五十の手習い足払い

五十歳を過ぎて始めたブログももう何年目?
山梨に住む新しモノ好きのオヤジが自分の趣味や日々の暮らしをつづります。

宅配便の荷物問合せシステム

2005年02月28日 | 日々のつれづれに
山梨の自宅に帰ったときに忘れものをしてしまい、家から宅配便を送ってもらいました。
便利な時代になったもので、その日のうちに集配センターに持ち込めば、翌日には東京で受け取ることができます。

また、今はお届け時間を指定できるようになりましたが、指定しなかった場合でも、伝票番号さえわかれば、今荷物が、どこまで来ているのかがホームページでわかるようになり、荷物の到着時間の見当を付けられるようになりました。
その他にも冷凍ものの運搬、ゴルフクラブやスキー板などのホテルや自宅への送付サービスなど、まさに「あなたのわがまま運びます」のとおりです。

さて、くだんの忘れ物は、山梨の集配センターを前夜のうちに出て、東京の集配センターを午前2時に通過(おろさないで、別の集積地に運ぶのでしょうか?)しました。
このままいけば午前中に我が家に着くかなと思っていたのですが、家内が住所を書き間違えていて、業者から送り先に問合せの電話があったのですが、娘の電話番号だったために、娘が「知らない電話に出てはいけないよ」という教えを守って無視してしまい、届くまでに少し時間がかかってしまいました。

便利な情報システムも、正しい情報と使い方があってこそ、という一幕でした。チャンチャン。
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この一曲:無縁坂[グレープ]

2005年02月28日 | この一曲!
友人の結婚式で、グレープの歌を一度だけ歌ったことがあります。実はそれは「朝刊」という歌で、「高田」のところを「江川」に変えて歌いました。

「朝刊」はまぁ、どちらかというとコミカルな歌ですから、お祝いに歌ってもいいかなとは思いますが、私は自分の結婚式の最後で、この「無縁坂」をかけてほしいと思いました。
結局、あたりさわりのない「母さんの歌」になったのですが、今でも「無縁坂」にすればよかった、との思いは残っています。

私の母は、私が幼いときに離婚して実家に戻り、以後働きながら私を育ててくれました。私が結婚して家を出たあとは、長年看病した両親を送った後、やっとこれからゆっくりできると思った矢先に心筋梗塞であっけなくこの世を去ってしまいました。

 母はすべてを暦に刻んで 流してきたんだろう
 悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに

今年は、母がなくなって6年目になります。

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眼底検査

2005年02月27日 | 日々のつれづれに
生まれて初めて眼底検査というものをやりました。何と薬品によって瞳を開いて
、その先の網膜を調べるという...。

びくびくしながら病院に行きました。
事前の説明では、両方の目に薬を入れると、20~30分で瞳孔が開くとのこと、そ
して検査後4~5時間は元に戻らないために、焦点が定まらないなどの障害が起き
るので、クルマや自転車の運転は厳禁とか。うう、自転車で来てしまった。

私は老眼鏡をかけているので、そのせいか薬を入れても目に見えるほどの焦点ボ
ケや目のちらつきとかはありませんでしたが、だんだん部屋の中が明るく感じら
れるようになりました。ああ、これが瞳孔が開いていくということなんだな、F
開放だ、被写界深度ゼロだ。

検査は短時間で終了。何も問題はないという言葉に一安心したのですが、それか
らが大変でした。
内科の問診までに時間があったので、病院の外に出たのですが、午後3時を過ぎた
というのに、目に感じられるのは真夏の真昼間の日差し、まともに目を開けてい
られないような具合でした。
会社の経験者に「サングラスを持っていった方がいいよ」と言われていたのです
が、手ごろなのがなく、帽子を目深にかぶって、かなり傾いた太陽を見ないよう
にしながら歩きましたが、がまんできず、メガネやさんに飛び込んで、できるだ
け色の濃いものを買いました。
帽子をかぶって濃いサングラスをして、うつむき加減に歩けば、もう立派な不審
人物。

待合室に戻ってからも、天井灯がやけに明るく、待合室でサングラスをしていま
した。どう考えても不審人物だなぁ。
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パソコンでTVゲームを

2005年02月25日 | 私のPC
我が家のテレビは2画面対応ではないので、同時に二つの番組を見ることはでき
ません。こんなことを書くのは、山梨の実家が2画面対応なので、一度その環境
に慣れてしまったら、なかなか1画面で我慢するというわけにもいかないからで
、贅沢といわれようとしかたありません。

東京ではテレビのチャネル数が多く、地上波だけでなく、衛星放送(NHKだけです
が)、それにCATV独自の番組などがあり、おまけにDVDやビデオプレーヤー、TVゲ
ーム機とも接続しているため、画面が2つでも足りないな、と思うことがよくあ
ります。
そうかといって、テレビを複数台並べられるほど広くはないし、2画面対応の液
晶テレビを買うほどの余裕も今はない。

そこで目をつけたのが、近くに置いてあるパソコンでした。
確かに、使わないときのパソコンはただのうずくまった金属のカタマリで、場所
を取っていますが、15インチではあるが液晶モニタがあります。
ここに何とかテレビ画像を、いやせめてDVDとかTVゲーム機の画像を表示できない
か、と考えて探していたら、いいものが見つかりました。それが「アップスキャ
ンコンバータ」。
確かにこれまで、何度か見かけていたのですが、その時にはあまり興味もわかず
、「次にモニタを買い換えるときに、専用の入力端子付きのものを選べばいいや
」くらいにしか考えていませんでした。

しかし、最近娘と私でプレステのドラクエⅦ(Ⅷではありません。少し前のⅦで
す)をやり始めるようになって、そう悠長なことを言っているわけにもいかなく
なりました。
娘が見たいテレビ番組があるときに、私がゲームをやっていると「パソコンの画
面に出せばいいのに!」と言われたこともあって、ネットで探して決めたのがIO
・DATAの「VABOX2」。テレビチューナの機能はなく、単に画像信号を切り替えて
表示するだけのシンプルな構成です。
価格もパソコンを買った販売店のポイントを使ったので格安に手に入れることが
できました。
大量に出回っている製品ではないため、注文・即納品というわけには行かず、確
認のメールを交換したこともあり、10日近く待ちましたが無事に入手することが
できました。

設定はとても簡単、これまでパソコンから直接モニタに接続されていたビデオ・
ケーブルを「VABOX2」につなぎ、付属のケーブルを「VABOX2」からモニタに接続
するだけ。そうそう、スピーカとの接続も同様です。
ゲーム機からは、ゲーム機のビデオ.ケーブル(赤・白・黄に分かれたやつです
ね)を「VABOX2」前面のジャックに接続します。
あとは、本体の電源を入れて、側面の切替えスイッチを押すことによりパソコン
とゲーム機の画面を交互にパソコン・モニタに表示させることができました。

ネットにはドラクエ攻略法などのサイトがたくさん立ち上がっていますので、パ
ソコンでそれらを立ち上げておき、ゲーム機の画面と切り替えながら操作すれば
、攻略本要らずの環境が出来上がります。
しばらく、この環境で楽しんでいきたいと思います。

補足を少々。
・「VABOX2」本体の電源を入れておかなくてもパソコンの画面を表示することが
できます。これは従来どおりのパソコンのみの操作をするときには、「VABOX2」
の存在を意識することなく使えるのでとても便利。
・液晶モニタであること、間に機器が入っていることで、直接テレビ画面に表示
させたときに比べ、画質の劣化が起きるのは仕方がないかも。S端子ケーブルに
替えてみても、劇的な改善は得られませんでした。

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この一曲:案山子[さだまさし]

2005年02月25日 | この一曲!
悩みますよね、ヒット曲がたくさんある歌手ですから。でもこの一曲として「案山子(かかし)」を上げておきましょう。

グレープ以来、数多くの曲を聴いてきましたが、メロディや歌詞、題材または設定(シチュエーション)など、あれも上げたい、これも上げたいと考えてしまうのですが、今の私の気持ちにぴったりなのはこの曲です。

長男が京都の大学に行っていて、年に一度くらいしか帰ってきません。一人暮らしをしながら野球もやっているので、折につけて「今頃なにをやっているのか」と思うことが良くあります。
家内は、私の前ではあまり言いませんが、多分気にかけていることでしょう(親ですから当然)。

それでなくても口の重い長男は、こちらのメールに対しても「うん」とか「いいよ」などのワンフレーズでの返事しか寄越さず、「たまには何か、書いてくればいいのに」と思うことがよくあります。「メールを寄越すだけでもましだ。」という声もあるでしょうが。

ですから、長男が無事に暮らしていることは、メールではなく、銀行口座から定期的にお金(生活費)を引き出している事実で確認しているようなしだいです。

 手紙が無理なら電話でもいい 金頼むの一言でもいい 
 お前の笑顔を待ちわびる お袋に聞かせてやってくれ

兄から弟に宛てたこの歌詞は、今の私の気持ちにぴったりなのです。
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この一曲:帰れない二人[井上陽水]

2005年02月25日 | この一曲!
井上陽水と言えば「人生が二度あれば」も「心もよう」も好きですが、この一曲ということになると「帰れない二人」です。シングル(確か「心もよう」か「氷の世界」)のB面の曲でした。

陽水の宙を漂っているような歌い方が印象的で、歌の途中のためいきをつくような部分も好きですし、歌詞で好きなところは、「もう星は帰ろうとしてる。帰れない二人を残して」という最後のところですね。

学生時代、甲府にコンサートに来た井上陽水を聴きに行ったことがあります。前座がRCサクセションでした。オープニングが「心もよう」のフィルムだったことを覚えています。
また、信州大学とのテニスの定期戦で松本の寮に行ったときに、寮生と歌ったのは当時はやっていた「氷の世界」でした。

就職してから陽水を聴くことはなくなってしまい、その後久しぶりに現れた陽水は、Puffyに楽曲を提供したり、コーヒールンバを歌ったりする変なオジサンになってしまっていました。

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この一曲:置手紙[かぐや姫]

2005年02月25日 | この一曲!
第2回目は、「つま恋」つながりでかぐや姫をとりあげてみます。「神田川」「妹」「赤ちょうちん」とビッグヒットがたくさんありますが、私の中では断然この曲です。
どちらかと言うと南こうせつより正やんの歌声のほうが好きなので仕方ないですね。
こうせつの歌も好きですが、なんせキーが高くて歌うのが大変。その点正やんの歌は歌いやすい歌が多いです。

「今頃は僕もまた昔のように、どこかの街のカフェテラスでビールでも飲んでいるだろう」というフレーズが、田舎ものの私にとっては、本当に異国の光景のような気がして、心がときめいたものでした。
歌詞自体は、身勝手な男の独りよがりみたいな気がしないでもないですが...。
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この一曲:ともだち[よしだたくろう]

2005年02月24日 | この一曲!
高校時代から聞き続けてきたよしだたくろう(吉田拓郎)ですが、この一曲といえば、やはり「ともだち」でしょう。
実は、一番良く口ずさむのは「どうしてこんなに悲しいんだろう」とか「夏休み」だったりするのですが、やはり一番といえば、総合力で(何だそれは?)この曲です。

高校・大学時代はギターをもって友人宅に行っては、レコードを聴きながら一生懸命コピーに励んだ曲のひとつです。イントロもとても印象的。

首からかけるハーモニカホールダー(というのか何というのか)に、Honerのブルースハープを差し込んで、よしだたくろうを気取ったものでした。
「ともだち」は大学生の頃、ライブ盤ではじめて聴きました。
当時のたくろう流の声を張り上げる歌い方ではなく、淡々と歌うスタイルがとても好きでした。
特に最後の「バカヤロウって言ってほしかった。それだけを言い忘れたのでしょう」という部分は何度聞いても涙が出ます。

大学生のとき、あの「つま恋ライブ」に行きました。
ステージも良く見えないはるか遠くで、モニタ画面とスピーカから流れる音の時間差に少し戸惑いながら、立ち上がって手拍子を取りながら一緒に歌ったものでした。
ただ、このときに一番印象に残っているのは、(たしか)明け方に歌った「となりの町のお嬢さん」だったような気がします。それから「マークⅡ」かな。

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-
「この一曲」では、私がこれまでに聴いた曲の中で「これが一番」という曲を歌手別に選んでみます。
必ずしも大ヒット曲を選ぶのではなく、個人的に思いで深い曲をえらびたいと思います。
カラオケでよく歌う歌とは、だいぶカブるような気がしないでもないですが。


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私の知人にも患者さんがいます

2005年02月24日 | 一病息災
はじめまして。Gooのブログで検索しただけでも、たくさんの拡張型心筋症の患者さんがいるんだなって知ってびっくりしました。

心臓移植手術を待っている患者さんのお気持ちはいかばかりかと思うと、自分も何とかしてあげたいと思うばかりです。
私ができるのは、患者さんと患者さんを支援する人たちが、こんなにがんばっているんだということを広く知ってもらうことだけですが。(命のかばんを拝見して)
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拡張型心筋症

2005年02月24日 | 日々のつれづれに
知人から、「拡張型心筋症で米国での心臓移植を希望している人がいるので募金に協力して欲しい。」と頼まれました。
私は、直接その方と面識があるわけではありませんが、私にできることならと、ホームページなどでその紹介をし、合わせて募金の協力をさせていただくことにしました。


私のホームページ:
http://www.ceres.dti.ne.jp

「箭本(やもと)三男さんを救う会 」のホームページ:
http://www15.plala.or.jp/mitsuosan/


検索エンジンで調べると、この病気のために全国で苦しんでいる人がたくさんおり、心臓移植手術をするために募金活動をしています。

すでに米国の病院での受け入れは決定しているのですが、米国での移植手術にはおよそ5千万円の費用がかかるとのこと。家族・親類だけでは簡単にはまかなえる金額ではなく、広く募金活動をしなければならないとのことで、同級生や知人などが中心となって「救う会」を立ち上げました。

まだ幼い子供三人(10歳、6歳、2歳)と妻の為にがんばっている箭本三男さんにぜひご協力をお願いいたします。
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市町村合併の名前

2005年02月24日 | 日々のつれづれに
「平成の大合併」により誕生する、新しい市や町の名前について、紙面をにぎわせています。少し前は愛知県の「南セントレア市」の問題があり、最近では千葉県の「太平洋市」の例があります。

詳しいことはわかりませんが、いずれも住民の意見を十分反映したものとは言いがたく、どこか一部のメンバーで選んだことに問題があるようです。
それはともかく、選ぶにあたって、「新しい名前によって、いったい何を表現し、誰に訴えかけるのか」という視点での考察が不足しているように思えます。
新しい市の名前は、同じ県内の他市町村に向けてのアイデンティティの表現とともに、他府県へのアピールも当然考えての命名であるべきでしょう。

自分の故郷を引き合いに出して恐縮ですが、山梨県には従来、甲府市と山梨市という市がありました。(もちろん他にもあるのですがここでは省略)
県庁所在地はもちろん甲府市です。
明治の廃藩置県で、なぜ甲斐県でなく山梨県になったかは、明治維新の戦勝国側の報復措置とする説などがありますが、それはさておき、山梨市も律令時代にさかのぼる「甲斐国山梨郡(ごおり)」を発祥とする由緒ある市名なのです。

それが、今回の合併で甲斐市、北杜(ほくと)市、笛吹(ふえふき)市、甲州市、中央市などという市の名前が誕生しました(一部はこれからです)。
山梨県北部にある北杜市、笛吹川流域町村の合併によってできた笛吹市はともかく、甲斐市、甲州市などは「いつかは県庁所在地を奪うつもりなのかな」と思ってしまいますね。

中央市にいたっては、「山梨の中央だからどうなんだ?」とツッコミを入れたくなるような命名です。合併で百万都市になったときに安易にできる「中央区」と同じ考え方でしょう。
もう少しセンスのよい、名前は思いつかなかったのでしょうか?

実家のある市川大門町も、隣町の三珠町・六郷町と合併して「市川三郷町(いちかわみさとちょう)」となることが決まりました。何と安易なネーミング。
三つの町(郷)がひとつになるということに引っ掛けてのことのようですが、隣町もそれぞれ合併でできた名前であることを考えれば、「十郷町」じゃないか、とも思えます。

どうせならもっとシンプルに「みさと町」でもよかったと思いますが、選考委員の中には「市川という名前をぜひ残したい」と考えた人が多かったのでしょう。

合併するとひとつの自治体の面積が広がりますから、新しい市町村名の下に字(あざ)を表記することがよくあります。
願わくば、住所表記に「市川三郷町市川大門○○○番地」などと書かずにすむようにしてもらいたいものだと思います。
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横断歩道のフライング

2005年02月23日 | 日々のつれづれに
通勤の途中に横断歩道のあるところが何箇所かあります。当然のように、正面の信号が青になるまでは渡り始めることはしませんよね?ところが最近、そうではない光景を見かけることがよくあります。

吉祥寺駅西側のガード下交差点。横の信号が赤になると、すぐに渡り始める人たち。横の信号が、自動車の右折可の矢印が出ていてもお構いなし。よほど交差点で待つのがキライか、急いでいるのか、どうなんでしょう。いずれにしても大変危険なフライング横断です。

実は似たような光景を見たことがあります。それは、大阪・梅田駅のガード下交差点でした。
昨年の12月に出張に行ったときのこと、大勢の人が、横の信号が赤になったとたんいっせいに歩き始めたのでした。後ろに立っていた人の動きに押されて私は思わず路上に飛び出してしまいました。
まだ歩き出してはいけない状況で路上に押し出されてしまう恐怖というのを感じた瞬間で、冷汗が出たのを覚えています。

こう言ってはいけないのかもしれませんが、このくせ(癖がおかしければ傾向)はやはり関西の方が本家なのでしょうか?
吉祥寺駅の場合には誰かが動き出さなければ、青になるまで誰も動かないときも結構あるのです。その「誰か」に「お生まれは?」と聞いてみたいな、とも思ってしまいます。
かくいう私は、「私はすべての交通ルールを守っています」などと胸を張って言えるほど、守っているわけではなく、小さな違反(プチ違反)は何度となくやっているかもしれません。
しかし、他人を巻き込むような違反、それも生命にかかわるようなものは絶対にやってはいけないと思いますね。
他人が渡り始めたから自分も、というのだけは絶対止めようと、頑固に赤信号の前で立っている毎日です。
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町の自転車屋さん

2005年02月22日 | 日々のつれづれに
山梨に帰っているときのことです。高校に通っている次男の自転車がパンクしました。男の子だから乱暴に扱うのでしょう。スポークは2本も外れ、タイヤカバーも変にひしゃげていたり、ハンドルについているメッシュのカゴもひどい変形。
しかし、パンクしてしまったら乗ることもできないので、しかたなくクルマに積んで、甲府市内の自転車屋さんに持っていきました。

持ち込んだのは、老夫婦が経営する小さな自転車屋さん。お二人とも気さくな人柄と見えて、ご主人が修理をしてくれている間、奥さんが茶菓でもてなしてくれ、世間話に花を咲かせました。
私も初めて入ったお店とは思えないくらいリラックスできて、お互いの子供の話や、はては近所づきあいや健康管理の話などまでして、待ち時間をすごすことができました。

近頃はホームセンターやディスカウントストアーなどで、自転車屋さんの半額くらいで自転車を売っています。こうしたところに対抗していくためには、たとえパンク修理などでも、朝早くから店を開いて対応するなど苦心されているのでしょう。
聞けば、跡継ぎもいないご様子で、「いつまでこの仕事を続けていられるかわからないが、せめて元気なうちは続けたい」とのこと、前の通りを学校に通う学生のためにも、働き続けて欲しいものです。
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キャパのカラー写真

2005年02月21日 | 日々のつれづれに
「CAPA in COLOR」というロバート・キャパの写真展が日本橋・三越で開かれていたので、日曜日に見にいってきました。
最終日ということもあって予想通りの大混雑、長蛇の列の入場制限プラス館内でも押し合いへし合いといった感じで、ゆっくりと見て回ることはできなかったのですが、キャパの写真を目の当たりにすることができ、感動を持ち帰ることができました。

今回見つかった膨大なカラースライドから、印画紙に焼き付けることはしないで、何とスキャナで読み取ってデジタル処理を行い、カラープリンタで出力したんだそうです。
写真に顔をこすり付けるようにして見てみましたが、印画紙独特の粒子感はあまりなく、さりとて、ホームユースのスキャナ/プリンタで見られる解像度の限界を感じることもなく、つい昨日撮影してきたかのような写真は、一言でいって、とても60年間も眠っていたとは思えないものでした。
会場にもプリンタメーカーのデモ・ブースがあったりしました。

撮影されているのは、前線の兵士であったり、戦乱に翻弄される街角の人々であったりとさまざまですが、一貫しているのは、そこに映し出されている人物をキャパが自然に画像に切り取っているということでしょうか。うまく表現できませんが、これらの写真を撮影している間、自分自身も撮影をしているという感覚を持つことなく、見たままをネガに固定していったような感覚を覚えました。それほど、写真に映し出されている人びとの姿は自然だったのです。

キャパの名前を有名にしたスペイン内乱での「崩れ落ちる兵士」や、ノルマンディー上陸作戦での「キャパの手は震えていた」などもあり、また、ヘミングウェイとその家族を撮影したスナップや私が生まれた年に日本に来て撮影した写真なども展示されていました。

キャパは、4月に来日し、その足でインドシナ(ベトナム)に渡って撮影中、5月25日に地雷を踏んで40歳の生涯を閉じました。
先に述べた2枚の写真、そして私の生まれた年に亡くなったということで、小学生のころ彼の伝記を読んで以来、とても気になっている写真家なのです。
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ひと駅手前で

2005年02月20日 | 日々のつれづれに
東京に出てきて、運動不足を痛感しました。
山梨にいたときもクルマ通勤でしたから、家から職場までの間ほとんど歩くこともなく、決して健康的だったとは言いがたいのですが、東京でのアパート暮らしともなると、隣人を気にしての生活となるため、部屋の中でオイッチニ!とやるわけにもいかず、ガタガタと音を出すステッパー・マシンを使うのも気が引ける、といった感じで、ついつい運動とは縁遠い生活になってしまっていました。

こうして4ヶ月、体重の増加や最近の体調などを考えて一念発起、まずは単純に「歩く」ことから始めることにしました。
それまでは毎朝、JR荻窪駅から三鷹駅まで電車に乗っていたのを、ひとつ手前の吉祥寺駅で降りて、そこから一駅分歩くことにしたのです。
吉祥寺駅から会社までは、改札口近くを除けば通勤客の流れもなく、比較的空いているので、自分のペースで歩けるので、とても楽です。

時間にして片道約15分間。11月から初めて4ヶ月間続けてきて、朝晩の生活の一部として定着したような気がします。
始めてみると、健康によいだけではない、他にもメリットがあること気がつきました。

 ・歩いている間、好きな音楽が聴ける。
 ・途中にあるおいしいパン屋さん、けっこう在庫豊富な古本屋さん、安い八百屋さんなどを見つけた。
 ・吉祥寺駅の駅ビル「ロンロン」でのウィンドウ・ショッピング。
 ・吉祥寺駅でほぼ毎朝、某金融会社のティッシュをもらえる(笑)。

歩いていると結構おなかが空き、つい食べてしまうので体重の制限に効果が出てくることはまだありませんが、オシの筋肉を鍛える効果は確実にあるようです。当初あった「足の張り」も最近はほとんど感じることもなくなりました。
着るものを工夫すれば、寒い日でも何とかなることがわかり、雨や雪の日でも歩くようにしています。野球帽にめがねとマスク、黒い手袋をしてデイバッグを背負い早足で歩く姿は、少し○○かな、とは思いますが健康には代えられませんから。
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