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五十の手習い足払い

五十歳を過ぎて始めたブログももう何年目?
山梨に住む新しモノ好きのオヤジが自分の趣味や日々の暮らしをつづります。

60年前のジャガー

2015年07月26日 | ミニカー
イギリスのジャガーというクルマのメーカーは1951年に初めてル・マン24時間レースを制して以来、7回の総合優勝を飾っています。

中でも有名なTypeD(Dタイプ)というクルマはメルセデス、アストンマーチン、フェラーリといったライバルとの死闘を繰り広げ、1955年から三連覇を成し遂げました。
今からもう60年も前の話ですから古いハナシですけれど。

冒頭の写真は、その1955年の優勝車です。
ドライバーはマイク・ホーソーンとアイバー・ビューブ。
この年のル・マンは、ホーム・スタンド前で多重事故があり、メルセデス・ベンツ300SLRの20号車が宙に舞って、部品がスタンドに降りかかり、ドライバーや観客を含む86名が死亡、100人以上のけが人を出すというル・マンのレース史上最悪の大事故が起きました。
詳しい話は省略しますが、マイク・ホーソーンのドライブしていたジャガー・Dタイプが事故の起点となったと言われています。

事故の後、メルセデス・チームは車を引き揚げ、その後30年以上もル・マンのレース自体からも遠ざかることになりますが、ホーソーンはチームの指示によりその後も走り続け、優勝したのです。
モデルはアシェット(イクソ製)。


翌1956年は、前年の事故の反省からピットの周りを改修し、コース自体も変更、出走できるクルマの排気量の制限なども行って最高速度を押さえる形で実施されました。
しかし、事故は二年続いて発生し、パナール・モノポールという車に乗っていたルイ・エリーというドライバーが車外に投げ出されて死亡する惨事が起きてしまいました。

それでもレースは続行され、ロン・フロックハートと二二アン・サンダーソンがドライブするジャガーDタイプ4号車が優勝しました。

優勝車の4号車は、前年と違い市販車ベースの車両であり、形状が微妙に異なっているのがわかります。
モデルはイクソ製。


1957年、その年の2月に工場が火災を起こしたため、ジャガーのワークス・チームが撤退した中で、エキュリー・エコスというチームがマシンを譲り受けてル・マンに参戦しました。
この年のル・マンはフェラーリやマセラーティなどの大排気量車が有力視される中、アイバー・ビューブとロン・フロックハートのドライブするDタイプ3号車はライバル車がトラブルで脱落する中快調に走り、みごと優勝。実に4位までをジャガーが占めるという完全勝利を達成したのです。

記録によると、クルマはダークブルーとされていますが、写真のミニカーはほぼ真っ黒。「限りなく黒に近い」ダークブルーだったんでしょうか。
モデルはこちらもイクソ製。


最後にご紹介するのは、最近入手したばかりの1953年優勝車のジャガーCタイプです。
この年から、ル・マンは複数名のドライバーで運転することが義務付けられました。
実は前年(1952年)のル・マンで一人のドライバーがピットからの交代指示を無視して延々と走り続け、残り1時間半近くまでトップを走るということがあったのです。
彼は疲労から運転操作のミスを犯し、エンジンを壊してリタイヤしてしまったのですが、そんなことがこの年のルール改正につながりました。
ちなみに、この時のドライバーであるピエール・ルヴェーは1955年の時の大事故で死亡しています。

一方、この年初めてディスク・ブレーキを採用したジャガーCタイプ18号車は、トニー・ロルトとダンカン・ハミルトンのドライブによって初めて4000キロメートル以上を走行して優勝しました。
まれに見る高速レースだったようです。
また2位にもCタイプ17号車が入っています。

この1953年の18号車は、以前から他のメーカーからミニカーがオークションに出品されていましたが、なかなか気に入ったものが見つからず、集めるのがずいぶんと遅れてしまいました。
今回、オートアートというメーカーの製品が出されたのを見つけ入手することができました。
待った甲斐があったと実感できるだけの仕上がりです。


1988年と1990年のジャガーも入手できた今、ジャガーの優勝ミニカーは残すところあと1951年のものだけになりました。
しかし、私のこれまでのコレクションは「1952年以降」ということに決めていたので、どうするか悩ましいところです。
さかのぼればキリがありませんし(といっても、第1回は1923年の開催です)。
コメント
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