今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ひかわ銅剣の日

2008-07-12 | 歴史
今日(7月12日)は、「ひかわ銅剣の日」
1984(昭和59)年の今日(7月12日)、島根県簸川郡斐川町の南にある小さな谷「荒神谷」(荒神谷遺跡)から弥生時代銅剣が発見され、その数は全国最多の358本に達した。
荒神谷遺跡は、1983(昭和58)年広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡調査が行われた際に調査員が田んぼのあぜ道で古墳時代須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌1984(昭和59)年に谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土したという。
遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にある(場所はGoogle地図参照)。
銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、その翌1985(昭和60)年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)6個、と銅矛(どうほこ)16本が出土した。このように、銅矛と銅鐸が1ヶ所から発見されたのは全国でも初めてのことであった。それまでは、青銅器の中でも、銅剣や銅矛は九州地方を中心として、銅鐸は近畿地方を中心として多く見つかったことから、九州地方と近畿地方では青銅器の文化がちがうことから、九州地方・近畿地方、それぞれに強い勢力をもつ国があったと考えられていた。しかし、荒神谷遺跡で大量の銅剣、それに銅矛や銅鐸までもが見つかったことから、出雲にも強い勢力をもつ国があったと考えられるようになった。
銅剣は1985(昭和60)年、銅鐸・銅矛は1987(昭和62)年に国の重要文化財に指定されていたが、1998(平成10)年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定された。このことから、大量の銅剣が発見された7月12日を記念して、斐川町では2000(平成12)年から、この日を「ひかわ銅剣の日」と定めた。記念日の名称は全国公募し選ばれたものという。遺跡自体は1987(昭和62)年に国の史跡に指定されていたが、斐川町が中心となり1995(平成7)年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005(平成17)年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われている。現在、出土品は文化庁が所蔵し、昨2007(平成19)年3月に出雲市大社町に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に保管され、常設展示されているそうだ。
先史時代の歴史区分法の1つに、主に利用されていた道具の材料で時代を、石器時代青銅器時代鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法の採用があり、鉄器時代はその中の最後の時代に相当するが、日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と、鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海、を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。
西部地方は後に衰えを見せるが、特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は「国引き神話」として後に『出雲風土記』と呼ばれる地誌の中の「意宇郡(おうのこおり)」に記されている。
以下では『出雲風土記』 の、全文が記載され、大略が書かれている。(原文は漢文)。
出雲國風土記(全文)-あゆみ(歩)
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
この意宇郡に、「八雲立出雲國者「狭布之推國」在哉」(やくもたついずものくには「さふのおすくに」にあるかな)、つまり、八雲立つ(出雲の國にかかる枕詞)出雲の國は「狭幅の麻の布地をおおいに押し広げて1つの国になった。」・・・というのである。
神代の昔、出雲の国々をお引きになられた「八束水臣津野命」(ヤツカミズオミツヌノミコト)という神様は、出雲国を見渡してこう言った。「なんと狭い国なんだろう。小さく作り過ぎたのだな。ひとつ足らないところを継ぎ足してやれ」といい、国引きをはじめる。そしてはるか彼方を見渡すと新羅国に少し余裕があるように思えたので、大きな鋤(すき)を手にして、その一部を素早くグサリと断ち切り、強い綱をかけて「国よ来い。国よ来い」とゆっくりゆっくり引っ張ってきた。杵築の御碕(きづきのみさき)(現在の大社町日御碕から平田市小津・平田までの地域)がそれ。同じようにして臣津野命は北方の佐伎(さき)国、良波(よなみ)国、北陸の都都(つつ)の岬の一部を断ち切り、引っ張って来た。これらは、それぞれ狭田(さだ)国(平田市小津から鹿島町鹿島町多久川の切れ目までの地域)、闇見(くらみ)国(鹿島町多久川から美保関町北浦、稲積までの地域)、三穂碕(みほのさき)(美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての地域)となった。この時、これらを引っ張った綱は薗長浜(そのながはま=稲佐の浜国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」【古事記】、「五十田狭の小汀」【『日本書紀』などの名がみえる・夜見島(よみのしま=弓ヶ浜半島)となり、引っ張ってきた国を固定するために左右に打ち込まれた杭が、それぞれ佐比売(さひめ)山(現在の三瓶山)、火神岳(ひのかみのたけ。大山のこと)になったという。(※国引きをはじめてからの地名等は、以下参考に記載の島根県広聴広報課HP・島根PR情報誌「シマネスク」などを参考)
この「三穂埼」を引き寄せて、「国引き」を完了した神は、意宇の杜に杖を突き立てて「おう」と言われた。それで現在の郡が「意宇郡」と呼ばれるようになったというのである。『出雲風土記』 には、意宇という地名の由来を説明するために、国引き神話を長々と引用している。そして、当時の出雲の國には”9(玖)郡 郷【61】(陸拾壹) 里179 餘戸 4(肆) 驛家 6(陸) 神戸 7(漆) 里12」があったとして、その内容を細かく記している(出雲國風土記(全文)-あゆみ(歩)参照)。
この国引き神話は、出雲国の成り立ちを示したものであるが、八束水臣津野命が国引きをした範囲は、同じ日本海沿岸の北陸地方や、対岸の朝鮮半島(韓半島)まで及んでいるが実際には、その頃にはまだ新羅は建国されていないはずなのだが・・・。兎に角、このような各地における国引き・・国作りの神話を集約し総括して作りあげられたのが、大国主命(おおくにぬしのみこと。『出雲国風土記』における尊称は、所造天下大神【あめのしたつくらししおほかみ】 )の国作り神話であると考えられる。
大国主命は、『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』などでは、スサノオの六世の孫などとされており、時代的には色々矛盾がある。
スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、葦原中国の国作りを完成させる。国土を天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となる。
日本神話によれば、大国主大神が天津神に、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)を譲りわたす際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿「天日隅宮」(あめのひすみのみや)が造営され、天穂日命(アメノホヒ)を大国主大神に仕えさせた。この天日隅宮が、出雲国一宮出雲大社の始まりであるという。その門前町は旧簸川郡大社町杵築東195にある。地名「杵築」の由来については、『出雲国風土記』の出雲郡杵築郷の條に”。"八束水臣津野命"之 國引給之 後、所造天下大神之宮 、将レ奉 而、諸皇神 等 参集 宮處、杵築。故、云「寸付」。神亀3年、改字「杵築」。”・・・とあり、諸皇神達がこの宮(大社)をキヅき給うたので「キヅキ」と称するようになったと伝えている。そして神亀3年(726)に社名の示す「杵築」に字を攻めたという。 以来、この大社を「杵築大社」と称するようになったが明治4年(1871年)に出雲大社と改称された。天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し出雲大社の祭祀を受け継ぎ、現在も千家氏(せんげし)が宮司として受け継いでいる。因みに、出雲国二宮は、現在松江市の鹿島町にある佐太神社である。
日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、現在では新暦10月の別名としても用いる。「神無月」の語源には諸説あるが、全国の神々がみな出雲大社に集まり、神さまが居なくなるので、むかしから10月に「神無」という字を宛て「神のいない月」という解釈が広く行われるようになったが、逆に、出雲ではこれを神在月と称している。
出雲では、出雲大社ほかいくつかの神社で旧暦10月に「神在月」の神事が行われる。
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