映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

写真展「東京ポートレイト」

2011年09月25日 | 美術(11年)
           (「舞踏家、吉本大輔」)

 東京都写真美術館で開催されている鬼海弘雄氏の写真展「東京ポートレイト」を見てきました(~10月2日)。

 同展のHPによれば、「30年以上にわたって浅草の人々を撮り続けた肖像や、都市を独自の視点で写し出したシリーズにより、近年、国際的にも大きな注目を浴びている鬼海の初めての大規模な回顧展」で、「2本のシリーズから精選したモノクロ作品約200点を一堂に展示」しているとのこと(注1)。

 といっても、下記のような町のポートレイトは20点であり、その他はすべて人物像です。



 この写真は、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』を彷彿とさせますが、場所は戦前の「玉の井私娼街」ではなく、1989年の「豊島区池袋」。戦争中の「玉の井」に比べたら随分と整ってはいるでしょうが、20年前の東京にもこうしたところがまだあったのだと驚かされます。

 他の人物のポートレイトについても、20年~30年前の浅草には、とても今の新宿や渋谷ではお目にかかれないこうした人達が、実際にまだ歩いていたのだ、と思うと感慨深いものがあります(注2)。


(「眼の鋭い老人」)

 この写真展が面白いのは、写真を通して様々の愉快な人々に出会えるだけでなく(注3)、各々の写真に付けられているキャプションがユニークで(注4)、両者が合わさって被写体の人物が今にも動き出す感じがします。
 そうしたところから、写真展を見始めた頃は、これもノスタルジアを狙ったものなのかな、ある意味で「幽霊」写真展ではないのかな、などとと思っていました。
 特に、このところ、『東京公園』とか『ゴーストライター』といった映画を見るたびに、登場人物は誰も皆「幽霊(ゴースト)」ではないのか、と思わされることもあって、この写真展もそうした観点から捉えられるのでは、と思っていました。
 ですが、ズーッと写真を見ていく内に、実はこれらの人達の方が本当に生きているのであって、3.11以降の重苦しい気分から抜けきれずに写真を見ている我々の方がむしろ「幽霊」なのかもしれないな、と思うようになってしまいました。


(注1)鬼海氏の今回の写真を見て、「20世紀前半のドイツを完璧にフォローする《時代の肖像》を大胆に、繊細に、精力的に撮り続けた」とされるアウグスト・ザンダーを思い出しました〔伊藤俊治著『写真都市』(冬樹社、1984年)P.176〕。


(「Village Schoolteacher」)

 ただ、写真展のHPには、鬼海氏は、「さまざまな職業を転々とする中、ダイアン・アーバスの作品との出会いが大きな転機をもたら」した、とあります。


(「Child with Toy Hand Grenade」)

 上記伊藤氏の著書には、アーバスは、「常に分類できない人、測り難い人を被写体とした。それがまさに自己同一性を持つ「唯一者」であり、彼女の唯一無二の欲望に奇跡的なまでにぴったりと呼応する特別なイメージであり、自らを映す鏡であったからこそ、アーバスはそれを撮ったのだ」と述べられています(P.290)。
 鬼海弘雄氏の写真集『東京ポートレイト』(株式会社クレヴィス)に掲載されている山形美術館学芸課長・岡部信幸氏のエッセイに、「鬼海は写真に写った人々を「自分自身の他者」」と述べているとありますが、あるいはそんな点でアーバスと通じるのかもしれません。

(注2)あるいは、「浅草」という土地柄によるのかもしれません。
 上記注の岡部氏のエッセイでは、引き続いて、「鬼海にとって、浅草は、個々の人間からより普遍的な人間性を写真で表現することを可能にする「特殊な場所」となる。鬼海は、浅草という限定した場所で、そこに吸い寄せられて往来する人を眼差すことによって、写真を超えた「世界のへそ」につながることを求めている」と述べられているところです。
 少なくとも、東京の西部で長年暮らす者にとって、浅草は、行くたびに異界を感じてしまう「特殊な場所」であることは間違いありません。

(注3)そんなところから、荒木経惟氏が最近精力的に展開している「日本人ノ顔」プロジェクト―「全国47都道府県すべての地域に暮らす人びとを撮影し、総計数万人の日本人の肖像を記録しようとする」試みとされます―の写真とも通じるところがあるのかな、と最初は思いましたが、鬼海氏の写真は、あくまでも「浅草」という場所、そして写真家自身の内面に深く拘ったものという点で、むしろ荒木氏の写真の対極に位置するのではないか、と思っています。


(「広島の顔」)

(注4)HPに掲載されているものの他には、例えば、「ヒールの高いサンダルを履く人」、「何年かぶりで会った物静かな労務者」、「当分、晴天が続くという婦人」など。

「「橋」ものがたり」展

2011年09月01日 | 美術(11年)
 「「橋」ものがたり」展を三井記念美術館で見てきました。

 随分長い期間開催していると頭にあったものですから(7月4日が初日)、早い時期に出かけて鑑賞したまま放っておいたら、9月4日までとわかり、慌てて取りまとめてみた次第です(注1)。

 この展覧会の正式なタイトルは、「日本橋架橋百年記念 特別展 日本美術にみる「橋」ものがたり-天橋立から日本橋まで-」と大層長たらしいものですが、要するに“日本美術を通して見る日本の橋”ということなのでしょう。

 そうなれば、おのずと思い起こされるのが保田與重郎の「日本の橋」(1936年)と題するエッセイでしょう。
 この展覧会も、明示されてはいませんがそれを踏まえていることは、同エッセイの末尾近くで言及されている「裁断橋」の「青銅擬寶珠」が展示されていることからもわかります。

 ところで、保田與重郎は、同エッセイで、日本の橋の特徴として次のような点を挙げています〔保田與重郎文庫1『改版 日本の橋』(新学社、2001年)によります〕。

・「日本の橋は道の延長であった。極めて静かに心細く、道のはてに、水の上を超え、流れの上を渡るのである」(P.36)。
・「日本の橋は材料を以て築かれたものでなく、組み立てられたものであった」(P.37)。
・「日本の橋は概して名もなく、その上悲しく哀つぽい」(〃)。
・「日本人の古い橋は、ありがたくも自然の延長と思われる。飛び石を利用した橋、蔦葛の橋。さういふ橋こそ日本人の心と心との相聞を歌を象徴した」(P.38)。

 西洋の橋については、それほど明確に述べていませんが、次のような箇所があります。
・「橋が感慨深い強度な人工の嘆きに彩られてゐる」(P.27)。
・「羅馬人の発見した橋は道の延長とは云へない」(P.28)。
・「羅馬人の橋はまことに殿堂を平面化した建築の延長であった」(P.29)。
・「まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもつていた」(P.31)。

 このブログの昨年11月18日の「セーヌと隅田」と題した記事では、セーヌ川に架かる橋を描いた絵画と、隅田川に架かる橋を描いた絵画とを見比べていますが、華奢な木造の橋とがっしりした石造りの橋の違いなどから、何となくそうした違いは頷けるところです。

 ですが、むしろ今回の展覧会において、保田の指摘する日本の橋の特色が、展示されている絵画等にうかがえるのではと思われます。
 そこで展示されているものをいくつか見てみたいところ、展示されている順に従って平板に並べてみても仕方ありませんから、ここでは、小山田了三著『橋』(注2)に従いつつ、もう少し橋を構造的・歴史的に捉えてみることといたしましょう。

 まず同書では、「自然の「飛石」や「丸木橋」が、人工の橋の起源になったであろう」とされています(P.4)。ついで、飛鳥時代には簡単な「桁橋」、すなわち「橋脚として浅瀬に杭を2本ずつ打ち、これに横木をしばりつけ、その上に加工した丸太や板を並べてゆく尤も簡単な構造の桁橋」が生まれていたようです(P.22)。
 これがうかがわれるのは、次の図〔「伊勢物語八橋図屏風」(部分):江戸時代〕でしょう。



 さらに同書では、「8世紀頃には浮橋は日常生活の中によく見かけられた存在であった」とされています(P.47)。
その「浮橋」とは、「水上に舟や筏を並べてこれを繋ぎ、その上に板を敷いて橋としたもので、舟橋や筏橋とも呼ばれていた」とのことですから、次の図〔「佐野渡図屏風」(部分):狩野興以筆、江戸時代〕のようなものでしょう。




 同書で舟橋に次いで挙げられているのは、「つりばし(釣橋・吊橋)」、すなわち、「柱または礎石を用いず、谷や深い川の両岸に支えを作り、これに強くしなやかで弾力のある綱(藤蔓)などで編んだ網を空中に架け渡したもの」です(P.62)。

 これについては、下図〔「諸国名橋奇覧「飛越の堺つりはし」」:北斎画〕が有名のようです。



 また、同書では「肘木橋」、すなわち「木材を重ね合わせた腕木を谷の両岸から突き出させ、その上に長い橋桁・橋床を載せ、両者を連絡してつくった橋」が挙げられています(P.79)。
 この形式のものとしては甲州の猿橋が有名ですが、今回の展覧会では、下図〔「諸国名橋奇覧「足利行道山くものかけはし」」:北斎画〕のものにその構造の特色がうかがわれるところです(注3)。



 また、記事冒頭に掲げました図〔「諸国名橋奇覧「すほうの国きんたいはし」」:北斎画〕に描かれている岩国の錦帯橋も、肘木工法が応用されているとのことです(P.94)。

 なお、以上の例示からも、保田與重郎が日本の橋の特色として掲げた点はうかがわれるところ、あるいは、橋板の上に土を敷き詰めているようにみえる下図〔「東海道五十三次之内「掛川」:広重画〕の土橋は、彼が述べている“道の延長としての橋”そのものに思えるところです。




 むろん、この展覧会は美術展ですから、こんな風に見ていくのは邪道かもしれないものの、偶には違った観点に立つのも面白いのではないかと思いました。


(注1) 以下で掲載する作品のうち、北斎の「諸国名橋奇覧「飛越の堺つりはし」」を除くものは、会期の後半では見ることが出来ません。

(注2)本書は、法政大学出版局から出されている「ものと人間の文化史」シリーズの66巻目(1991年)であり、昭和63年度の日本文芸大賞受賞作でもあります。
 ただ、橋の歴史を橋の種類毎に記述しているものの、同書においては、江戸時代の橋についての言及が殆どなされていないのは大層不思議な気がします。
 あるいは、今回の展覧会からうかがわれるように、江戸時代の橋の大部分は「桁橋」であって、12世紀末頃には「木造桁橋の形はほぼ完成し」てしまったようですから(P.19)、技術的な興味は最早持たれないのかもしれません。でも、江戸を中心として諸国の橋がこれだけ沢山描かれているというのに何も触れられていないというのも、「文化史」という以上、随分と片手落ちではないかと思えるところです(Wikipediaの「」によれば、日本の場合、江戸時代末期まで架橋技術は余り発達しなかったようですから仕方ないのでしょうが、同書の半分以上は「アーチ型石橋」に充てられています)。

(注3)このあと同書では、「石橋」についての記述がありますが、今回の展覧会で「石橋」が取り上げられているのは、昭和の「日本橋」についてのものだけのため、ここでは触れません。





特別展「写楽」

2011年06月28日 | 美術(11年)
 2週間前に終わってしまいました東京国立博物館での特別展『写楽』ですが、東洲斎写楽の浮世絵のほとんど大部分を見ることができるというので、かなり盛況だったと思われます。
 クマネズミも、このブログで以前写楽を取り上げたことでもあり(一昨年11月18日の「夢と追憶の江戸」展に関する記事をご覧下さい)、会期終了間際ながら見に行ってきました。

 とはいえ、写楽の作品(140点、残りは5点)のみならず、参考となるものもあわせて200点以上も浮世絵ばかり見ますと、いい加減うんざりしてきます。
 特に、写楽のものは、特徴のある第1期のもの(大首絵)だけで十分ではないか、と思いたくもなります。というのも、第2期以降になるとかなりの作品が全身像となって、あまり写楽の特徴が生きてこないようにも見えるからですが。
 それに、どれもこれも役者絵として随分類似していて、余り変化がないのではないかと感じられます。

 しかしながら、そんなことはなく変化は見られるのであり、たとえば最後の第4期の作品について、「衣装や人物の線は単調になり、背景の樹木は描写に対する意識が薄れたような簡略な描写に変化している」、「我々を魅了する写楽の個性は急速に消えていった」、「作品の中に個性豊かな生命力が消え去っていたことが感じられる」などと評する向きもあります(注1)。



 (上記の評言は、上の第4期の「二代瀬川雄次郎の升屋仲居おとわ」について述べられています)

 ただしかし、写楽はわずか10か月程度しか浮世絵制作に従事していませんでしたから、果たしてそんな短い期間の事柄についてそのようなことが言えるのかどうか、むしろ写楽が直後に姿を消したという事実を以て作品を見るからそう見えるだけのことではないのか、などと素人ながら疑問に思えてきます。

 たまたま同じ頃、書店に置かれていた富田芳和著『プロジェクト 写楽』(武田ランダムハウスジャパン、2011.4)を、タイトルの面白さにも惹かれて読んでいました(注2)。



 そうしたところ、驚いたことに同書では、第1期は、役者の顔の特徴をつかむための時期(注3)、それ以降は、その原型のできた顔を使ってブロマイド(全身像)の制作にあたった時期(注4)と分けることができる、と述べられているのです。
 たとえば、



 上の第1期の「藤川水右衛門」と下の第2期の「子育て観音坊」とは、同じ「三代目坂田反五郎」の役者絵なのです。



 確かに、先ず第1期の大首絵を見てから、次に第2期の全身像を見れば、これは同じ役者のものだなとはスグに分かります。
 
 なるほど、そうであれば、どの浮世絵も似たり寄ったりの絵になっているのが納得できるな、後期になると衰退が見られるなどといった解説は眉唾なのかもしれないな(注5)、写楽の浮世絵を西洋の近代絵画と同じような視点から見るのは元々無理があるのだな、などと思いました(注6)。


(注1)展覧会カタログP.212。
  この部分は、東京国立博物館の絵画・彫刻室長田沢裕賀氏が執筆。

(注2)NHKの番組名のようでしたので。
 なお、NHKといえば、5月8日の「NHKスペシャル」で、写楽の正体を追いかける番組が放映されました(「浮世絵ミステリー 写楽~天才絵師の正体を追う~」)。
 その番組の結論としては、本文冒頭で触れた記事で取り上げた中野三敏氏の「斎藤十郎兵衛」説ですが、なかなか興味深い内容でした(この番組については、例えば、「観たい・聴きたい・読みたい」というブログの記事を参照して下さい)。

(注3)同書では、第1期で写楽によって描かれた役者絵について守られた原則は、次の2点だとされています。
 「1.異なった役者は、特徴を明確化してはっきりと描き分ける。
  2. 同一の役者絵は、一目瞭然にわかるように、まったく同じかたちに描く」(P.83)。
 要すれば、「コピーのための原型をつくった」わけです(P.106)。

(注4)同書では、「第2期以降(第1期の1部も含む)は基本的に、原型のコピー・アンド・ペーストによる制作に入る」とされています。
 そして、「日本の写楽論者はしばしば、第1期に写楽の“芸術表現”を開花させ、第2期以降、とりわけ第3期に、短期間に大量の作品を描くことに疲れ切り創造性を失っていった、というような解釈を与えてきた」が、そんな解釈は「まったく不合理である」とも述べられています(P.201)。

 なお、写楽が第2期以降「役者絵としての職人的な技術を向上させ」たのは、同書によれば、「写楽の第2期以降の商品化のために、役者絵のプロ絵師が助っ人をした」ことが反映している、とされています(P.202)。
 そして、同書では、こうした事業の全体(「約10ヶ月で約150点の役者絵を制作して販売展開する」)をプロデュースしたのが版元の蔦屋重三郎だというのです(P.144)。

(注5)同書では、「写楽は、第3期、第4期になると、役者と舞台が厳密に照合出来ないものが現れてくる。これは、写楽が衰退期に入り、作画に集中力を欠くようになったからだ」などといった説明がなされてきたが、「写楽の絵はあとの時期になるにしたがい、厳密にどの舞台かという情報を盛り込むことが、だんだんと重視されなくなっていく」だけのことだ、と述べられています(P.225)。

(注6)ただ、同書は、従来からの時期の分類(第1期~第4期)によって記述されているところ、第2期以降の期に関しては、それぞれの説明が与えられていないように思われます。だったら、前期(従来の第1期)と後期(第2期~第4期)の分類で十分なのではないでしょうか? 


「江戸の人物画」展

2011年05月05日 | 美術(11年)
 府中市美術館で開催されている「江戸の人物画―姿の美、力、奇」展に行ってきました(後期:4月19日~5月8日)。

 いつも大変興味深い企画展が開かれている府中市美術館ですが、今回は、特に人物が描かれている絵画を特集しています(注1)。
 中でも次の3点に興味を惹かれました。

(1)伊藤若冲の「蘆葉達磨図
 NHKTV番組「若冲ミラクルワールド」の第4回「黒の革命 水墨画の挑戦者」(4月29日放映)では、水墨画における若冲の超絶技巧「筋目描き」が紹介されていましたが(放送内容については、例えば、このサイトで)、この作品でも、達磨の衣にまさにその技法が使われていたので驚きました(注2)。




(2)曽我蕭白蝦蟇仙人図
 以前も同館で蕭白の山水画を見たところ、今回の展覧会でも彼の作品が随分と展示されていて嬉しい限りです。



 この作品は蕭白の「中国人物図押絵貼屏風」の中の一つながら(注3)、同時に展示されている秋田藩主・佐竹曙山の「蝦蟇仙人図」とも見比べることが出来るので、ことさら注目されます。
 というのも、佐竹曙山は、西洋の画法を取り入れた秋田蘭画を代表する画家の一人であり、この作品でも、仙人が人物画として実に正確に描かれている点が注目されています。



(3)石川大浪の「ヒポクラテス像



 江戸時代後期に、西洋流の医学を学んだ人々が、こうした画像を家に掛けて礼拝したようです(漢方医の神農や黄帝に倣って)。
 こんな慣習は、『解体新書』の改訂に携わった大槻玄沢が、西洋から入ってきたヒポクラテスの画像を入手したことが始まりとされています(注4)。
 そして、その『解体新書』の「解剖絵図を一人で担当した」のが、上記佐竹曙山と並び、秋田蘭画を代表する画家の一人の小田野直武なのです(注5)。


(注1)昨年1月に見た「医学と芸術展」に関する記事の冒頭に掲載した円山応挙の「波上白骨座禅図」が、今回も展示されています。

(注2)このサイトによれば、「筋目描き」とは、「墨の滲みと滲みがぶつかると、境目が白くなる。この性質を利用した技法のこと。本来は邪道とされるが、若冲はあえて作品に使用した」とのこと。
 なお、NHK番組では、藤原六間堂という画家が、この「筋目描き」を現代に復活させていることが紹介されていました。

(注3)同展の前期(3月19日~4月17日)には、水墨画による蕭白の「蝦蟇仙人図」が展示されていましたが、残念ながら見ることが出来ませんでした。

(注4)同展カタログP.72。
 なお、同展の前期には、渡辺崋山の「ヒポクラテス像」が展示されていましたが、これも見ることは出来ませんでした。

(注5)大城孟著『解体新書の謎』(ライフ・サイエンス、2010年)P.24。
 同書では、引き続いて、「直武の苦労は大変なものであったと推察する」とし、というのも、「日本画にはない①遠近法、②陰影法という西洋画の技法を十分に習得しないままに、『ターヘル・アナトミア』の立体的絵図を模写しようとした」からであるが、「しかし、こうした心配をよそに直武の解剖絵図は見事といえる」と述べられています(同書に関する科学哲学者・野家啓一氏の書評はここで見ることが出来ます)。
 なお、小田野直武の作品「西洋人物図」は、今回の展覧会でも展示されていましたが、前期なので見ることは出来ませんでした。

シュールレアリズム展

2011年05月03日 | 美術(11年)
 国立新美術館で開催されている『シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―』(~5月15日)に行ってきました。

 お馴染みのマックス・エルンストとか、ジョアン・ミロ、ルネ・マグリットといった画家の作品が並んでいましたが、中でも興味を惹いたのが冒頭に掲載しましたサルバドール・ダリの『部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影』(“Partial Hallucination 6 Apparitions of Lenin on a Piano”、1931年)です。

 というのも、このところ、スターリン批判的色彩が濃厚な映画『戦場のナージャ』とか、中国の辛亥革命前夜を扱った映画『孫文の義士団』などの作品を見て、「革命」に対する関心がクマネズミの中でたかまっていたこともありますが、それだけでなくサルバドール・ダリにこんな政治的な作品があったのか、と驚いたことにもよります。
 美術館のHP に掲載されている解説によれば、レーニンは、当時の「シュルレアリストたちの英雄」だったそうで、ダリは、「黄金色のアウラに包まれ」たレーニンの顔を6つもグランドピアノの上に描いています(注1)。

 ですが、ダリは、その後、レーニンを貶めるような絵を描いたりして、シュルレアリストのグループから除名されています。
 例えば、今回の展覧会には出品されてはおりませんが、下記の『ウィリアム・テルの謎』(“The enigma of William Tell”、1933年)においては、ウィリアム・テルがレーニンを模して描かれているところ、「絵の意味は台座に記された題名が暗示する。つまり、レーニンはウィリアム・テルと同一視されており、ダリによればウィリアム・テルは当時ダリ自身が反抗していた抑圧的な父親像を表す」とのことです(注2)。




それぞれのレーニン像を少しアップしてみましょう。







 3番目に掲載したものは、これも今回出品されておりませんが、「円錐形の歪像が間近に迫る前のガラとミレーの“晩鐘”」(“Gala and the Angelus of Millet Preceding the Imminent Arrival of the Conical Anamorphoses”、1933年)の一部です(わかりにくくて申し訳ありませんが、右側の小さい人物像がレーニンです)。

 ところで、昨年出版された『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム』(メリグーノフ著、梶川伸一訳:社会評論社、2010年)では、レーニンが、秘密警察チェーカーを使って反対派を大量に粛清した様子が分析されています(注3)。
 このチェーカーは、いろいろ組織変遷を辿りますが、途中では内務人民委員部(NKVD)となり、スターリンの大粛清を実行します(1954年に国家保安委員会「KGB」に)。ということは、レーニンが、スターリンの大粛清に繋がる道を作ったといえそうです(注4)。



(注1)このサイトの記事に拠れば、「ポンピドゥセンター・ガイド」では次のように記載されているとのこと。
 「画家は、半睡状態での幻影を再現しているが、ここには黄色い後光に包まれたレーニンの肖像が描かれている。ダリ特有の象徴的なモティーフ、とりわけ、誰とも知れぬ人物の背のナプキン状のマント、椅子の上ばかりか人物の腕章の上にも現れる赤く透明なサクランボが、この絵の印象をさらに強めている。そして、他の作品にもすでに登場しているピアノの上では、楽譜がに食われている。後景には扉が開かれ、その奥に広がる山は、イースター島のトーテム像に似ており、奇妙で超自然的な光を放っている。」
 また、こちらのサイトの記事に拠れば、「これはサクランボを食べ過ぎたダリ氏の幻覚であ」り、
 「サクランボは女性の象徴である。食べすぎは病気をもらうかもしれず、体に毒」とされていますが、別のサイトの記事に拠れば、サクランボは実に様々なものの象徴になっているようです。

(注2)クリストファー・マスターズ著『ダリ』(速水豊訳:西村書店、2002年)のP.70。
 さらに同書には、ウィリアム・テルの臀部の先端が二股になった松葉杖で持ち上げられている点につき、「松葉杖とはむろん1917年の10月革命の象徴である」とダリが述べていることが紹介されています。
 なお、同書の上記『部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影』に関する解説では、ダリが述べる次のような体験を紹介しています。「就寝時に私は、青みがかった光輝くピアノの鍵盤を見たが、そこには遠近法によって縮小していく、燐光を放つ一連の小さく黄色い光輪がレーニンの顔を囲んでいた」(P.66)。
 とはいえ、こうした解説から、ダリがこの絵を描くに至る裏事情はわかるものの、そうした情報を知ったからといって、はたしてこの絵を見たことになるのかどうか、甚だ疑問に思えてしまいます。

(注3)同書の翻訳者である梶川・金沢大教授が同書に付した解説については、このサイトで読むことができます。
 ただ、同解説は、「本書の主役は「赤色テロル」の実行機関としてのチェー・カーである。確かにそうではあるが、(著者の)メリグーノフは弾圧システムの醜悪な実行機関としてのチェー・カーを強調するあまり、賢明な読者であるならレーニンへの言及が異常に少ないことにお気づきになるであろう」として、むしろ「チェー・カー」が「まさにレーニンの意志を体現する機関として、十月政変直後から機能した」ことを見るべきとして、同解説においては、同書の解説というよりも、「レーニンとチェー・カーとの関係、レーニン・トロツキーが遂行した諸事件とその背景を含め、総合的で理論的なレーニン批判」を梶川教授が展開しています。

(注4)ソクーロフ監督の映画『牡牛座―レーニンの肖像』(2001年)では、権力の中枢から遠ざけられ病臥するレーニン像が描かれていますが、また中沢新一著『はじまりのレーニン』(岩波書店、1994年)では、「レーニンがよく笑う人であったこと、動物や子どもにさわることが好きな人であったこと、音楽を聴くよろこびを感ずる人であったということ」を前提に書かれているとされていますが(「はじめに」)、モット別のレーン像をも作り上げる必要があるのでしょう。



「カンディンスキーと青騎士」展

2011年01月30日 | 美術(11年)
 さて、昨日の記事から持ち越しになっていたカンディンスキーです。
 なんと、映画『しあわせの雨傘』の登場人物の口からカンディンスキーの名前が飛び出し、更には、彼の絵をこともあろうに雨傘の図柄に取り入れようともするのです!
 折よく、「カンディンスキーと青騎士」展が、東京丸の内にある三菱1号館美術館で開催中と聞いて、早速行ってきました。

(1)日本にはどうもカンディンスキー愛好者が多いらしく、2002年にも東京国立近代美術館でカンディンスキー展が開催されています。

 その際には、『コンポジションVI』(1913年制作、エルミタージュ美術館蔵)と『コンポジションVII』(1913年制作、トレチャコフ美術館蔵)の2点がメインの作品として出展されましたが、今回の展覧会では、下記の『《コンポジションVII》のための習作2』(1913年)がカンディンスキーの作品の末尾に展示されていて、これで10年近くの間隔を置いて二つの展覧会が繋がったかのような印象を受けました。




(2)今回の展覧会では、カンディンスキーの初期の頃の作品が多数展示されていて、どうやって後の抽象絵画が制作されるに至ったのか、その秘密がある程度垣間見れる感じです(2002年の展覧会でも初期の作品は展示されていましたが、後期の抽象画との繋がりというより、むしろその断絶の方を感じてしまいました)。
 なお、この展覧会では、その30代~40代の作品が展示されているところ、彼は30歳の時に絵の勉強を始めていますから、「初期の作品」といえるでしょう(カンディンスキーの年譜はたとえばここで)。

 たとえば、この『ムルナウ―家並み』(1908年)です。風景画であることは明らかですが、様々の対象が抽象化の過程を歩んでいるようです。



 これが、次の『』(1909年)になると、まだかなり具象的ながら、その抽象画の特徴が十分にうかがえる作品になっています。



 そして、『印象III(コンサート)』(1911年)。



 この作品については、ブログ「ART TOUCH」において、「まったくの抽象画とはいえない。グランドピアノや観客や柱らしきものが識別できるからだ。しかし、これがコンサート会場を描いたものだと知らなければ、それらの対象を識別するのは難しい。わたしは、この絵がシェーンベルグのコンサートの印象を描いた作品だと言うことを知っていた。実際に見れば、抽象画あるいは具象画、どちらにも見える。どちらか一方が、正しい鑑賞の仕方ということはないだろう」と述べられていますが、まさにそのとおりでしょう。
 この絵のそばにあるプレートでも、「中央上部の黒い色面はグランドピアノであり、2本の垂直の白い帯はコンサート会場の柱、画面の左下半分には、聴衆が幾つもの山形の黒い線と多彩な色斑によって表されている」云々と説明されていますが、描かれているものがそれぞれ具体的な事物と結びつけられていることがわかったとしても、この絵を理解したことには全然ならないのではと思います。

(3)カンディンスキーを愛好する傾向はフランスでも見られるようで(尤も、晩年は、パリ郊外に住んでいましたから、ある意味当然でしょうが)、ブログ「はじぱり!」によれば、2009年の夏にも、パリのポンピドゥー・センターでカンディンスキー展が開催さています。

 「はじぱり!」の記事では、彼が教官を務めていたバウハウスがナチス・ドイツに閉鎖され、パリ郊外に移住していた時期の作品「青い空」が取り上げられ、次のように述べられています。
 「表面上の明るさを超えて、どこか哀しげな気分を感じさせます。とりわけ、背景に塗られたは、謎めいた小さな生き物たちの奥で、静かで騒々しく、安定しているようで不安定で、想像を絶する緊張感を発している・・・。」と述べられ、「カンディンスキーが生涯にわたって追い求めたものは、もしかしたら、いつも彼のそばにあって、彼の絵に生命を与えつつ、彼をもっと別の表現へと駆り立てていた、この「青い空」なのかも知れません」。

 「」は、カンディンスキーにとって特別な色彩だったようで、wikiによれば、彼は、「青が深まるごと、なおいっそう人間に無限への思慮を呼び起こし、純粋さや、ついには超感覚的なものへの憧憬を喚起する。青は空の色なのだ」と述べているとのこと。

 そして何よりも、今回の展覧会の中心である芸術家サークル「青騎士」の「青」なのです(注)!


(注)wikiによれば、カンディンスキーは、『回顧録』において、「「青騎士」の名前は、ジンデルスドルフの東屋のコーヒーテーブルに我々がいたときに考え出された。二人はともに青が好きで、マルクは馬、私は騎士が好きだった。そうしてこの名は自然に出てきたのだ」と述べています。


(4)さて、昨日のブログ記事から持ち越された問題は、映画とカンディンスキーとの関連性如何ということでした!
 単に、カンデンスキーの作品が雨傘のデザインとして面白いというだけでなく、何かそれ以上のものがあるのかな、ということなのですが(下記は、映画に登場する雨傘工場内のデザイン部門)。




 でも、どう考えてもよくわかりません。
 仕方ありませんから、ここではとりあえず、カンディンスキーの革新性、もっと言えば、その革命性に主人公スザンヌの長男ローランが惹かれて、友愛の精神あふれる工場で製作してみようという気になったのでは、と考えておくことにしましょう。

 というのも、上記の「はじぱり!」の記事に付したコメントで書いたことの繰り返しになりますが、カンディンスキーは、画家のサークル「青騎士」の首班として活動していたドイツから1916年にロシアに戻ると、2年後に教育人民委員会の造形芸術・工業芸術部のメンバーとなり、1920年にはモスクワの芸術文化研究所の設立に参画したりし(2002年「カンディンスキー展」カタログの「年譜」より)、「革命の余熱さめやらぬソヴィエトの、少なくともその初期において、カンディンスキーは美術政策を主導する重要なポジションに」いたようなのです(江藤光紀「ロシア・アヴァンギャルドとカンディンスキーの精神的水脈」〔雑誌『水声通信』2006年2月号〕)。

 あるいはまた、スザンヌの長男ローランが、カンディンスキーの愛の遍歴に興味をひかれているのかもしれません。
 ローランは、けっして金持ちの工場経営者のお坊ちゃんなどではなく、複雑な事情にあることが次第に分かってきます。つまり、彼が結婚しようとしている相手が、自分と浮気相手との間に密かにできた子供だとわかったロベールは、その結婚に対し頭ごなしに強く反対しますが、スザンヌはそれがわかっても何も反対しません。というのも、ローランがロベールとの間の子供ではなく、別の恋愛相手との間の子供だと知っていたからです。
 そんな彼には、カンディンスキーが似つかわしいのかもしれません。
 というのも、カンディンスキーは、モスクワで25歳の時に結婚した妻がいるにもかかわらず、30歳の時にミュンヘンに移住し、36歳の時に知り合ったガブリエーレ・ミュンターと10年以上生活を共にしますが、48歳で単身ロシアに戻ると、そこで別の女性と結婚してしまい、その後ロシアを離れますが、ミュンターとは会おうとしませんでした(下記の絵は、カンディンスキーによるミュンターの肖像画〔1905年〕)。



 今回の三菱一号館美術館の展覧会でも、35歳の頃~10年余りの時期に撮られた写真がまとめて展示されていますが、そこにはミュンターとの別離を伺わせるような雰囲気は何も感じ取れません。その後二人の間に一体何があったのでしょうか?

ドガ展

2011年01月19日 | 美術(11年)
 昨年末まで横浜美術館で開催されていた「ドガ展」ですが、このところ日本で数多く開催され食傷気味の印象派関係の展覧会の一つにすぎないのではないかと思え、あまり行く気はなかったところ、ドガの名前に触れる機会が、展覧会以外にも予期した以上に多かったこともあって、ちょっとだけ覗いてきました。
 やや時間が経過してしまいましたが、折角ですので簡単に触れておきましょう。

 例えば、最近、たまたまDVDでフランス映画『夏時間の庭』(2008年)を見たら(このブログの昨年11月20日の記事の(2)で触れましたが)、主人公の大叔父の遺産の中に、ドガの壊れた石膏彫刻があり(子供の時分に遊んでいて壊してしまったもので、小さな袋に詰められていました)、そんな物は価値がないだろうと家族達が言っていたにもかかわらず、寄贈先のオルセー美術館の修復担当者が見事に元通りにしていました。



 今回の「ドガ展」においても、ドガの類似の彫刻はいくつも展示されていました。


『右脚で立つアラベスク、左腕を前へ』

 また、少しさかのぼりますが、このブログの昨年2月20日の記事「ジャポニスム」のなかでも、ドガに触れたことがあります。
 すなわち、その記事で取り上げたブリヂストン美術館のHPでは、「ドガやモネら印象派の画家たちは、浮世絵などから日本的な要素を学んで取り入れ」たとして、次のような例示がなされています。
・「人物や事物を画面の端で断ち切って、スナップ写真のような瞬間性や偶然性を表したり、左右のどちらかに主要なモティーフが片寄っていたり、一部が極端にクローズアップされたり」すること。
・「俯瞰的に上から覗き込むような構図や、「枝垂れモティーフ」のように枝先の部分だけを描いて、画面の外に柳の存在を暗示させるという手法」。

 今回の「ドガ展」でも、そうした例示に対応するドガの絵はすぐに見つかります。
 前者については、例えば下記の絵では右端が断ち切られています。


『アマチュア騎士のレース―出走前』

 後者については、例えば下記の有名な『エトワール』は、まさに「俯瞰的に上から覗き込むような構図」といえるでしょう。



 さらに、ポール・ヴァレリーの『ドガ ダンス デッサン』(清水徹訳、筑摩書房、2006.12)も手元にあります。

 例えば、次のような箇所を引用してみましょうか。
 「ドガは生涯にわたって「裸体」をあらゆる面から考察し、信じられぬほど多数の姿勢を取らせた……、人体のしかじかの瞬間を、このうえなく明確に、そしてまた可能なかぎりの普遍性をもって定着させる描線の唯一無二のシステムを追求しつづけた。外見上の優美や詩情は彼のめざすところではない」(P.85)。
 下記の作品は、そんなドガの特徴がよく表れているのではと思います。


『浴後(身体を拭く裸婦)』

 なお、この作品については、没後のアトリエから、よく似た姿勢をとった下記の写真が発見され、これをもとに制作されたのではないかとされているようです。




 とはいえ、クマネズミのお気に入りの絵はこれです。何とっても、これほどまともにギターを演奏している姿を描いている作品には、滅多にお目にかかれませんから!


『ロレンソ・バガンとオーギュスト・ガス』

 
 とまれ、マネとかゴッホに飽きたら、今度はドガというところでしょうか?