よし坊のあっちこっち

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我が街アトランタ (5) オリンピック開催地

2016年05月11日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
日本から見ると、アメリカとはニューヨークでありシカゴでありロスアンゼルスを指し、アメリカ南部などは顔を出さない。それほど遠い存在である。アトランタと聞いても”それ何?”と言われるのがオチで、昔オリンピックをやった所と言うと、”そういえば聞いたことがある”と漸く少し興味を持ってくれる。今から20年前にアメリカの片田舎とも言えるアトランタで華々しくオリンピックは開催された。

オリンピックを開催するということが並大抵でないことは、開催決定のプロセスを見れば分かる。国としてのパワーよりも開催候補都市の実力が試され、決定すれば世界の大都市の仲間入りをすることになる。そして1992年の国際オリンピック委員会東京大会で1996年のアトランタ開催が決定した。

アトランタ開催はジョージア州としての悲願でもあっただろうが、長らくアメリカの”南部”として見下されてきた南部の人たちにとっても悲願であったに違いない。アトランタを擁するジョージアが「南部の旗手」と目されて久しかったが、漸く世界のひのき舞台に登場したとも言える。

英国との独立戦争を勝ち抜いた新生アメリカは、西部開拓で先住民のアメリカン・インディアンを駆逐するとともに、自国テリトリーを保有していたフランスやスペインから土地を奪取又は金銭購入することによって領土拡大を図っていった。働き手はアフリカ大陸から奴隷を調達、広く奴隷制度を確立するのだが、これが南北戦争の火付け役となり、南軍は敗北、アトランタは灰燼に帰した。

復興にあたって象徴的なのが、アラバマとジョージアである。アラバマは中核都市バーミンガムに本国イギリスとの強力なパイプを駆使し、イギリスの基幹産業である鉄鋼業を導入し、華々しく再生のレールに乗っていった。出遅れたジョージアのアトランタは決め手がないまま模索を始める。何の取柄もなさそうなアトランタで唯一使えそうなのが、当時、現在のアトランタが終着駅を意味する”ターミナス”と呼ばれていたように、全米鉄道網のハブ拠点を成していた事である。ヘンリー・フォードが自動車を作るまで、西部劇に出てくるように、アメリカは幌馬車と川船と鉄道が移動の手段だった。

アトランタは、このロジスティックの優位性を利用し、旧来型の産業にこだわらず、いや、こだわる余裕もなく、様々な産業を呼び入れたり創りだしたりしていった。ロジスティックのハブ機能は物と人を呼び込み、多岐にわたる産業をもたらした。アラバマのバーミンガムの行き方が重厚長大ならば、アトランタは軽薄短小型に突き進んだ。この事がアラバマのバーミンガムを抜いて南部の旗手に躍り出る牽引力となった。常にアラバマがジョージアに対抗意識をむき出しにする理由がここにある。

アトランタは便数でシカゴに次ぐ全米第二位、乗降客では全米一のアトランタ国際空港に支えられ、名だたる世界企業が立ち並び、映画や音楽のエンターテインメント分野の一大拠点に成長した。

アトランタを支えるビジネスでは、デルタ航空、コカ・コーラ、CNNが有名だが、アメリカ人の三大必需品、いや、必需会社のひとつ、ホーム・デポもアトランタの会社である。因みに三大必需会社とは、ハンバーガーのマクドナルド、日用雑貨スーパーのウォルマート、そして日曜大工のホーム・デポ。アメリカ人にとって、この三つは生活の一部で絶対欠かせないのだ。よし坊も今、その日曜大工にハマっているから面白い。アメリカ人並になったという事か。

アトランタに来た翌年にオリンピック。沿道で有森を応援してから20年が経った。



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