礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石原莞爾、石川理紀之助を語る(1942)

2018-01-15 00:49:26 | コラムと名言

◎石原莞爾、石川理紀之助を語る(1942)

 昨日の続きである。本日も『国防政治論』の第一部「国防政治論」第三章「国防国家の政治」第二節「人」の「二、生活」から、石原莞爾の講演を引いてみたい。
 昨日、紹介した箇所の数ページあとに、次のようにある。

【中略】
 その次に簡素生活であります。
 西洋人は素晴らしい大理石の大きな建物を作つて威張つてをりますが、いくら偉いものを作つたところで、こゝの小湊(千葉県)の山位です。富士山には敵ひません。大自然に巧く順応した生活をして行く日本人の作る物は、小さくとも広大な大自然を背景として極めて偉大なものであります。西洋まがひで何でもきらびやかな豪壮のものばかり好むといふことは、反省しなければなりません。外来文明が来ると必ずそれを一遍日本人はやるが、遂にその精神を吸収して再び自然に親しんだ簡易で高雅の生活に復帰するのであります。
 この間秋田の国防研究会の要求によつて、石川理紀之助〈イシカワ・リキノスケ〉翁の生地で三日間「国防論」の講義をやつて来ました。見るもの聞くもの悉く我々に無限の感激でありました。殊に一つ御紹介したいのは、石川翁が四十五歳で自分の家から出て行つて、三十近いヨボヨボの馬に三升五合の米を負はせ、二十町ある草木谷〈クサキダニ〉といふ山に入つて行つたのであります。そこは蝮〈マムシ〉その他の毒虫がをるのでありますが、そこにあまり使はない若干の田圃がある。こゝに四畳半位の掘立小屋〈ホッタテゴヤ〉を作つて十年以上住んでをります。なぜそれをやつたかといへば、色々事情もありませうが、最大の理由は、石川翁がいくら貧農の改革を言つても、「石川先生は家が地主だからあゝいふが我々貧乏人には出来ない」といふやうな気持を世の中でもつので、「身を以てやらなければ駄目だ」といふ考へで、四十五歳の石川先生が、妻子を全部おいて、掘立小屋で自分で開墾をやり始め、そこに一文も家から貰はずに自分一人でそれを経営して、立派な収益を上げて黒字にして十年ばかり暮してをりました。子供さんが亡くなつたために、巳むを得ず家に帰つて来たが家の中には入らない。やはり小さい四畳半位の尚庵〈ショウアン〉といふ庵〈イオリ〉を建て、極めて簡素の生活をして、而も香を薫じ、お茶をたて、一生の中〈ウチ〉三十万首の歌を詠んでゐるのであります。それを綺麗に全部罫紙に書いてをります。尤も惜しいことには草木谷の火事で前半生のものは失はれてをります。日誌は無論綺麗に書かれてをります。一寸私拝見したのでありますが、をれを見ると、十一時起床と書いてある。先生病気して寝坊したなアと思つてをると、前の日の十一時だ(笑声)。秋田まで八里あるのを県庁の役人の時に毎日歩いて行つた。一番早く出たらしい。極めて原始的の簡単な生活をしてをります。而もそこに高雅な生活をしてゐる。そこで一たび庵を出て百姓の指導になると、最新科学の利用です。かういふのが日本人の生活だと思ひます。日本人が楽しみをそこに発見し、剛健の精神、根強い肉体を持つて行くためには、このやうな日本人らしい簡素生活に移らなければならぬのであります。
 殊に防空の見地から、最終戦争の終るまでは、野蛮といはれても徹底した位の簡素生活の準備をしなければいけません。最終戦争及びその前の持久戦争で、防空はとても大きな問題であります。幸ひ海軍の力によつて、現在までの所空襲は来ませんが、空襲を受ける覚悟はもたねばなりません。都市建築の防空対策に就いて国家も努力してをりますが、なかなか出来ない。私も心ひそかに悩んでをつたが、結局簡素生活に徹底せよとの結論に到達した。空襲を受ければ焼かれる、焼かれたならば何が必要かを先づ研究する。生活に必要な最小限の家を、専門家の手を借らずに、市民自ら建てるやうに覚悟と研究をしなければなりません。各地の風土に応じて、健康保全に必要な最小限度を標準として建築を設計し、その家屋を建てゝ見て、その生活を体験しておくべきであります。私は青年学校以上の生徒に建築を教へたらいゝと思ふ。朝鮮人の家屋は、今日非常に参考になると思ふ。抗【カン】といふのは四畳半です。それ以上の部屋は普通の庶民階級にはない。おんどる〔温突〕を利用して布団は通常ない。火事があつても、男は煙草を吹かしながら見てゐる。女は流石に「アイゴーアイゴー」と言ひながら、壷のやうなものを以て水をかけてゐる(笑声)。私は実に愉快だつた。次の日に、隣近所の者が協力して家を作つてをります。あすこまで徹底すれば空襲は断じて恐れないですむのであります(笑声)。【以下、略】

 石原莞爾が、この講演をおこなったのは、いわゆるドーリトル空襲(一九四二年四月八日)の三か月前のことであった。だから、「現在までの所空襲は来ません」と言っているのである。と同時に彼は、「空襲を受ける覚悟はもたねばなりません」とも言う。やはり空襲を警戒しているのである。特に、都市建築の防空対策が遅れていることを心配したようである。
 あいかわらず話がうまい。特に、秋田の篤農家・石川理紀之助(一八四五~一九一五)の紹介など、あきれるほどのうまさである。
 石原は、ここで、空襲に対しての懸念は、国民が「簡素」な生活に徹することによって払拭できると説いている。それを説くために、石川理紀之助を持ち出しているのである。次に、突然、話題を朝鮮人の家屋「抗」に振るが、「四畳半」というキーワードを使って、話の一貫性を保とうとしている。
「あえて極論を言う」、「もっともらしい例を出す」という、石原の話術の特徴は、ここでもハッキリと出ている。「聴衆が知っている人物を挙げる」ことはしていないが、そのかわりに、「小湊の山」という御当地ネタを持ち出している。
 さて、石原は、戦時下の防空対策として、「簡素生活」の徹底を薦めているわけだが、やはり、極論であり、珍説でしかない。庶民や農民が、いくら生活を簡素にしたところで、首都の機能、全国主要都市の機能、軍事産業の生産ライン等々を、空襲から守ることはできないのである。ここで、石原莞爾が述べていることは、あくまでも「防空漫談」にすぎない。おそらく、石原自身も、そのことに気づいていたことであろう。また、聴衆の中にも、笑っている場合ではないと感じた者が、少なからず、いたのではないだろうか。【この話、さらに続く】

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