◎スターリン首相、日本の和平条件をポツダムに携行
この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
本日は、『永田町一番地』から、七月一〇日~七月一七日の日誌を紹介する(二一五~二一八ページ)。
七月十日
トルーマン米大統領は随員とともに巡洋艦オーガスタ号ですでに渡欧の途にある。
七月十二日
陛下は、折柄、日華協会発会式のために上京した近衛〔文麿〕公をお召しになつた。陛下は近衛公に対し、この際、モスコーに赴き、対ソ交渉に当るがよいか否かとの旨をお質ね〈オタズネ〉になつた。近衛公は、モスコーに赴くべきことを奉答した。
同夜、東郷〔茂徳〕外相から直ちに佐藤〔尚武〕大使に対し近衛公の派遣に関する至急訓電が発せられた。
七月十四日
モスコーにおいてはソ華交渉が続行されてゐる。発表によると、スターリン首相は宋子文氏と十一日夜第五次会談、十二日夜第六次会談を遂げた。この交渉の結果について今日ソ連政府との共同声明が公表された。即ち、ソ連政府および重慶政府は過去二週間にわたる数次の会談に於て、両国関係に関する重要な諸問題につき明白な相互諒解に達した。スターリン首相がポツダムにおいてトルーマン大統領、チャーチル首相と会見する必要上、会談は一時中止されることになり、宋子文院長は重慶に帰還した。
七月十五日
佐藤大使からの十四日付至急電が到着した。それによると、佐藤大使は十三日、ロゾフスキー外務人民委員部次長に会見し、近衛公が陛下の親書を携行し近く訪ソしたき旨を伝へその回答を求めた。ところがこれに対しソ連政府としては数日中に開会されるポツダム会談にスターリン首相、モロトフ外相ともに出席予定のため、時間の余祐なく早急な回答は行ひ得ないとの意向を表明した、といふのである、佐藤大使よりソ連の回答は多少遅延を免れまいと報告して来た。
【一行アキ】
チャーチル首相、トルーマン大統領は相次いでポツダムに到着した。ワシントン発エー・ピー電によれば、スターリン首相も今日、モスコーを出発したといはれる。
七月十七日
昨十六日午前、スターリン首相到着予定が後れたため、ポツダムにおける米英ソ会談は今日、その第一次会談を開始した。
南米、リオ・デ・ジヤネイロからの放送は俄然、簡単ではあるが、スターリン首相は日本の和平条件をポツダムに携行したとの放送を、行つた。ついで、ニユーヨーク・ヘラルド・トリビユーン紙ワシシトン特派員は日本が和平を企図してゐるとの詳細な記事を書いたことが、サンフランシスコから放送された。この一方、ロンドンからも日本の和平申込みを示唆する如き放送がばらまかれた。ロイターの報ずるところによると、在ロンドン、ソ連大使館当局は、ソ連としては連合国と日本との和平調停の意思はない、然し日本側からする提案はなるのでもこれを取り次ぐであらう、と言明したと。
【一行アキ】
ポツダム会談はすでに開始された。米国も英国もソ連も、中立国も、全世界の眼はこの会談の成行きに集注されてゐる。スターリン首相一行が予定より一日後れてボツダムに乗りこんだのは如何なる理由によるのであらうか。この間、東郷外相は、佐藤大使に対し、モロトフ外相との会見実現方を厳重に督促してゐる。近衛公は軽井沢に帰へつたが、旅装を調へたまま東京からの連絡を待つてゐる。
上記の日誌では、「スターリン首相は日本の和平条件をポツダムに携行した」とある箇所(下線)が意味深長である。ここでいう「日本の和平条件」には、この間、日本がソ連に対して提案してきた「日ソ国交調整」に関する提案も含まれていたはずである。たとえば、六月三日、廣田弘毅がマリック駐日大使との折衝(強羅会談)の際に提案したという「ポーツマス条約廃棄」なども。