映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ゴッホについて若干のこと

2010年11月24日 | 美術(10年)
 日本におけるゴッホの人気は昔から途轍もなく高いわけですが、1987年3月に安田火災海上が3992万1750ドル(当時のレートで約58億円)で『ひまわり』(上記の画像)を購入した頃が一つのピークだったのかもしれません。
 ですが、これだけ人気者になると、ゴッホ研究書は汗牛充棟の感があるところ、愛知県立芸術大学教授の小林英樹氏は、その著『ゴッホの復活』(情報センター出版局〔2007年〕)において、あろうことかこの東京にある『ひまわり』は贋作であると強く主張しています。




 さて、ブログ「はじぱりlite!」の10月3日の記事によれば、ブログ管理人のtrippingdog氏は、「ゴッホが死の間際に逗留していた街」であるオーベール=シュル=オワーズ(注1)を訪れたとのこと。
 そのブログの中で、trippingdog氏は、ゴッホ作『オーベールの教会』などについて、自分で撮影した写真をも掲げながら、次のように述べています。





 「こうして実際の風景を見てみて思うのは、画家たちが、目に映る風景を、かなり凝縮して画布に描いているということです。ゴッホの教会も、セザンヌの首吊りの家も、まるでそこだけ他とは違う重力が奥に向かって働いているかのような、あるいは、建物が、狭い穴を無理やりこじ開けて出現してきたかのような、そんな印象を受けます。/それはきっと、画家の風景に対する集中というか、没入の力強さでもあり、また同時に、彼らに対する風景の存在感というか、切迫の力強さでもあるのでしょう。彼らは、ただ事物が「ある」ということを、まるで異世界の出現といったような、途轍もない出来事として受け取っているかのようです。」

 ゴッホが見た風景をゴッホと同じように率直に見ることのできた者が持つことのできるリアルな感慨が書きとめられている、と思われるところです。

 他方で、冒頭に記した小林英樹教授は、その著書において、次のように述べています。
 「『オーヴェルの教会』は、自らを葬る前に地上に残した唯一の自叙伝であり、自ら葛藤する姿をそのまま象徴するかたちで刻んだ、最後の記念碑でもあ」り、「『オーヴェルの教会』にあるのは、一通り行うべきことを行い、見るべきものは見てきた者の静かな述懐である」(P.327)。

 大変精神性に富んだ優れた見解だと思われます。
 ただ、こうした見解は、ゴッホがこの絵を描いた後、それほど日を経ずに自ら命を絶ったという事情を予め踏まえた上でのものではないか、とも思えます。
 最近、文星芸術大学教授の小林利延氏は、ゴッホの死はいわれるような自殺ではなく、弟のテオが殺したのだとの驚くべき見解を出しています(『ゴッホは殺されたのか 伝説の情報操作』〔朝日新書 2008年〕)。
 こうした見解が正しいとされた場合にも、小林英樹教授はご自分の見解を果たしてそのまま維持されるのでしょうか、酷く疑問に思えるところです。

 そんなことはさておき、丁度今、東京では新国立美術館で「没後120年 ゴッホ展」が開催中(12月20日まで)であり、ゴッホの作品は70点近く展示されています(注2)。
 そんなに数が揃っているのなら、必ずや同展でもオーベール=シュル=オワーズでの作品を見ることが出来るに違いないと思って、六本木まで出かけてきました。
 確かに、会場は6つに分けられて、その最後は「Ⅵ さらなる探求と様式の展開―サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ」と題されていますから、一層の期待が高まります(なにしろ、ゴッホは、オーベール=シュル=オワーズで過ごしたおよそ70日の間に、約70点もの油彩画を描いたとされますから!)。
 ですが、オーベール=シュル=オワーズにおける作品は、実際には、『ガシェ博士の肖像』と題するエッチング2点と、『麦の穂』という作品だけですから、酷く失望してしまいました。

 前者は、ゴッホが初めて試みたものながら、版画ですから増し刷りができ、約70枚が知られているそうです(不思議なことに、ゴッホとかオーベール=シュル=オワーズには、「70」という数字が絡みついているようです!)。



 後者の油彩画は、麦の穂が同じように繰り返し描かれていて、ゴッホには余り見かけない装飾的な感じがする作品です〔同じ年に描かれた肖像画の背景に、このイメージが使われているそうです〕。



 なお、同展では、ゴッホが所持していた豊原国周の『隅田川夜ノ渡シ之図』(1855年)が展示されていますが(注3)、これなどは先日の記事「セーヌと隅田」で取り上げた「隅田川展」で展示されていても全然オカシクない浮世絵です(ちなみに、同展では、同じ豊原国周筆の『両国大花火夕涼之景』〔1887年、井上探景が背景を描いています〕が展示されていました)。ことによったら、ゴッホという媒介項を通じて、セーヌ川と隅田川とが結びつくのかも知れません!



 また、最近、日本では、あのフランス映画『死刑台のエレベーター』のリメイク作が公開され、そのオリジナル作(1958年)についても関心が高まっているところ、驚いたことに、元の映画では、花屋の売り子ベロニックが住むアパートの部屋の壁にゴッホが描いた自画像(今回の東京の展覧会でも展示されている『灰色のフェルト帽の自画像』)の複製が貼ってあるのです!
 リメイク作において、北川景子の部屋の壁に何が貼ってあったのかは、DVDが出たら調べてみることにいたしましょう。



 ゴッホを巡る話のタネは、これからも尽きることがないように思われるところです。



(注1)Auvers-sur-Oise。パリの北30㎞、電車で約1時間のところにある町。
 なお、町名の表記は、Google地図やwikiでは「オーヴェル=シュル=オワーズ」。ただし、以下ではtrippingdog氏に従います。
(注2)しかたのないことですが、展示された作品にはスケッチなどが多く、めぼしい作品は、『自画像』とか『アルルの寝室』など10点に満たないでしょう。としたら、この間世田谷美術館で開催されていた展覧会「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」(9月5日の記事の中で少しだけ触れました)では、ゴッホの作品としては『郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン』がひとつだけ展示されていましたが、その方がむしろ強い印象を受けました。
(注3)掲載の画像は絵の一部。なお、ゴッホは400点を越える浮世絵を所有していたそうです。

セーヌと隅田

2010年11月18日 | 美術(10年)
 上に掲載した画像は、trippingdog氏がFlickrに掲載している写真から選択したものです(「la seine」、本年10月31日にアップされています)。

 ちょうど、東京・京橋にあるブリヂストン美術館では、「セーヌの流れに沿ってー印象派と日本人画家たちの旅」というタイトルの展覧会を開催中です。
 そのHPでは、本展覧会の狙いについて、次のように述べられています。
 「本展ではセーヌ川流域を5つの地域に分け、それらを描いた印象派の作品を中心に、日本人画家たちの滞仏作も含めた19世紀半ばから20世紀にかけての作品群をご紹介いたします。近代絵画の歴史を地理的にたどるとともに、セーヌ川が画家たちによっていかに表現されてきたかについても展観するものです」。

 今回の展覧会では、例えば、次のカミーユ・ピサロの『ポン=ヌフ』(1902年)といったものが代表的といえるでしょう。



 ただ、今回の展覧会では、パリ市内を流れるセーヌ川だけでなく、その上流や下流を描いた絵画も展示されています。
 さらにもう一つ興味をひくのは、セーヌ川を描いている日本人画家の絵も展示されていることです。
 なかでも驚いたのは、このブログの本年4月10日の記事で取り上げました日本画家・小野竹喬の『セーヌ河岸』(1921年)が展示されているのです!



 この絵は、セーヌ川左岸にあるホテルの部屋からノートルダム方面の眺めを描いたとのこと。

 そうなると、セーヌ川に対応するものは日本にも何かあるのかと探したくなるところ、スグニ思いつくのが隅田川でしょう。
 若干しか開催時期は重なりませんでしたが、なんと江戸東京博物館では、「隅田川」展が開催されていたのです(11月14日まで)!
 ただ、「隅田川」展といっても、隅田川の今昔を紹介するというよりも、隅田川が主に絵画でどのように捉えられてきたのか、という観点から展示されています。
 それで、最初の方は、江戸初期の様子が描かれた屏風絵が展示され、その次になると大部分が浮世絵になります。
 面白いのはやはり屏風絵で、隅田川を跨ぐ橋を歩く人々とか、その橋のそばに展開されるさまざまの店の内部の様子などが細かく描き出されていて、興味をひかれます。


(筆者不詳『江戸名所図屏風』;江戸前期の作、上記は両国橋界隈)

 こうした屏風絵が面白いというのも、最近、黒田日出男氏による『江戸図屏風の謎を解く』(角川選書、2010.6)を読んだりして、江戸時代初期の江戸の様子に興味を持ったことにもよるのでしょう(本ブログの10月24日の記事の(2)でも触れました)。

 なお、この「隅田川」展のラストには、フランスから来日したノエル・ヌエット(1885年~1969年)による絵『両国橋』(1936年)が展示されていました。ペン画的な感じがするものの、昭和初期の東京風景とのことです。



 最後に、永代橋から北方向の隅田川の画像です(11月18日のお昼頃:中央に聳えるのが、建設中のスカイツリー←もっと遡って、例えば白髭橋の方から撮れば、ズッと大きく写せるでしょう)。




「建築はどこにあるの?」展

2010年07月17日 | 美術(10年)
 4月の下旬から3ヶ月にわたって竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「建築はどこにあるの?7つのインスタレーション」展を見てきました。
 「7組の建築家による新作インスタレーションの展示」と聞いて、そんなものをわざわざと二の足を踏んでいたのですが、好きな建築デザイナーの伊東豊雄氏(注1)が参加していると聞き、また作品の写真撮影が出来ることも面白いなと思い、出かけてきました。

 この展覧会のねらいは、気鋭の日本の建築家にインスタレーションの制作を依頼し、それらの作品の「どこにどのような形で建築が現われてきているかを捜すこと」にあるようです。

 会場には、次のようなインスタレーションが置かれています。
・何か動物のようにも見える構築物(「まちあわせ」と題するアトリエ・ワンの作品。竹を曲げて東屋風に作られたもので、美術館の外に置かれています)、
・平面が三角形で体積が100立方メートルくらいある構造体(「とうもろこし畑」と題する中村竜治氏の作品。中は無数の紙のフレームで満たされています)、
・実際の建物の模型(「草原の大きな扉」と題する中山英之氏の作品。北海道の草原に作られているキオスクと納屋を3分の1のスケールに縮小したもの)、
・家の模型のような構造体(「物質試行51」と題する鈴木了二氏の作品。模型でありながら、全体を均一に縮小していません)、
・「空間」が明滅する部屋(「赤縞」と題する内藤廣氏の作品。レーザー光線で床に大きな縞模様ができています)、
・模型の一日を見せる映像空間(「ある部屋の一日」と題する菊池宏氏の作品。先ず模型が展示され、隣の部屋に置かれているスクリーンにその模型の映像が映し出されます)。

 そして、最後はお目当ての伊東豊雄氏のインスタレーション「うちのうちのうち」です。
 現在瀬戸内海の大三島に作られている「今治市伊東豊雄建築ミュージアム(仮)」の2分の1のスケールの模型とのこと。
 全体は、3種類の多面体が組み合わされて作られた空間になっています。そして、多面体内部の斜めになった壁面には、いくつかの空間構成システム(3次元チューブの連続体とか、湾曲するアーチの連続体といったもの)が展示されています。
 こうしたインスタレーションと実際の建物の設計との関係について、伊東豊雄氏は、当展のカタログに掲載されている「アンケート」において、次のように述べています。
 インスタレーションは、「未だ形態や機能の定まらない孵化過程の建築の前状態」であるが、「建築を設計する過程は、イメージやコンセプトが社会化されるプロセス」だ。


 以下の画像は、持参したデジカメでクマネズミが撮影した伊東氏のインスタレーションの様子です(注2)。
 インスタレーションの入口から中を見た感じです。



 壁面にあるいくつかの空間構成システムです。





 作品の天井の一部分です。




 本来的には、「建築はどこにあるの?」の答えを見出した上で、それを写真に収めて美術館の「公式ページ」に投稿すればいいのでしょうが、上に掲載した画像は会場での単なるスナップ写真に過ぎず、とても「答え」になどなってはいません。
 それに、仮に「答え」を見出せたとしても、場所によっては人が絶えず通りかかるためにうまく撮影できません。また、そもそもそんな「答え」があるのかどうかも疑問ですし、それが写真撮影に適したものであるかどうかも分かりません。
 逆に言えば、伊東氏の作品は、現在進行中のプロジェクト縮小模型ということですから、それ自体が「建築」であることは間違いないところでしょう。だとしたら、上の画像はどれもある意味で「答え」になっているのかもしれません!
 なお、伊東氏の作品は全体に非常に明るいので撮影しやすいのですが、他の作品は大部分、明るさの不足からフラッシュを必要とするものの、それは禁止されているのです!

 最後に、偶然、講演のために来館されていた伊東氏にお目にかかれたので、カタログにサインしていただきました!




(注1)伊東豊雄氏の作品については、「大館樹海ドーム」(1997年)や「せんだいメディアテーク」(2002年)を見て興味を持ち、その後も「TOD’S表参道ビル」(2004年)を見たり、東京オペラシティアートギャラリーで開催された個展に出かけたりしてきたところです。

(注2)記事の冒頭に掲げた画像は、この展覧会についての美術館HPに掲載されているものです。

「マネとモダン・パリ」展

2010年06月05日 | 美術(10年)
 東京及びその周辺では、今、なぜか「印象派」の展覧会が花盛りです。
 順不同ながら、主なものをザッと挙げれば次のようです(注1)。

・ブリジストン美術館「印象派はお好きですか?」(~7月25日)
・三菱一号館美術館「マネとモダン・パリ」(~7月25日)
・国立新美術館「オルセー美術館展2010「ポスト印象派」」(~8月16日)
・松岡美術館「モネ・ルノワールと印象派・新印象派展」(~9月26日)
・森アーツセンターギャラリー「ボストン美術館展」(~6月20日)(注2)
・文化村ザ・ミュージアム「語りかける風景―コロー、モネ、シスレーからピカソまで」(~7月11日)
・横浜美術館「ポーラ美術館コレクション展―印象派とエコール・ド・パリ」(7月2日~)

 まるでフランスの美術館が皆東京に引っ越してきたかのような趣きを呈しています。
 昔、芝居小屋の経営が苦しくなると〔近いところでは、映画産業が不況になったりすると〕、「忠臣蔵」にお出ましを願って事態の改善を図ったといわれていますが、あるいは東京の美術館経営も厳しい状況に陥っているがために、猫も杓子も「印象派」詣でということになっているのかもしれません!

 ですから、生来ひねくれ者のクマネズミとしては、こうした展覧会にはどれも絶対行くものか、と決めておりました。

 としたところ、最近『印象派の誕生』(吉川節子著、中公新書、2010.4)を読んでいましたら、マネの『エミール・ゾラ(の肖像)』について、「この肖像画で、右上隅の枠の中に貼られた3点の作品が『バティニョル街のアトリエ』の静物と同じ「トリロジー」を構成していることが解明された」と述べられています(P.40)。

 それなら何か面白いのではと思って、専らその点だけを見ようと、新しく設置された三菱一号館美術館に行ってきました。

 この美術館のある建物は、丸の内最初のオフィスビルとして戦前に建てられた三菱一号館(ジョサイア・コンドルの設計により1894年に竣工)を忠実に復元したものとのこと。道理で中に入ると、1階から3階まで小さな展示室がいくつも並んでいるのだとわかります。ただ、展示室があまり狭いと、このような著名な画家の展覧会の場合入場者が大勢となりますから、よく知られている名画の前では身動きが取れなくなってしまいます。

 お目当ての『エミール・ゾラ(の肖像)』(1868年、オルセー美術館)は、エレベーターで上がった3階にある比較的大きな部屋に陳列されています。両サイドは、窓を覆う白地の遮光カーテンが垂らされていて、この絵だけがよく目立っています。





 さて、上記の引用の中にある『バティニョル街のアトリエ』は、次のような絵です(ファンタン=ラトゥール作、1870年)。



 この絵の左側にある赤いクロスのかかったテーブルの上に3点の静物が置かれています。



 上記の中公新書の著者によれば、これらについて、C・P・ワイスバーグが1977年に、次のように喝破したとのことです(P.37)。
 「ミネルヴァは古代ギリシア・ローマ神話では技術・学芸の守護神であるから、画中の小像は、西洋美術の伝統を象徴し、多角形の日本の皿は、マネら一群の画家が日本の文物に示していた熱い関心を表わし、ブヴィエの壺は両者が象徴する「西洋の伝統」と「日本の影響」を統合した「新しい芸術」を具現するものだ」。

 そして、今回の展覧会で展示されている『エミール・ゾラ(の肖像)』の「右上隅の枠の中に貼られた3点の作品」についても、吉川氏によれば、セオドア・レフが1975年に次のように解明したとのことです(P.40)。
 「ベラスケスの『バッカスたち』の版画は、「西洋の伝統」を表す。一方、相撲絵『大鳴門灘右ヱ門』は「日本の影響」を示す」。マネの『オランピア』は、「あたかもそれらを統合するかのように2点の作品の上に貼られ、マネが目指した「新しい芸術」を象徴している」。



 なるほど。実際に現物を見てみますと、「3点の作品の主人公が眺める方向は原画から変更され」、「マネ擁護に立ち上がったゾラにオマージュを捧げるかのように視線をゾラに集中させ」ていることもよくわかります(P.41)(注3)。

 専ら外の風景を明るい色調で描いたのが印象派ではないか、などと漠然と思っていましたが、こうした隠された意味を持つ作品もあるのだとわかり、印象派に対する失われた興味が幾分戻ってきたところです。



(注1)セザンヌヤゴッホなどがいわゆる「印象派」に属するのかどうか議論があるところでしょうが、ここでは最も広い意味で使うことにします。
(注2)展示品の中心が、マネ、モネ、ドガ、セザンヌ、ルノワール、ゴッホの作品なのです。
(注3)この絵については、安藤智子氏の「絵の中の絵が語るもの―アルフォンス・ルグロ作《エドゥアール・マネの肖像》」の「4「絵の中の絵」の造形性」も参考になると思います(雑誌『Resonance』第4号〔2007年〕掲載)。



追補〕『エミール・ゾラ(の肖像)』の「右上隅の枠の中に貼られた3点の作品」のうち、相撲絵は、二代目歌川国明によるもので、展覧会カタログの説明には「マネの「笛を吹く少年」の日本版」とありますが、だから何だというのでしょうか?

 そんなつまらないことはサテ置き、この絵の場所はゾラの書斎で、「オランピア」は写真版とのことです。あるいは、右上隅の「トリロジー」は、マネがそのように意識して描いたというよりも、単に実際のゾラの書斎がそうなっているだけのことなのかもしれません。

 なにより、下にそれぞれやや拡大して掲載しましたが、左側にある日本の屏風は何の意味もないのでしょうか?ゾラが手にしている本に描かれているのはゴヤの版画であり、また机の上に斜めになっている本には「MANET」とあって、マネを擁護するゾラの本の表紙です。
 とすれば、素人の全くの思いつきにすぎませんが、むしろこの3点の方が、ひょっとしたら「トリロジー」を形成するのではないかと思えてきますが?







 

「会田誠」展

2010年05月31日 | 美術(10年)
 ブログ「ARTTOUCH」の記事で、安積桂氏が、市ヶ谷のミヅマ・アート・ギャラリーで開催されている会田誠展「絵バカ」を取り上げているので、見に行ってきました。

 会田誠氏の絵画について直接目にしたのは、山口晃氏とのふたり展『アートで候。』(上野の森美術館、2007年)くらいで、作品の大部分は画集『Monument for Nothing』(グラフィック社、2007年)で見ました。
 今回は、久し振りにその絵を直接見ることができるということと、昨年11月に市ヶ谷に新たに開設された画廊スペースで展示されるとのことなので、興味がわいた次第です。

 JR市ヶ谷駅から外堀通りをしばらく飯田橋方面に向かって歩くと、1階がガレージになっている建物があり、外側に取り付けられている階段を上ってドアを開けると、そこがギャラリーです。
 入ってすぐの右手には、DVD作品「よかまん」の映像が、やや大きめの液晶画面の中で絶え間なく流れています〔東京芸術大の学生とおぼしき2人の女性が、全裸で、「一つよかまん、なんじゃろな」と踊っています〕(注1)。
 その奥の左手に「灰色の山」が、その右側に「1+1=2」(注2)が、もうひとつ右に回ると「万札地肥瘠相見図が展示されています。

 今回の個展の目玉は、何といっても「灰色の山」でしょう。
 


 制作中の会田誠氏の姿が見られます。

 全体の構図は次にようになります。



 今回の展覧会に関する産経新聞の記事によれば、「高さ3メートル、横幅7メートルの巨大キャンバス。遠くから見ると水墨の山水画の趣。近づくと手前のグレーの濃い山は、廃棄物が捨てられたゴミの山のよう。もっと間近で見ると、そこには無数の人間の屍がアクリル絵の具で描かれているのだ。スーツにネクタイ姿の典型的なサラリーマン。髪が金髪もいれば黒髪もいる。世界中のサラリーマンが集められた。彼らがパソコンなどOA機器とともに倒れ、ゴミのように堆積している。サラリーマンの屍の山」というわけです。

 同記事を書いた産経新聞記者は、この絵について、「むごたらしい光景だが、目を背けたくなるものではなく、かえって目を凝らして見てしまう」のであって、「一人一人の個性は尊重されず、全体の中に埋没する人生の悲哀や皮肉が込められているのだろうか」と述べています。
 朝日新聞にも、この展覧会についての記事が掲載され、その中で記事を書いた記者は、「今月13日の新聞に、自殺者が12年連続で3万人を超え、うち7割が男だという記事が載った。馬鹿馬鹿しいほどの数の死体の山は、そんな現状をも連想させるスケールの大きな作品になった」と述べています。
 同じ作品を見ても、二つの新聞の特色がそれぞれの記事から窺われるところで、特にどんな物事をも社会的・政治的な問題点に結びつけたがる朝日新聞の性癖が見出されるのは興味深いところです。

 なお、二つの記事とも、この絵と「ジューサーミキサー」(2001年)との繋がりを指摘しています。



その一部を拡大すると、以下のようです。



 
 驚いたことには、丁度同じ時期に、日比谷にある「高橋コレクション」では「会田誠+天明屋尚+山口晃―ミヅマ三人衆ジャパンを斬る―」展が開催されていて、会田誠氏については、他の絵に混じってこの「ジューサーミキサー」が展示されているのです。

 さて、今回の「灰色の山」ですが、「ジューサーミキサー」のインパクトに比べると、随分と大人しさを感じてしまいます。むろん、一方の、「ジューサーミキサー」の方は、無数の裸の若い女性が描かれているのに対して、モウ一方の「灰色の山」の方は、背広を着たサラリーマンですから、それだけでも大違いですが、なんと言っても前者は、人間が、こともあろうにジューサーにかけられるという「地獄絵」であり(注3)、「サラリーマンの屍の山」が実際にも山をなしている後者に比べたら、見る者に与えるインパクトは遙かに大きいと言わざるを得ません。
 それに、サラリーマンが「パソコンなどOA機器とともに倒れ」るというのは、映画『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』ではありませんが、あまりにありきたりのイメージではないかと思えてしまいます。
 それでも、なにはともあれ「人生史上最多の描写量」という点は、評価すべきだとは思われるところです。


(注1)朝日新聞の記者は、この映像作品について、「悲壮感はどこにもない。絵バカを受け継ぐ期待の星は、草食系男子ではなく、腹が据わった肉食系女子ということか」と述べています。
(注2)この絵については、安積桂氏が、ブログで「これは会田の初めての抽象画なのだ」と述べているところです。
(注3)高橋コレクションの展覧会の会場で配布されている「作家による作品解説」の中にある言葉です。

「三岸節子」展

2010年05月08日 | 美術(10年)
 このところ、松井えり菜氏とか喜多順子氏といった若い世代の展覧会を取り上げてきましたので、ここらで日本洋画界の重鎮であった三岸節子の展覧会に触れておきましょう。
 この展覧会は高島屋日本橋店で開催されており、勤務先に近いこともあって昼休みを利用して見てきました。

 さて、朝日新聞の記事によれば、今回の展覧会は、「94歳で亡くなってから10年になるのを記念」し、特に、「63歳からフランスに渡って風景画に挑戦した日々をつづった数十冊の日記帳が発見され」、「その日記の内容をもとに、節子の心の旅路をたどりながら、代表作約80点で画業を紹介」する、とのことです。
 例えば、下記のような絵(「ブルゴーニュの麦畑」)の傍らには、次のような日記の記述がパネルで添えられています。
 「黄色い風景を描きたくなり、もう麦畑も大体刈り終えたところであるが、まだ残されている麦畑を訪ねて夕方ドライブに出る。今年は天候が麦にたいへん悪く、雨が長く降り続いた上、寒い位。ちょうど実りの時期につづいたため美しい黄金色にならず、うす汚い土色であるため描く気にならず。まだそれでも、ところどころ刈取りのおくれたところをさがす」〔展覧会カタログP.64〕。



 タイトルも何も見ずにこの絵だけを見ますと、かなり抽象度が高く、面白い絵だなと思わせます。
 それが、タイトルを見ると漠然とながら具体的な様子が伝わってき、さらにこうした日記の記述が添えられると、絵の上部の方は麦畑で、下部の方は人家なのだなと明確に見えてきます。ただ、そうなると、なんだか当たり前の絵のような気もしてきてしまいます。
 こうした添え物は、果たして絵画を見る際に助けになるのだろうか、むしろ絵そのものの鑑賞を妨げてしまうのではないか、などと考えてしまいました。

 そんなことはともかく、私としては、下記の「作品 Ⅰ」と題された86歳の時の絵の方に惹かれます。
 というのも、先日の「小野竹喬」展で見た「奥の細道句抄絵」の内の「暑き日を 海にいれたり 最上川」と通じるところがあるように思われたからですが。奇しくも、竹喬の最上川の絵は、画家が87歳の時に制作されたものです。




「喜多順子」展

2010年05月03日 | 美術(10年)
 ブログ「ART TOUCH 絵画と映画と小説」の4月27日の記事でも『喜多順子展』が取り上げられ、初めて耳にする画家なので行ってみることにしました。

 会場は初台にある東京オペラシティーのアートギャラリー。そこなら簡単に見ることが出来ると思ったのですが、現在同ギャラリーのメインは『猪熊弦一郎展』であり、見てみたいと思った展覧会は、メインが開催されている会場の上の階で開かれている収蔵品展のもう一つ奥のコリドールで行われていて、探し出すのにやや骨が折れました。
 それに、「コリドール」と言えば格好が良いのですが、実際のところは、主な展覧会が開催されているきちんとした会場の間を繋ぐ通路であって、その両側の壁に作品が展示されているのです。
 ただ、廊下だからといって別段展示品の価値が下がるものでもなく、また通過する人が多いわけでもありませんから、比較的落ち着いた気分で絵を見ることが出来ます。

 さて、今回展示された喜多順子氏の作品は、白地の布に水彩絵具で描いてあるものが多く、前々回取り上げた松井えり菜氏の作品と比べると、その淡泊さが際立ちます。
 中で一番目を惹くのは、やはり「WH水原2009ブレンド(モンブラン、栂池、燕、白馬)」と題された作品でしょう。



 会場で配布されているパンフレットには、「描かれている風景は実際にはありえないもの」で、この絵も、「ヨーロッパアルプスの最高峰と日本の北アルプス山麓の栂池周辺を組み合わせて描」かれており、「このように風景をいわば“ブレンド”することで、喜多の作品は、私たちの記憶の曖昧さに働きかけてくる」のであり、すなわち、「現実の情景の細部を合成して虚構の情景を構築」し、「場所と記憶を混交させることによって、一種の桃源郷を創出している」のだ、と述べられています。
 さらには、「水彩絵具による今の喜多の作風にとって、布という素材がもつ独特の肌触りや風合いが最も相性がよ」く、結局、「喜多順子がさりげなく創出する仮構の桃源郷は、見る者の心の襞の奥深くに無意識のうちに沁み入ってくるよう」だと結論付けています。

 ただ、下記のような「The Way Home」と題されたいくつかの作品も展示されていて、それらの背景となっている峻険なアルプスの風景は木炭などを使って描かれたりもしており、見る者には、その「心の襞の奥深くに無意識のうちに沁み入ってくる」というより、むしろ不気味な感じを抱かせます〔あるいは、最近映画『アイガー北壁』を見たせいでしょうか〕。
 尤も、殆どの絵に渡り鳥の群れの飛翔が描き込まれていて、結局は、飛んでいった先が緑豊かな桃源郷だ、ということなのかもしれませんが(上記の絵のタイトルにある「WH」とは“Way Home”のことでしょう?)!




 パンフレットによれば、喜多順子氏は1974年生まれの36歳。先に横浜美術館でその個展を見た「束芋」氏とは一つ違いであり、とすれば“断面の世代”ということになります。
 束芋氏は、自分たちが属する「断面の世代」について、「個に執着し、どんな小さな差異にも丁寧にスポットライトを当て」ている世代だと述べていますが、その点からすれば喜多順子氏との共通性がヨク感じられるところです。
 安積桂氏は否定的ですが(注)、この画家についても、松井えり菜氏と同じく私としては注目していきたいなと思っています。



(注)安積桂氏は4月27日の記事において、喜多順子氏について、「ブログ世界では喜多順子の評価が高いようだが、私には理解できなかった」と述べています。
 ちなみに、喜多氏の絵画を絶賛しているブログとは、たとえば、「週刊『フクダデスガ』」あたりなのかもしれません。ただ、「展覧会レーティング&レビュー」のように、それほど評価していないブログもあるようです。


「松井えり菜」展

2010年05月01日 | 美術(10年)
 ブログ「ART TOUCH 絵画と映画と小説」の4月22日の記事で『松井えり菜展』(「ワンタッチ・タイムマシーーン!」)が取り上げられていたので、なにはともあれ見に行ってみることにしました。

 会場は、地下鉄南北線・白金高輪駅近くの「山本現代」(山本ゆうこ氏が主宰のギャラリー)というので、探し出すのが一苦労でした。首都高速2号線の下を流れる渋谷川に沿った道をしばらく西に歩いて、白金公園のソバのマンション3階にようやく見つけ出すことが出来ました。
 なんだか、山口晃氏の個展があるというので以前行ったことがある「ミズマ・アートギャラリー」(注2)の時と同じような印象を受けてしまいました。実際には中目黒駅のスグ近くの大きな道路沿いなのですが、それにしてもこのようなところで展覧会が開催されるのかしら、というような建物でした〔尤も、今回の「山本現代」の方は、「ミズマ・アートギャラリー」に比べたら遙かに綺麗なマンションに入っているのですが〕。

 そんなことはともかく、松井えり菜氏の絵です。この展覧会に関しては産経新聞で取り上げられましたが、その記事では、会場の真ん中にドーンと置かれている「MEKARA UROKO de MEDETAI!」について、「自身をモデルにした若い女性の顔が大きく描かれる。目はうつろで、口を開けた恍惚の表情。口の中の粘りけのあるツバや口元のうぶ毛、鼻毛さえも描く徹底ぶり」で、「リアル過ぎて嫌悪感を抱く人もいるだろうが、その執拗な描写も松井らしさといっていい」などと述べられています。



 さらに、同記事で、「人間関係がドライになりつつある社会にあって、絵から発するある種のねっとり感は、親しみを抱かせ、安心させてくれる」と書かれていることについて、ブログ「ART TOUCH」の安積桂氏も、「最後の結論にも異論はない。アブジェクトなものが癒しになることはおおいにあるだろう」と述べているところです。

 私としては、上記の絵の全体の感じからキング・クリムゾンの「キングの宮殿」のジャケットのようではないかと思ったり、また「ふすま仕立て」になっていることから〔画像の右端と左端の中央にある小さな円は、実際には「引手」なのです〕、少し前に見た長谷川等伯の襖絵が思い浮かんだりして、「安心させてくれる」というよりも、むしろ様々に刺激を受ける見飽きない絵といったところなのですが。





 さらには、下記のような絵もありました。



 口の中にもう一つの世界があるという感じから、空也上人像とかエイリアンとかが思い浮かんでしまいました〔上記の作品においても、口の中には何か描かれています。また、会場で、上記の作品の裏側に展示されていた絵では、巨大な魚の口の中に人間の口があって、その中にウーパールーパーの顔面が描かれたりしていました!〕。






 松井えり菜氏の絵については、先のフランス大使館で行われていた「No Man’s Land 」展でちらっと目にして、随分と変わった絵を描く人だと思ったのですが、今回新作を何点も見て、安積桂氏は総じて否定的ながらも(注3)、なにかもっと面白い方向に飛躍していきそうな印象を受けてしまったところです。




(注1)この展覧会は本日までです。
 なお、ブログ「ex-chamber museum」の4月29日の記事においては、この展覧会で展示されている作品の殆どの画像が掲載され、かつまた詳細なコメントが記載されているので驚きました(松井えり菜氏のコメントまで投稿されています!)。

(注2)三潴末雄氏が代表で、現在、中目黒のビルは「ミズマ・アクション」とされ、「ミズマ・アートギャラリー」は市ヶ谷に移転しています。このゴールデンウィーク明けには、4月3日の記事で触れた会田誠氏の展覧会が開催されます。

(注3)安積桂氏は、以前、松井えり菜氏の『えびちり大好き!』について、「ただひたすら不快なだけ」で、「これが芸術ではないのはもちろろん、何かコンセプチャルな仕掛けのあるアートとも思えない。せいぜいのところ、いじめられっ子が、起死回生、人気者になろうと、教壇に上がってかました一発芸というところだろう」と酷評しています。


「歌川国芳」展

2010年04月24日 | 美術(10年)
 日曜日に、“府中の森”にある府中市美術館で開催されている「歌川国芳展―奇と笑いの木版画」を見てきました(その日で前期が終り、火曜日からは後期が始まっています〔5月9日まで〕)。

 府中市美術館は、「府中の森」の北側隅にある比較的こじんまりした美術館ですが、時折大層興味深い企画展が開催されるので、何度か行ったことがあります。休日でもそれほど混雑せず、マズマズゆったりと展示品を見ることが出来るので、お薦めのスポットといえるでしょう。

 さて、3月2日のブログの記事で、神戸大学准教授・宮下規久朗氏の『刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ』から、次のような引用を行いました。
 「18世紀後半の明和・安永期となると、侠客の間に刺青を誇示することが目立ってき」て、それに重要な役割を果たしたのが歌川国芳らの『水滸伝』の武者絵であり、これこそが「ワンポイントではなく、全身に大きな刺青を施すブームを作り出したといわれている」。

 ここで言及されている「『水滸伝』の武者絵」が、まさに今回の展覧会で展示されているのです!すなわち、「通俗水滸伝(または本朝水滸伝)豪傑百八人一個」というタイトルの大判(縦39cm×横26.5cm)の錦絵が、6点ほど前期では展示されています。
 それを見ることが出来るというので大きな期待を込めて出かけてきましたが、実際のところも、さすが言われることはあるなと思わせる、力強さに満ちたとても立派な浮世絵でした。



 面白いなと思ったのは、上記の「旱地忽律朱貴」(かんちこつりつしゅき)―梁山泊の対岸の入口に酒点店を構え、鏑矢で時事を知らせた―にもうかがわれますが、肌脱ぎになっている豪傑の背中にも既に立派な刺青がなされていることです(注)。とすると、こちらの絵にも豪傑が描かれていて、その背中に刺青がされていれば一体どうなるのかな、などとくだらないことを考えてしまいました。
 とはいえ、美術館側で用意したパネルとかカタログには、“刺青”とか“彫り物”といった用語はいっさい登場しません。まだまだそうしたものは反社会的だという観念が残っているのでしょうか?

 なお、この展覧会は、もちろん『水滸伝』の武者絵だけを展示するものではなく、国芳の幅広い画業をいろいろな角度から明らかにしようとしています。
 冒頭に掲げた「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」は、しばしば16世紀イタリアの画家アルチンボルドの絵との関係で取り上げられることが多いので、ここでは「忠臣蔵十一段目夜討之図」に触れてみましょう。
 国芳が、伝統の画法のみならず、西洋画法にも習熟して、こうした絵の中に遠近法や陰影法を取り入れている様子がよく分かります。こうした前向きな姿勢を保ち続けたからこそ、冒頭に掲げたような面白い絵を描くことも出来、かつまた武者絵にも独創性を発揮できたのではないか、と思いました。




(注)恵文社BPというサイトの「日本刺青墨録」には、「これらの人物像を彫るということは、「二重彫り」ということになります。刺青している英雄豪傑をまた自分に刺青すれば、二重の刺青体験をしたという心理的な満足感を得られ、自分が施した刺青の英雄と連帯し、かつ同一化したという、己の憧憬と願望を満たすことになるのです」と述べられています。
 

小野竹喬展

2010年04月10日 | 美術(10年)
 竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「生誕120年 小野竹喬展」が、明日の11日で終了してしまうというので、これも慌てて見に行ってきました〔上記の絵は「奥入瀬の渓流」(1951年)〕。
 尤も、格別、小野竹喬(1889年-1979年)のファンというわけでもなく、初めはあまり行く気はなかったところ、最近になって、どうやら芭蕉の俳句をヒントに制作した絵があり、今回の展覧会ではその全部が特別に展示されているようだ、と聞いたものですから、それだけでも見てみようと行ってきました。

 そんなわけで、元々それほど多いとは思えない入場者も会期終了間際になれば一段と少なくなっているだろうと高を括って、平日の昼休みの時間を利用してチョコッと見てこようとしました。
 ですが、会場に入ってみて驚きました。どの絵の前にもたくさんの人だかりがしているではありませんか!それも、中年過ぎの女性がほとんどなのです。ハテサテ小野竹喬にそんなに人気があったとは知りませんでした。
 とはいえ、「生誕120年」を記念する回顧展のため、展示されている作品数も多く(本制作119点、スケッチ52点)、次第に人だかりもバラけてきます。一度にこんなにたくさんの絵を見て、うまく消化できるのかしらと疑問にもなりました。

 さて、お目当ての絵ですが、それらが展示されている部屋は、会場の一番最後に位置していますので、そこではまたまた絵の前の人だかりがすごいことになっていました。
 絵は全部で10点あり、すべて芭蕉の『奥の細道』に記載されている俳句をもとにして描かれています。「奥の細道句抄絵」という総題のもと、それぞれの絵のタイトルは芭蕉の俳句がそのまま採られています(京都国立近代美術館所蔵)。

 展覧会カタログに記載されている解説には、当初、「竹喬がこの作品で試みたのは、芭蕉の 『おくのほそ道』を絵画化することであった。それも、芭蕉の句を抜き出し、その句意を画面に表すことを目指した」と述べられています。
 昭和49年(85歳)に、竹喬は、現地の写真を撮ってくるよう娘婿に依頼し、出来上がった写真を参考に構想を固めたうえで、翌年東北地方に自ら取材旅行に出かけています。
 ですが、実際の景色を見ると新しい発見がいろいろ出てきて、当初の構想を変えざるを得なくなりました。カタログの解説によれば、そこには「芭蕉の心を描く制作から竹喬の心を描く制作への変容」が見られるとのこと。
 とはいえ、そのことで芭蕉の俳句がなおざりにされたわけではなく、カタログの解説氏が言うように、「句抄絵が10点揃った時のきらめくような多彩さは、まぎれもなく芭蕉句が導いたもの」であることは間違いないところでしょう。

 ここでは、10点の句抄絵のうち2点を紹介いたしましょう。
 まず、順不同ですが、「暑き日を 海にいれたり 最上川」です。



 この句については、長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書、2007.6)によれば、芭蕉の初案は、「涼しさや 海に入れたる 最上川」でした。それならば、単に「ここ酒田で海に流れ入る最上川を眺めていると、何とも涼しい感じがする」といった酷く当たり前の句にすぎません。
 ですが、「涼しさや」→「暑き日を」、「海に入たる」→「海に入たり」と芭蕉によって推敲されることによって、驚くべきことに、「最上川が暑き日を海に入れた」という内容の句に変換され、「ただの風景の句が宇宙的な句に生まれ変わった」、と述べられています(P.174~P.176)。

 竹喬の絵は、芭蕉の句の常識的な解釈「暑き太陽が海に落ちていく」に従っていると思われますが、しかし太陽を取り巻く幾重もの色彩の輪とか、ただならぬ海の色、絵全体の構図などを見ていますと、太陽と空と海、山、川が一つに熔解してしまっていて、長谷川氏による芭蕉の句の解釈にかぎりなく接近しているのではないか、と思わざるをえなくなります。


 次に、「田一枚 植えて立去る 柳かな」です。



 この句の解釈については、古来たくさんの説が唱えられています。要すれば、「植える」のは誰か、「立ち去る」のは誰なのか、ということを巡って、様々なことが言いたてられているのです(注)。
 上記の長谷川氏は、その著書において、芭蕉は、『奥の細道』の「蘆野」の「地の文で西行の歌を借りて自分の姿を描いている。この印象を抱いたまま、読者は田一枚の句を読む。すると、「田一枚植えて立去る」のはまず西行であり、芭蕉でもある。芭蕉はそのつもりでこの地の文を書き、田一枚の句をおいた」と述べています(P.103)。


 竹喬の絵は、これも旧来からの解釈「早乙女が田植えをして去って行った」によっていると推測されるものの、奥の方の苗も手前の苗もほぼ同じ大きさで描かれていたり、上方の田圃の境目が単なる横線にしか見えなかったり、右側の柳と田圃の取り合わせに歪みがあったりすることなどから、写実というよりかなりファンタジックな印象を受けてしまい、そうなると、たとえば「柳の精」とか西行や芭蕉がここに出てきたとしても、特段のおかしさはないようにも思われます。

 竹喬は、最晩年に至り、芭蕉の心境に到達したと言うべきなのでしょうか?


(注)『「奥の細道」新解説』(小澤克己著、東洋出版、2007.3)では、7つもの解釈が掲載されています(P.62~P.65)。小澤氏によれば、長谷川氏の解釈は「西行・芭蕉一体説」ということになります。また、謡曲「遊行柳」の「柳の精」が田植えをし立ち去ったとする説もあるようです。