◎邪教か否かを国家に判断させてはならない
今月一三日のコラム「幸福実現党本部に家宅捜索(2016・8・2)」で、私は、次のように述べた。
ひとつ、忘れてならないことがある。それは、近代日本における宗教弾圧が、必ず、「犯罪」の摘発から開始されているという事実である。
これについては、これまで、いろいろなところで、同様の指摘をしてきた。繰り返しになるが、重要な問題だと思うので、この場を借りて、同じ指摘をしておく。
以下は、批評社の広報誌『Niche』の第30号(二〇一五年一月)に掲載するため、二〇一四年末に書いた文章である(実際に掲載されたものは、ゲラ校正の段階で、若干、削ったところがある)。今の段階で、手直ししたい部分、追加したい部分などもあるが、とりあえず、そのまま載せる。
「邪教」と国家権力――邪教か否かの判断を国家権力に委ねてはならない
昨年(二〇一四年)九月、『戦後ニッポン犯罪史』の新装増補版を出していただいた。今回の版では、その巻末に、「オウム真理教事件について考える――宗教と国家に関する犯罪論的視点」と題する補論を付した。その補論の最後のほうで私は、次のように述べた。
近代の日本では、国家が宗教を弾圧するとき、露骨に、「宗教弾圧」という形をとらない傾向がある。必ずといってよいほど、その活動を「犯罪」として認定し、そのことによって、事実上の「宗教弾圧」をおこなってきた。第一次大本教事件(一九二一)の際は、不敬罪と新聞紙法違反が問われた。第二次大本教事件(一九三五)に際しては、不敬罪と治安維持法違反が問われている。「ひとのみち教団」に対しては、まず一九三六年(昭和一一)に、教祖を強姦容疑で逮捕し、その翌年、教祖および幹部らを治安警察法違反で検挙している。本門法華宗に対しては不敬罪が問われ、一九四一年(昭和一六)、幹部ら六名が逮捕された。創価教育学会に対しては不敬罪と治安維持法違反が問われ、一九四三年(昭和一八)、幹部ら二一名が逮捕された。
オウム事件についても、「弾圧」のキッカケとなったのは、無差別殺人などの「犯罪」である。一時は、破壊活動防止法の適用も検討された。いずれにしても、露骨な「宗教弾圧」という形はとっていない。
国家に害悪を及ぼすような宗教は、国家にとっては「邪教」である。しかし国家が、そうした宗教を弾圧する理由は、それが邪教であるからではない。その活動が、「犯罪」に該当するという理由からである(もちろんこれは、タテマエであるが)。
国家権力が、特定の宗教を弾圧するとき、マスコミあるいは民衆の間に、その宗教を「邪教」と捉える「世論」が広がっていることが多い。国家権力は、そうした「世論」を踏まえながら、宗教弾圧をおこなう。繰返すが、邪教ゆえに弾圧するのではない。当該宗教の活動に犯罪性を見出し、それを摘発するのである。そういう形で、実質的に邪宗を弾圧するのである。大本教の場合も、ひとのみち教団の場合もしかり、オウム真理教の場合、またしかりである。
* * * *
第二次大本教事件(近年は、「第二次大本事件」と呼ぶことが多い)が始まったのは、一九三五年(昭和一〇)一二月八日のことであった。これは、神道系の新興宗教「大本」(「大本教」は俗称)に対する、大がかりな宗教弾圧であり、これによって、「大本」は壊滅させられた。高橋和巳〈カズミ〉の代表作『邪宗門』(一九六五~一九六六)は、この「大本」弾圧事件に着想を得た小説である。
同じく神道系の新興宗教である「扶桑教ひとのみち教団」(「ひとのみち」、「ひとのみち教団」は略称)への弾圧が始まったのは、一九三六年(昭和一一)九月二八日のことであった。初代教祖の御木徳一〈ミキ・トクハル〉初代教祖が、信者の娘一五歳に対する「強姦」の嫌疑で逮捕された。いわゆる「ひとのみち事件」である。
「第二次大本事件」と、「ひとのみち事件」とは、昭和前期における宗教弾圧事件を代表する大事件であるが、このふたつの事件の間には、一〇か月ほどのタイムラグがあった。
そのタイムラグの間に、扶桑教ひとのみち教団奉仕員総連盟東京地方連盟が発行した『ひとのみちに対する誤解を一掃す』(一九三六年三月一〇日発行)というパンフレットがある。その中に次のような一節がある。
第一は既成宗教団の恐怖 本教団開設以来十一年、僅かな年月の間に教勢がこんなに発展した事実は、世界宗教史上に例がない、とまで評せられるに至りました。これは、既成宗教諸団体の堪へ得る所ではないのであります。このまゝ手を拱【こまぬ】いて傍観してゐたならば、自己の宗教的領分を蚕食せらるゝに相違ないといふ、烈しい恐怖を起したのであります。そして何とかして年若きこの強敵を早く打ち倒さんものと躍起となつた、その結果は、いろいろの陰謀、術策をめぐらし、あらぬ虚妄の言葉をならべたて、本教団に対する讒誣、中傷の声を盛んならしめたのであります。たまたま大本教の検挙が始まるや、絶好の機会とばかり、それに巧くからませて、大本教類似の邪教であるかの如き観念を世人に起させようと努力しましたが、中には、本教団を傷つけようとして、逆に当局の取調を受け、疑獄の端【たん】を握られた事実などもあるさうであります。
ひとのみち教団は、直前に起きた「第二次大本事件」から、ほとんど何も学んでいない。同教団に対し、「既成宗教諸団体」から、中傷があったというのは事実であろう。しかし、宗教弾圧を企図し、これを実行するのは「既成宗教諸団体」ではない。あくまでも国家権力である。そのことに、このパンフレットは、気づいていない。
そもそも、「大本教類似の邪教」という言葉が問題である。大本教は邪教だが、ひとのみちは邪教でないと言いたいのだろう。しかし、大本教であれ、ひとのみちであれ、また既成宗教であれ、新興宗教であれ、国家権力が、その政策を遂行する上で、その妨げになるような宗教は、すべて国家権力にとっては「邪教」と見なされる。このパンフレットには、そうした視点が皆無である。
ひとのみち教団は、あまりに無防備だった。これでは、国家権力の弾圧に対しては、とても抵抗できなかったであろう(事実、抵抗できなかったのである)。
* * * *
社会運動家の高津正道〈セイドウ〉に、『邪宗新論』(北斗書房)という著書がある。この本は、一九三六年(昭和一一)一二月二六日の発行であるが、その三か月ほど前に、ひとのみち教団への弾圧が始まっている。
高津正道は、同書の第一章の冒頭で、「文字通りに燎原の火の勢ひで膨張発展しつつある『ひとのみち』教団をも、間もなく葬つてしまふであらう、といふ我々の期待は果たして適中した」と述べている。この高津の発想、すなわち、「邪宗」(邪教)は国家権力によって葬り去られるべきだという発想は、検討してみなければならない。
高津は、同書の「序――なぜこの書を出すか」の中で、次のように述べている。
搾取する、科学に反対してインチキ治療をする、科学的世界観に反する諦らめを説く、精神主義を宣伝する――かくのごときものは、何よりもまづ、無産大衆にとつては、この上なき妨碍物であり、またその階級運動にとつては、大なる妨碍物である。我々はあくまで、かかる妨碍物を除去しなければならぬ。かくの如き邪教にまでも取りすがらざるを得ざる大衆に対し、声を限りに呼びかけねばならぬ。
「その道は違ふ。無産者解放、社会改造運動といふこの本道に、一日も早く出て来たまへ」と。
高津は、「反宗教運動者」を自称していた。彼が立脚していた立場は、「無産者大衆」である。そうした高津にとって、大本教、ひとのみち、生長の家、天理教、金光教などの「新興諸宗教」は、当然、「邪宗」(邪教)ということになる。
しかし、新興諸宗教を邪宗として攻撃する、こうした高津の反宗教運動に、どのような意義があったのだろうか。高津の立場あるいは主張を、原理的に批判するつもりはない。しかし、その後の日本の歴史を知る者として、当時の高津が示していた認識や主張について、その「歴史的」な意義を問うことは許されるだろう。
高津のいう「新興諸宗教」は、高津らの「反宗教運動者」が批判するまでもなく、マスコミあるいは民衆によって「邪教」と見なされされていた。もちろん、既成の宗教教団も、これを「邪教」、「邪宗」として批判していた。さらに、「新興諸宗教」のうち、特に勢いがあり、信者を増やしていた「大本」と「ひとのみち」の二教団は、昭和一〇年代初頭、国家権力から「邪教」視され、徹底的に弾圧され壊滅させられた。高津らの「反宗教運動」は、その真意はともかくとして、こうした国家による宗教弾圧に道を開く、「露払い」的な役割を演じたとは言えないか。
また、このように「新興諸宗教」を弾圧した国家権力は、それと並行して、既成の伝統的宗教・宗派に対しても、統制あるいは弾圧の手を加えていたことに注意すべきである。その典型とも言える例として、ここでは、一九四一年(昭和一六)四月一一日に起きた「曼陀羅国神〈コクシン〉不敬事件」を挙げておこう。これは、日蓮門下の伝統的宗派。法華宗(厳密には、旧本門法華宗)に対する宗教弾圧事件である。
すなわち、国家権力にとってみれば、「新興諸宗教」であれ、「既成宗教」であれ、国策の遂行の邪魔になるものは、すべて「邪教」なのである。このことを理解しない「反宗教運動」は、結局のところ、国策と随伴する運動になってしまう。
さらに、戦中期の日本は、国家そのものが、疑似宗教国家になったという事実を深刻に受けとめるべきである。御真影礼拝、皇居遥拝、神社参拝等が強制され、各戸に伊勢皇大神宮の大麻〈タイマ〉(おふだ)が配られた。つまり、国家そのものが、特定の「宗教」の信仰を国民に強いるという事態が起きたのである。
あらゆる宗教を「邪教」として弾圧した国家は、みずからが「邪教」を掲げた疑似宗教国家に転化することがある。高津正道が、「邪宗」を批判する本を刊行した一九三六年(昭和一一)のことだったが、このとき高津は、日本国家そのものが、「邪教」を掲げる疑似宗教国家となることまでは、予想しなかったであろう。
* * * *
ところが、同じ時期、この「邪教」問題について、実に鋭い視点を打ち出していた思想家がいた。哲学者の戸坂潤である。
戸坂潤は、一九三六年(昭和一一)の一〇月一日から三日までの三日間、『報知新聞』に「ひとのみち事件批判」という文章を連載した。前述のように、ひとのみち教団の初代教祖・御木徳一が、「強姦」の嫌疑で逮捕されたのは、同年九月二八日のことであった。戸坂の文章の連載が始まったのは、そのわずか三日後のことである。
連載【1】において戸坂は、「ひとのみち教団は類似宗教の公式的典型だ」ということを言っている。連載【2】では、「インチキ宗教」という言葉を使っている。戸坂にとって、「類似宗教」と「インチキ宗教」は、ほぼ同義と言ってよいだろう。
一方、高津正道は、大本教、ひとのみち、生長の家、天理教、金光教などを一括して、「新興諸宗教」とよび、これを「邪宗」として位置づけていた。
これらを見た限りでは、戸坂潤と高津正道の宗教観に、さしたる違いはない。しかし、戸坂は、連載【2】で、「だから『ひとのみち』だけがインチキ宗教なのではなくて、たまたまそれが露骨なために、宗教なるものゝインチキ性を思い切つて露出したまでだといふのである」と述べている。ここで戸坂は、「宗教」という存在そのものが、「インチキ性」を帯びている。類似宗教にせよ、既成の宗教にせよ、「インチキ宗教」であるところに違いはない、という認識を示しているのである。この認識は、高津正道にはなかったものである。
さらに、戸坂は、連載【3】で、「要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならないのである」ということを述べている。ここでいう「宗教主義」とは、国家における宗教主義のことを指している。
少し、戸坂自身に語らせてみよう。引用は、神戸大学の新聞記事文庫からおこなったが、かな遣いなどは、当時の形に復した。
最後に、宗教復興・精神作興の声を利用して類似宗教が進出したといふ関係当局の見解は、最も天晴れといはねばならぬ。全くさうなのである。だから私は、当局の思想対策と類似宗教簇出〈ソウシュツ〉とは、社会的に同じ本質の二つの現象だといつてゐるのである。特に注意されてしかるべき点は、類似宗教中、最もインチキな部類にぞくすると見なされて、社会で兎や角〈トヤカク〉話題になるものゝ大部分が、何等かの神道に関係の深いものだということだ。大本教、ひとのみち(扶桑教にぞくす)を初めとして、天津教〈アマツキョウ〉、島津治子〈ハルコ〉教、などいずれもさうだ。脱税問題で問題になりかけたり教義についてある種のうはさが流布されたりしてゐる天理教を見てもよい。とに角『類似宗教』乃至類似宗教類似の宗教は、神惟〈カンナガラ〉の道や国史的言論と密接な関係があるといふことを、あくまで重大視せねばならぬ。【中略】
要するに類似宗教の一切の害悪は、現代における一切の宗教主義の単なるカリケチユアにほかならないのである。だから眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない筈である。(完)
右の戸坂の言葉を、私なりに言い換えればこうなる。――国家が思想対策のために、怪しげな「宗教主義」に走れば、当然、怪しげな「類似宗教」があらわれてくる。
実に鋭い認識である。おそらく、戸坂は、この時点で、日本がすでに、疑似宗教国家に転化しようとしていることを、見抜いていたのではないだろうか。
* * * *
昨年、話題になった宗教問題のひとつに、幸福の科学大学不認可問題がある。
今春の開設を目指して設置認可申請中だった「幸福の科学大学」について、文部科学省の諮問機関である「大学設置・学校法人審議会」は、昨年一〇月二九日、開設を不可とする答申をおこなった。この答申を受け、同月三〇日、下村博文〈ハクブン〉文部科学大臣が「不認可」を決定した。
同審議会では、開設を不可とした理由について、文科省ホームページ上で説明しているが、そこには、「幸福の科学大学」の教育課程には、宗教団体「幸福の科学」創始者の大川隆法氏の「霊言」に関する著作が重要な位置づけを占めている。しかし、こうした霊言は学問の要件を満たしていないといった趣旨のことが書かれている。
幸福の科学大学「不認可」の報を聞いた人の中には、不認可は当然だ、あんな怪しげな宗教団体が大学を作ること自体がおかしい、と思われた方も多かったであろう。しかし、この発想は、国家権力が「ひとのみち」を弾圧したことについて、高津正道が「我々の期待は果たして適中した」と述べた発想と、大きく変わるものではない。
宗教団体「幸福の科学」を、邪教だと感じている人は少なくないだろう。個人が、自分の感覚で、そのように捉えることは許される。しかし、ある宗教が邪教であるか否かの判定を、国家権力に委ねようとするのは危険なことである。もちろん、今回の文科相の決定は、あくまでも「幸福の科学大学」の適否をめぐる問題であって、宗教団体「幸福の科学」そのものの適否を問題にしていたわけではない。しかし、世論の動向によっては、あるいは政治情勢の変化によっては、戦前・戦中のように、国家権力が、ある宗教を邪教であるか否かを決定する時代が再び訪れるかもしれない。
「大学設置・学校法人審議会」は、今回の設置認可申請にあたって、「幸福の科学大学」側に、「認可の強要を意図すると思われるような不適切な行為」があったと見た。おそらくこれは、審議の渦中で、下村博文文科相の守護霊本『文部科学大臣・下村博文守護霊インタビュー』(幸福の科学出版株式会社、二〇一四年六月七日)、『同②』(同社、同年八月一四日)が刊行されたことなどを指すものであろう。
ことによると、宗教団体「幸福の科学」には、下村文科相が、同教団のシンパであるという思い込みがあったのではないか。それにしても、こうした「不適切な行為」は、宗教弾圧への道を開く、きわめて危険な行為である。
宗教団体「幸福の科学」は、一九九一年九月には、テレビでオウム真理教と論戦したこともある。一九九五年前後には、創価学会を攻撃する本を何冊も刊行している。少なくともこのころまでは、同教団は、「邪教」を攻撃する側に立っていた。
しかし、今日すでに、同教団は、「邪教」と糾弾される側に立とうとしている。戸坂潤も指摘した通り、「眼くそが鼻くそを笑ふことは出来ない」のである。この際、同教団に望みたいのは、「過去の宗教弾圧」を振り返り、そこから教訓を得るということである。
小論の最初で述べたように、近代の日本では、国家が宗教を弾圧するとき、露骨に「宗教弾圧」という形をとっていない。その活動を「犯罪」として認定し、そのことによって、事実上の「宗教弾圧」をおこなってきた。先ほど、設置認可申請にあたって、「幸福の科学大学」側がおこなった「不適切な行為」は、宗教弾圧への道を開く危険な行動だと述べた。国家権力が、その気になれば、こうした「不適切な行為」も、犯罪と認定される。そうした瑣末なところから、宗教弾圧は始まるのである。とうぜん、その余波は、他の宗教にも及ぶ。そういう意味で、幸福の科学の「不適切な行為」は、宗教弾圧への道を開く行動だと指摘したのである。国家権力をなめてはいけない。
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