「大人が見る絵本 生れてはみたけれど」 1932年 日本
監督 小津安二郎
出演 斎藤達雄 吉川満子 菅原秀雄 突貫小僧
坂本武 早見照代 加藤清一 小藤田正一
西村青児 飯島善太郎 藤松正太郎
ストーリー
餓鬼大将、良一、啓二の兄弟のお父さんはサラリーマン。
重役の岩崎の近くに引っ越して出世のチャンスをうかがっているが、兄弟の前では厳格そのもの。
引っ越すなりすぐにご機嫌伺いの挨拶へ行き、岩崎の息子・太郎にまで気を使う。
その太郎は子分を引き連れて原っぱへ行き、吉井の子供・啓二が1人で遊んでいるのを見て喧嘩を仕掛ける。
泣いて帰った啓二の仇を取りに兄の良一が原っぱに出かけ、太郎と取っ組み合いになるが、父親の吉井が来たため争いは中断し、そのまま兄弟は吉井と帰宅した。
翌朝、吉井は会社からの帰り道で息子たちの教師に会い、学校をサボっていることを知らされる。
叱りつけられて2人は事情を説明するが、父親はただ「ちゃんと学校へゆけ」と言うばかり。
2人は作戦を立て、親しくなった酒屋の御用聞きにいじめっ子をやっつけてもらう。
兄弟はたちまち太郎の優位に立ち、彼を子分のように扱う。
やがて、岩崎の家でホームムービーの上映会が行われることになり、吉井も呼ばれた。
良一と啓二も太郎の誘いで上映を見ることになったが、そのフィルムで父親が道化者を演じているのを見て、兄弟はショックを受ける。
上映会の途中で帰宅し、不貞腐れているところへ父親が帰ってきた。
「お父ちゃんはちっとも偉くないんだね。なんで太郎ちゃんのお父ちゃんにあんなに頭を下げるの?」と問いかけると、吉井は激怒。
納得がゆかない兄弟は翌日ハンガーストライキを決行するが、空腹には勝てず、またご飯を食べ始める。
それから父親と兄弟は会社と学校に。
たまたま岩崎を見かけたため、兄弟は父親に対して「挨拶してきなよ」と促した。
寸評
僕が今見ることができる作品は後から音声を入れ込んだもののように思われるが、ビデオを無音にして見ても面白さは伝わってくるすぐれた作品だと思う。
子供の素直な視点から、肩書きに振り回されるサラリーマン社会の悲哀をユーモアを織り交ぜて描いている。
フェードイン、フェードアウトを使わずカットのつなぎで場面が展開されていくのは小津作品の特徴でもある。
前半は子供たちのユーモラスな描写が続く。
良一、啓二の兄弟が父親が務める会社の専務の家の近くに引っ越してくる。
兄弟も腕白だが、引っ越し先には引っ越し先の子供たちの世界がある。
金持ちの家の子として太郎が羽振りを利かしているが、ガキ大将は体の大きい亀吉である。
二人はガキ大将グループと喧嘩になるが、いつも多勢に無勢で負けてしまう。
誰が大将なのかを示すのが、変な呪文によって子分とも言える子供を倒す仕草だ。
ガキ大将に従っている子供たちは、亀吉から呪文をかけられると倒れなければならない。
そして再び亀吉の呪文によって起き上がるという子供らしい遊びだ。
しかし、そこには子供の世界における序列が存在しているのである。
いつもやっつけられている二人は親しくなった酒屋の小僧に助っ人を頼み、亀吉をこっぴどくやっつけてもらう。
太郎もやっつけてくれと頼むが、小僧は大得意の家の子供だからと何もせずに去っていく。
金が支配している世の中への批判を子供を通じて行っている。
ガキ大将の地位が入れ替わって良一と啓二たちがグループを率いることになる。
先ほどの呪文が良一と啓二によって行われるようになり、その事を通じて子供の世界におけるトップ交代が示されるのが愉快である。
後半は父親をなじり大人の世界を告発する子供のシリアスなシーンへと一転する。
父親は子供たちには厳格だが、会社では専務にゴマをすっている男と見られているようである。
引っ越しを手伝いに来ている部下と思われる社員の会話や、吉井が専務に呼ばれていなくなった社内では、吉井を誹謗中傷する会話がなされている。
上司の家の近くに引っ越しするのはどうかと思うが、上司に気を遣うのはサラリーマンなら当然の行いであろう。
出世欲に駆られたものでなくても、それが目上の者に対する礼儀と言うものだ。
企業戦士として働く父親は、子供たちから見れば頼もしく見えることも有るだろうが、一方で上下関係から生じる父親の態度を卑屈と思うのもまた子供ならではの感情だろう。
専務の家で映写会が開かれるが、フィルムに映っている父親の姿は子供たちからすれば屈辱的だ。
しかし父親は家庭を支えるためには出世して家庭を裕福にしなければならない。
子供たちによって大人の世界が告発されているが、それでも男たちは頑張っているのだ。
サラリーマンをリタイアした僕は、お父さん頑張れとエールを送りたくなった。
登場人物たちには子供たちから大人に至るまで細かい仕草を要求し、実に丁寧な描写がなされている。
その躍動する画面はサイレントであることを忘れるほどである。
サイレント時代にこれだけ上質の作品が撮られていたとは驚きである。
この時、小津は20才台後半であろうが、やはり彼はただ者ではなかったのだ。
監督 小津安二郎
出演 斎藤達雄 吉川満子 菅原秀雄 突貫小僧
坂本武 早見照代 加藤清一 小藤田正一
西村青児 飯島善太郎 藤松正太郎
ストーリー
餓鬼大将、良一、啓二の兄弟のお父さんはサラリーマン。
重役の岩崎の近くに引っ越して出世のチャンスをうかがっているが、兄弟の前では厳格そのもの。
引っ越すなりすぐにご機嫌伺いの挨拶へ行き、岩崎の息子・太郎にまで気を使う。
その太郎は子分を引き連れて原っぱへ行き、吉井の子供・啓二が1人で遊んでいるのを見て喧嘩を仕掛ける。
泣いて帰った啓二の仇を取りに兄の良一が原っぱに出かけ、太郎と取っ組み合いになるが、父親の吉井が来たため争いは中断し、そのまま兄弟は吉井と帰宅した。
翌朝、吉井は会社からの帰り道で息子たちの教師に会い、学校をサボっていることを知らされる。
叱りつけられて2人は事情を説明するが、父親はただ「ちゃんと学校へゆけ」と言うばかり。
2人は作戦を立て、親しくなった酒屋の御用聞きにいじめっ子をやっつけてもらう。
兄弟はたちまち太郎の優位に立ち、彼を子分のように扱う。
やがて、岩崎の家でホームムービーの上映会が行われることになり、吉井も呼ばれた。
良一と啓二も太郎の誘いで上映を見ることになったが、そのフィルムで父親が道化者を演じているのを見て、兄弟はショックを受ける。
上映会の途中で帰宅し、不貞腐れているところへ父親が帰ってきた。
「お父ちゃんはちっとも偉くないんだね。なんで太郎ちゃんのお父ちゃんにあんなに頭を下げるの?」と問いかけると、吉井は激怒。
納得がゆかない兄弟は翌日ハンガーストライキを決行するが、空腹には勝てず、またご飯を食べ始める。
それから父親と兄弟は会社と学校に。
たまたま岩崎を見かけたため、兄弟は父親に対して「挨拶してきなよ」と促した。
寸評
僕が今見ることができる作品は後から音声を入れ込んだもののように思われるが、ビデオを無音にして見ても面白さは伝わってくるすぐれた作品だと思う。
子供の素直な視点から、肩書きに振り回されるサラリーマン社会の悲哀をユーモアを織り交ぜて描いている。
フェードイン、フェードアウトを使わずカットのつなぎで場面が展開されていくのは小津作品の特徴でもある。
前半は子供たちのユーモラスな描写が続く。
良一、啓二の兄弟が父親が務める会社の専務の家の近くに引っ越してくる。
兄弟も腕白だが、引っ越し先には引っ越し先の子供たちの世界がある。
金持ちの家の子として太郎が羽振りを利かしているが、ガキ大将は体の大きい亀吉である。
二人はガキ大将グループと喧嘩になるが、いつも多勢に無勢で負けてしまう。
誰が大将なのかを示すのが、変な呪文によって子分とも言える子供を倒す仕草だ。
ガキ大将に従っている子供たちは、亀吉から呪文をかけられると倒れなければならない。
そして再び亀吉の呪文によって起き上がるという子供らしい遊びだ。
しかし、そこには子供の世界における序列が存在しているのである。
いつもやっつけられている二人は親しくなった酒屋の小僧に助っ人を頼み、亀吉をこっぴどくやっつけてもらう。
太郎もやっつけてくれと頼むが、小僧は大得意の家の子供だからと何もせずに去っていく。
金が支配している世の中への批判を子供を通じて行っている。
ガキ大将の地位が入れ替わって良一と啓二たちがグループを率いることになる。
先ほどの呪文が良一と啓二によって行われるようになり、その事を通じて子供の世界におけるトップ交代が示されるのが愉快である。
後半は父親をなじり大人の世界を告発する子供のシリアスなシーンへと一転する。
父親は子供たちには厳格だが、会社では専務にゴマをすっている男と見られているようである。
引っ越しを手伝いに来ている部下と思われる社員の会話や、吉井が専務に呼ばれていなくなった社内では、吉井を誹謗中傷する会話がなされている。
上司の家の近くに引っ越しするのはどうかと思うが、上司に気を遣うのはサラリーマンなら当然の行いであろう。
出世欲に駆られたものでなくても、それが目上の者に対する礼儀と言うものだ。
企業戦士として働く父親は、子供たちから見れば頼もしく見えることも有るだろうが、一方で上下関係から生じる父親の態度を卑屈と思うのもまた子供ならではの感情だろう。
専務の家で映写会が開かれるが、フィルムに映っている父親の姿は子供たちからすれば屈辱的だ。
しかし父親は家庭を支えるためには出世して家庭を裕福にしなければならない。
子供たちによって大人の世界が告発されているが、それでも男たちは頑張っているのだ。
サラリーマンをリタイアした僕は、お父さん頑張れとエールを送りたくなった。
登場人物たちには子供たちから大人に至るまで細かい仕草を要求し、実に丁寧な描写がなされている。
その躍動する画面はサイレントであることを忘れるほどである。
サイレント時代にこれだけ上質の作品が撮られていたとは驚きである。
この時、小津は20才台後半であろうが、やはり彼はただ者ではなかったのだ。
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