
今日(5月11日)は「大津事件」の日。
1891(明治24)年5月11日は、滋賀県の大津で、日本を訪問し、琵琶湖周辺を遊覧して京都へ帰る途中のロシア皇太子 (ニコライ・アレクサンドロビッチ)が、警護していた警察官に切りつけられ 頭部2カ所に傷を負うという「大津事件」が起こった。傷ついた皇太子は滋賀県庁に運び込まれたが、日本人の医師の診察を断って、京都の宿にひきあげ、神戸に停泊中のロシア軍艦からかけつけた侍医の手で傷口の縫合が行われた。この事件の発生は、内閣とそれを支える元老に衝撃を与えただけでなく、広く国民を不安に巻き込んだ。そうした中で、大国ロシアとの関係悪化を懸念した明治天皇は、すぐに京都に皇太子を見舞われるなど、積極的な宮廷外交を展開され、ロシア皇太子が帰国の前に、明治天皇をロシアの軍艦に招いて別れの宴会を催した時には、天皇は護衛もつけず、単独で出席されるなど、適格な判断に基き行動された、このような、天皇の誠意ある態度によって、ロシアとの関係悪化が免れたといわれている。この間のことは、私の本館HPの神戸のこといろいろ「No41、明治天王とロシア皇帝ニコライ」にも書いてあるので、見てください。日本中が騒然となっていたさなか、東京で奉公をしていた畠山勇子が京都府庁前で5月20日遺書を残しのどをついて死ぬと言う事件も発生している。遺書は、6通あり、ロシア皇太子が予定通り日本遊覧を希望したロシア高官宛の一通もあった。国民の間でも、天皇にならって自分たちもお見舞いをせねば、という機運が全国的に広まり、学校は謹慎の意を表して休校となり、神社、寺院、教会では、皇太子平癒の祈祷が行われ、見舞電報は一万通を越えたという。
当時、ロシアは、シベリア鉄道の建設を決意し、その計画が次々と伝えられ、日本人はロシアの極東侵略の準備であるとの危機感を感じており、ロシア皇太子の訪日もそれと関連され、その心理的圧力から大津事件は起こったものとされているがとんでもない事件を起こしたものだ。
天皇と国民の願いかない、日露関係の危機は去ったが、世界屈指の軍事力を擁し、日本の脅威となっている大国ロシアに配慮した当時の政府は、犯人・津田三蔵を極刑にして、ロシア皇帝、国民を納得させる必要があると判断した。しかし外国の王族に危害を加えた場合の国内法はなく、一般人に対する謀殺未遂をそのまま適用すれば、最高でも無期懲役である。そこで、「皇室罪」を適用して巡査を極刑(死刑)にすべしと、司法当局(大審院)に迫った。だが、法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能であるが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになる。従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理があった。事件3日前に大審院院長に就任した児島惟謙(ごしま・これかた)は、三権分立の信念を貫き通し、皇室罪の適用は、我が国憲法を破壊して「裁判史上の汚点となる」と考え、「法によって裁く」との信念で政治介入を断固排除、他の裁判官を説得、皇室罪の適用を退け、「謀殺未遂」(無期徒刑【懲役】)で処断、司法権の独立を保持した。
頑なに法を遵守した児島の念頭には、条約改正問題があったという。幕末に諸外国と結ばれた条約は著しく日本に不利で、たとえば外人が日本国内で罪を犯しても、日本には裁判権がなかった。これは日本の法治制度が十分発達していない野蛮国だとの判断が欧米諸国にあったからであり、今回の事件で安易に法を曲げるようなことをすれば、「刑法ヲ犯シ又憲法ヲ破壊スル」ものであり、わが「司法権ノ信用厳正ヲ失墜スルモノ」となる。各国は「益々(ますます)軽蔑侮蔑ノ念増長シテ、動(やや)モスレバ非理不法ノ要求」をつきつけてくることも要求される、と児島は総理、司法大臣あての意見書で主張したという。
津田を死刑にせねばロシアと戦争になるかも知れず、法を曲げて死刑にすれば、それを口実に欧米諸国はいつまでも条約改正に応じないだろう。内閣全体に一人反対してあくまでも憲政を護ろうとする児島を勇気づけたのは、明治天皇から直接賜った勅語「今般露国皇太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ 注意シテ速カニ処分スベシ」であった。「注意シテ」とは、法律の適用を誤って国家の恥としてはならない、との意味であると児島は受け止めたのだろう。この事件は、明治天皇と政府・国民の君民一体となった皇太子へのお見舞いと、勅語を支えに法治の精神を護った児島惟謙以下の司法官らの見識とで、この明治最大の国難をなんとか乗り切ることができたのである。
なんか、最近同じ様なよく似たことをことを、思い起こしませんか。同盟国アメリカの強い要請で、憲法解釈を曖昧にしながら、イラクに自衛隊を派遣している日本の現状を・・・・。政府の曖昧な憲法解釈と運用、それにたいして、明確な見解を出せない司法・・・明治人なら、今の日本人をどのように見ているんでしょうね~。
(画像は、遊覧中のロシア皇帝ニコライ。朝日百貨・日本の歴史より)
参考:
JOG(161) 国難・大津事件
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog161.html
九 大津事件
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/t-shinya/yowa9.html
大津事件・津田三蔵の新資料発見
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/12news/030207.html
The Story of Yuko Hatakeyama「烈女・畠山勇子」~大津事件秘話~
http://www.asahi-net.or.jp/~ug3h-itkr/yuko.html
1891(明治24)年5月11日は、滋賀県の大津で、日本を訪問し、琵琶湖周辺を遊覧して京都へ帰る途中のロシア皇太子 (ニコライ・アレクサンドロビッチ)が、警護していた警察官に切りつけられ 頭部2カ所に傷を負うという「大津事件」が起こった。傷ついた皇太子は滋賀県庁に運び込まれたが、日本人の医師の診察を断って、京都の宿にひきあげ、神戸に停泊中のロシア軍艦からかけつけた侍医の手で傷口の縫合が行われた。この事件の発生は、内閣とそれを支える元老に衝撃を与えただけでなく、広く国民を不安に巻き込んだ。そうした中で、大国ロシアとの関係悪化を懸念した明治天皇は、すぐに京都に皇太子を見舞われるなど、積極的な宮廷外交を展開され、ロシア皇太子が帰国の前に、明治天皇をロシアの軍艦に招いて別れの宴会を催した時には、天皇は護衛もつけず、単独で出席されるなど、適格な判断に基き行動された、このような、天皇の誠意ある態度によって、ロシアとの関係悪化が免れたといわれている。この間のことは、私の本館HPの神戸のこといろいろ「No41、明治天王とロシア皇帝ニコライ」にも書いてあるので、見てください。日本中が騒然となっていたさなか、東京で奉公をしていた畠山勇子が京都府庁前で5月20日遺書を残しのどをついて死ぬと言う事件も発生している。遺書は、6通あり、ロシア皇太子が予定通り日本遊覧を希望したロシア高官宛の一通もあった。国民の間でも、天皇にならって自分たちもお見舞いをせねば、という機運が全国的に広まり、学校は謹慎の意を表して休校となり、神社、寺院、教会では、皇太子平癒の祈祷が行われ、見舞電報は一万通を越えたという。
当時、ロシアは、シベリア鉄道の建設を決意し、その計画が次々と伝えられ、日本人はロシアの極東侵略の準備であるとの危機感を感じており、ロシア皇太子の訪日もそれと関連され、その心理的圧力から大津事件は起こったものとされているがとんでもない事件を起こしたものだ。
天皇と国民の願いかない、日露関係の危機は去ったが、世界屈指の軍事力を擁し、日本の脅威となっている大国ロシアに配慮した当時の政府は、犯人・津田三蔵を極刑にして、ロシア皇帝、国民を納得させる必要があると判断した。しかし外国の王族に危害を加えた場合の国内法はなく、一般人に対する謀殺未遂をそのまま適用すれば、最高でも無期懲役である。そこで、「皇室罪」を適用して巡査を極刑(死刑)にすべしと、司法当局(大審院)に迫った。だが、法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能であるが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになる。従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理があった。事件3日前に大審院院長に就任した児島惟謙(ごしま・これかた)は、三権分立の信念を貫き通し、皇室罪の適用は、我が国憲法を破壊して「裁判史上の汚点となる」と考え、「法によって裁く」との信念で政治介入を断固排除、他の裁判官を説得、皇室罪の適用を退け、「謀殺未遂」(無期徒刑【懲役】)で処断、司法権の独立を保持した。
頑なに法を遵守した児島の念頭には、条約改正問題があったという。幕末に諸外国と結ばれた条約は著しく日本に不利で、たとえば外人が日本国内で罪を犯しても、日本には裁判権がなかった。これは日本の法治制度が十分発達していない野蛮国だとの判断が欧米諸国にあったからであり、今回の事件で安易に法を曲げるようなことをすれば、「刑法ヲ犯シ又憲法ヲ破壊スル」ものであり、わが「司法権ノ信用厳正ヲ失墜スルモノ」となる。各国は「益々(ますます)軽蔑侮蔑ノ念増長シテ、動(やや)モスレバ非理不法ノ要求」をつきつけてくることも要求される、と児島は総理、司法大臣あての意見書で主張したという。
津田を死刑にせねばロシアと戦争になるかも知れず、法を曲げて死刑にすれば、それを口実に欧米諸国はいつまでも条約改正に応じないだろう。内閣全体に一人反対してあくまでも憲政を護ろうとする児島を勇気づけたのは、明治天皇から直接賜った勅語「今般露国皇太子ニ関スル事件ハ国家ノ大事ナリ 注意シテ速カニ処分スベシ」であった。「注意シテ」とは、法律の適用を誤って国家の恥としてはならない、との意味であると児島は受け止めたのだろう。この事件は、明治天皇と政府・国民の君民一体となった皇太子へのお見舞いと、勅語を支えに法治の精神を護った児島惟謙以下の司法官らの見識とで、この明治最大の国難をなんとか乗り切ることができたのである。
なんか、最近同じ様なよく似たことをことを、思い起こしませんか。同盟国アメリカの強い要請で、憲法解釈を曖昧にしながら、イラクに自衛隊を派遣している日本の現状を・・・・。政府の曖昧な憲法解釈と運用、それにたいして、明確な見解を出せない司法・・・明治人なら、今の日本人をどのように見ているんでしょうね~。
(画像は、遊覧中のロシア皇帝ニコライ。朝日百貨・日本の歴史より)
参考:
JOG(161) 国難・大津事件
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog161.html
九 大津事件
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/t-shinya/yowa9.html
大津事件・津田三蔵の新資料発見
http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/12news/030207.html
The Story of Yuko Hatakeyama「烈女・畠山勇子」~大津事件秘話~
http://www.asahi-net.or.jp/~ug3h-itkr/yuko.html
昨日は、とあるサイトからの経由でしたが、
いいブログとお聞きしていましたし、
以前にも拝見していましたが、長文なので、
片手間に読んでいては、失礼があってはと、
遠慮させていただいていました。
ゆうさん経由かな?楽天のサイトに書き込みいただき
恐縮です。
私の方は、楽天は、ヤドカリで、まともに稼動させていません。
タグが面白いから、タグの公開サイトさんで、お借りしてきては、遊んでいるだけなのです。
yousan02さんは、自己満足のブログとはいえ、
色々調べられる事もおありでしょうし、
簡単な事では、できないし、それを継続させるのも、大変な努力と、感心させられます。
楽天を日記リンクさせていただいて経由してくるべきか、どうか、迷いますが、
楽天サイトからのログインで来ています。
ゆうさんも、とてもお忙しいのですが、
昨日は、早やかったですね。
こちらこそ、よろしくお願いします。
午後に、また伺います。ありがとうございました。
もし、リンクするなら、よろしければ、本館の「よーさんの我楽多部屋」かこのBlogに直接して置いてください。
色々歴史が好きなので、古い本を見ながらボケ防止のつもりで書いています。お付き合いいただければうれしいです。
実家に行かなくてはいけないのですが、今日も、遅刻です。
留守番兼、管理人雑用係りですので、時間は、・・・。
ゆうあいさんは、とても熱心な方なので、おすすめしたんですよ。
一度、お会いした事があります。
小柄な方で、どこにそんなパワーがあるのかと思うくらい、飛び回っていますね。
そのうち、yousan02さんにも、お会いされる機会もあるかもしれませんよ。
歴史の中には、解明されないものもありますが、
真実は、当事者やその世界にいた方ではない限り、わからないところもありますが、
過去があっての今だから、未来に続く橋渡しとして、過去の歴史も大切にしたいものですね。
5月11日は彼の忌日です。生家横の瑞山神社に集まりお参り後直来があります。
今年は私は勤務で参加できませんでした。
武市瑞山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
武市瑞山(たけち ずいざん 文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、江戸時代後期の土佐藩士である。土佐勤王党の盟主。名は半平太、小楯。瑞山は号。贈正四位。
土佐国吹井村(高知県高知市)にて、武市正恒の長男として生まれる。武市家は白札(上級郷士)の家柄で、経済的に恵まれていた。嘉永2年、城下の新町で剣術道場を開く。この道場の門下には岡田以蔵もいた。安政3年(1856年) 江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学ぶ。すぐに塾頭になる剣客ぶりであった。桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流する。
文久元年(1861年) 一藩勤王を掲げ同志を集めて(最終的に2年後には一九二名が連判に参加している)、土佐勤王党を結成。(坂本龍馬・吉村寅太郎らも最初、名を連ねた。他に中岡慎太郎、なども加盟)翌1862年には藩主山内豊範への進言を退けた土佐藩の参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指示。(実行犯は、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助)土佐藩を一藩勤王に動かし、上士格の留守居組に出世する。また、京都に出て、藩の他藩応接役として、他藩の志士たちと関わる一方で朝廷工作に奔走する。京では佐幕派の暗殺に関与し、天誅と称する暗殺行為を指示した(武市の下で動いた人物では、岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛が有名)。
しかし、文久3年8月18日に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変で長州藩が中央政界で失脚すると同時に、自体は一転し、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握る。土佐藩においても、公武合体派の前藩主山内豊信(容堂)が再び影響力を増し、武市にも藩から帰藩命令が発せられ、帰藩後まもなくして入獄。他の勤王党同志も次々と捕縛される。一年半の過酷な獄中闘争のなか、まだ捕まっていない同志を思い、吉田東洋暗殺も否定し続けたという。
だが、後に捕縛された岡田以蔵の自白により武市の罪状は決定し、慶応元年(1865年)閏5月11日、獄中で切腹を命ぜられる。享年36。未だ誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わる。武市家の家禄は召し上げとなった。
武市瑞山は月形半平太のモデルになった土佐勤皇党の党首ですよね。
色白のいい男で、奥さん思いでもあったとか・・・強くて男前・・もてたでしょうね~。
昔の人は国のことを考えて、自分が正しいと信ずる道を進む気骨があったのでしょうね。肝心なことは言を左右にして責任逃れをしている総理大臣とエライ違いです。
ゆうさん、三文字の切腹ってどういうものなんですか?調べたのですが「凄い」ことであるらしいのですがよく解りません。僕にとっては普通の切腹でも凄いのですが。
木綿さんと書いてしまいました
Lindaさんへ
横に、三回切るの?
一度で、首をはねるのが、
怖いから、これで、
次のナイチンゲールに行きます。