「ライムライト」 1952年 アメリカ
監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
クレア・ブルーム
ナイジェル・ブルース
バスター・キートン
シドニー・チャップリン
ノーマン・ロイド
ストーリー
第一次大戦前のロンドン、カルヴェロはミュージック・ホールの道化師で、かつてはイギリス最大の芸風を謳われたが、中年をすぎた今はすっかり落ちぶれてしまった。
ある日、彼が酔ってアパートに帰ってみると、美しい女が自殺を企てて意識不明になって倒れていた。
カルヴェロは大急ぎで医者を呼び彼女を手当てしたので幸い息を吹きかえした。
彼はその女がすっかり回復するまで自室におくことにした。
女はテリーというバレエの踊り子で、もう踊ることも歩くことも出来ないといい、生きる希望を全く失っていた。
カルヴェロは彼女を励まし、生きるために闘わなければいけないと力説した。
しかしカルヴェロが舞台にカムバックしようとして失敗したとき、テリーは再び歩くことが出来るようになり、かえってカルヴェロの失敗をはげますのだった。
テリーは有名なエンパイア劇場にバレエ・ダンサーの職を得た。
そして半年もたたぬうちに座主と監督に認められて、新作バレエの第一ダンサーになることが出来た。
そのバレエは若い作曲家ネヴィルの作で、バレエもテリーも大好評を博した。
ネヴィルはテリーに全く惚れ込んでしまったが、彼女は完全にカルヴェロに傾倒しており、彼に愛を打明けて結婚しようといいだした。
しかし、カルヴェロは2人の齢の差や、自分が下り坂であるのにテリーはいまこそ順境にあることを説いて、2人の結婚など馬鹿げたことだといい、彼女のもとを離れて辻音楽師に落ちぶれて行った。
寸評
映画のクレジット・タイトルに次いで「ライムライトの魔力が――年老いた者は若者が現れたときそこから退かねばならない」の文字が表示される。
ライムライトというのは電球が発明される前に舞台照明などに使われていた器具のことで、石灰灯とも言う。
映画のタイトルとしては、古き時代の「舞台」の象徴であり、ひいてはチャップリン自身の象徴ともとれる。
描かれているカルヴェロはチャップリンが自身を投影しているのではないかと感じるのだ。
カルヴェロは往年のスター道化役者で、今は歳をとって人気も落ち目で芸も人々の支持を得ていない。
サイレント時代のスーパー・スターだったチャップリンだが、時代はトーキーのスターを求めていたのだと思う。
僕が映画に触れ始めた時にはサイレント映画は上映されていなかった。
これは僕の想像ではあるのだが、チャップリンは押し寄せるトーキーの波を感じていて、自分の時代が終わろうとしていることを感じていたのかもしれない。
しかし誇りと自信は健在で、時代の変化や老いに逆らえない芸人を描きながらも、希望を捨てない人生を歌い上げている。
カルヴェロは自殺未遂を行った若い女性ダンサーのテリーを励まし続ける。
久しぶりに演じた舞台で観客に立ち去られ落ち込むカルヴェロを、今度はテリーが励ます。
老人のカルヴェロと若いテリーが前後して励まし合う展開がくすぐったい。
テリーは恋愛経験を問われ、若い作曲家ネヴィルのことを話すが、僕はこのネヴィルの立場にフラストレーションを感じた。
テリーは本当にカルヴェロを愛していたのだろうか。
本当はネヴィルを愛するようになっていたのに、ネヴィルが言うようにカルヴェロへの同情とか感謝の気持ちを勘違いしていたのではないか。
テリーとネヴィルの関係は、今はどうなっているのかなどの疑問が頭の中を駆け巡った。
ファーストシーンはテリーのガス自殺の場面なのだが、酔っぱらって帰ってきたカルヴェロが発見する前に、ウンチでも踏んだのかと思われる様子を見せながら自分の靴の裏を確かめたりする。
それがパントマイムで演じられているのだが、実はガスが漏れていて異臭を感じ取っていたのだと後々に分かるという演出がなされている。
チャップリンはこのような些細な仕草を絶妙のユーモアで取り入れていることが多く、彼の神髄を見る思いである。
この映画では劇中劇とも言えるシーンが長いように感じる。
バレエシーンもそうだが、特にカルヴェロが演じる舞台のシーンが長い。
歌、踊り、パントマイムと、芸人・チャップリンの全てを見せるパフォーマンスとなっている。
彼は自分を葬るように、幸福をかみしめながら眠ったように死んでいく。
この演出が、自分の総てを披露してスクリーンから去ろうとしていたのではないかと思わせるのだ。
トルーマン政権によってアメリカから追放されたことを思うと、あらぬ想像をしてしまう。
ラストシーンはいつもながら上手いね。
監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
クレア・ブルーム
ナイジェル・ブルース
バスター・キートン
シドニー・チャップリン
ノーマン・ロイド
ストーリー
第一次大戦前のロンドン、カルヴェロはミュージック・ホールの道化師で、かつてはイギリス最大の芸風を謳われたが、中年をすぎた今はすっかり落ちぶれてしまった。
ある日、彼が酔ってアパートに帰ってみると、美しい女が自殺を企てて意識不明になって倒れていた。
カルヴェロは大急ぎで医者を呼び彼女を手当てしたので幸い息を吹きかえした。
彼はその女がすっかり回復するまで自室におくことにした。
女はテリーというバレエの踊り子で、もう踊ることも歩くことも出来ないといい、生きる希望を全く失っていた。
カルヴェロは彼女を励まし、生きるために闘わなければいけないと力説した。
しかしカルヴェロが舞台にカムバックしようとして失敗したとき、テリーは再び歩くことが出来るようになり、かえってカルヴェロの失敗をはげますのだった。
テリーは有名なエンパイア劇場にバレエ・ダンサーの職を得た。
そして半年もたたぬうちに座主と監督に認められて、新作バレエの第一ダンサーになることが出来た。
そのバレエは若い作曲家ネヴィルの作で、バレエもテリーも大好評を博した。
ネヴィルはテリーに全く惚れ込んでしまったが、彼女は完全にカルヴェロに傾倒しており、彼に愛を打明けて結婚しようといいだした。
しかし、カルヴェロは2人の齢の差や、自分が下り坂であるのにテリーはいまこそ順境にあることを説いて、2人の結婚など馬鹿げたことだといい、彼女のもとを離れて辻音楽師に落ちぶれて行った。
寸評
映画のクレジット・タイトルに次いで「ライムライトの魔力が――年老いた者は若者が現れたときそこから退かねばならない」の文字が表示される。
ライムライトというのは電球が発明される前に舞台照明などに使われていた器具のことで、石灰灯とも言う。
映画のタイトルとしては、古き時代の「舞台」の象徴であり、ひいてはチャップリン自身の象徴ともとれる。
描かれているカルヴェロはチャップリンが自身を投影しているのではないかと感じるのだ。
カルヴェロは往年のスター道化役者で、今は歳をとって人気も落ち目で芸も人々の支持を得ていない。
サイレント時代のスーパー・スターだったチャップリンだが、時代はトーキーのスターを求めていたのだと思う。
僕が映画に触れ始めた時にはサイレント映画は上映されていなかった。
これは僕の想像ではあるのだが、チャップリンは押し寄せるトーキーの波を感じていて、自分の時代が終わろうとしていることを感じていたのかもしれない。
しかし誇りと自信は健在で、時代の変化や老いに逆らえない芸人を描きながらも、希望を捨てない人生を歌い上げている。
カルヴェロは自殺未遂を行った若い女性ダンサーのテリーを励まし続ける。
久しぶりに演じた舞台で観客に立ち去られ落ち込むカルヴェロを、今度はテリーが励ます。
老人のカルヴェロと若いテリーが前後して励まし合う展開がくすぐったい。
テリーは恋愛経験を問われ、若い作曲家ネヴィルのことを話すが、僕はこのネヴィルの立場にフラストレーションを感じた。
テリーは本当にカルヴェロを愛していたのだろうか。
本当はネヴィルを愛するようになっていたのに、ネヴィルが言うようにカルヴェロへの同情とか感謝の気持ちを勘違いしていたのではないか。
テリーとネヴィルの関係は、今はどうなっているのかなどの疑問が頭の中を駆け巡った。
ファーストシーンはテリーのガス自殺の場面なのだが、酔っぱらって帰ってきたカルヴェロが発見する前に、ウンチでも踏んだのかと思われる様子を見せながら自分の靴の裏を確かめたりする。
それがパントマイムで演じられているのだが、実はガスが漏れていて異臭を感じ取っていたのだと後々に分かるという演出がなされている。
チャップリンはこのような些細な仕草を絶妙のユーモアで取り入れていることが多く、彼の神髄を見る思いである。
この映画では劇中劇とも言えるシーンが長いように感じる。
バレエシーンもそうだが、特にカルヴェロが演じる舞台のシーンが長い。
歌、踊り、パントマイムと、芸人・チャップリンの全てを見せるパフォーマンスとなっている。
彼は自分を葬るように、幸福をかみしめながら眠ったように死んでいく。
この演出が、自分の総てを披露してスクリーンから去ろうとしていたのではないかと思わせるのだ。
トルーマン政権によってアメリカから追放されたことを思うと、あらぬ想像をしてしまう。
ラストシーンはいつもながら上手いね。
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