ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

再び第三の道

2016-03-04 04:55:19 | 日記
もう一つ、検討すべき道(T3)が残っている。

その候補として、次のようなテキストはいかがだろう。

これは、ウェブサイト「荘子内篇の素読(渾沌)」にある

「斉物論(2−22)」の現代語訳である。

ただ、原文にない部分(創訳もしくは補訳と見られる部分)が

少なからず見うけられるので、

そのような部分は、【】で括っておいた。

【】で括った部分を省いて読んでいただいても、

全体の文意にさしたる違いは生じないであろう。


聖人【すなわち絶対者】は、【心知の分別を放下して絶対の一に逍遙する存在であるから、】この宇宙を超絶する【神秘な】世界に関しては、たとい【その神秘が】存在するとしても、その存在するに任せ、それについて論を立てることはしない。この宇宙の中の出来事に関しては、【普遍的な問題は】論議するが、【細かい問題は】詮索しない。また、『春秋』という書物は、世を治めた昔の王者の歴史的記録であるが、聖人はそのなかに記された【具体的な】事実は【細かく】論議するが、その事実に対する【独断的な】価値づけは行わないのである。

【(しかるに、世俗の人間は、自己の分別を絶対のものであるかのごとく錯覚して、何かといえば直ぐに安易な価値批判を喚(わめ)きたてるが、それは、彼らの分別と称するものが、真の分別でないことに気づかないからである)】

 真の分別とは、分別することのない分別である。【分別することのない分別とは】何か。【それは一切の差別 と対立を、差別と対立のまま自己のふところに抱きとる智恵にほかならない。すなわち、】「聖人は懐(いだ)く」のである。

 これに反して、衆人は自己の分別をこれ見よがしに振りまわす。

 だから、「いかに細かく分析して論じようとも、他人に【真理を】あますところなく示すことは不可能である」というのである。 


以上が「斉物論第二(22)」の現代語訳である。

ここでは、世界に対する態度の取り方が、

以下のように三つに分類されている。

(1)論ずるも議せず。懐(いだ)く。 (聖人の態度)

(2)議するも弁ぜず。 (『春秋』に見られる聖人の態度)

(3)弁じて示さんとす。 (衆人の態度)

荘子は以上のように分類した上で、

(1)の態度を、取り入れるべき態度(A)として

肯定的に捉え、

(3)の態度を、退けるべき態度(B)として

否定的に捉えている。

(3)の態度、衆人の態度をとって、

あれこれ弁じても(細かく分析して、価値づけや意義づけをおこなっても)、

示す(世界の真相を明らかにする)という

意図は達成できないからである。

整理しよう。

A3=)論ずるも議せず。懐(いだ)く。

B3=弁じて示さんとす。

          (つづく)
コメント
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