礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

青木茂雄自伝・その1「最初の記憶」

2017-11-17 05:18:58 | コラムと名言

◎青木茂雄自伝・その1「最初の記憶」

 畏敬する映画評論家・青木茂雄氏から『記憶をさかのぼる』と題する自伝の一部が送られてきた。氏はかねて、「七〇歳になったら自伝を書く」と公言されていたが、ついに、その自伝に着手されたらしい。
 本日、紹介するのは、「わたしの幼少期(1)」と題する文章で、「最初の記憶」という見出しがある。

 記憶をさかのぼる    青木茂雄

わたしの幼少期(1)

最初の記憶
 私が生まれたのは昭和22(1947)年10月31日、ということになっている。そのように親から言われていたし、戸籍謄本にもそう記載されているから間違いないようだ。正確には10月30日の深夜で、ちょうど日付が変わったころに生まれた、と聞いている。当然、その頃のことはまったく何も覚えていない。しかし私にも、もっともさかのぼることのできる記憶というものはある。
 観念を記憶から想起された像(イメージ)と解するならば、観念の源泉は何らかの印象(刻印)であると主張する経験論の見解には同意せざるをえない。また、D.ヒュームの『人性論』の冒頭の記述に従って、その刻印の時期によって像(イメージ)の濃淡に違いができ、時間的に近いものほど鮮明であるとする見解にもある程度までは同意できる。
 にもかかわらず、私に解せないのは、それらの像(イメージ)群を時間軸に従って整然と秩序づけて誤ることのない、その整序のメカニズムである。これこれの像は何分前、これこれの像は何時間前、これこれの像は何日前、あるいは何年前…。このメカニズムの巧妙さには驚かされる。確かに、何年前、何日前については事後に想起され、何らかの形で表現され、そして何らかの媒体を介して記憶されるということもあるであろう。しかし、何分前、何時間前、については、想起されなくても整序されているのである。この精緻さには舌を巻くばかりである。
 認識枠組みとしての「時間・空間」についてはカントの『純粋理性批判』が良く知られているが、カントに先立って、ヒュームは『人性論』の中で「時間・空間」についての思考実験を行っている。しかし、「空間」についてはどうにか一つの見解を出すまでには至っているが、「時間」については中途であえなく挫折している。ヒュームの代名詞ともなっている独特の「因果」についての考察は、彼の「時間論」の挫折に上に打ち立てられているというのが私の見立てであるが、このあたりについてはいずれきちんとやりたい。
 フッサールには『内的時間意識の現象学』という名著があり、幸い平易な翻訳もある。また、ベルグソンやハイデッガーなどにも「時間論」の良く知られた著作があり翻訳が文庫本で出ている。不明にしてこれらの本をまだ私は読んではいない。この歳(70歳)になっても不明はどんどん広がるばかりである。この連載が終わるころまでにはひととおり読んでおきたいが、年齢を積み重ねると「時間」に関する像(イメージ)はあり余るほど蓄積されているから、おそらく、私はそれらの書物から一方的に教示されるというよりは、何らかの対話となるであろうし、そうあらねばならない。それぐらい個別の固有の経験は広大であり、その持つ意味は深いと私は考える。
 ここで私は、像(イメージ)をドイツ語からの訳語である表象(Yorstellung)という語に必要に応じて置き換える。前へ(vor)置く(stellen)から派生したこの語は、念頭に常に思い浮かべられる像を示す言葉としてまことに重宝である。
 私は時間に関わる表象群を大きく二つに分ける。
A 想起されるごとに時間軸に従って言わば直線的に整序された表象群。
 例えば、私が小学校に入学した時と、中学校に入学した時とは、一方が昭和29年でもう一方が昭和35年である、という「図式」に従って記憶の中で整序されている。そして何度も想起されることによって知識となっている。そのような膨大な表象群が時間軸によって整理されている。これはその人自身の固有の記述された歴史であると言ってよい。これには表象の濃淡の差は少ない。時間的に過去のことでも、想起される頻度が高ければ鮮明となる。また、想起には必ず意識的無意識的たるとを問わず、何らかの意味付けが伴っている。しかし、さらに振り返ってみると、この整序する時間軸というものも不確かで不可解なものであると言わざるをえないが、これについては別途に「厳密に」考察する以外にないであろう。
B 想起されないか、または想起されたとしても時間軸に従って整序される以前の表象群。 例えば、朝起きて、歯を磨く、顔を洗う…、等の行動の時間的な整序の働く以前の表象。かなりの程度記憶像に濃淡の差があり、概して直前のものほど濃い。しかし、これはかなり不可解である。そもそも最初に想起されたある表象が他のある表象に対して時間的に「前にある」とはどういうことか。そして、「後にくる」とはどういうことか…。

 さしあたってこのようなことが考えられるのだが、先にあげた大家(たいか)たちがどのように考えているのか、興味深い。私がこれから述べようとするのは上記のAに属する表象群についてである。言わば私自身の固有史である。確かなのは私の生の終了とともにこれらの表象群は確実にこの世界から消失してしまうことである。であるからには記録しておくだけの値打ちは多少ともあるというものであろう。

 さて、私の最初の記憶。私は、昭和22年に茨城県日立市助川町に生まれ、昭和26年6月頃に茨城県水戸市に家族とともに移住した。(私の記憶によればこのあたりの年代は西暦よりも元号のほうがなじみが深いので、そのことを記録しておく意味でも使用することにする。元号年から西暦年へと記憶の引き出しが変わった境目をあげれば1963年頃であろうか。この年は私が中学を卒業し、高校に進学した年で、なぜかこの年は昭和38年よりも1963年の方がなじみがある。)当時3歳と10カ月である。移住当日の記憶もあるし、それ以前の日立市の記憶もかすかながらある。
 私の生まれた家は、空爆で半焼した家屋をトタン板でおおって雨露をかろうじてしのいでいるという粗末な家である。日立市は戦争末期に米軍による「空襲」とともに、沖合に停泊した艦船からの激しい「艦砲射撃」に連日さらされた(日立市は軍需物資を製造する「工都」であった)。だから私は、両親や兄姉たちから耳に入った言葉としては「くうしゅう」よりも「かんぽうしゃげき」の方が強烈であった。
 その艦砲射撃により、当時家族が住んでいた日立市平沢にある日立製作所の社宅(当時は「役宅」と呼ばれていた)の部屋の壁に銃弾の貫通した穴が出来たと、父や母は良く話していた。祖父もその頃衰弱により死亡したと聞いている。
 私の父は当時日立製作所で事務の仕事に就いていた。父は、とある旧制高等商業専門学校を卒業した後、農工銀行に勤務し、茨城県内の各地に勤務地を巡った後、農工銀行を退社し日立製作所に勤務場所を得た。銀行勤務の頃の昭和初年の古い写真を見ると、借家ながらそこそこに広い一軒家で、両親と子供2人、祖父母と曾祖母、合計7人が住んでいた。父一人の給与で7人の生活を支えていたとすれば、かなりの額の支給があったであろうと推測される。写真が示すものは、小津安二郎の戦前の映画に描かれたような、当時の比較的高学歴の地方都市のサラリーマンの生活であり、それは戦後の貧乏を絵に描いたような我が家族の生活からは到底想像できないものであった。私は、その写真の中にある古き良き中産階級と現在の貧乏な暮らしとの落差を思った。
 父は、戦後の日立製作所の大量解雇の時期に、胸の病気を患っていたこともあり、整理解雇された。おそらく一時金はもらったのであろう、その資金で助川町の半壊した家を借り受け、4人の子供と両親の合計6人で移り住んだ。そして、私が生まれ、家族は7人となった。
 空爆で半焼しトタン板でおおわれた私の生家について記憶にあるのは、便所が外づけであったことぐらいでほとんど憶えていない。3歳半までの私の記憶にある光景を時間の順序抜きに描く。これが私のさかのぼることのできる最初の記憶である。
 夏の暑い日に部屋の中で、晩方だったろうか、ごろごろ寝ている。なぜか、そのごろごろしている私を高い天井のあたりから見下ろしているという記憶である。私はハシカにかかって高熱を出していた、ということである。
 近くに小高い丘があり、ある晴れた日に母と、その丘の中腹で弁当を食べた。さんさんと照る日差しと、丘の下に広がる光景、樹木が取り払われていて見通しの良い丘の中腹、などがかすかに浮かぶ。
 その丘を降りると広場があり、近くの子供たちが群れをなして遊んでいた。そこには鉄棒と砂場があった。
 庭先で父の帰るのを迎えた、父は土産物を懐から取り出した。いかにも頼もしい父親だった。
 それともうひとつ強い印象のある出来事があった。少し年上の一団が群れている。そこへ郵便配達員が通りかかる。配達員は制服制帽である。それを見た一団は、一斉に身を隠す。「制服を着た怖い大人がきた」という。制服制帽というのは少し前まで跋扈していた憲兵か、あるいは進駐軍であろうか。
 なぜか、これらの光景の記憶は今に至るまで残っている。しかも、繰り返し、繰り返し想起されている。    (つづく)

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