今日のことあれこれと・・・

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高田馬場の決闘が行われた日

2010-02-11 | 歴史
元禄7年2月11日(西暦:1694年3月6日)、この日の昼前、江戸郊外の高田馬場伊予国西条藩松平頼純の家臣たちによる果し合いか行なわれ大勢の死者をだした。これが、「高田馬場の決闘」と言われるものである。
講談調に書けば、“時は元禄7年(1694年)2月11日、呑兵衛安の異名をとっていた安兵衛は、この日もしこたま飲んでの朝帰り。昼近くになってようやく叔父菅野六郎左衛門からの書き置きのあることを知り、一読するや脱兎のごとく駆けだした。とにかく、走る、走る、走る・・・。八丁堀から鍛冶橋・竹橋・飯田橋・改代町・馬場下と走りに走って高田馬場へと飛び込んだ。この時、既に伯父は深傷を負って虫の息。「叔父上、安兵衛が参りましたぞ!しっかりなされい!」。周囲は村上方の侍で取り囲まれている。”・・・。
ここから、後に、赤穂義士として名をあげた堀部武庸(通称:安兵衛。当時は、中山安兵衛)の、高田馬場での仇討ちが始まる。言い伝えによれば、このように、安兵衛は、酒に酔い、叔父の決闘に間に合わなかった。駆けつけた安兵衛は、見物人の娘から赤いしごき( Yahoo!百科事典参照)を借り、たすき(襷)にかけ、叔父のかたき18人を切って落としたという。安兵衛この時、23~4歳の頃であった。
講談などによる安兵衛は大酒飲みで「呑兵衛安」「けんか安」などと言われ、住まいも、江戸・京橋八丁堀と言う設定になっており、江戸の下町であるこの場所にある長屋でごろごろしていた。叔父の仇討ちのときも酔っ払って帰ってきて、初めて、その手紙が来ているのを見て、韋駄天(いだてん)走りに高田馬場まで走っていったようなある種欠陥のある人間として描かれているのであるが、そのような完璧でないところに人間味があり、又、講談本などにはやや誇張もあるが故に人気があると言える。
安兵衛は、長屋から高田馬場まで駆けつけるが、決闘の舞台となった高田馬場は、大阪夏の陣の戦い時、徳川軍の馬揃えが行われた場所であり、その後長さ700メートルほどの馬場が置かれ、馬に乗って弓を射る流鏑馬(やぶさめ)の稽古が行われていた(当時の高田馬場の風景は、以下参考の※:「わたし彩の『江戸名所図絵』0371高田馬場」を参照)。
ここは、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく新宿区西早稲田にある。安兵衛の住まいの江戸・京橋八丁堀からだと、走りに走っても2時間近くはかかってしまうので、実際に住んでいたのは、牛込納戸町(新宿区)あたりであったという。ここからなら、歩いて30分ほどの距離である。ここだと、播州赤穂・浅野家の家臣で、堀部弥兵衛の妻と娘が、築地鉄砲洲(現在の明石町) の屋敷から雑司ケ谷・鬼子母神への参詣の帰り、高田馬場の仇討ちに行き当たったという言い伝えは地理的に納得できる(位置関係はここ⇒Googleマップ牛込付近参照)。
安兵衛は、高田馬場を目指して走ってゆくが、言い伝えでは、途中道端の酒屋で桝酒を一杯飲み干し、又走り続けたというが、現在でもその酒屋は、営団地下鉄東西線早稲田駅前に残り、桝は今も大切に保存されているという(以下参考の※:「有限会社 リカーショップ小倉屋」参照)。しかし、幾ら酒飲みだといっても、助人として一刻を争って駆けつけているときに途中景気づけで酒を飲むなどする余裕はあるはずもないだろう。講談本などでは、仇討ちが済んでから飲んだことにしているようだ。それに、安兵衛は、大酒飲みのように言われているが、実際には余り酒を飲まなかったとも言われているようだ。まあ、講談など物語の世界では、赤穂浪士の赤垣源蔵も大酒飲みとして扱われ、討ち入り前に羽織を兄に見立てて酒を酌み交わし別れを告げる「徳利の別れ」など有名な場面であるが、実際には源蔵に兄はおらず、源蔵自身は下戸であったと言われている。講談の世界の剣豪は酒飲みであったり、粗忽者であったりした方が面白くなるからだろう。
中山安兵衛は、寛文10年(1670年)、越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男として新発田にて誕生した。母は新発田藩初代藩主溝口秀勝の五女溝口秋香と新発田藩士,溝口四郎兵衛の間にできた六女であり、したがって安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人にあたるが、その母は、安兵衛を出産した直後の寛文10年(1670年)5月に亡くなっている。父・弥次右衛門も安兵衛が13歳のときの天和3年(1683年)、藩を追われ浪人(櫓失火の責によるといわれている)し、まもなく病死したため、孤児となった安兵衛は、その後、親戚や嫁にいった姉の家などを転々としていたようである。二十歳の頃江戸へ出るが、それまで、各地で剣術を磨いていたようだ。
講談などでは、安兵衛の修得した剣術は、馬庭念流だったとしている。“越後から江戸へ出る途中、上州(ほぼ現在の群馬県)の馬庭が順路に当ることから、自然と念流の門を叩くようになり、3年間内弟子の修業をしたそうだ。だから、高田馬場の仇討も、無構えのヘッピリ腰でやった筈で、さだめし相手も面くらったに相違ない。”・・・と、坂口安吾も、「安吾武者修業(副題: 馬庭念流訪問記 )」の中で書いている(以下参考に記載の「青空文庫」参照)通り、馬庭念流は、腰を思いきり引いて、重心を後ろの足に置くと言う他の流儀には見られない、一見不格好だが相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守り主体の流派であるとされている。馬庭地域の庶民の護身術として広まったそうだ。だが、馬庭念流の道場の中で安兵衛は余り強くはなかったという説もあるようだが・・・。
長井家の縁戚を頼って江戸へ出てきてからは、小石川牛天神下にある剣客堀内源太左衛門に入門、天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになったという。そのとき、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。)と親しくなり、甥・叔父の義理を結んでいたが、六郎左衛門が同じ伊予西条藩の村上庄左衛門と高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛が助っ人として、六郎左衛門の果たし合いに同行することとなったようだ。
安兵衛は、剣豪というイメージよりも、「呑兵衛安」「けんか安」などと庶民的な人気者となっているが、「けんか安」というのは、喧嘩ばかりするというのではなく、町人が喧嘩などするのを仲裁し、その礼に一緒に一杯やるというような手口で、酒を飲んでいた暴れん坊といったイメージが強い。しかし、江戸に出てきて、堀内道場で腕を磨き、大名屋敷への出張稽古の依頼などもあったというから、浪人とはいえ、それなりの収入はあったようだ。そんな、喧嘩仲裁により、酒のご相伴に預かるなどというのも考えにくい。それに、浪人はしていても中山家を再興しようと剣術の修行をしながら江戸に出てきた誇り高い武士としての行動が見られ、講談のように飲んだくれて、助っ人の以来に、後で気づき長屋からバタバタ、走りに走って駆けつけたのではなく、最初から、六郎左衛門と共に同道したというのが真実に近いのであろう。
高田馬場で18人を切って落としたといわれているが、実際には3~4人と言われており、刀でそんなに人を切れる訳もないだろう。又、高田馬場では見物人の17~8の娘の母親が娘の腰紐を、貸してやりそれをたすきにしたと言うのは講談の話で、そんな人はいなかったようだが、見物人の中には、たまたま、堀部弥兵衛の妻が居て、見ていたことを報告したので、弥兵衛がたいそう気に入り、自分の養子にしたいといいうことになった・・・と言うことはあるかも知れない。
安兵衛の高田の馬場での活躍を知って気に入った堀部弥兵衛は、ある事情から自分の嫡男を亡くしていた(男色関係のもつれから妻の縁戚の本多喜平次に殺された又、弥兵衛自身が討ち取ったとも言われているらしい)ことから、安兵衛に養子縁組を申し入れたが、この申し込みに対しても、安兵衛は中山家を潰すわけにはいかないと断るが、中山姓のままでよいからどうしても来てくれと言う強い熱意に負け、中山姓のまま堀部家の婿養子に入り、弥兵衛の娘ほりと結婚、また、浅野家家臣に列することになった。そのような状態で3年ほどいたが、元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、安兵衛は先の約束に基づいて中山姓のままでもいいはずであったが、堀部姓に変えている。そこには、したたかで、老獪な弥兵衛が、安兵衛が男意気に感じて堀部姓を受けざるを得なくなるよう、巧みに誘導したのだろう。しかし、Wikipedia、にもあるように、安兵衛は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類されているという。堀部家は赤穂浅野家譜代の臣下であるはずなので中山姓のままの「堀部家の養子」というのはおかしく、そのような、異例の養子入りの仕方であったことから、弥兵衛は、堀部家とは事実上別家扱いとされたのであろう。
それでも、赤穂藩で安兵衛は、200石の禄を受け御使番、馬廻役(馬廻りは役職というより武士の階級。騎乗できる武士のこと。騎乗できない武士中小姓【小姓参照】の上位。)となっていたのだが、浅野家に仕えて4年目の、元禄14年(1701年)3月14日(1701年4月21日)、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で、吉良上野介(義央)に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まり、またまた、浪人となってしまった。赤穂浪士の中で、安兵衛は吉良邸討ち入りの急先鋒となり、京都山科に隠棲したままなかなか行動しない大石内蔵助に対してわざわざ江戸から討ち入りを促しに行ったりもしている。そして、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石内蔵助・堀部安兵衛ら四十七士は、本所松阪の吉良上野介の屋敷へ討ち入り、見事上野介を討ち取りその本懐を遂げた。
安兵衛の時代は、元禄の世である大阪夏の陣の戦いが終わってからすでに70年が経ち、将軍徳川 綱吉のもとで生類憐れみの令の発布されていた泰平の世の中であった。この頃になると、武士が浪人すると剣術などと言うものは、食べてゆくには余りにも役にたたなかった。京・大阪を中心に、江戸でも庶民文化が発展した時代であり、その担い手として武士階級出身の者も多かった。剣術よりも医学の心得や習字が得意でそれを教えられる者の方がよかったが、安兵衛は、剣術も出来たが、堀部弥兵衛が安兵衛を養子にするには、「才覚をもって養子にした」とする研究もあるようで、事実、安兵衛は書道のたしなみもありなかなかの腕前だったらしい。そうすると、安兵衛は飲兵衛の暴れ者どころか文武両道の立派な武士で、それを見込んで婿養子にしたこの弥兵衛と言う老人は相当な策略家だといえるね~。
泰平の世に安兵衛は高田馬場の仇討ちで有名になり、それが縁で、浪人から、士官ができためずらしい存在である。浅野家の家来は300人ほど居たようであるが、討ち入りに参加した47人は、比較的下級の侍ばかりだった。食えなくなったので仕方なく討ち入りに参加したと言ううがった見方があるのも、一理があるようには思われる。
この吉良邸への赤穂浪士の討ち入り(元禄赤穂事件)は「喧嘩両成敗」を根拠に吉良上野介を成敗すべしと行なわれたものであるが、確かに「喧嘩両成敗」は、秩序が崩壊した戦国時代に誕生した慣習法であつった。
それは、かぶき者が好んだ法であり、戦国武将でもある徳川家康や徳川秀忠の時代にはこれを幕法として採用もしたが、この赤穂浪士討ち入り事件が起ったのはすでに70年年近い時を経た元禄時代、つまり泰平の世での出来事であった。
この浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件は、芝居などでは、吉良を悪者とするものが多いが、浅野の方が非常識なところがあって、しきたりを守らない、田舎の殿様のヒステリーが事件を招いたとする説もある。しかし、討入りの後は、義士の行動の方に感激し、助命したいとするものも多く、幕府内も処置に手を焼くが、結局、幕府首脳や荻生徂徠ら儒学者はこれを認めない処置を下した。つまり、天下泰平の時代に「世の中を騒がせた罪」が大きいということになったわけである。
兎に角、安兵衛は、太平の世に、2度も仇討ちを果たしたものの、2度目の仇討ちは士官どころか他の義士と共に全員切腹をおおせつかることとなってしまった。元禄の世に、安兵衛の考えているような武士道・・・主君の為に仇討ちを考えるような
、ある意味で心情的な武士道はすでに、廃っていたのである。
(画像は、復讐談高田馬場。画題:「中山安兵衛 市川権十郎」 上演年月日:明治24 (_1891)年11月。上演場所:東京・ 歌舞伎。興行名:復讐談高田馬場。絵師::香朝樓
画像は、以下参考の※:「早稲田大学 演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション:演劇博物館浮世絵閲覧システム」 作品番号:101-4794を借用。)
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