昨日の続きです。
(4)宮下規久朗・神戸大学准教授による『刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ』(NHKブックス、2008.4)(注1)の第5章「美術としての刺青」では、日本における刺青の変遷につき、あらまし次のように述べられています(P.170〜)。

「刺青は、おそらく縄文人にまで遡る呪術的な装身術であった」。『魏志倭人伝』にも記述があり、「『日本書紀』には刑罰として刺青を罪人に施した記事がある」。
しかし「その後、刺青はずっと記録から消えている。数百年の間、日本人は刺青という風習を忘れており、「刺青絶無時代」であった」。
刺青は、「17世紀前半の寛永ごろから徐々に復活し、享保5年(1720)、八代将軍の徳川吉宗がこれを刑罰として復活させた」。これ以降、「刑罰(黥刑)のほうは主に「入墨」、そうでないものを「彫物」とよ」ぶようになった。
「18世紀後半の明和・安永期となると、侠客の間に刺青を誇示することが目立ってき」て、それに重要な役割を果たしたのが歌川国芳らの『水滸伝』の武者絵であり、これこそが「ワンポイントではなく、全身に大きな刺青を施すブームを作り出したといわれている」。
ところが、明治維新になって、刑罰としての入墨を含めて刺青は全面的に禁止され、刺青は、昭和23年に禁止が解かれるまでの「76年の間にすっかり裏社会のものになった」。
現在、「若者の間のファッションとして洋風のタトゥー」が「かなり普及している」が、「1970年代のヒッピー・カルチャーや70年代のパンク・ムーヴメント」の「影響を受けている」ものであって(注2)、「東京の若者が「自由」を求めてアメリカン・タトゥーを彫るのも、ヒッピー・ムーヴメントに端を発する反社会的行為である」。
(注1)以前、別のブログの記事に対するコメントの中で取り上げたことがあります。
(注2)同書には、江戸の花柳界では、「二の腕に「○○様命」と入れたり、胸ぐらに般若の面を彫ったりするのが「いき」とされるようになった」とあるところ、これとの繋がりは認められないのでしょうか?
(5)刺青というと、私の中ではタトゥーというよりも、やはり『緋牡丹博徒』とか『昭和残侠伝』といった「任侠映画」に登場するヤクザの背中一杯に展開される、日本の「和彫り」がすぐに思い浮かびます(注1)。
「和彫り」については、上で触れたように『水滸伝』の武者絵が中心であり、その「基本的な図像は、19世紀中頃に生まれ、明治期の始めまでに確立した」と同書では述べられています。
さらに、宮下氏は、「彫られた人の生がそのものが肉体を輝かせ、内面性と外面とが融合しているという点で、まさにに日本ならではの稀有な裸体芸術であった。しかしそれは一過性のはかない芸術であり、江戸期の社会風俗や習慣と分かちがたく結びついていたため、豊かな芸術的可能性を秘めながら、近代化された社会では存続できなかった」と述べています(P.205)。
こうした見解は、「和彫り」を極めて高く評価した評論家の松田修〔『日本刺青論』 (青弓社、1989年)〕等からすれば、微温的にすぎるでしょう。
ここで、昨年7月に亡くなった平岡正明氏に少し触れてみましょう。

彼は、上記の『官能武装論』(新泉社、1989年)において、松田修の刺青論に基づき論を展開し、「刺青の根源にある原衝動は、縄文人の復権」などと言いながら(P.340)、同書の末尾では次のように述べています。
「松田刺青学は、刺青こそ全マイナスを逆転して芸術にたかめた至高の、唯一の芸術であることを描きあげ、逆転の全課程を立証したものであるから、次の課題は、開放されて王位にのぼった刺青が、他のものの援軍にまわる番である。
プロレタリア革命における刺青は告げるだろう。ただひたすら、武装衝突の現場に赴いて、双肌ぬいで「べらぼうめ!」と啖呵をきることは革命的である」。
東大紛争まっただ中の昭和43年東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん」が思い出されます(注2)!

なお、「和彫り」については、宮下氏の著書において、須藤昌人氏の写真集『藍像』(ちくま文庫)が取り上げられていて、「刺青をひとつのオブジェとしてとらえ、その美を見事に伝えた写真芸術として特筆されよう」と絶賛されているところです。

(注1)とはいえ、斎藤卓志著『刺青墨譜』(春風社、2005年)には、「刺青とタトゥー、両者をどう見分けるか。現在それは不可能に近い。ある時代までは刺青が日本、タトゥーが外国といえた。同時に、手彫りが和彫り、機械で彫るのがタトゥーであった。しかしそれぞれが相互に入りあって境がなくなった」と述べられています(P.90)!
(注2)驚いたことに、この2月から書店に置かれている『新装版1968年グラフィティ』(毎日新聞社)の表紙に、このポスターが使われているのです!
(6)ところで、宮下氏の著書では、さらに、ニュージーランドのマオリ族などに見られる習俗としての刺青に関するクロード・レヴィ=ストロース(注1)の研究が紹介されています(注2)。

(マオリ族の刺青)
該当するのは、『構造人類学』(みすず書房、1972年)に収められている論文「アジアとアメリカの芸術における図像表現の分割性」(同書第5章)です。
同論文は、単に「刺青」というよりも、もっと広範な「図像表現」を取り上げ(注3)、南北アメリカと古代中国の芸術とニュージーランドのマオリ族の芸術との間に著しい類似性―図像表現における「分割性」(注4)という点で―が見られることに着目して、これを「伝播」の観点からとらえるべきなのか、そうではなくて「心理学か形式の構造分析」によるべきなのかを議論しています。
ここで注目されるのは、次の2点でしょう。
イ)「たとえ伝播学派のもっとも野心的な再構成が立証されたとしても、なお生ずるであろう歴史とはかかわりのない本質的問題があるだろう。つまり、長い歴史的時代を通して借用されたり伝播されたりした文化的特性は、なぜ変わらずにもとのままであるのかという問題である」として(P.282)、構造分析の重要性を指摘しています。
これは、伝播主義者の努力を否定するわけではないにせよ、「世界の二つの部分で装飾の細部や独特な形が明らかになると、たちまち、その二つのものにかなりの地理的・歴史的距離があっても、その起源が同じだとか、別の点では比較できない諸文化のあいだに先史時代にはたしかな関係があった」と言い立ててたことに対する疑問の提示だと考えられます(P.269)。
ロ)装飾図像全般という観点から、彫刻や絵画等まで分析の対象としています。それも、特定の時代に限定せずに、古代から近代までを共時的に取り扱っています。
このように、刺青をもっと広範な「図像表現」の中で考えるべきだとしたら、単なる素人考えにすぎませんが、あるいは、このところ問題になった顔面整形も一連の検討の対象に入ってこないでしょうか。そして、もしかしたら、『ミレニアム』のリスベットが「鼻と眉にピアスをつけ」ている姿も(注5)、同じ観点から考えてみたら面白いのかもしれません。
(注1)昨年11月に亡くなったレヴィ=ストロースのライフワーク『神話論理』の翻訳の最終巻「裸の人2」(みすず書房)が、2月の末についに刊行されました。
(注2)宮下氏の著書において、「刺青絶無時代」にあっても「刺青の習慣は存続していたと推測され」ている、「奄美以南と琉球、アイヌの文化圏」の分析にも繋がっていくのではないかと思われます。
(注3)ブラジルのカドゥヴェオ族の場合は、「数日後には塗りなおさなければならない絵であり、野生の果実や葉の汁に浸した木のへらで描かれるもの」(P.274)。古代中国の場合は、殷の青銅器にある装飾芸術。
(注4)一つの顔(場合によっては、一つの個体全体)が、二つの側面像の結びついたものとして表わされることを指します。
(注5)『ミレニアム 1(上)』P.58。
なお、その後、リスベットは、体のあちこち(乳首、下唇、左の陰唇)につけていたピアスをはずし、結果として、「耳にいくつかつけているピアスは別として、ボディピアスは左眉のリングピアスと鼻のピアス、へそにつけているアクセサリーの3つだけとなった」ようです〔『ミレニアム 2(上)』P.149〕。
(7) 覚醒剤取締法違反事件の元タレントの足首にタトゥーが入れられていたりと、刺青に関する話題は、映画以外のところでも尽きないようです。そして、チョット調べただけでも、刺青(タトゥー)は、歴史的にも地理的にも相当の広がりを持ったものだということも分かります。
そういうところから、刺青(タトゥー)を巡る問題をきちんと分析することは大層難しく、ここでは論評はできるだけ差し控え、酷くまとまりのないものになってしまいましたが、簡単に事例を並べるだけにとどめておくことといたします。
(4)宮下規久朗・神戸大学准教授による『刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ』(NHKブックス、2008.4)(注1)の第5章「美術としての刺青」では、日本における刺青の変遷につき、あらまし次のように述べられています(P.170〜)。

「刺青は、おそらく縄文人にまで遡る呪術的な装身術であった」。『魏志倭人伝』にも記述があり、「『日本書紀』には刑罰として刺青を罪人に施した記事がある」。
しかし「その後、刺青はずっと記録から消えている。数百年の間、日本人は刺青という風習を忘れており、「刺青絶無時代」であった」。
刺青は、「17世紀前半の寛永ごろから徐々に復活し、享保5年(1720)、八代将軍の徳川吉宗がこれを刑罰として復活させた」。これ以降、「刑罰(黥刑)のほうは主に「入墨」、そうでないものを「彫物」とよ」ぶようになった。
「18世紀後半の明和・安永期となると、侠客の間に刺青を誇示することが目立ってき」て、それに重要な役割を果たしたのが歌川国芳らの『水滸伝』の武者絵であり、これこそが「ワンポイントではなく、全身に大きな刺青を施すブームを作り出したといわれている」。
ところが、明治維新になって、刑罰としての入墨を含めて刺青は全面的に禁止され、刺青は、昭和23年に禁止が解かれるまでの「76年の間にすっかり裏社会のものになった」。
現在、「若者の間のファッションとして洋風のタトゥー」が「かなり普及している」が、「1970年代のヒッピー・カルチャーや70年代のパンク・ムーヴメント」の「影響を受けている」ものであって(注2)、「東京の若者が「自由」を求めてアメリカン・タトゥーを彫るのも、ヒッピー・ムーヴメントに端を発する反社会的行為である」。
(注1)以前、別のブログの記事に対するコメントの中で取り上げたことがあります。
(注2)同書には、江戸の花柳界では、「二の腕に「○○様命」と入れたり、胸ぐらに般若の面を彫ったりするのが「いき」とされるようになった」とあるところ、これとの繋がりは認められないのでしょうか?
(5)刺青というと、私の中ではタトゥーというよりも、やはり『緋牡丹博徒』とか『昭和残侠伝』といった「任侠映画」に登場するヤクザの背中一杯に展開される、日本の「和彫り」がすぐに思い浮かびます(注1)。
「和彫り」については、上で触れたように『水滸伝』の武者絵が中心であり、その「基本的な図像は、19世紀中頃に生まれ、明治期の始めまでに確立した」と同書では述べられています。
さらに、宮下氏は、「彫られた人の生がそのものが肉体を輝かせ、内面性と外面とが融合しているという点で、まさにに日本ならではの稀有な裸体芸術であった。しかしそれは一過性のはかない芸術であり、江戸期の社会風俗や習慣と分かちがたく結びついていたため、豊かな芸術的可能性を秘めながら、近代化された社会では存続できなかった」と述べています(P.205)。
こうした見解は、「和彫り」を極めて高く評価した評論家の松田修〔『日本刺青論』 (青弓社、1989年)〕等からすれば、微温的にすぎるでしょう。
ここで、昨年7月に亡くなった平岡正明氏に少し触れてみましょう。

彼は、上記の『官能武装論』(新泉社、1989年)において、松田修の刺青論に基づき論を展開し、「刺青の根源にある原衝動は、縄文人の復権」などと言いながら(P.340)、同書の末尾では次のように述べています。
「松田刺青学は、刺青こそ全マイナスを逆転して芸術にたかめた至高の、唯一の芸術であることを描きあげ、逆転の全課程を立証したものであるから、次の課題は、開放されて王位にのぼった刺青が、他のものの援軍にまわる番である。
プロレタリア革命における刺青は告げるだろう。ただひたすら、武装衝突の現場に赴いて、双肌ぬいで「べらぼうめ!」と啖呵をきることは革命的である」。
東大紛争まっただ中の昭和43年東大駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん」が思い出されます(注2)!

なお、「和彫り」については、宮下氏の著書において、須藤昌人氏の写真集『藍像』(ちくま文庫)が取り上げられていて、「刺青をひとつのオブジェとしてとらえ、その美を見事に伝えた写真芸術として特筆されよう」と絶賛されているところです。

(注1)とはいえ、斎藤卓志著『刺青墨譜』(春風社、2005年)には、「刺青とタトゥー、両者をどう見分けるか。現在それは不可能に近い。ある時代までは刺青が日本、タトゥーが外国といえた。同時に、手彫りが和彫り、機械で彫るのがタトゥーであった。しかしそれぞれが相互に入りあって境がなくなった」と述べられています(P.90)!
(注2)驚いたことに、この2月から書店に置かれている『新装版1968年グラフィティ』(毎日新聞社)の表紙に、このポスターが使われているのです!
(6)ところで、宮下氏の著書では、さらに、ニュージーランドのマオリ族などに見られる習俗としての刺青に関するクロード・レヴィ=ストロース(注1)の研究が紹介されています(注2)。

(マオリ族の刺青)
該当するのは、『構造人類学』(みすず書房、1972年)に収められている論文「アジアとアメリカの芸術における図像表現の分割性」(同書第5章)です。
同論文は、単に「刺青」というよりも、もっと広範な「図像表現」を取り上げ(注3)、南北アメリカと古代中国の芸術とニュージーランドのマオリ族の芸術との間に著しい類似性―図像表現における「分割性」(注4)という点で―が見られることに着目して、これを「伝播」の観点からとらえるべきなのか、そうではなくて「心理学か形式の構造分析」によるべきなのかを議論しています。
ここで注目されるのは、次の2点でしょう。
イ)「たとえ伝播学派のもっとも野心的な再構成が立証されたとしても、なお生ずるであろう歴史とはかかわりのない本質的問題があるだろう。つまり、長い歴史的時代を通して借用されたり伝播されたりした文化的特性は、なぜ変わらずにもとのままであるのかという問題である」として(P.282)、構造分析の重要性を指摘しています。
これは、伝播主義者の努力を否定するわけではないにせよ、「世界の二つの部分で装飾の細部や独特な形が明らかになると、たちまち、その二つのものにかなりの地理的・歴史的距離があっても、その起源が同じだとか、別の点では比較できない諸文化のあいだに先史時代にはたしかな関係があった」と言い立ててたことに対する疑問の提示だと考えられます(P.269)。
ロ)装飾図像全般という観点から、彫刻や絵画等まで分析の対象としています。それも、特定の時代に限定せずに、古代から近代までを共時的に取り扱っています。
このように、刺青をもっと広範な「図像表現」の中で考えるべきだとしたら、単なる素人考えにすぎませんが、あるいは、このところ問題になった顔面整形も一連の検討の対象に入ってこないでしょうか。そして、もしかしたら、『ミレニアム』のリスベットが「鼻と眉にピアスをつけ」ている姿も(注5)、同じ観点から考えてみたら面白いのかもしれません。
(注1)昨年11月に亡くなったレヴィ=ストロースのライフワーク『神話論理』の翻訳の最終巻「裸の人2」(みすず書房)が、2月の末についに刊行されました。
(注2)宮下氏の著書において、「刺青絶無時代」にあっても「刺青の習慣は存続していたと推測され」ている、「奄美以南と琉球、アイヌの文化圏」の分析にも繋がっていくのではないかと思われます。
(注3)ブラジルのカドゥヴェオ族の場合は、「数日後には塗りなおさなければならない絵であり、野生の果実や葉の汁に浸した木のへらで描かれるもの」(P.274)。古代中国の場合は、殷の青銅器にある装飾芸術。
(注4)一つの顔(場合によっては、一つの個体全体)が、二つの側面像の結びついたものとして表わされることを指します。
(注5)『ミレニアム 1(上)』P.58。
なお、その後、リスベットは、体のあちこち(乳首、下唇、左の陰唇)につけていたピアスをはずし、結果として、「耳にいくつかつけているピアスは別として、ボディピアスは左眉のリングピアスと鼻のピアス、へそにつけているアクセサリーの3つだけとなった」ようです〔『ミレニアム 2(上)』P.149〕。
(7) 覚醒剤取締法違反事件の元タレントの足首にタトゥーが入れられていたりと、刺青に関する話題は、映画以外のところでも尽きないようです。そして、チョット調べただけでも、刺青(タトゥー)は、歴史的にも地理的にも相当の広がりを持ったものだということも分かります。
そういうところから、刺青(タトゥー)を巡る問題をきちんと分析することは大層難しく、ここでは論評はできるだけ差し控え、酷くまとまりのないものになってしまいましたが、簡単に事例を並べるだけにとどめておくことといたします。
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