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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

バカヤロー解散の日

2008-03-14 | 歴史
1953年3月14日の今日は「バカヤロー解散」の日。
バカヤロー解散とは、1953(昭和28)年3月14日の衆議院解散の俗称であり、この解散に伴う総選挙第26回衆議院議員総選挙である。
1953(昭和28)年1月に再開された第15国会では、吉田茂内閣は、野党攻勢と自由党内部の鳩山一郎派(自由党党内民主化同盟、通称、鳩山民同)の反抗にさらされた。吉田首相は、2月28日衆議院予算委員会で西村栄一議員(右派社会党)に、米英首脳の言説を引用せずに日本の首相としての意見を述べよといわれ、「バカヤロー」と発言。直ぐ取り消し、西村議員も了承したが、折から自由党内の反吉田の動きに勢いを与え、3月2日、反吉田派の欠席もあり、首相懲罰動議を可決。13日不信任案が提出され、解散総選挙となった。
反吉田派が、鳩山一郎を擁して分党派自由党を結成したこともあり、選挙の結果、自由党は解散時の222から199議席となり、過半数234を大きく下回り、翌1954(昭和29)年吉田政治は終焉を迎えた。
過去の戦後政治に少し遡る。発足当初より終戦内閣として組閣されていたといわれる鈴木貫太郎内閣(在任:1945年〔昭和20年〕4月7日~同8月17)の後を受けて戦後、組閣された東久邇宮稔彦王内閣(在任:1945年〔昭和20年〕8月17日~同10月9日 ※総辞職は10月5日。幣原内閣発足まで職務を執行)、その後を受けた幣原喜重郎内閣(在任:1945〔昭和20〕年10月 - 1946年5月)は吉田茂の後押しによるものと言われるが、吉田が外務省時代の先輩であり当時隠居していた幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったといわれている。GHQの占領政策(日本の〔武装解除ならびに非軍国主義化〕に置き、非軍国主義化は非軍事化=軍国主義体制の解体と“民主化”=民主主義制度の確立という二つの側面をもっていた。)に基づき憲法草案を作るが、保守的な幣原の草案はGHQに拒否される。そして女性参政権が認められた戦後初の総選挙(大日本帝国憲法下帝国議会)最後の総選挙)となる第22回衆議院議員総選挙日本自由党が第一党となり幣原内閣は総辞職し、第1次吉田内閣が1946年5月22日が組閣された。同内閣は、旧憲法下の天皇組閣大命による選挙を経ていない最後の内閣で、 当初は4月の総選挙で第一党となった日本自由党の鳩山一郎総裁が組閣の大命を受けるはずであったが、就任を目前にして公職追放となったため、鳩山の依頼により吉田が総裁に就任し、自由党・進歩党の連立により内閣を組閣した。日本国憲法の成立、第2次農地改革などを実現するも食料状況の深刻化、労働攻勢の激化により厳しい政権運営を迫られた。翌1947(昭和22)年4月の日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では日本社会党に第1党第一党を奪われ翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山哲内閣が成立したが長続きせず、続く芦田均内閣も1948(昭和23)年、昭電疑獄により瓦解した。このときGHQ民政局による山崎猛幹事長首班工作が失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し、戦後日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。
占領当時のマッカーサーノートには、「日本は紛争解決のための手段としての戦争、自己の安全のための手段としての戦争をも放棄する。日本が陸海空軍をもつ機能は将来も与えられることはない」と記している(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)ように非武装説を指示していたし、吉田らも健全な戦後復興のために、戦争による高額賠償金の支払いや領土分割を回避する「寛大な講和」を勝ち取ることを考え、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行していた。しかし、冷戦の進行と中華人民共和国の成立、更に朝鮮戦争の勃発などもあって、アメリカは日本がソ連・中国との同盟を組むのを恐れ、そんな事態を防ぐため、「早急に日本との平和条約を締結し日本に国際社会の対等な立場を回復させ」自由陣営に取り込むべく、トルーマン大統領から国務省顧問に任命されたダレスは、日本が独立を回復するに当たっては軍隊を持ち、自衛力を持つことを主張、「日本は、アメリカを施政権者として、琉球諸島、小笠原諸島の國際連合信託統治に同意」し、日本の安全保障については「日本国区内の国際平和と安全の維持のために日本国の施設と米軍の間に継続的協力的責任があることを考慮する」として、米軍駐留を継続する方向を示す対日講和7原則決定した。
このような朝鮮戦争勃発後の内外で高まった講和促進機運により、1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結された。この書名には、日本の全権団の代表吉田のあと、続いて政府代表として、蔵相・池田勇人(自由党)、野党代表として苫米地義三 (国民民主党最高委員長)、衆参両院代表として星島二郎(自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)、民間代表として、一万田尚登(日銀総裁)が署名した。そして、同日、夕方会場をサンフランシスコ市内の第6軍司令部に移して日米安全保障条約が調印された。この調印には米国側はアチソン国務長官とダレス国務省顧問など4人が署名、日本側は、吉田が単独で調印した。苫米地全権は、国民民主党党議に従って調印しなかった。吉田は、反対の空気の強い安保の署名の責任を1人で負う形をとったようだ(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
吉田首相の判断は、冷戦戦略上最も欲している在日米軍基地の提供を承諾する代わりにアメリカが求める再軍備は最小限にとどめて経済再建に国力を注ぎたいというものであった。
公職追放のため吉田を首相に押し上げていた鳩山一郎も1951(昭和26)年に追放解除を目前に脳梗塞で倒れたが症状から回復して政界に戻ってきた。そして吉田に首相の座を譲るように言ってくるが、吉田はまだ自分の仕事は完成してないという思いがあり、これを拒否。鳩山はあの手この手で回りから圧力をかけてくるが、これに対抗するため、吉田は1952(昭和27)年8月28日『抜き打ち解散』の奇策で応じる。総選挙の結果は、講和条約により、日本の独立を回復させたことに対する世論の圧倒的な支持を得て、鳩山の分派勢力を大きく上回った吉田は第4次吉田内閣を発足させた。しかし、万々歳と思われた第4次吉田内閣は、思わぬところで足をすくわれた。それが、冒頭に書いた衆議院予算委員会での西村議員の質問に始まる「バカヤロー解散」であった。
(画像は、3月2日、衆議院本会議で野党提出の「吉田首相懲罰動議」が可決され、渋い表情の吉田首相。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
バカヤロー解散(バカヤローかいさん)とは、1953年3月14日の衆議院解散の俗称であり、この解散に伴う総選挙は第26回衆議院議員総選挙である。
今、衆参両議院のねじれ現象の中で、リーダーシップッを発揮できない福田康夫自民党内閣が迷走を続けている中で、何時、自民党が国会を解散するかが囁かれているが、その中で、2007(平成19)年9月、 自由民主党総裁選挙に立候補するも福田に133票差で敗れた吉田の孫にあたる麻生太郎が密かのその後釜を狙っているようだ。総選挙の結果は自民、民主のどちらが勝利しても単独では政権運営は出来ないだろうし、そうなれば、政界再編しかない。っそんな中で、麻生と、鳩山一郎の鳩山由紀夫(現・民主党幹事長)が連立政権創立に向けて手を組むかも知れない・・・と囁かれてもいるが、それもいいだろう。
兎に角、今、アメリカのサブプライム問題や、石油他食料などの物価高騰と非常事態の世の中で、何も出来ない能無しが何時までも政権にしがみついておらず、スッキリと国会運営をするために国民に審判を問うべきではないのか・・・。「バカヤロー」・・・解散でもやって欲しいものだね。
参考:
吉田茂-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
バカヤロー解散
http://home.catv.ne.jp/dd/chip/bakayarou000825.html
日本占領政策
http://www.tabiken.com/history/doc/O/O038R100.HTM
戦後占領政策について
http://members.jcom.home.ne.jp/spu/senryo.htm
米軍の占領政策
http://www1.toptower.ne.jp/~katumata/sub51.html
中野文庫 - 対日講和条約 日本国との平和条約
http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-5.htm
サブプライム問題 - ニュース - nikkei BPnet
http://www.nikkeibp.co.jp/news/feature/542605/

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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肝が (Linda)
2008-03-15 09:54:13
よーさん、お早うさんです。
政策はともかく、昔の政治家のほうが肝が据わっていたような気がします。安部、福田があまりにも頼りないので小泉人気がまだ残っているようですが、小泉なんか無責任極まりない似非改革で国民の痛みだけを残してさっさと辞めた小物です。
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政治家 (よーさん)
2008-03-16 07:48:37
Lindaさん、日本の政治家はロッキード問題に端を発した金銭問題や何かで次々と首相交代劇を繰り返しているうちに、政治かも底を突いたといった感じです。若手の中には少しましなのが見れますが、経験がなく実態を知らないただの頭でっかちといった感じ。
世界的にこれから大変な時代が来そうだが、そんな時代に政治を任される人材がいない国なってしまった日本。大変ですよね。もう多少恐いが、良くても悪くても、新しい製作集団によって、大胆な政治改革行政改革をしてもらう以外、日本はダメになるでしょう。
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