今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

蘇我入鹿 (廷臣,蘇我蝦夷の子) が中大兄皇子らにより殺害された日

2008-06-12 | 歴史
645年(皇極天皇4年) の今日・6月12日(旧暦)は蘇我入鹿 (廷臣・蘇我蝦夷の子) が中大兄皇子(後の天智天皇)らにより殺害された日。
蘇我入鹿(そがのいるか)。生年不詳。又の名を林太郎・鞍作〔くらつくり〕)というらしい。)祖父は大臣蘇我馬子蘇我氏(かばね)は(おみ)で、臣(おみ)は、ヤマト王権で使われていた姓の一つで、姓の中では(むらじ)と並んで高位に位置していた。『日本書紀』などにおいては、臣の姓は、元々、ヤマト王権に対して服属した畿内周辺の豪族に与えられた姓であり、この臣の姓を名乗る氏族の中で最も有力な者を大臣(おおおみ)と呼び、国政を預けられた。一方、連の姓の多くは天皇家以外の神の子孫としており、中央の有力豪族が中心である臣に対して連の姓を名乗る氏族は、朝廷の役職と直結しており、大伴氏(軍事の管理を司る) も物部氏(武器を扱う氏族)も古来からヤマト王権の軍事を束ねる役割をしていた氏族だと言われている。
馬子の父・稲目(いなめ)の代より、大臣として、大連(おおむらじ)の大伴氏と物部氏にならぶ三大勢力の一角となり、やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)が二大勢力となり、共に天皇家の臣下としては最高位を世襲してきた。
日本書紀』によれば、馬子の死後、入鹿の父の大臣・蝦夷の専横が強まるが、蝦夷は、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない田村皇子を舒明天皇として即位させていた。このとき、有力な皇位継承の候補者としては田村皇子と山背大兄王(厩戸皇子=聖徳太子の子)がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害している。
その舒明天皇の崩御後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇后であった宝皇女が即位した。女皇・皇極天皇誕生である。
皇極天皇即位後、 父、蝦夷に代わって入鹿 が国政を執った。そして、翌643年(皇極天皇2年)には、父から大臣を譲られ、実質的にも形質的にも蘇我氏の家督を継いだ。これで蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿の4代にわたり政権を掌握することとなり、天皇家にも大きな影響を及ぼす強大な力を持つようになった。蝦夷は、弟を物部大臣と呼び、又、甘樫丘に邸宅を築き、屋敷を宮上の門(みかど)とよばせるなど自らを大王(天皇)に擬する行為もあったからだという。
このようななかで、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革しようする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだとされている。それは、父から大臣を譲られて1ヶ月も経たない11月上旬のことであった。
それから2年後の、645年(皇極天皇4年) の今日(10月2日)、歴史的な事件・いわゆる中大兄皇子(後の天智天皇)らによるクーデター(乙巳の変)が起こったのである。
日本書紀によれば、飛鳥板蓋宮の正殿の前庭で、大和朝廷(ヤマト王権参照)の最高実力者ちなっていた入鹿 が殺害されたのである。
この日、入鹿 は古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)たちが計画した三韓(新羅、百済、高句麗)・朝貢の上表文を奏上する儀式に誘い出され、皇極天皇の面前で斬殺された。惨殺の実行には、中大兄自らも長鉾を振るって加わっていた。事をなした中大兄皇子らは、ただちに法興寺(飛鳥寺 )に移って、防御を固め、入鹿 の父蝦夷の反撃に備えた。これまで、蘇我氏に組していた者も含む多くの廷臣が中大兄らに従って法興寺に集結した。蝦夷もまた眷属や配下の漢直(あやのあたい。直は姓。東漢参照)一族などを自邸に召集し、陣を設けたが中大兄の説得工作により、離反するものが多く、翌日の13日には自邸に火を放って自殺し、ここに蘇我稲目以来権勢を誇った蘇我氏の宗本家は滅亡した。
その後の中大兄らの動きは非常に早かった。14日、鎌足の意見に従って、叔父であり、皇極天皇の同母弟である軽(かる)皇子(孝徳天皇)を次の天皇に決め、皇極天皇には皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、自身は皇太子となった。新たに設けた官職の左大臣には、阿倍内麻呂を、右大臣には、蘇我石川麻呂を、内臣には、中臣鎌足を、国博士には、に留学して先年帰国し中大兄、鎌足の師となっていた僧と高向玄理の二人を任命した。
そして、19日には、天皇・前天皇・皇太子は、群臣を集めて忠誠を誓わせた後、元号を大化と定めた。
こうして出来た、大化の新政府は、やつぎばやに新政策を実施。6月~9月には東国をはじめとする四方の国に使者を派遣し、政変による地方豪族の動揺を鎮めると共に施政の方針を宣布させた。そして、12月には、、天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったといわれている。しかし、孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、難波宮(難波長柄豊崎宮)が完成した翌・653年(白雉4年)、中大兄皇子は難波宮を引き払って、皇祖母尊と皇后(鸕野讃良皇女)、弟(大海人皇子)を連れて倭(倭京=飛鳥の京。以下参考に記載の「複都制 - Wikipedia」参照)に戻り、臣下の大半がこれに随って去ったことから、 孝徳天皇は全く孤立して翌654年(白雉5年)に憤死する事件が起きている。しかし、この時も、皇太子の中大兄皇子は即位をせず、皇祖母尊(皇極天皇)が重祚して斉明天皇となった。
有名な大化の改新の詔が発布されたのは、難波に移った後の646年(大化2年)正月1日、つまり、孝徳天皇がなくなった翌年のことである。これによって、後の政治改革が基本方針が示された。
また、中大兄は、斉明天皇4年(658年)に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑している。そして、斉明天皇が崩御((661年)した後も、中大兄皇子は、長い間皇位に即かず称制していたが、天智天皇2年(663年)、白村江の戦いで大敗を喫した後、大津遷都してそこではじめて即位している。
一方、入鹿、蝦夷亡き後も蘇我氏系豪族は多くいたため、入鹿の従兄弟の蘇我倉山田石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、天智天皇10年(671年)に天智天皇が死去すると、天智天皇の子の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)が争い、翌年壬申の乱が起り、大海人皇子が勝利して、飛鳥浄御原宮で即位した。
この壬申の乱のとき、大友皇子(弘文天皇)側の重臣であった赤兄は、敗れて捕らえられ、子孫とともに流刑になった。以降、天武天皇は改革を進めてより強力な中央集権体制(律令制の中の日本の律令制の項目を参照)を築くことになる。蘇我氏(石川氏)は納言(少納言参照)・参議まで出世するのがやっとというクラスにまで低下し、かつての栄光は戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史から姿を消す事となる。
日本書紀などでは、蘇我氏宗本家が権力を独占し専横を極めたため、中大兄らが、中心となって、蝦夷・入鹿 を殺害し、天皇権力の回復を図ったようになっっているが、これらは、中大兄らの行為を正当化するための誇張であり、どれだけ信用できるかは疑問があるという。山背大兄王は聖徳太子(名称関連参照)の子で、推古天皇没後もまた、皇極天皇即位の際にも有力な天皇候補であった。古人大兄皇子を次の天皇にと目論んでいた入鹿 が父蝦夷の許可もなく独断でその一族を襲った時には、事の次第を知った蝦夷が入鹿のこの行為を怒り嘆いたと伝えている。入鹿 のこうした行動は、たしかに、ヤマト朝廷をささえる畿内の豪族の同意を得られるものでもなかったろうし、天皇家の人々に深刻な危機感をいだかせたのも、無理ないところではあろうが、実際には、乙巳の変のクーデターやその後に続く種々の政治改革を要請した背景には当時の東アジアの情勢にあったともいえるようだ。当時の隋帝国、続いて唐帝国の出現は、高句麗百済新羅三国に激動をもたらし、その影響は直ちに日本にも及んでいた。これら三国が対抗するための急速な国力を充実しているとの情報は次々日本に伝えられ、推古朝に隋に渡った留学生が次々帰国してくると彼らから唐の巨大な国力やそれを生み出した律令法に基ずく中央集権体制のについての情報や、体験が朝廷に伝えられていた。こうした状況の中で、開明的な貴族や豪族が少なくとも百済や新羅に対抗しうるだけの国力の充実を望んだに違いない。そのためには、畿内の豪族が一体となって地方豪族に対する支配を強化するための政治改革を断行する必要があったのだろう。
このブログの字数制限上、この続きは以下をクリックしてみてください。この下のページに表示されます。
クリック → 続:蘇我入鹿 (廷臣,蘇我蝦夷の子) が中大兄皇子らにより殺害された日

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。