映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アイガー北壁

2010年04月29日 | 洋画(10年)
 『アイガー北壁』を、ヒューマントラストシネマ有楽町で見てきました。単なる山岳映画ではないということを耳にしたので映画館に行ってみた次第です。

(1)この映画は、第2次世界大戦直前に、アイガー北壁を登頂しようと試みた男たちの物語です。
 とりわけ、登頂の最中の迫真的な映像は、山岳映画として素晴らしい出来栄えだと思いました。
 比較するとしたら昨年大きな話題を呼んだ『劔岳 点の記』でしょう。
 その映画では、陸軍測量部と民間人パーティとが初登頂を競いましたし、本作品では、ドイツ隊とオーストリア隊とが競います。
 ただ、その映画で描かれている陸軍測量部による登頂は、今回の映画の時点よりも30年前のことであり(1907年7月)、また前者は尾根伝いであるのに対して、アイガーの場合は峻嶮な岩壁を垂直に登るわけですから、違いの方が大きいのかもしれません。
 たとえば、『劔岳』では、西欧流の登山技術はまだ十分に取り入れられていない状況ですから、むしろ陸軍測量部は、昔からの道案内人を頼りに随分と伝統的な装備で臨みます。他方、『北壁』にあっては、当時としてはかなり先端的な装備で登り始めます(ただ、ザイルが現在よりも短かったことが致命的でした)。
 また、『劔岳』の場合は、登頂ルートの確認が問題となりますが(吹雪で視界不良のため、一時進行方向が分からなくなってしまいます)、アイガーの場合は、落石、雪崩、急激な天候急変による気温の低下などが絶えず襲ってきます。
 こうした違いはあるものの、どちらもその当時としては可能性が極めて低いとされた登山に、持てる力を十二分に出し切って挑戦してみたわけですから、その大変さを比べてみても無意味でしょう。

 以上のようなタテ糸の話(こちらは実話です)に、本作品はヨコ糸となるべくサブの物語を組み合わせています〔タテ糸だけでは、あまりにも単調になってしまうために、かなり常識的な内容ですがこうしたサブの話を絡ませたものと推測されます〕。
 その一つ目として、ナチス政権が絶頂期にあってベルリン・オリンピックが間近となっている政治的・社会的状況が描き出されます。たとえば、主人公のトニーとアンディの幼馴染のルイーゼが勤め始めた新聞社も、ドイツの国威発揚を目的として、北壁登頂を大々的に報道しようとします。他方で、トニーは、そうした動きを苦々しく思っています。

 もう一つの話は、ルイーゼとトニーの儚いラブロマンスでしょう。
 ルイーゼに扮したヨハンナ・ヴォカレクは、あまりに風貌を違えているために映画を見ているときには同一俳優だとは分からなかったのですが、あとで『バーダー・マインホフ』でバーダーの愛人役をこなしていたことがわかり驚きました。そちらでは、過激なテロに走る現代女性を力強く演じていましたが、こちらでは、反対に地方出身の地味な女性を巧みに演じていて好感が持てました。

(2)この映画については、下記の(3)でもわかるように、評論家の評価は概して高そうなのに対して、例の“つぶあんこ”氏は酷く低い評価しかしていません。すなわち、
 「自分で焚きつけておきながら、最悪の事態になった途端に他人に命懸けの救出を迫るバカ女の自己中全開にウンザリ。しかも彼女だけ装備ゼロでも大丈夫とはどういう事? さあここでハラハラしろ感動しろと大仰すぎるBGMおよび恋愛要素を前面に出しすぎな後半など、押し付けがましいにも程がある。テレビ演出レベルの低俗なやり口には興醒めまくり。出来もしないクセにやりたがるバカが一人でもいると全員がヤバイ。散々抜け駆けしておいて後から助け合っても遅すぎる、との皮肉な展開はそれなりに面白いのだが。いろいろと惜しい」。

 ただ、この批判にはいろいろ問題があるのではと思われます。

 まず、「自分で焚きつけておきながら、最悪の事態になった途端に他人に命懸けの救出を迫るバカ女の自己中全開」とあります。この「バカ女」とは、ヨハンナ・ヴォカレクが演じる女性記者ルイーゼのことでしょう。
 確かに、トニーが最悪の事態になったときに、下のホテルで天候回復を待っていた他のパーティの登山家に必死に救出を頼みます。ただ、それは愛する人を救出したいとの一途の思いからなのですから、「自己中」と責められるのは酷かなという気がします。
 それに、かなり以前にトニーとアンディに対して北壁登頂をサジェストしていますが、1936年7月に上司の記者と一緒にアイガーの山麓までやってきたときは、オーストリア隊の取材が目的であり、ドイツ隊の2人がそこに来ていることは全く知らなかったのですから、「自分で焚きつけておきながら」というのも言い過ぎではないかと思います。
 ただし、「彼女だけ装備ゼロでも大丈夫とはどういう事?」という“つぶあんこ”氏の批判は当たっていると思います。いくらなんでも、きちんとした装備と訓練なしに、山腹の坑道の出入り口から外に出て岩場を移動するというのは、ほんの少しであっても無理な話でしょう!
 ただ、これはもしかしたらルイーゼの願望だったのかも知れません。トニーにギリギリのところまで近づいて愛する人の声をじかに聞きとりたいと願ったのでしょう。それが映像化されていると考えたらどうでしょうか?
 なお、「出来もしないクセにやりたがるバカが一人でもいると全員がヤバイ。散々抜け駆けしておいて後から助け合っても遅すぎる、との皮肉な展開」と末尾で述べられています が、これは実話部分なのでしょうから、「バカ」とか「遅すぎる」、「皮肉な展開」などと評価しても仕方がないと思われます。

 総じて、「興醒めまくり」と酷評される「テレビ演出レベルの低俗なやり口」がみられるのは、(1)で述べたように、この映画のメインのタテ糸の方ではなく、サブ的な位置づけのヨコ糸の方ですから、なんでそんなに激しく“つぶあんこ”氏は噛みつくのかしらと、不思議に思えてしまいます。

 なお、話はやや飛躍してしまいますが、“つぶあんこ”氏の声高な「バカ女の自己中」呼ばわりから、次の事件のことを思い出してしまいました。
 2004年のことですが、日本政府が、渡航自粛勧告とイラクからの退避勧告を出していたにもかかわらず、それを無視して渡航した日本人3人が武装勢力に拘束され、イラクで展開していた自衛隊の撤退を要求されるという事件がありました。
 この事件を解決するべく、被害者家族らが自衛隊のイラク撤退を要求したことから、被害者とその家族に対して、「自己責任」だとする立場からの批判が噴出したところです。
 

(3)映画評論家は随分と好意的にこの映画を見ているようです。
 小梶勝男氏は、「山でのロケや、巨大冷凍庫での撮影で作り上げた映像の迫力が凄かった。悪天候や怪我、雪崩によって、登山家たちが次第に追い詰められていく様子は息詰まるほどだ。登攀場面のドラマに、前半の人間関係がきちんと生かされているのも良かった」として71点を、
 渡まち子氏は、「険しく神々しい山に挑む人間というテーマは、ドイツ的ロマンティシズムの発露で、山の崇高な高みは世俗とは無縁の聖地でもある。さらに歴史には、ナチズムによる支配領域への渇望や民族の優位を示す思惑もあった。実話に基づく本作にはそれらすべてが事実として注入されていて、そこに人間ドラマをからめることで感動的な内容になっている」として70点を、
 福本次郎氏は、「垂直に切り立った絶壁で重力を克服し、氷と雪と風がもたらす最悪のコンディションと戦い、凍傷の痛みに耐え、それでもわずかな生存への望みをかけるクライマーたちの姿が生々しく再現される」として60点を、
それぞれ与えています。
 ただ福本氏は、ドイツ人新聞記者が「国粋主義的であるのとは対照的に、トニーとアンディはただ山を愛するだけの若者。名誉欲はあっても、国のため民族のためという気負いはなく政治とは一線を引いている。そのあたりの当時のドイツの世相が興味深かった」と述べていますが、映画で描き出されたことをそのまま「当時のドイツの世相」と受け止めてしまうのは単純にすぎるというべきでしょう。


★★★☆☆


象のロケット:アイガー北壁

マイレージ、マイライフ

2010年04月25日 | 洋画(10年)
 『マイレージ、マイライフ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。
 この映画がゴールデングローブ賞(脚本賞)を受け、アカデミー賞の作品賞などにノミネートされたこともあって、見に行ってきました。

(1)JAL問題が世間を大きく騒がせているときに、“マイレージ”をタイトルに含む映画が公開されるというのは、まさにグッドタイミングで、当然、飛行機会社が絡むストーリーなのではと思ったわけですが、実際のタイトルは“Up in the Air”で、飛行機を多用する出張族のお話でした(注1)。

 全体の印象としては、個別のエピソードがなかなか興味深く、そういったものから構成されるストーリーも実に面白く仕上がっている映画だなと思えたところです。

 まず、映画の構成の仕方が面白いのでは、と思いました。リストラを宣告する側にいるはずの主人公ライアン(ジョージ・クルーニー)が、新入社員の作った新しいパソコン・システムの犠牲になりかかったり、住所は飛行機(雲の上)だとかすこぶる粋がっていた彼が、同じ種族に属しているものとばかり思い込んでいたアレックスに裏切られてしまったり、と思いがけない逆転(プラスとマイナスが入れ替わってしまう感じ)が起こるさまはかなりの面白さがあります。
 フライトボードを見上げるライアンが困惑しているラストのシーンは、颯爽と飛行場を闊歩する冒頭のシーンとは対照的で、これからの行く末の大変さを象徴しているかのようでした。

 こうした全体的な枠組みの中に挟まれるさまざまの個々のエピソードも、なかなか興味深いものがあります。たとえば、年300日以上(!)もの出張をする種族が何を支えにしてやる気を保っているのかがうまく描き出されていたり(マイレージの記録達成、ホテルなどでの特別待遇、身軽な生活スタイルなどといったところでしょうか)、また昨今のリストラの実態(アメリカにおいても、決してスムーズにいく手続きではないようです)なども垣間見ることができます。
 そうしたところに、大学で心理学を修めた優秀な新人が新しい経営手法を編み出すと、ライアンが勤める企業がすぐさまそれを実施しようとしますが、これもいかにもアメリカらしい光景だなと思いました(注2)。
 とりわけ秀逸なエピソードは、独り身を謳歌しているライアンが、妹の結婚相手に結婚の重要性を強調せざるをえない羽目になる場面でしょう。これをきっかけに、ライアンが自分の地に足のついていない生活の空しさを感じ取ってもいくのですから。

 『さらば、ベルリン』や『フィクサー』以来のクルーニーですが、キャリーバッグを引っ張りながら大股で空港内を歩く姿は、よきハリウッド・スターの貫禄がうかがえるように思いました(彼が履いているスラックスの裾が、少し短いような気がしましたが、最近の流行なのでしょうか)。


(注1)『カールじいさんの空飛ぶ家』の原題が“Up”だったことが思い出されます。
(注2)映画では、この経営手法は厳しい現実に打ち負かされて撤回されてしまいます。リストラを申し渡すという重大な局面においては、やはりリストラ対象の相手と実際に対面することが不可欠だということでしょう。ただ、こんなことは心理学の初歩であって、むしろ、人のコミュニケーションにおいては、決して言葉だけではなく、身振りとか顔の表情、それにその人が醸し出している雰囲気などからも様々なメッセージが送られている、といったことは、なにも心理学によらずとも常識であり、心理学を優秀な成績で修めたくらいの人ならば、そんなことは十分考慮しているはずだとも思えるところですが。


(2)主演のジョ-ジ・クルーニーがリストラを言い渡す時の様子から、『東京ソナタ』(黒沢清監督、2008年)の冒頭近くの場面を思い出しました。そこでは、ある会社の総務課長(香川照之)が、上司から、総務部の業務すべてを大連にある企業にアウトソースすることになったからという理由で突然リストラを宣告され、事務室にあった私物を手提げ袋に入れて会社を飛び出して、失業者に食事をふるまっている公園に行ったり、ハローワークの行列に並んだり、過酷な試練にさらされます。



 日本では、まさかこんなドライなことは行われておらず、リストラのシーンを強調するためにアメリカのやり方を真似ているのではと思っていたところ、いくらドライな本家のアメリカでも、リストラの宣告にはなかなか難しい問題があるようだな、ということは今度の映画を見てわかりました。
 アメリカの場合は、企業に対する帰属意識よりもむしろ、仕事に対する誇りが強いのではないか、だから他への転職ということにそれほどこだわりはないのではないのかな、と思っていたわけですが、やはりアメリカでも勤務する企業に対する帰属意識・愛着は、日本に劣らず大変強いものがありそうです。

(3)映画評論家たちの評価は、総じてかなり高いように思われます。
 渡まち子氏は、「あくまでも軽やかなタッチで、それでいて鋭い同時代性を湛え、深い余韻に満ちた映画に出会うことは、劇中に登場する超特権カード“コンシェルジェ・キー”級に貴重なことだ。見事な脚本の人間ドラマは、米映画の伝家の宝刀なのである」として85点を与え、
 福本次郎氏も、「主人公が薄っぺらな生き方に気付き、人生に本当に必要なものは何かを問いかけ」、「カネや地位といったビジネスでの成功よりも、落ち込んでいるときに親身になって心配してくれる人が周囲にどれだけいるかが豊かさを測る物差しであると教えてくれる」として、福本氏としては大盤振る舞いの80点をつけています。
 また、前田有一氏も、「空港サービスを使いこなす主人公の風変わりな生活は見ていて純粋に面白いし、コメディとしても上出来。いかにも2010年の映画にふさわしい時代性も持っているから、アメリカの流行映画を楽しみたい人には打ってつけだろう」として、70点を与えています。
 ただ、前田氏は、「こういう価値観の人間が、ヒロインと連絡が取れないときにああいう行動をとるとはどうしても思えない。そこまで彼女に入れ込むというのなら、主人公が長年の夢の達成の空しさを知るなどといった、変わるに値する理由がほしいところだ」と、主人公が、ナタリーの自宅に行って家族持ちだという事実に直面する場面を批判していますが、その前から「長年の夢の達成の空しさ」に次第に気が付いていく場面が続いていて、その総仕上げとして講演会をすっぽかしてナタリーの自宅に向かってしまう場面を描いているのであって、決して唐突にそんな行動をとったわけではないことくらいは観客も十分理解できますから、「変わるに値する理由がほしい」と言われても、と思ってしまうのですが?


★★★☆☆



象のロケット:マイレージ、マイライフ

「歌川国芳」展

2010年04月24日 | 美術(10年)
 日曜日に、“府中の森”にある府中市美術館で開催されている「歌川国芳展―奇と笑いの木版画」を見てきました(その日で前期が終り、火曜日からは後期が始まっています〔5月9日まで〕)。

 府中市美術館は、「府中の森」の北側隅にある比較的こじんまりした美術館ですが、時折大層興味深い企画展が開催されるので、何度か行ったことがあります。休日でもそれほど混雑せず、マズマズゆったりと展示品を見ることが出来るので、お薦めのスポットといえるでしょう。

 さて、3月2日のブログの記事で、神戸大学准教授・宮下規久朗氏の『刺青とヌードの美術史―江戸から近代へ』から、次のような引用を行いました。
 「18世紀後半の明和・安永期となると、侠客の間に刺青を誇示することが目立ってき」て、それに重要な役割を果たしたのが歌川国芳らの『水滸伝』の武者絵であり、これこそが「ワンポイントではなく、全身に大きな刺青を施すブームを作り出したといわれている」。

 ここで言及されている「『水滸伝』の武者絵」が、まさに今回の展覧会で展示されているのです!すなわち、「通俗水滸伝(または本朝水滸伝)豪傑百八人一個」というタイトルの大判(縦39cm×横26.5cm)の錦絵が、6点ほど前期では展示されています。
 それを見ることが出来るというので大きな期待を込めて出かけてきましたが、実際のところも、さすが言われることはあるなと思わせる、力強さに満ちたとても立派な浮世絵でした。



 面白いなと思ったのは、上記の「旱地忽律朱貴」(かんちこつりつしゅき)―梁山泊の対岸の入口に酒点店を構え、鏑矢で時事を知らせた―にもうかがわれますが、肌脱ぎになっている豪傑の背中にも既に立派な刺青がなされていることです(注)。とすると、こちらの絵にも豪傑が描かれていて、その背中に刺青がされていれば一体どうなるのかな、などとくだらないことを考えてしまいました。
 とはいえ、美術館側で用意したパネルとかカタログには、“刺青”とか“彫り物”といった用語はいっさい登場しません。まだまだそうしたものは反社会的だという観念が残っているのでしょうか?

 なお、この展覧会は、もちろん『水滸伝』の武者絵だけを展示するものではなく、国芳の幅広い画業をいろいろな角度から明らかにしようとしています。
 冒頭に掲げた「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」は、しばしば16世紀イタリアの画家アルチンボルドの絵との関係で取り上げられることが多いので、ここでは「忠臣蔵十一段目夜討之図」に触れてみましょう。
 国芳が、伝統の画法のみならず、西洋画法にも習熟して、こうした絵の中に遠近法や陰影法を取り入れている様子がよく分かります。こうした前向きな姿勢を保ち続けたからこそ、冒頭に掲げたような面白い絵を描くことも出来、かつまた武者絵にも独創性を発揮できたのではないか、と思いました。




(注)恵文社BPというサイトの「日本刺青墨録」には、「これらの人物像を彫るということは、「二重彫り」ということになります。刺青している英雄豪傑をまた自分に刺青すれば、二重の刺青体験をしたという心理的な満足感を得られ、自分が施した刺青の英雄と連帯し、かつ同一化したという、己の憧憬と願望を満たすことになるのです」と述べられています。
 

誘拐ラプソディー

2010年04月21日 | 邦画(10年)
 『誘拐ラプソディー』を、渋谷のシアターNで見ました。

 予告編を見て、まあ面白いかなと思って見に行ったわけですが、観客の余りの少なさに驚いてしまいました。

(1)従来はカッコいい主役を演じるのが普通だった高橋克典が、冒頭から、首をつって自殺しようとするダメ男・伊達を演じているのでアレッと思ってしまいます。
 ですが伊達は、実際は自殺などせずに、意を決して誘拐によって大金をせしめようとします。ところが、そのために確保した少年が、あろうことか地元のヤクザの親分・篠宮(哀川翔)の子供・デンスケであることがわかるという、酷く意表を突いた筋立てになっています。
 ただ、役者も含めてこれだけお膳立てが揃っているにもかかわらず、どうも映画のテンポが緩慢すぎる感じがしてしまいます。
 むろん、ダメ男が主役なのですから、物事がテキパキと運ぶはずもなく、間延びした感じも必要でしょう。ただ、やはりワサビの利いたところもなくては映画になりません。
 おそらくは、原作に書いてある伊達の心理的な動きなども一々辿ったりしているからなのでしょう。なにしろ、こんなストーリーながら、文庫本で400ページを超える厚さとなっています!よほど削ぎ落とさないと、間延びしてしまいます(注)。
 せっかくYOUが篠宮の奥さん役に扮しているのですから、このあたりをもう少し面白く仕立ててもいいのではないかと思いました(原作では、この奥さんについて、「突然、誰もが予想もしない行動に出る」などといった性格付けがされているのですし)。

 ということで、決してつまらない映画というわけではないながら(哀川翔の存在感は抜群です)、今少し引き締まった感じを出せばよかったのでは、と映画素人としては思ったところです。


(注)塾通いばかりさせて、キャッチボールなどによる親子の触れ合いがない現代の親子関係とか教育環境に対する批判の部分も、ありきたりのものですから当然のことながら削ぎ落とすべきでしょう。

(2)クマネズミのような半可通がコメントするのに格好のシーンが、この映画では描かれています。
 誘拐犯の伊達が、誘拐された少年・デンスケの父親に対して、走っている電車の窓から、現金の入っている鞄を外に投げ捨てろと携帯電話で指示するのです。ちょっと映画を知っている人なら、ああこれは黒澤明監督の『天国と地獄』の名場面ね、とわかります。
 そこでイソイソとそんなことをコメントの中に書き込んだりするのでしょうが、実は、萩原浩氏の原作は、とっくにそんなことはお見通しなのです。伊達の電話があった後の、篠宮達の会話は、概略次のようなものです(双葉文庫版、P.192)。

 「そうかぁ、そう来たか。天国と地獄だな」
 「なんだ?」
 「ほら昔の映画。クロサワの映画ですよ」
 「あれっすね。鉄橋の上から現金の入ったカバンを落とせってストーリーの」
 「そうそう。あの手口を模倣する誘拐犯ってのが多いんですよ」云々。

 とはいえ、映画ではそんな会話のシーンはありませんから、念のための注意喚起としてコメントすること自体が無意味とは言いませんが。
 なお、この映画では、デンスケが「おばあちゃんのところへ行きたい」と強く言い、伊達もそうしようと約束するところから(「男の約束だ!」)、もしかしたら『大誘拐』(岡本喜八監督)めいた話に発展するのかなと期待しましたが、結局おばあちゃんの住所が分からず仕舞いで、『大誘拐』とのつながりは見出せないところです。

(3)評論家の評価はマアマアと言ったところでしょうか。
 渡まち子氏は、「ヒーロー役のイメージが強い高橋克典が、全編作業着姿でくたびれた中年男を好演。一発逆転に賭けながらスベリまくる男を演じているのが新鮮だ」として55点をつけ、
 福本次郎氏は、「映画はコミカルなテンポの中にも人情を交え、男は人としての責任を学び、少年に他人を信じる気持ちが芽生える過程は、人間同士の配慮や信頼を取り戻していく物語に昇華される」として50点をつけています。
 なお、福本氏は、「チンピラに襲われた時も、袋叩きになっている伊達を果敢に救出するなど、リアリティに欠ける分ファンタジーの色合いが濃くなっていく」などと述べていますが、デンスケが伊達の車の中に現れたときから、観客はすぐに、これは現代のお伽噺だと納得しながら見ているのではないでしょうか?


★★☆☆☆



象のロケット:誘拐ラプソディー

ウディ・アレンの夢と犯罪

2010年04月18日 | 洋画(10年)
ウディ・アレンの夢と犯罪』を、恵比寿ガーデンシネマで見ました。

ウディ・アレンの作品は、このところでは、『マッチポイント』(2006年)、『タロットカード殺人事件』(2007年)、それに『それでも恋するバルセロナ』と見てきているので、やはり外せないところです。

(1)本作について、劇場用パンフレットの「Introduction」には、『マッチポイント』、『タロットカード殺人事件』に続く「ロンドン3部作の締め括り」だと述べられていますが、ロンドンで制作した作品という以外に、共通点を全2作とは余り持っていないように思われます。
スカーレット・ヨハンセンが出演していないことはさて置くとしても、前2作のように、庶民階級の者が上流階級にのし上がろうというわけではありません。単に、労働者階級に所属する普通の青年が、借金を清算したり知的な女性との生活を実現しようと殺人を犯すものの、結局は破滅してしまうという、よくある話にすぎません。

それに、この映画にはいろいろ問題点も見つかる感じです。たとえば、
・労働者階級の若者にすぎない兄弟が、格安としてもなぜ中古クルーザーをわざわざ購入するのか、唐突な感じが否めません(購入後あまり利用しているようには見えないところです)。
・兄のイアン(ユアン・マクレガー)は、気位の高い舞台女優と一緒になろうとしますが、会話の話題がずれているなど相性が合っていないように見受けられます。
・弟のテリー(コリン・ファレル)が、いくら賭博好きだからといって、いきなり1,000万円ほどの負債を抱え込んでしまうというのも驚かされます。
・兄弟が頼りにする伯父さんは、税務調査の際に自分の違法行為を調査官にバラすと言っている元同僚を殺してしまうだけで、犯罪を隠蔽できると考えますが、あまりに単純ではないでしょうか。
・結局、自分の犯罪行為を知る者が誰もいなくなってしまったこの伯父さんだけが良い目を見るという結末は、なにか釈然としないものを感じてしまいます。

ですが、ウディ・アレン監督の作品を見る場合には、こんなつまらないことにこだわるべきではないでしょう。これまでの『マッチポイント』などでも、細部を探ればいろいろおかしな点が見つかるはずです(そもそも、主人公のクリスが無罪放免になるなどありうるでしょうか?)。
そんなことよりも、映画作りのうまさとか、小作りの気の利いた短編小説を読むような味わいとかを楽しめば、それで十分なのでは、という気がします。

この作品で主演のユアン・マクレガーは、『トレインスポッティング』以来おなじみですが、ちょうどいま公開されている『フィリップ、きみを愛してる』にも出演しています。
また、コリン・ファレルは、『Dr.パルナサスの鏡』において、亡くなったヒース・レジャーの代役をジョニーデップやジュード・ロウとともに務めながらも、その時点ではよく知らなかったのですが、早速この作品で登場します。一見、ブラッド・ピッドを思わせる風貌ながら、一回りも若いためにブラピ程の貫禄もまだ付いていないところが新鮮でいいなと思いました。

(2)さて、ロンドンです。
今紹介しました二人の俳優はいずれもイギリス出身で(ユアン・マクレガーはスコットランド出身、コリン・ファレルはアイルランド出身)、彼らを使ってこの作品を制作している点からも、「ロンドン3部作」の一角を形成するとされるところなのでしょう。
次は、ウディ・アレンが、生粋のロンドン子のジュード・ロウを使った作品を制作したら、とても面白いのではと思ってしまいます!

それにしてもこのところ、ロンドンを描いた映画をよく見かけます。例えば、『シャーロック・ホームズ』では19世紀末のロンドンが描き出されていますし(注1)、ダスティン・ホフマンの『新しい人生のはじめかた』では、ロンドン市内の名所(ハーヴェイとケイトは、サマセット・ハウスの庭で朝まで語り明かしたりします)がいくつも映し出されます。
この映画もロンドン物ですから、ロンドンの風景がふんだんに出てきます。
その中で目を惹いたのが、ロンドン・ブリッジの奥の方に見える「30セント・メリー・アクス(30 St Mary Axe)」です。



このビルは卵形をしていて、その形の異様さと180mの高さとから、新しいビルが立ち並ぶロンドンの金融街(シティ)でも特に目立つ感じです。2004年に完成し、ウディ・アレン監督は、早速、翌年に制作された『マッチポイント』にこの建物を取り込み、主人公のクリスがそこのオフィスで働く設定としているところです(この映画を見たときは、建物外観について余り注意を惹きませんでしたが)(注2)!
なお、新宿西口の「モード学園コクーンタワー」の外観は、この新ロンドン名所「ガーキン・ビル」によく似ています(高さ203m、2008年10月竣工)。


(注1)話は飛びますが、19世紀末のロンドンとの関連で言うと、最近読んだ清水徹著『ヴァレリー―知性と感性の相剋』(岩波新書、2010.3)には、「いろいろな面で行きづまりを感じていた1894年のヴァレリーにとって、ロンドンは刺激の多い都会であったらしい」とあります(P.66)。
のちに大詩人となるフランス人のヴァレリーが、22歳のときには、「シティそれ自体の活発さと、そのただなかで目眩くようにして佇むことの異様な感覚につよく惹かれた」というのは興味深いことです(P.67)。〔なお、東大准教授・塚本昌則氏の論考「ロンドン橋のポール・ヴァレリー」(『仏語仏文学研究』第7号, 1991.5)をも参照〕

(注2)映画『マッチポイント』のロケ場所が記載されているmovie mapなるものがあるようです。ちなみに、『新しい人生のはじめかた』の劇場用パンフレットには「London Location Map」が掲載されており、またずっと簡単なマップがウェッブにあります。
なんだか、三木聡監督の『転々』(2007年)を見て、近くのロケ場所を探してみたことを思い出してしまいました。
ロンドンに行く機会があれば、いろいろな映画のロケ場所を訪れたいところですが、今やアイスランドの火山噴火の影響でそれどころではないでしょう!

(3)評論家の評価はまずまずのところです。
前田有一氏は、「たしかに借金に困って人殺し、なんてのは古臭いし、いまどき面白くもなんともない。労働者階級から抜け出すために人殺しをしようと決意する人間を描いてこそ、いま作るに値するストーリーだというアレン監督の判断はきわめてまっとうである」として70点を、
渡まち子氏は、「本作は「タロットカード殺人事件」の明るさはなく「マッチポイント」の男女の危うさとも無縁のシリアスな悲劇」であり、「「人生において確実なのは死ぬことだけ」と言い切るアレンは、コメディであれシリアスであれ、いつも悲観的である」として65点を、
それぞれつけています。
ただ、福本次郎氏は、「全般的に話を急ぐかのようなテンポは、登場人物の感情に踏み込もうとせず、生活のディテールも省き、ストーリーの表層をなぞっている感じ。ウディ・アレン作品にしては人生に対するアイロニーもウイットも乏しく、スノビズムを揶揄するわけでもない。もっとこの兄弟をシニカルもしくはコミカルな視点でとらえたほうが、アレンらしかったのではないだろうか。。。」として50点しかつけていません。
ですが、たとえば、殺人を犯してからの弟・テリーの感情の大きな揺れを見ると、「登場人物の感情に踏み込もうとせず」とまでは言い切れないものと思いますし、カリフォルニアでの投資計画を進め、舞台女優との結婚もうまくいきそうに見えた兄・イアンの死に方を見ると「人生に対するアイロニー」を感じずにはいられないのですが。




★★★☆☆


象のロケット:ウディ・アレンの夢と犯罪

スプリングコンサート

2010年04月17日 | 音楽
 クマネズミがクラシック・ギターを習っている加藤誠先生による演奏会が、今年は先週の木曜日に日暮里サニーホール・コンサートサロンで開催されましたので、行ってきました(去年の演奏会については、この記事で)。

 いつものように、加藤氏によるギター独奏、並びにクラシック・ギターとプサルタリーとの合奏という2部構成のプログラムです。

 第1部のギター独奏の方で注目されるのは、F・ソル(下記画像)の練習曲、それもかなり後期のものが7曲ほども演奏されたことでしょう(注)。 



 ソルの練習曲といえば、セコビアが選曲したメロディアスで技巧的なものにとかく注目がいきがちですが、先生に言わせれば、後期の作品60あたりの練習曲の方が、様々な含みが潜んでいて、それらを取り出して聞き分けられるように演奏するのは至難の業だ、とのことです。
 実際、未熟な私には、その意味合いを理解することはなかなか難しいのですが、それでも、何かありそうだなと思わせる加藤氏の演奏振りでした。

 第2部のギターとプサルタリーとの合奏では、どうしても、クマネズミが今練習している曲(ホルスト作曲の「木星」など)の方に関心が向いてしまいます。加えて、それらの曲では、先生が、チェロと同じような広い音域をもった大型のプサルタリーを受け持って演奏されたので、なおさらでした。
 ただ、それらの曲の場合、プサルタリーが4台とギター1台という構成で、それもギターは低音部を受け持っているだけですから、プサルタリー中心の演奏になってしまいます。
 ギターを習っている者からすれば、やはり、「遥かなる旅路~加藤誠・川村しのぶデュオに捧ぐ~」(井上勝仁作曲)の演奏のような、ギターとプサルタリーの二重奏の方が聞きごたえがあるところです。この場合には、両者の特色が実にうまく生かされて、特に加藤先生が手にしているギターの音色の素晴らしさが聞き手によく伝わってくるのです。

 アンコールでは、加藤先生が、メトロノームの音との掛け合いで「ラ・クンパルシータ」を演奏しました。メトロノームは機械的に音を刻んでいるだけのところ、演奏者の卓越した技巧によって、むしろメトロノームの方が演奏者に従って音を出しているように聞こえてくるのですから不思議です。

 次はこちらの発表会(6月5日)が控えています。心して練習しなければと思いながら、家路を急ぎました。


(注)フェルナンド・ソルは(1778年~1839年)、スペイン・バルセロナ生まれの作曲家であり、かつまたギター演奏家でした。時代的には、「裸のマハ」などで有名なゴヤと重なるところ、政変で1813年以降パリで亡命生活を送っています。
 作曲はオペラやバレエまで及んでいるものの、なんといってもギター曲が優れ、代表作には、「モーツアルトの主題による変奏曲」とか「グラン・ソロ」などがあります〔後者は、今回の演奏会でも演奏されました〕。
 なお、今回のコンサートで演奏された作品60の練習曲については、ブライアン・ジェファリ著『フェルナンド・ソル』(浜田滋郎訳、現代ギター社、1979)において、「1836~7年に出た《ギター練習への手引きOp.60》は教育的な興味の勝った作品ながら音楽的にもすぐれたものを含んでいる」と述べられています(P.142)。

花のあと

2010年04月14日 | 邦画(10年)
 『花のあと』を丸の内TOEIで見ました。

 数寄屋橋近くにあるこの映画館の存在自体は知っていましたが、入るのは今回が初めてです。暇な時間ができたので、そんな映画館を開拓するのも面白いと思い、また久し振りに時代劇を見てみるかということもあり、有楽町まで出かけてみました。

(1)映画は、藤沢周平の短編小説に基づき、実に手際よく制作されています。すべてのエピソードに無駄がなく、ラストのハッピーエンドに向かって整然と集約されていきます。見終わると、実にスカッとした気分になること請け合いです。

 この映画は、従来の時代劇では珍しく女性が主役です。そして、その主役の以登を演じる北川景子の「凛々しさ」が、映画の大きな売り物といえるでしょう。特に、正式に髷を結っている時よりも、孫四郎(宮尾俊太郎)との手合わせのときとか藤井勘解由(市川亀治郎)との果し合いの際の若衆姿の髷の方がずっとよく似合っているな、と思いました。

 全体的には、江戸時代の雰囲気を踏まえているのでしょう、現代物のようにスピーディではありません。たとえば、女性が襖の開け閉めするときの動作が如何にもという感じで、こうした緩慢な動きを言い募る向きがあるかも知れませんが、まさにそういった細かい仕草をも全然蔑ろにしていない点に、この作品の美質を読み取るべきではないかと思いました。

 その結果なのかも知れませんが、全体として、静止画像の積み重ねとして映画が出来上がっているような感じも受けました。特に、山形の自然の四季折々の風景がふんだんに取り入れられていることもあって、殺陣のシーンも、激しいアクションというより、歌舞伎の型が次々と披露されているような感じです。
 下手をすると、山形県のPR映画、北川景子のPVになりかねないところでしょうが、そこは以登の許嫁である才助に扮する甲本雅裕の素晴らしい演技(一方で単なる大飯食らいでありながら、他方で細心の注意を払って人間関係を構築できる人物を演じるのですから!)もあって、一つの映画作品として上手くまとめられている、と思いました。

(2)藤沢周平の原作を読むと、映画で監督が何を強調したかったのかがわかるような気がします。
 映画は原作をかなり忠実になぞっています。映画において、藤村志保が担当している語りの部分は、ほぼそっくりに原作でも書き込まれていますし、以登などのする会話についても、原作通りのものが台詞に採用されているように思われます。
 むろん、違う点はいくつもあります。たとえば、孫四郎が幕府に届けた文書は、映画では、藩の財政にかかわる大層重要な書簡ですが、原作では単なる家老が作成した回答書にすぎません。

 ただ、最も大きく異なるのは、主人公・以登の容貌です。すなわち、原作では、「以登は美貌ではなかった。細面の輪郭は母親から譲りうけたものの、眼尻が上がった眼と大きめの口は父親に似て、せっかくの色白の顔立ちを損じている」と書いてあるのです。
 そういうところからすると、この映画を監督した中西健二氏らの制作側は、北川景子を主役に据えることで、満開の桜、雄大な月山の眺め、などに十二分に対抗できる美しさを主役に求めたものと思われるところです〔以登が儚い恋心を抱く相手の孫四郎に、バレエダンサーの宮尾をあてたところにも、そうした傾向はうかがわれるのではないでしょうか〕。
 そんなことをすれば、この作品が、単なる絵葉書映画、名所案内映画になりかねないところを、上でも述べましたが、才助を演じる甲本雅浩らの好演で、いい映画に仕上がったといえるのではないでしょうか?
 ただ、原作では、以登は才助のことを「人物が軽々しい代わりに、この手の小細工に長けていた」などと、あまり評価していないように書かれてはいますが(尤も、それは口先だけのことで、内心は頼もしく思っていたのでしょう!)。

(3)映画評論家の間では評価が分かれるようです。
 一方で、渡まち子氏は、「一瞬の恋、正義の剣、穏やかで深い愛。桜で始まり桜で終わる物語の余韻にずっと浸っていたくなる。出演はせず語りだけで参加する名女優・藤村志保の柔らかな声が、映画の大きな魅力のひとつであることは言うまでもない」として70点を与え、
 他方では、前田有一氏は、この映画は、「典型的なファンタジー時代劇」で、「ここには、失われた(と現代人が勝手に思っている)日本人の良さなるものが思いきり美化されて描かれ、そのまっすぐな登場人物たちの心、行動に迷わず涙することが出来る」ものの、「上映時間をあと20分ほども縮め、北川景子のアクションにも気を使ったらさらに良くなったはずだ」として40点しかつけていません。

 このところ、前田氏は映画というものを隅々まで見切ってしまっていて、映像の取り方といった方面までいろいろ口を差し挟むことが多いように思われ、この映画についても、「男性用より短め軽めにあつらえた模造刀を与え、カットを短く割り、構図やカメラワークを工夫するなど、現代ではいくらでもごまかしのテクニックが存在する」のだから、北川景子のアクション・シーンについてはもっと気を使うべきだと述べています。とはいえ、殺陣シーンが実際の切り合いとは全然別なものであって、工夫の加え方も程度問題にすぎないことくらいは、観客もよく弁えているのではないでしょうか?


★★★☆☆



象のロケット:花のあと

息もできない

2010年04月11日 | 洋画(10年)
 韓国映画『息もできない』を渋谷のシネマライズで見ました。

 前々から申し上げているように、韓流映画はほとんど受け付けないのですが、予告編から、この映画の出来栄えには素晴らしいものがあるのではと予想されたので、公開されるや期待を込めて出かけてきました。

(1)実際、最初から最後まで、それこそ“息継ぐヒマ”も有らばこその緊張感の連続です。 なにしろ、のっけから凄まじい家庭内暴力の場面が続き、さらには主人公サンフン(ヤン・イクチュン)とヒロインのヨニ(キム・コッピ)との出会いにも暴力が振るわれるのですから!
 それも、債権回収業のところで債権取立てを行っているサンフンが吐いた唾が、たまたま通りかかった女子高生ヨニのネクタイに当たり、それに怒ったヨニがサンフンの顔を殴ったところ、逆に殴り返されるという凄まじさなのです。
 ですが、30過ぎの暴力団員風のサンフンと女子高生ヨニとが、心を通わせるに至る切っ掛けとしては、このような出来事は十分すぎる説得力を持っています。この出会いのシーンは、数多くの他の映画で見られる出会いのシーンに比べても、遜色ない見事さではないかと思いました。

 映画は、ヨニの兄ヨンジェが、別のルートからサンフンの下で働くようになって(サンフンは、ヨンジェがヨニの兄であることを最後まで知りません)、……、という具合に進み、ラストでは、兄が屋台を仲間と破壊している姿をヨニが呆然と見ている姿が映し出されますが、こうした筋の運びのうまさに、見ている方は唸らされてしまいます。

 この映画の主役を演じているヤン・イクチュンは、まだ35歳にすぎないところ、なんと製作・監督・脚本・編集を一人でやってのけたそうです(長編の監督の第1作目でもあるとのこと)。劇場用パンフレットには、「物語はフィクションでも、映画の中の感情に1%の嘘もない」と言っているとありますが、何もそこまで気張らずとも、とは思うものの、こんな若くしてこんな映画を作ったのは驚き以外の何物でもありません。
 『母なる証明』も素晴らしい出来栄えでしたが、この映画もそれに勝るとも劣らない作品ではないかと思いました。

(2)この映画でふんだんに見られる暴力は、あるいは北野武の映画における暴力と対極をなすといえるかもしれません。
 例えば、監督第1作の『その男、凶暴につき』(1989年)では、様々の暴力シーンが映し出されます。ビートたけしが扮する刑事が、公共トイレの中で、麻薬の売人に対してもの凄い制裁を加えて入手経路を聞き出そうとしますし、また警察署の更衣室の中で、冷酷な殺し屋を徹底的に痛めつけたりします。

  

 北野武監督の作品におけるこうした暴力は、暴力としての暴力そのものが描き出されていて、そこには相手との繋がりを求めようとする契機は全然見出されないように思われます(注)。

 その点で、この映画で描かれる暴力とはかなり異なっているようにも見えるところです。
 すなわち、サンフンは、どんな場合でもあくまで素手で打ったり殴ったりするのです。これは、ある意味で、相手と肌で接触するわけですから、つながりを他方では求めている行為ではないかと思えるところです。その最たるものが、冒頭のヨニを殴るシーンでしょう。殴った結果、相手と離反してしまうのではなく、逆に相手とついには心を通わすことになってしまうのですから。
 こうなると、ヨニの兄がサンフンに対して振るう暴力は、金槌や鉈という器具を使ったもので、結局は、相手とのつながりを途切れさせるものといえるのではないでしょうか?

(注)6月12日に公開予定の北野監督最新作『アウトレイジ』は、7年ぶりのバイオレンス・アクション物だとのことで、どんな映画になっているのか今から楽しみです。

(3)映画評論家も、高くこの映画を評価しています。
 いつもは辛い点しか付けない福本次郎氏は、「触れるだけで指を切ってしまいそうな危険な男がスクリーンから発する荒んだ緊張感は、まさに息ができないほど。映像から発散する従来の常識をぶち破ろうとする異常なまでのパワーに圧倒される。映画はこのチンピラと女子高生の間に生まれた奇妙な共感を通じて、孤独な人間が他者と関わりの中でやさしさを取り戻していく過程を描く」として80点もの高得点をつけ、
 渡まち子氏も、「妥協とは無縁の驚くべき情熱と才能が映画に結実し、世界中で絶賛された。題名通り息苦しくなるような物語は見る側にも体力を要求するが、この圧倒的なドラマを見逃してほしくない」として70点をつけています。



★★★★☆





小野竹喬展

2010年04月10日 | 美術(10年)
 竹橋の東京国立近代美術館で開催されている「生誕120年 小野竹喬展」が、明日の11日で終了してしまうというので、これも慌てて見に行ってきました〔上記の絵は「奥入瀬の渓流」(1951年)〕。
 尤も、格別、小野竹喬(1889年-1979年)のファンというわけでもなく、初めはあまり行く気はなかったところ、最近になって、どうやら芭蕉の俳句をヒントに制作した絵があり、今回の展覧会ではその全部が特別に展示されているようだ、と聞いたものですから、それだけでも見てみようと行ってきました。

 そんなわけで、元々それほど多いとは思えない入場者も会期終了間際になれば一段と少なくなっているだろうと高を括って、平日の昼休みの時間を利用してチョコッと見てこようとしました。
 ですが、会場に入ってみて驚きました。どの絵の前にもたくさんの人だかりがしているではありませんか!それも、中年過ぎの女性がほとんどなのです。ハテサテ小野竹喬にそんなに人気があったとは知りませんでした。
 とはいえ、「生誕120年」を記念する回顧展のため、展示されている作品数も多く(本制作119点、スケッチ52点)、次第に人だかりもバラけてきます。一度にこんなにたくさんの絵を見て、うまく消化できるのかしらと疑問にもなりました。

 さて、お目当ての絵ですが、それらが展示されている部屋は、会場の一番最後に位置していますので、そこではまたまた絵の前の人だかりがすごいことになっていました。
 絵は全部で10点あり、すべて芭蕉の『奥の細道』に記載されている俳句をもとにして描かれています。「奥の細道句抄絵」という総題のもと、それぞれの絵のタイトルは芭蕉の俳句がそのまま採られています(京都国立近代美術館所蔵)。

 展覧会カタログに記載されている解説には、当初、「竹喬がこの作品で試みたのは、芭蕉の 『おくのほそ道』を絵画化することであった。それも、芭蕉の句を抜き出し、その句意を画面に表すことを目指した」と述べられています。
 昭和49年(85歳)に、竹喬は、現地の写真を撮ってくるよう娘婿に依頼し、出来上がった写真を参考に構想を固めたうえで、翌年東北地方に自ら取材旅行に出かけています。
 ですが、実際の景色を見ると新しい発見がいろいろ出てきて、当初の構想を変えざるを得なくなりました。カタログの解説によれば、そこには「芭蕉の心を描く制作から竹喬の心を描く制作への変容」が見られるとのこと。
 とはいえ、そのことで芭蕉の俳句がなおざりにされたわけではなく、カタログの解説氏が言うように、「句抄絵が10点揃った時のきらめくような多彩さは、まぎれもなく芭蕉句が導いたもの」であることは間違いないところでしょう。

 ここでは、10点の句抄絵のうち2点を紹介いたしましょう。
 まず、順不同ですが、「暑き日を 海にいれたり 最上川」です。



 この句については、長谷川櫂氏の『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書、2007.6)によれば、芭蕉の初案は、「涼しさや 海に入れたる 最上川」でした。それならば、単に「ここ酒田で海に流れ入る最上川を眺めていると、何とも涼しい感じがする」といった酷く当たり前の句にすぎません。
 ですが、「涼しさや」→「暑き日を」、「海に入たる」→「海に入たり」と芭蕉によって推敲されることによって、驚くべきことに、「最上川が暑き日を海に入れた」という内容の句に変換され、「ただの風景の句が宇宙的な句に生まれ変わった」、と述べられています(P.174~P.176)。

 竹喬の絵は、芭蕉の句の常識的な解釈「暑き太陽が海に落ちていく」に従っていると思われますが、しかし太陽を取り巻く幾重もの色彩の輪とか、ただならぬ海の色、絵全体の構図などを見ていますと、太陽と空と海、山、川が一つに熔解してしまっていて、長谷川氏による芭蕉の句の解釈にかぎりなく接近しているのではないか、と思わざるをえなくなります。


 次に、「田一枚 植えて立去る 柳かな」です。



 この句の解釈については、古来たくさんの説が唱えられています。要すれば、「植える」のは誰か、「立ち去る」のは誰なのか、ということを巡って、様々なことが言いたてられているのです(注)。
 上記の長谷川氏は、その著書において、芭蕉は、『奥の細道』の「蘆野」の「地の文で西行の歌を借りて自分の姿を描いている。この印象を抱いたまま、読者は田一枚の句を読む。すると、「田一枚植えて立去る」のはまず西行であり、芭蕉でもある。芭蕉はそのつもりでこの地の文を書き、田一枚の句をおいた」と述べています(P.103)。


 竹喬の絵は、これも旧来からの解釈「早乙女が田植えをして去って行った」によっていると推測されるものの、奥の方の苗も手前の苗もほぼ同じ大きさで描かれていたり、上方の田圃の境目が単なる横線にしか見えなかったり、右側の柳と田圃の取り合わせに歪みがあったりすることなどから、写実というよりかなりファンタジックな印象を受けてしまい、そうなると、たとえば「柳の精」とか西行や芭蕉がここに出てきたとしても、特段のおかしさはないようにも思われます。

 竹喬は、最晩年に至り、芭蕉の心境に到達したと言うべきなのでしょうか?


(注)『「奥の細道」新解説』(小澤克己著、東洋出版、2007.3)では、7つもの解釈が掲載されています(P.62~P.65)。小澤氏によれば、長谷川氏の解釈は「西行・芭蕉一体説」ということになります。また、謡曲「遊行柳」の「柳の精」が田植えをし立ち去ったとする説もあるようです。

シャーロック・ホームズ

2010年04月07日 | 洋画(10年)
 『シャーロック・ホームズ』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

 ジュード・ロウについては、『リプリー』以来、出演する映画のかなりのものを見ているので、今回の映画ではわき役のワトソンを演じているものの、やっぱり見てみようということになりました。

(1)シャーロック・ホームズ物というと、NHKで放映された『シャーロック・ホームズの冒険』が有名でしょう。私も毎回楽しみで随分と見ましたから、ホームズと言えば主演のジェレミー・ブレットの顔かたちが思い浮かぶほどです。
 ところが、今回の映画は、そういった定型的なホームズ像を根底からぶち壊そうとして制作されたもののように思われます。

 まず、ホームズ(ロバート・ダウニー・Jr)の格好が大変だらしないもので(髪の毛がボサボサ、無精髭が伸びている上、着ている服もヨレヨレです)、冷徹なインテリというこれまでのイメージからはほど遠くなっています。
 彼が籠る部屋も、酷く雑然として何ら整理整頓されてはいません(ただ、非常に珍しいもの―本など―が、アチコチに散らばっていて、一つ一つ確かめてみたい気にさせられます)。
 外に出れば、パブに設けられたリングで素手でボクシングをして、相手をノックアウトしてしまいます(ジェレミー・ブレットからは、とてもボクシングをする男のイメージは湧いてきません!)。

 ワトソン(ジュード・ロウ)については、外見的な面で意外性はないものの、ホームズの忠実な支援者というイメージではなくて、ホームズとの付き合いを切って婚約者の方に行きたいという願望を、ことあるごとに口にする人物とされています。

 このように思い切って斬新なイメージを身に帯びた二人が、元オペラ歌手のアイリーン(レイチェル・マクアダムス)を交えながら、邪悪な黒魔術を操るブラックウッド卿(原作には出てこない人物)と戦うというのですから、面白くないはずはありません。

 造船所での戦いで、大きな金属の塊が転がり落ちてくる場面は、『インディ・ジョ-ンズ』などでよくみかけるものですし、最後のホームズによる種明かしの説明は、取ってつけたような感じがしてしまうものの、映画全体から楽しさが溢れてこちらに伝わってきます。

(2)邦画でこの映画のようなことをやるとしたらと考えて、フッと思い浮かぶのは『K20 怪人20面相・伝』でしょう。



 これは、江戸川乱歩原作を下敷きにして書かれた北村想の小説をさらに監督の佐藤嗣麻子氏がもう一捻りしたものなのですから。たとえば、
・時代設定を1949年とし、それも第二次世界大戦が回避された「別の世界」としています。
 ですから、日本帝国陸海軍とアメリカ・イギリス軍との間で平和条約が締結されていて、東京は帝都と呼ばれ、華族制度も存続し、酷い貧富の差が生じている社会だとされています。
 最初に、この「帝都」を俯瞰する映像が流れますが、まさに『シャーロック・ホームズ』における19世紀末のロンドンを髣髴とさせるものです。
・そんな社会で、富裕層だけを狙って、美術品や骨董品を次々と盗み出す怪人20面相が、実は名探偵明智小五郎だというのですから驚かされます。
・そして、金城武扮する遠藤平吉が、今度は怪人20面相となって活躍しようとするところでジ・エンドとなります。

 今回の『シャーロック・ホームズ』は、この『K-20』のように探偵が実は犯罪者だったというところまでは突き進んでいませんから、ある意味では、邦画の方がはるかに先を言っていると言えるのではないでしょうか?

(3)概して評論家の受けはよく、
 岡本太陽氏は、「本作は子供から大人まで楽しめる易しい時代冒険活劇。続編が制作されるのも確実で、彼にとっては最も興行的に成功するであろう作品」だとして70点を、
 渡まち子氏は、「ブラックウッド卿の陰謀のからくりを、ホームズが知識と科学とユーモアで鮮やかに解き明かすプロセスは、娯楽映画ならではのテンポの良さで大いに楽しめる。しばしば暴走するホームズと良識派のワトソン。このアクション・エンタテインメントには、凸凹コンビの刑事ものの原点を見る思いだ」として65点を、
それぞれつけています。
 ですが、福本次郎氏は、「ガイ・リッチーによって新たに創作されたシャーロック・ホームズ像は、さまざまな顔を持つある種のスーパーヒーロー、しかし、映画はそんなキャラクターよりも圧倒的な見せ場の波状攻撃で見る者の興味をつなぎとめ」ていて、「期待した以上に斬新なホームズではあったが、彼の感情にも行動にもいまひとつ共感を覚えなかった」として40点と辛口の評点を与えています。
 とはいえ、こうした破天荒な映画に対しては、その主人公に「共感を覚える」かどうかはあまり重要な要素とは思えないところですが?


★★★★☆



象のロケット:シャーロック・ホームズ