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人間は「神の言の肉化」であるから、始めから「神の言」と一体である。この「神の言」世界は自分の「内」にあるからそれが自己と一体であると観じるのだ。

2021-08-30 11:33:22 | 日記
人間の「内」に
「神の言」は肉化した。
人間は「神の言の肉化」である。
「言は神なりき」であるから、
人間は「神の言」であり「言」は神であるから、
人間創造の始めから「神」と一体である。
というか人間の本体は「神」である。
人は神を離れたことなんて
一回もないのである。
なにしろ人及び現象世界は「神の言」世界の展開であるからだ。
神想観は
「もともと神と一体である霊なる“神の子”」を
観じるのだから、
「神と自分とは一体である」と、
念じるわけなのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【自己の生命の中に神を現実化するところのRealizationとは神と融合一体となることなのである。そして自己の生活及び現実の事柄に、神の完全なる属性をそのまま受容することなのである。それは決して一種の幻想の中に突入することではないのである。今、此処に遍在したまう神を素直に受け容れることなのである。】
【イエスはこう言って祈っているのである。・・・「われと父とは一体なり」(ヨハネ伝第10章30節)】

神想観は実相が独在するということを観じ、自分が実相の霊と一体化してしまうのである。そうしてから、具体的な事象を「実相の霊」に任せるわけである。

2021-08-30 11:03:25 | 日記
神想観は
実相が独在するということを心の眼で見てコトバで観じる。
そして自分自身が実相の霊と一体化してしまうのである。
それを先ずはじめてやって、実相と一体になってから、
自分の祈ってあげたい人を
その実相の霊の中に
当てはめるというか、
投げ込むというか、
具体的な事象を「実相の霊」に任せるわけである。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【(家出した子供を祈る祈り方をアディントン氏は指導した)
先ず神は到る処に充ち満ちて遍在したまうことを心に念じ、次いで、その子供が何処にいようとも、神は其処に居たまうので、神はその子供を如何に護ればよいかを知り給うのだということを念じ、繰り返し繰り返し両親夫婦は次のように祈ったのだった。
「神はわが子の全身心を貫いてい給う。神の智慧はわが子の全存在を貫いて支配してい給い、神の愛はわが子の周囲を取り巻いて護って下さっていられるのである。神の叡智がわが子を導く羅針盤となって彼を安全のところに導き給うのである。】
【皆さん、先ずこの子供の両親が認め、念じたことは「神は遍在し給う」ということであったのである。そして彼らの心の中に神の実在が極めて如実に生命の体験として感じられるようになったときに、その信念が具象化することになったのである。そしてこの子供は決して神から離れることはないのだという事実を素直に自分の心に受け容れることができるようになったのであった。】
 

ノルウィッチのジュリアンはこう言った、「神に向うとき罪は消えて罪を見ることはできない」と。

2021-08-29 10:21:01 | 日記
「神に向かう」ことを
多くの人はやっていない。
「神に向かう」ようになった時が、
人が本格的に変革できる時である。
人間我が神我に置き換わる時である。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【ノルウィッチのジュリアンはこう言った、「神に向うとき罪は消えて罪を見ることはできない」と。イエスはこの事を「心の清き者は神を見ることを得」といって表現したのであった。“心の清き者”とは、イエスの訓え給いし誠を着実に遵守する者である。かかる人は、唯、“神”“のみ”を見るのであり、それゆえに、このような人々は、罪と病と死との現象界の法則に縛られなくなるのである。イエスはこの事をハッキリと悟り給うたので、この悟りを全人類に頒ち与えたいと欲せられたのであった。】
 
 

「わが救いは神よりぞ」(詩篇第62篇1節)という真理を素直に受け取った人々によってのみ神癒は行われていることを見出すのである。

2021-08-29 10:07:16 | 日記
祈る時
吾らは何に対して祈ってきたのであろうか。
ただ神想観を頑張っているのでは、
「真の祈りになっていないのだ」
とようやく気がついた。
祈りというのは、
神に対して行うものなのだ。
これができるようになって
「神」は顕われるのであった。
“神に対する”信仰に成って来た時が、
“神の子”が顕われる時である。
やっとこのことに本当に気付いた。
遅いといえば遅いが、
このことにまともに気が付く人は実際は少ないのであって、
気付いた人は、
神癒の顕現の過程に当然入るのである。
神に導かれるからだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【心霊治療家は患者に対して、全能の神に対する彼自身の信仰を念送して移入する。もし患者が癒されんと欲するならば、神の全能の力が働いて彼は癒されるのである。あらゆる神癒の共通分母とも称すべきものは、やはり、イエスが言った言葉の中に見出されるのである。即ち彼が「なんじの信仰なんじを癒せり」とか「なんじの信ずる如くなんじに迄成れ」とか言った“それ”である。著者アディントンも神癒の媒介となったことがあるが、われみずからにては何人をも癒したことはないのである。われわれの同胞として、パウロは「神のほかに此の世に力は存在しないのである」(ロマ書第13章1節)と言った。この真理を理解することはきわめて重要である。なぜなら、一体全体、神の力なくして神癒はあり得ないからである。聖書全巻を通じて、「わが救いは神よりぞ」(詩篇第62篇1節)という真理を素直に受け取った人々によってのみ神癒は行われていることを見出すのである。】
 
 
 

2021年8月勉強会資料

2021-08-28 23:18:11 | 日記
<実相を隠された状態で人が現象界に誕生する理由>
2021/8/28
何故髻宝珠の譬えや、放蕩息子の話にあるように、人は実相を「内」に隠された状態で生まれてくるのか?
ここの真理は、カントやヘーゲルの哲学の基礎となるものである。
(1)人は現象世界で実相を現わす目的で、この時間・空間世界に誕生する。“自由な心”を使って、すべて自己責任で、現象世界の創造を行う。
(2)人は実相世界と現象世界の両方に属している。人間は“神の子”であるから、神からの啓示は,いかなる人にも行われている。しかし“自由な心”を使って、神の啓示に従うか従わないかは、人間一人一人に委ねられている。
(3)人間は“神の子”であるから、自分の行動を“さばく権利”を与えられている。“さばきの権利を神から与えられた”というが、“神の子”は神であるから、“神の子”自らそういう設定をしたというべきである。(ヨハネ伝5~27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。)人間は“自由な心”という高貴な現象創造の力を与えられているうえ、常に実相界からの啓示を受けており、正しい生き方を選べる存在であるから、その行動には自己責任が伴うのであり、裁きの権は“神の子”自らが引き受けた権利といえる。人に与えた行動は、そっくりそのまま返ってくるという法則である。
(4)自由な心の尊さが、実相が隠された状態で、人が現象界に誕生する理由である。 
 
「色即是空」の「空」とは、“実相”のことである。この本当の解釈は、谷口雅春先生がなさった革命的な発見であった。仏教界ではかつてなかった宗教的慧眼である。
2021/8/26
色即是空の「空」というのは、
「空っぽ」「実体がない「非実在」なのだけれども、
単なる「空っぽ」ではなく、
見えない「真空妙有」つまり「実相」を
本体としているのである。
雅春先生の革命的発見である。
一言でいえば「空」とは「生命の実相」のことである。
金剛不壊法身のことだから、
“神の子”つまり「神の肖像」(にすがた)なる「神」であるのと、
全く同様だ。
今日のご文章は、
そのキリスト教と仏教の一致を説いているのだ。
このことを説いた宗教者は他にいない。
(生命の実相第39巻 仏教とキリスト教とはかくして融合す 谷口雅春)
【これ(般若心経)は唐の玄奨三蔵訳の『般若心経』の一節であります。無明もないから、無明の尽くることも無い。老死もないから、老死の尽くることもない。色即是空すなわち物質(色)はあるがままにそのままに空なのである。「即」は“そのまま”である。物質は否定して空なのではなく、否定するもしないもない、そのまま空なのであって、空そのままに物質と見えているのである。空は単なる「ない」ではなく、そのまま不増不減金剛不壊の実体なのである。その不増不減金剛不壊の実体を自覚するには、五官六根の感覚の否定を必要とする。だから眼耳鼻舌身意なしと否定している。かくて、菩提薩埵すなわち菩薩大士はそのままのこの身このまま金剛不壊の久遠法身なりと自覚するから、心に罣礙なく自由自在を得て、恐怖心がなくなる。三世の諸仏もこの般若波羅蜜多の行によって阿のく多羅三みゃく三菩提すなわち悟りを得たというのである。】
般若心経を解説するネット上の文章を読んでも、
「空」を「実体が無い」と解釈するものは多くても、
「見えない仏様」と解釈するものは全くないので、
谷口雅春先生の慧眼には
驚嘆するのみである。
 
仏教界は「人間は本体を実際に“仏”としている」という真理を、声高らかに云う勇気がない。本当の真理を解っていないからだ。これができる仏教者はいないのだろうか?
2021/8/26
「人間は既に即身成仏している。ただそのことの自覚がないだけだ。」
と云う真理は、
イエスの説く内容であるから、
ニュー・ソートが明確化した真理である。
でも日本の仏教界はこんなこと云っていない。
まだまだこれでは駄目だ。
そこを谷口哲学は、
以下に引用する如く仏教の説く内容を、
イエスの説く内容と同じであると突き止めた。
現在の仏教界は、
雅春先生の「ま」の字も云わない。気付いているのに!
完全無視だ。
真理を解っていない、解っていても指摘する勇気がない、としか云えまい。
大体日本の仏教界もキリスト教界も
相手を否定するようでは、
真理を解っていないのである。
(生命の実相第39巻 仏教とキリスト教とはかくして融合す 谷口雅春)
【この身このまま金剛不壊の久遠法身と悟れば、これが即身成仏である。この身このまま大日如来の法身である。物質的に肉体と見える姿がどうあろうとも、それを超える、そしてこのまま法身、霊身、金剛不壊身、久遠人間と解る。物質身から法身への吾の置き換えである。キリストの言った「天より降りし者のほか天に昇りし者なし」という意味の天より降りし「神の子」が自分自身であると悟るのである。「神の子」をただある特定の人のみだと思ってはならない。人間は皆このままに神の子なのである。蛇の知恵(知恵の樹の果の知恵・・・五官知)で見たときには人間は物質身(「汝は塵なれば塵に帰るべきなり」)であるが、般若の智慧(五蘊皆空、無眼耳鼻舌身意の智慧)で見れば、人間はこのまま金剛不壊法身である。このまま如来である、このまま仏である、このまま神の子であるのであります。ここに病老死憂悲悩苦の世界を超えてわれわれはエデンの楽園を奪還しうるのであります。】
 
自己の生命の中に神を現実化するところのRealizationとは神と融合一体となることなのである。自己を“神の子”つまり神と観じる神想観を為すべしです。
2021/8/24
基本的神想観は、現実の自分の肉体に神の力の流入を観る神想観でありますが、
“科学的祈り”も同様に
やります。
イエスの教えた祈り方がそうなのです。
自分の心が“神の言”を受け入れてそれと一体化するわけなので、
三位一体説の説くように「霊と心」の一体化をはかれば、
それは「体」においても「霊」の充満せる感覚に
なるので、
「実相」と「現象」との一体を観じることになります。
「今ここに現存し給う神を素直に受け容れる」と
アディントンは書いていますが、
これは大事なことだと感じました。
祈りにおいて神と一体化する、
自分の全身が“神の子”なる神であることを
体感するのである。
これは大事な祈りの急所であるのです。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
【自己の生命の中に神を現実化するところのRealizationとは神と融合一体となることなのである。そして自己の生活及び現実の事柄に、神の完全なる属性をそのまま受用することなのである。それは決して一種の幻想の中に突入することではないのである。今、此処に遍在したまう神を素直に受け容れることなのである。イエスは、この、神を自己の中に現実化するところのRealizationをよく知っていて、それを彼自身の祈りに応用したのである。イエスはこういって祈っているのである。・・・「われと父とは一体なり」(ヨハネ伝第10章30節)、「父みずから生命を有ち給うごとく、子にも自ら生命を有つことを得させ」(ヨハネ伝第5章26節)、「父よ、まだ世のあらぬ前にわが汝と偕にもちたりし栄光をもて、今、御前にて我に栄光あらしめ給え(ヨハネ伝第17章5節)】
 
『若し誰にてもあれ、渇かば吾れに来たりて飲め。吾れを信ずる者は聖書に録されたる如く、その内より生命の水、河の如く流れ出でん』
2021/8/7
吾等が為すべきは
内なる「霊」を流入させればよいのである。
そしてこの「無限生命」への接触は、
真理を知ることと祈りが基本の方法であるが、
愛によって完成する。
純粋で聖なる愛が
実相の大河が流入する導火線となる。
神を愛することが「愛」なのである。
愛は「無我」になった時現われるのである。
だが愛の完成ということは
一気にできることではなく、
人が“神の子”を顕わすときと、
一緒なのである。
(心と運命 ヘンウィック・ホルムス著 谷口雅春訳)
【吾が哲学の大教主は如何によくこの原理を了解し給うていたことであろう! 「終りの日、饗宴の大いなる日にイエス立ちて叫びて云えり。『若し誰にてもあれ、渇かば吾れに来たりて飲め。吾れを信ずる者は聖書に録されたる如く、その内より生命の水、河の如く流れ出でん』・・・しかしこれは彼を信ずるものが受くべきところの『霊』(みたま)について言えるなり。」と。此の場合「吾れを信ずる者は」と云う「吾」によって耶蘇は内在する「大我」のことを云い給うたのである。何故なら耶蘇は明らかにそれを「霊」(みたま)に関連して語り給うたからである。それ故に吾々はここに光栄ある人間の本性と、その内在の「癒やす力」とについて一層明らかに知る事が出来たのである。若し誰にてもこの「貯槽」の底に穴を穿って、パイプを通ずるならば、水すなわち「霊」は、あたかも噴泉のように自己の内を充たすであろう。】
【ギリシャ語で「霊」はpsyche即ち「生命」を意味するのである。。果たして然らば吾等が吾が内奥の噴泉より「霊」を流入せしむる時、其処には死も病気も欠乏もあり得ないのである。そしてこの「無限生命」への接触は愛によって完了する。】
 
“科学的祈り”(神想観)効果あらしめるためには、「実相が独在している」と云う真理を認めることが第一段階である。神を認めない祈りが生動するわけがないのだ。
2021/8/23
私たちの「神」理解は、
祈りにおいて極めて大事である。
アディントン氏は神を「全知・全能・遍在」なる見えざる存在と定義しているが、
谷口先生は
「無限の知恵・愛・生命・供給・喜び・調和」
と表現している。
「真・善・美」と理解してもいい。
そのような実相(神)が独在している、
一言でいえば「実相が独在している」、
このことを認めることが、
祈りが効果を現わす前提条件となる。
この神理解あって始めて、
“科学的祈り”と神想観が、
真に“生命”を得る祈りとなる。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春)
<霊的精神治療の最初の段階は“神は存在する”ということを認めることである。>
【霊的精神治療の最初の段階は“神は存在する”ということを認めることである。神が遍在するということは、われわれがたとい何処に居ようと、神は常にそこに在(いま)すということをわれわれの心に確認させるのである。また神が全能であるということは、神はすべての力を有(も)ち給うということをわれわれの心に確認させるのである。】
<神の全知・全能・遍在の三徳は、霊的精神治療の第一段階に於いて是非“認める”必要があるのである。>
【神の全知・全能・遍在の三徳は、霊的精神治療の第一段階に於いて是非“認める”必要があるのである。そのほか“神”を“認める”ということに助けとなるところの神の属性・・・生命、愛、智慧、力、善、美、平和等は“神”を瞑想するための糧となるものである。霊的精神治療の第一段階に於いては、神についての正しき観念をもつことがきわめて重要であるのである。この第一段階の基礎の上に、第二段階、第三段階は築かれることになるのである。】
 
 
“神の力”流入のメイン・スイッチは、吾等が信仰によって遂に自分で押すことができるようになるのである。
2021/08/23
“神の力”流入のメイン・スイッチを
吾等が自分で押すことができるようになれば、
“神の力”は流入してくるのである。
実は自分自身の信仰が
メイン・スイッチの押し方を遂につかみとるのである。
人が自我の無力さを知り、
神我が
潜在意識に対してその存在を認めさせることができた時である。
いったんこの状態が生まれれば、
あとは
意のままに、必要に応じてそれが使えるのである。
そのためには「神」そのものを観じることが
必要である。
神に無条件降伏し、
絶対他力で“神の子実相”をただ受け入れる、
これが基本である。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【宇宙に普遍的に存在する神霊の力についてもそれと同じようなことが言えるのである。電源につながるように、神なる力の本源につながれば、その神の本源から吾々の生命にその力は流れ入って来る、そしてそれは健康とも現われ、善きものの豊かなる供給としても現われる。神なる本源の力は、私たちの肉体にも、心にも、色々の問題にも、万般の用途に“癒しの力”として働くのである。所謂る心霊治療家というものは、前記の譬えでいえば建築業者みたいなものであり、癒しの電源がどこにあるかを知るものであって、次のようにもいうことが出来るのである。すなわち彼の信仰と理解とを通して、あなたは癒しの電源がどこにあるかを知り、その電源が、あなた自身の信仰によってスイッチが入れられることになり、あなた自身の信仰によって癒しの電源から癒しの力が流れ入るようになったのである。ひとたび此の癒しの電源のメイン・スイッチが何処にあるかを知るならば、あなたの心の問題にいつでも癒しの力を流し入れることが出来、意のままに、必要に応じてそれを使うことができるのである。】
 
人間は“神の子”なる神であるから、全能である。その神の全能は、人間の小我が除り去られたときに活動状態に入る、ということである。
2021/08/23
以下のエメット・フォックスの講話では
次の2点が大切だ。
・神は“全能”である、そして人間は神のイメージとして神そのままの姿に造られたのである。それゆえに人間はすべてのものを支配する権能(ちから)をもつのである。
・人間は神の聖業が行われる通路であるのであって、霊的精神治療とは結局、その通路を妨げておった人間の小我を除り去るための行為であるのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
<神は“全能”である、そして人間は神のイメージとして神そのままの姿に造られたのである。それゆえに人間はすべてのものを支配する権能(ちから)をもつのである>
【彼(エメット・フォックス)は毎週ニューヨークのカーネギー・ホールで講話するのであるが、その聴講者数千名に向って、“この黄金の鍵を公平にテストして見給え、それは実証することができるのだから”と叫ぶのである。彼の霊感に導かれた教理はこのように説くのである・・・神は“全能”である、そして人間は神のイメージとして神そのままの姿に造られたのである。それゆえに人間はすべてのものを支配する権能(ちから)をもつのであると。そしてこの聖書の言葉は文字通りに解釈せらるべきものであって、額面通りにすべての人間に通用するのであって、超能力者や聖者にのみ賦与された特権ではないのである。】
<人間は神の聖業が行われる通路であるのであって、霊的精神治療とは結局、その通路を妨げておった人間の小我を除り去るための行為であるのだ。>
【なぜなら“科学的祈り”に於いては、御業を行うのは、あなたではなくして神が行ない給うのであるから、個人なるあなたに関する特殊の限界とか弱点とかいうものは、神癒の過程に何の関与する所は無いのであると彼は説く。彼の考えでは人間は神の聖業が行われる通路であるのであって、霊的精神治療とは結局、その通路を妨げておった人間の小我を除り去るための行為であるのだ。】
 人間は“神の子”なる神であるから、全能である。その神の全能は、人間の小我が除り去られたときに、活動状態に入る、ということである。