スポーツカーレースで私が一番好きなドライバーはスイス人のジョー・シファート(ジョセフ・シフェールの方が発音的には正しいようですが、私は今回あえてシファートと呼びたい)です。
シファートは1960年台後半から1970年代前半にかけてワークス・ポルシェのエース・ドライバーでした。
1968年から1971年にかけて、世界選手権のかかったレースで実に13勝をあげ、ポルシェの選手権4連覇に貢献したのでした。
そんなシファートですが、ことル・マン24時間レースとなると芳しい成績を上げられずに終わりました。
(先に言っちゃうと)何と一度も表彰台に立つことはなかったのです。
シファートのル・マンデビューは1965年、この年はマセラティTipo65というクルマでプライベート参戦してリタイヤという結果に終わっています。
このクルマ、ミニカーは発売されていないようです。
予選21位、決勝レースではわずか3周でリタイヤしたのですから無理もありません。
発売されたとしても買うような好き者は私くらいのものでしょう。
そんなシファートでしたが、1965年のF1の成績(このときはロブ・ウォーカーというチームからブラバムというクルマに乗って3回入賞しています)がポルシェ・チームの目に留まったのか、1966年のル・マンでコリン・デイヴィスと組んでワークス・ポルシェから初出場しています。
そのときに運転した車が上の写真のポルシェ906/6でした(/6は6気筒エンジンの意味です)。
7リッターエンジンのフォードGTや4リッターエンジンのフェラーリなどが大挙して出場したこの年のル・マンで、たった2リッターのシファートの906/6はトップから遅れることわずか21秒という成績で予選22位(クラス1位)、決勝でも3台の7リッターフォードに次いで堂々の4位(もちろんクラス1位)という成績を上げました。
ちなみにこのミニカー、エブロ製でオークションで購入したのですが、中古品としては「そこそこ」の価格でした。
翌1967年のル・マン、シファートはポルシェ907で出場しました。
ポルシェ907はポルシェ910(906の発展型)をベースに空気抵抗を極限まで減らすようデザインを追及したクルマで、シファートの907は予選21位、決勝でも順調に走って総合5位(クラス1位)を獲得しています。
この年も優勝は7リッターエンジンのフォードGTでしたが、シファートの907は首位からわずか1周遅れでフィニッシュし、907の実力を証明しました。
この907、エブロ製が発売されているのですがレジン製ということもあってか数が少なく、オークションでもめったに見ることがありません。
1/64のサイズのものなら見かけるのですがまさか一緒に並べるわけにもいきませんので、1/43のモデルを引き続き鋭意捜索中です。
さて、1968年はポルシェが907と新開発の3リッターエンジンの908で選手権の総合優勝を狙った年になりました。
シファートは開幕2戦目のセブリング12時間でハンス・ヘルマンと組んで907で優勝、6戦目のニュルブルクリング1000kmとル・マン直前のオーストリア・グランプリでは908で優勝を飾り、勢いをつけてル・マンに乗り込んできたのでした。
シファート/へルマン組のドライブするカーナンバー31の908は予選首位、しかし決勝レースでは59周目ギアボックスのトラブルでリタイヤしてしまい、選手権初制覇の夢も断たれてしまいました。
この908もエブロ製。
こちらはダイキャスト製で価格も手ごろ、まだ普通に販売されていますが、私はオークションで少し安く手に入れました。
ちなみに908は出場した4台全てがエブロから販売されていて、3位に入った#33と並べて飾っています。
1968年はシファートにとってスポーツカーレースとしては最高の年になりました。
ブライアン・レッドマンと組んだシファートはこの年の選手権で908で5勝、917で1勝を上げ、ポルシェは念願の世界選手権初制覇を果たしました。
残るはル・マンのタイトルのみ。
改良型908/2(のっぺりとした形から「ひらめ」というニックネームがついています)で出場したシファートは2台の917に次いで予選3位となり、決勝でも一時首位を走ったのですが、前年に引き続きギアボックスのトラブルのために前半でリタイヤしてしまいました。
優勝はフォードGT40、2位のヘルマン/ラルース組の908との差わずか120メートルという大接戦でした。
オープンタイプのひらめ908/2は他の908と比べて特徴のあるスタイルをしています。改良を重ね、908最強と呼べるレースカーになりました。
この#20の908/2はスパーク製、普段あまりのぞいたことのない通販ショップで見つけて購入しました。
オークションではほとんど見たことがありませんので貴重な一台です。
1970年、ポルシェは前年までフォードと組んでいたジョン・ワイヤー率いるレーシング・チームとタッグを組み、有名なガルフ・カラーのワークス・ポルシェが誕生します。
さらにドライバーにもフェラーリ・チームにいたペドロ・ロドリゲスを迎え、某お金持ち球団のようななりふり構わぬ必勝体制を構築します。
その甲斐あってかポルシェはこの年全10戦中実に9勝を上げ世界選手権2連覇を達成します。
シファートはブライアン・レッドマンと組んでタルガ・フローリオ、スパ・フランコルシャン1000km、オーストリア1000kmの3つのレースに優勝しています。
この年のル・マンは7台出場したポルシェ917と実に11台も出場したフェラーリ512Sとの5リッターエンジン同士の対決となりました。
シファートがル・マンで走ったのはカーナンバー20のガルフポルシェ917K。
予選は3位、決勝レースでは首位を走りながら156周目にエンジンを壊してリタイヤしてしまうという結果になりました。
レースは結局ザルツブルグというチームから出場した917Kが優勝し、ポルシェはル・マンを初めて制覇する結果にはなりましたが。
このモデルもスパーク製、さすがにすごい人気で、もはやどこにも売っていないと思っていた矢先、とある通販ショップで1台だけ残っていたのを見つけて購入したといういわくつきのモデルです。
ちなみに、スティーブ・マックイーンが映画「栄光のル・マン」のモデルにしたというクルマでもあり、特別パッケージのオートアート製の1/18モデルも持っています(こちらを購入したいきさつは更にドラマチックなものですが、話が脱線しまくりなので今回はあえて割愛)。
フェラーリが去った1971年、ポルシェは全11戦中8勝(残り3レースはアルファロメオが勝利)をあげて選手権3連覇を達成しました。
ガルフカラー2年目のワークス・ポルシェに乗ったシファートは緒戦のブエノスアイレス1000kmで優勝し、幸先の良いスタートを切りますがその後は勝利に恵まれず、迎えたル・マンでも予選3位ながら、決勝はオイルもれのためリタイヤ(周回数不明)という残念な結果に終わりました。
このときのモデル(カーナンバー17)はミニチャンプスとスパークから出されていますが未入手です。
実はあるショップで売られているのを発見しているのですが、現在お財布と相談中。
「見つけたときが買い時」というこの世界の常識は承知してはいるのですが、何分タイミングが悪くて...。
さて、この長い物語りもそろそろお終いです。
1971年スポーツカー選手権の最終戦ワトキンズ・グレン6時間(7月24日)のシファートはアルファロメオに次いで2位で終了しました。
そして翌月行われたF1オーストリア・グランプリで、シファートは1968年以来2勝目となる優勝を飾りました。
このとき乗っていたのが、BRM P160というマシンです。
F1のミニカーは私の収集対象ではないのですが、やはりシファートの優勝マシンとなると話は別。
とにかくこのレース、シファートはポールポジションを獲得、決勝レースは全ラップ1位で優勝し、なおかつレース中の最速タイム(ファステスト・ラップ)も記録したというのですからまさに「完全勝利」だったのです。
このモデルはスパーク製、この頃のF1モデルはけっこう人気が高く、オークションでも高い値段が付いているのですが、このときは安価で出品されており、しかも競合がなかったためにワタシ的には「奇跡に近い」安さでの入手でした。
そして今回のブログを書こうと思ったきっかけになったオークションでもありました。
これまでのナショナルカラーに塗られたボディとは異なり、チームを表すヤードレー・カラーに彩られた車体は一度見ると忘れられません。ゴールドリーフのロータスと共に私の好きなデザインです。
と、話が少しそれました。
オーストリア・グランプリで優勝したシファートは10月3日に行われた最終戦アメリカ・グランプリでも2位に入り、個人総合ランキング5位という彼自身過去最高の好成績を残しました。
そしてそれから3週間後の10月24日、イギリスのブランズハッチで行われたノンタイトルのF1レース中に、シファートはマシンの制御を失ってコース脇の土手に衝突してしまいました。
シファートは横転し炎上したマシンから脱出できず死亡してしまったのです。35歳でした。
そのレースは最終戦のメキシコ・グランプリがコースの安全性に問題があるということで中止になったのを受けて開催されたレースでした。
シファートと同じBRMのF1マシンに乗り、スポーツカーのポルシェ・チームでのライバルでもあったペドロ・ロドリゲスが同じ年の7月に31歳で事故死していることを考えると、何か因縁めいたものを感じぜずにはおれません。(ペドロの弟のリカルドも1961年にメキシコ・グランプリで事故死しています)
1969年に来日し、その年行われた日本グランプリでもポルシェ917で富士スピードウェイの30度バンクを駆け下っていたセッピィ(シファートの愛称)。
前年の9月にヨッヘン・リントが事故死し、ペドロ・ロドリゲスに続いてシファートが亡くなったときに私のモータースポーツへの憧れは完全に消えてしまいました。
そして今、シファートのドライブしたクルマのミニカーを眺めながら、往時の彼をしのんでいます。
長文をお読みいただきありがとうございました。