絵に描いた餅は食えないが、
えっを描いた餅なら食える
ブログのデザインに使用のビルは現実の形ある三次元存在です。
そのビルの窓の奥にある「生活空間」も、形は見えないが、存在感はあります。
そこに居る人間は三次元的物質存在でもありますが、その頭の中のノイロン組織の織り成すバーチャル空間、意識も見えないが存在しています。
およそ、科学は「客観的、物質的に観察、証明できること」がその存在価値でありますが、そのように証明できない現象は科学の対象になりにくいとなれば、そういう現象の研究は、なにが請け負うのか。
哲学です。
宗教は、研究もそこそこに、独断と偏見、直感、個人的体験などで「結論」を出してしまいます。証明する責任義務はありません。そういうものなのです。それでいいのです。
哲学は、物質的証明が出来てもよし、出来なくとも論理的に理屈が立てばそれでもよいという、いたってあいまいな人間的営みです。
人間は物質的現実存在(肉体)でありながら、その現実存在の脳=ノイロンでバーチャル・仮想もできる、二股存在です。
ところで、現実的認識も、元を糾せば「電気刺激」でそれは、いたって「二股あいまい」なものでした。
根源的存在の「電磁気波」は粒子性、波動性の両生具有の一見相反するような矛盾存在ですが、現に存在しています。
「無」の概念は「無い」ですが、その言葉、概念、意味の存在が前提のうえで「無い」のです。何よりも優先しているのが「存在感」ではあります。
それで予感するのは、
近い将来、人類は、最終的エネルギーシステム=電気の本質を解明、実用化し、ばら色の世界を実現してしまうことです。
もともと、現実と仮想は「表裏一体」のものとの直感がありますので、予感はいよいよ、現実味を感じるのです。