よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

映画三昧ー時代劇と悪役スター

2010年02月20日 | 映画
時代劇には悪役が欠かせない。主役目当てで映画を観に行くのだが、楽しみのひとつに悪役がある。最初に配役が出始め、主演助演級が終わると脇の名前が出てくる。今日はこの悪役か、と思わずニンマリしてしまう。

東映大映華やかりし頃、いろいろな悪役がいた。上田吉二郎。あの顔と独特の台詞回しが懐かしい。吉田義男もいた。山形勲もワルだった。悪い殿とか家老役で、出ていたのが、澤村宗之助、伊藤雄之助の兄貴だ。目がクリっとして、可愛らしいがワルだった。月形龍之介もいたな。だけど、東映のロングシリーズ、水戸黄門になってからは、善人一筋になっちゃった。東野英治郎も同じ様に、善人に変身した。それ程目立たない所では石黒達也ってのもいたね。

臍の下と人格者

2010年02月20日 | いろいろ
さすがに、臍の字を書けと言われても、辞書のお世話にならないと書けない。漢字検定の合格を貰っている人は、このレベルは難なく書けるのだろうか、そうだとしたら、尊敬に値する。
さて、「あの人は人格者だから」と言う。こういう台詞を吐かれると、途端に困惑するよし坊。何を持って人格者と言うのか。学歴か、会社の地位か、それとも他にあるのか。よし坊にはサッパリ分からない。

そもそも、この台詞は、「あの人は人格者だった」と過去形で使うべきである。但し、表面には出なかった非人格者的行動は、深層部分に隠されていて、神のみぞ知る、を前提にしての事だ。人生を全うする前には、いろいろ起こるから、最後の一息まで予断を許さないから、現在形では決して使えないはずだ。

最も厄介なのが、「臍下三寸」である。昔から、そこには人格無しとされている。こればかりは、時に制御不能となり、折角、人格者候補だった人が、そのリストから落ちていく。世の中、社会的地位があると、つい人格者と錯覚しがちだから、用心しなくてはいけない。いくら社会的地位のある人でも、また、教育の徒であろうと、早計に人格者などと呼ぶべからずである。

よし坊自身は人格者になれそうも無いが、周りに、そう呼べそうな人が一人いた。長い人生で、人格者に出会うのは仲々難しいようだ。