Web Master's Room

バイク乗りのちょっと寄り道、思った事…

生きるという事 死ぬという事

2015-10-09 08:18:21 | 戦争遺産
まずはスマホお持ちの方は以下をアプリでダウンロードしてみて欲しい。

 iTunes版については こちら から
 Android版については こちら から

ブラックジャックによろしく・海猿でおなじみ佐藤秀峰先生の作品‟特攻の島”の1巻が無料で読めます。
(気になる方は購入してくださいね)
この1巻を読んだだけで当時の日本の悲哀さや人間魚雷回天すべてを感じる事が出来ます。
現在(2015.10)でも出筆中で、まさに最後の出撃のシーンであります。
なので、ラストシーンはまだどうなるのかわかりませんが阿多田交流館の館長さんは
「母艦の潜水艦を離れたら、突撃が成功しようが失敗しようがもう生きている事はない」と言います。
主人公の渡辺はどう最後の時を迎えるのか…。

思い出せば始めは戦記好きで手に取った一冊だった。
ページを捲るとすぐに重苦しいタッチの画像に昭和20年にタイムスリップする。
当時精神論ばかり論ずる陸軍とは違い、海軍は合理的であった。
なので陸軍が行った無意味な銃一つで一斉突撃みたい策をとる事はなく
戦況的に追い込まれた時であっても生還の見込みが無い作戦は海軍では認められなかったという。
なので特攻兵器などという考えはむしろ否定的であったが
しかし、状況はそれを許さい所まで日本は追い込まれてしまっていた。

主人公渡辺は私の自宅の近く筑豊の出身である。
父は病状で貧しく母親と兄弟を養う為に働くのであるが、世間も同情出来る余裕もなくむしろ差別の対象にさえなっていた。唯一家族を救う方法が予科練だった訳である。
渡辺には画家になる夢があったが無論無理な話であった。
母は出兵の際にスケッチブックとペンを与える。
苦労かけた息子へのささやかな償いだったかもしれない。
予科練内で大空を羽ばたく飛行機の絵を描く。
確かにここまでは微かな希望があったはずだ。
そしてこのスケッチブックが彼の心の変化を表す事になる。

現在7巻まで発行されているが表紙はその時の主人公そのものである。
だんだん他に選択肢のない死へ向かう表情
それを自分で割れた鏡でそのスケッチブックへ描いていく
名前や文字がが裏返しなのはその為だ。
そのスケッチブックを母親はどんな気持ちで見るのだろう。

回天の島 大津島に行きたくなったのはそんな気持ちになったからだった。



2014.08.21 出口のない海 特攻の島 そして回天の島

       出口の向うに見えたもの (大津島回天のトンネル)





つづく

大刀洗平和記念会館

2014-09-18 18:19:12 | 戦争遺産


甘木鉄道太刀洗駅の道を挟んで正面に大刀洗平和記念館はあった。

大型バスが数台止まっていたので何かあるのかなと思っていたが
どうやら小学生の社会科見学の様である。
ここは知覧や大津島程生々しい展示物が少なく
また終戦間じかにあった大刀洗空襲での小学生の惨事も映像として流しているが
かなりビジュアル的に見せているので大人が見ると実感的には乏しいので
多感な時期の小学生にはちょうどいいのかもしれない。
ほんとに戦争っていうものが解かっているのかなと
ちょっと穿った見方をしてしまったが
平和の折鶴を一生懸命折っている姿を見るとそんな事を思う事を恥ずかしく思えてきた。
自分だって本当の戦争なんて知らないのだから…。

大刀洗飛行場は福岡市から南東に位置し
西部方面の防衛と大陸への攻撃拠点として開設し陸軍の一大拠点となっていた。
あの特攻の最前線基地の知覧もここの分隊である。
もちろんここからも特攻隊が出撃しているが
特質すべきはあの空の要塞B29爆撃機に対して
屠龍という双発の戦闘機で体当たりするという方法が取られていた。
また幻の試作機震電のテスト飛行も行った基地であが
今は遺物はほとんど無く大きなビール工場とコスモス畑になっていて
ここにそんな物があった形跡さえない。



ここには現存する唯一の零式艦上戦闘機32型が展示されており
この32型の他に大濠公園の池から回収された97戦も展示されていが
館内は撮影禁止ではあるがゼロ戦だけは撮影が許されている。
32型の特徴である両翼先端がカットした形状がよくわかる。

天井には巨大なB29のサイズが表示してあり
床にはそれに体当たりした小型の屠龍のシルエットがある。
特攻撃墜に成功し撃墜したB29の機体の一部と日本機の機体の一部が比較して展示してあったが
B29の肉厚のアルミブロックに対して日本機は1mm程度の薄いアルミであった。
資源・工業力の差は明らかな相手に戦いを挑んだので
結果は明らかであったのである。

筑前町立大刀洗平和記念会館

出口のない海 特攻の島 そして回天の島

2014-08-21 19:25:07 | 戦争遺産


ここは山口県周南市と言うよりは徳山沖と言った方が解かりやすい。
実際連絡船も徳山駅のすぐ裏から出航していて
大津島馬島港までフェリーで44分、高速船なら18分の距離なので
徳山港からも肉眼で確認する事ができる程の近さだ。
瀬戸内海の穏やかなはずの海は不安定な低気圧の動きのせいで白波が立ち
前日からの大雨は広島市に甚大な被害をもたらしたが
今は青空が広がり飛行機雲が2本3本と見る事ができ
遅れてやってきた夏空が広がっていた。

多少揺れたが予定どおり馬島港に到着。
すぐに目に付く大きな看板には“回天の島”と書いてあった。
そう、回天とは今更説明の必要も無いと思うが
旧日本海軍の九三式酸素魚雷の中央部に操縦席をつけ
先端部には1.55tもの爆薬を積んだ帰還する事が許されない特攻兵器である。
その4つあった回天の基地のひとつがここ大津島にあり
唯一その施設の一部が残り、また回天と共に海に眠る145名の資料が残る記念館がある。

なぜ回天を開発し、その使命を若者達が受け入れていったのかは
映画として“出口のない海”コミックとしては“特攻の島”をご覧頂きたい。
ただこの時代の出兵した若者は死ありきなので
いかに誇れる死に方が出来るかしか考えてなかったのだ。
一撃で大型艦船を沈める事が出来る、まさに軍神になる道しかなかったのだ。
ただ飛行機乗りとして海軍に入隊した若者にはもうまともに飛べる飛行機など数える程しかなく
海でしか居場所がなかったのは不憫にしか思えなかった。



もとは魚雷発射試験場だった建物である。
九三式酸素魚雷は圧縮酸素を利用しているので曳航が発見され難い高性能の魚雷だったが
その魚雷を実験していたのでこの場所がそのまま回天の基地になったのだ。
整備場からトロッコに乗せた回天は海岸線のトンネルを抜けてここから海に下ろされる。
厳しい訓練を続け、そして潜水艦の上部に固定されて二度と帰らぬ南の海に向かって行った。



海に突き出たコンクリートむき出しの建物は今は青い海と青い空真ん中で
墓標として当時の姿を残している。

回天記念館で生き残った隊員のビデオを見る事ができた。
氏曰く「私は趣味で釣りをやっています。そしていつも海に手をつけます。
すると散っていった仲間と交わる事が出来るんです」
戦争は残った者にも大きな傷をもたらしている。

当時の兵舎や整備場は今はふれあいセンターや小学校になっている。
きっといろいろな思いが募る場所であるはずであるが
記念館への続く道から覗いてみるとこんなメッセージが書いてあった。



あー、ちゃんと前を向いて歩んでいるんだ、そう思った。

私が住んでいる北九州ではちょっと珍しいミンミンゼミが鳴いている。
きっとあの日も変わらずセミが鳴いていてのだろう。
そしてこれからも変わらず夏がくる。
そして時は少しづつ動いている。