90年代に入っても会社の月例報告は手書きだった。新しもの好きの同僚がある日ワープロを会社に持ち込み、レポートをワープロで書き出したが、特に興味も持たなかった。
ワープロから一歩進んでパソコンへの入り口を作ってくれたのがA氏であった。88年頃だろうか、シカゴに出張の折、ヒルトンのバーカウンターで飲んでいた時、たまたま隣になったのが中堅商社N産業のA氏だった。名刺を交換後、同世代のよしみで大いに飲んで別れた。90年代に入り、仕事柄、アメリカのSスポーツへのコンタクトが必要となり、Sスポーツジャパンから現地担当者を紹介してもらおうと考え、電話を入れたところ、電話はまわりまわって社長に繋がった。「覚えてますか?以前シカゴのホテルで盛り上がったAです。今、ここの社長をやってます」。後日面談した際、社長になった経緯を話してくれた。N産業はアメリカのSスポーツの日本輸入総代理店で、A氏は毎月のようにミーティングの為渡米するようになった。アメリカでは早くからワープロ、更にはパソコンでの作成書類が普通となっており、アメリカ人に後れを取らないようパソコンの猛勉強をしたという。プレゼンでアメリカ人に引けを取らないA氏の評価が定着し、Sスポーツ日本法人設立の初代社長に任命されたとのことであった。アメリカとパソコン。この話が強烈に頭に残った。
94年暮れ、アトランタでの現地法人スタートアップの辞令を受けた時、頭に浮かんだ一つがA氏の話、パソコンだった。パソコンの何か、も分らぬまま電気街に行って購入したのが出たてほやほやのNEC98ノートB5サイズだった。ワープロソフトは当時全盛の一太郎。アトランタからの当初の月報は全て98ノートでたたき出した。因みにOPはW3.1だったと思う。値段は今となっては覚えていないが、20万以上はしたのではないか。
しかし、マイクロソフトがW95、更にW98を出すに及び、世界的にワードとエクセルが主流になったことで、日本に出張帰国した折NECのLavie A4サイズを購入した。その後、XP主流になった頃、シャープに変えた。ここまでの所、ノートパソコンの機能やスペックに拘りは一切なかった。と言うよりは無知だったに過ぎない。ただ、日本に帰った時に電気屋の勧めるまま、最新版を20万円前後で購入していただけである。製造ブランドなら日本品、だけが根底にはあった。
シャープのノートパソコンが度々不具合を生じたので買い替えることにした。ブランドはソニーと決め、アメリカ販売品を調べ、当時の手ごろ値段1300ドル台に照準を合わせた。丁度日本出張があったので電気街に見に行ったところ、同じスペックで22万円で売っていた。アメリカに舞い戻り、迷わず1300ドルのバイオを購入。それでもこの頃の容量は512MBであった。
W7になってからパソコン容量もギガ時代に入った。手持ちのバイオも古く処理能力も遅いので、今度は東芝に決めた。何と言ってもノートパソコンのアメリカ市場で断トツのシェアを持つ東芝。この頃になると値段構成は激変し、購入したのは500ドル商品。ところがである。たった一年半で見事に裏切られた。電源スイッチ部分が壊れたのである。何度初期化しても戻ることはなかった。ことパソコンに関して、根底にあった「日本品、日本ブランド」神話が崩れた瞬間である。
考えてみれば、殆どが中国生産のパソコンのような商品ではブランドでの品質差は殆ど無いのではないだろうか。そう考えると選択肢は多くなる。スペックも意識の中に入って来た。以後W8.1ではAcerを320ドルで購入。メモリー4G、HDD500G、CPUはi3である。更にW10ではHPを購入。メモリー6G、HDDは1T(1000G)CPUはi5のスペックで300ドルである。日本で言えば3万円というところか。最早、300ドルレベル以上では買う気は起らない。因みに昨年ワイフが買い替えたのは、デルのノートで300ドルを切る値段だった。
ひとつ、日本のパソコンが高い要素にワープロ表計算ソフトが内蔵されており、その値段が価格に反映されているが、これとて、フリーのソフトを使えば内蔵ソフトは不要だ。もう5年以上もフリーソフトを使っているが、マイクロソフトのオフィス仕様だから不都合は全く感じない。それでも日本のパソコンは高い。
ワープロから一歩進んでパソコンへの入り口を作ってくれたのがA氏であった。88年頃だろうか、シカゴに出張の折、ヒルトンのバーカウンターで飲んでいた時、たまたま隣になったのが中堅商社N産業のA氏だった。名刺を交換後、同世代のよしみで大いに飲んで別れた。90年代に入り、仕事柄、アメリカのSスポーツへのコンタクトが必要となり、Sスポーツジャパンから現地担当者を紹介してもらおうと考え、電話を入れたところ、電話はまわりまわって社長に繋がった。「覚えてますか?以前シカゴのホテルで盛り上がったAです。今、ここの社長をやってます」。後日面談した際、社長になった経緯を話してくれた。N産業はアメリカのSスポーツの日本輸入総代理店で、A氏は毎月のようにミーティングの為渡米するようになった。アメリカでは早くからワープロ、更にはパソコンでの作成書類が普通となっており、アメリカ人に後れを取らないようパソコンの猛勉強をしたという。プレゼンでアメリカ人に引けを取らないA氏の評価が定着し、Sスポーツ日本法人設立の初代社長に任命されたとのことであった。アメリカとパソコン。この話が強烈に頭に残った。
94年暮れ、アトランタでの現地法人スタートアップの辞令を受けた時、頭に浮かんだ一つがA氏の話、パソコンだった。パソコンの何か、も分らぬまま電気街に行って購入したのが出たてほやほやのNEC98ノートB5サイズだった。ワープロソフトは当時全盛の一太郎。アトランタからの当初の月報は全て98ノートでたたき出した。因みにOPはW3.1だったと思う。値段は今となっては覚えていないが、20万以上はしたのではないか。
しかし、マイクロソフトがW95、更にW98を出すに及び、世界的にワードとエクセルが主流になったことで、日本に出張帰国した折NECのLavie A4サイズを購入した。その後、XP主流になった頃、シャープに変えた。ここまでの所、ノートパソコンの機能やスペックに拘りは一切なかった。と言うよりは無知だったに過ぎない。ただ、日本に帰った時に電気屋の勧めるまま、最新版を20万円前後で購入していただけである。製造ブランドなら日本品、だけが根底にはあった。
シャープのノートパソコンが度々不具合を生じたので買い替えることにした。ブランドはソニーと決め、アメリカ販売品を調べ、当時の手ごろ値段1300ドル台に照準を合わせた。丁度日本出張があったので電気街に見に行ったところ、同じスペックで22万円で売っていた。アメリカに舞い戻り、迷わず1300ドルのバイオを購入。それでもこの頃の容量は512MBであった。
W7になってからパソコン容量もギガ時代に入った。手持ちのバイオも古く処理能力も遅いので、今度は東芝に決めた。何と言ってもノートパソコンのアメリカ市場で断トツのシェアを持つ東芝。この頃になると値段構成は激変し、購入したのは500ドル商品。ところがである。たった一年半で見事に裏切られた。電源スイッチ部分が壊れたのである。何度初期化しても戻ることはなかった。ことパソコンに関して、根底にあった「日本品、日本ブランド」神話が崩れた瞬間である。
考えてみれば、殆どが中国生産のパソコンのような商品ではブランドでの品質差は殆ど無いのではないだろうか。そう考えると選択肢は多くなる。スペックも意識の中に入って来た。以後W8.1ではAcerを320ドルで購入。メモリー4G、HDD500G、CPUはi3である。更にW10ではHPを購入。メモリー6G、HDDは1T(1000G)CPUはi5のスペックで300ドルである。日本で言えば3万円というところか。最早、300ドルレベル以上では買う気は起らない。因みに昨年ワイフが買い替えたのは、デルのノートで300ドルを切る値段だった。
ひとつ、日本のパソコンが高い要素にワープロ表計算ソフトが内蔵されており、その値段が価格に反映されているが、これとて、フリーのソフトを使えば内蔵ソフトは不要だ。もう5年以上もフリーソフトを使っているが、マイクロソフトのオフィス仕様だから不都合は全く感じない。それでも日本のパソコンは高い。