礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

石原莞爾の話術について

2018-01-14 02:42:35 | コラムと名言

◎石原莞爾の話術について

 石原莞爾という軍人・軍事思想家は、演説を得意とする人だったのではないか。
 そのことに気づいたのは、五年ほど前、大熊信行の『戦争責任論――戦後思潮の展望』(唯人社、一九四八)という本を読んだときである。そこには、終戦直後の一九四五年(昭和二〇)九月三日、石原莞爾が、郡山市の公園で開かれた東亜連盟福島県支部連合大会で、一万人の聴衆を前に「敗戦は神意なり」と題する講演をおこなったことが紹介されていた。
 この時期、どうして、それだけの数の聴衆を集めることができたのか不思議だが、ともかく、その日、石原莞爾は、午前十時から約一時間半にわたって、麓山〈ハヤマ〉公園広場を埋めつくした聴衆に向かって、獅子吼〈シシク〉したという。よほど演説に慣れていなければ、また、よほど演説が得意でなければ、こういう芸当はできない。
 石原莞爾の講演・講話などを記録した本がある。有名な『世界最終戦論』(一九四〇年九月、立命館出版部)も、講演を記録した冊子である。これは「石原莞爾述」とあり、一九四〇年(昭和一五)五月に京都義方会でおこなった講演を収録したものである。国立国会図書館の書誌データを見ると、このほかにも、「石原莞爾述」となっている本が、いくつかある。いちいち確認したわけではないが、同様の本と見てよかろう。
 いま机上に、『国防政治論』(聖紀書房、一九四二年一〇月)という本がある。「石原莞爾著」となっているが、実は、この本もまた、石原がおこなった三つの講演を収録した本である。当時の石原は、機会を捉えて、いろいろなところで講演をおこなっていた。その講演の内容が、そのまま本になることもあった。要するに彼は、「演説」には慣れていたし、熟達もしていたのである。
 石原莞爾の演説を聞いた人の感想というのは、探せばどこかにあるのだろうが、すぐには見つからない。しかし、たぶん彼は、巧みな話術で、聴衆を沸かせていたはずである。そうした様子は、前記『国防政治論』に収められている講演記録からも、十分に、読みとることができる。
 というわけで本日は、『国防政治論』から、石原莞爾の講演の雰囲気を、よく再現していると思われる文章を紹介してみたいと思う。
 本日、紹介するのは、同書の第一部「国防政治論」の第三章「国防国家の政治」の第二節「人」の「二、生活」のところである。なお、この「国防政治論」と題された講演は、一九四二年(昭和一七)一月三日から五日まで、千葉県小湊における東亜連盟講習会でおこなわれたものである。

  二、生 活
 近時体位の低下が酷いのであります。厚生政策が最近始められましたが、どうも今日の厚生政策は、重大なポイントを摑まへてゐないと思ひます。スポーツによつては必ずしも体位の向上はしないのであります。正しき生活によつて始めて我々の体位が向上するのです。古い西洋の宣教師あたりの書いたものがあるそうです。戦国時代の日本人は、世界で最も立派な体格の持主だつたらしいのです。戦国時代の鎧〈ヨロイ〉を我々が着たならば駄目です。和田君か、村井さんあたらはいゝが、中村勝正君なんか三人位入る(笑声)。日本人の体格はとても小さくなつた。今の軍務局長の武藤〔章〕中将から聞いたが、彼がドレスデンの博物館に行つて西洋人の着た鎧を見ると小さい。ドイツ人に、「君等あれ着れるか」と尋ねたら、「とても小さくて着れない」と答へたさうであります。日本人は小さくなつたし、西洋人は大きくなつた。それで、今日の西洋人と日本人の身体の違ひが出来た。これは、食べものを中心とする日本人の生活の墮落によるのであります。殊に明治以後になつて殆ど皆歯医者に税金をかけてゐる。私のやうに歯医者に金をかけないのは正しい生活をしてゐる人間だが、(笑声)殆ど全部の人が金をかけてゐる。なんでも明治の初年に、歯医者の開業に来た西洋人の商売は成立たなかつた。ところが今日はどこへ行つても歯医者ゐる。この原因は色々ありませうが、一番は我々の主食であるところの米であります。戦国時代迄は玄米を食べてゐたが、徳川時代になつてからは半搗米〈ハンツキマイ〉を食べる様になり、明治時代になつて真白い御飯となつた。また明治以後白砂糖と云ふ毒物を、製糖会社の宣伝家の如く小学校の先生まで、白砂糖の消費量は文化のバロメーターだといふやうなことを言ふので、日本人は盛んに食べ、今日の如き体位となつた。再びこれを正しき生活に還すことが必要であります。衣食住全部に亘りますが、先づ私は、玄米食をどこまでもお勸めしたい。不思議に東亜連盟運動者には玄米食の運動者が非常に多い。静岡の中田録郎氏はをの尤なるものであります。仙台の鈴木文平氏の如きは今では玄米を生〈ナマ〉で食べてをります。鈴木氏の奥さんが脊髓カリエスに罹つた時、玄米を食べて癒りました。その後子供さん二人生れたのでありますが、玄米を食べる前の子と後の子とはまるで健康が違つてゐる。それ以来玄米を神様扱ひしてゐる。玄米さへ食べれば、今の食糧問題は解決する。五千万石あれば不足ありません。殊に、私は農村に先づ勧めたいと言つてをるのであります。最近農村の体位がとても悪い。この間弘前師団に行つて師団司令部の人に聞くと、百姓の体格はこの二、三年とても悪い。板垣征四郎〈イタガキ・セイシロウ〉大将の生れた付近即ち岩手県の北、青森県の東半分は稗〈ヒエ〉を食つてゐるらしい、米が少い。それで私はよく板垣稗四郎〈イタガキ・ヒエシロウ〉と言ふと、非常に憤慨して、「俺は稗なんか食はん」と言ふ。「あなたは稗を食つたから偉くなつた(笑声)。さう憤慨する必要はない」この辺は例外として今日でも体位が低下しない。所が農村は最近の食糧政策で真ツ白の米を食べてゐる。糠〈ヌカ〉を馬に食はせて自分等〈ジブンラ〉は白米を食べてゐる。粕〈カス〉は白米と書く。馬に大事なものを食はせて自分か粕を食べて体位が退化してゐる(笑声)。都会では贅沢やつてゐるから玄米はいやがるが、農村で必ず成功します。これは東亜連盟の実践運動として、正しく生きる革新運動の誰でも行ふ一番根柢です。この外私は小学校で腰掛をやめろ、畳の上か、板敷きの上に円座をおいてやれと申してゐます。坐ることによつて日本人の脚力が強く水泳で優勝した。和田君から説明受けたが、日本人の腰のねばり、脊柱が正しいことは正坐のためです。ところが小学校から腰掛です。毛唐の真似をして家も全部腰掛であればいゝが、畳の上に正しく坐ることが出来なくなつた。今の女学校の卒業生をきちんと坐らせて一時間講義を聴かせて、動いたらお嫁さんの価値がない(笑声)としたら合格するものは何人ををりませうか。しかし腰掛は便利であります。腰掛に坐るのを我々の建築様式の上に、如何に活用するか大きな問題であります。【以下、略】

 説かれている内容は、学問的でも論理的でもない。たとえば、「近時体位の低下が酷いのであります」とある。これは、昭和初年に農村を直撃した、いわゆる「昭和恐慌」の時期に生育した子どもが、昭和一〇年代の半ばになって、徴兵年齢に達していたことを示すものであろう。しかし、石原莞爾は、そのことには、触れようともしない。
 にもかかわらず、聴衆には、「受けている」。ところどころに、(笑声)とあることが、それを物語っている。なぜか。話術が巧みだからである。
 石原莞爾の話術の特徴を挙げてみよう。

(1)あえて、極論や珍説を提示する。
(2)それを、もっともらしい「例」によって説明する。
(3)聴衆が知っている人物の名前を出す。

 (3)についていうと、最初のほうで、「中村勝正君なんか三人位入る」といって、笑いをとっているが、おそらく、「中村勝正君」というのは、この講習会の関係者で、その場にいた人物なのであろう。聴衆は、その名前も顔も知っているし、その体格も知っている。そういう人物を引き合い出すことで、「受け」を狙っているのである。
 また、この講演記録では、十分に読みとることができないが、石原莞爾は、話の「間」の取り方といったものも、心得ていたと推察できる。
 たとえば、板垣征四郎大将に言及したところで、「あなたは稗を食つたから偉くなつた(笑声)。さう憤慨する必要はない」と記録されているところがある。その前に石原は、「板垣稗四郎」という言葉を出している。聴衆は、そこでは笑いをこらえ(あるいは、すぐには反応できず)、「あなたは稗を食つたから偉くなつた」というところで、ついに、大笑いをする。その大笑いが鎮まるのを待って、「さう憤慨する必要はない」と続ける。石原は、そういうふうに、「間」をコントロールしながら、話ができる人だったのである。【この話、続く】

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