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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

浅草・凌雲閣「東京百美人」と洗い髪お妻

2009-07-15 | 人物
1890明治23)年7月15日、浅草・凌雲閣で「東京百美人」と呼ばれる催し(日本初の美人コンテスト)が始まる。
1890(明治23)年 11月10日、東京・浅草に開業した赤煉瓦づくり12階建て、高さ52mという、当時としては驚異的な高さを誇る八角形の高塔の名称は「雲を凌ぐほど高い」ことを意味する「凌雲閣(りょううんかく)」と名づけられていたが、通称「浅草十二階」とも呼ばれた。この建物には日本初の水圧式電動エレベーターが設置され、大きな呼び物として知られていたこのとは、前にこのブログ11月10日「エレベーターの日」でも書いたことがある。
又、1907(明治40)年9月、アメリカの新聞社(シカゴ・トリビューン紙)が「ミスワールドコンテスト」を企画。打診を受けた時事新報社が日本予選として1908(明治41)年3月5日、「日本美人写真募集」と銘打って大々的な全国キャンペーンを展開し、その入賞者発表を掲載したのが事実上のミス日本を決める最初の大会となったことから、以後3月5日をミス・コンテストの日に制定していることも、以前に、このブログ3月5日「ミスコンの日」で書いた。
重複を避けるためこのことについて詳しいことは書かないが、この時は、芸妓・女優・職業モデルなどは参加不可で、自薦他薦は問わないものとし、7,000名もの応募があったという。審査は写真選考のみで、洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲、歌舞伎俳優の中村芝翫など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査員となった。このコンテストで最優秀賞を獲得し、日本初のミスに選ばれたのは16歳の末弘ヒロ子で当時学習院女学部3年に在籍していたが、応募をしていたのは本人ではなく、義兄が、彼女に無断で写真を主催者宛に郵送したものであったそうだ。このことは、以下参考の※1:明治の美人、末弘ヒロ子が詳しい)
しかし、日本で初めてと言っても良いミス・コンテストらしきものがもう少し早くから行なわれていた。
それが、開業から半年を迎えた凌雲閣で、1890(明治24)年7月15日から行われた「百美人」と呼ばれる催しである。先にも述べたように、帝都の新名所凌雲閣は評判を呼んでいたが、客寄せの目玉でもあった日本初のエレベーターは、度々故障に見舞われ、結局半年程で警察より業務停止命令を受け撤去されてしまった。このエレベータを失った凌雲閣が、新たな客寄せとして企画したのが、当時の新橋や日本橋、芳町などの花柳界より100人の美人芸妓を選び抜き、その写真を凌雲閣の4階から7階にかけて展示し、来館者に人気投票をして貰おうと言うものであった。つまり、これは、素人ではなく、プロの芸妓達の美人コンテストである。
写真の展示は9月12日まで60日間行われたそうで、結果は、玉川屋の玉菊が2,163票を獲得し一等となり、そのほかにも、相模屋の桃太郎 - 2,130票 (二等)、中村屋の小豊 - 2,057票 (三等)、津の國屋の吾妻 - 2,054票 (四等)と新橋芸妓が上位4人も独占するというかたちで幕を閉じた。
この「百美人」はその後、1892(明治25)年、1894(明治27)年と第3回まで開催されたそうだが、この「百美人」開催のことについては、以下参考の※2:MEIJI TAISHO NETの 東京百美人が詳しい。
この第1回「百美人」の得票上位陣とは、別に一躍その名を知られるようになったのが、新橋の置屋(芸妓が籍を置いている所、抱元)・花の家のお妻という芸妓だそうである。このお妻のことについてもMEIJI TAISHO NETの中の洗い髪のお妻に詳しく書かれているが、第1回「百美人」では、選抜された100人の芸妓たちは、写真になった際のその印象を統一するため、写真師小川一眞の写場(うつしば)へ足を運び、全員が同じ条件で撮影されることになっていたそうだが、撮影当日、お妻は身支度のために自宅で髪結いを待っていたが、約束の時間を過ぎても現われず、しびれを切らして、濡れ髪の長い髪を垂らしたまま(洗い髪姿のまま)人力車を飛ばし写場へ現れ人々を驚かせたという。ここでは、“到着後にすぐさま髪を調え日本髪姿で写真撮影に望んだというが、百美人の上位には上らなかったものの、この撮影時のエピソードが広まり、以後「洗い髪のお妻」として一躍時の人となったとある。そして、第1回の百美人全員の写真だというものが紹介されている。ここ。しかし、この中には、新橋の“小つま”や“つま子”の名はあるが、お妻の名が見当たらない。冒頭の画像は、『幕末・明治の写真』(小沢健志著、筑摩書房。以下参考の※3)で、表紙に使われている写真が洗い髪のお妻である。MEIJI TAISHO NETの中の記載では、お妻は百美人の写真撮りは髷を結って行なったとあるので、そのつもりでよくよく見ると、Plate 2に掲載されている写真の中、新橋の“小つま”として掲載されているものが似ているような気がする・・・?この写真の女性小つまの理知的な美しさは、一位~四位の者に引けをとらない。
明治維新によって、明治新政府を樹立したの志士達の多くは、まだ年令も若く東京の花柳界の中でも、当時江戸文化の粋といわれた柳橋などでは、西国出の無粋と見られ、余り歓迎されなかったようであり、新興の新橋をよく利用したようだ。そのようなことから、明治時代には、新橋の花街が発展を遂げ、新政府の要人だけでなく、彼らをもてなす政財界の面々が、まるで自宅の応接間がわりのように新橋の料亭や待合を使ったという。
大正期に「美人伝」の著者として有名になった長谷川時雨の作品に、『一世お鯉』(以下参考の※4:作家別作品リスト:No.726長谷川時雨参照)があるが、これは、明治後期、新橋の花柳界で名を馳せた「照近江(てるおうみ)のお鯉」と呼ばれた芸者の話である。同作品の中に、“一世お鯉——それは桂(かつら)さんのお鯉さんと呼ばれた。二世お鯉——それも姐(ねえ)さんの果報に負けず西園寺(さいおんじ)さんのお鯉さんと呼ばれた。照近江のお鯉という名は、時の宰相の寵姫(おもいもの)となる芽出度(めでた)き、出世登竜門の護符(ごふう)のようにあがめられた。登り鯉とか、出世の滝登りとか、勢いのいいためしに引く名ではあるが、二代揃(そろ)っての晴れ業(わざ)は、新橋に名妓は多くとも、かつてなき目覚(めざま)しいこととされた。”・・・・と記載されている。
桂さんとは、桂 太郎、西園寺はんとは、西園寺 公望であり、明治維新後の1901(明治34)年以降、この2人が交代で首相を務め「桂園時代」と呼ばれる時代を築いたが、そんな大物2名が揃ってお鯉という名の芸妓を贔屓にしていたという。
一世お鯉(本名:安藤照)は、新橋近江屋の半玉から出発して、「照近江のお鯉」として鳴らしたが、若い頃、歌舞伎役者の市村羽左衛門(十五代目)に見初められて結婚するが、歌舞伎界のしきたりや羽左衛門の女性関係に嫌気がさして、さっさと離婚し、再び芸妓に戻ったが、人気は衰えず、今度は総理大臣陸軍大将の桂太郎の妾となり、赤坂榎町の妾宅に移るが、総理大臣官邸内にも「お鯉の間」が作られたほどだという。兎に角、その時代の人気歌舞伎役者と総理大臣を二人ながら夫にした芸妓なんて、お鯉の他にいないのではないか(お鯉については以下参考の※5:桂公爵の愛妾 お鯉参照)。
しかし、何故ここで、お鯉のことを書いたかと言うと、そのお鯉が結婚した羽左衛門に、心底心から惹かれていた芸妓は、もともとは、先に書いた「洗い髪のお妻」の方だったのである。長谷川時雨『一世お鯉』にはそのことについて、以下のように書いてある。
“羽左衛門が年少で、技芸も未熟であり、給料も薄く、そして家には先代以来の借財が多かった時分に、身の皮まで剥いて尽したのが洗い髪のおつまである。ままにならぬ世を果敢なんだ末に、十八の若旦那市村は、身まで投げたほどだった。おつまはその心にほだされて、ありとある事を仕尽したが、結局はお鯉が嫁入りするようになった。もうそのころ羽左衛門は昔日の若造でもなければ、負債があるとはいえ、ひっぱり凧の青年俳優であった。またその次の細君の時代は、羽左衛門の一生に、一番覇を伸しかけた上り口からで、好運な彼女は、前の人たちの苦心の結果を一攫してしまったのであった。”・・・と。
この洗い髪のお妻のことは、以下参考に記載の※6:国立国会図書館所蔵「明治期婦人伝記文献集成」収録書目の、第44巻「洗髪のお妻 / 己黒子. -- 金文館, 明43.7」にも詳しく書かれている。
そこではお妻の回想形式で書かれているが、彼女の出生は、“明治7年對州厳原(たいしゅういつはら。對州=対馬国)の生まれで、父は土岐守守道(ときのかみもりみち)、朝鮮の代官となっていたそうだが何か政治のことで朝鮮から帰りの道すがら船の中で暗殺されたのだとか。母は父にも増した家柄で藤氏(藤原氏参照)でくにと云った女。元は武藤家であったのか従五位陸奥守の時に藤と姓を改めた。系図を手繰ってみるとその昔小西行長の手の者で働いたが、事志と違ったというようなわけで謀反人となって對州へお客分として預けられたがその後土地に住み着いて藤姓を名乗り、陸奥守と云った人の娘くにが私の生みの母なのです。“・・・とある。これが本当なら、なかなかの家筋と言うことになる。
又、12歳で、当時北海道の鉄道にいた小田敬中という人の家へ、大學出の文学士である小田貴雄(よしお)と一所に夫婦養子に貰われ、15歳で貴雄と結婚するが、年も違い何がなにやら分らぬ御嫁さんであったが程なく貴雄とは離縁になる。それが今の身の上(芸妓)になる発端だという。何でも養い親はなかなかの資産家でもあり、姑も芸事作法など確り仕込んでくれたようで、舅もお妻夫婦の面倒をよく見てくれたようだ。お妻の名は、当時「おつぎ」といっていたようだからこれが本名か?。それが、事情により、およねという者のところへ預けられそのおよねのところで邪険に扱われるようになり、およねから紹介された烏森(かって「新橋南地」と呼ばれる烏森神社【以下参考の※9:烏森神社参照】の周辺にあった花街)の旅館(やどや)吾妻館のところにあった桝田屋に芸者として行ったのが明治25年のことだったという。そして、その翌・明治26年にはお披露目をしたというが、このとき2代目“小妻”を名乗るようになったようだ。・・・そういえば、先に書いた、「百美人」の中に新橋の“小つま”の写真が“お妻」に似ていると書いたが、やはりこれが”お妻“の写真だったのだろう。
芸者“小妻”としてお披露目してからよく売れたようで、それから間もなく日吉町へ花の家お妻で自前になったという。自前で稼いでいるうちに変な機会(きっかけ)で一度にウンと名前が売れたという。
それが、この百美人の写真撮りでの荒い髪姿での騒動だが、ここでは、十二階へ洗い髪姿で行き、写真撮影にようようのことで間に合い、“前髪處(まえがみどこ)のニ三本の長い毛を剪(き)って形をととのへて散(ちら)しで撮影(うつ)して了(しまひ)ましたが、百人の美人が掲げられた處を見ると皆んなが、厚化粧、仲の町の手古舞姿(てこまいすがた。以下参考の※10:今昔あつぎの花街/手古舞28年ぶりに復活参照)もある。新橋連中はグット高尚に構へて、大抵は小紋(以下参考の※11:小紋|日本文化いろは事典参照)といふ扮装(いでたち)でせう、其間(そのなか)に挿(はさ)まって私一人が其の洗髪姿ですもの、お金をかけての高點(かうてん)は取れませんでしたが、少しは器量が落ちたって眼に立つ筈でせう、其れからといふものは、洗い髪のお妻/″\と人様に云われ・・・”・・・とあり、髷を結っての写真撮りではなく、洗い髪のまま写真撮りしたように書かれている。しかも、年代が、第1回百美人は1890(明治23)年に行われているのに、ここには、芸者になり2代目“小妻”としてお披露目したのは明治26年とあり、何か年代的にも合わないが・・・。
ま!いずれにしても洗い髪お妻として売れてから、お妻を贔屓にしていた男たちには、初代総理大臣の伊藤博文、軍人の西郷従道(西郷隆盛の弟)や野津道貫(のづみちつら)、豪商で大尽と称された米倉一平(以下参考の※7:谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 米倉一平参照)など、政財界の大物が数多くいたようだが、なんと言っても、お妻が「頭さん」と呼び、晩年まで親交があったのは当時の政界の黒幕にして右翼の大物頭山満であったようだ。
ここでは、市村(羽左衛門)との馴れ初めは“小妻”としてお披露目した翌年の明治27年と語っており、明治、31年、長年贔屓にしてくれ、とても世話になっている“お頭さん”に市村との密会が発覚。それまでも知っていたが知らない振りしていた流石の頭さんもお妻の不貞腐れに呆れには呆れて、散々小言を言われた上に髪の毛を根元で切られてしまう事件があったらしい。それで、頭さんとも若旦那の為を思って市村とも切れることになったのが頭さんと別れて1ヵ月後の同年3月だったとある。
♪粋な黒塀 見越しの松に あだな姿の洗い髪 ・・・春日八郎のお富さんじゃないが、女性の洗い髪姿には、男は惹かれるものがあるよね~。
お妻の話しはどこかありのままを話しているようで、すこし、自分をよく見せるところもあるようで、どこからどこまでが本当かなどはよくわからないが、私は、こんな話は、好きなのでつい長々と書いてしまったよ。なお私もファンであった日本一芸者役の似合うといわれた美人女優木暮実千代(本名:和田 つま。大正7年生まれ)の本名つまは、当時日本一の名妓と謳われ、プロマイドが飛ぶように売れていたという「洗い髪のおつま」にちなんで、つけられたものだとか(以下参考の※8:Administrator 藤沢摩彌子/言葉の花束参照)。
戦前・戦後くらいまで、政界では外交上の接待の場として花柳界をよく利用していたようで、政治家のなかには花柳界出身の人を嫁に迎えた人も結構多くいた。今、政界のお騒がせ男・麻生太郎氏の祖父(母方)・吉田茂が後妻として迎え入れたのは、新橋の芸者(芸名:こりん、本名:坂本喜代)であったとか・・・(以下参考の※8:Administrator 藤沢摩彌子/言葉の花束参照)。
(画像は、『幕末・明治の写真』の表紙。写真は洗い髪お妻。)
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浅草・凌雲閣「東京百美人」と洗い髪お妻:参考

2009-07-15 | 人物
※1:明治の美人、末弘ヒロ子
http://meiji.sakanouenokumo.jp/hiroko.html
※2:MEIJI TAISHO NET
http://meijitaisho.net/
※3:幕末・明治の写真/小沢健志(著)筑摩書房出版
http://spn04604.co.hontsuna.com/article/918370.html
※4:作家別作品リスト:No.726長谷川時雨はせがわ しぐれ (青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person726.html#sakuhin_list_1
※5:桂公爵の愛妾 お鯉
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/minoh/okoi.htm
※6:国立国会図書館所蔵「明治期婦人伝記文献集成」収録書目 マイクロフィルム版
http://library.osaka-shoin.ac.jp/collection/micro/BA3975350X.html
※7:谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 米倉一平
http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/yonekuraIppei.htm
※8:Administrator 藤沢摩彌子/言葉の花束
http://www.k3.dion.ne.jp/~shienkai/mayakof2.0712.htm
※9:烏森神社
http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/karasumori.htm
※10:今昔あつぎの花街/手古舞28年ぶりに復活
http://www.kawara-ban.com/rensai49.html
※11:小紋|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/B01_clothes/08_komon.html
凌雲閣- Wikipedia
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市村羽左衛門 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%9D%91%E7%BE%BD%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
明治維新 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
長谷川時雨 ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%99%82%E9%9B%A8
日比谷焼打事件ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
髪結い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%AA%E7%B5%90%E3%81%84
洗髪について
http://www.asahi-net.or.jp/~TU3S-UEHR/iino.htm
対馬国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%9B%BD
木暮実千代 –Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9A%AE%E5%AE%9F%E5%8D%83%E4%BB%A3
シカゴ・トリビューン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%AB%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%B3