ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

ウクライナと汚い爆弾

2022-10-26 10:17:53 | 日記
ウクライナが「汚い爆弾」を使用する可能性があるという。「汚い爆弾」とは、「放射性物質拡散装置」(RDD)の一種で、ダイナマイトなどの爆発物に放射性物質を組み合わせ、爆発の威力で放射性物質をまき散らす装置である。

このことを伝える記事がきのうの朝日新聞(朝刊)に載っていたが、ネット上のニュースサイト「dmenuニュース」にも同様の記事が配信されていた。この記事は次のように伝えている。

ロシア国防省は24日、ウクライナが「挑発行為」を行う恐れがあるため、ロシア軍は放射能汚染の中でも活動できるよう準備したと発表した。
ロシアはウクライナが放射性物質をまき散らすことを目的とした「汚い爆弾」を爆発させる恐れがあると主張。ウクライナはこれを強く否定している。


この記事にあるように、ウクライナのゼレンスキー大統領はこれをロシアの虚偽情報だとして、「汚い爆弾」を使用する意図を否定し、ここにはロシアが「汚い爆弾」を自ら使った際に、ウクライナ側に責任を押しつける底意があるのだと主張している。
英米仏も、核の脅しを続けるロシアが、「汚い爆弾」を口実に戦争のエスカレーションをはかろうとしていると非難している。

要するに、「ウクライナは『汚い爆弾』を使おうとしている」という情報は、ロシアがプロパガンダのためにまき散らした虚偽情報だというわけで、「ウクライナは白、ロシアは黒」というお定まりの認識の構図がここにも示されている。

だが、こうした(黒白の)決めつけそのものが、ウクライナ側によって捏造された虚偽情報だとしたら、どうだろう。ロシア側が主張するように、ウクライナ側が「汚い爆弾」を使おうとしているのだとしたら、どうだろう。

戦争とは「何でもあり」の生死をかけた生存の修羅場であり、現代では、情報は敵を撃滅する有力な武器になる。ウクライナのゼレンスキー大統領は、敵を陥れるために巧妙に情報を操作するスキルの点で、ロシアのプーチン大統領より一枚も二枚も上手であるように私には思える。コメディアンの経歴を持つこの人物は、良い意味でも悪い意味でも「食わせ者」であるように思えるのだ。
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旧統一教会の問題

2022-10-25 11:00:24 | 日記
先日に続いて「旧統一教会」の問題について考えてみよう。まず頭に入れなければならないのは、教祖・教団と信者との間の圧倒的に非対称的な関係である。この関係はアイドルと追っかけの関係に似て、追っかけの側に過剰な無理を要求する。追っかけたちは涙ぐましい献身的な眼差しをアイドルに注ぎ、「あなたのためならたとえ火の中、水の中」と訴えて、アイドルの気を引こうとする。

ここまでは良い。追っかけの側の献身の姿勢は言ってみれば自発的な行為であり、彼らはこの行為に自ら納得している。

しかし、しかしである。アイドルの側がこの構造を利用して、自分の思い通りに追っかけたちを操ろうとしたら・・・「あたし、エルメスのバーキンが欲しいんだけどなあ」などと、追っかけたちに言い始めたとしたら・・・。

日刊ゲンダイの記事によれば、(旧統一教会の下部組織である)早稲田大学原理研究会の、その委員長だった人物は次のように訴えている。
「安倍元首相の暗殺事件以降、私たちが人生をかけた教団は存亡の危機にある。生き残るためには、日本の教団が自主独立性を確保し、韓国の本部からの送金要請を断る以外にはない。最近、勅使河原秀行改革推進本部長が『献金が生活を害するような過度なものになってはならない』と表明した。その取り組みに多少の期待はするが、韓国への送金をやめない限り、問題は解決しない。」
(10月21日配信《元早大原研委員長の訴え「日本の教団が韓国の本部から独立し、送金をやめる以外にない」》)

この記事から読みとれるのは、韓国の教団本部が日本の教団に送金を強要しており、それによって(霊感商法などの)「問題」が生じた。そのため日本の教団は存亡の危機に立たされた、という事実である。韓国の教団本部の送金要求によって「献金が生活を害するような過度なものになった」ために、安倍元首相の暗殺事件が引き起こされ、日本の教団が存亡の危機に立たされた、という事実である。

信教の自由は尊重されねばないが、信者の弱みにつけこもうとするこうした教団本部の姿勢は問題だと言わなければならない。選挙に勝ち残るため、このような教団と手を結んだ自民党の態度も問題だと言えるだろう。
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息子が来宅

2022-10-24 13:46:28 | 日記
東京に住む息子がきのう我が家にやってきた。連れ合いも一緒である。息子にしても、その連れ合いにしても、ふだんは滅多に(親が住む)我が家に寄り付かないのに、私の退院を祝ってだという。いやはや殊勝なことだ。

入院中はコロナ感染予防のため、病室への家族の立ち入りや面会が厳しく制限されていたから、私が入院してから久方ぶりの、これが初めての親子のご対面になる。息子の連れ合いは、実家の父親名義の「退院お祝い」の菓子折りを携えていた。

それにしても、ふだん寄り付かない息子やその連れ合いまで我が家に呼び寄せてしまう、この私の吸引力の源泉は一体何なのだろう。4ヶ月ぶりの退院、魔の病院からの脱出は私にとってはしごく喜ばしいことであり、紛れもなく慶事なのだが、息子やその連れ合いにとってはおそらくそうではあるまい。彼らはたぶんお義理から、あるいはお葬式にでも参列するような儀式張った気持ちで、我が家に姿を見せたに違いない。そう思ってしまうのは下種の勘ぐりだろうか。

長時間、車椅子に座っていたせいか、一夜が明けたきょうはお尻の尾てい骨が痛む。そういえば、きょう月曜日は訪問看護のおばさんたちが来て、シャワーの介助とストーマ・パウチの交換をやってくれる日だった。私は何も考えず、無我の境地でただなされるがまま、介護の流れに身を任せていればよいのだが、ひどく厄介に思える。老齢を生きるとは、きっとそういうことなのだろう。
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救済と宗教

2022-10-23 10:52:33 | 日記

世の中には「宗教的」な人間がいる。メンタルな悩みや苦しみや不安を、宗教的な救いに求めようとする人たちである。私自身にはそうした宗教的感性はないが、そういう悩める衆生が少なくないこと、――これは理解できる。イエスや、法然、親鸞が独自の教えを説いて回っていた昔、彼らのまわりに集まり、熱心に耳を傾けたのは、そういう悩み多き衆生だったに違いない。

時を経て、仏教が「葬式仏教」に成り下がった今では、「迷える小羊たち」の心の悩みに向き合い、彼らを救済しようとしているのは、カウンセラーと呼ばれる人たちであり、その意味では彼らカウンセラーは一種の宗教家だと言えるだろう。

私が大腿骨を骨折して魔の筑波記念病院に入院していたとき、リハビリの時間に私の手術した麻痺足のストレッチに携わってくれていたPTの(卵の)学生さんがいた。研修中のこの見習い学生さんは、PTの資格をとったら大学院に進学して、臨床心理士の資格も取りたいと言っていた。彼はフィジカルなセラピストに飽き足らず、フィジカル・メンタル両面でのセラピストを目指していたといえる。

臨床心理士がメンタルなカウンセラーの仕事で生計をたてていけるのは、彼らのカウンセリングの仕事に対して、それなりの対価が報酬として支払われるからである。

法然や親鸞の時代にも、悩みを救済してくれたお礼として、それなりの対価を支払おうとした人は少なからずいたに違いない。聴衆の大半は貧しい民衆だったから、莫大な金額ではないが、彼らからすれば、それはなけなしの金を支払うに等しい行為だっただろう。

これは、現代の我々がお葬式のとき、読経のお礼としてお坊さんになにがしかの「お布施」を支払うのとあまり変わらない。葬儀は初めての経験、いくら支払ったらいいか判らず、ネットで「相場」を調べる人が大半だろう。「ずいぶん高いんだなあ」と思っても、めったにないことだからと、仕方なく大枚をはたく人がほとんどのはずだ。

さて、法然や親鸞の布教活動にしろ、現代の葬式仏教にしろ、その対価はどれくらいが妥当なのか。適正な対価の額はどれくらいなのか。

解りやすくするために、現代の金銭事情に当てはめて考えてみよう。月収20万円の若者が、自分の悩み・苦しみを解消してくれたことに感激して、ある宗教団体に30万円の対価を支払うとしよう。この若者の生活が以後、困窮することは目に見えている。

だからこの支払いは適正でないと言うべきなのか。若者自身はこの宗教団体に30万円を支払う自分の行為にすこぶる納得しており、以後の自分の生活苦を恨めしいと思ったりしないとしても、これは限度を越えたことであり、適正でないと言うべきなのだろうか。

こう書きながら、私が考えているのは「旧統一教会」のケースである。霊感商法として世間を騒がせ、今もマスコミの恰好のネタになっているこの問題、さて、どうなのだろうなあ。
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プーチンのその後は

2022-10-22 09:30:04 | 日記
退院してからというもの、私の身辺にはとりたてて記すべきことがない。トイレで用を足すときなど、ぎこちなさというか、やりづらさを痛感するようになったぐらいだろうか。けれどもこれは加齢の他に、左脚の大腿骨を骨折し、手術でそのあたりの腱を切断したのだから、運命のようにどうしようもないことなのだ。

身辺に記すべきことがないときは、勢い世間を騒がせている話題に目を向けることになる。思わぬ大怪我で入院に至る前、私が関心を寄せていたのはロシア−ウクライナ問題だった。入院したため、記事をアップできなくなるその直前のブログで、私は次のように書いた。たとえプーチンのロシアがこの「戦争」に勝ったとしても、この独裁者はウクライナを長期的に支配することはできないだろう、と。アメリカの政治哲学者・メリアムが唱えた「クレデンダ」の学説は、そのあたりの事情の恰好の説明になっているように私には思えた。

あれから4ヶ月半がたった今、プーチンは明らかに更なる苦境に立たされている。プーチンはこの戦争に勝てないばかりか、ウクライナ軍の苛烈な反攻にてこずり、なすすべもなく撤退を余儀なくされている。それだけではない。ロシア国内でも独裁者・プーチンに対する反発が強まり、プーチンの失脚説まで出はじめている現状がある。ロシアの元外交官だった人物は、この独裁者が失脚した後のロシアに言及し、内戦や国家分裂といった混乱が起こるに違いない、と述べている(ロイター10月18日)。

ロシアがどうなろうが、私にはどうでもいいことであり、むしろウクライナ側の行く末が気にかかる。しかしウクライナもそれを支援する米欧諸国も、さまざまな思惑が入り乱れ、ちっぽけな私の頭ではとてもフォローしきれそうにない。なによりもウクライナの大統領ゼレンスキーが、途方もない食わせ者のように私には思えるのだ。
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