ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

松本市・弘法山古墳/前方後方墳に登る

2013年08月27日 | 日記

 

 長野県松本市の並柳に弘法山古墳がある。山麓の裾からせり出したような小山の頂上にある。発見されたのは、地元の松商学園がグランド用に買い取り、整地をはじめた時というから、それほど昔のことではない。墳墓の頂上からは松本市内を越え、遠く北アルプスから安曇野まで一望できる絶景が広がっていた。

 前方後方墳については後円との比較の中でいろいろ学説があって、1)作成年代が古墳時代の3~7世紀だが、前方後円墳と比べて古いのか、新しいのか。2)両者の違いは、後円の方が身分の位が高いなど埋葬者の違いを表しているのではないか。3)墳形は東西での違いであり、西に円墳、後方は東といった相違ではないのか、など争点らしい。

 学説はともかく古墳というのは、時代があまりにも遠く隔たっているせいか、宗教的なことから離れ、日本人の大元、祖先といったものなどを感じさせるものである。

 前方後方墳の多くは濃尾平野・渥美半島にあるそうで、そうすると信州・松本から安曇野の一帯は、神話などに出て来る出雲経由の入植というより、静岡・名古屋方面との由縁が深そうである。渥美も安曇と語源は同じである。出雲にも後方墓があるから、一概には言えないが、糸魚川から姫川の急流を上ってくるよりも、木曽川をつたって塩尻から松本方面に入っていく方が、容易かったのではなかろうか。

 それはそれとしてこの墳墓から北アルプスの麓に広がる安曇野を見ていると、フォッサマグナの大地溝帯に思いが及ぶ。日本列島が湾曲して、富山辺りから列島が大きく二分されて出来た地溝帯である。その西側が糸魚川・静岡線と呼ばれて、飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈と、うねるように山稜を連ねる大きな壁である。そうした山稜に囲まれた一帯での生活風俗は、米を中心とする大和民族とは違い、おそらく焼畑・採集民族の色合いが強いのではないか。とり急ぎ結論めくが、日本人のアジア的な共同体意識というのは、ややもすると水利など米の生産に根拠を置きたがるのだが、もっと古層では焼畑・採集などの共同作業が基になっているような気がする。日本というイマジネーションを形成するにあたって、こうした墳墓の持つ意味を問い直すのも無駄ではないように思う、そんな体験であった。 【彬】

 絵の前面が前方墳の平地で後が後方墳の高台。山を削って作ったものである。墳墓から松本市内が一望できる絶景。 

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