映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

潜水服は蝶の夢を見る

2008年03月09日 | 08年映画
 『潜水服は蝶の夢を見る』を有楽町にあるシネカノン有楽町2丁目で見てきました。




(1)この映画は、流行雑誌の編集長をしている男性が突然の脳梗塞に倒れ、意識は明確にあるものの全身マヒに陥り、ただ目蓋だけは動くので“瞬き”を使って他人とのコミュニケーションを図り、ついには本の出版に至るという内容です(実際の話に基づいているとのこと)。 

 こうした点なら予告編からもわかるところ、精神科医・樺沢氏の感想は次のようです。
 「「我々観客は、幸せとは何か?」という問題を突きつけられる。/人と話ができるということ。/自分の足で歩くということ。/家族のぬくもりを肌で感じられるということ。/これら当たり前の日常が、非常に「特別」なことであると気づく。/「健康である」ということは、非常に「スペシャル」なことだ。/そしてその「特別」を、「当たり前」としか感じない私たちの何と不幸なことか・・・」。

 まあ感想ですからどんな内容でもかまわないのですが、樺沢氏の場合、精神分析的な用語を持ち込まないとナント素朴なレベルになってしまうのか、こんな感想であれば何もこの映画でなくとも主人公が病に倒れる映画〔たとえば、渡辺謙主演の「明日の記憶」〕についてすべてあてはまってしまうのではないか、などと思ってしまいました。

(2)そうしたところ、さすが “つぶあんこ” 氏はヨク事態を見通していて、「本作を観て尚、凡百のお涙頂戴難病映画と同じ様な感想しか出てこない様な層が多々存在してしまう、あるいはそれを期待させようと目論んでいる呆れた現状が、日本での宣伝に用いられている著名人による陳腐で通俗極まりないコメントや寄稿の数々に現われているのだから皮肉なものだ」と、実に的確な批判を浴びせているところです!
〔劇場用パンフレットにも、「生には必ず終わりがある。だからこそ、一度限りの輝かしい人生を一瞬足りとも無駄にしてはいけない。監督シュナーベルはそんなメッセージを、渾身の力で我々に送っている」などという、今時の中学生でも書かないような歯の浮いた文章が並んでいます!こういうことがあるので“メッセージ”などということを言いたくないのです!〕

 “つぶあんこ” 氏が言うように、この作品は、「主人公の主観視点による映像」が見どころで、「理屈と感覚共に計算され構築された映像および演出は極めて秀逸」だと思います。
 さらに、“つぶあんこ” 氏は、「主人公の主観で始まり前半部はほぼずっとその視点で見せられ続ける映像が、客観的な通常の映像に切り替わる、その転機が非常に曖昧で狙いが絞られておらず、…その後も曖昧に主観と客観が切り替わっていき、差異が活用されているとは感じがたいのは難点か」という問題点まで指摘していて、実に行きとどいています。

(3)ただ、どうして「主人公の主観視点による映像」とか「差異が活用されているとは感じがたい」などという生硬な表現を多用するのでしょうか?要するに、映画の前半では、主人公の目から見える世界を映像にしているのに、途中から突然、第3者の俯瞰的な目〔いわゆる“神の目”〕から見える様子が映像として何度も挿入され、その切り替えがあまりうまくいっていない、ということに過ぎないのですが。

 また、主人公の頭によぎるさまざまのイメージ(記憶によるものや自分で作り出したもの)が大変素晴らしいところ、“つぶあんこ” 氏は、そんな点までも、「眼に映るものと脳裏に浮かぶものやビジョンを活用して映像化の意義」としている、などと難解な表現にとらわれてしまっています(もっとも、イメージを文字化するのはなかなか難しいことは認めます)。天才と謳われるシュナーベルが監督だと“つぶあんこ”氏といえども妙にしゃっちょこばってしまうのかもしれません!