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藤原道長の娘・威子が御一条天皇の中宮に。「此世をば我世とぞ思ふ・・・」と自らの繁栄の歌を詠む。

2007-10-16 | 歴史
1018(寛仁2 )年の今日(10月16日) 、藤原道長の三女・威子が御一条天皇の中宮になる。道長は「此世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたる事もなしと思へば」と自らの繁栄を詠む。
平安400年のうちでも、10世紀半ばから、11世紀の半ばまでの約1世紀ほどは、摂関時代と呼ばれている。それは、奈良時代以降、成熟してきた貴族社会に展開した独特の政治形態で、その頂点には、後の「御堂関白」と呼ばれた藤原 道長(ふじわらの みちなが)が立つ。そして、平安時代は、藤原氏の時代でもあった。俗にいう「源平藤橘とは、政治勢力を牛耳った有力氏族の呼称であるが、このうち、前2者は後に武士化して名を上げた士族であり、橘は、藤原氏との関係であげられているに過ぎない」 (以下参考に記載の本姓 - Wikipedia参照)。藤原氏は、時代が下がるほど家は分立していったが、1つの氏族がこれほど長期間に亘って政権を維持したのも珍しい。
さて、藤原 道長は、摂関家藤原兼家の五男で、母は摂津守藤原中正の娘・時姫。同母の兄姉に道隆道兼超子詮子らがいる。異腹の兄弟姉妹として、道綱・僧正兼俊および綏子三条天皇東宮妃)らがいる。
父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり、道隆、道兼という有力な兄がいたため、さほど目立たない存在だったが、兼家の死後に摂関となった道隆、道兼が相次いで病没して権力に近づく。道隆の嫡子伊周との政争に勝って左大臣となり朝政のトップとなった。
そして、999(長保元)年、12歳の長女彰子を8歳年上の従兄一条天皇に入内(じゅだい 。〔「だい(内)」は内裏の意〕)させると、彰子は、その6日後に女御に宣下(せんげ)され、翌年2月、皇后に冊立され「中宮」を号し、先立の皇后定子を凌駕する勢いを持つようになった。
そして、次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となした。
外孫(一条天皇と長女彰子の間に出来た第二皇子敦成親王=後の後一条天皇。先立の后定子との間にすでに第一皇子敦康親王が生まれており、帝寵も深かったが・・)の早期即位を図ろうとする道長と親政を望む三条天皇との関係は円滑を欠き、かつ、三条天皇に入れた中宮の妍子が両者の期待を裏切って女児を生んだこともあり、道長は天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となった。そして、翌・1017(寛仁元)年3月、摂政と氏長者を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めた。
1018(寛仁2 )年3月、後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を女御として入内させ、10月には中宮となした。右大臣藤原実資は、その日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言葉を記している。
威子の立后の日に、道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は折りしもの満月になぞらえて、「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」という和歌を詠んだ。これに対し、実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同がこの歌を繰り返し何度も詠ったという。道長が自分の栄華を誇った歌としてあまりにも有名であるが、道長の日記『御堂関白記』にはこの日の宴会のことは書かれていても、この歌自体は何も書かれていないが、道長に批判的な実資の日記(『小右記』、1018〔寛仁2)年10月16日条)に書き残され、後世に伝えられることになった。
また、才女としての逸話が多い紫式部 は、54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫日記』(紫式部日記)を著している。
紫式部は、 1005(寛弘2)年12月29日より、一条天皇の中宮・彰子(のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも1011(寛弘8)年頃まで奉仕し続けたそうだ。同日記は、中宮彰子の出産が迫った1008(寛弘5)年秋から同7年正月にかけての諸事が書かれており、史書では明らかにされていない人々の生き生きとした行動がわかるという。
道長にとって待望久しい外孫皇子(敦成親王=後の後一条天皇)出生はその後の一族の栄華の初花となる。天皇は8歳で即位したため、道長が摂政となり権勢を振るった。
しかし、後一条天皇は、皇子女は内親王二人(第一皇女は、章子内親王、第70代後冷泉天皇中宮となる。第二皇女は、馨子内親王賀茂斎院、のち後三条天皇中宮となる)のみで世継ぎの皇子にはついに恵まれぬまま、29歳の若さで崩御してしまった。
道長の末女嬉子も将来の皇妃となるべく、東宮敦良親王(後の後朱雀天皇)に尚侍として侍したが、嬉子は親仁親王(のちの後冷泉天皇、摂関期最後の天皇)を生んだが、1025(万寿2)年に早世している。道長は、「この世をば・・・」の歌を詠んだ翌・1019(寛仁3)年3月、病となり剃髪して出家。半年後に東大寺で受戒。1027(万寿4)年12月4日、病没そている。
この時代、摂関政治の要件は、摂政・関白となる人物が天皇の外祖父つまり、身内関係にあることであった。関白藤原頼忠が、やがて、その座を譲らざるを得なかったのも、円融天皇に入れた女遵子が皇子を産まなかったからである。対照的なのが、道長で、女彰子が、生んだ敦成、敦良両親王は、思惑どうり、天皇となり、道長を権力の座につかせたのである。中でも一丈天皇の中宮となった彰子は、先立の皇后定子が没してから実に74年間も生き、父、道長の没後は、弟頼通や、教通にもたよられるほどの国母であった。
『源氏物語』の中で光源氏と罪を犯した頃の絶えいらんばかりの藤壺が、やがて、我が子が天皇となるや、光源氏と連携してこれを後見する逞しい国母に変心する。『源氏物語』を執筆した紫式部は、貴族社会に於ける国母の立場を十分に理解して書いたのであろうともいわれている。(週間朝日百貨「日本の歴史」)平安御所の後宮七殿五舎のうちの1つ藤壺は、飛香舎(ひぎょうしゃ)の異名。転じて、飛香舎を賜った后妃の呼称ともなる。天皇の日常の御座所となる清涼殿からは北西の方角にあり、中宮彰子が居所としたことで知られる。
〔画像は、土御門第の道長。1008(弘安5)年、一条天皇を土御門殿へ迎えるにあたり、新造の船を検分する道長『紫式部日記絵詞』藤田美術館蔵。週間朝日百貨「日本の歴史」掲載のものより)
参考:
Wikipedia - 藤原道長
http://ja.wikipedia.org/wiki/藤原道長
藤原氏の秘密
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/fujiwaratitle.htm
本姓 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A7%93
国母 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%AF%8D
望月の歌(各論)
http://www.sonoda-u.ac.jp/private/k25022/setsu7.htm

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