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大逆事件で逮捕された幸徳秋水ら24人に死刑判決が下された日

2007-01-18 | 歴史
1911(明治43)年の今日(1月18日)は、大逆事件で逮捕された幸徳秋水ら24人に死刑判決が下された日。
大逆事件とは、1882(明治15)年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908(明治41)年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称であるが、特に一般にはこの幸徳秋水(こうとく しゅうすい)らが、天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件「幸徳事件」を指して言う事が多い。
幸徳 秋水(本名:幸徳伝次郎)は、1871年11月5日(明治4年9月23日)高知県生まれのジャーナリスト、思想家、社会主義者、であり、アナキストともされている。
幸徳 が、足尾鉱毒被害農民の窮状を明治天皇に直訴した、田中正造(の「謹奏」を代筆したのは、1901年(明治34)年、30歳の時、直訴状は、幸徳秋水によるものに田中が加筆修正したものと伝えられる。(足尾銅山鉱毒事件参照)。同年、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を道徳的な見地から批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであったという。
1903(明治36)年、日露戦争前夜に、幸徳は『万朝報』記者として同紙を舞台に日露非戦を訴えていたが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『万朝報(よろずちょうほう)』も社論を非戦論から開戦論へと転換させたため、幸徳と、彼の盟友の堺利彦、キリスト教徒の内村鑑三の3名は発行元の朝報社を退社。幸徳と堺は非戦論を訴えつづけるために、平民社を開業して週刊『平民新聞』を創刊した。
明治になって、それまでの新聞の企業化が不偏不党化(いずれの主義や党派にも加わらない。自由・公正な立場をとる。)の一方で、1890(明治23)年の議会開設に前後して、政党、政府から独立しつつも、一定の理念を抱いた「独立新聞」が相次いで創刊された。「日本」「国民新聞」「二六新聞」「万朝報」などである。この中で、『万朝報』は、明治30代前半の東京の新聞言論界をリードしていた。労働問題、婦人問題、鉱毒問題、普選問題などを扱い、当時の学生や教員など知識人はその進歩的な論説陣に引かれて、『万朝報』を読んだという。これら、独立新聞の流れのなかから、『平民新聞』が創刊されたわけである。
その翌年、日露戦争が起こると、全ての新聞が戦争を”謳歌”し、又、開戦に興奮する世論に向かって『平民新聞』は、ひるむことなく非戦論、反戦論の立場で、戦時中に敢然とした言論活動を展開した。そして、平和主義と社会主義を訴え、資本主義体制批判した。さらには、打倒の姿勢までもその新聞活動のなかでつらぬこうとして政府から弾圧を受けたのである。1905(明治38)年1月、発禁条項の緩和にも係らず政府は新聞紙条例を度々発動し、同紙を強引に廃刊に追い込んだ。幸徳自身も筆禍事件で禁固5ヶ月の刑を受け入獄中に、クロポトキンの論文を読んで無政府主義(アナキズム)に関心を抱くようになる。出獄後アメリカの労働運動の視察と療養を兼ねて渡米。、翌1906(明治39)年帰国後、直接行動論を唱え、アナルコ・サンディカリスムの中心人物となる。同年1月、初の合法的社会主義政党「日本社会党」を結成していた議会政策論者とのはげしい論争がはじまり、ついに、2派に分裂する。
両者の対立、殊に硬派の存在は政府に危険視され、政府は、1908(明治41)年、金曜会屋上演説事件、赤旗事件により大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を裁判にかけ実刑に処し、活動を封じ込めた。幸徳は病気療養で中村(中村町=現在の高知県四万十市、幸徳の出生地)に戻っていて難を避けられた。
第2次桂太郎内閣の成立で社会主義者取り締りの強化のため弾圧がきびしく、生活の窮迫と病弱のため運動の第1線から退く考えで、友人小泉三申(本名:策太郎。静岡県生。新聞記者・史伝作家・政治家)の勧めにしたがって湯河原温泉に赴いて静養と著述にふけっていたが、1910(明治43)年6月大逆事件の検挙にあい逮捕され、幸徳は明治天皇を虐殺する計画(大逆事件)の首謀者とされて、処刑された。
しかし、かれは、この事件には無関係だったといい、これは、日本裁判史上に類例のない暗黒裁判であるとされている。
たしかに、宮下太吉、新村忠雄、菅野スガら3人が明治天皇に爆裂弾を投げて危害を加えようと予め謀議していたとされているものであるが、被告人たちの予審調書を読んでみても「中途半端なままで実現に至るには曖昧な計画の座談のようなもの」を強引につなぎ合わせたものであったらしい。宮下ら3人の謀議の具体性にもいろいろ疑問があり、せいぜい、爆発物取締罰則違反及び不敬罪くらいの事件であるという。そのようなことから、全ては、日露戦争後における日本の社会主義運動を壊滅させることを意図した第2次桂太郎内閣の方針のもとに、この事件を口実に、すべての社会主義者、無政府主義者(アナキスト)などの根絶や弾圧をするために、フレームアップ(frame-up=治的でっちあげ)した事件だったといわれている。当時、この事件に対しては、何の歯止めもかからず、社会主義者ばかりか、森鴎外、永井荷風、石川啄木、徳富蘆花など、当時の言論界に大きな衝撃を与えた。しかし、こうした文学者の中でも、孝徳らを公然と弁護したのは、徳富蘆花1人であったという。1911(明治44)年、1月19日、「まさか宣告はしても、殺しはすまじ」「殺させ度(たく)なし」「との思いに突き動かされて、25日、蘆花は天皇あての公開直訴文、(天皇陛下に願い奉る」上奏文一篇)をしためて東京朝日新聞(現朝日新聞)に送った。しかし、とき既に遅く、この日、新聞は、処刑を報じた。
新聞でそのことを知った蘆花は、妻愛子に向かって、「オヽイもう殺しちまったよ。みんな死んだよ」「何と無残な政府かな」と、新聞を声をだして読みながら、無念の涙にくれたという。そして、2月1日、蘆花は「謀反論」と題した講演を第一高等学校で行い死刑廃止論の立場を鮮明にした。(大逆事件の詳細は幸徳事件を参照されると良い)
昔は、このような冤罪(えんざい)によって、無実の罪を着せられて亡くなっていった人が多くいるよね。でも、今の時代、遠くから、政府のやっている事をぶつぶつと文句を言っている人は、大勢いるが、公然と身体を張って、抵抗していくような人はいなくなったね。
先の、小泉内閣で、あの郵政民営化に反対した人も、阿部内閣になった途端、恥も外聞もなく尻尾を振って、自民党に戻っていった人が多い。よく分からないのは、最近、テレビの番組などに出て、同じ自民党の者が自分の党や党のやっている事に批判をして、自分だけは正しいといった態度をとっている人が大勢いることである。そんなにダメな党なら、党を出てどうどうと抗議すれば良いんだけれどもね~。今は、昔のような『男』って言える男がいなくなったね~。
(画像は、幸徳秋水。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
大逆事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/大逆事件
大逆事件
http://members2.jcom.home.ne.jp/anarchism/miyashita.html
日本ペンクラブ:電子文藝館
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/sumiyamikio.html
大原社研_大原クロニカ『社会・労働運動大年表』解説編
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1901-05/1901_04.html
刑法(明治40年)第2編第1章~第2章
http://library.law.kanazawa-u.ac.jp/codes/OLD/M402_2.html
幸徳秋水を顕彰する会
http://www.shuusui.com/index.html
[PDF] 幸徳秋水
http://www.klnet.pref.kanagawa.jp/denshi/g_works/gw10_koutoku.pdf
大逆事件(大逆事件に関する啄木の批判他)
http://www.echna.ne.jp/~archae/sinbun/koutoku.html
爆発物取締罰則
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%86%E7%99%BA%E7%89%A9%E5%8F%96%E7%B7%A0%E7%BD%B0%E5%89%87
大杉 栄
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yougo-jinnmei.htm
法政大学大原社研_向坂文庫_逐次刊行物・和新聞(所蔵図書・資料の紹介)31
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/own/bunko-2e.html
初期社会主義研究会HP データベース週刊『平民新聞』
http://www15.ocn.ne.jp/~shokiken/database-heiminsinbun.htm

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