ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

ヒマと多忙と

2021-01-24 12:22:19 | 日記
NHKの「【よるドラ】ここは今から倫理です」を見た。

ヒマと多忙と、あなたはどっちが幸福ですか?

これが、このドラマの中で倫理の教師・高柳が投げかける問いである。今回、ドラマに登場するのは、同級生たちと夜遅くまで街を遊び歩く生徒・幸喜である。シングルマザーの母親は夜遅くまで帰ってこない。咎める人がいず、彼は何をするのも自由なのだ。毎夜、遊びまわる幸喜は、授業中はいつも居眠りをしている。そんな幸喜に向かって、高柳はこう語りかける。
「君は不安なのですね。『不安は自由のめまいである』、キルケゴールはそう言っています。」

このドラマを見ながら、私の脳裏に浮かんだのは、実存主義の思想家・サルトルの言葉だった。「人間は、自由の刑に処せられている。」

自由であるということ。何をするのも許されているということ。そういう状況にあれば、人は逆に何をしたら良いかわからず、ヒマを埋める術を失う。ヒマを持て余し、その時間の耐え難い重さに苦しむことになる。自由が「刑」と呼ばれる所以(ゆえん)である。

定年をむかえ、多忙な「社畜」の生活から解き放たれて、ヒマの重圧を負わされ、何をして良いかわからず途方に暮れているリタイア直後のおじさんたち。おじさんたちは倫理教師・高柳の問い「ヒマと多忙と、あなたはどっちが幸福ですか?」に対して、即座にこう答えるだろう。
「そりゃあ、多忙のほうが幸福に決まっているよな」。

多忙なら、ヒマを持て余すこともなく、不安に苛まれることもない。そんなふうにして、これまでずっと生きてきた。そんな生活から解き放たれた今、これまでの(多忙な)生活がいかに幸せだったかが、身に沁みてわかるというわけだ。

だが、ホントにそうだろうか。多忙でない生活、つまりヒマな生活、リタイア後の生活は、「自由の刑」を負わされて生きる不幸な生活なのだろうか。私はそうは思わない。リタイア直後、何をしたら良いかわからず、途方に暮れていたおじさんたちは、やがて自分の「生き甲斐」を見つけ始める。自分がやりたかったことを見つけ、それを実現するために、有り余るヒマのすべてを費やし始める。自分が立てた目標の実現に向けて、自分の足で一歩一歩着実に歩むこと、そこにもう一つの「自由」の形があると私は考える。

リタイアしたおじさんたちは今、消極的自由(「~からの自由」)を手放して、もう一つの自由、積極的自由(~への自由)を手に入れる。その中で幸福を味わうのだ。

私のようにロートル・ブロガーとして第二の人生を歩むのも、その一つの形だと言えるだろう。毎日、良い文章を書こうと悪戦苦闘しているこの私、天邪鬼爺は、ヒマを持て余しているわけではなく、かといって多忙であるわけでもない。ただただ己の生の充実を感じている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする