「ドクトル・ジバゴ」 1965年 アメリカ / イタリア
監督 デヴィッド・リーン
出演 オマー・シャリフ
ジュリー・クリスティ
トム・コートネイ
アレック・ギネス
ジェラルディン・チャップリン
リタ・トゥシンハム
ストーリー
19世紀末のロシア。ユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)は、医学の勉強を続けるかたわら詩人としても知られるようになった。
科学者グロメーコにひきとられていた彼は、その家の娘トーニャ(ジェラルディン・チャップリン)を愛していた。
2人の婚約発表のパーティーの日、近所の仕立屋の娘ラーラ(ジュリー・クリスティー)は、弁護士コマロフスキーの誘惑から逃れるため、彼に発砲するという事件を起こした。
彼女は帝政打倒の革命に情熱をもやす学生パーシャ(トム・コートネイ)を愛していた。
1914年、ロシアは第1次大戦に突入し、ジバゴは医師として従軍した。
戦場で看護婦として働らくラーラに再会した彼は、彼女がすでにパーシャと結婚したのを知り、自分もまた家庭を持っていたが、ラーラへの愛をどうすることもできなかった。
それにパーシャは戦死したとの報告も入っていた。
その頃ロシアは内戦が激しくなり、ジバゴはモスクワの家族のもとへ帰った。
ジバゴが革命軍のリーダーで、義兄のエフグラフ(アレック・ギネス)に初めて会ったのはその頃だった。
義兄の勧めもあって、田舎で休養することにした彼は、旅の途中で白軍のスパイと間違えられ、赤軍の将校に尋問されたのだが、この将校は、戦死と報じられていたパーシャだった。
ラーラとの愛も再燃したがある日突然、彼はパルチザンの1隊にとらえられた。
妻に2人目の子供が生まれると知り、ラーラと別れる決心をした直後のことだった。
寸評
この映画が撮影された頃は東西冷戦下にあったので西側諸国のロシアでの撮影は出来ない中にあって、スペインでのロケとセット撮影がロシアの雰囲気を出していて素晴らしい。
建物も含め雪景色の映像に一番感動するするのだが、逆に言えば肝心の内容に一抹の不満が残る作品だ。
3時間以上におよぶ長尺ながら登場してくる人の人物像が描き切れていなかった。
17歳の少女ラーラは洋品店を営む母と暮していたが、母はコマロフスキーの愛人でもあったのだろう。
コマロフスキーは若くて魅力的なラーラに手を出し、それを疑った母は服毒自殺未遂を起こす。
当然ラーラと母親のアメリアとの間には自殺未遂を起こすだけの一悶着があってしかるべきなのだが、それは全く描かれていないので親子の気持ちはどうだったのか不明である。
命を取り留めたアメリアがその後どうなったのかは分からない。
ラーラにはパーシャという結婚を誓った男性がいたが、まったくコマロフスキーを拒んでいる風にも見えない。
しかし、コマロフスキーに強姦されたラーラはクリスマスパーティーの会場でコマロフスキーに発砲し、駆けつけたパーシャと共にその場を逃れた後、二人は結婚して子供が生まれている。
パーシャはラーラよりも革命運動に身を投じていくのだが、この間の経緯も全く分からず結果だけが観客に知らされているような気持ちになる。
一つ一つのシーンには魅せられるものがあのだが、僕はなんだか物語のあらすじを読み聞かされているような感覚になった。
ジバゴは妻のトーニヤを愛しており、養父や幼い息子を交えた一家は幸せそうだが、一方でジバゴはラーラも愛しており愛人関係を続けている。
一体このジバゴという男の本心はどこにあるのだろうと思う。
二人を同時に愛していたのだろうか。
ラーラは妻の存在を理解しており、トーニャもラーラとの関係を感じているようなのだが、三人の中に生じる不毛な愛は描かれているとは言い難い。
悲恋物語でもあるのだが、ラーラとの別れの場面でジバゴが二階に駆け上がって窓ガラスを割り、その先の大雪原に消えるラーラを悲しく見つめる姿に感動を覚えなかった。
僕は見ているうちに、これは反ソビエト映画なのかと思ったことを思い出す。
革命がおこりジバゴたちが自分たちが住んでいたグロメーコ家の屋敷に戻ると、共産主義者に占拠されていて平等の名のもとに共同生活を強いられ、薪ですら配当制で、さらに家の私有物まで没収されそうになる。
なんてひどい連中だと思うし、レーニンやスターリンもひどい指導者に見えてくる。
初見の時にソ連ってこんなにひどい事をして出来上がった国なんだと言っているように思えたことを思い出す。
デヴィッド・リーンは「戦場にかける橋」や「アラビアのロレンス」など重厚な大作に力を発揮した監督だと思うのだが、この「ドクトル・ジバゴ」は大作の割には中身が薄い。
両作品にあった歴史の流れの中で破滅に向かっていく男の悲劇のようなものがないように思う。
ただし、美術は素晴らしいし、一つ一つのシーンは丁寧で、序曲、間奏曲が入る作りもノスタルジーを感じさせる。
監督 デヴィッド・リーン
出演 オマー・シャリフ
ジュリー・クリスティ
トム・コートネイ
アレック・ギネス
ジェラルディン・チャップリン
リタ・トゥシンハム
ストーリー
19世紀末のロシア。ユーリー・ジバゴ(オマー・シャリフ)は、医学の勉強を続けるかたわら詩人としても知られるようになった。
科学者グロメーコにひきとられていた彼は、その家の娘トーニャ(ジェラルディン・チャップリン)を愛していた。
2人の婚約発表のパーティーの日、近所の仕立屋の娘ラーラ(ジュリー・クリスティー)は、弁護士コマロフスキーの誘惑から逃れるため、彼に発砲するという事件を起こした。
彼女は帝政打倒の革命に情熱をもやす学生パーシャ(トム・コートネイ)を愛していた。
1914年、ロシアは第1次大戦に突入し、ジバゴは医師として従軍した。
戦場で看護婦として働らくラーラに再会した彼は、彼女がすでにパーシャと結婚したのを知り、自分もまた家庭を持っていたが、ラーラへの愛をどうすることもできなかった。
それにパーシャは戦死したとの報告も入っていた。
その頃ロシアは内戦が激しくなり、ジバゴはモスクワの家族のもとへ帰った。
ジバゴが革命軍のリーダーで、義兄のエフグラフ(アレック・ギネス)に初めて会ったのはその頃だった。
義兄の勧めもあって、田舎で休養することにした彼は、旅の途中で白軍のスパイと間違えられ、赤軍の将校に尋問されたのだが、この将校は、戦死と報じられていたパーシャだった。
ラーラとの愛も再燃したがある日突然、彼はパルチザンの1隊にとらえられた。
妻に2人目の子供が生まれると知り、ラーラと別れる決心をした直後のことだった。
寸評
この映画が撮影された頃は東西冷戦下にあったので西側諸国のロシアでの撮影は出来ない中にあって、スペインでのロケとセット撮影がロシアの雰囲気を出していて素晴らしい。
建物も含め雪景色の映像に一番感動するするのだが、逆に言えば肝心の内容に一抹の不満が残る作品だ。
3時間以上におよぶ長尺ながら登場してくる人の人物像が描き切れていなかった。
17歳の少女ラーラは洋品店を営む母と暮していたが、母はコマロフスキーの愛人でもあったのだろう。
コマロフスキーは若くて魅力的なラーラに手を出し、それを疑った母は服毒自殺未遂を起こす。
当然ラーラと母親のアメリアとの間には自殺未遂を起こすだけの一悶着があってしかるべきなのだが、それは全く描かれていないので親子の気持ちはどうだったのか不明である。
命を取り留めたアメリアがその後どうなったのかは分からない。
ラーラにはパーシャという結婚を誓った男性がいたが、まったくコマロフスキーを拒んでいる風にも見えない。
しかし、コマロフスキーに強姦されたラーラはクリスマスパーティーの会場でコマロフスキーに発砲し、駆けつけたパーシャと共にその場を逃れた後、二人は結婚して子供が生まれている。
パーシャはラーラよりも革命運動に身を投じていくのだが、この間の経緯も全く分からず結果だけが観客に知らされているような気持ちになる。
一つ一つのシーンには魅せられるものがあのだが、僕はなんだか物語のあらすじを読み聞かされているような感覚になった。
ジバゴは妻のトーニヤを愛しており、養父や幼い息子を交えた一家は幸せそうだが、一方でジバゴはラーラも愛しており愛人関係を続けている。
一体このジバゴという男の本心はどこにあるのだろうと思う。
二人を同時に愛していたのだろうか。
ラーラは妻の存在を理解しており、トーニャもラーラとの関係を感じているようなのだが、三人の中に生じる不毛な愛は描かれているとは言い難い。
悲恋物語でもあるのだが、ラーラとの別れの場面でジバゴが二階に駆け上がって窓ガラスを割り、その先の大雪原に消えるラーラを悲しく見つめる姿に感動を覚えなかった。
僕は見ているうちに、これは反ソビエト映画なのかと思ったことを思い出す。
革命がおこりジバゴたちが自分たちが住んでいたグロメーコ家の屋敷に戻ると、共産主義者に占拠されていて平等の名のもとに共同生活を強いられ、薪ですら配当制で、さらに家の私有物まで没収されそうになる。
なんてひどい連中だと思うし、レーニンやスターリンもひどい指導者に見えてくる。
初見の時にソ連ってこんなにひどい事をして出来上がった国なんだと言っているように思えたことを思い出す。
デヴィッド・リーンは「戦場にかける橋」や「アラビアのロレンス」など重厚な大作に力を発揮した監督だと思うのだが、この「ドクトル・ジバゴ」は大作の割には中身が薄い。
両作品にあった歴史の流れの中で破滅に向かっていく男の悲劇のようなものがないように思う。
ただし、美術は素晴らしいし、一つ一つのシーンは丁寧で、序曲、間奏曲が入る作りもノスタルジーを感じさせる。
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