたが、母親に対するカイトのわだかまり、ひいては女性不信といったもの(上記「注6」で触れたように、キョウコが「セックスしよう」と求めたのに対しカイトは「できない」と拒否をするほどなのですから)がいとも簡単に解消されてしまったものだなという印象を持ちました。



★★★☆☆☆



象のロケット:2つ目の窓

るろうに剣心 京都大火編

2014年08月15日 | 邦画(14年)
 『るろうに剣心 京都大火編』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)これは、2部作の前編に過ぎずどうしようかと思っていたのですが、一昨年に第1作目の『るろうに剣心』を見てなかなか面白かったことと、強力なPR戦術に押されて、映画館に行ってきたものです。

 本作(注1)の冒頭は、1878年(明治11年)の摂津鉱山。
 斎藤江口洋介)が率いる警視局の警官隊が鉄砲を持って鉱山を取り囲みます。
 斎藤が「ほんとうにヤツはここにいるのか?」と尋ねると、部下は「20日前から張り込んでいました」と答えます。
 それで、警官隊は坑道に突入しますが、見えない敵に次々にやられてしまいます。
 かまわず斎藤が進むと、巨大な溶鉱炉(全体が製鉄所になっているようです)が燃えていて、その上から警官が何人も吊り下げられています。
 そして、志々雄真実藤原竜也)の登場です。



 彼は斎藤に対し、「お前も俺と同じように幕末を生き抜いた。しかし、こんなくだらない世になってしまった。お前もこっちにこないか?ここにいれば、誰の指図も受けなくて済む。現世こそが地獄だ」などと言って、炎の中を立ち去ってしまいます。

 場面は変わって、東京・浅草にある芝居小屋。
 舞台には「人斬り抜九斎」が登場し、それを緋村剣心佐藤健)らが面白がって見ています。



 芝居が終わって帰りの人混みの中で、神谷薫武井咲)が「人斬り抜刀斎は過去の伝説なのね」と剣心に言います。

 さらに場面は神谷道場。
 薫が門弟に稽古をつけていると、高荷恵蒼井優)が現れ「お客が」と言って警視総監を案内します。彼は剣心に対して、「あなたにお目にかかりたいという人がいる。内務卿の大久保だ」と告げます。
 そこで、剣心と相楽左之助青木崇高)が大久保利通宮沢和史)に会いに行きます。

 場面は内務省の大久保の部屋。
 大久保は、「志々雄は斬られた上に全身焼かれて殺されたはずだったが、逃れて京都の裏社会に潜伏し、今や大きな勢力を持っている。彼の狙いは維新政府の転覆だ。討伐隊を差し向けたが壊滅した。頼みの綱はお前だけだ。1週間後の5月15日に良い返事を待っている」と剣心に言います。

 第1作目では、悪徳企業家・武田観柳香川照之)を倒して、今や、薫の道場で安穏に居候する剣心。内務卿からの依頼を受けるかどうか悩むものの、その大久保が5月14日に暗殺(注2)されたこともあり、薫らが止めるのを振りきって(注3)、剣心は、志々雄が暗躍する京都に向います。
 志々雄は、剣の腕も頭脳の回転も剣心と互角とされています。果たして、剣心はうまく志々雄を討ち果たすことができるでしょうか、………?

 本作は、漫画を原作とし、139分という長尺でもあり、おまけに前編ですから、見る前はかなり危惧しましたが、実のところは、内容の面白さでその長さを全く感じさせず、かつまた本作は本作で一応のまとまりを付けてもいる優れものであり、ラストの流れがどうなるのか後編をぜひとも見たい気にさせます(注4)。

(2)本作において抜群に面白いのはチャンバラです。
 特に、剣心と瀬田宗次郎神木隆之介)との対決では、瀬田が微笑みながら実に素早い動きをするのに驚かされます(剣心が手にする逆刃刀が折れてしまいます)。



 また、剣心と沢下条張三浦涼介)との対決も、神社の床下までも使った激しい物で圧倒されます(赤ん坊を助けるために人斬りに戻らざるをえないのかどうか、ぎりぎりのところまで剣心は追い詰められます)。

 ところで、剣心が志々雄に戦いを挑む大義ですが、内務卿の大久保は、剣心と会った際、剣心から「大久保さん、随分とやつれましたね」と言われたのに対し、「古い時代を壊すことより、新時代を築く方がはるかに難しい」と応じ(注5)、それに答えるべく剣心は京都行きを決意します(注6)。
 なんだか雰囲気的には、大久保らが率いる明治新政府は時代の流れに沿ったポジティブな方向を向いていて、志々雄らはその方向性に反逆するネガティブのアナクロ的な存在のように思えてしまいます。
 でも、「新時代を築く」という点においては、志々雄たちも負けてはいないのではないでしょうか?たとえその目指すものが、志々雄をトップとする独裁国家だとしても(ヒトラーを総統とするナチス国家が思い浮かびます)、明治天皇をトップとする国家を作った薩長藩閥とやることはあまり違いがないようにも思えます。そして、そういう国家を作るべく、志々雄らは明治新政府を転覆しようとしているわけではないでしょうか?

 それに「古い時代を壊す」という点については、江戸幕府を倒すことは大変に困難でしたし(それで300年近く存続したわけでしょう)、現に明治新政府の転覆だっておいそれとは出来ません。なにしろ、時の体制に食い込んでいる既得権益者は大勢いて、彼らがその体制を支えているわけですから、そんなに簡単に倒れるはずもないのです。逆に、そういったものがひとたび倒れてしまえば、何もない大地に家を建てるのと同じで、新しい制度を樹立することはそんなに難しいことではないようにも考えられます。

 もっといえば、志々雄らは決してアナクロ一点張りというわけでもなさそうです(注7)。
 彼らのアジトで志々雄は駒形由美高橋メアリージュン)とともにソファに座ったりしますし、親衛隊ともいうべき十本刀との会議は洋式の机に向かい椅子に座って行うようです。
 さらには、ラストで少々姿を見せましたが、彼らは、摂津鉱山で製造された鉄を用いて軍艦を作り上げているのです(注8)。
 むしろ、近代的装備を持った軍隊ではなく剣心一人を討手として志々雄に差し向ける明治新政府のほうがアナクロではないかとも思われます(注9)。

 そんなこんなで、剣心が内務卿の要請に従って京都に出向くことを決意するというのに少々引っ掛かりを感じたところですが(注10)、まあどうでもいいことでしょう。
 なにはともあれ、9月に公開される後編では、いったいどんな兵器を繰り出して志々雄たちは新政府に立ち向かおうとするのか(注11)、大いに期待されます。

(3)渡まち子氏は、「大ヒットアクション映画の2部構成の続編の前編「るろうに剣心 京都大火編」。アクションのスピード感とストーリーの面白さがパワーアップしている」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「前作の大ヒットをうけての続編ということでさすがの好景気。すごい豪華キャストである。しかし、実にもったいないことであるがそれでも本作が「世界を驚かす」ことはない」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「前作よりパワーアップしたアクション満載、全編かっ飛ばす快作ではあるのだが…」と述べています。



(注1)本作の原作は、和月伸宏による漫画『るろうに剣心―明治剣客浪漫譚』、監督・脚本は第1作と同じ大友啓史

(注2)史実としては不平士族6名によって暗殺されますが(Wikipedia)、本作では、志々雄の側近である瀬田宗次郎によって殺されます。その際に瀬田は、「緋村を差し向けるとはよく考えた。だが、この国は俺がいただく」との志々雄の言葉を大久保に伝えます。

(注3)薫は、剣心が以前の人切りに戻ってしまうことを恐れて、「冗談じゃない。絶対に京都なんかに行かせない」と叫ぶのですが。
 なお、その薫は、剣心が京都に行ってしまうと、門下生の明神弥彦大八木凱斗)とともに京都に剣心を追って出向きます。

(注4)最近においては、佐藤健は『カノジョは嘘を愛しすぎてる』、藤原竜也は『サンブンノイチ』、江口洋介は『脳男』、伊勢谷友介は『人間失格』、青木崇高は『渇き。』、神木隆之介は『桐島、部活やめるってよ』、武井咲は第1作目の『るろうに剣心』、蒼井優は『春を背負って』、田中泯は『永遠の0』で、それぞれ見ました。

(注5)大久保の台詞は、本作の公式サイトに掲載の「登場人物Characters」にある「大久保利通」の項によります。

(注6)それに、志々雄たちに殺された何人もの警察官の遺骸を取り囲む家族の泣き叫ぶ様を警視総監に見せられたことも与っているでしょう〔第1作において、剣心によって斬られた清里窪田正孝)の遺骸に許婚者・雪代巴がすがるのを剣心が見てしまったことに対応するのでしょう〕。

(注7)本作で一番のアナクロは、四乃森蒼紫伊勢谷友介)と柏崎念至田中泯)との対決でしょう。なにしろ、四乃森は小太刀二刀流ですし、柏崎はトンファーなのですから。
 それにしても、四乃森は執念深く剣心を付け狙いますが、隠密御庭番衆の最強を示すためだという理由がよく理解できないところです。

(注8)1875年(明治8年)に進水式を挙げた日本初の国産軍艦「清輝」と比べて性能等はどうなのでしょうか?

(注9)前年に起きた明治10年の西南戦争では、「士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利した」のですから(Wikipediaによります)、大久保は政府軍を志々雄に向けるべきだったのではないでしょうか(警視総監あたりが、諸外国に日本の混乱した様を見せたくないから軍隊を派遣できない、などという理屈を言っていましたが)?

(注10)明治新政府か志々雄一派かと言っても、近代文明対反近代文明ということよりも、むしろ権力闘争とも言えるのではないでしょうか?そうだとしたら、剣心の判断は甘いのではないかという気がします。

(注11)第1作ではガトリングガンが登場しました。



★★★★☆☆



象のロケット:るろうに剣心 京都大火編

ジゴロ・イン・ニューヨーク

2014年08月13日 | 洋画(14年)
 『ジゴロ・イン・ニューヨーク』を新宿武蔵野館で見てきました。

(1)監督として大活躍するウディ・アレンが映画出演するというので、遅まきながらも行ってきました。

 本作(注1)の舞台はニューヨークのブルックリン。
 本作の主人公は、花屋でアルバイトをしているフィオラヴァンテジョン・タトゥーロ)と本屋のマレーウディ・アレン)の二人組。

 ですがマレーは、閑古鳥が鳴いている本屋を閉店することに。
 鞄に本を詰めながら、マレーは、「この書店は、祖父が始め、父が引き継ぎながら、俺がたたむことに」とか、「本当に世も末。希少な本を求める人が減ってしまった」などと、フィオラヴァンテに愚痴ったりしています。

 その際、マレーはフィオラヴァンテに対し、「女医のパーカーシャロン・ストーン)から、「二人のレズの間に男を入れたいが誰かいないか」と訊かれたから、「一人いるが1,000ドルかかる」と答えた」と話し、「その一人というのは君だよ」と付け加えます。
 フィオラヴァンテが「なぜ俺が女医を愉しませることに?」と訊くと、マレーは「君は定職に就いていないから」と答えますが、フィオラヴァンテは「長年の友人だろ」と応じます。

 パーカー女医からは、「金は支払うけど、まずはお試しということで。ただし、エイズは嫌よ。淋病も」と催促の電話がマレーの元に。



 これに対して、マレーは「バッチリだ。彼はプロだ」と答えますが、フィオラヴァンテは、「ジョージ・クルーニーの方が条件に合う」とか、「俺はもう若くはない」、「親友を男娼にするのか」と言って尻込みします。
 でも、マレーは「君はモテたよね。君のとりえはセックス・アピールだ。取り分は60対40で、君が60だ」と強引に話を進めてしまいます。

 実際にはこれが図に当たり、二人は「ヴァージル&ボンゴ」というコンビ名を名乗って商売に精を出します。
 特に、フィオラヴァンテは、花屋でのアルバイトの経験を活かして花束を持って行くなど、処世に対する繊細な心遣いにあふれています。



 とはいえ、この先どうなることでしょう、………?

 話としては、ウディ・アレン扮するポン引きが、友人(ジョン・タトゥーロ)をジゴロとして売り出すという実に他愛ないもので、物静かなジョン・タトゥーロとお喋りのウディ・アレンとの対比が面白く最後まで惹きつけられるものの、ユダヤ人特有の話が随分と入り込んできて、そうした事情に疎いこともあり、余り乗りきれませんでした(注2)。

(2)マレーとフィオラヴァンテのジゴロ稼業は、フィオラヴァンテが未亡人のアヴィガルヴァネッサ・バラディ)に恋心を抱くあたりから変調をきたしてきます。
 アヴィガルは、ユダヤ教の正統派のハシディック派(注3)に属していて、酷く禁欲的な生活を送っています(注4)。そこにマレーが入り込んで、フィオラヴァンテのセラピーを受けさせることになるものの、フィオラヴァンテはアヴィガルの優しさに心を惹かれてしまうのです。



 でも、彼らの行動を地域パトロールのドヴィリーヴ・シュレイバー)が見張っていて(注5)、ついにマレーはラビ審議会に連れて行かれ、被告として裁かれることに(注6)。

 まあこうしたものは単なるエピソードと受け取れば構わないのでしょうが、その経緯や実情をよく知らない者にとっては、カルト教団内部でのリンチ(杓子定規に言えば国家内国家でしょうか)のような感じがしてしまい、どうも映画の中にうまく入り込めませんでした(注7)。

(3)森直人氏は、「本作は一風変わったバディームービーと呼べるかもしれない。一見冴えない中年男と愉快な老人がコンビを組んで、男娼ビジネスを始めるという設定がまずユニークだ。そして主人公よりも相棒の存在感が派手なところに、作品としての面白さと微妙さが入り交じっている」と述べています。
 宿輪純一氏は、「監督・主演のジョン・タトゥーロが、かすむ、ウディ・アレン色の強い、得意のロマンティックコメディとなっている」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本は主演のジョン・タトゥーロ。原題は「Fading Gigolo」。

(注2)最近では、ジョン・タトゥーロは『トラブル・イン・ハリウッド』(ブルースのエージェントのディック役)で、ウディ・アレンは『ローマでアモーレ』で、それぞれ見ています。

(注3)例えば、このサイトの記事とかこのサイトの記事を参照。

(注4)亡くなったアヴィガルの夫がラビだったこともあり、その死後ずっと喪に服してきたわけです。なにしろ、住んでいる街の外へ出るのは夫の墓参りに行く時ぐらいというのですから!

(注5)ドヴィは、アヴィガルの幼馴染でもあり、彼女にズッと恋心を抱いてもいるようです。

(注6)マレーは、「ユダヤ人としての誇りは?」と尋ねられたり、ポン引きの罪で有罪になると石打の刑だなどと言われたりするのですが、アヴィガルがその審議会に現れ、「私の罪は、慎みを忘れたこと、男性と二人きりになって髪を見せ(かつらを脱いで地毛を見せたこと)、体を触らせたこと」などと証言したことで、マレーは放免されたようです(アヴィガルが「その後で泣きました」と付け加えたことに対し、裁判官のラビが「恥じて?」と問うと、彼女は「いいえ、寂しくて」と答えます)。

(注7)さらに言えばは、ラストのシーンでマレーは、カフェで見つけたフランス人女性を加えた新しい3人組について「This could definitely be the beginning of a very beautiful relationship between the three of us.」(imdb)と言いますが(加えて、フィオラヴァンテに対し「ところで、君はいつ街を出るんだっけ?」との嫌味も)、この台詞の元ネタは、このサイトの記事によれば、映画『カサブランカ』のラストの台詞“This is a beginning of beautiful relationship!”」とのこと。こんな深い映画知識があれば、本作に対する興味がズッと増すことでしょう!
 
 ちなみに、Wikipediaの「カサブランカ」の項によれば、リック(ハンフリー・ボガード)がルノー署長(クロード・レインズ)に言うこの台詞は、アメリカ映画協会 (AFI)選定の 「アメリカ映画の名セリフベスト100」(2005年)の第20位にランクされているとのこと。
 また、ウディ・アレン脚本・主演の『ボギー!俺も男だ』(1972年)は、『カサブランカ』のパロディとなっているそうです(未見ですが、『ボギー!俺も男だ』でもリックの台詞は出てきて、このサイトの記事によれば、「くされ縁の始まりだな」と訳されているそうです)。
 ただ、あまりこんな脱線をしていると、本作がまるでウディ・アレンの監督・脚本によるものと誤解されてしまうかもしれません!



★★★☆☆☆



象のロケット:ジゴロ・イン・ニューヨーク

複製された男

2014年08月11日 | 洋画(14年)
 『複製された男』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)『プリズナーズ』に出演したジェイク・ギレンホールの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はカナダのトロント。
 主人公・アダムジェイク・ギレンホール)は、大学で古代ローマ帝国の歴史を教えている講師。



 「独裁のやり方としては、教育の制限という方法もある」などと述べた講義が終り、高層マンションにある自宅に戻ると、恋人のメアリーメラニー・ロラン)が待っていて、二人は愛し合います。



 こうした生活が判で押したように毎日繰り返され、アダムは疲れていて欝気味の感じ。

 そんな時に同僚が、『道は開かれる』というカナダの映画がなかなか良いと勧めます。
 レンタル店から同作のDVDを借りてきたアダムは、テストの採点の合間に見てみます。
 見終わった彼は、既にベッドで横になっているメアリーとセックスをしようとしますが、拒絶されてしまい、彼女は「明日電話する」と言って出ていってしまいます。
 仕方なく一人でベッドに潜り込んで寝ていたアダムは、突然目覚めて起きだし、さっきのDVDをもう一度見直してみます。
 すると、その映画でホテルのフロントが映し出されているところ、なんと自分と瓜二つの男がホテルのボーイ役で出演しているではありませんか!

 アダムは、大学で「ヘーゲルは、世界史的に重要なことは2度現れると言い、マルクスは、1回目は悲劇で2回目は喜劇だと言った」(注2)などと述べた後、自宅に戻っていろいろ調べます。
 すぐに、映画でボーイ役をしたのがダニエル・セレンクレアという俳優だとわかり、彼が出演している作品のDVDも借りてきて見てみます。
 ついには男の住所を突き止め、本名がアンソニー(ジェイク・ギレンホールの二役)で、その妻がヘレンサラ・ガドン)で妊娠していることも判明します。
 でも、一体どうしてこんなことが、その真相は、………?

 本作は、自分とマッタク同じ人間(顔形のみならず、声とか胸部の傷跡まで!)が同じ都市にもう一人いることがわかった男を描いた作品で、もう一人の男の正体を暴くプロセスにサスペンス性があり、主演のギレンホールの演技もなかなか見事で、まずまずの仕上がりではないかと思いました(注3)。

(2)とはいえ、こうした話はあちこちに散らばってはいるようです。
 例えば、芥川龍之介が『二つの手紙』で取り扱った「ドッペルゲンゲル」。
 ただ、この場合には、本人が自分と妻の姿を3度にわたって距離をおいて見たということだけであり、本作のようにもう一人の人間と直に対決するまでに至っていません(注4)。

 また、アダムとアンソニーが一卵性双生児だという可能性も考えられるでしょう。
 ただ、本作の場合には、母親のキャロラインイザベラ・ロッセリーニ)が「あなたは一人っ子だからそんなことはありえない」と即座に否定します(注5)。

 さらには、『ルームメイト』で描かれた多重人格(解離性同一性障害)の一種と見ることができるかもしれません。

 でも、こうした詮索は、本作の公式サイトの「一度で見抜けるか―袋とじネタバレ投稿レビュー」の冒頭で、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督やジェイク・ギレンホールが既にかなり種明かしをしてしまっていますから、あまり意味があるとは思えません(注6)。

 むろん、そうした制作者側の見解に観客側が縛られる必要もなく、逆に開き直って、あまりにも沢山の人が暮らす大都市にあっては、瓜二つの人間が存在することもありうるのだ、そんなことが一つくらいあってもおかしくない、とそのまま受け止めてみたら返って面白いかもしれません(注7)。

 なお、本作では、最初の方と最後の方に、クマネズミが興味を持っている「鍵」が登場しますが(注8)、今回の鍵はそんなに謎めいた小物ではありませんでした(注9)。

(3)渡まち子氏は、「自分にそっくりな男と出会った男性が体験する悪夢のような出来事を描く異色のミステリー「複製された男」。現実と妄想世界が混濁するストーリーの答は、一つではなさそうだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、全体的に不穏な色彩の映像によってなにが起きるかわからない、先読み困難なサスペンスを作り上げた」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「観ている間は、「?」の蓄積に脳はフル回転。観終わった直後に、ついもう一回観直したくなることうけあいの魅惑の一本であった」と述べています。



(注1)本作の原作はポルトガルのジョゼ・サラマーゴが2002年に発表した『複製された男』(原題O Homem Duplicado、英題The Double:未読)、また本作の原題は「ENEMY」、監督はカナダ出身のトゥニ・ヴィルヌーヴ(『灼熱の魂』や『プリズナーズ』)。

(注2)カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリューメール18日』の第1章の冒頭に基づいています。

(注3)最近では、ジェイク・ギレンホールは『プリズナーズ』、メラニー・ロランは『グランド・イリュージョン』でそれぞれ見ています。

(注4)尤も、黒沢清監督の『ドッペルゲンガー』(2002年)では、自分自身のドッペルゲンガーを助手と一緒に撲殺するシーンが描かれますが。

(注5)また、アダムとアンソニーの胸に同一の傷があるのですが、一卵性双生児だとしても、ありえないことでしょう(クーロン人間であることも否定されるでしょう)。

(注6)鑑賞者の投稿を掲載するのは構わないとしても、監督や主役の見解を公式サイトにわざわざ掲載する必要があるのでしょうか(袋とじとはいえ)?
 なお、劇場用パンフレットに掲載の小林真理氏のエッセイ「『複製された男』を読み解くための手引書」の「2.Enemy」においても、「アダムとアンソニーは同一人物だと考えることもできる」云々とかなりの種明かしがされてしまっています。
 といっても、明かされる謎は常識的であり、そんなに大したものではないのかもしれませんが。

(注7)劇場用パンフレットの「Introduction」で「ただし解答はひとつとは限らない」と言うのであれば、一つの解釈では収まらないような矛盾するシーンをいくつか用意する必要があるのではないでしょうか?
 例えば、意味ありげな「ブルーベリー」について、本作のように、アンソニーが妻のヘレンに「買っておいてくれ」と言うのではなく、アダムがメアリーに頼むこととし、アンソニーの家の冷蔵庫でそれを見つけるというようにしたらどうでしょう?尤も、本作においては、アダムは母親に「ブルーベリーは嫌い」と言いますし、メアリーは単なる愛人ですからそれを冷蔵庫に買い置くというのもおかしいのですが。

(注8)拙ブログでは、これまで、『愛、アムール』についての拙エントリの(3)とか、『鍵泥棒のメソッド』についての拙エントリの(2)、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』についての拙エントリの(2)、『ヒューゴの不思議な発明』についての拙エントリの(4)、そして『サラの鍵』についての拙エントリの(2)などでいろいろ触れてきました。

(注9)単に、マンションのドアの入口の鍵に過ぎませんから。とはいえ、その鍵がないと入れないセックス・クラブで実際に何が行われているのか、冒頭のシーンではごく簡単に映し出されるにすぎませんから、興味深い点ではあるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:複製された男

思い出のマーニー

2014年08月06日 | 邦画(14年)
 『思い出のマ―ニー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『借りぐらしのアリエッティ』を制作した米林宏昌監督によるスタジオジブリ作品(注1)ということで、映画館に行ってきました。

 米林監督の前作は、メアリー・ノートン作『床下の小人たち』を日本の東京郊外に置き換えた作品でしたが、本作も、イギリスが舞台のジョーン・G・ロビンソン作『思い出のマーニー』(高見浩訳、新潮文庫)を日本の北海道に置き換えて作られています。

 本作の最初の方では、子供らが遊ぶ公園が映し出され、学校の絵画の時間なのでしょう、周囲では子どもたちが絵を描いていて、先生が「動きの一瞬を捉えるんだ」などと言っています。
 主人公の杏奈は、他の子とは離れて座って絵を描きながら、「みんなは、目に見えない魔法の輪の内側にいる人たち。私は外側の人間。でもそんなことはどうでもいい」と呟いたりします。
 先生が近づいて「絵を見せてみろ」と言うと、杏奈は「私ちょっと失敗」と言って隠そうとし、更に先生が絵を見ようとしたら、男の子の泣く声がしたために先生はその場を離れてしまいます。
 杏奈は「私は私が嫌い」と呟きます。

 その後に喘息の発作が起きて、家に医者が往診に来ます。
 杏奈は、「またお金がかかってしまった」と独り言を言ったり、医師が母親・頼子に「相変わらず心配症だね、お母さんは」と言うのを耳にすると、「お母さん?」と呟いたりします。
 更に、頼子が「あの子いつも普通の顔(注2)、感情を表に出さないの。やっぱり、血が繋がっていないからかしら」と言うのも聞いてしまいます。
 これに対して、医師は「12歳だし、大変な時。例の療養の件を考えた方がいいかもしれない」と応じます。

 それで杏奈は、一夏、住んでいる札幌を離れて、道東の海辺の村にいる大岩夫妻(頼子の親戚)のところで暮らすことに。



 日がな一日、海辺の風景をスケッチしたりして過ごす杏奈は、入江の向こう岸に見える洋館(「湿っち屋敷」)がひどく気にかかります。
 そして、杏奈の前に、その洋館に住むマーニーという少女が現れるようになります。



 このマーニーは一体どんな少女なのでしょう、杏奈との関係はどうなるのでしょう、………?

 本作の主人公は、両親を亡くし養母の元で暮らしていた12歳の少女。喘息の療養をも兼ねて一夏を過ごすことになった海辺の親戚の家で、忘れられない体験をするのですが、多感な少女の様々の思いが、素晴らしい道東の景色の中などで描かれていて、大層感動的なアニメです。

(2)本作の導入部は、上記(1)でラフに書いたことからも推測されるように、その後の展開につながる伏線が様々に張られていて、なかなか優れたものではないかと思います。

 杏奈は「私は輪の外側の人間」と呟きますが、そしてそういう見方をする「自分が嫌い」と言うのですが(注3)、こういう周囲に心を閉ざしてしまった杏奈が海辺でのマーニーとの交流によってどんなふうに成長するのか、ということが本作の見所となっています。

 さらに、「またお金がかかってしまった」と杏奈が言うのは、自分の養育についてお金がかかっていることについて、杏奈がかなり気にしていることを暗示しているでしょう(注4)。
 それと関係しますが、頼子が「血が繋がっていないからかしら」と言うのは、杏奈の両親がすでに交通事故で死んでいて、頼子が養母になっていることを表しています。

 そして、この導入部は随分と日本的な感じがし、言うまでもなく原作とは大層違っています(注5)。
 このように巧みに原作を日本に置き換えることができるのであれば、どうして本作は、原作を引きずってアンナやマーニーという名前をそのまま使ったり、マーニーを外国人の少女として描いたりするのでしょう(注6)?
 本作のように、物語のシチュエーションを日本に置き換えるのであれば、すべて丸ごと日本人の登場人物にしてみた方がずっとしっくりと来るのではないかと思えます(注7)。

 それに、本作は、男性の登場人物が殆ど活躍しないという昨今の流れに沿った作品(注8)のようにも思えます。なによりも、少女マーニーとの交流によって杏奈の成長が見られるのですから。

 とはいえ、そんなことに目をつぶれば、大層感動的な作品ではないかと思いました。
 特に、2階の窓に佇むマーニーに向かって、ボートの杏奈が「もちろん、許してあげる。決してあなたを忘れない」と叫ぶシーンは良く出来ていると思います。

 さらに、挿入曲として、クラシック・ギター曲の『アルハンブラの思い出』が使われているのですから(注9)、クマネズミにとってはそれだけでOKです!

(3)渡まち子氏は、「苦悩を抱えた少女が体験するひと夏の不思議な出来事を描く、スタジオ・ジブリの新作「思い出のマーニー」。脱・宮崎路線がスタートしたようだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「それにしても、ジブリ作品にはもともと原作ものが多いとはいえ、今回はアニメが原作への誘い役にとどまっているのは残念な限り」などとして65点をつけています(注10)。
 相木悟氏は、「自分さがしの感動的なおとぎ話ではあるのだが、いまいちとらえどころが難しい一作であった」と述べています。



(注1)スタジオジブリでは、制作部門を一時解体することとしたそうです(例えばこの記事)。だとすると、この作品が、アニメ映画としてスタジオジブリの最後になるかもしれません。

(注2)推測になりますが、頼子が杏奈について「普通の顔」と言うのは、本作が松野正子訳の岩波少年文庫版に依拠しているためではないでしょうか?
 これに対し、原書で「'ordinary’ look」とされている語句について、高見浩訳の新潮文庫版においては「つまらなそうな顔」と訳されています。
 僭越ながらクマネズミは、アマゾンの同作についてのカスタマーレビューにおける「ウルル」さんの見解に対する「コメント」で「yasu」さんが言うように、「ordinaryを「つまらなさそうな」と翻訳できるところこそが、この翻訳家(高見浩氏)の素晴らしい感性」ではないかと思います(なにより、常識人のプレストン夫人が“wooden”と思ったアンナの顔が「普通の顔」というのはとても奇妙な感じがします)。 

 なお、“ordinary”がこれほど注目される一因として、岩波少年文庫の特装版の巻末に付けられている河合隼雄氏による解説「『思い出のマーニー』を読む」の第1節のタイトルが「ふつうの顔」とされて様々の議論がなされていることが挙げられるのではと思います〔「“ふつうの”顔つき」は「他の誰でもがアンナの内面に触れてくるのを拒む、アンナにとっては大切な防壁だったのである」(岩波現代文庫S254『子どもの本を読む』P.68)〕。

(注3)杏奈は、輪の外側にいるだけでなく、内側にいる人間が自分の方によって来て手を差し伸べてもそれを拒絶してしまうのです。地元の信子に「あんたの眼きれい、ちよっと青が入っていて」と言われると(下記「注6」参照)、「いい加減放っておいてよ、太っちょ豚!」と言ってしまいます〔原作でも、サンドラに対してアンナは「でぶっちょの豚むすめ!」と言います(新潮文庫版P.66)〕。

 なお、信子はまず、七夕祭りの短冊に杏奈が「普通に暮らせますように」と書いたことを見咎めますが(「普通ってどういうこと?」)、この「普通に」というのはもしかしたら上記「注2」で触れた「普通の顔」の「普通に」と通じているかもしれません。
 むろん、この場面に直接対応する原作部分はありませんからなんとも言えません。でも、輪の外側にいると自覚している杏奈が、輪の内側の人間と同じように「普通に」暮らしたいと願うことにも違和感を覚えます(輪の外にいる自分と考える自分が嫌いだとアンナは思ってもいるとはいえ)。
 本作の原作が岩波少年文庫版だとされていることによって、この場面が作られたのではと推測したくなります(と言っても、新潮文庫版の発行は本年の7月ですから、それに依拠してアニメを作ることは土台無理な話ですが!)。

(注4)原作でも、アンナはマーニーに「実はね、あの人たち、あたしの面倒を見ているのはお金のためなの」、「手紙を見つけたのよ。……なんとかの委員会はあたしへの手当を増額する、というようなことが書いてあって、小切手も一緒に入っていたの」と告白します(新潮文庫版P.152)。
 そのことがきっかけとなって、本作と同じように(「本当の子供だと思っていたらそんなお金をもらっているはずがない」と杏奈はマーニーに言います)、アンナと養母のプレストンさん夫婦との関係が微妙にぎくしゃくしたものとなります。

 ちなみに、日本でも里子に対して様々な援助がなされていて、このサイトの記事によれば、「里子1人に対して、総額で年間約2百万もの予算が出て」いるとのこと。

(注5)原作では、いきなり、ロンドンで暮らすアンナがノーフォーク(ロンドンの北東)のペグ夫妻の元へ出発する光景から始まります。

(注6)マーニーが外国人であることによって、杏奈の母親はハーフになり、杏奈にも外国人の血が流れていることになります(あるいはクォーターでしょうか)。そのことがもしかしたら、杏奈の性格形成に大きな影響を及ぼしているのかもしれません(周囲から特別視される要因が、孤児の他にもう一つ加わったことによって)。でも、本作の物語の展開には、そういった要素はむしろ余計なもののように思えるのですが。
 と言っても、マーニーが外国人だからこそ、彼女が歌う子守唄の旋律が『アルハンブラの思い出』となるのでしょうが(下記「注9」参照)!

(注7)『借りぐらしのアリエッティ』についても、全体が日本での話とされているのに、どうして小人たちの名前が原作のママになっているのか不思議に思いました。

(注8)ごく最近では、例えば、『アナと雪の女王』とか『マレフィセント』。
 また、NHK連続TV小説『花子とアン』も、花子や蓮子などの活躍ぶりに比べたら、男性陣の影は大層薄いものとなっています。

(注9)一度目は洋館でのパーティーの際に(「わたしたちも踊りましょう!」)、二度目は杏奈の幼いころに「老婦人」が歌ってくれた子守唄(「思い出のマーニー」)として〔映画の中では森山良子(「老婦人」の声を担当)によるハミングで歌われます。いずれも管弦楽が演奏されて、ギターによるトレモロ演奏はされません。両曲ともこのサイトで試聴できます〕。

(注10)前田氏は、本作は『アナと雪の女王』と同じように、「「でも、いつだって頑張ってるアタシ」──を肯定する話」を描いていると述べています。ですが、魔法の輪の外側にいて、その内側にいる人との交流を拒む本作の主人公・杏奈は、「いつだって頑張ってる」人間とは対極に位置する存在であることは明らかだと思われるます〔新潮文庫版の原作においても、例えば学年担当の教師から、「アンナ、あなたは頑張ろうともしないのね」と言われています(P.9)〕。



★★★★☆☆



象のロケット:思い出のマーニー

GODZILLA

2014年08月04日 | 洋画(14年)
 『GODZILLA ゴジラ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました(3D日本語吹替版)。

(1)怪獣映画ファンでもないのでパスしようと思っていたものの、余りにPRが凄いものですから(注1)、それならと映画館に出かけてみた次第です。

 本作のはじめの方では、1999年、研究機関モナーク(注2)に所属するヘリコプターが、フィリピンにあるユニヴァーサル・ウェスタン鉱山に到着し、中から芹沢猪四郎博士(渡辺謙)と助手のヴィヴィアン博士(サリー・ホーキンス)が出てきます。
 現地の所長は、「ひどい有様で、谷底がその下の洞窟まで抜け落ちた」などと説明します。
 芹沢博士らが現場の穴に降り立つと、巨大生物の骨があり、天井からは繭のようなものがぶら下がっています。



 そして、そこから何ものかが海の方へ向かったような跡も。

 場面は変わって同じ時期の日本。
 原子力発電所に勤務するジョーブライアン・クランストン)は、その日が誕生日で息子のフォードが何か準備をしているようなのですが、異常な振動をキャッチしたので、妻のサンドラジュリエット・ビノシュ)らを、原子炉の確認に向かわせます。
 そのとき突然激しい揺れがきて、原子炉が大層危険な状態に陥ります。
 サンドラがまだ調査から戻っていないにもかかわらず、そのままでは近辺の町全体が危なくなるとして、早く防護扉を閉めろとの指令が飛びます。
 中にいるサンドラからは、「扉を閉めて!フォードを頼んだわよ、父親として守って!」とジョーに連絡が。
 ジョーは、防護壁の窓越しにサンドラの顔を見るものの、断腸の思いで防護壁を閉めざるを得ませんでした。
 幼いフォードも、通っていた学校の窓から原子炉が崩壊する様を見ています。

 そして、15年後のサンフランシスコ。
 海軍将校のフォードアーロン・テイラー=ジョンソン)が、14ヶ月の勤務(注3)から家に戻ってくると、領事館から、フォードの父親のジョーが日本で逮捕されたとの連絡が。
 フォードは、「いつもの陰謀説を信じて、退避区域に入り込んでしまったのかも。ほんの2,3日のことだから待っていてくれ」と妻のエルエリザベス・オルセン)に言い残して東京に向かいます。



 ジョーは、妻が亡くなった原子力発電所には何か秘密が隠されていると長年探っています。
 今回も、息子のフォードが米国からやってきて釈放されると、あの時と同じ振動が再び起こっているとして、今度はフォードを連れて立入禁止区域に入り込みます。
 彼らはまた捕まってしまいますが、連れて行かれたのはモナークの研究施設。
 そして、そこで彼らが見たものは、………?

 予告編とかその役名(芹沢)からして、渡辺謙がかなり活躍するのかなと期待していましたが、実際には事態の推移を驚きの目を持って見守るにすぎず、主役の米国海軍将校が大した働きをするわけではないにもかかわらず出ずっぱりであり、またタイトルからゴジラだけが登場すると思い込んでいたところ、他の二体の怪獣が出てきてそちらの暴れ方がすごく、総じてなんとなく肩透かしを食らった感じです(注4)。

(2)渡辺謙が扮する芹沢猪四郎の名は、本作のオリジナル版である『ゴジラ』(1954年)に登場する芹沢大助と、同作を制作した本多猪四郎監督から来ているようですが、同作において芹沢大助は、自分が作ったオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラを倒すという活躍をしているのですから、本作でも渡辺謙による何がしかの活躍が見られるものと思っていました。
 ですが、本作における芹沢博士の役割は、ゴジラやムートー(注5)の行動を見守ることだけ。



 これだと、むしろ『ゴジラ』(1954年)における古生物学者・山根恭平博士(志村喬)に該当するように思われます(注6)。

 元々本作には、『ゴジラ』(1954年)における芹沢大助のような英雄は誰も登場しません(注7)。
 芹沢博士のみならず、人間は結局、3体の怪獣に対してなすすべがないのです。

 それどころか、芹沢博士は、共同作戦司令部の指揮官であるウィリアム提督(デヴィッド・ストラザーン)らが、核爆弾を使って3体の怪獣を一挙に爆破しようとする作戦をたてると、「やめていただけないか。ゴジラが答えではないか。自然は調和を保とうとするのだ」としてその作戦に反対します。
 要するに、宇田川幸洋氏が言うように、本作でゴジラは、「悪の破壊獣ムートーに対し、生態系のバランスをまもろうとする、地球の守護神という位置づけ」にあるようです(注8)。
 それで、提督が、「あなたの信じるゴジラは、2体のムートーに勝てるんですか?」と尋ねると、芹沢博士は「信じるほかない」と答えます(まるで人類とゴジラとは運命共同体を形成しているかのようです)。

 でも、「第二次世界大戦を皮切りに世界各地で核開発・実験が相次ぐようになったために地表の放射能濃度が上昇」(注9)というアンバランスな事態を地球にもたらした張本人はまずもって人類であり、そのことによって3体の怪獣が地表面に現れたのではないでしょうか?
 「悪の破壊獣」とされるムートーは、人類からすれば「悪」にしても、1954年のゴジラと同様に、もしかしたら「生態系のバランス」を保つために地表に出現した怪獣であり、人類の持つ核施設や核兵器を破壊しようとしているとは考えられないでしょうか(注10)?
 なにしろ、ムートーは、「放射能をエネルギー源」とし「放射能を求める」怪獣なのですから!
 それに、宇田川氏が「地球の守護神」と言うゴジラ(注11)は、「体内に放射能を充満」させているために、確かにムートーと「戦いが宿命づけられていた」のかもしれません(注12)。とはいえ、本来的には、ムートーがゴジラを襲うにしても、ゴジラの方からムートーに対して戦いを挑むというようなものではないのではないでしょうか(注13)?

 いずれにしても、人類が無制約的に核開発を続けていけば、再度ムートー(それにゴジラも)が地表に出現することは十分に考えられるところです!

 と言っても、そんなくだくだしいことはどうでもいいのであって、ゴジラと2体のムートーとの戦いぶりや、サンフランシスコの壊滅的な状況などを映像で見て愉しめばいいのではないかと思います。

(3)渡まち子氏は、「オリジナルへの敬意も十分に感じられる作りの本作では、ギャレス・エドワーズ監督がこれほどきちんとした「21世紀版ゴジラ」を作ってくれたのが、最大の嬉しい驚きだった」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「現実が54年版ゴジラの危惧そのものとなってしまった現在、過去と同レベルの主張しかできないところに本作最大のがっかり感がある」などとして55点をつけています。
 相木悟氏は、「まさに夏休みの娯楽!色々と口を挟みたいこともあるが、ひとまず最強に面白い怪獣映画であった」と述べています。



(注1)公共放送のNHKまでも一映画作品のPRに参加している感じです!
 とはいえ、その企画の中で『ゴジラ』(1954年)を見たのですが。

(注2)この情報によれば、モナーク(Monarch)は、まずはゴジラを研究するために1946年に設立された機関であり、その後、1999年に発見されたムートー(下記「注5」)の研究も行っています。

(注3)海軍では爆弾処理の仕事に就いています。

(注4)最近では、アーロン・テイラー=ジョンソンは『キック・アス』、渡辺謙は『許されざる者』、ジュリエット・ビノシュは『陰謀の代償』、サリー・ホーキンスは『ブルージャスミン』で、それぞれ見ています。

(注5)Massive Unidentified Terrestrial Organism(未確認巨大陸生生命体)。
 といって、UFOのようにその実態がなんだかわからないわけではないように思えるのですが。

(注6)何しろ、本作における芹沢博士と同じように、「東京へ戻った山根はその巨大生物を大戸島の伝説に従って「ゴジラ」と呼称」し、さらには、「政府は特別災害対策本部を設置し、山根にゴジラ抹殺の方法を尋ねるが、博士は古生物学者の立場から、水爆の洗礼を受けなおも生命を保つゴジラの抹殺は無理とし、その生命力の研究こそ急務と主張」するのですから(Wikipediaのこの項によります)。

(注7)『ゴジラ』(1954年)の主役は南海サルベージの尾形(宝田明)ですが、そして彼は芹沢大助を説得したり、一緒に海に潜ったりするものの、あくまで仲介役にすぎません。
 ですが芹沢大助は、オキシジェン・デストロイヤーを発明しただけでなく、海にそれを持って入り作動させてゴジラを倒し、さらにはオキシジェン・デストロイヤーの悪用を阻むべく自らの命を絶つのです。
 これに対して、本作の主役のフォードは様々の現場に立ち会っていますが、3体の怪獣の排除にあたっては、他の人間と同様に、積極的な役割を果たしていません(最後に、核爆弾がサンフランシスコの中心部で爆発するのを回避するには一定の役割を果たしたとはいえ)。

 なお、本作のラストで、“King of Monsters Saved the City!”とマスコミに持ち上げられるゴジラが英雄なのかもしれませんが、ゴジラとしては、単に「宿命」の相手を打ち破っただけのことではないでしょうか?

(注8)本エントリの(3)で触れる渡まち子氏も、「聖獣ゴジラが、原爆・水爆から原発事故まで、延々と罪深い過ちを繰り返す人類を、それでもなお救おうとする姿」と述べています。

(注9)劇場用パンフレットに掲載の「ストーリー」より。
 ただ、この場合の「放射能濃度」とは何を意味するのでしょうか(放射線量が高いことなのでしょうか)?

(注10)こういうことが、本エントリの(3)で触れる前田有一氏が「日本版一作目「ゴジラ」(54年)の「そのうち行き過ぎた科学技術によりしっぺ返しを食らうぞ」とのメッセージはまぎれもなく先見性があるものであったが、それをハリウッドが二度目の実写化でようやく言及」と述べていたり、読売新聞編集委員・福永聖二氏が「自然をコントロールできると錯覚していた人間の傲慢さに警鐘を鳴らすメッセージが底流に織り込まれ、第1作が持っていた社会派的側面も引き継いでいる」と言ったりしていることの背景をなすのではないでしょうか?

 なお、「8時15分」で止まった父の遺品の時計を見せる芹沢博士は、「ゴジラを信じる」と言うのであれば、あるいは同時にムートーも信じるべきなのかもしれません。なにしろ、ムートーは核弾頭を食べてしまうのですから。

(注11)本エントリの(3)で触れる相木悟氏は、「ゴジラを、バランスをもたらす神=救世主として勝手に解釈して敬う、新しいシチュエーション」と述べています。

(注12)ここらあたりの引用は、劇場用パンフレットに掲載の「ストーリー」より。
 ただ、そこで使われている「放射能」とは何を意味しているのでしょうか(「放射性物質」のことなのでしょうか)?

(注13)ムートーの方はゴジラの体内にある放射能を欲するにしても、ゴジラはそういう欲求を持っていないでしょうから。
 なお、ゴジラはムートーを倒す際に大量の青い炎を浴びせかけましたから、体内に蓄えていた放射能をかなり消費してしまったはずです。でも、次に出現するであろうムートーと対決するには、一体どのように準備したらいいのでしょうか(再び水爆実験を繰り返さなくてはならないのでしょうか)?



★★★☆☆☆



象のロケット:GODZILLA

幕末高校生

2014年08月01日 | 邦画(14年)
 『幕末高校生』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)時代劇コメディというので『超高速!参勤交代』と同じように面白いかもと思って見に行ったところです。 

 本作(注1)の冒頭では、スマホのアプリ「江戸時代」の「入る」をタッチすると、突然、コートを着た石原さとみが、階段や木の橋を走り回る姿が描き出され、でも用水桶の陰に隠れたところで、追手の同心らに捕まってしまいます(注2)。



 次いで、場面は、石原さとみが扮する高校教師・川辺未香子がクラスで日本史の幕末を教えています。
 と、大きなイビキがするので、川辺先生がイビキの主の生徒・高瀬柄本時生)に対して「寝るなら保健室で」と注意すると、彼は素直に立ち上がって教室を出ようとするものですから、彼女は慌ててしまいますが、折よく終業のベルが。
 教室では、生徒の森野川口春奈)がクラスメイトの沼田千葉雄大)に「志望校はどうするの?」と訊くと、沼田は「俺には関係がない」と応じます。

 さらに場面は、川辺先生と生徒の沼田と母親との三者面談に。
 先生が「志望は獣医学部とのことだけど?」と尋ねると、母親は「医学部です」と答え、先生が「医学部に行ける力はある」と付け加えると、沼田は「先生は親の味方ですか」と非難して、その場を立ち去ってしまいます。

 そして、高校の中間テストの場面、高瀬は先生に隠れてアプリの「体感ヒストリー江戸時代」を見たりしています。
 テストが終わって、川辺先生は車に乗って帰ろうとしたところ、車の前に高瀬と沼田と森野が。
 その時、「体感ヒストリー」のアプリが光りだしたので、高瀬が慌ててタッチしてしまいます。
 すると、そこにいた4人と車は一瞬で消え去ってしまい、慶応4年(1868年)3月へとタイムスリップしてしまいます。
 さあ、彼らの運命は果たしてどうなるのでしょうか、………?

 本作は、高校教師と3人の生徒が、幕末にタイムスリップして勝海舟玉木宏)と出会い、江戸城無血開城を巡る事件に巻き込まれるというものですが、こういう単純なタイムトルップ物は色々矛盾が生じてしまうために、それを補って余りあるストーリーの奇想天外さが求められるところ、本作はその辺りを随分と無難な線でまとめてしまっているために、全体として面白さもそれほど感じませんでした(注3)。

(2)本作では、勝海舟とか西郷隆盛佐藤浩市)といった飛びきりの歴史上の人物が描かれています。
 ただ、彼らについて既に定められた枠を超えた遊びができないためでしょう、川辺先生と高瀬は、勝海舟の屋敷という格好の場所にいるにもかかわらず、3月15日の江戸無血開城に至る4日間を、他の森野と沼田を探し出すことに費やしてしまうだけなのです(注4)。



 これは、タイムスリップしても、過去を眺めるだけで過去に参加できないというルールが設けられているためだとしたら、それはそれではかまわないとはいえ、それでは一体何のためにこうした映画を製作するのか、ということになってくるのではないでしょうか?そんなことでは、単なる歴史再現ドラマにすぎないわけですから。

 そればかりか、映画では、実在しなかったとされる柳田・幕府陸軍副総裁(柄本明)が(注5)、勝が推し進める江戸城無血開城の策に反対し、勝から西郷への書状を破り捨てたり(注6)、勝海舟に暗殺団を送ったりするなどといった妨害工作を企てたりします(注7)。
 4人は一体どの江戸時代にタイムスリップしたことになるのでしょうか?
 あるいは、4人は、現在をもたらした過去とは異なる過去を持つパラレルワールドの一つに行ってしまったのかもしれません。
 仮にそうだとしたら、歴史を変えたら自分たちは元の現代に戻ることが出来ないとして川辺先生たちは焦りますが(注8)、既に史実とはいろいろ違っている世界(注9)でそれをおおまかに元に戻したところで(注10)、川辺先生たちの元いた現代に戻れるとは限らないようにも思えるところです。

(3)前田有一氏は、「どうもいろいろとずれを感じる企画である。あんなにかわいらしい歴史教師を出していながら色気ゼロ。ということは、ようするに男性よりも歴女向けということなのだろうが、かといって男性キャラにさほど魅力的な人物が配されているわけでもなく」として45点をつけています。
 柳下毅一郎氏は「太秦映画村狭しと石原さとみが着物姿で駆けまわるバラエティ番組」ではないかと述べています。



(注1)原案は、眉村卓氏の短編『名残の雪』(角川文庫『思いあがりの夏』所収)とされ(未読)、同作は2度ほどTVドラマ化されているようです。

(注2)高瀬もつかまって、川辺先生と一緒に町奉行所のお白州に引き出されます。

(注3)最近では、玉木宏は『大奥』、石原さとみは『カラスの親指』、柄本時生は『超高速!参勤交代』、佐藤浩市は『清須会議』、柄本明は『許されざる者』、谷村美月は『白ゆき姫殺人事件』で、それぞれ見ました。
 また、囚われた川辺先生や高瀬を裁く町奉行役の伊武雅刀は『終戦のエンペラー』で、勝海舟や西郷隆盛などが立ち寄る蕎麦屋の主人役の石橋蓮司は『超高速!参勤交代』で、それぞれ見ています。

(注4)森野と沼田は、川辺先生や高瀬と同時にタイムスリップしたにもかかわらず、映画の中では、別の場所とか別の時点で江戸時代に来ていることになっています!
 すなわち、森野は、幕府の重鎮である柳田の屋敷に潜り込むことになり、沼田については、1年の“時差”が設けられています〔1年も前から江戸で千代(谷村美月)とともに暮らしています〕。

(注5)Wikipediaのこの項目では、陸軍の副総裁は藤沢次謙とされており、また劇場用パンフレットに掲載に「あらすじ」には、「勝の政敵・柳田某などという人物は、その「歴史」に全く登場しないとも………」と書いてあります。

(注6)勝海舟は、辛抱強く西郷隆盛からの返事を待ち続けて毎日をのんべんだらりと過ごしています。その姿を見て、川辺先生は焦ります。

(注7)柳田は「徳川のためにはここで戦をやるしかない」という信念の持ち主ですが、さらにそれを補強したのが、森野から聞いた「徳川家は未来でも存続している」という情報。
 ここで興味深いのは、柳田は、森野の姿を見て、勝海舟と同様に未来から到来した人間であることを信じてしまう点です。これだと、保守派である反勝派の頭目も、勝と同様に柔軟な頭脳を持っていたことになるのですが。

(注8)期限前のぎりぎりのところで、勝海舟と西郷隆盛とは蕎麦屋で顔を合わせることになりますが。

(注9)例えば、史実によれ(Wikipediaによります)ば、勝海舟と西郷隆盛との会談については、山岡鉄舟が下交渉をしていますが、本作においては、勝海舟は「手紙を届けたのは鉄舟ではない」と言っています。また、史実によれば、勝海舟と西郷隆盛との会談は、13日と14日の2回行われていますが、本作では14日の1回だけ。

(注10)映画で描かれる過去においても、結局は江戸城無血開城が達成されるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:幕末高校生