原敬暗殺事件(はらたかしあんさつじけん)は、1921年(大正10年)11月4日、当時の首相原敬が、鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された事件。
宮中某重大事件が解決した7か月後の、1921年(大正10年)9月28日、午前9時2分ごろ神奈川県大磯町の別邸に滞在中の安田財閥の創立者・安田善次郎(82歳)は、実在の弁護士を装って会見を求めた「社会事業家」を自認する朝日平吾(31歳)によって刺殺された。犯行後犯人は現場において自殺したが、斬奸状(ざんかんじょう)と遺書も持参していたようだ。
その斬奸状には、「大正十年九月 神洲義団団長 朝 日 平 吾」として、以下のように記されている。
「奸富安田善次郎巨富ヲ作(ナ)スト雖(イエド)モ富豪ノ責任ヲ果(ハタ)サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝(ヒリン=いやしくてけちなこと)ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍(アワレ)ミ仏心慈言ヲ以テ訓(オシ)フルト雖(イエ)ドモ改悟セズ。由(ヨッ)テ天誅ヲ加ヘ世ノ警(イマシ)メト為(な7)ス」・・・と。
又、友人宛の遺書においては、自らの行動を「富豪顕官貴族」を打倒する「最初ノ皮切」と意義づけ、あとにつづけと訴えたものであるが、そこで彼は、日本の現状を、既成の支配層が天皇と国民を隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているという形で捉えており、そして、当面の目標として、以下のように9項目を掲げている。
「第一ニ奸富ヲ葬ルコト、第二ニ既成政党ヲ粉砕スルコト、第三ニ顕官貴族ヲ葬ルコト、第四ニ普通選挙ヲ実現スルコト、第五ニ世襲華族世襲財産制ヲ撤廃スルコト、第六ニ土地ヲ国有トナシ小作農ヲ救済スルコト、第七ニ十万円以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スルコト、第八ニ大会社ヲ国営トナスコト、第九ニ一年兵役トナスコト……等ニヨリ染手スベシ。」・・・と。そして、「シカモ最急ノ方法ハ奸富征伐ニシテ、ソレハ決死ヲモッテ暗殺スル外ニ道ナシ。」・・・と続けている。(※1、※2、※3参照)。
因みに、この遺書には、「大正十年九月三日付で 東宮殿下ヲ奉迎スルノ日ニ書ス」・・・とあるが、東宮殿下とは、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)のことであり、1921(大正10)年3月3日から9月3日までの間ヨーロッパ各国を歴訪(ここ参照)され、この日御帰還された。
この洋行中の6月頃、原 敬首相が総裁である立憲政友会(略称:政友会)内では、内閣改造や内閣総辞職を求める動きが強まった。原は皇太子裕仁親王が洋行中に政変を起こせば、病中の大正天皇が内閣認証などの式典に臨むことになるが、それは病状から見て耐えられないとして、裕仁親王の帰国・摂政就任後に改造を行うとして運動の沈静化を図った。その後原は元老・山縣 有朋らと摂政設置について協議を行っていた。
話はもとへ戻るが、犯人の朝日が、安田を暗殺したのは、「斬奸状」や「遺書」にも見られるように、安田が社会事業に消極的であると見たのが犯行に及んだ理由であると言われている。
犯人は、いわゆる大陸浪人の体験を持ち、右翼系団体に属していたこともある。内田良平、北一輝らへ宛てた遺書を残していたことから、右翼運動に傾斜していたことが窺われるという。
Wikipediaによれば、犯行の原因には前年3月の戦後恐慌で自身は株で大損し、安田財閥の首領・安田善次郎が株を一手に買い占めて2,000万円の利益を得たという噂話を耳にした。この事が 安田暗殺を企てたきっかけとなったという。
大陸浪人の身となり、中国東北部や朝鮮半島を転々としていたがうまくゆかず、1919(大正8)年、失意の内に帰国後、朝日は、神州義団(右翼団体)等の設立を計画し、自らを国士ぶっていたようだが、これも挫折。職も転々とし、行く先々で衝突を起こす日々を繰り返し、自暴自棄から社会への不満を募らせていったようだ。
1921(大正10)年、最後の事業と決めて貧民救済事業に乗り出した朝日にとっては、本来この事業に出資すべきであるのに、利己的になりそれが「亡国修羅」を生む要因となると映っていたためでもあったようだ。
この事件を起こす前には、渋沢栄一の事務所に寄付金の要求に行き、断られると切腹をしかけ当時の金で百円をとっているという。これに味を占めての犯行だろうが、再三要求するも断られ、最後は死を覚悟で安田の暗殺をしたようだ。
当時北は、犯人について第三者として見て、彼は実に立派な死に方であったと称揚したと報じられているという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1921-22号)。
北は朝日の遺書を見て、自らの著書『日本改造法案大綱』と根底において共通する発想を見出したのであろう(※3参照)。
別役実脚本、吉田喜重監督による白黒映画『戒厳令』(1973年)がある。この映画は、当時「日本近代批判三部作」の一つとも呼ばれたようで、昭和11年の二・二六事件によって施行された戒厳令(戒厳参照)を背景に、陰の指導者として処刑された北一輝を軸にストーリーは展開される。
映画の内容は、北一輝の『日本改造法案』に影響を受けた朝日平吾が、安田財閥の当主を刺殺しその場で自殺する。彼の思想に影響を受ける若者が増える中、五・一五事件が起こるがクーデターは失敗。青年将校たちはますます混迷を深める社会情勢を改善すべく、「日本改造法案」を元に武装蜂起を企てる。そして2月26日にクーデターを起こすが、またもや未遂に終わってしまう。・・・といたもの(映画の内容は※4参照)。
当時のマスコミや新聞はこぞって朝日を英雄視したようだ。一方、世間から吝嗇(りんしょく)と批判された安田だだが、東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などは安田の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていなかったが、安田の死後これらの匿名での寄付がつぎつぎ明らかになったという。
金持ちであるのに質素倹約の精神で生きた人だが、実業家としての功績が大きければ、それに対しての羨望や妬みも多いのが人の社会というものだが、そん安田に対してのマスコミの一面からだけの軽薄な報道の相乗効果が吝嗇安田の虚像を創ってしまったようだ。このような、マスコミの報道の在り方は、今でもよく見られることではある・・・。
「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とされている。
●上掲の画像、向かって左:安田善次郎、右:朝日平吾。
明治維新後の日本は、西欧列強に追いつくために、強引な西欧化から近代化を行い、富国強兵・殖産興業を押し進め、西欧列強の植民地政策に追随した帝国主義諸政策を推進していった。
第一次世界大戦中に膨張の極みに達した日本の帝国主義に対する内部告発が1918(大正7)年夏の米騒動であれば、外部からの民族的抵抗が、1919(大正8)年前半の朝鮮の三・一、中国の五・四の両運動であった。これらにより、歯止めをかけられた日本の帝国主義は第一次世界大戦終結により列強の関心が東アジアに再び集まる中で方向転換を図らねばならなかった。
第1次大戦後の経済は物価高を招き、成金続出の陰で勤労民衆をはじめ一般庶民は苦しい生活を強いられてきた。
この安田善次郎暗殺事件の3年前、1918(大正7)年1月、政府が津市の商人(岡半右衛門)に米買占めへの戒告や米穀取引所(米相場参照)に米価高騰のため取引停止命令を発する中、同年7月ロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵へ動く中、戦争特需を狙った売り惜しみで米価が暴騰。富山県魚津町で起こった米騒動は瞬く間に全国的に広まり、軍隊が出動して鎮めなければならない事態にまで発展した。
結局、このシベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣(第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された内閣)が内閣総辞職に追い込まれると、ついに、政党政治を嫌い、藩閥政治(藩閥も参照)にこだわり続けていた山縣有朋も、大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺公望の後任として第3代立憲政友会(単に政友会ともいう)総裁に就任していた原敬を後継首班として認めざるをえなくなった。
こうして、1918(大正7)年9月29日に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされている。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。
そのような時代に、大磯で安田善次郎暗殺事件が起こったわけである。
そして、原首相もこの事件のあった37日後に、安田と同じ運命に遭遇することになった・・・。
1921(大正10年)年11月4日、京都で行われる政友会近畿大会に出席するため、東京駅に着いた原は、現在の丸の内南口付近(「原首相遭難の現場」というプレートが壁にはめ込まれている。)において、「国賊」と叫びながら突進してきた大塚駅の転轍手(てんてつしゅ。転轍機を操作する係。転路手。ポイントマン。分岐器参照) ・中岡良一(当時19歳)によって刺殺された。
盛岡藩の出身で薩長藩閥勢力とは縁がなかったことや爵位も持たなかったことから平民宰相と称された原は,民衆の好意を集めた。そんな原は大正デモクラシーを代表する政治家としての評価が高い。
旧来の閥族政治に変わって原の政党政治を可能にしたのは、米騒動などに現れている民衆の意思であったからであり、原は内閣成立後、高等教育の拡充、 産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の四大政綱なるものを重要な政策課題と位置付け、まずは、米騒動の収拾するため。米穀法を公布し、又、米の輸入自由化の実施をするなど米価の安定に努めたのも、民衆の意思を無視できなかったからというか、その意思に乗ったという点で、一定の進歩性を持っていたことは確かであり、首相就任2年後の総選挙では、原が総裁を務める政友会は、単独過半数を達成している。これは平民宰相原敬の人気に支えられた地すべり的大勝利だった。
しかし、原自身の日頃の立場は、徹底した民主主義の精神とは必ずしも一致したものではなく、原の基本的な立場は、内政面では国力伸長にあったようだ。
政友会総裁の原は金の無心に来る党員に惜しみなく金を配った。また、利権の斡旋もいとわなかったという。政治評論家の馬場恒吾が金のかからぬ政治をやるべきだといったところ、原は言下に「金を欲しがらない人間の社会をこしらえてこい。そうしたら金のかからぬ政治を行って見せる」と答えたという。徹底したリアリストである原の面目躍如というところであろうか。
そして、徳富蘇峰は原の政治を、当面の政治を処理するだけの「今日主義」と断じ、「国家の大経綸」を持たないと批判したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19号)。
「平民宰相」を歓迎するお祭り騒ぎの中で船出した内閣だったが、余りのリアリズムの政治に国民の不満も高まっていた。
原が暗殺された時には、四国や九州では号外売りが万々歳と叫びながら売り歩いたという話が残っているようだ。
ただ原をそれだけの政治家と見るのも一方的だろう。戊辰戦争で賊軍となった南部藩出身で、強大な薩長勢力と闘いながら、政友会基盤の内閣をつくるまでの原の道のりは並大抵のものではなかっただろう。不屈の闘志、おどしを交えた巧妙な駆け引き、大胆な妥協、金の力がなければ挫折していただろう。
「平民宰相」と云われながら、原は普通選挙は時期尚早として最後まで反対した(※6参照)。原のやったことはせいぜい、所得要件を緩和して有権者の数を増やした程度だった。ただこれには、普選に恐怖感をもっていた藩閥の大ボス山科有朋の意を迎える狙いもあったようだ。原自身は、「主義として普選に反対ではないがそこまで行くには順序がある」と明言しているという(※6参照)。
寺内内閣でシベリア出兵が問題になったとき、天皇直属の臨時外交調査会で、兵力はアメリカの提案通り、地域はウラジオストクに限定すべきだとしたのは原と牧野伸顕だけだった。また、ワシントン軍縮会議(1921年)でも、徹底的軍縮で臨んだという。
しかし、原は、政敵である政党に権力を引き渡すよりも、閥族政府に引き継いだ方がましだと考えていた。実際、日露戦争後の政局において、原は政友会が与党となった政権を離れる時には、野党第一党の憲政会に政権を譲らず、元老山県有朋が率いる軍閥・官僚閥に内閣を譲っている。また、原の死後に政友会が政権を離れた際にも、加藤友三郎による超然内閣が復活している。この様な政治のあり方から、大正デモクラシーの内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、原敬はそのどちらにも反対したとして、原敬の反動性を強調する人もいる(板野潤治「日本近代史」ちくま新書※7参照)。
●上掲の画像は暗殺7か月前の4月5日、議会担当者の新聞記者招待会を官邸で行った時の原首相。左端は高橋是清蔵相。
春うららかな日溜りで、議会対策に長けた首相はご機嫌だったが、『宮中某重大事件』にからむ元老・山科有朋の公職辞職問題、普選要求の高まり、労働争議の頻発など多事多端であった.。
1921(大正10年)年、多数与党を背景に政党内閣として最も安定していた原内閣の人気は急落していた。その理由の大きなものは国民が求めた普通選挙の導入に応じず原の平民宰相のイメージを大きく損なってしまったこと。更に、原を窮地に陥れる事件、満鉄[南満州鉄道]疑獄事件が起こり政友会所属の代議士が政府傘下の鉄道会社に鉱山を売りつけ莫大な利益をえていたことが発覚したこと。ニコラエフスク(尼港。現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で起こったロシアのパルチザンによる日本人捕虜虐殺事件の責任が問われたこと(尼港事件参照)など、野党がこれらを理由に内閣不信任案を提出したが、政友会が過半数を占めており、これを否決していた。しかし、原内閣は次第に、政権運営に行き詰っていた。その最中の1921(大正10)年11月、政治の腐敗に憤った青年によって原敬は東京駅で刺殺されたのであった。
中岡に、無期懲役の判決を下した東京地裁の判決理由によれば、原襲撃の理由には先に述べた理由と同時に、実行の強い動機付けになったのは朝日平吾による安田暗殺と,犯人に対する世間の同情が予想外に厚かったことだといわれている(※8の判決文参照)。
中岡の弁護にあたった今村力三郎(大逆事件弁護人)は、全国の新聞から約200の記事を集め、それらを資料として使った弁論において、「原氏に対する社会の反感は驚くべきほど強きものがあった」と指摘しているという。
原の暗殺には謎が多いが、実際には、先に書いた皇太子(裕仁親王)の外遊を勧めたことが直接のきっかけになったとする説が有力だそうである。貞明皇后と皇太子養育係の杉浦重剛が外遊に反対し、右翼の頭山満が同調していた。暗殺の数日前、それを有力者に予告した頭山系右翼もいたという(※9:「歴代政府・内閣に関するデータベース」の第十九代:原敬内閣参照)
宮中某重大事件のことから山縣が失脚したころに、原も右翼から暗殺予告をうけることがしばしばあったようで、暗殺された8か月前の、1921年2月20日付「原敬日記」には以下のように記されている。
2月20日、「夜、岡崎邦輔、平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」・・・と(※10:「原敬事典」の「原敬日記」抄2参照)
●上掲の画像は、1922(大正11)年6月12日、東京地裁で、判決を待つ首相暗殺犯人の中岡良一。
犯行は、中岡艮一の単独犯として処理され、中岡は無期懲役の刑を受け服役した。しかし、凶行の原因、動機または犯人の背後関係等については、裁判所も深く追求せず、しごく手軽に無期懲役の判決がくだったという評も多い。
判決は無期懲役だったが、服役後、3度の恩赦を経て、1934年1月30日に刑務満了により出所している。
確かに原は夢を追う政治家ではなかったにせよ、開明的経綸はあったとみるべきだ。
有島武郎は、当時の読売新聞(11月11日付)に、安田。原暗殺の原因が、政治的・世代的ディスコミュニケーション(和製英語。相互不理解)にあることを指摘し、「心と心との間に挟まっている距離が遠くなればなる程、斯(か)かる事件は起こり易くなります」と説明しているという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1921-22)。
1921年のテロリズムは深刻なディスコミュニケーションが惹起した短絡現象であったともいえるようだ。
原敬のことについては以下参考の※10:「原敬事典」が詳しいのでそこを参考にされるとよい。
また、最後に余談だが、ちょっと、ひとりごとを・・・。
日本初の本格的政党内閣として誕生した原内閣。山縣有朋が政党政治を嫌っていた中に、政党内閣の利権体質や金権政治があった。
先にも書いたが、政治評論家の馬場恒吾が原に金のかからぬ政治をやるべきだといったところ、原は言下に「金を欲しがらない人間の社会をこしらえてこい。そうしたら金のかからぬ政治を行って見せる」と答えたという。
初めての政党政治が起こった大正の時代から、100年近くを経過した今の時代、日本の政治は、そして、政治家を選ぶ権利(投票権)を持っている日本の国民の政治意識は当時とどれぐらい変わっているのだろうか・・・・。
女性の時代だと言って、阿部政権が目玉として選んだ女性議員は・・・。地方の時代を標榜する阿部政権なのだが・・。
山縣有朋がなぜ 政党政治を嫌っていたか?・・・、一度、以下を読んでみては・・・。
日本近代史で再評価 - 山縣有朋記念館
http://www.general-yamagata-foundation.or.jp/research_a_001.html
(冒頭の画像は、1921年[大正10]10がつ、ワシントン軍縮会議に出発する日本全権団を東京駅に見送った時のスナップ。にこやかに笑みを浮かべているが、この20後、東京駅頭で暗殺された。当ページに掲載の画像は、全て、『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年1921-22年号に掲載のものを借用した)
参考:
※1:朝日平吾 斬奸状と
http://www.taimukan.com/asahi01.html
※2;朝日平吾氏の声明
http://shinkoku.exblog.jp/10012543
※3:北一輝論 (5) - 古屋哲夫の足跡
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/39_kita_05/15.html
※4:戒厳令(1973・日本) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv19723/
※5:白米、円二升台となる騰る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00494943&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※6:原政友会総裁の対普選案論 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10107821&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※7:板野潤治「日本近代史」 - 日本語と日本文化
http://japanese.hix05.com/History/kindai/kindai006.itano.html
※8:東京駅での原敬首相暗殺事件
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/nakajima3.htm#0
※9:歴代政府・内閣に関するデータベース
http://www.geocities.co.jp/since7903/rekidaiNaikaku.htm
※10:原敬事典
http://homepage3.nifty.com/harakeijiten/index.html
原敬暗殺事件-.Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
宮中某重大事件が解決した7か月後の、1921年(大正10年)9月28日、午前9時2分ごろ神奈川県大磯町の別邸に滞在中の安田財閥の創立者・安田善次郎(82歳)は、実在の弁護士を装って会見を求めた「社会事業家」を自認する朝日平吾(31歳)によって刺殺された。犯行後犯人は現場において自殺したが、斬奸状(ざんかんじょう)と遺書も持参していたようだ。
その斬奸状には、「大正十年九月 神洲義団団長 朝 日 平 吾」として、以下のように記されている。
「奸富安田善次郎巨富ヲ作(ナ)スト雖(イエド)モ富豪ノ責任ヲ果(ハタ)サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝(ヒリン=いやしくてけちなこと)ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍(アワレ)ミ仏心慈言ヲ以テ訓(オシ)フルト雖(イエ)ドモ改悟セズ。由(ヨッ)テ天誅ヲ加ヘ世ノ警(イマシ)メト為(な7)ス」・・・と。
又、友人宛の遺書においては、自らの行動を「富豪顕官貴族」を打倒する「最初ノ皮切」と意義づけ、あとにつづけと訴えたものであるが、そこで彼は、日本の現状を、既成の支配層が天皇と国民を隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているという形で捉えており、そして、当面の目標として、以下のように9項目を掲げている。
「第一ニ奸富ヲ葬ルコト、第二ニ既成政党ヲ粉砕スルコト、第三ニ顕官貴族ヲ葬ルコト、第四ニ普通選挙ヲ実現スルコト、第五ニ世襲華族世襲財産制ヲ撤廃スルコト、第六ニ土地ヲ国有トナシ小作農ヲ救済スルコト、第七ニ十万円以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スルコト、第八ニ大会社ヲ国営トナスコト、第九ニ一年兵役トナスコト……等ニヨリ染手スベシ。」・・・と。そして、「シカモ最急ノ方法ハ奸富征伐ニシテ、ソレハ決死ヲモッテ暗殺スル外ニ道ナシ。」・・・と続けている。(※1、※2、※3参照)。
因みに、この遺書には、「大正十年九月三日付で 東宮殿下ヲ奉迎スルノ日ニ書ス」・・・とあるが、東宮殿下とは、当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)のことであり、1921(大正10)年3月3日から9月3日までの間ヨーロッパ各国を歴訪(ここ参照)され、この日御帰還された。
この洋行中の6月頃、原 敬首相が総裁である立憲政友会(略称:政友会)内では、内閣改造や内閣総辞職を求める動きが強まった。原は皇太子裕仁親王が洋行中に政変を起こせば、病中の大正天皇が内閣認証などの式典に臨むことになるが、それは病状から見て耐えられないとして、裕仁親王の帰国・摂政就任後に改造を行うとして運動の沈静化を図った。その後原は元老・山縣 有朋らと摂政設置について協議を行っていた。
話はもとへ戻るが、犯人の朝日が、安田を暗殺したのは、「斬奸状」や「遺書」にも見られるように、安田が社会事業に消極的であると見たのが犯行に及んだ理由であると言われている。
犯人は、いわゆる大陸浪人の体験を持ち、右翼系団体に属していたこともある。内田良平、北一輝らへ宛てた遺書を残していたことから、右翼運動に傾斜していたことが窺われるという。
Wikipediaによれば、犯行の原因には前年3月の戦後恐慌で自身は株で大損し、安田財閥の首領・安田善次郎が株を一手に買い占めて2,000万円の利益を得たという噂話を耳にした。この事が 安田暗殺を企てたきっかけとなったという。
大陸浪人の身となり、中国東北部や朝鮮半島を転々としていたがうまくゆかず、1919(大正8)年、失意の内に帰国後、朝日は、神州義団(右翼団体)等の設立を計画し、自らを国士ぶっていたようだが、これも挫折。職も転々とし、行く先々で衝突を起こす日々を繰り返し、自暴自棄から社会への不満を募らせていったようだ。
1921(大正10)年、最後の事業と決めて貧民救済事業に乗り出した朝日にとっては、本来この事業に出資すべきであるのに、利己的になりそれが「亡国修羅」を生む要因となると映っていたためでもあったようだ。
この事件を起こす前には、渋沢栄一の事務所に寄付金の要求に行き、断られると切腹をしかけ当時の金で百円をとっているという。これに味を占めての犯行だろうが、再三要求するも断られ、最後は死を覚悟で安田の暗殺をしたようだ。
当時北は、犯人について第三者として見て、彼は実に立派な死に方であったと称揚したと報じられているという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1921-22号)。
北は朝日の遺書を見て、自らの著書『日本改造法案大綱』と根底において共通する発想を見出したのであろう(※3参照)。
別役実脚本、吉田喜重監督による白黒映画『戒厳令』(1973年)がある。この映画は、当時「日本近代批判三部作」の一つとも呼ばれたようで、昭和11年の二・二六事件によって施行された戒厳令(戒厳参照)を背景に、陰の指導者として処刑された北一輝を軸にストーリーは展開される。
映画の内容は、北一輝の『日本改造法案』に影響を受けた朝日平吾が、安田財閥の当主を刺殺しその場で自殺する。彼の思想に影響を受ける若者が増える中、五・一五事件が起こるがクーデターは失敗。青年将校たちはますます混迷を深める社会情勢を改善すべく、「日本改造法案」を元に武装蜂起を企てる。そして2月26日にクーデターを起こすが、またもや未遂に終わってしまう。・・・といたもの(映画の内容は※4参照)。
当時のマスコミや新聞はこぞって朝日を英雄視したようだ。一方、世間から吝嗇(りんしょく)と批判された安田だだが、東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地などは安田の寄贈によるものであるが、「名声を得るために寄付をするのではなく、陰徳でなくてはならない」として匿名で寄付を行っていたため、生前はこれらの寄付行為は世間に知られていなかったが、安田の死後これらの匿名での寄付がつぎつぎ明らかになったという。
金持ちであるのに質素倹約の精神で生きた人だが、実業家としての功績が大きければ、それに対しての羨望や妬みも多いのが人の社会というものだが、そん安田に対してのマスコミの一面からだけの軽薄な報道の相乗効果が吝嗇安田の虚像を創ってしまったようだ。このような、マスコミの報道の在り方は、今でもよく見られることではある・・・。
「五十、六十は鼻たれ小僧 男盛りは八、九十」は善次郎の言葉とされている。
●上掲の画像、向かって左:安田善次郎、右:朝日平吾。
明治維新後の日本は、西欧列強に追いつくために、強引な西欧化から近代化を行い、富国強兵・殖産興業を押し進め、西欧列強の植民地政策に追随した帝国主義諸政策を推進していった。
第一次世界大戦中に膨張の極みに達した日本の帝国主義に対する内部告発が1918(大正7)年夏の米騒動であれば、外部からの民族的抵抗が、1919(大正8)年前半の朝鮮の三・一、中国の五・四の両運動であった。これらにより、歯止めをかけられた日本の帝国主義は第一次世界大戦終結により列強の関心が東アジアに再び集まる中で方向転換を図らねばならなかった。
第1次大戦後の経済は物価高を招き、成金続出の陰で勤労民衆をはじめ一般庶民は苦しい生活を強いられてきた。
この安田善次郎暗殺事件の3年前、1918(大正7)年1月、政府が津市の商人(岡半右衛門)に米買占めへの戒告や米穀取引所(米相場参照)に米価高騰のため取引停止命令を発する中、同年7月ロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵へ動く中、戦争特需を狙った売り惜しみで米価が暴騰。富山県魚津町で起こった米騒動は瞬く間に全国的に広まり、軍隊が出動して鎮めなければならない事態にまで発展した。
結局、このシベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣(第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された内閣)が内閣総辞職に追い込まれると、ついに、政党政治を嫌い、藩閥政治(藩閥も参照)にこだわり続けていた山縣有朋も、大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺公望の後任として第3代立憲政友会(単に政友会ともいう)総裁に就任していた原敬を後継首班として認めざるをえなくなった。
こうして、1918(大正7)年9月29日に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされている。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。
そのような時代に、大磯で安田善次郎暗殺事件が起こったわけである。
そして、原首相もこの事件のあった37日後に、安田と同じ運命に遭遇することになった・・・。
1921(大正10年)年11月4日、京都で行われる政友会近畿大会に出席するため、東京駅に着いた原は、現在の丸の内南口付近(「原首相遭難の現場」というプレートが壁にはめ込まれている。)において、「国賊」と叫びながら突進してきた大塚駅の転轍手(てんてつしゅ。転轍機を操作する係。転路手。ポイントマン。分岐器参照) ・中岡良一(当時19歳)によって刺殺された。
盛岡藩の出身で薩長藩閥勢力とは縁がなかったことや爵位も持たなかったことから平民宰相と称された原は,民衆の好意を集めた。そんな原は大正デモクラシーを代表する政治家としての評価が高い。
旧来の閥族政治に変わって原の政党政治を可能にしたのは、米騒動などに現れている民衆の意思であったからであり、原は内閣成立後、高等教育の拡充、 産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の四大政綱なるものを重要な政策課題と位置付け、まずは、米騒動の収拾するため。米穀法を公布し、又、米の輸入自由化の実施をするなど米価の安定に努めたのも、民衆の意思を無視できなかったからというか、その意思に乗ったという点で、一定の進歩性を持っていたことは確かであり、首相就任2年後の総選挙では、原が総裁を務める政友会は、単独過半数を達成している。これは平民宰相原敬の人気に支えられた地すべり的大勝利だった。
しかし、原自身の日頃の立場は、徹底した民主主義の精神とは必ずしも一致したものではなく、原の基本的な立場は、内政面では国力伸長にあったようだ。
政友会総裁の原は金の無心に来る党員に惜しみなく金を配った。また、利権の斡旋もいとわなかったという。政治評論家の馬場恒吾が金のかからぬ政治をやるべきだといったところ、原は言下に「金を欲しがらない人間の社会をこしらえてこい。そうしたら金のかからぬ政治を行って見せる」と答えたという。徹底したリアリストである原の面目躍如というところであろうか。
そして、徳富蘇峰は原の政治を、当面の政治を処理するだけの「今日主義」と断じ、「国家の大経綸」を持たないと批判したという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19号)。
「平民宰相」を歓迎するお祭り騒ぎの中で船出した内閣だったが、余りのリアリズムの政治に国民の不満も高まっていた。
原が暗殺された時には、四国や九州では号外売りが万々歳と叫びながら売り歩いたという話が残っているようだ。
ただ原をそれだけの政治家と見るのも一方的だろう。戊辰戦争で賊軍となった南部藩出身で、強大な薩長勢力と闘いながら、政友会基盤の内閣をつくるまでの原の道のりは並大抵のものではなかっただろう。不屈の闘志、おどしを交えた巧妙な駆け引き、大胆な妥協、金の力がなければ挫折していただろう。
「平民宰相」と云われながら、原は普通選挙は時期尚早として最後まで反対した(※6参照)。原のやったことはせいぜい、所得要件を緩和して有権者の数を増やした程度だった。ただこれには、普選に恐怖感をもっていた藩閥の大ボス山科有朋の意を迎える狙いもあったようだ。原自身は、「主義として普選に反対ではないがそこまで行くには順序がある」と明言しているという(※6参照)。
寺内内閣でシベリア出兵が問題になったとき、天皇直属の臨時外交調査会で、兵力はアメリカの提案通り、地域はウラジオストクに限定すべきだとしたのは原と牧野伸顕だけだった。また、ワシントン軍縮会議(1921年)でも、徹底的軍縮で臨んだという。
しかし、原は、政敵である政党に権力を引き渡すよりも、閥族政府に引き継いだ方がましだと考えていた。実際、日露戦争後の政局において、原は政友会が与党となった政権を離れる時には、野党第一党の憲政会に政権を譲らず、元老山県有朋が率いる軍閥・官僚閥に内閣を譲っている。また、原の死後に政友会が政権を離れた際にも、加藤友三郎による超然内閣が復活している。この様な政治のあり方から、大正デモクラシーの内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、原敬はそのどちらにも反対したとして、原敬の反動性を強調する人もいる(板野潤治「日本近代史」ちくま新書※7参照)。
●上掲の画像は暗殺7か月前の4月5日、議会担当者の新聞記者招待会を官邸で行った時の原首相。左端は高橋是清蔵相。
春うららかな日溜りで、議会対策に長けた首相はご機嫌だったが、『宮中某重大事件』にからむ元老・山科有朋の公職辞職問題、普選要求の高まり、労働争議の頻発など多事多端であった.。
1921(大正10年)年、多数与党を背景に政党内閣として最も安定していた原内閣の人気は急落していた。その理由の大きなものは国民が求めた普通選挙の導入に応じず原の平民宰相のイメージを大きく損なってしまったこと。更に、原を窮地に陥れる事件、満鉄[南満州鉄道]疑獄事件が起こり政友会所属の代議士が政府傘下の鉄道会社に鉱山を売りつけ莫大な利益をえていたことが発覚したこと。ニコラエフスク(尼港。現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で起こったロシアのパルチザンによる日本人捕虜虐殺事件の責任が問われたこと(尼港事件参照)など、野党がこれらを理由に内閣不信任案を提出したが、政友会が過半数を占めており、これを否決していた。しかし、原内閣は次第に、政権運営に行き詰っていた。その最中の1921(大正10)年11月、政治の腐敗に憤った青年によって原敬は東京駅で刺殺されたのであった。
中岡に、無期懲役の判決を下した東京地裁の判決理由によれば、原襲撃の理由には先に述べた理由と同時に、実行の強い動機付けになったのは朝日平吾による安田暗殺と,犯人に対する世間の同情が予想外に厚かったことだといわれている(※8の判決文参照)。
中岡の弁護にあたった今村力三郎(大逆事件弁護人)は、全国の新聞から約200の記事を集め、それらを資料として使った弁論において、「原氏に対する社会の反感は驚くべきほど強きものがあった」と指摘しているという。
原の暗殺には謎が多いが、実際には、先に書いた皇太子(裕仁親王)の外遊を勧めたことが直接のきっかけになったとする説が有力だそうである。貞明皇后と皇太子養育係の杉浦重剛が外遊に反対し、右翼の頭山満が同調していた。暗殺の数日前、それを有力者に予告した頭山系右翼もいたという(※9:「歴代政府・内閣に関するデータベース」の第十九代:原敬内閣参照)
宮中某重大事件のことから山縣が失脚したころに、原も右翼から暗殺予告をうけることがしばしばあったようで、暗殺された8か月前の、1921年2月20日付「原敬日記」には以下のように記されている。
2月20日、「夜、岡崎邦輔、平岡定太郎、各別に来訪。余を暗殺するの企てあることを内聞せりとて、余の注意を求めくる。余は厚意は感謝するも別に注意のなしようも無し。また、度々かくのごとき風説伝わり、時としては、脅迫状などくるも、警視庁などに送らずしてそのまま捨ておくくらいなれば、運は天に任せ何ら警戒等をくわえおらざる次第なり。狂犬同様の者にあらざるかぎりは、余を格別憎むべきはずもこれ無しと思うなり。」・・・と(※10:「原敬事典」の「原敬日記」抄2参照)
●上掲の画像は、1922(大正11)年6月12日、東京地裁で、判決を待つ首相暗殺犯人の中岡良一。
犯行は、中岡艮一の単独犯として処理され、中岡は無期懲役の刑を受け服役した。しかし、凶行の原因、動機または犯人の背後関係等については、裁判所も深く追求せず、しごく手軽に無期懲役の判決がくだったという評も多い。
判決は無期懲役だったが、服役後、3度の恩赦を経て、1934年1月30日に刑務満了により出所している。
確かに原は夢を追う政治家ではなかったにせよ、開明的経綸はあったとみるべきだ。
有島武郎は、当時の読売新聞(11月11日付)に、安田。原暗殺の原因が、政治的・世代的ディスコミュニケーション(和製英語。相互不理解)にあることを指摘し、「心と心との間に挟まっている距離が遠くなればなる程、斯(か)かる事件は起こり易くなります」と説明しているという(『朝日クロニクル週刊20世紀』1921-22)。
1921年のテロリズムは深刻なディスコミュニケーションが惹起した短絡現象であったともいえるようだ。
原敬のことについては以下参考の※10:「原敬事典」が詳しいのでそこを参考にされるとよい。
また、最後に余談だが、ちょっと、ひとりごとを・・・。
日本初の本格的政党内閣として誕生した原内閣。山縣有朋が政党政治を嫌っていた中に、政党内閣の利権体質や金権政治があった。
先にも書いたが、政治評論家の馬場恒吾が原に金のかからぬ政治をやるべきだといったところ、原は言下に「金を欲しがらない人間の社会をこしらえてこい。そうしたら金のかからぬ政治を行って見せる」と答えたという。
初めての政党政治が起こった大正の時代から、100年近くを経過した今の時代、日本の政治は、そして、政治家を選ぶ権利(投票権)を持っている日本の国民の政治意識は当時とどれぐらい変わっているのだろうか・・・・。
女性の時代だと言って、阿部政権が目玉として選んだ女性議員は・・・。地方の時代を標榜する阿部政権なのだが・・。
山縣有朋がなぜ 政党政治を嫌っていたか?・・・、一度、以下を読んでみては・・・。
日本近代史で再評価 - 山縣有朋記念館
http://www.general-yamagata-foundation.or.jp/research_a_001.html
(冒頭の画像は、1921年[大正10]10がつ、ワシントン軍縮会議に出発する日本全権団を東京駅に見送った時のスナップ。にこやかに笑みを浮かべているが、この20後、東京駅頭で暗殺された。当ページに掲載の画像は、全て、『朝日クロニクル週刊20世紀』1918-19年1921-22年号に掲載のものを借用した)
参考:
※1:朝日平吾 斬奸状と
http://www.taimukan.com/asahi01.html
※2;朝日平吾氏の声明
http://shinkoku.exblog.jp/10012543
※3:北一輝論 (5) - 古屋哲夫の足跡
http://www.furuyatetuo.com/bunken/b/39_kita_05/15.html
※4:戒厳令(1973・日本) | Movie Walker
http://movie.walkerplus.com/mv19723/
※5:白米、円二升台となる騰る - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00494943&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※6:原政友会総裁の対普選案論 - 神戸大学 電子図書館システム
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10107821&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
※7:板野潤治「日本近代史」 - 日本語と日本文化
http://japanese.hix05.com/History/kindai/kindai006.itano.html
※8:東京駅での原敬首相暗殺事件
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/nakajima3.htm#0
※9:歴代政府・内閣に関するデータベース
http://www.geocities.co.jp/since7903/rekidaiNaikaku.htm
※10:原敬事典
http://homepage3.nifty.com/harakeijiten/index.html
原敬暗殺事件-.Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC%E6%9A%97%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6