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徳川吉宗が、「上げ米(あげまい)の制」を開始した日。

2006-07-03 | 歴史
1722(享保7)年の今日(7月3日)は、 徳川吉宗が、「上げ米(あげまい)の制」を開始した日。
「上げ米の制」とは、1716~1745(享保1~延享2)年に行った「享保の改革(きょうほうのかいかく)」の中でとられた政策である。「享保の改革」は、江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗の在任期間中の1716年から1745年に行われた幕政の改革のこと。財政安定策が主眼であった。 寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つである。
「上げ米の制」は、江戸幕府の財政を救うため、第8代将軍徳川吉宗が出したもので、諸大名から石高1万石につき100石の米を上納させる代わりに江戸に1年(国もとに1年)の参勤交代を半年(国もとに1年半)に短縮するという政策であり、その法令を「「上げ米令」と呼ぶ。
「旗本に今ぞ寂しさ増さりける 御金もとらで暮らすと思えば」
「はなさじと思えど例の質屋まで ふりゆくものはいしょうなりけり」
「幕が支給する録米(ろくまい=給与)が、遅れたので」という、前書きで始まる一連の狂歌から。(所収は『享保世話』)旗本に対する扶持米の支給が滞ったことを皮肉っている。
領主財政が行き詰まる時期はいがいに早く、徳川体制が始まって5、60年経った4代将軍家綱の治世の半ばには、かなりの多くの藩が財政難に喘いでいたという。諸般が、年貢収入に依存しているのに対して、幕府はにはその他に鉱山収入、貿易収入などがあって、財政状況はかなり良かった。しかし、元禄の末年(1704年)ごろから、困窮が目立ち始め、吉宗が8代将軍になったころは、旗本の給与遅配という、ぎりぎりの線まで追い込まれていたようだ。
吉宗は、将軍になるや、彼を将軍に迎えた井上正岑(まさみね)・土屋正直・久世重行・安部正喬(まさたか)・戸田忠真(ただざね)の5名の老中に簡単な質問をしたという。土屋は3問中2問回答できたが、後の4人はなにも答えられなかったという。井上は幕府の1年間の年貢収入高を、又、久世は江戸城の櫓の数もしらなかったそうだ。吉宗は、調べて報告するという彼らに「それには及ばぬ」といって、2度とこの件には触れなかったという。本当かどうかはわからないが、吉宗が将軍になるやそれ以降この5人を牽制していたのは確かなようである。
代わって、吉宗に抜擢されたのが、水野忠之と、松平乗邑(のりさと)であった。
吉宗は将軍になったとき早速、幕府経済顧問の室生鳩巣(むろうきゅうそう)に財政難について諮問したが、鳩巣は、上方の富豪からの借金政策を進言した。しかし、このような、1時凌ぎ的名な鳩巣の富豪からの借金政策を退けて、水野たちに任せたのである。水野は大変計数に明るい人物だったようで、吉宗がいよいよ享保の改革の本番、幕府財政の再建問題に取り掛かるや、1722(享保7)年、勝手係老中に任命され、その責任者となる。そして、(イ)年貢を思い切ってひきあげる「年貢増徴策」、(ロ)新たな耕地を開発して課税対象を広げる「新田開発策」、(ハ)2策の実施効果があがるまでの臨時的措置として、「上げ米」を実施するの3点を中心政策としたのである。
吉宗は、この「上げ米令」を公布するに当って、在府大名全員を江戸城大広間に招集し、自ら頭を下げて幕府の困窮した財政事情と再建策を詳細に説明し、協力を要請した。この中で、このままではもはや、旗本御家人の人員整理をする以外に方法はない」「御恥辱を顧みられず」といった言葉が見られるという。以下に、将軍以下幕閣たちが、非常の決意でこの改革に取り組んだかが示されている・・・とはいうものの、幕府以上に財政が困窮している諸大名にとっては、どえらい問題であったろうし、年貢を増徴された民衆もたまったものではなかったろう。したがって、この享保の改革の中心的政策は、それなりの成果は上げたが、それだけに、その政策に対する批判が、あったことは想像できる。
先にも述べた。『享保世話』という面白い書物がある。1722(享保7)年から1725(享保10)年ごころ、江戸市中に流れた巷談を集めたもので、当時勧められていた、享保の改革を風刺した話が多く収められている。(『享保世話』=旗本新見正朝編の『近世風俗見聞集』に所収、3巻。)
その1つに『物揃(ものぞろえ)』は、当時の政府首脳を肴にした大変興味深い部分である。
「上(あ)げ米(べい)といへ上げ米(まい)は気に入らず 金納ならば しゞうくろふぞ」
しじうくろふぞは、1万石につき100石の上米は、金納ならば49両となるので、これを「始終苦労」とかけて皮肉っている。
「上(かみ)の御数寄(おすき)なもの 御鷹野(おたかの)と下(しも)の難儀」
と先ず、将軍吉宗の批判から始まっている。吉宗は無類の狩猟好きで、特に鷹野を好んだことを、当時強引に進められていた「年貢増徴策」を軸とする改革とからめて批判したものである。鷹場に指定された地域の農民は農作物を荒らす鳥獣の駆除を禁じられて大迷惑したことだろう。
「死んでも人のおしまぬもの 鼠取らぬ猫と井上河内守」
「毒にも薬にもならぬもの 白湯(さゆ)と戸田山城の守」
とあり、先に述べた吉宗援立の老中であった井上や戸田たちが、吉宗の意図通り、完全に骨抜きにされていたことが窺える。
「年貢増徴策」、「新田開発策」、「上げ米の制」など、3つの政策は、それなりに成果を上げたものの、祖の政策に対する批判が水野に集中したのも無理はなく、『物揃』では、次のように彼をこき下ろしている。
「無理で人をこまらせるもの 生酔いと水野和泉守」
この後、吉宗は次の課題である「米価安の諸色高」現象に取り組む。先ず4代家綱以来の「空米(からまい)取引(不実商)」の禁止」と「酒造制限」という幕府の米価政策の2本柱を、180度転換した。又、この他、諸大名に米を買わせる「買米令(かいまいれい)、江戸・大阪といった米市場に米の持込を制限する「廻米制限令」などあらゆる手をうって、吉宗は「米将軍」という渾名をを奉られるほどだったが、結局のところ、これら、米価引き上げ政策は成功しなかった。
そして、1730(享保15)年、水野は、突然「近年病がちであるので休養するように」と老中職を解かれた。しかし、脇に追いやられていたはずの同じ老中の久世、戸田、井上などは、辞職を願い出ても許されず終生老中であったことから、水野の病は口実で罷免だったろうという噂が巷に流れた。強引な年貢引き上げ策、またいつまでたっても実現しない米価引き上げ(米価下落で一番困るのは、武士と農民である)、これらの非難を水野1人にかぶせて、その責任をとらせて、将軍吉宗が自らの安全をはかったというのが、この解任劇の真相らしい。水野忠之の後を襲って勝手掛老中に任ぜられた松平乗邑もその後、享保の改革に取り組んでいるが、彼も水野同様に皆からの非難をあび、水野同様損な役割を担わされ、最後は罷免されている。強引な「年貢増徴策」をとった場合、農民側からの反発があるのは当然で、享保の改革期は、又、天領における百姓一揆の著名な高揚期となっており、吉宗の時代、天領各地で一揆が続発している。「上げ米の令」は財政が一応好転をみたとの理由で水野が老中を退いた1730(享保15)年に廃止されている。
テレビや映画などで見る庶民の味方・名君吉宗像とはちょっと違った側面が窺えませんか。
吉宗や水野の行った改革はあくまで、徳川家の財政の建て直しを行ったのであり、むしろ、諸大名、農民など庶民は祖の犠牲になったのだよね。バブル期には金儲けのためにいい加減なところに投資をしていた銀行などがバブルが弾けて潰れそうになると、庶民の税金を投入し、預金利息もまともに払わず、財政再建をしているようなもの。次は、どうにもならないくらいの多額の赤字国債を発行している国の財政を何とかするために、増税を画策している政府が待っているよ。
(画像は、「江戸の打毀(うちこわし)」享保の改革のさなか、各地に百姓一揆が起こり、将軍のお膝元江戸市中でも享保18年に大米穀商高馬間伝兵衛の店が市民に襲われた。東京国立博物館蔵。週刊朝日百科「日本の歴史」掲載分より)
参考:
享保の改革 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
享保の改革 
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E321R100.HTM
享保の改革 きょうほうのかいかく
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/116680.htm
「寛政の改革批判」(『享保世話』)-史料日本史(0748)
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/siryo/0701_0750/0748.htm
幕政の改革「享保の改革」(1)
http://www.melma.com/backnumber_10441_267313/
幕政の改革「享保の改革」(2)
http://www.melma.com/backnumber_10441_267314/


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2 コメント

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自分たちだけ (Linda)
2006-07-03 10:50:36
よーさん、お早うさんです。

何時の時代でも為政者は自分たちのことだけを考えているような気がしますね。

ポチの改革も殆ど成功しませんでした。国のことを考えて国民のことを考えない。いったい国って何でしょう。
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役人天国 (よーさん)
2006-07-04 06:59:26
Lindaさん、本当に国ってなにでしょうね~。

歴史を振り返ると、日本人は、お国のために働かされ続けていますよね~。そのお蔭で、役人天国が出来上がりましたね。
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