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バイク乗りのちょっと寄り道、思った事…

出口のない海 特攻の島 そして回天の島

2014-08-21 19:25:07 | 戦争遺産


ここは山口県周南市と言うよりは徳山沖と言った方が解かりやすい。
実際連絡船も徳山駅のすぐ裏から出航していて
大津島馬島港までフェリーで44分、高速船なら18分の距離なので
徳山港からも肉眼で確認する事ができる程の近さだ。
瀬戸内海の穏やかなはずの海は不安定な低気圧の動きのせいで白波が立ち
前日からの大雨は広島市に甚大な被害をもたらしたが
今は青空が広がり飛行機雲が2本3本と見る事ができ
遅れてやってきた夏空が広がっていた。

多少揺れたが予定どおり馬島港に到着。
すぐに目に付く大きな看板には“回天の島”と書いてあった。
そう、回天とは今更説明の必要も無いと思うが
旧日本海軍の九三式酸素魚雷の中央部に操縦席をつけ
先端部には1.55tもの爆薬を積んだ帰還する事が許されない特攻兵器である。
その4つあった回天の基地のひとつがここ大津島にあり
唯一その施設の一部が残り、また回天と共に海に眠る145名の資料が残る記念館がある。

なぜ回天を開発し、その使命を若者達が受け入れていったのかは
映画として“出口のない海”コミックとしては“特攻の島”をご覧頂きたい。
ただこの時代の出兵した若者は死ありきなので
いかに誇れる死に方が出来るかしか考えてなかったのだ。
一撃で大型艦船を沈める事が出来る、まさに軍神になる道しかなかったのだ。
ただ飛行機乗りとして海軍に入隊した若者にはもうまともに飛べる飛行機など数える程しかなく
海でしか居場所がなかったのは不憫にしか思えなかった。



もとは魚雷発射試験場だった建物である。
九三式酸素魚雷は圧縮酸素を利用しているので曳航が発見され難い高性能の魚雷だったが
その魚雷を実験していたのでこの場所がそのまま回天の基地になったのだ。
整備場からトロッコに乗せた回天は海岸線のトンネルを抜けてここから海に下ろされる。
厳しい訓練を続け、そして潜水艦の上部に固定されて二度と帰らぬ南の海に向かって行った。



海に突き出たコンクリートむき出しの建物は今は青い海と青い空真ん中で
墓標として当時の姿を残している。

回天記念館で生き残った隊員のビデオを見る事ができた。
氏曰く「私は趣味で釣りをやっています。そしていつも海に手をつけます。
すると散っていった仲間と交わる事が出来るんです」
戦争は残った者にも大きな傷をもたらしている。

当時の兵舎や整備場は今はふれあいセンターや小学校になっている。
きっといろいろな思いが募る場所であるはずであるが
記念館への続く道から覗いてみるとこんなメッセージが書いてあった。



あー、ちゃんと前を向いて歩んでいるんだ、そう思った。

私が住んでいる北九州ではちょっと珍しいミンミンゼミが鳴いている。
きっとあの日も変わらずセミが鳴いていてのだろう。
そしてこれからも変わらず夏がくる。
そして時は少しづつ動いている。