ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

コロナ禍、へんなことを考えるものだ

2020年06月11日 | 日記

  ヤマユリ

 行きつけのトンカツ屋に行ったら、様子が変わっていた。カウンターは透明のアクリル板で仕切られている。飛沫除けなのであろうか。そして備え付けだった箸箱がない。箸は注文に応じて配られる。爪楊枝もない。さらにはナプキン、テッシュがない。つまりお客が必要に応じて自由に取り選べるもの、共用するものがすべて撤去されているのである。口周りを拭うものがないなんて、なんとケチなまねをするものだな、と思ったのだが、これはもちろんコロナ封じのおまじない。
 スーパーではレジ回りにお客を寄せ付けない。線を引いている。これはレジ係を守るためなのか。
 スーポーツ界でも変なことが起こっている。野球場では審判員はマスクをかけている。そして観客は入れない。プロは見せ物であるのにお客を入れないのである。
 高校野球に至っては球児たちに甲子園球場の土をプレゼントするという。こうした発想はどこから出てくるのであろうか。ギャグかと思うが、当人たちは善意でしかも本気らしいから驚く。とてもウイルスの感染防止に役立つとは思えない。
 音楽家もおかしい。アンサンブルが命である演奏会を、zoomで繋いで見えない場所から合奏するというのだ。
 学校もトンカツ屋と同じようにアクリルの仕切り板が据え付けられている。
 もっとも可笑しいのはアベノマスクを全国民に配ったことである。その費用と配布のための手間がどんなに壮大なことか。マスクが必要なら自前でいくらでも工夫して作れる。現に子供たちはハンカチなどを使ってお裁縫している。
 東京都の庁舎やブリッジの赤色化もおかしい。
 何か、みなさま、頓珍漢なことをしているように思う。【彬】

 

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飲み会風俗は変わらない

2020年06月07日 | 日記

 紫陽花

 大昔の大映映画に社長シリーズというのがあった。森繁久弥が社長、小林桂樹が実直な社員、そして三木のり平が宴会部長という役回りである。それぞれが達者な役回りをするのだが、その中でのり平の役割が秀逸だった。
 仕事が一段落するとすぐにパーッとやりましょう、と切り出す。懸案の仕事途中でも、パーッとやって気分を切り替えましょうと、とにかく宴会好きなのである。そして酒場で盛り上がって酔っ払う。思えば植木等ものり平の後継者だった。
 女性が混じっていると余計に高笑いや大声で盛り上がる。これが日本的な飲み会である。コロナも逃げ出すのではと思うほど。
 ところが欧米の映画には、日本のように酔ってクダ巻く様子を映したものを見たことがなかった。酒は飲むのだが、日本とは違って陰鬱になるシーンが多かったように思う。外人は酒が強いから酔っ払わないのだとか、言われていたような気がする。
 私は外国のことは知らないが、日本にいる外国人と酒を飲むと、ベラベラ止めどなくお喋りだが、酔っ払って大声ではしゃいだり、クダをまくというのには遭遇したことはない。異国だから抑制しているという風でもない。
 我が国のそんな酒飲みシーンは、今回のコロナ禍で、相当に抑えられ控えられているのではないか、そしてそれがこれからの酒場の良風をうむのではないか、と期待していたのだが、昨日(金曜日)久方ぶりに行きつけの中華風定食屋に行った折、そこでの情景は以前の騒々しさそのものの、のり平ふうにはしゃいだグループが卓を占拠。変わらないものだなあ、とつくづく思った次第。
 そんな店には行かなければ良いのに、と思うかもしれないが、空腹を満たす必要があって、適当な場所はそんなにないのである。
 酒は美味しく飲む、そしてお互いお酒に関しての蘊蓄を語りあう。これが私の理想の酒場だが、少し思い上がった望みなのだろうか。【彬】

 

 

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年を取ると筋力痛が起こらない

2020年06月03日 | 日記

 葵

 外出自粛の折、室内トレーニングを推奨する番組があるが、年をとってからの運動、筋力アップということについて、自分の体験と結び付けてみたい。
 私は高校生の時、体育会系の部活に所属していた。かなりきつい部活で、授業は欠席しても部活だけは参加するという、相当にいびつな高校生活だった。つらい思い出はたくさんあるが、その一つに筋肉痛がある。きつい練習をすると翌日の脚の痛みは大変で、膝を曲げずに突っ張って歩くよりほかにないくらいに惨めである。駅の階段などは上り下りができず、バーなどに捕まって横向きで、やっとこさ。トイレもままならないほどだった。
 成人を過ぎ、30も半ばあたりで、例えばを草野球とか強めの肉体を使う活動などをすると、翌日は頭はモウッとはしているが、筋肉痛は起きない。ところがその翌日、つまり翌々日になると筋肉痛が出てくる。高校時代ほどではないが、脚筋肉は突っ張り、階段の上り下りが厄介。背中が痒い時など手が後ろにまわらない。
 ところが60才を過ぎると、かなりきつい運動をしても翌日、翌々日にそうした筋肉痛は起きず、当日に膝とか肘・肩に痛みがやってくる。
 これは一体どういうことなのだろうか。痛みというのは、筋肉細胞の多くが死んで、新しい細胞と入れ替わる時に生じる炎症だと思うから、若い時のほうが代謝が早く、翌日に即座に反応がでるのだろう。中年になると再生するのが遅くなり、翌日は生き残った細胞だけでなんとか凌ぐことができるので、痛みが後からやってくると考えられる。
 問題は老人である。老人には筋肉痛はやってこない。これは細胞を破壊するほどの筋肉運動をしていない、あるいは出来なくなっているからなのではないか。限界がきたらそこで脳内から筋肉のストップ指令がでるためとおもわれる。限界点に来ると筋肉より膝や腰、肩などの関節部に負担がかかるのだ。
 などと考えると、老人に室内の筋トレを勧めるのは愚だとおもえてくる。もちろんじっとしているのがいいというのではない。何か別な活動を薦めるべきなのではないか、と思うのである。
 そして、思いつくままだが、筋力アップではなくバランス感覚を重点とした活動はどうなのか。例えば男性だとケン玉、女性だとお手玉など。子供の頃を思い出して取り組んでみる。なかなか面白い提案だと思うのだが、、、、。身近な人に股関節の手術をする人がいる。リハビリにお手玉を勧めようと思っているところである。【彬】

 

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